ルヴァの安楽椅子探偵(アームチェア・ディテクティブ)シリーズ・その2

■昔、佳月の書いた創作(投稿作)と一読して同じストーリーに見えるかもしれません。
が、実はまったく異なっています。
過去作品を既読の方も、ぜひ読んでみてください。
ミステリは、最後の一ページまで気を抜けないものです。


雨は蕭々と降っていました。
強くもなく、かといってけぶるような細かい粒子でもなく聖地の雨は蕭々と降っていました。
雨に打たれながらその年出たばかりの若い緑は、一層鮮やかさを増しているようで。
ほんとうならば鬱陶しいと思っても不思議でないその天気を私は好いていたのです。
濡れた窓硝子から垣間見たにじんだ世界は、昔宝物だった翡翠色にすきとおった鉱石を太陽に透かして覗いた時のことを思い起こさせました。
そんな私の耳に心地よく届いたのは、単調な雨音とそれに重なる八分音符の繰り返す旋律。
その日も彼女は宮殿の一階にあるサンルームにつながる部屋のピアノを弾いていたのでしょう。
それは補佐官である彼女の、休日の雨の日の習慣だったのです。
けれどいつも彼女の傍ら、笑顔で耳を傾けていた銀の髪の青年は、もういませんでした。
私の親友でもあり、彼女の最愛の人でもあったであろう青年は、もう聖地にはおらず、
ただ雨音と。
ピアノの旋律と。
二階の執務室で私の煎れる、一人分の緑茶から立つ湯気だけがいつも変わらず在ったのです ――

◇◆◇◆◇

◇◆◇◆◇


雨は淑淑(しとしと)と降ってる。
少し前まで月の曜日夜七時に降っていた雨。
それは今では、気まぐれに訪れるようになってこの聖地の土を濡らしてる。
今日の雨は、女王試験が終わってはじめての休日の昼の雨だ。
激しくもなく、かといって霧みてーな細かいのでもなく、丁度良い雨音を響かせながら雨は淑淑と降ってる。
湿った土や傘をささずにここまできた自分の濡れた服の匂いは、 何故か逆に太陽の香りを微かに感じさせて。
本当ならうざってーと感じるはずのこんな雨を、たまにはいいかと俺に思わせる。
雫の伝う窓ガラスに外の景色は屈折してゆがみ、 へたくそなんだか、芸術的なんだかよくわからない水彩画みたいな印象を俺に与えた。
そんな時、雨音といっしょに耳に届くどこかおぼつかない旋律。
今日もあいつは一階の半分はガラスに覆われた部屋のピアノを弾いているんだろう。
それは補佐官になったあいつの、休日の雨の日の、女王候補の頃からの習慣だった。
女王候補の頃と違うのは場所が飛空都市でなく聖地ってのもあるけど、 側で付き添って教えてたあのひとがいねぇって方が大きいだろう。
そう、雨の日の休日のこの習慣は前の補佐官のあの人の習慣だったことを俺は知ってる。
守護聖になったばかりで苛々してた頃。
俺が悪さするたびに言いようのない哀しい顔をするのはきまって、 頭にターバンまいたやけにじじ臭い奴と、あの人だった。

◇◆◇◆◇

◇◆◇◆◇


彼の変わりに訪れた、やはり銀の髪のあの少年が、彼に対して憎しみに近い感情を抱いているであろうことを知りながら。
私はどうすることも出来ないまま時を過ごしてきました。
少年に向って、おまえさえいなければ、と言ってしまった、友であった彼の気持ち。
それが痛いほどわかっていたが故に、そのことさえ、あの少年の心を傷つけているのではないかと。
そんなことを思う日もありました。
そして彼女もあの笑顔の下にどれほどの哀しみを抱えていたことでしょう。
愛しい人を置いて去らなければならなかった彼の痛みと。
すべてを覚悟で留まることを決めた彼女の傷みと。
感じやすいが故に、そんな微かな気配を察してしまった少年の傷みと ――
誰一人、誰かを傷つけたいなどと望んだわけではないというのに。

