この魂は誰のもの?
この魂は私。
綾波レイと呼ばれる存在。
その私の魂。

いいえ、違うの。

この魂は私のもの?
いいえ、違うの。
ヒトによって造られた魂。
綾波レイという名の幻影。
だから、
この魂はあの人のもの。
私を造ったあの人のもの。

だからあの人は私を消すの。
あの人の造った魂だから。
あの人のために私は消えるの。
そのために造られた私だから。

いいえ、違うの。

この魂は私のもの。
あの人のものじゃないの。
でも、
もう、いいの。
この魂、消えるから。

『何を望むの?』
何も無いの。
『何を望むの?』
必要ないもの。
『何を望むの?』
もう、消えるから。
『何を望むの?』
私、消えるから。



最終日

約束の日




 ターミナルドグマ。
 そこに彼女はいた。
 オレンジ色に輝く巨大な水槽を眺めて、彼女は立っていた。
 水槽の中には、瓦礫のような黒い物体がいくつも沈んでいた。
 それは彼女の残骸。
 いや、かつて彼女と同じだった物の残骸。
 彼女と生まれを共にし、彼女と同じ姿をしていた物体の残骸
 それをぼんやりと見つめながら、彼女は考えていた。
 自分もかつてはこの中の一つの物体に過ぎなかった。
 魂を持たず、ヒトの姿をしているだけのモノ。
 意志を持たず、ただ刺激に反応するだけの擬似的な生命体。
 だが自分は今、そこから離れ、外の世界からそこを眺めている。
 私は何? そこにあった物体と、何が違うの?
 それは魂。そう、私だけが魂を持つ身体。
 だから今のこの身体は、私という魂の仮の宿りに過ぎない。
 ヒトの形をし、綾波レイという名を持つ、偽りの魂。あるいは幻。
 身体が消えたら、魂はどこへ行くのだろう?
 以前なら、別の身体があった。
 『私』といういくつもの分身。
 だが今は……
 魂はどこへ行くのだろう?
 消える? そう、この魂は消えるの。
 無へと還る。私の望みどおりに。
 そう、それが私の望み。
 それが、運命……

 なのに……どうして、こんなに……怖いの……



(綾波……)
 シンジは戻りつつある意識の中で考えていた。
 ここは……どこだろう。そうだ、病院……
 綾波が、事故で……僕は、一緒に付いて来て……
 それから、どうしたんだろう……
 どうして僕は寝てるんだろう?
 ……手が痛い。手? そうだ、手で、壁を……
 壁を、叩いて……綾波が作った、壁を……
 綾波に、拒否されて……それで僕は……僕は、泣いて……
 でも、もう一度綾波が、僕を見てくれて……それから……
 シンジはゆっくりと起きあがった。
 ……そうだ、僕は泣いて、ベッドに突っ伏して寝てしまって……
 それがまるでずいぶん前のことのように、ぼんやりと思い出されてきた。
 今、いつなんだろう?
 あれから何分経った? 何時間経った? 何日経った?
 そしてベッドの上に目を向ける。
 だが、そこには乱れたシーツがあるだけだった。
 いるはずの姿が、そこにはなかった。
「綾波……」
 シンジは小さな声で呟いた。
 どこに……行ったんだろう……
 次第に頭がはっきりとしてくる。
 ……綾波が、もう一度僕を見てくれて……僕の手を握ってくれて……
 ……僕を起こしてくれて……僕を座らせてくれて……綾波が、ベッドに座って……
 ……それから、どうなったんだろう?
 シンジに思い出せたのは、レイが最後に自分を見つめてくれた瞳の色だけ。
 僕は……僕は、寝てしまって……その間に、綾波は……
 その瞬間、シンジの背筋を冷たい物が走った。
 戻りつつあった意識が、遠のいていく気がした。
 まさか、そんな……
 慌てて、ベッドの上を手で探る。
 もちろん、そこにはシーツ以外に何もなかった。
 人のいた温もりも既に消えていた。
「綾波……どこに、行っちゃったんだ……」
 月明かりが照らす病室の中で、シンジは呆然とそこに座り込んでいた。



「総員、第一種戦闘配置」
 深夜の発令所にゲンドウの声が低く響きわたった。
 そしてその場の視線は全て、目の前のスクリーンに注がれていた。


 第3新東京市、上空。
 そこに向かって、黒い大型輸送機が飛行を続けていた。
 その機首の部分は白い円が描かれており、中に番号が書かれていた。
 1番から9番までの数字が、折り重なるようにして編隊を組んでいた。
 それぞれ輸送機の底部には、白いヒトのようなものが、その背中だけを見せて吊り下げられていた。
 そしてその背には赤いプラグが突き刺さっていた。
 そこには、そのパーソナルを示す名前がはっきりと刻まれていた。


