行かないで。


両手を広げても端から端までは届かないほど大きな執務机の前で、アンジェリークは立ち尽くしていた。
部屋の主は、机に肘を立て中指をこめかみにあてて頭を預けている。
眠っているのだ、と気づくのに数秒かかった。
育成が思うように進まず、悩んでいたところへ呼び出しがかかったのが十分前のこと。きっとまた怒られる、とびくびくしながら急いでやってきたのに。
まさか、呼び出した張本人が居眠りをしているとは。
声をかけるべきかどうか少し悩みながらも、閉じられた瞼に目が吸い寄せられる。
その髪と同じように繊細な金色の睫。そこからも光を放っているかのようだ。
居眠りは気持ちがいいものだとアンジェリークは知っていた。けれど、ジュリアスの眉間には皺が刻まれて、ゆっくりとした寝息が聴こえさえしなければ悩んでいるようにも見える。
眠っているときまで、何かを考え込んでいるのだろうか。それならば、心休まるのは一体いつなのだろう。
そう思いながら見ていると、ジュリアスの肩から上着が滑り落ちて、ぱさりと音をたてた。目を覚ます様子はない。
部屋は十分に暖かく、身体を冷やすことはないだろうと思った。ただ、上着を落としたままにしておくのは忍びなくて、畳んで脇に置き、静かに執務室を出た。
本当はもう少し見ていたかったけれど、ジュリアスが目を覚ましてしまい、この静かな時間が破られるのがなんとなく哀しかった。
怒られたくなかったからじゃない。

◇◆◇◆◇

ふっと甘い匂いが鼻を掠めたような気がして、目を開けた。
当然、そこには誰もいない。
どうやらウトウトしていたらしい、とジュリアスは独り苦笑した。時計を見ると、最後に見たときから20分ほど経っている。アンジェリークを呼び出していたのだった、と思い出した。
しばらく待ってみるが、一向に待ち人が来る様子はない。だんだんと苛立ってくるのが自分でもわかった。
何も、取って食おうとしているわけではないのに。
そんなことを考える。自分のものの言い方に、年若いアンジェリークが萎縮してしまうことには薄々感づいていた。けれど、誰かが言わなくてはいけないことで、それをオブラートに包んでやんわりと伝えるなどという器用な芸当が自分にはできないということもわかっていた。
ただ、他の守護聖達と楽しそうに話をしているのを見ると、過剰な厳しさはかえって逆効果なのでは、と迷うことがある。そこで、このところアンジェリークの育成がなかなか効果を現さないこともあって、ゆっくり話を聞こうと時間を作ったのだ。


じりじりと待って、数十分。山積みだった文書はほとんど処理してしまった。窓の外ではもう夕暮れが近づいている。さすがに待ちきれなくなり、もう一度呼び出しをかけようと立ち上がったとき、扉がノックされた。入れと声をかけてから少しして、アンジェリークが遠慮がちに顔を覗かせた。
目が合って、慌てたように「失礼します」と言い、近づいてくる。
「ジュリアス様、こんにちは」
ぺこりとお辞儀をしたアンジェリークに言う。
「遅いではないか」
「すみません・・・」
アンジェリークがしゅんとする。
「私はすぐに、と言ったはずだが。そなたの“すぐ”とは一時間なのか」
「い、いいえ。ごめんなさい、ジュリアス様。遅くなりました・・・」
さらにうつむくアンジェリークに、ジュリアスはひとつため息をついた。
「まあ、良い。それよりそなたの育成のことだが」
思ったとおり、話は弾まなかった。
それでも、アンジェリークは最後に、「ジュリアス様、ありがとうございました」と微笑んで執務室を去った。
なんとなく、閉まった扉の向こうにアンジェリークの後姿を思い浮かべていると、またノックの音。
「あー、ジュリアスー、入りますよ〜」
アンジェリークが戻ってきたのではなかった。間延びしたようなあいさつで、ルヴァが入ってくる。
「明日の定期会議の件なんですけどねー。やはりこの議題は明日はやめませんか」
「何故だ?」
「まだ資料が少ないんですよ、間違いがあってはいけませんから」
「わかった」
淡々と執務の話をして、出て行こうとしたルヴァが振り返って唐突に言った。
「そういえば、アンジェリークはどうかしたんですかー?」
「何がだ」
「いえー、今日二度ほどあなたの部屋から出てくるところを見たので。熱心ですねえ。私のところにも何かあったら相談に来るように言ってくださいね」
「二度?」
「・・・ええ、先ほどと、たった今ですけど」
ルヴァが不思議そうな顔で出て行くのを見送りながら、冷や汗が出るのを感じた。
まさか、居眠りをしている間にアンジェリークはここに来たのだろうか。自分が眠っているから一度帰ったのか?それならばなぜ叱ったときにそう言わない?
さまざまな考えが頭の中を巡る。とにかく、もう一度話さなければ、と立ち上がり、上着を羽織ろうとして探す。
サイドデスクの上に、それはあった。きちんと畳まれて。
それで、やはりアンジェリークはここに来ていたのだとわかった。

