ゲンドウは一人、ビーチパラソルの下に座っていた。
 そして波打ち際でバレーボールをして遊んでいる7人の男女を眺めていた。
 右手にはクーラーボックスから取り出したペットボトルが握られている。
 中身は凍らせた麦茶のようだ。
 それを少しずつ融かしてチビチビと飲んでいた。

 バレーボールをする男女は、周りの海水浴客の視線を集めていた。
 中高生くらいの6人の子供と、1人の若い女性。
 赤い髪や青い髪の女の子も可愛いが、褐色の髪の女性が専ら注目の的だ。
 その女性は、歳が半分くらいの子供たち同様、楽しそうにビーチボールを追いかけている。
 周りの人々は思ったであろう。『中学か高校の先生が生徒と遊びに来ている』と。
 子供たちのうちの一人がその女性の息子であることなど、誰一人として夢想だにしなかった。

 ゲンドウは座ったままじっと彼らを眺めているだけだった。
 正確には、ただ一人しか見ていなかった、と言うべきかもしれない。
 その人が、はしゃぎすぎて乱れた水着のヒップラインを直す仕草を見ながら、ゲンドウは不機嫌な表情を露わにした。
 手に持ったペットボトルを思わず握りつぶしそうになる。
 そして一人、何かブツブツと呟いていた。

「……他人に見せるな、もったいない……」

 その人の素肌の露出度が高いのがいささか気に入らないらしい。そしてそれを他人に見られることが。
 と、その時、ゲンドウの耳に微かな電子音が聞こえた。
 ゲンドウはバレーボールの輪から目を離すことなく、クーラーボックスを開けた。
 中では携帯電話が小さなメロディーを奏でている。
 ゲンドウはそれを取り出すと、スイッチを入れ、耳に押し当てた。
 そして電話の向こうの声を聞いてから、ゲンドウは静かに声を発した。

「メルキオール、受信中……」



 のチルドレン




「ふう、ちょっとはしゃぎすぎちゃったわ」

 ユイがゲンドウのいるビーチパラソルの下に戻ってきたのは、ちょうどゲンドウが電話を切った時だった。
 腿の辺りに砂が付いているのは、一度尻もちをついたためだ。
 それを手できれいに払い落としてから、ユイはゲンドウの横に座った。
 ゲンドウは携帯電話をクーラーボックスに戻したついでに、小さな薬瓶を取り出し、ユイに渡した。
 宝石のアクアマリンを融かしたような液体が、瓶の中で揺れている。
 ユイはそれを受け取ってキャップを開くと、ほんの一口だけ喉に流し込んだ。
 それからふうっと一息つくと、ゲンドウに向かって話しかけた。

「彼から連絡があったんですか?」
「ああ、目標が行動を開始したそうだ」

 ゲンドウは海の中に入っていく子供たちの方を見ながらそう言葉を返した。
 ユイも海の方に目をやると、また一口青い液体を飲んでから、少し沈んだ声で言った。

「……本当に、大丈夫なんですか? こんなことして……」
「問題ない。監視もつけてある」
「でも、こんなことが委員会に知られたら……」
「既に委員会と政府に話はつけてある。心配ない」
「そうですか……」

 ユイはそう言って手の中の薬瓶をじっと見ていた。青い液体が細かく揺れている。
 それから残っていた液体を一息に飲み干すと、空になった瓶をゲンドウに返しながらユイは言った。

「始まったんですね」
「ああ、全てはこれからだ」

 ゲンドウはクーラーボックスに空の瓶をしまうと、ユイの方を横目で見た。
 ユイは脚を横に崩して座り、物憂げな視線で海の方、子供たちを見つめている。
 それを物欲しげな目つきで眺めてから、ゲンドウは言った。

「ユイ」
「はい?」
「今晩……」
「ダ・メ・で・す!」

 ユイはまた明るい笑顔に戻ってそう言うと、パレオで脚を隠した。
 そして手を口に持っていってクスクスと笑っている。

「くっ……」

 それを見てゲンドウはガックリと肩を落とした。
 ユイは身体を前に倒し、ゲンドウの顔を覗き込みながら少し大きめの声で言った。

「それより、今日は泳ぐ約束でしょ?」
「あ、ああ、も、問題ない」
「みっちり教えてあげますからね」
「うう……」

 周りの人々は、この二人が夫婦であることなど、誰一人気付いていなかった。



 吹き抜ける潮風がすがすがしい。
 テトラポットに打ちつける波の音も涼しげだ。
 ケンスケは海水浴場の一番端、防波堤の上にいた。
 そしていつものようにビデオカメラを覗いていた。
 アタッチメントを付けて望遠にしてある。遠くの浜にいる人の顔まではっきりとわかった。

 ビーチパラソルの下で碇夫妻が何やら話し合っているのが見える。
 そしてその先の波打ち際にはシンジと、レイ、アスカがいる。
 どうやらレイとアスカがシンジに泳ぎを教えているようだ。
 もっとも、シンジの姿は泳ぎと言うより、溺れながら沈んでいくようにしか見えない。
 だが……

(ちっ、見失ったか……)

 ケンスケは舌打ちした。
 つい先程までその3人の近くにいたはずのトウジとヒカリがいない。
 同じように水際でパシャパシャとやっていたはずなのだが。

(さすがにこれだけ広いと、見つからないか……)

 遙か遠くに停泊中の空母の僅かな装備の変化も見逃さない自信はある。
 しかし、プライベートビーチとは言え、かなりの人がいる中から2人を見つけだすのは容易ではなかった。
 いつもならジャージ姿の男を探せばそれがトウジなのだが、今日は水着だし。
 ヒカリのスイミングキャップを目印にしようとしたが、見当たらない。かぶるのをやめたのだろうか。

(しょうがない、本来の目的に移るとするか)

 無論、ケンスケとて、ビーチを盗撮するためにこんなところまで来たわけではない。
 ここに来れば、新横須賀港が遙か向こうに望めるのだ。
 そのための望遠レンズである。もっとも、それ以外に目的に使えることも計画に織り込み済みだったが。
 しかし、ざっと見たところ、それほどいい『ターゲット』は見つからなかった。
 強いて言えば、シンジの母親がこの日一番の収穫だ。
 そして、ケンスケがターゲットをビーチから新横須賀の方に向けようとしたときだった。

「……何だあいつ?」

 ケンスケは思わず声を出していた。
 ファインダーの中には一人の少年が映っていた。
 銀色の髪、紅い瞳、中性的な顔立ち、人なつっこそうな笑顔。
 綾波の空色の髪を初めて見たときにも驚いたが、銀髪とはこれはまた……
 外国人だろうか。しかし、顔立ちはどことなく日本人っぽい。
 ちょうど顔がこちらに向いている。視線が合った。

(……え?)

 少年がこちらに向かって手を振った。まるでケンスケに対して振るように。
 周りの誰かに振ったのかと思って少しズームアウトしてみたが、それらしい人はいない。
 ということは……

(俺に向かって振ったのか? まさか……)

 ケンスケはカメラから目を外し、ビーチの方を見た。
 人がマッチ棒くらいの大きさにしか見えない。
 もちろん、誰が誰だか判るわけがない。
 不思議に思い、もう一度ファインダーを覗くと、まだ少年の姿はそこにあった。
 そして何かしゃべり始めた。ケンスケはズームで顔だけを捉えた。
 読心術ができるわけではないので、何と言っているかは解らなかったが……

 ひとしきりしゃべり終わると、少年は軽く手を挙げて振り向き、ファインダーからすっと姿を消した。
 ケンスケは慌ててカメラを振った。しかし、少年の姿はどこにもない。

(ありゃ?)

 ズームアウトしてみた。しかし、あの特徴的な銀髪が見つけられない。物陰にでも隠れたのか……
 しかし、周りには隠れられるようなところはなさそうだ。強いて言えば、人の後ろくらいだが。
 いやそれより、どうしてこちらが見ていることが解ったのか?
 まるで、こちらの動きが全て解っていたかのようだ。

(……何だったんだ? あいつは……)

 ケンスケはカメラから目を外し、暫し呆然と渚を見つめていた。



「なあ、イインチョ、まだ怒っとるんかいな」

 トウジとヒカリは浜辺を歩いていた。
 ちょうど、ケンスケがいる防波堤と逆の方向へ。
 ヒカリはスイミングキャップを手に持って丸めたり伸ばしたりして弄んでいる。
 トウジは、ヒカリの口が少し尖っているのを見て、盛んに機嫌をとっていた。

「そやから、つい口が滑っただけで……」
「…………」
「食いもんのことばっかり考えとったんが悪いのはわかっとるがな……」
「…………」
「今度からもっと注意するさかい、なあ……」
「……わかってるわよ」

 人工渚がだいぶ狭くなってきたところまで歩いてきたとき、ヒカリがやっと口を開いた。
 だが、相変わらずトウジの方を見ない。
 そして手を後ろで組んで歩いている。
 スイミングキャップを指に引っかけ、ブラブラとさせながら。
 しかし、ヒカリが一言しゃべったきり何も言わないので、トウジはもう一度声をかけようとした。

