羽衣


■2006年9月に発行したコピー本に掲載した話です。
トロワED後、エトワ以前設定。         



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―― この衣を返しなば、舞曲をなさでそのままに天にや上り給ふべき
―― 疑いは人間にあり、天に偽りなきものを

「この衣を返してしまったなら、約束を果たさずあなたはそのまま天に帰ってしまうでしょう」
「いいえ、天人の世界に嘘偽りはございません。疑う心はあなたが人間であるからこそ」
(能:『羽衣』より)

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幼い頃の自分にとって、朝というものはいつも、清々しく彩やかで、あふれんばかりの光と、訪れた新たな一日への胸躍るような期待に満ちたものだった。
何一つ、永遠に変わることなく。
ただ日々は煌めいて、変わらず優しく、穏やかにそこにあるものだと、信じて疑いもしなかった。
でも今は ―― そう思えたときのことを、ひどく遠く感じている。
この理想郷と呼ばれるこの場所の、夜明けは優しいようでいて、束の間の逢瀬を重ねる恋人たちには残酷なものでしかないのだ。
カーテンを透かして零れ入る朝の光。
その光がふたたび夕暮れの茜色に染まる頃、ふたりはそれぞれの場所に戻らなければいけない。
それぞれの宇宙とは、異なる時間を流れる理想郷こにさえ、永遠があるわけではないのだと痛感している。
何も知らず、ただ無垢で在れた頃に、僅かな疑問すら持たず、感じることのできた朝の清涼さは、今はもう無い。
けれども自分はそれと引き換えに、何ものとも換えられぬ大切な人を手に入れたのもまた、事実なのだと、そう、思い直した。
今、腕の中で安らかな息をして眠る人。
そのままそっとしておきたいと思いつつも。このまま残されたわずかな時間が過ぎ去ってしまうのも惜しいと感じて、思わず腕に力を込める。
ふれ合う肌の、絹を裸に纏ったときのような、くすぐったさを帯びた優しい感触。
それが甘美でありながら、ひどく苦かった。
逢瀬を重ねるたびに、躊躇いを感じぬわけではないのだ。
こうして肌をあわせてしまえば、いっそう断ち切りがたい思いが襲って来るのがわかっていて、それでも、己の欲望に抗えず、このひとを求めずにはいられなくなる。
すべてではないにしろ、想いを言葉にする術もあるだろう。
語るべき、互いの『今』もあるだろう。
なのに、そうすることが当たり前のように、ただ言葉も無くその体を貪ってしまう。
そんな自分を、ひどく浅ましいと感じながら、結局はいつもの堂々巡りだ。
あなたが好き、あなたを愛している、あなたが欲しい。
表現できるありったけの言葉をいくら探したところで、心の奥にある熱い塊を表現しきることはできず、まるで補うかのように、身を沈めて、どこまでも深く結ばれても埋められない何か。
それがわかっているからいっそう求めずにはいられない。
心が満たされることがないのであれば、せめて体で満たされたいと望み、けれどおそらくは心で満たされぬ想いを体に置き換えることなどできないこともわかっている。
そうして欲情のままに幾度となく交わったとして。
この朝の光の中で、僅かな罪悪感さえ感じているのでは、何かが本末転倒な気がした。
―― 貴女は、この逢瀬を、どう感じているのですか?
永遠に、続けられるはずも無い。未来があるわけでもない。
ほんの、僅かなかりそめの時を。

愛らしい額にかかった、栗色のまっすぐな髪を、指でそっと掻きやると彼女が何ごとかを呟やく。
どんな夢を見ているのか。
幸せな夢であってくれたら、嬉しいと、せめて、そう願わずにはいられない。
いつか語った叶わぬ夢。
―― 一緒に、僕の故郷へ行きましょう
尽きることなく、繰り返す潮騒。
その音を聞きながら、貴女をこの腕に抱けたならどんなにか、幸せだろうか、と。

