土曜日、朝。
碇家。
窓に掛かったカーテンは閉められていて、部屋の中はいささか薄暗かった。
カーテンの僅かな隙間から漏れ入った光が、床に一筋の眩しいラインを描いている。
先程までつけられていたエアコンのおかげで、まだ部屋の中は涼しい。
しかし、空気の流れが淀み、彼の身体の周りだけ少しずつ気温が上がってきていた。
彼、碇ゲンドウは自分の部屋にいた。
壁際に置かれた机の前に座り、右手に受話器を握りしめている。
その手が微かに汗ばんでいた。
「……また君に借りができたな」
先方の報告が一段落すると、ゲンドウは低い声で呟いた。
電話は彼の研究所の専用守秘回線に繋がれている。
セキュリティのレベルは完璧と言っていい。はっきり言って、盗聴は不可能だ。
そして、周りで聞いている者は誰もいない。
それでも彼は自分にしか聞こえないほどの小さな声で話していた。
『返すつもりもないんでしょ?』
電話の向こうから若い男の声が聞こえた。
大儀そうで、どこか食えない雰囲気の声だった。
その声は続けた。
『……彼らが情報公開法を盾に迫っていた資料ですが、ダミーも混ぜてあしらっておきました』
「…………」
電話の向こうの男の声も低く小さい。
ゲンドウは貝のように黙って男の言うことを聞いていた。
『……政府は裏で法的整備を進めていますが、近日中に頓挫の予定です』
「…………」
ゲンドウの顔に表情はない。
いつも息子の前で見せているようなふてぶてしさもそこにはなかった。
今の彼の心情を探るのはいかなる者にも不可能であったろう。
おそらく、彼をもっともよく知る妻でさえも。
『で、どうです? 例の計画の方もこっちで手を打ちましょうか?』
それまで黙って男の報告を聞いていたゲンドウは、ようやくその重い口を開いた。
机の上に置かれたいくつかの資料と、一葉の写真を眺めながら。
「……いや、君の資料を見る限り、問題はなかろう」
電話の向こうで男は答えた。
ゲンドウと同じく、低い声で。
『……では、シナリオ通りに』
男はその声を残して電話を切った。
ゲンドウはゆっくりと受話器を電話機の上に戻すと、肘をつき、顔の前で手を組んだ。
そしてしばらくの間、何事かを考えるように沈黙していた。
渚のチルドレン
ピッという軽い音を残して、携帯電話のスイッチが切られた。
アスカはそれを持っていたバッグの中に入れると、口を尖らせて黙っている。
周りにいた者は、アスカのセリフだけで全てがわかっていた。
たとえ相手の声が聞こえなくても。
それでも一応ツッコンどいたらなあかんわな。トウジは関西人としてのお約束を守ることを優先した。
「やっぱり、寝とったんかいな」
旅行だというのに、彼はいつもの如くジャージを着ていた。
まあ、彼の弁によれば、この日のために用意した新品とのことだった。
何でも、サイドのラインの入り方が違うとか。
一見しただけではわからんところに凝るんがファッションっちゅうもんや。彼はのたまった。
無論、誰も納得しなかった。
「そうよ、ついさっき起きたところだって」
アスカはそう答えてから小さく息をついた。
今日の彼女の服装は、ノースリーブの黄色いワンピースだ。
細い肩紐以外、彼女の美しい肩のラインを覆うものはなく、綺麗な鎖骨の形が露わになっている。
ふわふわっとした感じのスカートが、軽やかな印象を与えていた。
そしてワンポイントで首に付けているブルーのチョーカー。
しかしアスカはそのご機嫌な服に似つかわしくない、少々不機嫌な表情を浮かべている。