KAWORU


 黒い夜空の中、それを明るく照らすはずの月の光は、その輝きを半分程に失おうとしていた。



「綾波……」
 あれからずっと待っていても、レイは戻って来なかった。
 シンジは病室を出て、廊下を彷徨い歩いていた。
 足取りは弱々しく、壁に手を伝いながら。
 行く宛てなどあるはずもなかった。
 だが、彼の足はある場所を目指していた。
 自分がここで唯一安心できる、その場所に向かって。
 レイの気配が感じられるはずの、その場所に向かって。



 発令所は緊迫した雰囲気に包まれていた。
 だがそこには、慌ただしさはなかった。喧騒もなかった。
 誰もが静かに、何が起こるかのを待ち続けていた。
 その緊張を破って、状況告げる日向の声が響いた。
「目標の位置を確認。映像、出ます」
 次の瞬間、スクリーンに映し出される9機の黒い大型量産機。
 そしてその下面に固定された白い巨人。
 映像を見た瞬間、発令所に低くざわめきが起こった。
 司令席でゲンドウの横に立っていた冬月がポツリと呟いた。
「やはり量産機か」
「ああ」
 ゲンドウは口元を隠したまま、短くそう答えた。
「S2機関搭載型を9機とはな」
 冬月が低くそう言った。
 二人の視線はスクリーンに注がれたままだった。
「エヴァの発進準備は?」
 3人のオペレータの後ろから、ミサトが声をあげた。
「完了しています」
 日向が答える。
 そう、準備は万端のはずだった。
 エヴァは2機ともケイジに係留され、既に冷却液も抜かれている。
 第一種警戒態勢が敷かれたときからそうされていた。
「なるべく早く上げて。量産機が地上に降りて来てからでは間に合わないわ」
 ミサトが指示を出す。
 迎撃は必然だ。取り囲まれてしまってからでは遅い。
 だが、振り返った青葉の言葉に、ミサトは愕然とした。
「しかし、パイロットがまだ到着していません」
「どういうこと?」
 そこに追い打ちをかけるように日向の声が響く。
「ファーストチルドレン、完全にロスト! サードチルドレンも現在行方を確認中です!」
「何ですって?」
 だが振り向いたミサトの目の前のディスプレイには「REI LOST」の文字が躍っていた。
 そして、「SHINJI MISSING」
 そんなバカな!
 二人とも、病院にいるはずだ。
 テストの事故で、レイが病院に運ばれて、シンジはそれに付き添って……
 通常病室に移されてからは監視カメラの目が届かなくなるが、それでも本部内で行方不明になるなど、あり得ない。
 どこにいても、検知システムに引っかかるはずだ。
「足取りはつかめないの?」
 ミサトはともすればヒステリックになりそうになる声を抑えた。
 非常事態だからこそ、落ち着かなくては……
 指示を出す自分が迷ってはならない。
「二人とも病室を出たことが確認されています」
 病室を? 何故?
 もうレイは回復したのだろうか。ここに向かっている?
「一緒なの?」
「いえ、別々です。ファーストチルドレンは2時間以上前に病室を出ています。しかし、エレベータに乗った直後から反応が消えています」
「消えたって……そんな、まさか……」
 日向の返答に、ミサトは言葉を失った。
 だが日向の言葉が更に追い打ちをかける。
「本部施設を出た形跡はありません。しかし、本部内には生体反応がどこにもありません」
「何てこと……」
 この大事なときに、パイロットが行方不明だなんて……ミサトは歯がみした。
 初号機しか使えないとは言っても、まさか、二人ともいないとは……
「シンジ君は?」
「病室を出たのはつい先程です。所在を割り出し中……」
 だが、そう答える日向の声を遮って、青葉が声を張り上げた。
「いえ、サードチルドレン発見!」
「どこ?」
 ミサトがすぐさま振り向いた。
「ケイジです! アンビリカルブリッジの上にいます!」
 その声と共にスクリーンが切り替わり、ケイジ内が映し出された。
 そこでは係留された初号機と向かい合うようにして、ブリッジの上で座り込んでいるシンジの姿があった。
「シンジ君!」



 9機の輸送機は第3新東京市上空を旋回していた。
 やがて機体底面の白い巨人の両腕と下半身の拘束がゆっくりと解き放たれていく。
 巨人はその顔を露わにした。それは異形で、大きく裂けた口は爬虫類を思わせる。
 背に差し込まれたプラグが回転し、吸い込まれるようにしてその白い巨人の中に挿入されていった。
 巨人は不気味な笑みを浮かべたかと思うと、輸送機から切り離され、次々と降下していった。
 各々がその手に鋭い槍を持って。
 自由落下を続けていた巨人は、その背から逆三角形の白い翼を展開し、湖の畔へと舞い降りようとしていた。