「なあ、イインチョ……」
「……アスカたちに言ってなかった私が悪いんだから」
「いや、まあ……なあ……」

 しかし、ヒカリの呟きに遮られて、トウジはそう言ったきり黙り込んだ。
 ワシは別に誰に知られても良かったんやけどなぁ。
 イインチョがどうしても、っちゅうから黙っとったんやけど……
 口が滑るかも知れへんで、て言うといたら良かったな。
 ……しかし、ホンマに女心ちゅうのはわからんわ。

 そして二人はとうとう渚の一番端に来てしまっていた。
 目の前には山の斜面がもう迫っている。下の方は岩場で、上には木が生い茂っていた。
 黒っぽい土と、人為的に入れられた白い砂が混じり合っている。
 波打ち際には緑色の落ち葉と打ち上げ花火のカスが漂っていた。
 ここまで来る人はほとんどいないからか、あまり手入れもされていないようだ。

 トウジとヒカリは、なぜだか共に無言で上の木を見上げていた。
 小さな波が打ち寄せる音だけが聞こえている。
 海風がガサガサと木の枝を揺らしていた。

「……なあ、イインチョ」

 トウジがそう言ってポンと肩に手を置いたので、ヒカリはビクッとした。
 ハッとしてトウジの方を見上げると、いつの間にか自分の方をジッと見ている。

「な、何?」
「一番端まで来てもうたみたいなやぁ……」
「そ、そうね……」
「誰もおらへんなぁ……」
「そ、そうね……」

 ヒカリは答えながら声が少し震えていた。
 誰もいない……つまり、二人きり……
 胸の鼓動が早くなったような気がする。
 トウジはまだヒカリの顔を見つめている。
 まさか……まさか、まさか……まさか!

「……イインチョ」
「は、はいっ!」

 思わず大きな声を出してしまった。
 声が少し裏返った。
 そして次のトウジの言葉を期待した……

「……そろそろ戻らへんか?」
「え?」
「昼飯時やし……」
「…………」

 トウジはもう一度ヒカリの肩を叩くと、踵を返して歩き出した。
 ヒカリは小さく口を開けたままその後ろ姿を見送っていたが、やがて大きなため息をついてトウジの後を追った。
 ……私の、バカ。
 鈴原が、そんなことしてくれるわけ、ないに決まってるじゃない……



「洞木、ヒカリさんかな?」

 ホテルに向かってしばらく歩いたところで、ヒカリは後ろから声をかけられた。
 その声にトウジも振り向く。
 後ろには銀色の髪の少年が、にこやかな笑顔を見せて立っていた。
 黄色いTシャツに、下はビキニタイプの水着。

「……何や、オノレは。何か用か」

 トウジが少しムッとした声で少年に聞き返す。
 表情にも警戒心がありありと見えていた。
 浜辺で女に声をかけることなど、硬派を自称する彼にとっては許されない行為なのに違いない。
 ヒカリも急に名前を呼ばれたせいか、少年の方から一歩身を引いてトウジの後ろに隠れようとしていた。

「そんなに怖い顔しないでくれよ。落とし物を届けに来ただけさ」

 少年はそう言って右手をひょいと挙げた。
 握られていたのは、ヒカリの白いスイミングキャップだった。

「あ、それ、私の……」

 ヒカリは思わず声を出した。
 今になってやっとキャップを持っていないことに気付いた。
 渚の端で鈴原に声をかけられたときに落としてしまったのかしら。気が動転したせいか、憶えてない……
 少年がすっと前に差し出したキャップを、トウジが代わりに受け取る。
 それから少年は一際嬉しそうに笑うと、戻した手を腰に当てて言った。

「名前が書いてあったから、ホテルに届けても良かったんだけど、この辺りにいたのは君たちだけだったんでね」
「そ、そらぁ……どうも……」

 トウジはあっけにとられていた。
 最初に抱いた警戒心が嘘のように消えていく。
 ワシはにやけた男が大嫌いやったはずなんやがな。調子の狂う奴やで……

「持ち主に返って良かったよ。それじゃあ」

 少年はそう言ってひょいと手を挙げると、トウジの脇をすり抜けてホテルの方に向かって歩いていった。
 トウジとヒカリは振り返って少年の姿を見送る。

「あの!」

 立ち去りかけた少年に向かって、ヒカリが声をかけた。
 少年は振り返ると、後ろ向きに歩きながら二人の方を見ている。

「あの……どうもありがとう……」

 ヒカリがそう言うと、少年はまた軽く手を挙げてから、前に向き直って歩いていった。

「……なあ、イインチョ」

 しばらく少年の後ろ姿を無言で見送っていたトウジが声を発した。

「えっ?」
「ワシら、ここまで戻ってくるとき、誰にもすれ違えへんかったよな」
「えっ……ええ……」
「ほな、あいつ、どこにおったんや?」
「えっ……」

 言われてみれば、確かに……
 渚の一番端から戻ってきたのだから、自分たちより後ろにいるには、どこかですれ違うしか……
 だが、そんな人影はいなかった。どこかに隠れられるような場所があったとは思えない。
 海から来たのなら、Tシャツが濡れているはず。では、どこから……
 二人はしばらくその謎から抜け出すことができなかった。



 プライベートビーチには『海の家』のような飲食店が出ているはずもない。
 彼らはホテルのレストランにいた。
 ガラス張りの壁の向こうには、陽光輝く渚が広がっている。
 エアコンのよく利いたレストランで、彼らの昼食はそろそろ終わろうかというところだった。

「ケンスケ、何を見とんのや」

 一足先にハンバーグ定食を食べ終わってビデオを見ているケンスケに、トウジは訊いた。
 トウジはまだヒレカツを口に頬張っている。
 ちなみに、彼の前にだけ皿の数が異様に多い。
 昼食もクーポンだからタダ、とユイが言ったので、トウジが定食を2つも頼んだからだ。
 しかし、こんな暴挙にもヒカリは何もトウジに注意しなかった。
 たぶん、彼女の頼んだスパゲティにトウジが手を着けることを恐れたのだろう。

「ん? ああ……さっき、変な奴がいたんでな」
「変な奴?」
「ああ、向こうの防波堤から望遠で覗いてたら、こっちに向かって手を振った奴がいたんだ」

 そう言うケンスケを、アスカはテーブルに頬杖をついてジト目で見ていた。
 女性陣だけでおしゃべりしながら食べてたので、つい先程ビーフシチューセットを平らげたところだ。

「相田、またそんなことやってたの? やらしいわね」
「ち、違うよ。あそこから新横須賀が見えるんだ。それを撮りに行ったついでに、ちょっと……」
「ふーん、どっちがついでなんだか」

 少しどもったケンスケに、アスカが鋭くツッコミを入れる。
 ケンスケは、両方とも目的だったなんて言えないので黙ったままだ。

「どんなやっちゃ。ワシにも見せてみい」

 トウジはそう言ってケンスケのビデオカメラについている4インチくらいの液晶ディスプレイを覗き込んだ。
 まだ口はモグモグとさせたままだ。

「な、変だろ。望遠なのに、カメラ目線でこっちに向かって、何かしゃべってるんだ」
「お、こいつは……」

 トウジが少し驚いた声をあげた。
 その声に、泳ぎの練習ですっかり疲れてぐったりと椅子にもたれていたシンジも興味を引かれて、ケンスケの手元を覗き込む。
 そこでは銀色の髪の少年がにこやかに微笑みながら何かを話していた。

「へえ……髪の毛、銀色なんだ」
「銀色?」

 シンジの言葉に、レイが反応した。
 彼女自身、空色の髪の毛なので、少し変わった色の髪を持つ人物には興味があるのだろう。
 もちろん、ヒカリも憶えがあるので声こそ出さなかったが、気になっていた。
 だが、ユイの顔色が僅かに変わったことには誰も気付かなかった。

「それに、目が赤いんだ」
「私と一緒じゃない」
「レイの親戚?」
「知らない、銀髪の子なんて」
「ワシもさっき、こいつにオうたで」
「へえ、トウジも?」
「そや。なあ、イインチョ、これ、この銀色の奴、さっき向こうの端っこに行ったとき……」

 トウジはそう言ってケンスケの手からビデオカメラを奪い取り、ヒカリに見せようとした。
 しかし、ヒカリは胸の前で両手をパタパタと振っている。
 トウジは不思議そうにヒカリの様子を見るばかりだった。

「ふっ、鈴原……ヒカリと一緒に、どこでその子に会ったって?」
「え? いや、そらぁ、その……」

 アスカにツッコマれてまたしても間違いを犯したことに気付くトウジ。

「ビーチの端に行って、何してたのよ」
「な、何やその、ちょいと散歩に……」
「あら、そう。道理で姿が見えないと思ったわ……ヒカリ?」
「な、何?」

 急にアスカに視線を向けられて、ビクッとなるヒカリ。
 バカバカ、もう、鈴原のせいよ……

「何があったのか、後でゆっくり聞かせてもらうわ」
「な、何にもなかったわよ!」
「何をそんなに焦ってるのよ?」
「べ、別に……」
「怪しいわねー」
「違うったら!」