◇◆◇◆◇

夕日が眩しいほどだった。
アンジェリークはジュリアスの執務室を出たその足で公園に来て、ベンチに腰かけていた。王立研究院に行って育成地の様子を見ようかとも思ったけれど、どうしても足が向かなくて、ただぼんやりと空を眺めている。
   こんなだから、怒られてしまうのよね
小さく独り言を漏らす。
冷たいほどに澄み切ったブルーの瞳を思い出した。その瞳に見つめられると、背筋が伸びてシャンとする。緊張する。だからこそ、たまに優しく細められると、とても大切な瞬間だと感じる。
他の誰でもない、自分のために、厳しくしてくれている、ということもわかっていた。アンジェリークを叱るときのジュリアスの瞳は、ただまっすぐで迷いがない。けれど、眉間の皺がジュリアスの苦しさを語っているような気がしていた。そんな顔をさせたくなくて、頑張っているつもりなのに、育成は思うように進まなくて空回りしている自分。
何度目かのため息に混じって、背後に足音が聞こえた。振り向く。
「・・・ジュリアス様」
「ここに・・・いたのか・・・探した、ぞ」
珍しく息を切らして、ジュリアスがそこにいた。アンジェリークは慌てて立ち上がる。
「どうかしたんですか」
訊くと、ジュリアスは息を整えてアンジェリークを見た。
「そなた・・・私のもとへ来ていたのだな」
「?」
「すぐに、という言葉どおり来ていたのだな」
ジュリアスが繰り返す。それでやっと言いたいことが飲み込めた。
「・・・あ、はい。・・・すみません、さっき言わなくて」
「なぜ言わなかった?」
そういえば何故だろう。アンジェリークは訊かれて初めて考えた。少し黙るとジュリアスは言った。
「いや、これでは責めているようだな。・・・私が迂闊だったのだ。アンジェリーク、すまない」
誠実に詫びるジュリアスに慌てる。
「ジュリアス様、あ、あの、いいんです。勝手に部屋に入ってしまって私こそごめんなさいっ!」
そう言うと、ジュリアスは少し驚いた顔で黙ったあと、ふっと笑った。
「そなたはいつもそのように、自分が悪いと言う。なぜであろうな」
「本当のことですから」
思いがけない笑みが嬉しくて、アンジェリークはどぎまぎする。
「隣に座っても良いか?」
「あっ、はい」
二人で腰掛ける。ふと見上げると、夕日がジュリアスの瞳に映りこんで、柔らかなオレンジ色に染めていた。
別の緊張がアンジェリークを襲って、鼓動を早くした。

◇◆◇◆◇

「ジュリアス様ー!」
遠くから呼ばれる声に、頬が緩みそうになる。いけない、とまた唇を結ぶ。
「ジュリアス様、こんにちは!」
「そんなに走ると転ぶ。もう少し落ち着いてほしいものだな」
輝くような笑顔で走りこんできたアンジェリークにジュリアスはそう言うが、目が笑ってしまうのはどうしようもなかった。アンジェリークもそれをわかっていて、悪戯っぽく笑う。
「すみません、つい」
「良い。   さあ、こちらだ」
このところ育成地はアンジェリークの努力によって著しい発展を見せていた。まるで、眠っていた何かが目覚めたかのように。
ある休日に、二人で話をしていてそのことを褒めると、アンジェリークはこれ以上ないというほどの笑顔を見せた。自分の一言がアンジェリークを喜ばせたことが、ジュリアスにとって驚きであり幸福でもあった。
ただ、アンジェリークを笑わせたくて、けれどそうそう話題があるわけでもなく、苦し紛れに「今度私の馬をそなたに見せよう」とジュリアスが口走ると、「本当ですか?」とアンジェリークは瞳をきらきらさせた。
そして、今日のこの日となったのだ。