あの子ったら、昨日の晩、わざわざ寝坊しないようにって電話してあげてるのに……
「目覚ましはかけてなかったのか?」
じっと黙っているアスカに、ケンスケが訊いた。
ちなみに彼が着ているものはといえば、上は普通の真っ白なTシャツだったのだが、下は迷彩色のニッカボッカのようなズボンをはいていた。
そして異常なまでに膨れ上がったリュックを肩に背負っていた。これまた迷彩色。
待ち合わせ場所に現れた途端にアスカに思い切り馬鹿にされたのは言うまでもない。
そのせいかアスカはケンスケの顔を見ずに、腕を組んでマンションの横の道の方を向いて呆れたように言う。
「例によって、二度寝だって。気が付いたら、目覚まし時計抱えて寝てたんだってさ」
「やっぱり、もう少し早く電話してあげれば良かったのよ」
ヒカリが横からそう言ったのだが、アスカは振り返って顔の前に立てた人差し指を揺らしながら言った。
「ダメよ、ヒカリ、あの子を甘やかしちゃ。一人暮らししてる子が、一人で起きられなくて、どうすんのよ」
「それはそうなんだけど……」
ヒカリはアスカを宥めようとしたのだが、逆に諫められてしまった。
あまりにも正論なので、言い返すこともできない。
ヒカリは二の句が継げずに黙り込んでしまった。
彼女の出で立ちは白い麻のブラウスに、ゆったりとした菫色のキュロット。
ブラウスには白糸で透かし模様のような刺繍が入っていた。
日射しが気になるのか、大きな麦わら帽子をかぶっている。
「でも、まだ5分前だし……」
それでもシンジが遅れそうになっている『あの子』を何とか庇おうとして口を挟む。
すると、アスカはシンジを横目で睨みながら言葉を返す。
「遅れてから電話してたんじゃ、意味ないでしょ。時間前に電話してあげてたことに感謝して欲しいくらいよ」
それはそうだ。
この場にいる全員が、もしかしたら『あの子』が寝坊するかも知れないと予想していたのだから。
そして、誰が言い出すともなく、約束の時間前に電話することになったのだ。
そう、彼らは10分前に既にシンジとアスカの住むマンションの前に集合していた。
来ていないのが『あの子』だけだったから、まさかと思って電話したのだが……
「まあまあ、ちょっと遅れたって、大したことないわよ。シンジだって、私が起こすまで寝てたんだから」
ユイはそう言って子供たちの様子を眺めながら、ニコニコと笑っている。
アスカが、やっぱりね、といった表情でシンジの方を見た。
彼女にかかれば、息子も形無しである。
シンジが恨めしそうにユイの方を見た。何もそんなことまでバラさなくても。
だがユイはそんな息子の表情を意図的に無視していた。
大きな白いサンバイザーの下の笑顔が爽やかだ。
薄いピンクの開襟ブラウスに、紺のサブリナパンツ。
そのブラウスは第2ボタンまで外してある。彼女の癖だろうか。
「でも、おばさま、今日は電車で行くんだから、遅れたらシャレにならないじゃないですか」
アスカはユイの方に振り返って言った。
不機嫌そうな表情が少し和らいでいる。
アスカにとって、ユイの前で怒り顔を見せるのは得策ではないのかも知れない。
「気にしない、気にしない。遅れたら、その分遅くまで遊べばいいんだから」
「…………」
わかったようでわからないようなことを言いながら、ユイは微笑んでいた。
アスカは何となくはぐらかされたようになって、言葉が出ないでいる。
やっぱり、おばさまって一般人とちょっとペースが違う……
だから歳を取るのも遅いのかしら?