暗鬱と私を支配する感情。
そのなかで、認めたくはないのに浮かび上がるひとつの想い。
何故、私ではなにも出来ないのか。
無力な自分に嫌気が差すのは正直なところ、いつしか弟のように思いはじめた少年のためだけではありませんでした。
それ以外にあるもう一つの理由。
それはただ ―― 彼女にいつだって心から笑っていて欲しい ―― それだけのことでした。

◇◆◇◆◇

◇◆◇◆◇


彼らが俺を気にかける理由が、ただ、「教育係」や「補佐官」なんていう立場だけじゃないってことに気づかないほど俺は鈍くない。
そしてそれがあの頃は一層俺を苛々とさせた。
―― ガキだったのだと今なら思う。
でも、ガキだったのは俺だけじゃない。
人のことばかり気にして、自分の傷に気づかない間抜けな奴。
奴だってほんとうはそんなに大人なわけじゃないのかもしれないと思う。
(じじ臭いだけで)
だから。
だからもうやめようと思った。
誰だって、誰かを傷つけたいと思ってたわけじゃない。
反発して、反抗して、傷ついた錯覚に陥って、哀しいカオさせんなら、なにもわざわざこんなことしなくったっていい。
そう思ったんだ。
俺がこんな風に思うようになったのはあいつが来てからだ。
今日のような雨の日。
あの人に教わりながらあいつがピアノを弾いていた。
なんの気なしに覗き込んだ俺に、どうぞおはいりなさい、と、さくら色の髪のあの人は微笑んだ。
その傍ら、金色の巻き毛をゆらして。
いきなり連れてこられた場所でのんきにピアノを弾いているあいつの神経がわからなくて、悪態ついた俺にあいつは笑って言った。

「家族や友達は、遠くにいても家族や友達ですから。何一つ終わってしまったわけではないんです。
それよりも私はここへきたことで、いろいろな人達と出会うことができたのだから。
それは逆に、とっても素敵なことの始まりじゃないかって、そう思うことにしています。
―― いつだって、雨垂は前奏曲ですから」

◇◆◇◆◇

◇◆◇◆◇


あれから長い時が経って。
訪れた久々の休日の雨の日。
その日は少し、肌寒い日でした。
ほの暗い天気に昼から電気をつけて。
一階の自分の部屋で過ごしていた私は、当たり前のように流れてくるピアノの旋律に息を飲みました。
私は夢を見ているのでしょうか。
既に彼女は何処へとも知れず。
―― 私にはその消息を知る勇気がありませんでした。
なのに。
何故、雨音とピアノの旋律と私の煎れる一人分の緑茶から立つ湯気だけが変わらずにあるのでしょう?
少し考えれば謎でもなんでもなかったというのに。
『順序だてて、ゆっくり考えてみればたいていの「謎」というものは、謎ではなくなってしまうものです』
いつもそう言っていたはずでした。
なのに私は、この時考えることをせず、まるで時を飛び越えたような錯覚に陥ったのです。
急いで音楽室へと足を向けその扉を開きました。

そこにいる、淡いさくら色の補佐官の衣装をまとったひと。
その傍ら、いつも近所の子供たちから頼まれるおもちゃを、本当に楽しそうな笑顔で修理しながら、 耳はしっかりと彼女のピアノに傾けている銀の髪の私の友人 ――
彼らは振り向きそして、彼女が微笑んで言うのです。


「たいした腕ではありませんけど、ごいっしょにお聞きになりますか ――?」


幻想は一瞬にして消え去り、変わりにふたりの笑顔が私を迎えてくれました。

◇◆◇◆◇

◇◆◇◆◇


奴が姿を見せた時、こいつの頬が一瞬染まるのを俺は見逃さなかった。
―― なんだやっぱり、そういうことか。
少し複雑だったのは、こいつの気持ちが俺の方を向いてないってことではなかった。
いや、それもないっつったら嘘になるけど。
ただ、俺は知ってたんだ。
奴が時折こいつをみてはっとする瞬間がある。
こいつが補佐官の衣装を着てる時に限って、だ。
一瞬の驚きの後、何事もなかったようにいつもと同じおっとりとした笑みを浮かべるんだ。
それは昔、あの人が。 あの人が、一瞬俺をみてはっとして、それから笑みを。
少し哀しげな笑みを浮かべるのにとてもよく似ていた。
だから、気づいちまったことがある。
隠されていた彼らの思い。
あの人はきっと俺の前の鋼の守護聖が好きだったんだということ。
そして、奴はかつての自分の親友を思いつづけるあの人をずっと見ていたということを。

◇◆◇◆◇

◇◆◇◆◇


さくら色の衣装をまっとったひとの心からの笑みを見たとき。
早まる鼓動を私は自覚しました。
そして、「変わらず」ではなく「変われず」にいたのは私だけだったのではないかとそう感じました。
同じように聞こえる雨垂れの、 でも降る雨の一滴の雫を構成する分子がかつての分子とは違うように。
すべてが変わりゆく時の流れの中で、ただ私が変われずにいただけなのだと。
彼女が言いました。

「いつか来る時が来たら、お見せするように、と頼まれていたものがあるのです」

そう言って指し示した古い楽譜にしたためられた懐かしい友人の筆跡。

『聖地へ来た時がすべての始まりのような気がした。
だからといって、聖地を去る時がどうして終わりだなどと言えるだろうか』

さらに彼女は微笑んで、いつだって雨垂は前奏曲なのだと言いました。
首をかしげた私に、仏頂面の友人(・・・・・・)は楽譜の題を指差します。
そこには ―― 雨垂れの前奏曲 ―― そうありました。

◇◆◇◆◇

◇◆◇◆◇


こいつが言うようにこれはまだ前奏曲だから。
俺達の物語だって始まったばかりということにしておこう。
すべてを承知の上で諦めそうにないこいつのことを、いまのところちょっと歩が悪いかもしれねえけど、だからってそれこそ『あきらめる』つもりは俺はない。
相手が奴なら ―― 不足はねえよ。
誰かに恋するってことは、 多少なりとも傷みを伴うものかもしれない。
でもそこに、誰かを傷つけたいと思った人がいるわけではなく。
その傷みは、本当なら鬱陶しいはずなのに何処か優しくて、何処か切ないこの雨音や、 奴が執務室で煎れてくれるお茶の微かな苦味。
そんな感じのものかもしれない。
だからよ、前を見ていこうぜ。
忘れろとは言わない。
でも、もうあんなごまかすみたいな笑みは見せるなよな。
そうなるように、この間はご利益たっぷりの流星にまでおねがいしちまった。
柄にもなくな。
こんなことを思いながら、俺はニヤリと笑って(・・・・・・・)奴を見て。
そしてそれを戦線布告に変えた。

◇◆◇◆◇

◇◆◇◆◇


雨垂れの前奏曲。
何一つ終わってしまったわけでなく幾つもの新しい始まりがあっただけでした。
同じようにまだ私達の物語は始まったばかりで、 この後どんな話を紡ぐのか、彼女達にも、そして私にも考えたところで分かるはずがありません。
ただ、もう二度と雨の日にあの旋律を一人分のお茶を煎れながら聞くことはないでしょう。
かつて少年だった相変わらず無愛想な友人と、
やはりかつて少女だった金の髪の明るい笑顔のひとと、
なんだか、年寄り扱いされてましたがその割に実は昔からあまり成長してないなあ、と苦笑してしまう私自身と。
そしてもうひとり ――。

その四人分(・・・)の緑茶から立つ湯気を眺めた後。
私はあの日の別れの言葉を思い出していました。
『最後にいちどだけ、あなたにくちづけをしてもいいですか』
まだ鮮やかに残る感触を少しだけ苦いお茶と一緒に飲み干して。
今度は遠い恋の記憶を呼び覚ますため、瞳を閉じて雨垂れに耳を傾けました。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
―― だからここに「fin」の文字は相応しくない。
ただ、ひとつだけ書き添えるのなら、この物語の六人の登場人物(・・・・・・・)と、
記憶の中の一人は、幸せになったであろうということだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


BGM:ショパン/雨だれの前奏曲、別れの曲
   :ベートーヴェン/ピアノソナタ第8番


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今回は叙述トリックです。
ラストの数行…… 四つのお茶が誰の分か、また登場人物の六人+一人とは。
おわかりになりますか?


このシリーズが完結したときに(そんなこと言って大丈夫か、自分)、戯言あたりにネタバレ解決編を載せる予定でいます。
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「ネタバレです」等の注意書きの上、上記方法で書き込んでくださいv