(後編)
星降る夜も無音ではなかった.人造物による騒音とは無縁の夜がそこにはあった.神経が研ぎ澄まされ,まるで夜と同化したかのような気持ちになってきていた.
どうしてなのだろう,とクイーン・ウェラーは考えていた.自分では,他人と比較したことはないにしろ,人並みだと思っていたのだが,マイコの友人には認められることはなかった.自分に何が足りないのだろうか,と考えようとしても,まったく想像できなかった.まさかマイコと比較しなくてはならないのだろうか,マイコのようにならなくてはならないのだろうか,と思いついたとき,思わず目を見開いた.心の中から夜が消え去ると同時に視界に夜が飛び込んできた.
「加藤は昔からあんな感じで,勘違いも甚だしいやつだったよ」
「マイコ」
ふぅっと夜の中に浮かび上がる剣城舞子がそこにはいた.視線はクイーン・ウェラーをしかと捉えていた.
「わたしは別に止めもしないし,勧めもしない.日本へ行きたければ,自分で考えて,自分で行けばいい.旅費は,出す金はないから,稼ぐ手伝いはしてやる」
「でも,わたしは,日本でやっていけるのでしょうか・・・カトウさんは,わたしには無理だとおっしゃって・・・」
「そんなこと,心配してどうする.やっていけるかどうかなんて,やってみなければわからないと思わないか?やっていける,と人から言われたからって,必ずやれると思うのか?結局,自分で考えて,やるか,やめるか,決めるしかないんだ.やると決めて,やれてもやれなくても,それは自分が選んだ結果であり,そういうものだった,んだ.わかるか?」
「それは・・・でも,やっぱり,そうやって考えていくときには,そんなこと・・・」
「わたしは,生き続けるために必要な,食物だな,これを作れればいいとある頃から思うようになっていた.水は雨があるが,食物は生えているからと言って食べたら,盗人だと追いまわされてしまう.自分で作ればそんなことはない」
「じゃあ,マイコは,事務所で働いていた頃は,そんなに一生懸命ではなかったということですか?」
「手を抜いたことは一度もなかったよ.何回も死にかけたことがあるくらいは仕事はしていた.だが,できたこともあるし,できなかったこともあった.かといって,できなかったことをくよくよ後悔したことはない.失敗だったら,その責任は自分にある.そのことについて何か言われたとしても,弁解も,怒りもしなかった.あるのは反省だけだ.どうしてそうなってしまったのか,それを突き詰めることによって,失敗を吸収した.取り返しがつかない,と思ったことも何度もある.しかしそれも,結局,そうなってしまった結果でしかなかったのだ.後悔して時間が戻るならば,いくらでもするがね」
クイーン・ウェラーは沈黙した.育ての親である剣城舞子がこうした話をすることは極めて珍しいことだった.剣城舞子はいつでも自分のできる範囲をいうものをよく認識していて,その中では完全に実力を発揮していたし,その外になる場合にも決して逃げることなく,自分にできる最善のことをしていることは,町へ下りたときなどに目にしたことがあった.だが,そんなことが自分にもできるものなのだろうか,とクイーン・ウェラーは悩んだ.
ここにいれば,剣城舞子のアドヴァイスを受けることが出来たし,ある意味,彼女の庇護下におかれて安心して暮らしていけるということは認識していた.しかし,もし,日本に行けば,事務所の面々に協力はしてもらえるかもしれないが,基本的には一人で何もかもしなくてはならないのだった.不安がクイーン・ウェラーの心を満たした.それは,動物に襲われて大怪我をしたことや沼に落ちて身動きが取れなかったことや高熱を出して意識が朦朧としたことなどとは違った不安だった.剣城舞子がいないという,孤独という名の不安だった.