見かけ相応に若々しい出で立ちのユイを見ながらアスカは思っていた。
「そう言えば、父さんは?」
シンジのその声に、考え事をしていたアスカも我に返ってようやく気付いた。
その場に足りない人物がもう一人いることに。
朝、シンジを家に迎えに行ったとき、ユイも一緒に出てきたから、ゲンドウもすぐに来ると思っていたのだ。
だが、先程マンションの前で電話をかけている間にも、ゲンドウは出て来ていなかった。
「会社に電話するから、先に出てみんなを迎えておいてくれって言われたの。もうすぐ来るはずよ」
ユイがそう言い終わらないうちに、マンションの正面玄関が開いて、一人の男がのっそりと姿を現した。
旅行用の大きな革のボストンバックを手に持ち、青いクーラーボックスを肩から下げている。
赤いポロシャツに、グレーのスラックス。そしてなぜか健康サンダル。
やけに背が高く、無愛想な表情に髭面、サングラスとくれば見間違えるはずもない。
「あ、来た」
シンジがその方を向いて言うと、後ろからトウジの声が聞こえた。
「こっちも来よったで」
「えっ?」
慌ててシンジが振り返ると、マンションの横の道をものすごいスピードで突っ走ってくる一台の自転車が目にとまった。
乗っている女の子は正面からの風を受けて青い前髪がかき上げられ、おでこが丸見えになっている。
そして半分立ち上がるようにしてペダルを漕ぎ続けていた。
自転車は橋を渡り、マンションの手前で曲がると、みんなが待っている輪の中に急ブレーキをかけながら突っ込んできた。
ブレーキの軋む音が悲鳴のように辺りに響き渡った。どこかで鳩の飛び立つ音がした。
「みんな、おはよーっ!」
自転車が止まると、乗っていた女の子は元気よく挨拶をする。
だがみんなの方はそれどころではなかった。
「あ、危ないじゃない!」
接触しそうになったのを横っ飛びに避けて、アスカは思わず大声を出していた。
自転車の彼女はいつものように無邪気に笑いながら答える。
「ごめん、ごめーん! 遅れちゃいそうだったから、急いで来たのよ」
急いで来たであろうことは誰にでもわかる。
彼女は顔から首筋にかけて汗だくになっていた。
薄緑色のノースリーブのブラウスは背中が汗で湿っている。
髪も濡れていた。ただ、髪の毛の乱れは、どうも風のせいだけではないようだ。
寝起きで、櫛を通すのももどかしく飛び出してきたのだろうか。
「だからって、何も待ってるところに突っ込んでくることないでしょおっ!」
「あははー、みんなの胸の中に飛び込みたかったって感じかな」
「ふざけるのもいーかげんにしなさいよっ!」
アスカも自転車に轢かれそうになって驚いただけで、真剣に怒っているわけではない。
彼女相手に真剣に怒るだけ無駄というものだ。
どうも彼女の笑顔は人の心の中から怒りというものを奪い取ってしまうらしい。
彼女の唯一にして最大の武器だろう。
その彼女は手を顔の前で拝むように合わせ、少々申し訳なさそうな笑顔で謝っている。
「だーから、ごめんってー。遅れたくなかったんだから、許してよぉ」
「もう遅れてるわよっ!」
「遅れてないぜ」
「え?」
突然のケンスケの声に、アスカと彼女はハモって答えた。
ケンスケは左腕にはめたごつい時計を見ながら、眼鏡を右手の人差し指でクイッと押し上げた。
「綾波が到着したのは、約束の時間のかっきり一秒前だったよ。この時計は今朝合わせたから正確だぜ。間違いなくね」
アメリカ空軍御用達という自慢の時計を見せびらかしながら、ケンスケは得意げにそう言った。
それほどもったいぶって言うことでもないと思われるのだが。
「やったー! 間に合ったー!」
「…………」
レイは万歳をしながら喜んでいる。
アスカは少し口を尖らせながら、横目でそれを見ていた。
間に合ったの。そう、じゃ、しょうがないわね。
……おばさまの前であんまりケンカするのは良くないし、ここらで許してあげるとするわ。
「あ、おじさま、おばさま、おはようございます!」
レイは万歳を終えて、ゲンドウとユイに目を止めて笑顔で挨拶した。
遅れてきた『減点』を少しでも取り戻そうというのだろうか。
「ああ、おはよう」
