嫦娥(じょうが)の娘


聖獣の闇の守護聖であるフランシスはその夜自室で、ひょんなことから手に入れたそれをしげしげと見やった。
掌中にあるのは、触れればしっとりとした感触の白磁の香炉。
文様は青で波。白い地に見事に浮かび上がっている。

《ああ、器の模様は海波、蓋は月波なんだね》
と。
そう言ったのは、昼間執務室に遊びに来た同僚の芸術家だ。
『月波』と言う言葉は、フランシスにはなじみが無かったが、聞けばそれは月齢のことだと言う。
確かに香炉の蓋には月の満ち欠けを表す文様があしらわれていた。
さらに彼は、器の波模様の上の部分の空白を指差して。
《本来なら、ここに文様が描かれているはずなんだけれど》
とも。
こういったものの絵柄には、一定の様式があるというのだ。

《月に波ときたら、普通は ―― う》

友人はそこまで言ってからにやりと笑んで。
《形式に囚われず、ここに相応しい図柄を想像して楽しむのも悪くない》
と、呟いてから会話を別の話題へと移した。
こうなってしまえばこの友人が、いくら問うても答えを与えてくれないのはわかっているのでフランシスも深くは追求しない。
『う』と言いかけたのだから、海鳥か海亀かはたまた海坊主か。いずれにせよ、何かを描くとしたら波の上であることだし、海に関係するものだろうと、ただ、ぼんやりとは思ったのだが。

さて。
この香炉の元の持ち主はといえば、神鳥の闇の守護聖である。
同じ力を司る者同士、ときおり執務上で行き来があり、この香炉を渡されたその時も、仕事上の理由で訪ねたのだったとフランシスは記憶している。
自分の執務室と、似ていなくもない色彩の部屋。けれども決定的な違いは太陽光のあるかなしか。
いや、客観的にはその程度の違いでしかないはずのその場所は、目に見えぬ何かがねっとりと辺りを包み込んでいるようで、いつもフランシスは息苦しさを感じていた。
息苦しさの正体はもしかしたら闇の力なのかも知れず、だとしたら本来安らぎを与えるもの。
なのに圧迫感を感じるのであれば、己自身もまた闇を司る身となったからなのかもしれないと、ふたつの宇宙の中で唯一自分と同じ力を持つ人物を眺めやった。

―― 不思議なお方だ。

そう感じた。
心理学を学んだ身であれば、身近な人々のその行動や言葉の端々から心の奥を垣間見ることも少なくない。
この人物に対しても多少の興味を持って、その奥を覗こうと試みてみようか、という誘惑に駆られたが、それは危険だと己の声がする。

―― この淵を覗き込んだなら、己が闇に囚われて戻れなくなってしまう。

思うと同時に、気のせいだろうか、周りの空気の闇が僅かに濃くなったように感じた。
背筋をぞくりとなぞる汗がある。
まるで永遠に明けぬ夜の中に迷い込みそうな心持ちがして、必要な書類を手渡すと早々に立ち去ろうとした彼の目に触れたもの。
それがこの香炉であった。
月の如くきらめく水晶球の傍ら。
淡い光りに浮かび上がる、乙女の肌のようななめらかな白磁。
それまでの圧迫感などなかったかのようにその香炉に惹きつけられ、恋をしたかのように、心がざわめいた。
しばし見やっていると、ひそやかであるがよく響く声で部屋の主が言う。

―― 香炉がおまえを気に入ったようだ。持っていけ。

聞き間違いだったのか、はたまた言い間違いだったのか。
香炉が自分を気に入ったのではなく、自分が香炉を気に入ったの間違いだろうと、彼はそう考えたのを覚えている。
ただ、香炉にひどく心惹かれたのも事実だったので、言われるままにそれを貰い受けたのだ。
礼を言う彼に、既に興味は失せたとばかり部屋の主は静かに目を閉じて、何ごとを話し掛けても反応しなくなった。
よって由来も何も知らぬままこうして香炉は己の手に渡ったのだ。