 じゃれ会う二人の横で、レイはトウジがテーブルの上に置きっぱなしにしたビデオを熱心に見入っていた。
 リプレイボタンを押したりして、何度も再生しているようだ。
 自分と同じ赤い目と言われたことが気になっているらしい。

「ねえねえ、相田君」
「ん? 何だ?」
「これ、何て言ってるの?」

 その声に、アスカとヒカリもじゃれるのをやめて思わず画面を覗き込む。
 レイはビデオカメラを横倒しにして、液晶ディスプレイを天井に向けた。
 そして子供たち6人がそれを覗き込んだ。

「わからないんだよ。何度も見てりゃ、そのうちわかるんだろうけどな」
「それにしても……何か、ほんとにこっちに話しかけてるみたいね」
「冗談言うなよ。俺の視線に気付いたって言うのか? あんな遠くから?」

 ケンスケが窓の外を振り返った。
 みんなもつられてそちらを見る。
 確かに、防波堤は数百メートルは向こうにあった。
 動物並みの視力がなくては人の顔も見分けられないような距離で、視線に気付くわけがない。

「何者なんや、こいつ。ワシらとオうたときも突然現れよったで」

 すっかり開き直ったトウジがそう言った。

「シンジたちは見かけなかったのか?」
「いや、僕は……泳いでたから……」

 本当は泳ぐ練習をさせられていただけなのだが、見られていないと思ってシンジはそれを言わなかった 。
 だが、ケンスケが見ていたことには気付いていない。
 また一つネタを仕入れたな。ケンスケは眼鏡を指で押し上げた。

「アタシもあんまりビーチの方は見てなかったし……おばさまたちは、見ませんでした?」
「いいえ、ちっとも。それに、海の方を見ていたから」

 アスカの質問に、ユイはにこやかに答えた。
 先程顔色を変えたことをこれっぽっちも感じさせずに。
 ゲンドウはテーブルに肘を突いて、手で口元を隠したまま微動だにしない。

「単なる変な奴なのかな」

 ケンスケはそう言って、ビデオカメラをしまい込んだ。
 これ以上見ていても埒があかない。
 しかし、こいつは結構美少年系の顔じゃないか。
 こういうのも今後売れ筋になるんじゃないかな……
 ついそんなことを考えてしまうケンスケだった。



「ぶはっ! ……はぁはぁ、ああ苦しかった……」

 シンジは立ち上がると、付けていた水中眼鏡を額の方に押し上げた。
 この辺りはまだ水深も浅く、腰のところまでしかない。
 シンジは顔に付いた水滴を拭うと、ハアッと一息ついた。
 どうして僕がこんな目に遭わなきゃいけないんだ……

「ダメじゃない、シンジ! 5メートルも進んでないわよ!」

 言われてシンジはゆるゆると振り返った。
 なるほど、5メートルばかり向こうにアスカがいてシンジの方をジッと睨んでいる。
 その横にはレイが立っていて、ニコニコと笑いながらシンジを見ていた。
 昼食の後もずっと、シンジはアスカの特訓を受けているのだ。
 ケンスケやトウジが近くにいれば、そちらに逃げ込むことができるのだが、ケンスケは午後は新横須賀を撮りに行くとはっきり宣言してから防波堤へ。
 トウジもいつの間にやらヒカリと共に姿が消えていたのだった。

 シンジも、まったく泳げないというのではない。水泳の授業でも一応習うのだから。
 ただ、平泳ぎもどきなら何とか水に浮いていられるのだが、足が立たない沖の方へは不安で行けないのだ。
 しかし、シンジと一緒に泳ぎたいアスカが、本格的に練習しようと言い出したのだった。
 『人間は水に浮くようにはできてないんだよ』というシンジの反論は却下された。
 曰く『塩水の中なら浮きやすいの!』と。

「でも……波があって、うまく息継ぎできないんだよ」
「足の掻き方が悪いのよ。あおり足になってるって、何度も言ってるじゃない!」
「わかんないよ、そんなこと言われても……」
「さっき見せてあげたでしょ!」
「でも……」
「まあまあ、アスカも碇君も落ち着いて」

 そこでようやくレイが仲裁に入った。
 彼女も先程からいろいろとシンジにアドバイスしてくれている。
 しかし、シンジとしては、アスカの教え方よりもレイの方がわかりやすかった。
 自分で泳ぎ方を憶えたアスカと、スイミングスクールに通ったことがあるレイとの差だろうか。

「落ち着いてられないわよ。今日中にそこそこ泳げるようにはなってもらわなきゃ」
「無茶だよ、そんなの」
「はいはい、だからね」

 レイはまたシンジとアスカを制しながら言う。
 二人がようやく黙ったのを見て、レイは一つの提案を持ち掛けた。
 先程からシンジの練習を見ながら考えていたのだ。

「ここは、手取り足取り教えてあげるっていうのはどうでしょう?」
「手取り足取り? 何それ」

 アスカが怪訝な顔で言った。

「だからね、碇君の手足を取って、直接動かし方を教えてあげるの。見てるだけじゃ、わかりにくいのかもしれないから」
「ふーん……」

 アスカにしてみれば、見せたのと同じことをすればいいのに、どうしてそんなことまで、と思ったのだろう。
 しかし、世の中彼女と同じように、考えたとおりに手足が動いてくれる人ばかりではない。
 シンジは特に考えどおりに動かない部類の人間だった。

「じゃ、アスカは碇君の手を持ってあげて。最初は私が足の動きを教えるから」
「はいはい。さ、シンジ、手を持ってあげるから、水に浮きなさい」
「う、うん」

 シンジとしては、女の子二人に手取り足取り教えてもらうなんて、しかもみんなが見てる前で、という恥ずかしい思いもあったのだが、泳げないのも情けないので、どちらかを選択するしかない。
 そして今の場合は前者しか選択肢がないのと同じだった。

「もうちょっと水深がある方がいいかな。こっちに来て」

 レイに言われるままにシンジと深みの方に移動していった。
 ちょうど胸の辺りまで水が来るくらいだ。
 それからおずおずとアスカの手を取ると、水の上にうつ伏せになった。もちろん、顔は上げたままだが。

「はい、それじゃ、足を動かしてあげるからね」

 そう言って、レイがシンジの足先を手で掴んだ。
 途端にシンジが足を引っ込める。

「わっ、くすぐったいよ、綾波……」
「あはは、ごめんごめん。でも、ちょっと我慢して」

 レイは再びシンジが差し出した足の甲の辺りを持って、脚をピンと伸ばさせた。
 しかし、顔を上げているせいか、腰の辺りが沈みがちになる。

「足首の使い方が大事だから、憶えてね。はい、力抜いて……まず足を引くときは、こぉーんな感じで……」

 そう言ってレイがシンジの脚を折り畳んでいく。
 あれっ、とシンジは思った。カエルが座ってるみたいな形になるんじゃないんだ……
 平泳ぎをそういうものだと思っていたシンジは、少なからず驚いていた。

「で、水を蹴るときは足首を曲げて、こぉーします。はい、もう一回……」

 そうしてレイの手で直接脚の動きを教えてもらう。
 二、三回繰り返しただけで、何となく感覚がつかめてきた。
 アスカの脚の動きをちゃんと見てなかったのもあるけど、やっぱりこの方がわかりやすいや。
 シンジは無性に感心していた。

「はい、じゃあ、碇君が自分で動かしてみて、足持っててあげるから」
「う、うん」
「はい、いきましょう……いーち、にっ……いーち、にっ……」

 なるほど、言われたとおりに動かすと、水の抵抗が全然違う。
 推進力でアスカが押されて後ろによろけそうになっているのが解った。
 シンジは俄然楽しくなり、夢中で足を動かしていた。

「そうそう、いい感じ、はい、いーち、にっ……いーち、に、あっ!」
「えっ、ど、どうしたの、綾波……」

 突然レイが小さく悲鳴を上げて、手を離してしまった。
 慌てて立ち上がった途端、シンジはアスカに頭をバシッとはたかれていた。

「な、何すんだよ、アスカ!」
「バカシンジ! アンタがレイの胸蹴ったの!」
「え? ええっ!?」

 振り返ると、レイが苦笑いを浮かべてシンジの方を見ている。
 胸の前を手で隠しながら。
 じゃ、さっき足先に当たった柔らかい感触は、もしかして……

「うああっ! ご、ごめんっ!」
「あはは、ちょっと、ちょっと当たっただけだし、大丈夫大丈夫」
「いやっ、でもっ、そのっ……と、とにかく、ごめんっ!」

 シンジは動揺を隠せず、ひたすら頭を下げて謝った。
 それを見てレイの紅い瞳が怪しく輝く。

「えへへ、じゃあ、責任取ってくれる?」
「え? 責任って?」

 シンジが頭を上げると、レイが悪戯っぽい目でシンジの方を見ていた。

「だって、胸を触られたんだから、もう他の人のお嫁さんになんて行けないわ。碇君に私をもらってもらわなきゃ!」
「えっ、それって……」
「レイッ! 何、バカなこと言ってんのよっ! 手で触ったんじゃなくて、足が当たっただけじゃない!」
「いやーん、そんなの関係ないわ。碇君に乙女の純潔を奪われちゃったよォ、もうお嫁に行けない、しくしく……」
「いやっ、それは、その……」
「今時そんなこと通用するワケないでしょっ! バカシンジも真に受けてるんじゃないっ!」

