10LXルクスの魔術
〜エルンスト〜


◇◆◇◆◇



Blue Illusion ―― 青い幻想と呼ぶのだと、その時彼女は言った。


◇◆◇◆◇

それは日の出前。東の空が薄白くなり始める時間帯。
まだ姿を現さないのに、太陽とはかくも存在を誇示するものなのかと思えるほどにあたりは十分明るくなりつつある頃。
世界は宵闇の群青を水で淡く薄めたような青一色。
空に東雲(しののめ)のほのかな紅が混じるには、もうしばし時が必要な、僅かな瞬間だった。

その時窓の外を見ながら、彼女は言ったのだ。
この現象をBlue Illusion ―― 青い幻想と呼ぶのだと。

あかときの空を一緒に眺めたからといって、特にプライベートな事情がそのときの我々の間にあったわけではない。
言ってしまえば極々散文的な経緯だ。
単に、その頃同僚だった我々は急ぎのプロジェクトを推進しており、差し迫った期日を前に徹夜の仕事をしていた、ただそれだけのことなのだ。

プロジェクトチームの努力の甲斐あってその日の明け方には期日に間に合いそうな目途が立っていた。
メンバーたちが自宅に戻ったり、始発までの仮眠を取るため空いている会議室に寝袋を抱えて消えていく中、私はひとり休憩室にいた。
自販機の極上ではないけれど飲みなれた味の珈琲の紙コップを手に、硝子窓の外の夜明けを眺めていたのだ。

自販機の並ぶ殺風景な休憩室。
際立った色彩の無い、灰のような白が基調のはずの部屋の中はその時青く染まっていた。
それは窓の外の風景も同じ。
整然とした主星の都市。
直線的な建物と直線的な路、その間を埋める均衡のとれた緑地の植栽。
安定してはいるもののどこか味気ないような、それでいてその味気なさこそが私の好みと性分に一致するこの職場からの眺めが、私はもともと決して嫌いではなかった。
ただあらゆるものが青一色に染まっているそのときの風景は、日常見慣れた空間から、ひどくかけ離れたものの気がして美しいと思いつつも少しだけ、不安にも感じた。
だからその時、いつのまにか傍らに立ち、やはり珈琲を片手に彼女が。

「日の入り後や日の出前に世界が青く染まるこの現象のことを『青い幻想』って言うんだよ。世界が青く染まって、すべてが綺麗に見えて、この時間帯が私はすごく好き」

そう言ったとき、私は思わずその現象に理屈をつけてしまったのだ。
「人間の目は周囲の光の量で認識できる色が変化します。光の三原色の赤、緑、青のうち、光度の低下で最も先に認識されなくなるのが赤、その次は緑です。光度が10LX以下になった次点で緑が認識されなくなり、残った青い色のみ感じるようになる。だから日没後や夜明け前の薄暗い時間帯は辺りが青く染まって見える。それだけのことです。月明かりを『青い』と表現するのも同じ理由からでしょう」
そうやって理屈をつけてしまえば不思議なことではない。
いつもと印象が違うからといってなにも動揺したり不安になったりすることではないのだ。
ただそれと同時に、あまりに無機質に解説しすぎたろうかと、私とて思わなかったわけではない。自分が面白みのある男だなどとはこれっぽっちも思ってもいないが、同僚の歳相応で少女らしいロマンチストな表現を、何もわざわざ解説までしてつまらないものにせずともよかったのではないか、と、言った直後に感じたのだ。
ただ頷いて、そうですか、程度に同意しておけばよかったものを、私は何をむきになっているのか。
多少の罪悪感を込めて見やった彼女は、私の予想外の表情をしていた。
噴出すのをこらえるような表情から、ついに声をたててあははと笑い出す。

「ああ、もう可笑しいったら。その言い草が如何にもエルンストって感じだね」

私に言わせれば、その言い草も如何にもレイチェルといったところではあるのだが、私に関して何を以って『如何にもエルンスト』な言い草だったのかがわからない。

「何を以って『如何にもエルンスト』なのですか」
「ん? それはね、『そうなんだ』で済むところを丁寧に解説してくれちゃうあたりが、ダヨ」
「ああ、その件に関しては私もむきになって解説しすぎたと思っていたところです。しかし、それが私らしい、ですか」
「うん」