火を入れて、くゆる香のすじをぼんやりと見やる。
その時不意に眠気を覚えた。
いつもの就寝よりは早い時間であるが、寝るに早すぎる時間でもない。
彼は寝台に横になり灯かりを消した。

◇◆◇◆◇

眠りについた ―― つもりであった。
だが気付けば彼は月夜を散策していた。
自分は夢遊病の気があっただろうかと、彼は一瞬考えたが、振り仰いだ空の十三夜の冴えた月があまりに美しかったのでこのまま散策も良かろうと、このひと時を楽しむことにする。

しばらくすると、墨を流したような闇の中。僅かに湿った夜風に花の甘い香りが漂ってくる。
誘われて歩みを進めれば、泰山木の大木に、おびただしい数の白い大輪の花がまるで地上の月の如く。
その根元に、ほのかな行燈の灯火。
散った白い花びらの上に赤い毛氈を敷いて、見たことの無い民族衣装を着た若い女と老人がお茶 ―― おそらくは ―― を飲んでいる。
こんな夜更けになにをしているのかと思わぬでもなかったが、疑問や不気味さを感じるよりも早くどこか浮世離れした光景に、フランシスはひどく心轢かれた。
最近、同じような気持ちになったことは無かったか。
思い起こして気がついた。
―― 香炉を見たときと同じ
なんとも不思議な感覚に囚われた時、老人がこちらに気付き言った。
「これは珍しい。客人とは。遥か昔、黒髪の幼子が迷い込んで以来じゃの」
娘が怪訝そうに首を傾げ老人に聞く。
「爺様、そのようなことが?」
「そなたはまだほんの雛であったゆえ覚えてはおらぬか。サテ、ここで会ったも何かの縁。茶を一服たてて進ぜよう」
さも当然のように、老人はそう言って茶を立て始める。
娘はにっこりと笑んで、優美な仕草でフランシスを毛氈の上に促した。
「靴はお脱ぎになってくださいまし。正座が辛ろうございましたら、崩して頂いても」
断る理由もタイミングも見つけられず、言われるままに彼は毛氈に上がる。そして見よう見真似で正座してみたが、確かに長時間この体勢はきついと思い言葉に甘えて足を崩した。
座ったはいいものの、はてどうしたものかと彼はとりあえず女に話し掛けてみる。
「…… レディ …… ひとつ聞いても、よろしいでしょうか ……?」
すると女は、まあ、と呟いて何を驚いたものやら目を丸くして彼を見ている。
その様子にフランシスは慌てて別のことを問うた。
「ああ、何か、無作法でも ……?」
彼女は慌てて首を振り、長い袖で口元を覆ってくすくすと笑んだ。
「いいえ。『レディ』などと呼ばれたのが初めてでしたのでつい。こちらこそ無作法を」
「そうなの、ですか?」
彼の目に、彼女は十分に淑女の呼び名に相応しいように思えたので少し意外に感じてそう言うと、老人がおかしそうに口をはさんだ。
「何処に出しても恥ずかしゅう無い大和の撫子ではあるが、少々世間知らずでの。海の向うの言葉に縁も無い故」
「まあ、爺様そのようなこと」
彼女は頬を染め、恥らうように目を伏せて、フランシスに言う。
「どうぞ、白波(はくは)とお呼び下さいましな」
「そうお望みなら。美しい名です。白波どの」
言った彼に娘は益々顔を赤くして俯いた。名だけではなく、伏せた睫毛に月影を孕んだその姿が美しいと。
彼はそう思った。