いつも来ているはずの厩舎も、どこか特別の場所のように感じる。それは珍しそうにきょろきょろと見回すアンジェリークが隣にいるからだ、とジュリアスは知っている。けれど、女王候補と守護聖であること、それもわかっている。だから、最近努力しているアンジェリークへのご褒美のようなもの、とジュリアスは自分に言い聞かせていた。
そんなジュリアスの様子に構わず、アンジェリークは楽しそうに、あれは何ですか、だとか、どこにジュリアス様の馬がいるんですか、だとか訊いてくる。そのひとつひとつに答えながら、ジュリアスはアンジェリークのくるくる変わる表情を見ている。

「わあ、可愛い!」
アンジェリークが、小さな声で言った。馬を驚かせないように気を遣ったらしい。その配慮にジュリアスは微笑む。
「気に入ったか、私の宝だ。触ってみるか?」
「いいんですか?」
「ああ、そなたなら大丈夫だろう」
先に馬の背を撫で、人の手に慣れさせてから、アンジェリークの手を取る。小さな手だ、と思った。ジュリアスの手にすっぽりと収まる。小さくて、暖かなその塊を握らないよう、そっと掴んだまま、馬に触らせる。
「あの、ジュリアス様」
アンジェリークが自分を呼んだことで、手を離していないことに気づく。慌てて離す。
「よしよし、あなた大人しいのね・・・」
背を向けて馬を撫でるアンジェリークを眺める。自分はどうかしてしまったのか、と考えながら。
馬は大人しくされるがままになっている。アンジェリークが馬にずっと話しかけている。唐突に、こちらを振り向かせたくなる。
「アンジェリーク」
振り向いたアンジェリークと目が合って、次の言葉を探す。
「馬・・・に、乗ってみるか」
なんのひねりもないその言葉に、アンジェリークはさらに瞳を輝かせる。
「わぁ、乗ってみたいです!」
馬を外へ連れて、一応柵に繋ぐ。向き直って、頬を紅潮させたアンジェリークに言う。
「失礼する」
できるだけ何も考えないように両脇を抱え、持ち上げる。アンジェリークは一瞬、ひゃっというような声を上げた。それも聞かないようにする。
軽い。
ふわりという表現がぴたりとはまるように、ジュリアスの腕で簡単に馬の背に乗せることができた。綱をはずし、自分も後ろに跨る。ジュリアスの顎に触れるほど近くに、アンジェリークの金の髪。それに目を瞑り、声をかける。
「怖いか?」
「いいえ、怖くないです。うわあ、高いんですね」
興奮しているのか少し上ずった声が聞こえた。手綱を持ち、馬の腹を軽く蹴って合図する。
「わっ」
最初は声をあげたものの、「気持ちいいですー」と喜ぶアンジェリーク。その暖かな体温を体中で感じて、そのまま抱きしめてしまいそうな衝動と闘いながら、ジュリアスはゆっくりと馬を走らせた。

「さあ、降りるぞ」
「はい、楽しかったです、ありがとうございました」
日が暮れかけていたため、アンジェリークの寮近くまで馬で送ってきた。名残惜しい気がしながらも、先に馬の背から降りる。まだ跨ったままのアンジェリークに、手を差し伸べる。
アンジェリークが、ふとジュリアスの目を見た。そして、両腕を伸ばす。
一瞬、何をしたいのかわからなかった。アンジェリークは目を逸らさない。
ジュリアスは、引き寄せられるように、馬へ   アンジェリークへ近づいた。