「クイーン.お前には,特にこれといって何かを教えることはしなかった.それでも,お前がわたしと一緒に暮らしていて,その中で,身に付けていったものはいくらかはあっただろう?そこには,判断をする,ということがあったはずだ.何かを決めること.お前が一人で作った花壇や,畑のことを思い出してみろ.お前は失敗もしたが,成功もしたろう.自分で考えて,聞くべきことはわたしに聞き,どっちにしたらいいのかというような問いにはわたしが答えなかったから自分で決めるしかなかっただろう?お前は一人でもやっていける,いや,やっていくだろうよ.やっていけなかったとしても,そのときには,死んでいるか,わたしではない他の誰かに守られて暮らしているだろう.それさえも,結局は,時間が答えを出すだけのことだ.ここに残ることも含めて,な」
「・・・」
「加藤はな,昔から気分屋だったからな.そのときどきの気分によって,他人を見る目が変わるんだ.ま,つまり,目が曇っているんだよ.あいつの評価はあまり気にしない方がいい」
「そんな,ひどいこと」
思わず,くすっとクイーンは笑ってしまった.確かに,ぺらぺらと能天気にしゃべったり,かと思うとむすっとしたり,上がり下がりの激しい人だとは思っていた.とはいえ,経験は豊富であるだろうから,先達の意見として尊重すべきものだろうと思っていたのだ.
「ま,あれはあれで,面白いところもいいところもあるから,いいんだがね」
ふと,剣城舞子の声に曇りが生じたことにクイーンは気付いた.クイーン
が舞子を見上げると,舞子の方は空を見上げていた.
「わたしが加藤について,してはならなかった,させてはならなかったことがたった一つだけある.それについては,申し訳なく思っているさ.あいつはあれで,一度は事務所をやめようと思ったんだからな」
それだけ言うと,剣城舞子は踵を返して家に入っていった.
クイーンはその背を見送りながら,昼間,加藤京がちらりとこぼしていたことを思い出していた.おそらく二人は同じことを言っていたのだろうと思った.その内容の真はわからないけれども,想像はできた.もしそうだとして,自分にはそれが耐えられるのだろうか,と自問してみた.答えはすぐに出た.
太陽は既に中天近くまで上がっていた.クイーン・ウェラーは汗を拭きながら家の入り口脇の水桶に近づいた.そこからブリキのバケツに水を汲むと手を差し込んで洗った.
「アライグマみたいだねー」
ふばば,とあくびをしつつ加藤京が家から出てきた.持参のジャージ姿であった.首をかくかくさせながら,のこのこと水桶に寄って来た.
「顔洗いますか?」
「うん・・・洗って体操しよう」
クイーンが使ったバケツを一度濯ぎ,加藤京が顔を洗うのをクイーンは脇で微笑ましく眺めていた.本当に,一瞬一瞬で様子が変わる女性だなあ,と改めて感じた.顔を洗った彼女はそのまま拭きもせずに家の前の開けた草地に行き,おもむろに体操を始めた.もう昼近いとはいえ,時差にほとんど左右されている気配はなかった.さすがに体力だけは人間離れしていると剣城舞子が褒めるだけはあると思った.
「ねぇ,クイーン,ご飯はどうすればいいの?」
背中で加藤が聞き,身体を半分に折ってクイーンの方に視線を送ってきた.そのままブリッジに入り,ねぇねぇと聞いてきた.クイーンにしてみれば,朝から出かけて不在になっていた剣城舞子のことを聞いてくるだろうかと思っていただけに,軽い驚きを覚えた.そして,この女性はいったい何をしにここに来たのだろう,という疑念さえ覚えた.剣城舞子に会いに来たのではなかったのだろうか,という表情に気付いたのか気付かなかったのか,加藤京はそのまま逆立ちし,ぽんと回転して立ち上がると,今度は普通にクイーンを振り返って見つめてきた.
「ああ,もう準備してありますから・・・今からお出ししますね」
「ありがと.昨日はくたくただったから,あんまり食べられなかったもんね」
クイーンが家に入っていくと,後ろから加藤京がくっついて歩いてきながら嬉しそうに言った.しかし,クイーンは,自分と剣城舞子が食べた量に匹敵する量を加藤京が一人で食べたことを思い出し,あれであんまり食べられなかったということは普段はどれほど食べているのだろう,ということに思いをいたしていた.