「ここで、何をしているのですか …… ?」
フランシスは己の名を名乗り、改めて尋ねる。
この問いには老人が謡うように答えてフランシスの前に茶を差し出した。
「月は十三、娘は十七。花は七分か九分咲きか。―― 愛でるに良い按配ゆえ野点(のだて)をしておった」
「それは、風流ですね」
頷き答えながら、差し出された茶を。
さて、普通に飲んでいいものかとフランシスは考える。先ほどの老人の茶を立てる手前を見ている限りでは、なにやら飲むほうにも作法がいるのではないかと、そう思ったのだ。
言わずとも察したらしく老人が笑う。
「茶の心は一期一会。作法など気にせずこうして会えた一時を楽しんでもらえれば良い」
白波という名の娘も、どうぞ気楽に、と微笑んだ。
ならばと、ふたりの言葉に甘えて彼は気にせずその茶に口をつける。
口の中に広がるほのかな苦味と清涼感。初めて飲む味であったが、まるで薫風を口に含んだような心洗われる想いがする。
「ああ、とても、美味しい。まるで心すくような」
「そうか、それはなにより」
老人が顔をほころばせ、娘も嬉しそうに言う。
「お気に召しましたなら、明日も是非。次はわたくしがお手前致しましょう」
「おや、では年寄はおじゃまか。明日は遠慮しようかの?」
「爺様はまたそのようなこと!」
老人と娘のやりとりがおかしくて、ついくすくすと笑ってしまったフランシスの目に、はらりと舞った白い花弁。
「白波どの、泰山木の花びらが髪に。ああ …… 動かないで。そのままじっとして」
娘の艶やかな黒髪にそっと手を伸ばす。
白い花びらに手が触れたとき、辺り馥郁と漂っていた花の香りが一層濃密に薫った気がした。

◇◆◇◆◇

気がつけば、朝であった。
眩しい太陽の光が顔を照らして、彼は思わず目を細める。
寝台の横、既に灯の消えた白磁の香炉。その脇に、硝子の器に水を入れ浮かべられた泰山木の花弁。
彼は微かに笑んだ。
夢では、なかったのだと。


その夜の十四夜の月も、翌の十五夜の月も、翌々の十六夜も。
泰山木のねもとの毛氈の上でフランシスは眺め、愛でた。
時には三人、時には ―― 本当に遠慮したわけでもあるまいが ―― 白波と二人で。
なにこれと、語ることがあるわけでもなく、聞くことがあるわけでもなく。
ただ、苦味を帯びた爽やかな茶の味と、甘い花の華と、蒼い月の光のあいまで、一言二言、三言。
交わす彼らとの会話とその時間が、彼にとってひどく大切なものへと育ってゆく。
ここにいるとなぜか心が安らいだ。
知り合ってまだ間もなき彼ら。だがその理由にはたと思い当たる。
彼らの前では、被る仮面も、演じる器もいらぬ。
ただ己のままでいればいい。
何も聞かれず、何も語らず。
心のままにそこに在ればいい。
ただ時折、心を過ぎる彼らに対しての微かな疑問が、無かったわけではない。
けれど、フランシスはそれにあえて気付かぬ振りをした。

十七夜。
この日の昼、フランシスにとってあまり面白くないことがあった。
己と正反対の力を司る同僚と、ちょっとしたいざこざを起こしたのだ。
かの同僚が、悪い人間だと思っているわけではない。
ただ、ことごとく合わぬと、そう感じる。
性格も違う、考え方も、感じ方も、それまでの生き方も違う。
同じものを見て己が黒と感じれば向うは白と感じるほどに、何もかもが違うのだ。
合わぬなら近づかずにいればいいのだが、望む望まぬに関わらず、互いの立場がそれを許さないのだからままならぬ。
結局今日のように、望まぬ軋轢を生むことがしばしばあった。
そして彼を苦手と感じる理由が、ただの性格の不一致なだけではないことに、フランシスは実は感づいている。
表からは傍若無人と見える同僚のその奥に、実はひどく不器用ながらも鋭く人を見抜く力がある。
結局は。