 そして、シンジの頬にいつものきつい奴を一発。
 その音は防波堤にいたケンスケにも聞こえたという……



 息子が泳ぎを教えてもらっている様子を、ユイとゲンドウは浜辺から見ていた。
 相変わらず、二人ともパラソルの下に座ったままだ。
 レイのふざける様子をニコニコと笑いながら見ていたユイが、ゲンドウを横目で見ながら話しかけた。

「あなたにも、あんな風にして教えてあげましょうか?」
「……勘弁してくれ、ユイ……」

 ゲンドウはそのまましばらく体育座りの形を崩すことはなかった。



 シンジはただ一人、波打ち際に座り込んでいた。
 水泳のレクチャーが終わったのはいいが、もうかなり疲れてしまったのだ。
 泳ぎというのは、下手な人ほど体力を消耗してしまうと言う。
 その例に洩れず、シンジもたったの小一時間でへとへとに疲れてしまった。
 耐えきれずにギブアップを宣言すると、やっと特訓から解放された。
 もう少し早く言っておけば良かった……シンジは後悔していた。

『それじゃあ、アタシたちはちょっと沖の方まで泳いでくるから、アンタは適当に休んで、それからまた練習してなさい』

 反対に、教えている者はまったく疲れないらしい。
 アスカはそう言い残すと、レイと共に沖の方に泳いでいった。
 数百メートル向こうに、赤と白に塗り分けた標識が浮かんでいる。
 遊泳区域を示しているのだが、あそこまで行く気なのだろうか。
 明日はあの辺りまで連れて行かれるんじゃないだろうか……
 シンジは気が遠くなりそうだった。

「はあ……」

 思わずため息が出た。
 打ち寄せる波で、シンジの脚の周りの砂が削り取られていく。
 水着の中に砂が侵入している感覚があった。
 一休みしたし、また練習しようかな。
 アスカたちが戻ってきたとき、身体が乾いてると、練習してないのがバレちゃうし。
 何となく感覚がつかめてきたから、もう少しやればうまくいくかもしれないし。
 その前に、ジュースでも買いに行こうかな。結構喉が渇いた。
 母さんにお金もらわなきゃ。そろそろ立とう……
 そんなことをシンジが考えていたときだった。

「海はいいねぇ……」

 シンジのすぐそばで、誰かがそんなことを呟いた。
 無意識に、その声がした方を見上げる。
 別に話しかけられたわけでもないのに、どうしてだろう。そう思いながら。
 そこには、一人の少年が立っていた。
 銀色の髪が潮風に揺れている。端正な横顔。腰に手を当てて、ちょっとポーズを取っているような立ち姿。
 あれ? シンジは思った。
 もしかして、さっきのビデオの子?

「海は心を潤してくれる。母なる水、生命の源だよ」
「…………」

 少年は独り言のようにそう嘯いた。
 他の誰に話しかけているのでもない。ただ近くにシンジがいるだけだった。
 シンジは無言でそれを聞いていた。
 ……やっぱり、変な子なの?
 しかし、何となく立ち去りがたく、シンジはその場にじっと座っていた。

「そう思わないか? 碇シンジ君」
「えっ?」

 少年が自分の名を呼びながら顔を少しこちらに向けたので、シンジは驚いて声を出した。
 どうして知ってるんだ、僕の名前を……
 屈託のない笑顔を浮かべた少年の顔を、シンジは恐る恐る見上げていた。

「あの……どうして僕の名前を……」
「彼女たちはそう呼んでいたよ」
「えっ、彼女って……」

 少年が沖の方に目を向けたので、シンジもつられてそちらの方を見る。
 水平線の彼方に、入道雲が浮かんでいるのが見えた。

「さっきまで君と一緒にいた女の子のことさ。一人は君を『碇君』と、もう一人は『シンジ』って呼んでたよ」
「あ……うん」
「偶然耳にしただけだけどね。違うのかい?」
「えっ……いや、合ってるよ」

 シンジはもう一度少年の方を見上げた。
 少年は穏やかな顔つきでシンジの方を見つめている。
 紅い瞳が印象的だった。
 シンジはなぜだか警戒心が薄れていく自分を感じていた。
 ……そうか、綾波に似てるからかも……

「そう、良かった。間違っていたら、どうしようかと思ったよ」

 少年はそう言って、また微笑んだ。
 裏心など一切感じられない無邪気な笑顔に、シンジも思わず表情が緩んだ。

「一人で暇そうだったから、声をかけてみたんだけど、気に障ったかい?」
「えっ、いや、別に……」
「そう……僕はカヲル」

 少年はその紅い瞳で、シンジの目を見ながら言った。

「渚カヲル。よろしく、碇シンジ君」



 レイとアスカは、沖のブイのところに来ていた。
 一般の遊泳客はここまでしか来られない。その先は遊泳禁止区域で、ボートがいくつか浮かんでいるだけだ。
 もっとも、この辺りまで泳いでくる客も、ほとんどいない。
 二人は、ブイをつないでいるワイヤーに腰掛けていた。
 赤と白の標識を挟んで左にレイ、右にアスカが座っている。
 ビーチが遙か遠くに見えていて、人の姿が米粒のようだ。

「アスカも、もう少し碇君に優しくしてあげればいいのに」

 レイは脚を左右交互に曲げたり伸ばしたりして、うまくバランスをとりながらワイヤーの上に座っていた。
 ワイヤーには藻が付いていたから、後でお尻を洗わなきゃ。そんなことも考えながら。

「ダメダメ、シンジに甘い顔しちゃ。ビシッと鍛えてやらなきゃいけないんだから」

 アスカは濡れた髪に手櫛を通しながら答える。
 この時ばかりは自慢の髪も、水を吸ってただ重いだけだ。

「でも、ちょっと厳しすぎない?」
「いいの。幼なじみのアタシだから、厳しくできるのよ。そうしないと、すぐにアタシに甘えて来るんだから」
「ふーん。出来の悪い弟を持った姉ってところ?」

 レイは首を傾げながらそう訊いてみる。
 アスカは少し上の方を見て考えながら言った。

「うん、そうね。そんな感じね」

 じゃあ、碇君はどう思ってるのかしら?
 レイは考えていた。
 アスカと同じように思ってるのかな、姉と弟の関係みたいな。
 でも、歳の近い姉弟じゃなくて、双子っていう感じの仲よね、二人って。
 私はこの二人と、どんな関係なのかしら? どんな関係でいたいのかしら……?

「でも、碇君ってナイーブそうだから、傷ついたりしない?」
「平気よ。あいつ、鈍感だから。それに、アタシも本気でバカって言ってるワケじゃないもの」
「なるほど、姉の弟に対する愛情みたいなものね」

 愛情……でもそのうち、姉弟の愛情が、男女の愛情に変わることだって……
 よくあるじゃない、小説とかで、そういうの。

「そ。シンジもそこんとこがわかってるから大丈夫なの」
「そうね、アスカを頼りにしてるとこあるもんね」
「だから頼りないのよ、あいつ」
「うーん、確かに、ちょっとね。でも、いいんじゃない、優しいし」

 レイはそう言って笑ったが、アスカは顔の前に立てた指を左右に振りながら言った。

「男は優しいだけじゃダメなの。厳しさも持ってなきゃ」
「あはは、で、身をもって厳しさを体験させてるわけね」
「そういうこと。あんまり進歩してないけどね」
「ふーん、そうやって少しずつ、理想に近付けていくのね」

 レイは少し、喉が渇いているような気がした。
 ……私、何を訊こうとしてるの? アスカに……

「な! ……な、何バカなこと言ってるのよ! 何でシンジをアタシの理想の男にしなきゃいけないのよ!」
「だってさっき、愛情って言ったじゃない」
「それはアンタが言ったんでしょ! だいたい、姉弟の愛情と男女の愛情は別よ」

 ……ほんとかしら。レイは思った。
 私、何を心配してるの?
 アスカの言ってることが、嘘かもしれないって?