―― 叶わぬ、夢。
自分で自分の心に紡いだ言葉に、自嘲が零れる。 そう、けっして、叶うことはない。
互いに手放すことのできない、大切なものがある。
義務だけではなく、心からいとおしく思う、それぞれの導くべき世界。
それがある限り、未来はあまりにはっきりと、見えているのだ。
思わず、涙がこぼれそうになり、目をきつく瞑った。
そのとき、頬に置かれる優しい手。
「…… おはよう」
彼女が、そう言った。
目を開けて、微笑んで、なんでもないふりをして、「おはようございます」そう、返す。
けれどもそれは言葉だけでしかなく、腕の中からすりぬけて、起き出そうとした彼女を、引き止めてしまう。
彼女は僕の額に優しく唇をおとし、そっと言う。
「大丈夫。どこへも、行かないから」
「駄目です」
「本当よ。嘘はつかない ―― 」
「嘘だ!」
強く言って、彼女を組み伏せる。
目に入ってきたのは、悲しそうな色をした彼女の、瞳。
違う。
否定したかったわけでも、傷つけたかったわけでもないのに。

―― 『この衣を返しなば、舞曲をなさでそのままに天にや上り給ふべき』

幼い頃、物語を集めた本を紐解いて知った、異国の古い物語。それに喩うるなら彼女こそが、天に還るべき天人なのか。
衣ひとつ纏わぬこの肌を手放し、羽を返してしまったな、もう二度と、ここへ降りてきてはくれない。
けれども、彼女は嘘をついた。
どこへも行かないと、嘘をついた。

―― 『疑いは人間にあり、天に偽りなきものを』

ならば、彼女も己と同じ、人間なのだろう。
己とて、嘘をついたではないか。
いつしか囲の望むまま、国王として見知らぬ女と添わねばならぬのを承知していながら、永遠の愛をこの人に誓ったのだ。
彼女とて、それは知っているはずだった。
なのに、ただ微笑んで、何も問わず、何も責めず。
ああ、そうか。
言葉もなく枕を交わすのは、言葉で伝えれば、そこに嘘が混じるから。
嘘で塗り固めて、先の不安を、隠してしまいたくなってしまうから。
それならいっそ、塗り固めてしまえばいい。
笑顔を作り、青い瞳をみつめる。

「目を、閉じてみてください」

彼女は不思議そうな、表情でこちらをみつめかえす。
ほら。

―― 潮騒が聞こえる。

それは嘘。
決して叶わぬ、ふたりの夢をかなえるための、嘘。
でもきっと、彼女にも聞こえているはず。
この潮騒は、松を渡る風の音か、それとも、己の血潮の音か。
あるいはこのひとの零す、かぼそい喘ぎか。
くちづけを交わし、頬をあわせ、溢れそうになる涙は、のみこんで、またくちづけを交わす。
彼女の中の、ひだを辿って促がし、誘う。
潮満ちた磯の、あふれいでるみなものなかに、己は漕ぎいでる舟の櫂の如く。
海原へ。

◇◆◇◆◇

夢なかば、うつつなかば。優しい声がささやいた。

―― いつか行きましょう、あなたの故郷へ。
―― 嘘は言わない。
―― きっと、きっと、ふたりで。

そして僕たちは、朝の光の中。
ふたたびのまどろみに落ちていった。


―― 終

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2006年9月に「アンジェリークオールキャラ本製作委員会」という名前のオールキャラ合同本を作ったのですが、 その中に椎名苺さんのティムコレの1P漫画があったわけですよ。
海辺でね、ティムカとコレットがらぶらぶーとしている大変私の萌えツボをつくワンシーンで。
んで、そのオールキャラ本にオマケとしてくっつけたコピー本があるのですけれど、その中に載せる創作の一つを、その1P漫画のイメージで書かせて欲しい!とお願いし、OKをもらって仕上げたのがこの話です。
そんな経緯を思い出しつつ、再録。

執筆 2006年9月/ 再録:2008年9月20日