―― 恐れているのだ、彼を。

薄闇に紛れて誤魔化している己の素顔を、あの同僚は否応無しに光の元に晒し出す。
仮面を剥がされるのが恐ろしくて、自分は彼の前に堂々と立つことができずにいる。
そして、そんな自分を既に。

―― 見抜かれて、いるのだろうか。

こう思えば、更に彼と深く係わり合いになることに抵抗が生まれ、また軋轢が生じる。
堂堂巡りだ、と。彼は自分に苦笑した。
そんな苦笑の原因を、その夜フランシスは詳しく彼らに話したわけではない。
ただ、己は闇に近い存在であるが故、こうして夜のなかで花や月を愛でるがあっていると、そうつぶやいただけである。
すると、白波が言った。
「闇ばかりでは月も愛でることはできませぬ。されど光ばかりもおなじこと。結局は一対、切って切れるものでもございますまい。互いに支えて支えられるものでもありましょう。間に生まれる負の情があるとすればそれはおそらく ―― 近いが故に」
老人がそうよのと、目を細めてから、何かを思い出したように、はて、と首をひねる。
「昔わしも、黒髪の幼子に同じことを云うたことがあったような、なかったような」
茶を口に含み、一息ついてフランシスは月を見やる。
そうか、確かに光が無ければ月も見えまいと、素直にそう感じる。
明日からすぐにとは思わないが、それでも。
日に日に姿を変える月の如く。
いつか、何かが自分の中で変わる時が来るのかもしれないと考えて、自然と笑みが零れた。


月の齢(よわい)が十九となったその夜に、老人が言う。
「残念じゃが、次の月の十日までお別れじゃな」
彼は残念に思ったが、彼らにとて事情があるだろう。顔には出さず笑んで頷く。
「 …… 次にお会いできる時を楽しみにしていますよ」
白波がひどく寂しそうな顔をした。
「ああ、レディ、どうか笑顔をみせてください。 次に会えるその時まで、私が想うあなたの姿が、笑顔であるように」
ひっそりと、娘は笑顔をつくって頷いた。
「お約束してくださいますか。また逢いにきてくださると」
「ええ、もちろんです …… 」

その約束は、自分の方こそ願いたいと思いながら。
フランシスは娘の手を取り、その甲へと優雅に口づける。
白波は淡い月明かりにもわかるほど、赤く頬を染めた。

◇◆◇◆◇

それは月の暦であれば新月の日。
フランシスはふとしたことで寄ったセレスティアの店で、ひと飾りの簪を見つけた。
黒の漆に金の蒔絵。先端に、可愛らしい銀の鈴がついており、小さいながらも見事な彫刻が施されていた。振るとりんりんと、涼やかな音を立てる。
少しばかり、子供っぽいだろうかと、思いもしたが彼は白波の姿を思い浮かべた。
彼女の黒髪に、良く似合いそうではある。
迷ううちに店主にいいように勧められ、結局購入してしまう。
いったい何をやっているのやら、と自分自身に皮肉を言いながらも簪を入れた懐が、少々暖かいように彼は感じ、これを渡せる日がくるのを、ひどく待ち遠しく思った。


十日夜。月は半月を僅かすぎたばかり。
泰山木は、二十日前と変わらず馥郁と花をつけている。
草を踏む音に振り向き、フランシスの姿を見つけた白波は嬉しそうに微笑んだ。
老人が、ほうほう、嬉しそうに笑いやる、と白波をからかう。
「この日がとても、待ち遠しかったですよ」
彼は言って毛氈に上がり正座する。
「ああ、足を崩して頂いてもよろしゅう御座いますに」
言った白波に彼はにこりとして。
「会えぬ間、実は練習したのです。是非その成果を試させてください、白波どの」
「まあ。本当で御座いますか」
「それに、よろしければお茶を頂く時の作法もぜひ、ご教授頂きたく」
喜んで、と笑う娘を。
老人が嬉しそうに見やってからふと、視線を落とした。
一瞬のことであったが、その表情がひどく憂いを帯びていて、フランシスは 心の奥で感じていた不安を一層濃くする。