「ふーん、じゃ、アスカの理想のタイプって、どんなの?」
「そうね、まあ、贅沢は言わないけど……他人に優しくて、自分に厳しくて、強くて、かっこよくて、男らしくて、頭が良くて、スポーツ万能で、おしゃべりじゃなくて、軽くなくて、アタシのことだけ考えてくれて……」

 レイは思わず苦笑いする。
 しかし、アスカの『数少ない』注文がまだまだ続くかに思えた、その時だった。

「よう、彼女たち、こんなとこで何してんの?」

 その声にレイとアスカが振り返ると、いつの間にか一艘のボートが背後に近づいていた。
 ボートには二人の若い男が乗っていた。
 一人はロン毛を金色だか茶色だかに染めていて、もう一人は短くした髪をハリネズミのように逆立たせている。
 二人とも真っ黒に日焼けしていて、サングラスをかけていた。
 おかげで人相はよく判らなかったが、口元に浮かんだにやけた笑いがアスカの癇に障ったらしい。
 不快感を隠そうともしないで二人を睨み付けている。

「何よ、アンタたち。あっち行ってよ」

 街中でもアスカはよくこんな風にして声をかけられる。
 だが、ナンパはアスカのもっとも嫌う行為だ。
 その時も同じように言葉で撃退するのだが、今日は少し事情が違っていた。
 まず、水着なのであまりにも無防備だ。
 それに、海の真ん中なので、走って逃げるわけにもいかない。
 レイはヒヤヒヤしながらも、アスカの真似をして精一杯男たちを睨んでいた。

「ひゅう、勇ましいねぇ」
「そんなにカッカすんなよ。何してるか訊いてるだけじゃないかよ」

 男たちもそれを知ってか、いやにぞんざいな口の聞き方をする。
 ボートはすぐ後ろまで来ていた。

「うっさいわね、アンタたちには関係ないでしょ!」
「固いこと言うなよ。ビーチまで乗せてってやるから、俺たちとお話ししようぜ」
「要らないわよ! レイ、行こ!」
「う、うん」

 アスカはワイヤーから降りると、浜に向かって泳ぎ始めた。
 レイもすぐその後に続く。
 しかし、相手はボートだ。すぐに追いついてきて並びかけてしまった。

「けっ、無理だよ、ボートに勝てるわけねえじゃん!」
「よう、乗せてやるって言ってんじゃねえかよ!」

 男たちの言葉がだんだんと乱暴になってきた。
 そして楽々と二人を追い越すと、進路をふさぐようにしてボートを横に止めた。

「何すんのよ、バカ!」
「おとなしくボートに乗りゃ、ビーチまで連れてってやるって言ってんだろ!」
「要らないって言ってるでしょ!」
「そうかい、それじゃいつまでもそこで泳いでな」
「くっ……」

 アスカは悔しさに唇を噛みしめた。
 レイが心配そうな声で訊いてくる。

「アスカ、どうしよう……」
「どうしようって言っても、これじゃ……」

 ボートをくぐって泳いでいくことはできる。
 だが、またすぐに追いつかれてしまうのは目に見えている。
 こちらはどんどん体力を消費していくだけだ。
 今の状態だって、いつまで持つか……
 でも、バカ男たちの言いなりになるなんて、絶対いや!

「やあ、二人とも、こんなところにいたのかい」

 突如、爽やかな声が聞こえた。
 ボートの男たちがレイとアスカの向こうを見遣る。
 二人も、つられて振り向いた。
 そこには、銀色の髪の少年が浮いていた。ビーチボールを胸に抱えながら。

「ひどいな、僕を置いていくなんて」

 少年はそう言ってレイとアスカに笑いかけると、すーっと寄ってきて二人の間に入った。
 突然のことに二人ともあっけにとられて声も出ない。
 何なの、こいつ?

「何だよ、お前は」
「俺たちが先に声をかけたんだぜ。引っ込んでな」

 ボートの男たちが突然現れた邪魔者に向かって罵声を浴びせる。
 遂に正体を現した、という感じだ。
 だが、少年はそんな脅しに怯える様子をひとかけらも見せず、悠然としている。

「何だとはひどいな。彼女たちは僕の友達なんだよ。そうだろ? レイ君、アスカ君」

 少年はそう言うと、レイとアスカの顔を交互に見てニコリと微笑んだ。

(どうしてこいつ、私たちの名前知ってるの?)

 アスカは一瞬そう思ったが、咄嗟に口裏を合わせることにした。
 こいつの方があいつらよりはまだ安心だわ。それに、一人だし。

「ごめんねー、ちょっと二人で話したいことがあってー。ね、レイ」

 アスカはそう言ってじっとレイを見た。そして視線だけで合図を送る。
 ……あんたも合わせて。一瞬でもバレるような演技するんじゃないわよ。
 するとレイは苦笑いをしながら、銀髪の少年に向かって話しかけた。

「そうそう、ちょっと聞かれたくなかったから……」
「やれやれ、そういうときは先に一言断ってからにして欲しかったな」
「えへへ、ごめんごめん」

 そう言ってペロッと舌を出す。
 あら、なかなかイケるじゃない。アスカは妙に感心してしまった。
 さすがに、いつも冗談とも本気とも付かない悪ふざけをやってるだけあるわね。

「そういうわけで、そろそろ僕たちは帰りたいから、そこを通してくれないかな」

 少年はそう言ってボートの上の二人を見上げ、ニコニコとしている。
 だが、男たちの方も諦めようとしない。

「お前一人で帰れよ。彼女たちは俺たちが送って行くからよ」
「いいカッコしてんじゃねえよ、このガキ」

 しかし、男たちの悪態にも、少年は笑顔を崩すことなかった。

「弱ったなあ……じゃあしょうがない、こうしよう」

 少年はそう言ってニコッと笑うと、ボートの方にすっと近づいていった。
 男たちは怪訝そうに少年を見ている。
 だが次の瞬間、少年は笑顔のまま、船縁に引っかけてあったオールをひょいと外してしまった。

「あっ!」

 ボートの上の男たちが驚いたときにはもう遅かった。
 オールは船縁のU字型の金具に引っかけてあるだけで、簡単に外れるようになっていたのだ。
 そして、オールから手を離していた一瞬の隙を衝かれたのだった。

「オールを返すから、通してくれないかな?」

 少年はそう言って一際楽しそうに笑った。
 それからレイとアスカの方に振り返ると、にこやかに告げた。

「それじゃあ、行こうか」
「…………」
「…………」

 レイとアスカは顔を見合わせて頷き合うと、ボートを回り込むようにして泳ぎ出した。
 その後をゆっくりと少年が付いていく。

「おい! 待てよ、ちきしょう!」
「この野郎、オールを返せ!」

 ボートの男たちは口々に叫び、一本のオールでボートを漕ぎ始めたが、ボートは真っ直ぐ進まずにどんどん曲がっていく。
 慌てて左右交互に漕ぎ始めたが、まったくスピードが出ない。
 レイとアスカはボートに向かってアカンベをすると、一目散にビーチへ向かって泳ぎ始めた。



 ビーチまでもう少し、というところまで来て、二人はやっと泳ぐスピードを落とした。

「はあ、びっくりしたね、アスカ」
「ほーんと、さいてーね、あいつら!」

 二人は立ち泳ぎをしながら沖の方に振り返ってみた。
 どうやらボートはついてきていないようだ。
 今度からは護衛付きの方がいいわね。でも、シンジじゃダメかも。頼りないから。
 アスカがそんなことを考えていると、レイがキョロキョロと辺りを見回しながら言った。

「えーっと……あれ?」
「どしたの、レイ?」
「さっきの子は?」
「え? あれ?」

 取り敢えず少年に礼を言おうとしたレイだったが、いつの間にか少年の姿が消えているのに気付いた。
 側にはビーチボールが一つ、プカプカと波間に漂っているだけだ。
 アスカも周りを見て銀髪を探す。
 しかし、少年の姿はどこにもなかった。

「あれって……ビデオに映ってた『変な奴』よね?」

 しばらくしてアスカがポツリとそう呟いた。

「あ、うん……」

 レイも虚ろに言葉を返す。
 それから二人は狐につままれたように顔を見合わせた。

「何だったのかしら、あいつ……」
「さあ……」

 そう言ってから二人はビーチボールに目を移す。
 ビーチボールは風に煽られ、ゆっくりと浜辺の方に動いていくだけだった。



「さあ、メシや、メシ! 今日はガンガン食うでぇ!」

 一行がホテルに引き上げたのは、夕方もかなり暗くなってからだった。
 この日は特に暑かったので、かなり遅くまで泳ぐことができたのだ。

「トウジ……どうしてそんなに元気なの?」

 シンジはヘトヘトに疲れ切っていた。
 水泳の特訓で充分に疲れている上に、『ビーチフラッグズ』というゲームをやらされたり、砂浜に穴を掘って埋められたりしたのだから。
 食事が済んで風呂に入ったら、そのまま寝てしまいたい気分だった。
 しかし、既に『今日は夜中までテッテー的に遊ぶわよ!』というアスカのお達しがあったので、どうやって逃げようか頭を悩ませているところだった。

「その前に、先にお風呂に入った方がいいんじゃないかしら。温水シャワーだけじゃ十分汚れが落ちてないし、疲れもとれるでしょう」
「そら、ええですなぁ、一風呂浴びてさっぱりした後のメシはまたうまいでぇ」
「あたしも賛成! 髪も洗わなきゃいけないし」

 ユイの提案に、トウジとアスカが同意した。
 もちろん、他の者も異論はない。
 シンジはどっちが先でもいいから早くしよう、と思っただけだった。

「それじゃ、男性はそっちの部屋、女性はこっち。食事は40分後、部屋で待っててね」
「へいへい、ほな」
「もっとゆっくりお風呂入りたいなー」
「後でまた入ればいいんじゃない? 24時間らしいから」