「量産機、降下中!」
「迎撃、間に合いません!」
「くっ……」
 次々と入ってくる報告を受けても、ミサトは何一つできなかった。
 エヴァがないと何もできない。パイロットがいないと何もできない。
 私たちは何て無力なの……
 だが、ここで見ていても何にもならないのだ。
 とにかく、今は……
「ケイジへ行くわ。監視、続けて!」
「はい!」
 ミサトは叫んで駆け出した。
 オペレータたちの声が返ってくる。
 迎撃システムはほとんどが損壊してしまっていて役に立たない。
 ジオフロントの装甲板が破壊されたら終わりだ。
 それまでに、何とかしなければ……



 僕はなぜここにいるんだろう?
 シンジは考えていた。
 僕はなぜここに来たんだろう?
 何のために?
 誰のために?
 気が付いたらここにいた。
 どうしてここが一番落ち着くんだろう?
 一番嫌いなはずの場所なのに。
 何を求めて、ここに……
「綾波……どこにもいないんだ……」
 心は癒されないまま、閉ざされていった。



 彼女はLCLの中にいた。
 全ての着衣を脱ぎ捨て、彼女がかつていたはずの水槽の中に浮いていた。
 瞑想するかように目を閉じて。
 その時のことを思い出そうとしても、何も思い出せなかった。
 そう、自分はその時、何も思っていなかったから。
 ただそこに『ある』だけの存在だったから。
 魂のない状態。
 自分はそこに還ろうとしているのだろうか。
 違う。
 その時は魂が無く、身体だけがある状態。
 これから自分が還るのは、身体が無く、魂だけがある状態。
 それがどんなものなのか、わからない。
 だが、自分にわかるはずがない、と彼女は思っていた。
 自分が生み出されたときは何も知らなかった。
 そして、再び何も知らないところに還ろうとしている。
 それでいい。何も考える必要はない。
 何も知る必要はない。
 彼女はそう考えた。
 そして虚ろな表情のままに、ただそこに漂っていた。
 自分は還ることを本当に望んでいるのだと信じながら。



「シンジ君!」
 ミサトはブリッジへと続くドアを開けると、シンジの名を呼びながら駆け寄った。
 声と足音がケイジ内に響きわたった。
 だがシンジは微動だにしない。
 そして、何も聞こうとせず、何も見ようとしていなかった。
 ただそこで膝を抱え、顔を伏せてうずくまっているだけだった。
「敵が来てるわ! エヴァに乗って! 早く!」
「…………」
 ミサトが耳元で声を張り上げても、シンジは無言のままだった。
 また心を閉ざしてしまったの?
 ミサトはシンジの横に片膝をつき、シンジの肩に手をかけて言った。
「シンジ君! 早く!」
「……だめです……」
 シンジがかすれた声で呟いた。
 あまりにも力無い声だった。
「何ですって!」
 ミサトのその声に、シンジは伏せていた顔を少しだけ上げてボソボソとしゃべりだした。
「僕は、だめだ……だめなんですよ……人を傷つけてまで、殺してまでエヴァに乗るなんて、そんな資格ないんだ……」
 シンジのその言葉を、ミサトは黙って聞いていた。
 以前のシンジ君に戻っている。
 ここに来たときと同じように、自信もやる気もない消極的な姿に。
 そう考えるミサトの前で、シンジはただ言葉をこぼし続けた。
「……僕は、エヴァに乗るしかないと思ってた。でもそんなのごまかしだ……なんにもわかってない僕には、エヴァに乗る価値もない……僕には、人の為に出来ることなんて、何にもないんだ!」
 最後の言葉だけを吐き捨てるように言うと、シンジはまた顔を伏せた。
 そしてそのままくぐもった声を漏らす。
「……アスカに相手してもらえなかったんだ。カヲル君も殺してしまったんだ。綾波も……僕を見捨てたんだ……」
 シンジが洟をすする音がした。
 涙声になってシンジは続けた。
「僕のせいなんだ……優しさなんてかけらもない、ずるくて臆病なだけだ……僕には人を傷つけることしかできないんだ! だったら何もしない方がいい!」
「…………」
 ミサトはそれを聞いて立ち上がると、シンジの手を取った。
 そして引っ張り上げて立たせようとする。
 だがシンジの身体は力無く横に崩れただけだった。
「同情なんかしないわよ。自分が傷つくのがいやだったら何もせずに死になさい!」
 ミサトはそう言いながらもう一度シンジの手を引いた。
 しかしシンジは立ち上がろうとしなかった。
 ただその場に座り込んで嗚咽を漏らすばかりだった。
「今、泣いたってどうにもならないわ!」
 ミサトはいらだちを隠さずにそう叫んだ。
 そして心の中で舌打ちする。
 こんなこと言っても、この子には無駄。
 解っていたはず。
 この子は、こういう言い方でしか自分の気持ちを伝えられないことを。
 他人に自分の価値を投影することでしか自分を見出だせないことを。
 ミサトは大きく息をついた。
 そしてシンジの手を握ったままで言う。
 今度は少しだけ落ち着いた、しかし寂しげな口調で。
「自分が嫌いなのね……だから人も傷つける……自分が傷つくより、人を傷つけた方が心が痛いことを知っているから……」
 だがシンジは何も答えなかった。それでもミサトは続けた。
「でも……どんな思いが待っていても、それはあなたが自分一人で決めたことだわ。価値のあることなのよ、シンジ君……」
「…………」
「あなた自身のことなのよ。自分の出来ることを考え、償いは自分でやりなさい」
 シンジの頭がピクリと揺れた。
 泣き声が止んだ。
 ミサトはシンジの言葉を待った。
 シンジは下を向いたまま叫ぶように言った。
「ミサトさんだって……他人のくせに! 何もわかってないくせに!」
 ミサトはシンジをきっと睨み付けた。
 そして足を一歩後ろに引くと、シンジの手を両手で持って思い切り引っ張り上げた。
 右手で胸ぐらを掴む。シンジの怯えた顔が目の前にあった。
 だがシンジはミサトから顔を背けた。
 ミサトはシンジに顔を寄せるようにして言い放った。
「他人だからどうだってのよ! あんたこのまま止めるつもり!? 今、ここで何もしなかったら……」
 そう言いながら左手でシンジの顔を無理矢理正面に向けさせた。
 それでもシンジは目を逸らそうとする。
 ミサトはシンジに顔をくっつけんばかりにして低い声で語りかけた。
「あんたって子は……どうして自分の力で生きようとしないのよ!? どうして自分の手で未来を作ろうとしないのよ!? そんなことじゃ……」
 シンジが固く目を閉じた。それでもミサトは言葉を止めなかった。
「あなたのお母さんはどうなるのよ!? エヴァの中にいるお母さんは……あなたのお母さんが、何のためにエヴァの中に残ったのか、解らないの!?」
 ミサトの言葉に、シンジが目を開いた。
 そして恐る恐るミサトの方を向き、驚愕の表情で見つめ返す。
「母さんって……」