「おはよう、レイちゃん。さ、みんな揃ったし、そろそろ出ましょうか。駅までは車で送って行くわ」
レイに挨拶を返すと、ユイがそう言って子供たちを促した。
そしてゲンドウに向かって目で合図する。
ゲンドウはサングラスを軽く指で押し上げながらマンションの中に戻っていった。
中のエレベータで下の駐車場に行こうというのだろう。
「へいへい、ほな、行きまひょ」
トウジがそう言いながら勇んで歩き出し、ヒカリ、ケンスケと続いた。
「レイちゃん、自転車は地下駐車場にね」
「あ、はーい」
「ところで、朝、食べてないんじゃないの?」
「あ、駅で何か買って食べますから」
「お金ある? 買ってあげましょうか?」
「えっ、いいですよ、そんなぁ……」
レイはユイと会話しながら自転車を押してマンションに入っていった。
エレベータに載せられるようになっているのだ。
以前、シンジに自転車で送ってもらったことがあるから憶えていたのだろう。
シンジはぼやっとそれを見送っていた。アスカも二人の方を見ていたが、やがてシンジの方に視線を戻す。
「ほら、シンジ、何、ボケボケッとしてるの。行くわよ」
「あ、うん……」
アスカに声をかけられて、シンジは一番後ろから付いていった。
彼の視線は、レイのブラウスの背中から浮き出した白いラインに釘付けになっていた。
「おー、海や、海」
「あっ、ほんとだー」
「海なんて、久しぶりねー」
「修学旅行の沖縄以来ね」
「あっ、そうだね」
「俺はよく来てるけどな」
第3新東京市からリニアに乗って小田原まで降り、そこから東海道線で少し南に行ったところに新湘南はある。
地球温暖化によって各地で自然の渚が少しずつ削られていく折、ここは計画的に作られたリゾート地だった。
広大な人工の砂浜や林立するホテル群は、第3新東京からのレジャー客を当て込んで作られたものに違いない。
日帰りで来られる便利さもあり、しかも週末ということも手伝って、浜辺は多くの人で溢れかえっていた。
もちろん、そんな混雑したところで泳ぎたくない人も大勢いる。
宿泊客以外は入れないプライベートビーチを持つホテルもたくさんあるのだ。
シンジたちが到着したのはそんなホテルの一つだった。
リゾートホテルにありがちなごてごてとした飾りもなく、瀟洒で落ち着いた感じだった。
だが、隅々まで手入れが行き届いていて、高級感を感じさせてくれる。
部屋数は多そうには見えない。たぶん、接客を重視したホテルなのだろう。
裏に面したプライベートビーチも広々と使えるに違いない。
シンジたちはあっけにとられた風にそのホテルを見上げていた。
「へぇー、これは……」
「うん、何か、すごいよね」
「こないに立派なホテルとは、思わなんだな」
「デパートの景品の旅行だって言うから……」
「民宿か何かだと思ってたのにね」
「ほんとにここ、タダで泊まれるんですか?」
最後のアスカの言葉に、子供たちが振り返ってユイとゲンドウの方を見た。
ゲンドウがサングラスを指で押し上げている横で、ユイがニコニコと笑いながら立っている。
「ええ、そうよ。食事からいろんなサービスまで全部込み」
「そら、大名旅行やないですか。晩飯が楽しみやなぁ。和食やろか、中華やろか、フランス料理やろか」
ユイの言葉に即座にトウジが反応して、早くも夕食のことに意識を走らせる。
アスカは呆れてジト目でトウジを見ながら言った。
「アンタって、そればっかりね」
「えーやないか。晩飯は旅行最大の楽しみの一つやからな」
トウジは胸を張りながらそんなことを言った。
彼にとって、食事は何事にも代え難い楽しみなのだから。
「鈴原、そんな恥ずかしいこと言うの、よしなさいよ」
なぜかヒカリが真っ赤になってトウジを肘でつつく。
だが、トウジの頭の中は、すっかり今晩の食事のことで満たされていた。
「かまへんがな。委員長も、遠慮せんでようけ食べや。余ったらワシが食べたるさかいに」
「す、鈴原! な、何言ってるのよ!」
「そやかて、いつも……むぐぐっ!」
ヒカリが慌ててトウジの口を手でふさいだ。
トウジも幸せな妄想を中断されて驚いていたが、直後に我に返って言葉を止めた。