食事を摂る加藤京を見ながら,クイーン・ウェラーは更に思い続けた.剣城舞子はなぜ,昔の生活を捨ててここに暮らすようにしたのだろうか,と.それについて加藤京に聞いてみたかったが,真のところを知るはずはなかろうと思い,口にはしなかった.あの剣城舞子がそのようなことを言うとすれば,写真にある高野緑かSASORIくらいのものではなかったろうかと.しかし,加藤京にも答えられることを思いついた.というよりは,彼女ほど適任の回答者はないと思った.
「カトウさん」
「ふご?」
「マイコがいなくなって,日本の事務所では,困ったのではありませんか?マイコは犯罪捜査に手腕をふるっていたと聞いています.マイコの代わりをできる人なんて,そんなにいるとは思えないのですが・・・それとも,日本にはマイコのような人が当たり前のようにいるのですか?」
「・・・もぐ.質問はメインで2つね.後の質問に先に答えるけど,剣城さんみたいなのがごろごろしてたら,今ごろ日本は破滅してるわよ.あんな人は,後にも先にも,あの事務所に勤めてるわたしだって,見たことないわ.もちろん,タイプが違う,あんな人なら見たことあるけどね.高野さんみたいに.他にも何人もいるけれど,まぁ,剣城さんみたいな人はね.一言で言えば冷血魔人.理詰めで容赦なし.歯向かうとロクなことにならないのは,剣城さんが捕まえてきた犯人の末路を見れば明らかね」
加藤京の口は実に滑らかだった.言うことは痛烈で容赦なかったが,しかし,剣城舞子に対する敬意は感じられた.浮き沈みはあっても裏表のない人間,という感じが強くする女性だった.
「だからまぁ,いなくなって困らなかった,というと嘘になるわね.でも,いなくなっても,問題はなかったわよ.なんとかやってたし.もともと,うちの所長代行も犯罪捜査に取り組んでいたし,高野さんだってやるし.他にも若い所員が入ってきていたしね.分担してやったりしてたわよ」
そう言うと,またも加藤京はぱくぱくと食べ始めた.そんな彼女を見ながら,クイーン・ウェラーは妙に物悲しい気分になってきた.自分のことをこれまで育ててくれた,自分にとっては母親でもあり,先生でもあった剣城舞子が,いてもいなくても変わらないという事実が悲しかった.
「あとは,昨晩のように流しに置いておいてくださいね」
「ふぐ」
頷く加藤京を尻目に,クイーン・ウェラーは外へ出た.なんとなく加藤京と顔をつき合わせていることに耐えられなかったからだった.
昼過ぎに剣城舞子が帰ってきた.そんな彼女をクイーン・ウェラーは庭仕
事をしているときに認めた.特に変わった様子もなく,クイーン・ウェラー
の方へやってきた.
「どうした.浮かない顔だな」
クイーン・ウェラーはこのときもまた驚いた.クイーン・ウェラーがここ
に1人でいるということは,加藤京もまたどこかに1人でいるということであ
り,それについて質問されるのかと思っていたからだった.この剣城舞子と
加藤京というのは,いったい,どういう関係だったのだろうか,という疑念
がよぎった.不思議でしょうがなかった.
「物や事,人に限らず」
クイーン・ウェラーの横にやってきた剣城舞子は,庭仕事に手をつけなが
ら,口を開いた.クイーンが目線を向けたが,彼女の視線は植物に向かって
いた.
「こうしてわたしたちは,雑草抜き,と称して草を抜く.それは,わたしたちが育てている食べ物をおいしく育てたり,花などを咲かせたりするためにやっているわけだ.わたしも,お前も,加藤も,いつ,この世界から引き抜かれてしまうかわからない.そして,引き抜かれてしまったとき,そこには既に,いない世界,が残されるだけだ.一応,この食べ物も,花も,おいしく,きれいになって残るように,目論んでいるわけだ.水を撒かなければ枯れてしまうかもしれない.水を撒かなければ根が地中深くまで水を求めて伸び,強いものが育つかもしれない.水を撒けば上は育っても根が育たないかもしれない.それは,どんな場合でも,これをやったからこうなった,ということはない.確率的にはこうした方がよりよいということはあるかもしれないが,そうならない場合もある.人は,そこにいなくなっても,他の者がなんとかするものだ.また,なんとかならなければ空中分解するだけだ.同じまま残る,なんてことはありえない.それは,その人物がいたとしても,毎日毎日変化していく.それがほんのちょっと大きい変化になるだけだ」
そこまで言って,剣城舞子は視線をクイーン・ウェラーの方へと向けてきた.クイーンはどきどきしながらも,その言葉を吸収した.
