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目がさめたとき、一人でいる寝台の上に私はひどく慌てた。
彼はもうここを発ってしまったのか。
そして、何故私は眠ってしまったのか。
ほんの僅かな時間でも、余さずあなたを感じていたかったのに。
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「これで、ぜーんぶおしまいや。いままで、ご苦労さん」
綺麗になったデスクの上に少々行儀悪く腰掛けて彼がそう言ったのは、膨大な内容の引継ぎを終わらせ、最後に残っていた社長室の片づけが終わった時だった。
既に夜は更けていた。
最上階から見える都市の地上の光と天の星の輝き。
明日もわらぬこの眺めを、社長はもう見ることがない。
彼に与えられた使命がいったい何であるのか、それをはっきりと聞いたわけではないけれど、
1ヶ月ほど前に出入りしていた聖地からの使者の様子と、すべての権限を親族会に渡し身辺を整理しているこの現実を見れば、あとは推して知るべし、だ。
中には私ごときが推し量れぬ事情も存在しているのかもしれないが、どのみち、ふらりと姿を消して数ヵ月後に戻ってくるいままでの『行商』とは違い、彼はここへは二度と戻ってこないのだから、推測が当たっていようと外れていようと私にとっては同じことだ。
「あんたは、このあとどうするん?社に残るんか。有能な部下、連れてけへんのが残念やけど、ま、しゃーないわ」
ここでの自分の立場には未練など微塵もないように言う彼に向かい私は首を振り、その拍子に少しずれてきた眼鏡を直しながら答えた。
「私はあくまでも社長付きの仕事をするために雇われました。
新体制の中でも、私が必要であるという打診があれば残りますが、それは社が決めることであって、私の意思ではどうにも」
「そか。それならいっそ、あれや、マコやんのところにでもいったらええかも。推薦状ならまかしとき」
ウォンの内部を知っている私にいきなりライバル社への就職をすすめることに苦笑しつつ、
社長はきっとあの風変わりな幼馴染殿のことをなんだかんだいって心配しており、心残りに感じているのだろうな、と微笑ましくも切なく思った。
本当のことを言うなら、残ってほしい、と既に社から打診が無いわけではなかった。
けれども、どうなのだろう。
彼という理想の上司がいないこの社に執着する意味も無いように思えて、まだ返答をしていない。
「せやから、上司と部下の関係も、これでオシマイやな」
「はい、お世話になりました」
言って、頭を下げる。そしてその拍子にずれてきた眼鏡をふたたび直す。
もしかしたら、涙が滲むだろうかと考えていたが、予想に反して私の心は意外と淡々としたものだ。
感慨が、無いわけではない。
いや、ありすぎるほどある故に、溢れすぎて、なんだかぼんやりとした非現実感につつまれている。
あくまでも仕事の上で、尊敬している人だった。
人を楽しませることが大好きで。
子供じみたお調子者のようでいて、きちんと他人を思いやる、大人の配慮のできるひと。
配属されて、ビジネスには無用とばかり笑顔ひとつ浮かべなかった私を、くだらない駄洒落で一生懸命笑わせようと努力した、そんなひと。
いつしか一人の女として、一人の男性としての彼に惹かれてはいたけれど。
仕事本位の性格が災いしてそんな気持ちを伝える機会もなかったな、と、心の中で苦笑し、それでは、と退室しようとした私を彼が呼んだ。
「」
足をとめてから、それがいつもの呼び方ではなく、私のファーストネームであることに気付く。
「はい、なんでしょう」
「もう、雇用契約はあらへんよって、これ命令ちゃうで」
「はい」
向き直り、彼の言葉を待つ私に。
彼はちょっと目をそらし、鼻の頭を掻きつつ ―― いつも、くだらない駄洒落をひねり出す時の彼の癖だ ―― 考えてから、やっぱ、やめや、と呟き、そして真剣な表情でこう言った。
「―― 今日は、あんたを帰しとうない、言うたら、怒る?」
心臓が、はねた。
この歳になって、少女のようなときめきを胸に感じる機会があるとは自分でも驚きだ。
そんな動揺をなるべく表に出さないよう努力して、私は仕事中は決してとることの無かった眼鏡をはずし、微笑んだ。
「いいえ、喜んで」
◇◆◇◆◇
スケジュールを守らせるため、過去に幾度か彼を叩き起こしに入ったこの最上階のプライベートルームに、こういう意味合いで足を踏み入れることになるとは思わなかった。
きっちりと着たスーツを脱いで。
ひとつにまとめて結っていた長い髪をほどいて。
シャワーを浴びて、バスローブを羽織った。
先に寝台の上にいた彼は私を見て。