 輸送機は既に過ぎ去っていた。
 9人の白い巨人は、しかし湖の畔に降り立つこともなく、上空でゆっくりと旋回を続けていた。
 まるで遙か下の彼らの様子を窺うかのように。
 その不気味な静けさに、発令所の誰もが状況を息を呑んで見守っていた。
「……奴ら、何をする気だ?」
 あまりにも長すぎる膠着状態に、青葉が声を漏らした。
「何もしてこないの……」
 マヤが震えながら言った。お願いだから、来ないで……
「何かを待っているのか? まさか……」
 日向がそう言いかけたとき、旋回する編隊がその輪を少しずつ広げていった。
「始める気か?」
 冬月が低くそう呟いたときだった。
「新たに、飛行物体!」
 レーダーの方に目を戻していた青葉が叫んだ。
「目標確認! 直上から落下中です!」
「まさか!」
「N2兵器か!?」
 青葉と日向の叫び声に続いて、冬月が口を開いた。
 その横ではゲンドウが顔色一つ変えずに座っていた。


 第3新東京市の上空を、白い光が落下していた。
 それは旋回する編隊の中心を通り過ぎ、湖面まで落ちるかと思われた瞬間、凄まじい閃光に変わった。
 爆風は湖の水を割り広げ、水没した建物を吹き飛ばした。
 さらにその灼熱が一瞬にして水を蒸発させ、ジオフロントの特殊装甲板までをも融解する。
 ジオフロントは赤い光に包まれた。
 そして衝撃波がジオフロント内部を揺るがし、発令所は地震のような強烈な揺れに襲われた。
「ちぃっ! 言わんこっちゃない!」
「奴ら加減ってものを知らないのか!」
 青葉と日向が口々にぼやく。
 彼らはそうすることで心の余裕を無理矢理取り戻そうとしていた。
 ジオフロントの天井は崩れ、大きな風穴が開けられた。
 瓦礫が霰のように降り注ぎ、残っていた湖の水が滝のように落ちる。
 高温の蒸気がそれらを瞬く間に光と熱に変えていく。
 揺れが治まると、冬月は穏やかな笑みを浮かべながら天井の方を見つめて言った。
「ふっ、無茶をしおる」
 だがゲンドウはただ一人沈黙を守ったままだった。



