大凶星西へ

(前編)

 静けさには2種類あるのだということを加藤京は初めて知った.道行く足は重く,肩にかかる荷物の負担も大きい.慣れない行軍は彼女の軽口をすっかり抑える働きも持っていた.にもかかわらず,彼女の心はのんびりとしていた.それは,周囲に行き渡る静けさゆえだった.日ごろの喧騒とは裏腹に,作為的ではない音は決してうるさくはないのだと知った.決して無音という静けさにはない,音などあって当たり前の静けさが,新鮮だった.
 脇を行く女性,と言うよりも少女と言った方がよいかとさえ思える外見の持ち主は平然と闊歩していた.この山道もなんでもないようだ.京はちょっとうんざりしながらも,休みたいとも言えずにただ黙って足を運んでいた.
 それにしても・・・と京は思った.こういう所に終の棲家を定めたというのはまことに剣城舞子らしいことだ.とはいえ,徒歩でしか行けない所に住むなんて,ちょっと度が過ぎているのではないだろうか.この少女だって,きっと苦にしているに違いない.まったく,あの剣城舞子と2人で顔を突き合わせていられるこの少女は何を考えているのだろう.
 そこまで考えて矛盾に気付いた.あの剣城舞子とずっと一緒にいられるということは,この少女にも同様の何かがあるのではないだろうか?ということは,苦にしているとは思えなかった.
 ドテッ
「よそ見していると転びますよ」
 くすくすっと笑って,少女は立ち止まり,京に手を差し伸べてきた.へへへ,と照れ笑いを浮かべながら,京はその手に縋って立ち上がった.ぽんぽんとお尻を叩いて埃を払い,再び歩き始めた.
「ところでさ.あなたの名前,なんていうの?」
 ようやく,京は少女の名前を聞いていなかったことに気付いた.最初の出会いからこっち,少女は,剣城舞子に言われて参りました,わたしは剣城の被保護者です,などと,剣城舞子の○○,という言い方しかしていなかったのだ.別に困ることもなかったのでそのまま来てしまったのだが,まあ,名前くらい聞いておいてもいいだろうと思ったのだった.京も結構そういう点はかなり無頓着であった.
「クイーン・ウェラーです」
「名前は日本人じゃないんだね」
 金髪碧眼の少女に向かって素っ頓狂なことを言うところは京のいいところでもある.そもそもこの少女は剣城舞子に育てられていたということもあり,日本語が極めて堪能であった.いや,逆にこの国の言葉の方がたどたどしかった.それは,教える剣城もまたこの国の言葉に堪能ではなかったためであった.
「でも,マイコも,周りに住んでいる方々にはエンジェルと呼ばれていますよ.ケンジョーをェンジェォというように発音して・・・ケンジョウというのは発音しにくいようですね」
「う〜ん,確かに昔はダークエンジェルとも言われていたって聞いてるけど・・・決して,苗字の発音からじゃなかったのになあ.名は体を表す,ってことなのかしら.って,そういうことじゃなくて,剣城さんはあくまでもケンジョウであって,エンジェルってのは発音しやすいだけでしょうが.クイーン・ウェラーって,まさか日本語の当て字でもないでしょうに」
 転んで一息ついたためか,軽口が思わず口をつき,一気に二人の間の空気が変化したようであった.少女はこうして迎えた保護者の知人がどういう人間かは知らなかったわけだし,少し距離を置いて対応していたようだったが,それが近しい者への反応に変わったようであった.京の方は単にくたびれていて対応が形式的だったが,齢は加えたものの健在であった馴れ馴れしさがここにきて頭をもたげたわけであった.
 そうしてしばらく軽口を叩き合って(年齢は親子ほども違うようであったが)歩く内に,ようやく剣城舞子とクイーン・ウェラーの住まいし家のそばまでやってきた.それを聞いて京はほっとした.こんなに足が棒になったのは,その昔,剣城舞子と臨んだ事件以来じゃないか,などと心の中で思っていた.そして,実際に家が視界に入ると,萎えかけていた気分がぐわっと高揚してくるのを感じ,現金だな〜,と思ったりしていた.
「カトウさんをお連れしました」
 玄関の扉を開けると,少女が家の中に声をかけた.返事は屋内からではなく,家の裏側の方からした.すぐに家の横手から剣城舞子が姿を現した.