―― 思っとったとおりや
そう囁いた。
―― 思っとったとおりの、いや、それ以上のべっぴんさんや。
―― いつもきちっと髪結って、眼鏡かけて、隙のないスーツ着込んどったけど。
―― とびきりのべっぴんさんやと、思っとった。
私を引き寄せた手が、背中から移動して臀部の丸みをなぞる。
既に私の体の奥には、熱い灯がともっていて。
急くような思いでいることを、彼は知って焦らしているのだろうか、ゆっくりと布の上から私の容を確認するかのごとく手を這わせたあと。
今度はいともあっさりローブを剥ぎ取った。
くちづけを交わしながら、寝台に倒れこんで。
優しいくちづけと愛撫に思わず『社長』といいかけて、口をつぐんだ私に彼は苦笑ともつかぬ笑みを浮かべて、囁いた。
「チャーリーで、ええ。」
彼の名を呼べば、激しくなる愛撫。
恍惚となりながら、変に意地など張らずにもっとはやくにこういう関係になっていればよかっただろうか、とそんな考えが頭に浮かぶ。
いや、それはそれで未練が深くなるだけ。
だから、これでいいのだろう。
そう結論付けて、私は彼を促した。
熱い彼を身のうちに感じながら、私は、もう考えることをやめた。
そう、今はただ、彼を感じていたい。
これが、たった一夜の。
かりそめの縁だからこそ ――
◇◆◇◆◇
目がさめたとき、一人でいる寝台の上に私はひどく慌てた。
彼はもうここを発ってしまったのか。
そして、何故私は眠ってしまったのか。
ほんの僅かな時間でも、余さずあなたを感じていたかったのに。
昨夜彼の手によって剥ぎ取られたガウンを羽織り、隣の部屋へと足を急がせる。
扉を開くと、大きな硝子窓から差し込む朝の光。
そして、その朝日と、空と、地上の中間に佇み世界をみつめている彼がいた。
「この風景も、見納めやな」
外の風景から目をそらさぬままに、私に対して呟いたであろうその言葉は、けれども独り言のように聞こえる。
黙ったままの私の方へと振り向き、彼は笑んだ。
「それでも、あんたと見れて嬉しいで」
ええ、と頷く私。
脳裏に浮かぶ、ある詩の一節。
多情却似総情無 ―― 情多きは却って情無しに総じて似る
ああ、ほんとうだ。
名残が尽きなければ尽きないほど不思議なもので。
いつもと同じように何気なく振る舞ってしまう。
ただ黙って隣に立った私。
しばらくそうしていただろうか。そして、彼の呟き。
「かんにんな」
―― そんな言葉は、言わないで。悲しくなるだけだから。
心に浮かんだ言葉を推し留めて、私はとびっきりの笑顔で微笑んだ。
「こうしていられること事態が私にとって夢のようです。それ以上を望むのは、そう。
喩えるなら、白馬の王子様のお迎えを、本気で信じるような愚かなことです」
「んー、王子様なら昔一人知り合いがおったけど、王様になってしもたからなー。紹介できひん」
「されても困ります」
どちらからとも無く、噴出して笑って。
しばらくふたりして笑った後に私は言った。
「お願いがあります」
「なんや」
「もう、雇用契約はありませんから、私にはあなたのスケジュールを把握する義務も権利もありません。ですがよろしければ今日は何時まで時間があるか教えていただけますか?」
「…… ここを発つんは、夕方の予定や」
その答えに頷いて、あなたをみつめる。
眼鏡をなおそうと、手を眉間のあたりにもっていきかけて、今は外していることに気付く。
そうか、駄洒落を考える時に彼が鼻の頭を掻く癖と同じように、これは私が何か気まずさや照れを隠したいときに行う癖なのだと気付いた。
そして、言葉を選ぶのをやめ、はっきりと言う。
「―― それまでのあなたの時間を、私にください、といったら怒りますか?」
その瞬間、激しく、強く抱きしめられて、私はその熱い胸に体を任せた。
そう、こうして抱きしめていて欲しい。
そして、何度でも愛して欲しい、愛したい、愛し合いたい。
許された残り短い時間の中のぎりぎりまで。
どうか。
私に。
あなたを、ください。
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マコトさんのご許可を貰って「社長と秘書」設定で書かせて頂きましたv
私が書くと、結局切な系になってしますが、個人的には大満足(笑)
昔、オリヴィエで「舞姫」という作品を書いたことがあるのですが、ある程度の年齢になってから守護聖となった彼等には、こういった別れがあっても不思議じゃないと思うんですよ。
セイランやフランシス、ヴィクトール、レオナードでも書けるんじゃないかと妄想中(笑)
あ、あとティムカね(笑)←「泥中の蓮華」のティムカバージョン ……
ちなみに、再録に際して名前変換機能搭載。