 そして男性と女性に別れ、それぞれ部屋に入っていく。

「4人部屋か、じゃあ、たぶん和室だな」

 ゲンドウが鍵を開けている間に、ケンスケが呟いた。
 そしてドアが開くと、トウジが一番に飛び込んでいく。

「障子か、やっぱり和室やな……おお、これは……」

 靴を脱いで上がり込んだトウジが障子を開けると、そこは見事な和室だった。
 広さは18畳。奥には板張りの小さな部屋があり、そこから海が見渡せるようだ。
 その間にある欄間の彫りがまた美しい。
 壁には床の間があり、違い棚には一刀彫りの熊が置かれている。
 部屋の中央に鎮座している机も、何やら気品ありげな造りだ。
 そして部屋の隅にはもちろん、テレビと冷蔵庫。どちらも今時珍しい家具調だった。

「またごっつい部屋やなぁ……」
「いいのか、こんな所にタダで泊まって」
「へえ、ほんとに広いや」

 トウジに続いてケンスケとシンジも感心したように口を開いた。
 最後に入ってきたゲンドウは、無言でサングラスを押し上げるだけだった。

「こんだけ広いと何や寝ころびたなるなぁ。あらよっと!」

 トウジは言うが早いが、鞄を投げ出し、部屋の真ん中に大の字になって寝そべった。

「浴衣だ、これに着替えるんだな」

 ケンスケは壁際の盆の上に並べてあった浴衣を見つけると、何が嬉しいのかビデオを回し始めた。
 シンジは窓の所まで行って、暮れかかる海を眺める。
 ゲンドウは黙ってテレビの上に置いてあった番組表に目を通していた。

「よっしゃあ、ほんなら早速着替えて風呂行こか」
「行こうぜ、ジンジ」
「あ、うん」

 シンジが振り返ると、トウジはもうさっさと着替え始めている。
 そしてシンジが服を脱ぎ終わった頃には浴衣を引っかけ、一緒に用意してあったタオルを首に掛けて準備万端だった。

「こっちは何や、押し入れか」

 他の3人の着替えを待つ間、暇を持て余したトウジは、部屋の中をあれこれと物色しながら、壁と反対側の襖をガラッと勢いよく開けた。

「うが……」

 途端に奇妙な声を出してそのまま固まってしまうトウジ。
 シンジたちも思わずそちらの方向に目を遣る。
 襖の向こうには……先程別れた女性たちがいた。隣の部屋に繋がっていたのだ。
 折も折、女性たちもちょうど着替え中だった。

「…………」

 あまりに突然のことに女性たちは誰も言葉が出ない。
 みんな驚愕の表情でトウジの方を見ていた。一人、笑顔のままの女性を除いて。

「いや、あの、なあ……」
「……きゃあああーっ!!! 何すんのよっ! この、エッチ! チカン!! ヘンターイッ!!!」

 いち早く我に返ったアスカが、トウジに向かって鞄を投げつけた。
 鞄はものの見事にトウジの顔にクリーンヒットする。
 その後も手当たり次第に物を投げつけてくるアスカ。

「すっ、すまんんっ!」

 トウジはそう言ってピシャリと襖を閉めた。
 アスカが最後に投げたビーチボールは襖に当たって跳ね返り、ポンと畳の上で弾んだ。

「はあ、はあ、何考えてんのよ、全く!」

 アスカは興奮して肩で息をしていた。
 ちょうど襖に背を向けてワンピースを脱いだところだったので、一番手前にいてばっちり見られたことになる。
 今日着ていた水着よりも下着の方が露出度が低いのだが、それでも恥ずかしいらしい。

「あらあら、隣の部屋とつながってること、言い忘れてたわね、うふふ」

 ユイはそう言いながらキュッと帯を結んでいた。
 見られている最中も一人悠然と浴衣に着替えていたようだ。

「アスカ、アスカ」

 レイがそう言いながらアスカの肩を手でポンポンと叩いた。
 手に持ったブラウスで身体の前を隠している。

「え、何?」

 アスカはまだ下着のまま、立ち尽くしていた。
 息はどうやら治まったらしい。

「あの……私の浴衣、投げちゃったんだけど……」
「え?」
「私のも……」

 レイの言葉にキョトンとしたアスカに、反対側からヒカリが小さな声でそう言った。
 こちらはブラウスのボタンを二つ三つ外しただけだったので、実害無し、と言ったところか。
 なのに、一番顔を赤くしているのはヒカリだった。

「え? ええっ!? きゃああっ、ごっ、ごめーんっ!!!」

 浴衣はみんな襖の向こうだった。もちろん、アスカのも含めて三つとも。



 一行はホテル最上階にある展望大浴場に来ていた。
 もちろん、男湯と女湯に別れていて、その間には天然の岩が壁を作っている。
 湯船の方は竹でできた柵で仕切られていた。
 天井は開いているから、互いの浴室の音がこだまし合っている。

「はあ〜〜、極楽、極楽……風呂がこんなに気持ちいいとは、知らなかったな……」

 シンジは湯船の中で気持ちよさそうに呟いた。
 湯船は岩風呂を模してあり、シンジは岩が椅子のようになったところに腰を置いて、ゆったりと身体を伸ばしていた。
 昼間の疲れが一気に溶け出していく気がする。
 後はご飯を食べて寝るだけだったら、どんなにいいだろう。
 シンジは一時の幸せを味わっていた。
 そしてふと目を横に遣ると、トウジとケンスケが竹の柵のところに張り付いているのが見えた。

「何やってるの?」

 シンジが声をかけると、二人は同時に振り返り、口の前に人差し指を立てる。
 目をパチクリとさせるシンジに、ケンスケが小さな声で言った。

「静かに……隣に気付かれるだろ」

 ケンスケは風呂に来ているというのに、ビデオカメラを持っていた。
 前にプールに持ってきていたという防水仕様だろうか。
 さすがにそれでシンジも二人が何をやっているかに気付いた。
 ……まったく、呆れるよな。そう言えば、修学旅行でもやってた……
 あの時は女子の風呂場を覗きに行って、危うく先生に見つかるところだったんだ。
 どうでもいいけど、僕を巻き込まないで欲しい……

「竹に隙間があるんや。けど、柵が二重になっとるから、よう見えへん」
「一枚だったら何とかなるのになぁ」
「温泉の楽しみを奪わんといて欲しいわ、ホンマ」
「もしかしたら、下の方は湯を通すために穴が開けてあるかもしれないけど」
「そうか、よっしゃ、潜ってみよか」

 そんな会話をする二人を、シンジは呆れ果てた目で見ていた。
 見つかったら、砂浜に生き埋めだけじゃ済まないぞ、きっと。
 そして二人が柵の下の方を手で探りながら柵づたいにそろそろと移動し始めたときだった。

『わっ、おばさまって、肌も綺麗ですねー』

 レイのよく通る声が響いてきた。
 もちろん、隣の浴室からだ。

『ほんとだー、すべすべしてるー』
『そうかしら。でも、やっぱりほんとに若い子の方が綺麗よ』
『えー、でも、お湯弾いてるじゃないですかー』
『すごーい、ヒカリも見て見て、ほら』
『…………』

 じっと聞いていると、アスカやユイの声も聞こえてくる。
 ヒカリの声が聞こえなかったのは、たぶん声が小さいからだろう。

『ところで、アスカちゃんはまた背が伸びたんじゃない?』
『えへへ、そうなんですよ。ついでに他のところもしっかりと』
『いいなー、アスカは……』
『レイもちょっとは大きくなったじゃない』
『ちょ、何すんのよ、くすぐったい!』
『ほらほら、ヒカリも』
『や、やめてよ、アスカったら……』
『いーじゃん、うりうり〜』
『あ、やだ……きゃっ……』
『アスカのも、こおしてやるっ!』
『やったわね、それっ!』
『負けないもんねっ! ほらヒカリもっ!』
『あーっ、2対1なんて、卑怯よ!』

 なおも聞こえるはしゃぎ声。そしてバシャバシャという水音。
 お湯の掛け合いでもやっているのだろうか。
 3人の少年たちはその場に固まったまま、それらの会話と音をじっと聞いていた。

『ほらほら、騒いじゃダメよ。他のお客さんに迷惑でしょ』
『はーい』
『そろそろ時間だし、上がりましょうか』

 それからお湯の跳ねる音、タイルの上を歩く足音、そして扉の開く音。
 それらが消えてもなお、少年たちは動こうとしなかった。
 やがてトウジがポツリと呟く。

「やっぱええなぁ、温泉は……」
「ああ、今の会話だけでも貴重だよ」

 ケンスケはビデオを見ながら眼鏡を指で押し上げてそう言った。
 今の会話を録音していたのだろうか。
 シンジはただ黙って湯に浸かったままだった。

(膨張してしまった……恥ずかしい)

 シンジはタオルで必死に前を隠していた。
 頼むから、上がろうって言わないでよ。今はダメだ……
 しかし、湯船から上がろうとする者は誰もいなかった。他の客も含めて。

 その時ゲンドウは、打たせ湯をまるで滝壺の修業のように浴び続けていた。
 『煩悩退散』などと呟きながら。



「役得だと思ったんだけどなぁ」

 長髪の男は車の中でボリボリと頭を掻いていた。
 24時間、可能な限り監視せよとの指令を受けていたのだが……
 つい数分前、携帯電話が鳴った。
 『風呂場は監視するな』。
 それだけ言って電話は切れた。
 男はホテルの最上階の明かりを、双眼鏡を通すことなく眺めていた。