「よう.少しは痩せる運動になったか?」
 剣城舞子は何年も会わなかったというのに,まるでついさっきまで一緒にいたかのように語りかけてきた.その姿も,昔のままであった.京はなぜか胸の詰まるような感じを覚え,一瞬,口ごもった.
「老けたなあ」
「し,失礼なっ.剣城さんに言われたくないですよぅ」
「お前,あの頃から5キロは増えたろ」
「ぶぅーーー」
「ま,中へ入れよ」
 剣城舞子はそう言うと,少女の開けている扉を抜け,先に家に入っていった.遅れて声が,手を洗ってくるから荷物を置いておけよ,と流れてきた.唇を尖らせた京にくすくすと笑いかけながら少女はどうぞと声をかけて家に入っていった.やむなく,京も続いた.
 室内には特に何もなく,先に入った剣城舞子の姿が台所らしきところに見え,少女の姿はさらに奥の部屋に消えようとしていた.慌てて京は奥の部屋へと向かった.
「部屋は2つしかありませんから・・・ここで3人で寝ることになります」
「あ,ごろ寝だ.なんだか懐かしいね〜」
 ぽん,と荷物を置いて,中からちょっとした食べ物のお土産を取り出した.それを手にして,少女と共に前の部屋へ戻っていった.
 改めて見ると,そこは食卓兼居間兼・・・とにかく寝室以外のスペースすべてを兼ねていた.とはいえ,テレビがあるわけでもないし,ソファがあるわけではなく,極めて簡素な食卓と椅子があるばかりであった.その一角に台所らしきものがあった.壁には多少の飾り物がかけてあった.
「カトウさん,これ,ご覧になってください」
 京の視線に気付いたのか,少女は歩を進めて壁に近寄り,架けてあった写真のいくつかを指差した.京も近づいてじっと目を向けた.写真は3葉あった.
「これがカトウさんですね」
「うん.これ,剣城さんがこっちに来るとき,だから,事務所を高野さんとやめたときに送別会で撮った写真だよ.懐かしいな〜」
「今のマイコと全然雰囲気が違いますよね.すごく鋭い感じがしますもの.今のマイコは,おっとりして,静かですよ」
「う〜ん・・・それはちょっと違うと思うなあ」
「同じ部屋にわたしがいるということを忘れないように」
 剣城舞子が背中で声をかけてきた.しかし,京と少女はちょっと顔を見合わせたものの,一向に恐縮する気配はなかった.
「あなたもいつか気付くかもしれないけど,剣城さんはずっとこうだったし,ずっとこうだと思うよ.何も変わっていない.そう,だから,信頼できるんだけどね」
 くすり,と笑い,ちらりと剣城舞子の背中に視線を投げた.幾分か背中が小さく見えた気がしたが,それも瞬間で,すぐに昔の空気が漂っている感じになった.久しぶりに会うから,雰囲気を捉え損ねたのかもしれなかった.
「こっちは,うちの事務所の中でも剣城さんに近い人たちの写真だね.これは所長代行,こっちは四裕座さんだね.羅印さんもいるし.なんだか,懐かしいなあ・・・こっちの写真は・・・」
「マイコとミドリと,サソリとわたしです」
「・・・サソリ?」
 京はちょっと顔をしかめた.サソリと言えば,1人しか知らなかった.高野緑からも聞いているし,恐るべき噂も聞いていた.
「さ,こっちに来いよ」
 そんなとき,剣城舞子の声がかかった.いつの間にか食卓のところまで来ていた彼女を振り返った京は認めた.そして同時に,ああ,この人も歳を取ったんだな,と感じた.もちろん,年齢からすればそれは極めて若い,鮮烈な雰囲気だったのだが,同じ年齢である高野緑に比べて第一線から退いた剣城舞子は一種仙人めいた,ある意味年齢を超越した雰囲気を備え始めていたのだ.確かに昔から年齢を超越した人だとは思っていたが,その意味が違う.昔は,その容姿や,時間に対する姿勢・思考が常人離れしていることをして年齢を超越していると表現していたわけだが,今は,人間を,時間を超越しようとしていることをして,だった.ああ,本当に手の届かないところに行ってしまう・・・と,京の胸を去来する何かがあった.