 凄まじい揺れに、ミサトは天井を見上げた。
「始まったの?」
 ケイジの高い天井から吊り下げられた蛍光灯が激しく揺れている。
 だが一旦治まるかと思えたその揺れは、再び激しさを増してブリッジの上の二人を襲った。
「きゃ……」
「うわ……」
 二人は揺れに跳ね飛ばされ、ブリッジの床に叩き付けられた。
 そしてずるずると床の上を滑っていく。
 ともすればブリッジの上から落ちそうになるのを、ミサトは手足を突っ張って必死に堪えた。
 背中に何かの破片が当たる感触があった。
 危ない……
 ミサトはとっさにシンジを庇うようにして、上に覆い被さった。
 鉄骨、コンクリートの破片、蛍光灯のガラス、ボルト、ケーブル……様々な物が二人の周りに散らばった。
 ブリッジの上で跳ねた鉄骨が遙か下まで落ちていき、床に激突してコンクリートが砕ける音がこだまして返ってくる。
 やがて揺れはゆっくりと止んでいった。
 助かった……大事には至らなかった。怪我もなくて……
 この子に何かあったら、エヴァに乗る乗らない以前の問題だ。
 しかしミサトは、自分がそんなことを考えもせずにシンジを守ったような気がした。
 そう、今の自分には他に何もない。この子を守る以外に。
 ミサトは自分の下敷きになっているシンジを見た。
 だがシンジは、怯えたように目を見開いて天井の方を見ていた。
 ミサトは無意識のうちにその視線の先を追っていた。
 同時に気付いていた。自分たちの周りだけが、薄暗い……
 そしてミサトは、自分たちの上にかざされている巨大な手を見た。
「まさか……初号機が……」
 ミサトは慌てて起き上がると、初号機の方を振り向いた。
 初号機は拘束具を引きちぎり、その右腕を振り上げ、シンジとミサトを守るように手を差し出していた。
 そんな……また守ったの……シンジ君を……
 やはり、そうなの……ユイさん……
 ミサトはハッとしてシンジを見た。
 シンジは上体を起こし、初号機の方をただじっと見つめていた。
「……母さん……そうなの?」
 シンジはポツリと呟いた。
 だが初号機は先程の反応が嘘のように、身動き一つしなかった。



「量産機、ジオフロント内に侵入!」
 揺れが治まった発令所のメインスクリーンには、ジオフロントに舞い降りてくる白い巨人の姿が映し出されていた。
 下から何も手出しができないのを嘲笑うかのように、巨人たちは大きな弧を描いて緩やかに滑空している。
「初号機はまだか!?」
 司令席から冬月が下に向かって声を張り上げた。
「まだ準備できません!」
「これからです!」
 青葉と日向が同時に叫んだ。
 サブスクリーンには、ミサトと共に搭乗口に向かって歩いているシンジの姿が映し出されていた。
「冬月先生」
 無言のままそれを見ていたゲンドウが突然立ち上がって言った。
 冬月が振り返ると、ゲンドウは非常用リフトに向かって歩いて行き、冬月の方を振り向いて言った。
「後を頼みます」
「解っている。ユイ君によろしくな」
 冬月は穏やかな顔でそう言うと、リフトで降りていくゲンドウを見送っていた。
 その姿が消えると、冬月はスクリーンの方に目を戻した。
 白い巨人が今にもジオフロントに舞い降りようとしているところだった。
「さて、こちらも忙しくなるか」
 そして冬月は自ら指揮を執るために、非常用はしごを降りて行った。
「間に合えばいいがな」
 冬月が下に降り立ったとき、サブスクリーンの映像では、初号機にエントリープラグが挿入されているところだった。