「仮眠するには短すぎるかな」

 男はそう言いながらも目を閉じると、しばらくの間黙り込んだ。



 食事が済んでも、シンジは眠らせてもらえなかった。
 腹ごなしにと地下の遊戯場に無理矢理連れていかれ、そこでテレビゲーム。
 そして最後は『温泉と言えば卓球』大会。
 無惨にも全敗したシンジは、終わる頃にはヘトヘトになっていた。

「あー、汗かいちゃった。ね、も一回お風呂入らない?」

 部屋に戻るエレベータの中で、アスカが言った。
 エレベータはガラス張りになっていて、外の景色が見える。
 水平線の彼方で、赤いランプが点滅していた。
 そして遠く微かに漁り火のようなものが見える。

「僕、もういいよ。戻って寝る」

 真っ先に答えたのはシンジだった。
 エレベータの壁にぐったりともたれ、眠そうな目をして。
 アスカがそれを見て口を尖らせた。

「何よ、だらしないわねー。まだ宵の口じゃない」
「でも、もう疲れたんだよ、昼間に泳ぎの特訓させられたし……」
「どないしたんや、センセ、もう終わりかいな。せっかくこんなええとこまで遊びに来よったのに」

 トウジがそう言ってシンジの肩をポンポンと叩く。
 今回の旅行を一番楽しんでいるのはトウジのようだった。
 先程の夕食は二間続きで膳を囲んだのだが、その時トウジはみんなの食べ残しをつまんで回った挙げ句、ご飯を6杯もお代わりしたのだから。
 豪華和風料理にしきりに『うまい!』を連発するトウジを横目に、アスカはヒカリに訊いていた。

『ね、ヒカリ』
『何?』
『あいつ、いつもああなの?』
『う、うん……』
『なるほど、デートが食事になる理由がわかったわ』
『…………』

 ヒカリは真っ赤になって何も言えなかった。
 鈴原の、バカ……
 ただ心の中でそう思っているだけで。
 最後のお茶漬けをトウジが食べている間にそんな会話が交わされていたことを、彼が知る由もない。

「あんだけうまいもん食うたんやから元気になって、もうちょっと起きとかなあかんで、センセ」

 トウジはそう言ったが、シンジはもはや声も出ない状態だった。

「あのー、私もパスしていい?」

 エレベータがシンジたちの部屋の階に着いたとき、レイがそう言った。

「何よ、どうしたの?」

 アスカが怪訝な顔で訊く。
 まさかアンタ……何か企んでるんじゃないでしょうね。

「えへへ、私もちょっと疲れたから、みんながお風呂入ってる間に少し寝ようと思って」

 レイはそう言いながら両の掌を重ね、顔の横に持ってきて『寝る』のサインを作って見せた。
 そしてエレベータの外に出ていく。
 シンジはもう部屋に向かって歩き始めていた。
 アスカはレイとシンジをを交互に見ながら言った。

「何よ、そんなに疲れたの?」
「いやー、今朝起きるの早かったから、眠くって」

 それは本当だった。
 それとおいしい物を食べすぎたせいかもしれない。

「何言ってんのよ、一番遅くまで寝てたくせに……ま、いいわ、トランプには参加するのね」
「うん、帰ってきたら起こして。お風呂は明日の朝、一人で入るから」
「じゃあ、部屋に鍵を掛けて寝てて。鍵は二つずつあるから大丈夫よ」

 ユイがそう言って鍵を二つレイに渡す。一つはシンジの分だ。
 あまりにも疲れていたのか、鍵のことさえ忘れていたようだ。
 エレベータの閉まるドアに向かって、レイはにこやかに手を振った。
 それから廊下を歩き出す。
 シンジが疲れた足取りで少し先を歩いている。
 レイは少し早足で歩くと、シンジの横に並び掛けた。

「碇君、大丈夫? すごく疲れてそうだけど」
「うん……」

 シンジはそう言ったきり、また黙ってしまった。
 返事をするのも億劫といった感じだ。
 足取りも心なしかフラフラとしている。

(まあ、あれだけ厳しくやったんじゃねー)

 レイは考えながら歩いていた。
 そしてシンジたちの部屋の前に着く。
 レイはシンジに鍵を渡し、シンジが部屋の中に入るのを見届けてから、レイは自分の部屋の方に向かった。
 部屋に入って電気を点けると、もう布団が敷かれていた。
 仕切りの襖も閉められている。

「ふう……」

 レイはため息をつき、一番窓際の布団の上にペタンと座り込んだ。
 そして、じっと襖の方を見る。
 その向こうには、シンジが一人でいるはずだった。

(碇君……もう寝たかな?)

 かなり疲れていた様子だったから、もう寝たかも知れない。
 でも、起きてたら……
 レイはちょっとした好奇心に駆られて、覗いてみたくなった。
 起きてたら起きてたで、一声かけるだけでいいし。
 そう言えば『お休み』も言ってなかったな。

 レイは四つん這いになって襖の方に近づくと、取っ手に手をかけた。
 そして、ふと思う。……開くのかしら?
 先程はトウジが簡単に開いていた。
 しかし、開かないようにすることもできるはずだ。
 そうしなければ別々に使えない。第一、不用心だろう。
 でも、もう寝るんだし、閉めちゃってるかも……
 そう思いながら取っ手を持つ手に力を入れる。
 だが扉は意に反して、スルスルと音もなく開いた。

(あれ……)

 部屋の電気は消えていた。
 シンジはというと、窓際の布団に潜り込んで寝ている。
 光が漏れても反応しないところを見ると、もう眠ってしまったのだろうか。
 レイはそろそろと立ち上がると、音を立てないようにしてシンジの布団へと近づいていった。
 そしてシンジの顔を斜め上から覗き込む。
 やはりシンジはもうすっかり眠っているようだ。

「もう寝ちゃったんだ……」

 小さな声で呟く。
 それでもシンジはピクリとも動かない。
 軽いいびきをたてて眠ったままだ。相当疲れていたのだろう。
 レイはシンジの枕元にしゃがみ込むと、シンジの寝顔を覗き込んだ。

(うーん、こうして寝顔を眺めるのも、久しぶりね……)

 シンジの寝顔は、絵に描いたように安らかだった。
 そうそう、前もこんな優しい寝顔だったんだ。
 何て言うか、いつまで見ていても飽きないのよ。
 どうして私、碇君の寝顔見ると安心するのかな……
 そうして約5分ばかり、レイはシンジの寝顔に見入っていた。

(もうちょっと見てたいけど……今日は、ね)

 レイは立ち上がると、自分の部屋の方に戻っていった。
 そして部屋の間の襖をゆっくりと閉じる。
 細くなった隙間から、レイはシンジを見ながら小さな小さな声で言った。

「お休み……碇君」

 襖を閉じ、布団の上に寝転がると、レイは昼間のことを考え始めた。
 アスカの好きな子って、ほんとに碇君じゃないのかなぁ……



 目を開けると真っ暗だった。知らない天井……
 一瞬、自分がどこにいるのか解らなくなる。
 レイはガバッと身を起こした。
 何……何が、どうなってるの?

 少しずつ頭がはっきりしてくる。
 確か、少しだけ寝るつもりで目を閉じたはずだった。
 電気を点けたまま、布団も掛けずに。
 しかし、今は電気も消えてるし、身体に布団が掛けられてる……
 レイはハッとして腕に付けているはずの時計を見た。
 時計は午前二時過ぎを指し示していた。

(まさか、爆睡しちゃったわけ? あちゃ……)

 きっと、アスカたちは帰ってきて何度も私を起こしたんだろうな。
 でも、私のことだから、一度寝込むとなかなか起きなくって……
 あーあ、まずいわね、これは……

 レイはため息をつくと、周りをキョロキョロと見回した。
 窓から漏れてくる月の光のおかげで、少しずつ見えるようになってくる。
 しかし、布団しか見えない。
 ただ、部屋の間の襖は開いていた。

(しょうがないなあ、もう……)

 レイはもう一度横になった。
 そして天井をじっと見つめる。
 私、何やってんだか。
 いつもいつも、寝ることでみんなに迷惑かけっぱなしね……
 ……あ、そうだ。
 レイはまた起き上がった。

(お風呂、行こうかな……)

 目が覚めたついでだし、明日の朝もまた寝坊しそうだから……
 確か、24時間風呂って言ってたよね。
 よし。
 レイは枕元に置いてあった鍵を手に取ると、そっと立ち上がった。



 誰もいない浴室は、広々として気持ちよかった。
 レイは思い切り身体を伸ばして、寝そべるようにして泡風呂に浸かっていた。

(ふう……いい気持ち……)

 そして身体のあちこちをマッサージする。
 今日はたくさん食べたなぁ、明日はまた泳いでおかないと。
 食事抜きで痩せようとしたら、落ちて欲しくないところが落ちちゃうもんね。
 でも、泡が身体を包み込むこの感覚って、気持ちいい。何だか眠くなりそう……
 ひとしきり身体をほぐすと、眠ってしまわないように大浴槽へ移動した。
 その時になって、レイは初めて気がついた。