「なんだ,そんな顔をして.サソリに会いたいのか?」
「ぅ・・・そんなことありませんよぅ.サソリに会ったら生命はないって聞いてますから,ごめんです」
 京は言いながら食卓へ向かった.京の視界の中で舞子が席に着いた.そして,その向かいに京は腰を下ろした.クイーン・ウェラーは京の右手に腰をおろした.3人は京の手土産の食べ物をつまみつつ,卓上にあった急須様の道具から注いだ液体を口にした.
 こうして座ってみると,京は,特に話題がないことに気付いた.もともと軽口はたたきあっていても,これといって話をしたことはなかった.話をしなくても,必要なことは伝わっていたのだ.それは仕事だけの話ではなかった.シンプルな生活を送っていた剣城舞子には必要なことなどほとんどなかったために,逆に必要なことは手にとるようにわかっていたのだ.
 昔話をするのも陳腐だ.日本にいる所員の話をするのもおかしなものだ.そんなものを剣城舞子が望んでいるとは思えない.今,彼女が聞きたい話,というのはそもそも存在するのだろうか.こうして,自分に会うだけで,目で会話するだけで,舞子には十分なのかもしれないと京は思った.
「カトウさんは,今もマイコも働いていた事務所で働いているのですか?」
 剣城舞子のことをつらつら考えていた京に声をかけたのはクイーン・ウェラーであった.思わぬところからの質問に,一瞬つまったものの,すぐに頷いて見せた.
「まねー.他にすることもないから」
「たまにエアメールをもらうから,大体の近況は知っているよ」
 くすり,と剣城舞子が微笑んだ.それを見て,京は,はて誰がだろう,と思ったが口には出さなかった.それどころか,こうして今の事務所のことなども決して興味がないわけではないということを知って,嬉しい思いだった.隠棲したと言っても,別に世間を倦んだわけではないし,昔の仲間との断絶を望んだわけでもない,ただ,静かに住まうことだけを望んだのだとわかった.
「マイコはエアメールを見せてくれないのですもの」
「別に見せるようなものでもないだろう」
 少し拗ねた感じのあるクイーン・ウェラーに対し,剣城舞子はあくまでも静かに応対した.それを見ていて,京などはクイーンの気持ちがなんとなく察せられるだけに,舞子がそれを察知していないのだろうか,などという疑念を抱いた.
「クイーンは,日本に行ってみたがっているんだよ.飛行機代はないが,加藤,お前が出すか?」
「ちょ・・・って,えっ?剣城さん,退職金とかも出たでしょうが.それに,もともと給料だって随分残っていたんじゃないんですか?貯め込んでるとばかり」
「ん?ああ,そうか」
 ちらりと視線を上げた舞子の上目遣いが京を捉えた.昔一緒に仕事をしていた頃にも,まだ言ってなかったっけか,というニュアンスでこの視線をよく見たものだった.
「うん,一応,お前と同じにわたしにも家族がいるんでな.給料はまったく残ってなかったよ.退職金はある程度残してあったんだが,ここを買ったのと,あとは適当に手放したから,今はもうない」
「今はもうないって,ね.今は特に収入はないんでしょう?庭で作って食べてるってのはわかりますけど,それじゃ,税金とかどうしてるんですかぁ」
「納税の季節になると,作ったものを売って,税金を捻出しているんですよ」
「そんな,本気ですかぁ?」
 本当にそんなことできるのだろうか,と思った京だったが,この舞子ならやりかねないとも思った.この被保護者の方も疑っている様子はなかった.実際,こうしてもう何年もここに住んでいるのだから,なんとかやりくりはしているのだろうけど・・・可能性としては,昔の仲間である持明院香菜に法律的な相談を持ち掛けた,というのがありうるな,と京は考えた.
 ふと,そんなに遠くないところで音がしていることに京は気付いた.他の2人は特に気にした様子もなく,京の方を見ていた.3人で話をしていたのだから,それも当たり前だ.そんなうちに,音は明らかなエンジン音と化して家に接近してき,そして,停止した.
「どうしたんでしょうね」
 剣城舞子に声をかけながら,クイーン・ウェラーが立ち上がって扉へ向かった.ドアを無骨に叩く音とほぼ同時に,クイーンは扉を開いた.