 まだ薄暗いエントリープラグの中で、シンジはさっきミサトが言ったことを思い出していた。
 アンビリカルブリッジからプラグ搭乗口に来る間に、ミサトが独り言のように話していたことを。
『サードインパクトを起こすつもりなのよ。使徒ではなくエヴァシリーズを使ってね』
 シンジはそれを意識して聞いていたのではなかった。
 ミサトは自分自身に言い聞かせるように話し続けていた。
『15年前のセカンドインパクトは人間によって仕組まれたものだったわ。けどそれは、他の使徒が覚醒する前に、アダムを卵にまで還元することによって、被害を最小限に食い止めるためだったのよ』
 シンジはミサトがなぜそんなことを話すのか解らなかった。
 ただ以前聞いた、ミサトがここに入る理由と関係があるのかとぼんやりと感じただけだった。
 プラグの中を幾何学模様が走り抜けた。
『シンジ君……私たち人間もね、アダムと同じ、リリスと呼ばれる生命体の源から生まれた、リリンと呼ばれる18番目の使徒なの』
 僕らが……使徒? 僕らも同じなの? あの使徒と……
 あの生物とも無生物ともつかない物と、僕らが同じ?
 いや、一人だけ、僕らと同じに思えた使徒がいた……
 でも僕は彼を、殺してしまった……自分の手で……
『他の使徒たちは別の可能性だったの。ヒトの形を捨てた人類の……ただ、お互いを拒絶するしかなかった、悲しい存在だったけどね。同じ人間どうしも……』
 拒絶……僕は拒絶なんてしたくなかった。彼のことを……カヲル君のことを。
 拒絶されたのは僕だ。みんなから僕は拒絶されたんだ。
 でも、それなのにどうして、僕は戦わなきゃいけないんだろう、みんなのために……
 僕を拒絶したみんなのために、どうして僕が……
 戦って、どうなるの?
『いい、シンジ君。エヴァシリーズを全て消滅させるのよ。生き残る手段は、それしかないわ』
 生き残る……何のために?
 誰も僕を構ってくれないのに、生き残ってどうなるの?
『今の自分が絶対じゃないわ。後で間違いに気付き、後悔する。あたしはその繰り返しだった……糠喜びも、自己嫌悪を重ねるだけ……でも、その度に前に進めた気がする……』
 自己嫌悪……そう、僕は僕自身が嫌いだ。
 みんなも僕のことが好きじゃないんだ。
 でも……
『もう一度エヴァに乗ってケリを付けなさい。エヴァに乗っていた自分に……何のためにここに来たのか、何のためにここにいるのか、今の自分の答えを見つけなさい。そして……ケリを付けたら、必ず戻ってくるのよ』
 ケリを付ける……戻ってくる……何のために……
 ……僕自身のために?
 プラグの中が明るくなり、シンジの目の前に視界が開けた。
(僕に、何ができる? 今の僕に……戦う? 戦えるのか? 僕に……)
 射出口に移送されていく初号機の中で、シンジはずっと考え続けていた。



 彼女は再びそこに立っていた。
 そしてオレンジ色に輝く液体を眺めていた。
 その微かな光は彼女の身体をオレンジ色に染め上げていた。
 まるで夕陽のよう……彼女はいつか見たことのある夕陽を思い出していた。
 それを綺麗だと言った人と一緒に見た夕陽を。
 夕陽が、綺麗? でも、夕陽は落ちていく、消えていく。
 そう、夕陽のように、私も……
 その時、背後の暗がりから彼女を呼ぶ声がした。
「レイ」
 振り返らずとも、彼女にはそれが誰か判っていた。
 そう、やっと来たのね……
「やはりここにいたか」
 声と共に足音が近付いてくる。
 彼女はゆっくりと声のする方へ振り向いた。
 そこには彼女の創造主がいた。
 その男は彼女の前で立ち止まると、じっと彼女を見下した。
 彼女も虚ろな視線で男の方を見上げた。
 二人はそうしてしばらく見つめ合っていたが、おもむろに男が口を開いた。
「さあ、行こう。今日、この日のために、お前はいたのだ。レイ」
 だが男のその言葉に、彼女は何も答えなかった。



final day

you are all I long for




「弐号機はどうなってるの?」
 シンジを押し込むようにしてエントリープラグに乗せた後で、発令所に駆け戻りながら、ミサトは携帯電話で連絡を入れていた。
「準備は完了しています。しかし、パイロットがいません」
 日向が答えた。
 レイは未だにLOSTしている。
 それに、弐号機を起動できる可能性があるのはシンジだけだ。
 そのシンジは初号機に乗っている。
 他に誰もいるはずがなかった。
「アスカは?」
「303病室です」
 青葉の声が聞こえる。
 ミサトの声はオペレータ3人に聞こえているらしい。
「構わないから弐号機に乗せて!」
 ミサトは受話器越しに叫んだ。
「しかし、未だエヴァとのシンクロは回復していませんが……」
 今度はマヤの声が聞こえた。
 彼女の目の前のモニターには、病室で眠り続けるアスカの姿が映し出されていた。
 シンクロ率が0になってから、心を閉ざし続けているその姿が。
 それなのに、まだ乗せるの? 彼女を。
 何のために……
 モニターから目を背けたマヤの耳に、ミサトの声が飛び込んでくる。
「いいから、早くして!」
「りょ、了解……パイロットへの投薬を中断。搭乗準備」
 ミサトの剣幕に、マヤは声を震わせながら、それでも病院に指示を出す。
 すぐさまモニターの中ではアスカがベッドごと移送される様子が映った。
「初号機の準備は?」
「完了しています。7番からジオフロントへ出せます」
 ミサトの声に日向が答えた。
「すぐに上げて!」
「しかし、相手は9機ですよ。武器も持たせずに……」
「出た瞬間に狙い打ちにされます!」
 日向と青葉が口々に答える。
「じゃ、他に何ができるって言うのよ!?」
 だがミサトのその声に、オペレーターたちは一瞬沈黙した。
 誰もが解っていた。
 自分たちの命運は、14歳の少年一人の手に懸かっていることを。
 そうするしかできない、大人の無力さを。
「エヴァ初号機、出撃!」
 不意に背後から聞こえたその声に、冬月が振り返った。
 青葉も、日向も、マヤも振り返った。
 そこにはリフトで上がって来たミサトが立っていた。