「周囲との関係とは,そういうものだ.だからこそ,自分の位置は自分で決めておく必要がある.自分の位置を他人の位置との関係で捉えないこと.自分の位置はあくまでも自分で決めた上で,他人との距離を掴むこと.そうでなければ自分を見失う.わたしも加藤も,それぞれの位置を知っているし,それぞれの距離も知っている.だからこそ,人からは罵詈雑言や悪口に思えるような話をしても,お互いはまったく気にしないでいられる.わたしがこうやって出かけてしまっても,あいつはあいつで自由に遊んでる.それは思いやりとか気を遣うとかいうものと無縁だ.自分でできる範囲のことをする,ただそれだけのことなのだからな」
「・・・」
「わたしは,日本にいるとき,自分の居場所としてあの事務所を選んだ.そこには気の置けない仲間がいた.今よりはまだ尖っていたのでね,多少融通が利かないと困ったことにはなっていたのだよ.そして,緑とヨーロッパへ来た.あいつは,日本に居場所を求めた.わたしはここに居場所を求めた.お前を引き取ったのは,お前がどう感じるかわからないが,特に思惑があったわけではない.それが自然だと思ったし,お前をあそこで見捨てることができなかったからだ.わたしの子供として育てたいとか,お前を守ってやりたい,というのとはちょっと違うが・・・小さかったお前には,生きて,自分でいろいろとやってみてもらいたかった,というのかな」
それだけ言うと,再び視線を地面に向けた.そんな育ての母親の表情を見て,クイーン・ウェラーは胸がいっぱいになった.加藤京が来てくれて本当によかったと思った.
「おーい」
そんなとき,背後から加藤京の声がかかった.クイーン・ウェラーは立ち上がって振り返り,加藤京を迎えた.クイーンの傍らで,剣城舞子も腰を上げた.
「いや〜,ホントにこのへんには自然しかないんだねえ」
「お前もここで暮らしてみるか?」
振り返った剣城舞子が笑いを含んだ声で言った.
「いや〜,遠慮しときます.わたしより,よっぽど桜の方が順応すると思いますよ」
「それはそうだな」
そんな2人が軽口を叩きあいながら入り口脇の水桶に向かう後ろにクイーン
も続いた.本当にこの2人は仲が良いのだな,と思った.さっき剣城舞子はあ
あ言ったけれど,やはり,仲は良いのだと思った.それが極めて自然だとい
う点が,いわゆる仲が良いと普通言うことと違う点だとわかった.そんな仲
間が日本にいるというのに,剣城舞子が帰らなかった,という点だけはどう
しても理解できなかったが,クイーンがいたから,というのがその理由だと
も思えなかった.
「お前は日本にいてもここにいても,いつでもどこでもマイペースなのが玉に瑕だな.久しぶりに会いに来るのだから,もっとこう,殊勝にしたらどうなんだ」
「剣城さんこそ,せっかくわたしが遠路はるばる日本から遊びに来てあげたんですから,歓待してくださいよ」
手を洗い終えた2人が家の中に入っていった.その後姿を見ながら,クイーン・ウェラーも手を洗った.洗いながら,今の2人の話の中に,答えがあったと思った.剣城舞子にとっては,仲が良い,いや,友情と言ってもいいものは,距離や時間に依存しないものだからこそ,どこにいても構わなかったのだ,ということに気付いた.なれば,ここにいたいと自分で自分の位置を決めたからには,問題などあるわけがないのは当たり前だった.一方で,もし,クイーンを連れて日本へ戻ったとすれば,仕事柄生命さえ危険に犯されたこともある剣城舞子の巻き添えになる可能性だってあったはずだった.それを回避する意味も,ほんの少しはあったに違いない,とクイーンは思うのだった.
そして,手を洗い終えたクイーンも家の中へと入っていった.
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