月は夜毎に姿を変え、けれど一巡りすればまた満ちる。
だが花が散ったら。
季節が変わったら。
この不思議な彼らとの茶会を果たして続けることができるのか。
今あるこの場所はひどく不確かで、ただ夢と現とのはざまのゆらめきが、たまさかに姿をとったようなもの。
そう、これが現実ではないことは彼にとてわかっているのだ。
目の前の二人も人の姿はしていても。
―― 人ではあるまいに。
わかっていて、どうして己はここへくるのか。
魔性に魅入られたか。
―― 違う。
いや、魅入られたのかもしれない。けれど、それは魔性ではない。
少なくとも、彼らは悪しきものではないと、フランシスは確信している。
たとい悪しきものでも彼らに与えられた心の安寧は本物だと、そう感じている。
だから今、フランシスが恐れているのは、彼らの正体などではない。
それを知ろうとして、この穏やかな時間を失う方がよほど恐ろしいのだ。そんな結果を招くのなら、知ろうなどとは思わない。
ただ、少しでも長く。
この月影の波の如くゆらめく闇のあいま、彼らとの時間を過ごしたいと、そう望んでいるだけ。
そして彼らもそう望んでいてくれるなら嬉しいと、そう思っているだけ。


月は満ち、十五を過ぎてふたたび欠けゆく。
十九夜が近づくたびに、白波がひどく寂しそうな表情をするようになった。
そして、おそらく自分も似たような表情をしているのだろうことを知っている。
泰山の白い花は。
いつかは風で落ちたものを、今は風がなくともはたはたと散るようになった。
次の月の十日を待つころにはもう。
―― 咲いてはいないかもしれない。

◇◆◇◆◇

その夜フランシスは己の懐に、簪があるのを確認してから香炉に火を入れる。
結局、渡そうと思っても、持ってきていなかったり、持ってきていても渡しそびれたり。
いまだ簪は白波の手に渡らずにいた。 今日は十九。
またしばらくの間彼らとは会えぬ。
いや、もしかしたら、来年まで会えぬかも知れぬし、二度と会えぬかも知れぬ。
だからこそ、今日こそ渡そうと決心した。

月影の下に。
今日は老人はおらず白波だけが佇んでいる。
彼は彼女のもとに歩み寄って、思わずその白い頬に触れた。
切なげに、彼を見上げる仕草がいとおしくて、次の瞬間彼女を抱きしめている。
ふわりと。着物に焚き染められていた香の薫りが彼をくすぐった。
白波は一瞬だけ恥らうように身を硬くしたが、すぐにその胸に頬を寄せる。
やはり今日が、最後なのだと彼は感じて、いだく腕に力を込めた。

言葉も無く寄り添って月を眺めるふたりの周囲に、またはたはたと花弁が散る。
星の数ほどと思えていたその花は、今は僅か片手で数えられるほど。
散った花弁のひとつが、いつかのように白波の髪に留まった。
フランシスはそれを優しくとりのけて、ああ、と懐から簪を取りいだす。
「次に会う時の約束に」
言って、それを白波の髪に刺した。
娘は嬉しそうに、寂しそうに笑んで彼を見上げる。
言外に次は無いのだと、そう言って。
「貴方を永遠に私の元に留める術があるのなら、私はどんな苦難さえも …… 耐えてみせますよ」
白波は俯いて首を振る。
そんな方法は無いという意味か、それとも、その苦難には耐えれまいという意味か。
娘をふたたび抱き寄せて、なかば強引に上を向かせると、その柔らかな唇に己の唇を押し当てた。
簪がゆれて、りん、と鈴の音が響く。
花がもうひとつ、はたりと散った。