『あんた、まだ生きてるんでしょう!? だったらしっかり生きて、それから死になさい!』
 射出されるGに耐えながら、シンジはミサトの最後の言葉を思い出していた。
 まだ、生きてる……
 誰が望んだんだろう? 僕が生きていることを。
 僕? 僕は望んでいない。
 僕はもう嫌だ。死にたいと思った。
 何もしたくない。
 誰も助けてくれなかったんだ。
 なのに、誰が望むんだろう? 僕が生きていることを。
 ……母さん? エヴァの中にいる母さん?
 そうなの? 母さん……
 そこにいるの? いるなら、答えてよ。
 僕はここにいて、いいの?

 だがそこに答える声はなかった。



 白い巨人は本部を遠巻きにするようにジオフロントに降り立った。
 その背中の羽根が畳み込まれていく。
 そして片膝をつき、中心部をじっと睨んでいた。
 まるで獲物を狙う獣のように。
 初号機は彼らの中央に立っていた。
 ジオフロントの中を風が舞った。
 天頂に開けられた穴から降り注ぐ月の光が10人の巨人を照らし出す。
 だがその輝きは、既に半分以上失われていた。
 シンジは自分の周りから襲いかかろうとしている白いエヴァを見ていた。
(戦う……何のために……誰のために……)
 まだその迷いが彼の頭の中から離れていなかった。
 だが、白い巨人たちがゆっくりと立ち上がり、その裂けたような口が不気味な笑みを浮かべたかのように見えたとき、シンジの頭は真っ白になった。
「うわぁ……」
 恐怖が彼の背筋を貫いた。
 脳髄が痺れるような気さえする。
 そして巨人たちが自分に向かって一歩踏み出したとき、不安が頂点に達した。
 戦うって……こんなにたくさんと戦って、勝てるわけがないじゃないか……
 死ぬ? 僕は死ぬの? ここで……
 真っ白だった頭の中が、死への恐れで満たされる。
 自分の心臓の鼓動が聞こえるような気がする。
 まだ、生きてる……
 でも、僕は死ぬ?
 僕は死にたいと思った。でも、僕は死ぬ? 本当に、死ぬ?
 死ぬ……
 シヌ……
 しぬ……
 死ヌ……
 シぬ……
「うわあぁぁーーっ!!」
 例えようのない恐怖の感情だけがシンジを動かしていた。
 襲い来る不安を振り払おうとするかのように、激情は防衛本能に変わる。
 シンジは叫びながら前に駆け出すと、正面にいた白い巨人に躍りかかった。
 そして両手の拳を固め、巨人の頭目掛けて勢い良く振り下ろした。
「いやだーっ!」
 相手が手に持った槍を盾にして防ぐのも間に合わない程の速さだった。
 巨人の血しぶきが初号機の身体を濡らす。
 頭を打ち砕かれた白い巨人は、朽ち木が倒れるようにその場に崩れ落ちた。
 シンジは振り返った。
 遠巻きにしていた巨人が、一斉に自分を目指してにじり寄ってくる。
 裂けた口から見える白い歯のような物が不気味に光る。
 そのうちの1体が槍を振りかざして初号機に襲いかかった。
「うわああああぁーっ!」
 辛うじて横に飛び退いて槍を躱すと、転がるようにして地底湖の中に落ち込んでいく。
 だが槍は初号機の背中から伸びていたケーブルをバッサリと断ち切っていた。


「アンビリカルケーブル断線!」
「初号機、内蔵電源に切り替わりました!」
「しかし、この運動量では3分と保ちません!」
 青葉と日向が口々に叫んだ。
 ミサトはモニター上のデジタルカウントダウンを見ていた。
 それまでの活動量から計算された残り時間は、映し出された時から既に3分を切っていた。
 その数字が見る見るうちに減っていく。
「くっ……」
 ミサトは悔しさに声も出なかった。
 やはり、ダメなの?
 このまま私たち、やられてしまうの?
 シンジ君……死なないで……
 メインスクリーンには、プログナイフを抜きながら湖の中から立ち上がる初号機と、それと取り囲む残った8体の量産機が映し出されていた。
 そしてそれらを照らす月の光はその輝きをもはや消し去ろうとしていた。
 マヤは一人、遙か上空に浮かんだ月の姿を見ていた。
 一時間程前に美しい銀の真円を描いていたはずの月は、その姿を弓のように細く変えていた。
「月が……欠けていく……」
 マヤのその呟きは誰の耳にも届かなかった。