だが、時既に遅し。一度口をついて出た言葉が再び返ってくることはない。
ヒカリの努力も虚しく、既に周りから二人に好奇の視線が突き刺さっていた。
ただ一人、何のことか全くわかっていない少年を一人残して。
「ヒ・カ・リィ〜」
アスカがヒカリの肩を指でつつきながら嬉しそうに囁く。
「な、何、アスカ……」
答えるヒカリの方は、もう耳まで真っ赤になっていた。
トウジはそらとぼけながら明後日の方を向いている。
これではツッコンで下さいと言っているようなものだ。
「今の、どういうことかしらぁ〜?」
アスカは好奇心を身体全体で表現しながらヒカリを問いただす。
もちろん、みんなの言葉を代弁しているという気合いも込めて。
「ど、どうって……な、何が……」
「とぼけてもムダよお〜。ヒカリの余った食事を、鈴原が食べてるって?」
「ち、ちが……そ、そう! お昼のお弁当のことよ!」
ヒカリは声を震わせ、言葉を詰まらせながらも、必死になって弁解しようとした。
だがそれは逆効果というものだ。アスカは更に追及を続ける。
「でも、お昼は私と一緒に食べてるじゃな〜い?」
「だ、だから、そうじゃなくて……お弁当作る材料が余るから、鈴原に食べてもらって……」
「うう〜ん、そういう意味には聞こえなかったけどお〜?」
「…………」
ついにヒカリはうつむいて黙り込んでしまった。
首筋までが真っ赤に染まっている。
アスカは少し考えてから、とどめの一言を投げかけた。
「ヒ・カ・リ! どこまで進んだのかしら?」
「ど、どこまでって、そんな……まだ、5・6回食事に行った……だけ……」
そう言いかけて、ヒカリはハッとして顔を上げ、アスカの方を見た。
アスカがこの上なく嬉しそうな表情でヒカリの方を見ていた。
そして、レイも、ケンスケも、ユイまでも。
ゲンドウがニヤリと笑いながら眼鏡に手をやったのを見ながら、ヒカリは固まっていた。
(やられた! ……言っちゃった……私の、バカ……)
何のためにわざわざ校区外まで食事に行ったのか……
誰にも知られないように、ゆっくりと進めて行くはずだったのに。
デートって言うと鈴原が恥ずかしがるから、食事という名目で一緒に遊びに行ったりしてたのに。
これでこれからはアスカたちに進み具合を訊かれる羽目になってしまう……
ヒカリがガックリと落とした肩を、アスカがポンと叩いた。少し同情を含んだ笑顔を見せながら。
もちろんその笑顔は、これからの楽しみが一つ増えたことを喜んでるのに相違なかった。
「じゃ、荷物をホテルに置かせてもらって、早速泳ぎに行きましょうか。昼食はもうしばらくしてからね」
ユイは何事もなかったかのような笑顔でそう言うと、みんなをホテルの方へと促した。
「は〜い」
アスカとレイが元気な声でそう返事をして、ホテルの玄関をくぐっていった。
その後に重い足取りのトウジとヒカリ、そしてケンスケとシンジが続く。
ユイとゲンドウは一番後ろから荷物を持ってホテルに入った。
「ね、ケンスケ」
複雑な表情のトウジとヒカリのツーショットをビデオに収めているケンスケに、シンジが尋ねた。
「ん? 何だ?」
ケンスケはファインダーから目を離すことなく、短く答える。
これはいいネタを拾ったぞ。昼飯1回くらいはタダで食べられそうだな。そんなことを思いながら。
「さっきのアスカと委員長のやり取り、あれ、何だったの?」
「え?」
だが、シンジの意外な質問に、ケンスケは思わず顔をシンジの方に向けた。
そして、どうしてもわからない、というようなシンジの表情を見て、やれやれといった感じでため息をつくとビデオのスイッチを切った。
どこの誰が聞いたって、今のは委員長とトウジがデートしているっていう告白に決まってるのに……
どうしてこいつだけはこんな簡単なことがわからないんだ。
「……やっぱ、シンジはお子さまだな」
「どうして?」
ケンスケの言葉にシンジがムッとしながら聞き返したが、ケンスケはそれに答えずに黙って歩き続けた。
(こんな神経してるから、女2人に言い寄られても気付かないんだな、こいつは……)
シンジが惣流と綾波から好意を持たれていることは、クラス中の奴が気付いている。
