繙書(はんしょ)


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本を紐解きながらいつも思うことがある。
どんな本にも、その中に、多くの人の人生が詰まっているのだと。


物語であれば、それは登場人物たちの。
歴史書であれば、その時代を生きた者たちの。
研究書であれば、本を書き綴った著者本人の。

そんな、人々の人生が、頁をめくるごとに溢れ出す言葉の中に満ち満ちており、それを己が身に受け止める瞬間がたまらなく嬉しいのだ。
人は、己の人生は一度しか生きることができない。
けれど本を読むことによって、私はその貴重な経験を幾度でも体験することができるのだ。
だから。
私は本を読むときは、一頁、一頁。
語りかけられる言葉を決して余さず受け取れるように大切に読む。

そして、その時間を、何よりも大切に思い、どんな時間よりも至福に感じていた。

はずだったのだが ――

◇◆◇◆◇

「はあー」

読んでいた本に身が入らないという、今までの私にはありえない状況のまま、私は溜息をついた。
まるでタイミングを見計らっていたかのように、アンジェリークが私の前にお茶を差し出す。

「はい、このお茶で一休みしてください。溜息なんかついて、根詰めすぎてお疲れですか?」

いや、根を詰めすぎたわけではない。
根を詰められなくて困っているのだが、そういったらきっと彼女に怒られそうな気がして私は黙ってお茶を飲む。
飲みなれた緑茶の苦い味と馥郁とした薫りが、私の心をさっと撫でて去ってゆく。
この一服で、私の心は落ち着いたかと思ったのだが。
けれども、隣に座ってこちらをみている彼女と目があって、結局、『落ち着いた』状況の時間は長く続かない。
ひどく心がざわついて。
落ち着かなくて、それでいて決して嫌な気持ちなどではなく。
言ってしまうなら、私は彼女に。
恋を、しているのだ。
想いが通じ合って、こうして休日に共に時間を過ごす恋人となってそれなりに時間の経った彼女。
その彼女に。
はじめてであった頃と変わらないほど、いや、それ以上かもしれないほどに、恋をしている。

彼女をみつめたままの私に向かい、どうしたの?と愛らしく首をかしげる仕草。
私は、いいえ、なんでも、と言って。
手にしていた本をぱたん、と閉じた。

そして気づく。
そうか、私は忘れていたのだ。
本を読まずとも経験できる、唯一のものを。
私自身の人生というものを。

そっと彼女のくちびるにくちびるを寄せて。
やわらかな体を抱きしめる。

いま、紐解くべき物語はここにある。
それは私と彼女との恋物語。
その本の読者も著者も。

―― 私たち、ふたり。

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「紐解く」もちろん、書物を読む意味だが。 もうひとつの意味を考えると、けっこう…。
素敵な絵で私にインスピレーションを与えてくださった和晴さんに捧げますv
2005.07.17 佳月

ああ、そして!そして頂いちゃいましたよ!
元となった和晴さんの絵を、一緒に掲載しました。
ほんとうにありがとう!!! 2005.09.01