◇◆◇◆◇

逢えぬとわかっていても、フランシスは夜毎香炉に灯を入れる。
月は次第にやせ細りその日、二十三の月は真夜中に昇る。
二十三夜。その月を待てば願いが叶うと聞いたのは、いつだったか誰にだったか。
叶えて欲しい願いはひとつだけ。月を見上げて目を閉じる。

―― もういちど、白波に。

風が飄と吹いて、目を開けばそこは泰山の老木のねもと。木に咲く花は既に一輪をのこすのみ。白波が哀しげに立ってこちらを見ている。
その姿をとらえた時、ぐらりとあたりがゆれた気がして、フランシスはおもわず膝をつく。
白波は駆け寄ろうとするそぶりを見せたが、まるでその場から動けないかのように一定の距離を保って立ち止まり佇んだ。
「ああ、わたくしの我がままのせいで」
はらはらと涙を流し、もうしわけありませんと繰り返し詫びる。
「レディ、何をそんなに……。少し眩暈がしただけです。どうか、泣かないで」
いいえ、いいえと、娘は首を振った。
「本当なら、二十三夜の月で人の姿にはなれませぬ。泰山の爺様の花が無くても人の姿になれませぬ。 爺様の花は今宵の一輪が最後。そう思うたら、貴方にお会いしたくて矢も立てもたまらず、月に願いを」
「私も同じです。…… きっと思いが通じてこうして逢えたのです。ですから、さあ、泣かないで …… 」
娘はよよと泣いて、また首を振る。
「いいえ。所詮は人ならぬ身、無理して姿をとれば、貴方の命にも関わりましょう。こうして少なき月明かりと、花の下で人の姿をしていられるのも、貴方のお力を借りているから。長くはこうしておれませぬ」
大丈夫だと、フランシスは言おうとしたがその意思に反してひどく体がだるいことに気付いた。
意を決して彼は言う。
「貴女は無理して人の姿をとっていると言う。私は貴女の本当の姿が ―― 鬼でも蛇(じゃ)でも恐れはしませんよ」
娘は目を見張った。けれどもやはりだめだといわんばかりに哀しげな嗚咽をもらして袖で顔を覆った。
「鬼でも蛇でもありませぬ。けれど、貴方にとっては最も恐ろしき者なれば」
さめざめと泣くその姿があまりに痛ましくて、彼は力を振り絞って白波の元に寄ろうとする。
しかし娘は逆に後ずさり、来てはならぬとそう言った。

「最後の花が散りまする。どうか、もう、お戻りを」
「残酷なことを …… 言うのですね」

そのとき、はた。と。
最後の花が落ちた。

不意に目の前の白波の姿が掻き消える。
いや、消えたのではなく、まるで縮んだような。
フランシスは眩暈のせいかと思い、白波の姿を探しあたりによくよく目を凝らす。
そこに、見えたのは。

「うさ ―― 」

二十三夜の下弦の月の、蒼い夜空に舞う獣。
嫦娥に向ってひと跳ね、ふた跳ね、み跳ね。
耳につけた鈴がそのたびりんと鳴る。
りんとひとつ。りんりんとふたつ、みっつ。
蝶の燐粉が舞うように、跳ねた軌跡を光がなぞる。
光はゆらめく波になり、紋になり。

それは、金波、銀波、青波 ―― 白波。

彼の目の前でぐるぐるとまわる空と大地。
一適落とした墨が次第に水を染めるように、あたりがじんわと暗くなる。

りん、と。

もうひとたび鈴の音が響いたのと同時に、月が雲に隠れた。
一寸先も見えぬ闇の中。
彼は意識を失った。

◇◆◇◆◇

「目が …… さめたようだな」

気づけはそこは己の部屋。
傍らの椅子の上には何故か神鳥の闇の守護聖がうっそりと座っており、件の白磁の香炉を手の上で弄んでいた。
「私は ―― いったい 」
尋ねた彼に、男は短く言った。