(あれ、仕切りが……)

 広いと感じたのは誰もいないせいだけではなかった。
 男湯と女湯を仕切っていた、竹の柵がなくなっているのだ。
 展望用の窓がやたらと大きかった。もっとも、外は暗くてよく見えないが。

(じゃあ今って、混浴状態……)

 誰もいないと思っていたからいいけど、もし男湯に誰かいたら……
 レイはそう考えて急にドキドキしてきた。
 どうしよう、もう上がろうかな。
 そう考えたとき、湯の跳ねる音がした。
 思わずビクッとなるレイ。
 ま、まさか……

 湯船の外に向かってゆっくりと後ずさりを始める。
 岩壁の陰に、誰かの姿が見えたのだ。
 片脚だけ湯から出かけたとき、その人影がレイに呼びかけた。

「レイちゃん?」

(え? この声……)

 それは確かに、レイのよく知る声だった。

「おばさま?」
「あら、やっぱりレイちゃんだったのね。綺麗な空色が見えたから、もしかしてと思って」

 湯煙の中から現れたのは、碇ユイ、その人だった。
 レイはホッとして、また湯の中に両脚を浸ける。

「おばさまだったんですか。男湯から誰か来たから、びっくりしちゃいました」
「ふふふ、ごめんなさい。向こうの方が外がよく見えたから」

 そういってニコニコと笑っているユイの許に、レイは近づいていった。

「どうしたんです、今頃」
「レイちゃんこそ、どうしたの、一人で」
「え、その、ちょっと、目が覚めちゃって……」
「あら、じゃあ、一緒ね。私のすぐ後だったのかしら。よく寝てたみたいだけど」
「あはは、そう……みたいですね」

 レイは笑うしかなかった。
 眠りこけてるとこ、ばっちり見られたんだろうな。
 アスカたちがいくら起こしても起きないところとか……
 あーあ、朝もねぼすけだし、こんなのじゃ将来、旦那様を起こすことなんて、無理じゃないかしら……

「何か考えごとでもしてたの?」
「えっ!?」

 一瞬妄想に走っただけでそんなことを訊かれたので、レイはうろたえた。
 やだ、私、そんなに顔に出ちゃうの?

「あの……どうしてです?」
「寝言を言ってたから、何か考えごとしながら寝ちゃったのかなあと思って」

 ユイは相変わらず優しく微笑みながら言った。
 何だ、今じゃなくて、さっき寝てた時のことか。
 びっくりした……
 でも、さっき考えたことっていったら、確か……

「あの……何て言ってました?」

 レイは恐る恐る訊いてみた。
 もしかして、みんなに聞かれたんじゃ……

「そうねぇ……もしかしたらあれは、好きな男の子の名前かしら?」

 ユイは笑顔を崩すことなく、顎に人差し指を当てながらそう言った。
 しかし、それを聞いたレイの方は気が気ではなかった。
 お湯に浸かっているのに、冷や汗が出る感覚がした。
 温かいはずなのに、身体が少し震えている。
 そんな……まさか、言っちゃったなんて……
 どうしよう、何か言わないと……
 寝言だからうまく言えば冗談で済むかもしれないし……

「あ、あの、あれはその……今日の昼間のこと思い出してて……碇君、アスカにしごかれて、可哀想だったなって……あは、あは……」

 だが、ユイの悪戯っぽい微笑みを見た瞬間、レイはハッとした。まさか、これって……
 そしてその予感は、ユイの言葉で現実のものとなった。

「あら、そうだったの。シンジも隅に置けないわね。レイちゃんに好かれてるなんて」

 バシャッという音がした。
 レイの身体の力が抜けて、湯船の底に尻もちをついてしまったのだ。
 血が逆流する……レイはそんな感覚を味わっていた。
 そんな……やられた、引っかかった……
 私、碇君の名前を呼んでなんて、いなかったんだ……
 ……ヒカリの気持ちが良くわかったわ。

「どうしたの、そんなに驚いちゃって」

 ユイはにこやかに笑いながら、レイに手を差し延べた。
 レイはその手に捕まりながら起き上がると、ユイに向かって拝むように手を合わせて言った。

「あのぉ、このことは、みんなには内緒に……」

 そしてちょっと困ったように笑ってみる。
 そんなレイの顔をユイはじっと見ていたが、おもむろに口を開いた。

「そうねぇ、私も不意討ちしちゃったし……じゃあ、これは女どうしの秘密にしておきましょう」

 そう言って唇の前に人差し指を立て、嬉しそうに微笑んだ。
 レイはそれを見てホッと安心すると、『お願い』の手を下げた。

(でも、当人の親に対して秘密にして下さいって言うのも、何だかなぁ……)

 そんなことをレイが考えて苦笑いしていると、またユイが話しかけてきた。

「その代わり、シンジの気持ちは、レイちゃん自身で確かめてね」
「えっ? あっ……はい」
「私が言ってあげてもいいけど、それだとフェアじゃないでしょう?」
「そうですね。でも……」

 急に話が核心に近づいた気がして、レイは当惑した。
 確かめるって言っても、どうやって……それに、今確かめちゃったら、もしかしたら……
 レイがそう考えていると、ユイはレイの顔を下から覗き込むようにして言った。

「確かめるの、怖い?」
「ええ、それもあるんですけど……」

 レイが少し言い淀むと、その言葉を続けるようにしてユイが言った。

「他にも困ることがある、と」

 それを聞いてレイは、うつむき加減にしていた顔を上げて、ユイの顔をまじまじと見た。
 ユイはレイを見守るように微笑んでいる。
 ……この人、もしかしたら全部知ってるんじゃないかしら?
 碇君の気持ちも、アスカの気持ちも、私の気持ちも……
 レイはそんなことを考えた。
 黙っているとユイが話し続ける。

「いろいろと事情はあるでしょうけど、何も今すぐ結論を出す必要なんてないのよ。こういうのは、時が解決してくれることになってるんだから」
「はあ……」

 レイは決して生返事をしたわけではない。
 ユイの言葉を噛みしめるようにして考えていたのだ。
 ……今すぐ結論を出す必要なんてない……
 私、今日の昼間、何か焦ってたのかしら。
 ふとしたことから『愛情』の話になったからって、碇君やアスカの気持ちを確かめようとして……
 でも、そんなの関係ないんじゃない?
 一番大切なのは……

 いつの間にかレイはまた視線を落としていた。
 そこまで考えて、ハッとして見上げると、ユイが優しい笑顔を湛えていた。

「人を好きになれば、それなりに苦しい思いもするわ。でも、そこから逃げちゃダメ。わかるわよね」
「あっ……はい」

 レイは答えながらクスッと笑った。
 ……そう、おばさまが言いたいことも、そうなんだと思う。
 一番大切なのは、私の気持ち……
 レイの表情に、いつもの笑顔が戻った。

「そ、良かった。じゃ、また明日からいつもみたいに遊んでくれる? 今日みたいにシンジをからかったりして」

 そう言って楽しそうに微笑んだユイに、レイは元気良く答えた。

「はい!」
「じゃ、そろそろ出ましょうか」

 そう言ってユイは立ち上がった。
 レイもその後に続き、二人は大浴場を後にして部屋に向かった。



「それじゃおばさま、お休みなさい……」
「はい、お休みなさい」

 レイは布団に入っても、まだ目を閉じず、天井を見つめていた。
 そして先程のユイの言葉をもう一度思い出す。

(時が解決してくれる……)

 そして、じっと考えてみた。
 そう、明日からも、これまでときっと何も変わらない。
 でも、一つだけはっきりしたことがある。
 私の気持ち。
 碇君が誰を好きでも、アスカが誰を好きでも、私は碇君を……
 そこまで考えてから、レイは目を閉じた。

(お休み、碇君……)

 今はそれでいいの。
 だからもう少しだけ、今のままでいさせて……



- To be continued -







おまけ



 同時刻。

 ゲンドウは布団の中で小さく縮こまっていた。

(くっ、なぜ今頃、レイ君が……)

 せっかく誰もいない時間帯を見計らって行ったというのに……
 おかげで、ゲンドウはユイに風呂場から追い出されてしまったのだ。
 ゲンドウはすっかりふてくされていた。

(それもこれも、シンジのせいだ。お前がはっきりせんから悪い)

 ゲンドウは怒りの矛先をシンジに向けることにした。
 だが、今の状況では何をできるわけでもない。
 ゲンドウは少し音を立てながら寝返りを打ち、やおら立ち上がった。
 ジロッと窓際の布団を睨んだが、何もしようとせず、隣の部屋に入っていった。
 そして妻の布団に近寄ると、耳元で何やらボソボソと囁く。
 しかし、妻は何の反応も見せない。
 ゲンドウは二、三度囁いていたが、やがて諦めて自分の布団に戻った。
 そして布団を頭からかぶる。

(うう、なぜだ、ユイ……)

 ゲンドウはなかなか寝付くことができなかった。



- To be continued -







おまけ2



 同時刻。

 彼女は布団の中でクスクスと笑っていた。

(ほんと、あの人って、子供みたいなんだから……)

 彼女はまだ眠っていなかったようだ。



- To be continued -




新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions