その坂本竜馬と鞆の浦とのつながりは坂本竜馬率いる海援隊を乗せ鞆の浦沖で沈没した「いろは丸」事件にさかのぼります。
慶応三年(1867年)4月23日深夜。
坂本竜馬と海援隊士34名をのせた「いろは丸」は19日長崎を出港、瀬戸内海を東へ大阪へと向かっていました。
45馬力、160トン。「いろは丸」は小さな蒸気船で、もとはオランダ人の持ち船でした。竜馬は伊予大洲藩をたくみにくどいて、この船を買わせました。そして、海援隊が一航海五百両で借りたのです。その初航海でした。
 その夜はかなり霧が深かったそうです。夜11時。船は沼隈郡内海町を過ぎました。同じ航路を東からやってくる巨船があります。150馬力、870トン。紀州の軍艦「明光丸」でした。この後はご想像の通りです。
 鞆の升屋(桑田家)に伝わる話によると、竜馬はその夜、西浜に上陸して升屋清右衛門に
「隊士と乗組員の一部がまだ海にいる!船を出して助けてくれ!」
とたのんだそうです。升屋は、船を出して隊士を助け。一行は東浜に上陸しました。
 いろは丸はすぐに沈まず、明光丸に曳航される途中に沈没したようです。明光丸は鞆に投錨。談判がはじめられました。
船問屋の升屋は海援隊をあたたかくもてなしました。その当時の家が今もそっくりそのままのこっています。竜馬が海援隊士を慰労した「カゴ屋」は旅館「対山館」として今も愛されています。紀州藩といえば徳川御三家。大藩をかさにきて、賠償に応じようとはしませんでした。鞆での交渉は決裂。舞台は長崎に移ります。そして、ついに紀州藩は負けて8万3千両を支払うことになります。しかし、竜馬はこの年の11月に暗殺され、金を受け取ることはありませんでした。
 鞆の「いろは丸展示館」には鞆の浦の有志の人々が1988(昭和63)年に引き上げた品が展示されています。

                                    
幕府の力が弱まるにつれて、倒幕の動きが高まってきました。竜馬と中岡慎太郎は、倒幕のためには、力の強い長州藩と薩摩藩が仲なおりをして手を結ばなければならないと考えて、けんめいの努力のすえ、ついに薩長同盟(さっちょうどうめい)をつくりあげました。1866年のことです。
新しい時代に向かって、日本の歴史は、薩長同盟を軸にしながら、大きく動きはじめるのです。
後藤象二郎(ごとうしょうじろう)は、長崎から大阪に向かう藩船「夕顔丸」の中で、新しい日本をつくるために、これからどうしたらよいかについて、竜馬の考えをききました。
 竜馬は、多くの人に出会い、意見を聞き、自分で考えたことを、大政奉還(たいせいほうかん)など、八項目にまとめて提案しました。「船中八策」といわれるものです。土佐藩の山内容堂(やまうちようどう)はこの考えを取り入れて建白書にまとめ、第15代将軍、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に出しました。そして、1867年10月13日、将軍は、京都二条城に各藩の代表を集めて、大政奉還をきめました。 
そして坂本竜馬。 
1835〜1867
坂本龍馬は天保六年、高知城下に生まれました。竜馬二十七歳の時、江戸で剣術修行にはげんでいたころ、アメリカから四せきの黒船が浦賀にやってきて、開国をせまったので、日本中が大さわぎになりました。
その後、幕府の力がおとろえるにつれて、長州藩(山口県)を中心に「尊王攘夷(そんのうじょうい)」の運動がおこり、土佐藩(高知県)でも、土佐勤王党(とさきんのうとう)がつくられ、龍馬もこれにくわわりました。
 翌年、竜馬は勝海舟に出会います。勝海舟は1860年、太平洋を横断して、実際にアメリカを見てきた人です。そして、「外国のすすんだ知識や技術を取り入れて、早く強い国にならなければいけない。幕府だとか、藩だとかではなくて、日本をどうするかを考えなくてはだめだ。」という考えを持っていました。竜馬は、話を聞いているいるうちに、これから自分が何をしなければならないか、教えられたように思い、勝海舟に弟子入りしたのでした。
 竜馬は勝海舟の海軍塾の塾頭にもなりました。その後、海軍塾や海軍操練所で身につけた航海術をいかして、長崎に商業と海運業の仕事をする会社「亀山社中」(のちの海援隊)をつくりました。1865年のことです。
 
 
答え いろは丸

福山の観光名所といえば鞆の浦。その鞆の浦とあの幕末の志士坂本竜馬はいろは丸を通して深いつながりがあります。

まずは鞆の浦。
鞆の浦は福山市中心部より南へ14km、沼隈半島の先端にあり、瀬戸内海国立公園を代表する景勝地です。
穏やかな瀬戸の海に弁天、仙酔などの島々が浮かぶ姿はまさに絵の様です。
ここは瀬戸内海の中央にあたり、潮の流れが変わるところで、万葉集にも詠まれています。
    「吾妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき」(大伴旅人)
        (わぎもこが みし とものうらの むろのきは とこよにあれどみし ひとぞなき)                                              
「決心してはどうかね。そろそろ潮時というもんだ。」
潮時ー現代人は何かの行動のタイミングをいうときに使います。しかし、昔の人にとっては本当に潮の干満を意味しました。船は潮を見て出航し、潮流に乗って航海しました。瀬戸内海には東西二つの潮流というレールがあります。この二つのレールが出逢うところ、そこが鞆の浦だったのです。多くの船は潮の流れが変わるまで鞆へ入港し流れが変わるのを待ちました。これを「潮待ち」といいました。鞆は東西からの船の潮待ちでにぎわいました。また大陸との交易の場として栄えてきました。特に江戸時代には北前船が往来し、商人の町として栄え、今も名所・旧跡・古寺が数多く点在するなか、さまざまな商家の遺構の名残りを垣間見ることが出来ます。落ち着いた港町の風情は、人々の生活の中にいまも息づき、古き良き時代のふるさとを感じさせてくれます。
鞆は瀬戸内海で最重要の「潮待ちの港」として栄えました。鞆二千年の歴史は海上交通の歴史なのです。