「三日」

「はい?」
思わず問い返したが、すぐに己が三日の間眠りつづけていたのだと気付いた。
まさか、その間ずっといたわけではあるまいが、彼がそこにあることであきらかに感じるある気配がある。
不思議だった。
以前は明らかな圧迫感を感じていたそれが今は。

―― これが … 安らぎの闇。

こう思うことができた理由は、おそらくは、己の心のあり方ひとつ。フランシスは微かに笑んだ。
フランシスの笑みをどう解釈したのか。男はまた短く言った。
「動けるようになったなら ―― あの男にも礼を言っておけ」
「はあ、あの男、ですか」
「目覚めの力がなければ、永遠に眠っていたところだ」
フランシスはああ、と呟いた。たしかに、思い返せば夢うつつで。
『いいかげん起きやがれ、この野郎。俺様に仕事が全部回ってくるだろうが!』
という、下品な叫びを聞いた気もする。 一人苦笑していると、さらに男が言った。
「…… どこの光もうるさくてかなわぬ。傾向は異なるが」
彼はつい噴出して、くすくすとわらう。
この先達がずいぶん身近に感じて、思わず聞いた。
「うまく付き合うコツなど、ありましたらご教授を」
男はひどく嫌そうに、眉の根を寄せた。
「知らぬ。私が聞きたい。 …… まあ、強いて言うなら馴れ、か」
「そうですか、馴れですか」
「時間だけは …… あるからな」
沈黙が降りた。
優しい風が、窓からはいる。
ふたたび男が言った。
「この香炉だが」
その手の香炉を見て、フランシスは驚いた。
器に描かれた青い波の文様の上。
いままでは空白だったその場所に、浮かび上がっているその姿。

波の上に、月光と戯れる ―― 白兎。

自分が持ち帰ろうかと言う、神鳥の闇の守護聖にフランシスは言った。
「私が … 持っていてもよろしいですか」
男は何も言わずフランシスをただ見やる。
自分の心の変化など、この人にはお見通しなのだとそう思ったが彼はあえて言う。

「 ―― 兎はもう、恐くはないのです」

そして言いながら、自然と零れた己の笑みを。
彼は嬉しく自覚した。


―― 終



◇◆◇◆◇


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嫦娥の娘、短編バージョン如何でしたでしょうか。
香炉の模様は「波兎」でございます(笑)
波の上に月の光が遊ぶ様を、兎が跳ねている姿に喩えた和柄で、ご覧になったことがある方も多いかと。
実際に香炉の模様に使われてるのを、私は見たことはありませんが。
二十三夜の月を待つと願いが叶うってのは、俗に言う「二十三夜待ち」ってやつです。

さて。
いやー、難産でした。いや、難産というのもちょっと違うのですね。上で「短編」といったのは、書いているうちに、どんどん物語が膨らんで、全6話の中長編になりかけたのですよ。
レオナードや、ジュリアスも登場して。(たぶん、レオがめっちゃ美味しい役回り)
それはそれでだいぶ書き進んでいたのですけれど、当初の「幻想的でちょっぴり切なくでもほのぼの」というイメージをかけ離れた超シリアス&ダークな話になりつつありまして。
まあ、フランシスのトラウマの原因まで深く突っ込んだ話にしたのが原因なんですけれど。
したら、途中から全然筆が進まなくなってしまって。
ということで、一旦白紙に戻して当初のイメージどおり書いたのが今回の「短編」バージョンです。
長編は、何かの拍子にお目にかけることもある、かも?(笑)

恋愛要素、もっとあっさりすます予定だったんです。ほんのりとした思慕程度。
でもけっこうしっかり恋愛になっちゃいましたね。
切なく(?)終わっちゃってますけど、 白波は、フランシーの兎キライが完全に直ったら、人間の女性になれるかもしれないというオチとか。

聖獣の聖地と香炉の作成場所の月の満ち欠けがいっしょなんかい?
というツッコミはナシで。