自分で軽く後悔した行為を『如何にも私らしい』と評されて、私はこの時僅かに落ち込んだ。
おそらくそれは事実なのだろう。何ごとにも四角四面の態度をとり、軽く流したりすることがひどく苦手だ。
この窓から眼下に見える都市のように、整然としていることを好み、その分だけ面白みを欠く。
この性格が周りとの人間関係において深い軋轢を生むことも無かったが、反対に共感や同調を生むことも少ない。
言い換えるならつるりとした表面を、上滑りするだけの、そんな人間関係。
だから研究者として相応しい理論的な思考能力を持ち合わせつつ、それ以外の面においてひどく気安くさばけた性格の彼女をときおり羨ましくも思っていたのだ。
先ほどの私の余計な注釈は、この正反対の性格を持つ彼女に不快感をあたえなかったろうか。
そんなことを気にしている私に彼女は続ける。

「あれだよね、なんでも理屈で説明つけないと気がすまないでしょ。例えば恋愛ごととかでも事細かに理屈つけてそうだよね。脳内の伝達物質の増加とトキメキの関連性、とかってさ」
「そう、かもしれません、が」

かもしれないどころではなく、まさにその通りだった。
自分で制御できぬ感情は苦手だ。だから、その最たるものの恋愛において、私はすぐにわかりやすい解釈をつけようとしがちなのだ。
見透かされたことに苦笑、するしかなく、そしてそんな私に飽きれているのだろうと思いきや彼女は実に楽しそうに笑って言った。

「エルンストのそういうとこ、けっこうスキだよ」

その時私の身に起こった血流の増加に理由をつけるとしたら、いったい何であるのか。
徹夜明けで少々通常とは違う精神状態であったのかも知れぬし、あとは聞いた話によると人は好意をもたれると、その相手に好意を持ちやすくなるという。
ともかく、私はこの時さらりと言われた『スキ』に対してあっさりと囚われてしまったのだ。
そして彼女の言った通り、やっぱりこうやって彼女に持った好意に対して理屈をつけている私自身に苦笑しながらも、そういうところが好きだというのなら、それでもいいのか、と。
考えている私がいた。

◇◆◇◆◇

その後の私たちに関して、あまり多くを語るつもりは無い。
ただ、幾度かの別れと再会を繰り返した挙句にようやっと互いの想いを伝えることに成功し、 そして、今度はプライベートな事情によりいつか二人で見た青を、ふたたび私の部屋の寝台の上で一緒に眺めている。

少々殺風景な私の部屋。その中に彩りを添えるのは、青い幻想という時間と、腕の中の恋人。
彼女が腕の中で思い出したように笑う。

「部屋のなかの光度が10LX以下だね」

あの時私が説明した話を、彼女もしっかり覚えていたらしい。
今度は私がこの言葉を使う。

「青い幻想、です。世界のすべてが青く染まって、美しく見える。それに」
「それに?」
「あなたも、とても綺麗です」

もしかしたら、彼女は少し紅くなったのかもしれないが、青にまぎれてそれはよくわからなかった。 ただ、嬉しそうな表情であることは間違いない。

「アナタがそういうこと言うのってすごく意外」
「理屈はいりません。美しいと思ったからそう言った。いけませんか」
いけないわけないよ、彼女はそうくすりと笑い、眼鏡をかけていない私のこめかみをやさしい指先でそっとなぜる。

「そういうエルンストもすごくスキだよ」

そして私たちは、青い朝の光の中で。
くちづけを交わした。

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体調が悪いとエルレイを書きたくなる法則発見(意味不明)

「10LXの光度と青い幻想」ネタは大学時代の講義で知り、八年位前からストックされていた。もともとゼフェルあたりで書こうと思っていたが、Sp2のエルンスト登場で、ああ、彼の方が似合うかも、と思ったまま放置されていた、そのくらい古いネタ。同じネタでまた書くかもしれない …… 。
2005/08/06 佳月