そういうことには疎いトウジでさえも教えてやる前に気付いたほどだ。
もちろん、担任だって、隣のクラスの奴だってそのことを知っている。
気付いてないのは本人だけか。何て平和な奴……
「ねえ、どうしてなんだよ」
「それがわからないからお子さまなんだよ」
「何なんだよ、それ……」
「だから、自分で考えろって」
しつこく聞き返すシンジに、ケンスケは呆れ顔でうやむやな言葉を返す。
そんなやり取りをする息子を見ながら、ユイとゲンドウは揃ってため息をついていた。
「しかし、惣流の水着は相変わらす派手やな」
先程のショックから復活したトウジが感心したように言った。
彼らは既に水着に着替え、ビーチでゲンドウとユイを待っているところだった。みんなの荷物を預けていたから遅れたのだ。
男子は相変わらず学校の水着なのに対し、女子は3人とも前回のプールの時とは違う水着を着けていた。
「こないだのより、露出度高いんじゃないか」
ケンスケがアスカの姿をビデオに収めながら言う。
アスカの水着は今回もセパレートだった。
上下とも、赤と黄色のツートンカラー。トップは肩紐がないタイプ。
胸の中心で布がねじってあるようなデザインになっていて、右が赤、左が黄色だ。
肩紐がないということは、胸がないと着られない。逆を言えば、胸があるという主張だろう。
ボトムは右が黄色、左が赤になっている。もちろん、ハイレグだ。
前回、レイに大胆さで負けたので、気合いを入れ直して買ってきたものだった。
アスカはケンスケに横を見せながら海を眺めて立っていたが、振り返ってジロッとケンスケを睨みながら言った。
「相田、見せ物じゃないんだから、そんなに撮らないでよ」
「水着ってのは見せるために着るもんじゃないのか?」
「うっさいわね。アンタに見せるために着てるんじゃないの!」
「じゃ、誰に見せるんだ?」
ケンスケはあくまでもアスカの水着姿をカメラに収めようと食い下がる。
これは間違いなく売れる。この前のとセットにして売ることにしよう。値段はいくらがいいかな……
夏休み明けから大儲けだぞ、これは。そんなことを考えながら。
「いいから! 今日は撮るのやめてよ」
「ちぇっ、わかったよ」
ケンスケは素直にビデオを止めた。
まあいい。望遠レンズも用意してあるし、遠くから撮ればいいだろう。明日もあるし。
それに、今夜だって、いろいろ撮るものはあるさ……
ケンスケは気を取り直して、別の被写体にカメラを向けた。
「ほい、綾波!」
「いえいっ! ピースッ!」
ファインダーに映ったレイは、嬉しそうに笑いながらVサインを出して見せた。
相変わらずこいつも絵になる……しかし、この前より大人しい水着だな。ケンスケはそう考えていたが、気にせずビデオを回し続けた。
レイの水着は前から見るとワンピース、後ろから見るとセパレートという、いわゆるモノキニ。
肩紐は首の後ろで結んでいる。鮮やかなグリーンが目に眩しい。
アスカとヒカリと一緒に買いに行ったときのものを、今回使うことにしたのだった。
どうやらシンジの視線を受けているようなので、レイは満足していた。
(さて、委員長は、っと……)
充分にレイを映したあとで、ケンスケはカメラをそっとヒカリの方に向けた。
ヒカリはぼんやりと海を眺めながら立っている。先程のショックからまだ立ち直れないのだろうか。
水着は紺のワンピースに、フレアスカートのような短いフリルが腰に付いたもの。スイミングキャップは相変わらず着けている。
かなり大人しい、しかし、ヒカリにしてみれば相応のデザインの水着だろう。
ま、この映像はトウジへのご祝儀として無償供与だな。
ケンスケはしばらくビデオを回した後で止めた。ディスク容量がもういっぱいだ。
「あ、母さんたちだ……」
海風で砂が入らないように気を付けながらビデオディスクを取り替えていたケンスケは、シンジの声で顔を上げた。眼鏡がキラリと光った。
あんな美人の水着姿を撮り逃してなるものか……ケンスケはすぐさまファインダーを覗いた。
シンジの言葉の語尾が弱くなってたな。これは何かショックを受けたときだぞ。ひょっとして……
(おおっ! これは!)