 加藤京はそこに男を認めた.男はクイーンにべらべらと話し,家の中に顔を突っ込んで剣城舞子にも話し掛けていた.対して,クイーンも剣城舞子もべらべらと返答していた.なんだかんだ言っても二人ともここで生活しているのだな,と京は妙に感心した.もちろん京にはわかるはずもなかったが,声の調子から男が剣城舞子の出馬を依頼しているらしいことはわかった.それくらいのことは,事務所で鍛えられてできるようになっていた.
 そのうち,剣城舞子が肩をすくめ,立ち上がった.結局行くことになったらしい,と京は見当をつけて見上げた.
「悪いが,ちょっと出かけてくる.しばらくクイーンと二人で話しでもしていてくれ.このへんを歩いてみるのもいいぞ」
「勘弁してくださいよ.山登りで脚がパンパンです」
「クイーンにマッサージでもしてもらえ」
 そう言い残すと剣城舞子は男と連れ立って家を出て行った.エンジンがかけられる音がして,車が走り去る気配があった.クイーンは見送っていたが,京は昔からの習慣でそんなことをするつもりはなかった.車が視界から消えたのか,クイーンは扉を閉じて食卓に戻り,椅子に腰をおろした.
「カトウさん.事務所の仕事って,大変ですか?」
「んー?」
 クイーンはどうやら本当に日本に興味を持っているらしい,と京は理解した.それも,単なる旅行者のような興味ではなく,生活の場としての興味を抱いているらしい,と.それならば,別にこの国の都市部にでも行けばかないそうなものだが,剣城舞子の祖国ということが影響しているに違いないと当たりをつけた.
「大変っちゃねー.まぁ,もう二度と,剣城さんとやってたような仕事はしたくないね・・・」
 言いかけて,京は苦虫を噛み潰したような顔をした.高揚した気分が急転直下,最悪の気分になった.クイーンが不審そうな表情を向けてきていたので,ちょっと,むっとした.
「わたしは,剣城さんでも,高野さんでも,羅印さんでも四裕座さんでもなかったのに.今でもたまに夢に見るよ.あなたは・・・でも,剣城さんたちがこっちでやってたときには,まだずっと小さかったんだよね」
「カトウさん?何か悪いことを言いましたか?・・・ごめんなさい」
 いかにも能天気に見える京の対応が急激に変化したことに対して,クイーンはさすがに自分が悪かったのだと気付いたようであった.悄然として,ちょっと俯いた.
「ああ,うん,ごめんごめん.いいんだ.久しぶりに剣城さんに会ったから,思い出しちゃっただけだから.でもね・・・クイーン,あなたがもし,日本に来て,仕事をしようとか思っているんだったら,考え直した方がいいよ.どこまで,何を考えているのかは聞かないけど,もし,うちの事務所なら,学歴も何も関係なく雇ってくれると考えているんだったら,尚更,やめておいた方がいいよ」
 確かに,京が勤めている事務所ならば,このクイーンも雇い,鍛えていくことは間違いなかった.しかし,京は自分が入所した頃を思い出していた.京と同期で入った者の大部分は,事務所になじめずにやめていったのだ.事務所に残ることができた人間は,ある意味,融通がきかないという性格が必須だった.そして,同僚とは馴れ馴れしくすることなく,しかし,極めて円滑に仕事をする必要があった.人のことを考えつつも,それを無視する精神が欠かせなかった.それは,他人との距離のとり方を知っていなければならない,ということだった.自分なりの距離のとり方で構わないが,それが確立されている必要があった.
「人間は,恐ろしいものだよ,クイーン.こういうところで育ったあなたには,日本は,東京は無理だよ」
 それは京の本心であった.単に,おのぼりさんになりたい,というだけだったならば,京は何日だってこのクイーンを連れまわしてやったことだろう.東京だけにとどまらず,大阪だって北海道だって奄美大島だって連れて行ってやったことだろう.しかし,生活することを勧めることは絶対にできないことだった.
「・・・わたし・・・学校にも行かなかったし・・・マイコが全部教えてくれたから・・・でも・・・学歴とか・・・資格とか・・・」
「ここの生活が不満なの?」
「マイコは無骨だけど優しいし,好きです.でも,わたし,ここしか知らないんです・・・」
 ああ,そうか・・・と京は思った.そして,京は自分の妹のことを思った.