◇◆◇◆◇

ジュリアスは目を開いて驚いた顔をした。けれど、アンジェリークの願いどおり側に寄ってくる。
伸ばした両腕を、ジュリアスの肩に載せる。
失礼な振る舞いだということは百も承知だった。
けれど、どうしても、ジュリアスの体温をもう一度感じたかった。
そのまま抱きつくように、馬から降りる。胸に顔を埋める。
   わかって、ジュリアス様
ジュリアスの胸から体温と鼓動が伝わってきた。その震えに身をまかせる。
その震えが永遠に続いてほしいと思うアンジェリークの気持ちとは裏腹に、ジュリアスの手がゆっくりと肩を掴んだ。思いのほか強い力で引き離される。
何も言えずに見上げる。


「アンジェリーク・・・そなたと私は女王候補と守護聖、それ以外の何ものでもない」
ジュリアスは、確かにそう言った。
「さあ、部屋まで送ろう」
馬を近くの木に繋ぐ後姿を、アンジェリークは呆然と見つめる。
やけに時間をかけて、やっと振り向いたジュリアスは、先に歩き出した。その後をふらふらとついていく。
寮室の前まで来ると、ジュリアスは「入るんだ」と急かした。言われるままに、部屋に入る。
ぱたん、とドアが閉まった音で、アンジェリークは思考を取り戻した。
拒絶の言葉を放ったときの視線。向けられた背。
   私を見ていなかった
いつも必ずまっすぐに自分を見るジュリアスの視線、それが逸らされていた。出逢ってから初めて。
拒絶が心苦しかったとしても、目を逸らして話をするひとじゃない。
そして、次に会ったときはまっすぐに、ただまっすぐに自分を見るだろう。守護聖として。
   そんなのは耐えられない
身体が勝手に動いた。
弾かれたように、たった今閉まったばかりのドアを開ける。
飛び出して、去り行く背中に叫ぶ。
「ジュリアス様!」
後姿がぴたりと静止する。駆け寄って、驚いて振り向いたその胸に飛び込む。
「ジュリアス様・・・行かないで、行かないでください」
「アンジェリーク、そなたは何を」
「嫌です、ジュリアス様が行ってしまうのは嫌!   好きなんです、好き、ジュリアス様のことが」
繰り返しながら、強くしがみついた。何故か涙まで出てきた。


「女王を諦め、私とともに生きると・・・そう言うのか」
永遠かとも思われた沈黙のあとの、囁くような声にアンジェリークは顔を上げる。目が合った。夜の闇の中でもはっきりと見える、空の青。
強く肯くと、ジュリアスはこれ以上ないというほど苦しげに眉を寄せて、ゆっくりと腕を回してきた。
そのまま、抱きしめられる。息が止まるほど激しく。
深くため息をついて、ジュリアスは言った。


「愛している・・・愛している!・・・側に、いてくれ」
「ジュリアス様」
「最初からこのようにそなたを抱けば良かった」
苦しいような痛みの中で、アンジェリークは微笑んでみせる。
「愛情とは、苦しいものなのだな」
そう言いながらも、ジュリアスの瞳は優しくアンジェリークを見つめた。

◇◆◇◆◇

◇「彩雲の本棚」へ◇



和晴さんの「salt of the earth」5000HIT記念にいただきましたv
ああなんて素敵なのでしょう、苦悩ジュリ。
ああ、やっぱりこの方はただ甘いだけじゃなくて苦悩してこそよねっ!(力説)
読んで、ジュリ様のうたた寝姿にまず、悶絶。
苦労なさってるのよ。
夜遅くまでお仕事頑張ってて。
つい眠くなっちゃうことだってあるわよ。
意味もなく夜更かしして昼間しょっちゅう寝とぼけてる隣の部屋の誰かとは 事情が違うわよ(笑)← おい、本当にイチオシなのか。

少しずつ、近づいていく二人の距離。
立場ゆえに迷うジュリアスの心。
最後の二つの台詞が、彼の苦悩と深い愛情を現していて。
きゅ〜んv

なにげに、和晴さんのイチオシさんのルヴァ様がご登場しているところに、愛情を感じます。
素敵な創作ありがとうございました〜。