ケンスケは一瞬、場違いなものを見た気がした。これじゃまるで……
だが、ケンスケはビデオを回し続けた。
いや、いける。これはいけるぞ。ミサト先生やリツコ先生よりずっといける。
大ブレイク間違いなしだ。シンジ、俺はお前の友達でいることを心から嬉しく思うぞ……
そして他の者たちは、あっけにとられてその方向を見ていた。
そこにはビーチパラソルを持って、レースクイーンよろしくこちらの方に向かって歩いてくるユイの姿があった。
着ているのは一見、普通の黒いワンピースの水着のようだが、ウエストの部分がシースルーのようになっている。
そして黄色地に緑で細かい模様が描かれたパレオが腰に巻かれ、そこから長いしなやかな脚が覗く。それに編み上げのサンダル。
それらが年齢不詳の若々しい容姿と相まって、『大人の色気』を充分に醸し出していた。
「……ね、アスカ」
「何?」
レイがアスカの腕をつつき、小さな声で訊いた。
アスカも小さな声で答える。顔はユイの方に向けたままで。
「……おばさまって、歳、いくつだっけ?」
アスカはちらっとレイの方を見たが、また視線をユイの方に戻して、ぼそっと呟くように言った。
「……39歳」
「う……」
それを聞いて、レイは今さらのように驚いていた。
(ウソ……39歳なんて、そんなのあり得ない……何なの、この人……)
レイはユイの方をまじまじと見つめ直した。
若く見えるのは顔だけじゃなかったんだ。肌だってあんなにつやつやだし……
それにあのスタイル。余計なお肉なんて、全然付いてないように見える。
これが子供を産んだ40前の女の人の身体だなんて、信じられない。
スーパーモデルだって、こうまで体型を保つのは難しいはず……
ふと気が付くと、ヒカリが自分の方を見ていた。
ようやく我に返ったような顔をしている。ユイの年齢を聞いたのがショック療法になったのだろうか。
レイは暫しヒカリと見つめ合ってから、おもむろに頷き合った。
そして二人で小声でハモる。
「見えないよね……」
ため息をつく二人の横で、アスカはこちらに近づいてくるユイの水着姿をじっと眺めていた。
(やられた……こんな近くに敵がいるとは思わなかったわ……)
そして思わず拳を固く握りしめる。
そう、前回のプールでの雪辱を兼ねて、今回はシンジはおろか、ビーチの視線を一手に独占しようと思っていたのだ。
たった一週間だけだが、甘いものや水分を控え、エアロビもどきの運動までして身体を引き締め、万全の態勢で臨んだはずなのに。
ビーチに出たとき、対抗できそうな若い女性が少ないことまで確かめたというのに。
それなのに、優雅にこちらに歩いてくるユイの姿は、早くもビーチ中の視線を集めているのだった。
「お待たせ」
シンジたちの前まで来てユイは立ち止まると、にっこりと優しげに笑って見せた。
その立ち姿のどこにも隙がない。まるで本物のモデルのようだ。
5人があっけにとられている中で、ケンスケだけが喜々としてビデオ撮影を続けていた。
「いやー、似合いますね、その水着」
「あら、やだ、撮ってるの? ちょっと若作りしすぎたから、恥ずかしいのよ」
「そんなことないですよ。どう見ても20代にしか見えません」
「ふふ、お上手ね。ありがとう、相田君」
ユイはそう言って微笑むと、ケンスケのカメラの方に向かって腰に片手を当てるポーズをとった。
ケンスケは喜んでそれを撮りながら、なおもユイを褒めちぎる。
だが、他の者は声も出ない。ケンスケが言った『20代』という言葉が、あまりにもはまりすぎているのだ。
それはお世辞でも何でもなく、事実を見たまま述べているに過ぎなかった。
ビーチにいる誰もがそう思ってユイの方を見ていた。
だが、一人だけ別の方を向いている者がいた。シンジだ。
彼だけがユイの方を見ていなかった。彼はゲンドウの方を見ていた。ビーチに現れたときからずっと。
(父さん……何なんだよ、それ……)
シンジはゲンドウの水着を見て絶句していた。目が虚ろだ。
ゲンドウが着ていたのは、およそ100年ほども前に流行った、半袖半ズボンの縞模様の水着、通称『シマウマ』と呼ばれるものだったのだ。
ゲンドウはシンジが見ているのに気付くと、勝ち誇ったようにニヤリと笑ってサングラスを指で押し上げた。
ホテルの屋上にはとりたてて何もなかった。
最上階が展望大浴場になっているからだ。それに遊具施設などは地下にある。
ただ、ホテル中の水を賄う貯水タンクと、エアコン用の大きなファンが並んでいるだけだった。
強い浜風の吹くその屋上に、どこから入ったのか一人の少年が佇んでいた。
屋上を取り巻く白い柵にもたれかかり、風に銀色の髪をなびかせながら、彼はビーチの方を見ていた。その赤い視線で。
「彼らが……そうなのか」
手に持った一葉の写真の方に視線を落としながら少年は呟いた。
そしてもう一度ビーチの方を見る。
遙か眼下に見えるのは6人の子供と2人の大人。
その子供たちが写真の中の6人であることを確かめると、彼はおもむろに写真を二つに引き裂いた。
そしてそれを小さく千切っていく。
最後に掌を広げると、それらは季節外れの雪のように、風の中に舞い散っていった。
「じゃ、そろそろ行くとしよう」
少年はそう言うと、右手で髪をかき上げ、踵を返して屋上を後にした。
誰もいなくなった屋上を、風が吹き抜ける。
その風の中を舞う写真の切れ端は、いつまで経っても地上に落ちていこうとはしなかった。
海沿いを走る道にポツンと止まった青いスポーツカーの中で、男は大儀そうに一人呟いた。
「……動いたか」
長く伸びた髪の毛を後ろで括っている。少し無精ひげが伸びていた。
表情は穏やかだったが、かと言って隙がありそうで無い、不思議な印象の男だった。
彼は手に持った双眼鏡で、遙か彼方のホテルの屋上を眺めていた。
その中で小さな人影が動いたのを確認すると、一転して視線をビーチの方に向けた。
一人の男がビーチパラソルの下に座っている。
そのすぐ横では、6人の子供と1人の女性がビーチボールで遊んでいた。
車の中の男は、双眼鏡を覗きながら内ポケットから携帯電話を取り出し、親指で番号をプッシュしていった。
リダイヤル機能を使わないのが彼の癖だった。
いつ何時、この電話を落とすか奪われるかわからない。そんなところから足が付くのはごめんだ。
小さな呼び出し音が聞こえ、2コール目で相手が出た。
男は先程までの穏和そうな笑顔から急に厳しい表情になると、電話の向こうに向かって低い声で告げた。
「……バルタザールより、メルキオールへ……」
- To be continued -
おまけ
最後のシーンの、数分前のことだった。
「あなたもどうです? バレーボール」
準備運動代わりにやろうと子供たちから誘われ、ユイは腰に巻いていたパレオを外しながらゲンドウに言った。
ゲンドウはユイが持っていたビーチパラソルを地面に突き刺し、その下にレジャーシートを広げて座り込んだところだった。
その目の前にユイが立つ。図らずも水着姿を誇示する形になっていた。
ゲンドウはしばらくユイを見上げていたが、やがて顔を横にぷいと向けながら小さな声で言った。
「いや……」
「あら、一緒にやればいいのに」
「ああ、また後でな」
「どうしたんです? 今日は一緒に泳ぐんじゃなかったんですか?」
ユイはそう言いながら前屈みになり、両手を膝についてゲンドウの方を覗き込んだ。
ゲンドウはちらっと横目でユイの方を見たが、また視線を逸らしながらボソボソと呟いた。
「……立てんのだ」
「は?」
ユイは怪訝な表情になってゲンドウの横顔を見ていたが、やがて何かに気付くと、笑顔に戻って言った。
「そうですか。じゃ、また後で」
「ああ……」
ゲンドウの返事を聞いてからユイは背を伸ばすと、子供たちの方に向けて歩き出そうとした。
しかし、もう一度ゲンドウの方を振り向いて、悪戯っぽく微笑むと、小声で言った。
「あなた」
「うん?」
「今晩はダメですからね」
「む……」
困惑した表情のゲンドウを残して、ユイは子供たちの輪の中に戻っていった。
- To be continued だっちゅーの! -
新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。
Written by A.S.A.I. in the site
Artificial Soul: Ayanamic Illusions