 1体の量産機が初号機目掛けて槍を振りかざしながら襲いかかる。
 シンジは身を反らせてその鋭利な穂先を避けると、自ら巨人の懐に入り込んだ。
「うぅわああーっ!」
 巨人が再び振り下ろした槍をかいくぐるようにして、ナイフを持った腕を突き出す。
 ナイフは巨人の腹を突き、腕ごと背中まで貫き通した。
 赤い体液と共に内臓のような物が辺りに飛び散った。
 そのままえぐるようにして腹を引きちぎる。
 その時には既に次の巨人が上から飛びかかろうとしていた。
 シンジは今倒したばかりの量産機が持っていた槍を掴むと、上からの打ち下ろしを辛うじて受け止めた。
 そして受け止めた槍で相手を跳ね上げ、そのまま足元に振り下ろす。
 巨人は片足を叩き切られて後ろに跳ね飛ばされた。
「うわぁっ! うわぁっ! うわあぁーっ!!」
 シンジは量産機に取り囲まれながら、手に持った槍を振り回し続けた。
 それは1体の腕を引きちぎり、もう1体の肩先をかすめたが、倒すには至らなかった。
 そして6体の量産機は槍を躱しながら初号機を囲む輪を次第に狭めていった。
 だが手を出すことはしなかった。
 それは初号機の活動が止まるのを待っているかのようだった。
 敵が迫ってこないことが逆にシンジの恐怖を煽る。
 自ら斬りかかろうとしても、敵はそれを避け、囲みを解こうとしなかった。
 その間にも活動時間が確実に減っていた。
 そのことを指摘するミサトたちの声も、もうシンジには届いていなかった。
 エントリープラグの中が赤い光に包み込まれる。
「あああぁぁぁーーーっ!!」
 シンジが不安に耐えかね、目の前の1体に飛びかかろうとして槍を振り上げたその時、活動時間を示す数字が0を指した。
 プラグの中に闇が降りた。
 初号機は湖の中に立ち、槍を頭上にかざしたままの姿勢で動くことを止めた。


「初号機、活動限界です! 沈黙しました!」
「シンジ君!」
 マヤとミサトが声を張り上げた。
 日向と青葉は声も出なかった。
 誰もがこれで全ての終わりだと思っていた。
「碇は間に合ったかな……」
 冬月は誰にも聞こえぬように低く低くそう呟いた。


 初号機が動きを止めたのを見て、1体の巨人が初号機に近付き、その腕を掴もうとしたその時だった。
 光を落としていたはずの初号機の目に輝きが戻り、自分を掴もうとしていた巨人の腕を振り払うと、その顔を鷲掴みにした。
 指が顔面に食い込んでいく。そしてそのまま力任せに握り潰す。
 噴き出した巨人の血が湖の水を赤く染めた。
 初号機は巨人の頭を持ってその身体を持ち上げると、横に立っていた巨人目掛けて投げつけた。
 2体の巨人は折り重なるようにして湖の中に倒れ込み、巨大な水しぶきを上げた。

 オオオオオオオオオオォォォォォォォ……

 初号機は口を大きく開き、消えていく月に向かって雄叫びをあげると、勢い良く飛び上がり、残る量産機に向かって飛びかかっていった。


「エ、エヴァ、再起動……」
 マヤが呆然とした表情でそう告げた。
 その声をかき消すようにして青葉と日向が声を飛ばす。
「初号機内部に、高エネルギー反応!」
「S2機関にて稼働中です!」
 ミサトは野獣のような動きで量産機に襲いかかった初号機の姿を見ていた。
「彼女が……守ろうとしてるの……」
 その後ろで冬月は黙ってその呟きを聞いていた。


 初号機は掴みかかった巨人の背骨をへし折り、湖の底に沈めると、残る3体に向かって突進した。
 狙われた1体は掴みかかろうとした初号機の手を槍で弾き飛ばし、横から斬りつける。
 初号機は素早く水の中から飛び上がってそれを避けると、宙に身を翻し、湖の畔に鮮やか降り立った。
 そして自分目掛けて迫り来る巨人を待ち受け、突き出された槍を両手で掴むと、湖の中に押し戻していく。
 為す術なく後退を強いられる量産機。
 もはや初号機の力は完全に量産機を圧倒していた。
 初号機は相手の腕を捻るようにして槍を奪い取ると、肩口から袈裟懸けに叩き斬った。
 量産機は切り口から血の霧を吹きながら、湖の中に崩れ落ちていく。
 残り、2体。
 初号機は背を丸め、獲物に飛びかかろうとする肉食獣のような姿勢でじりじりと量産機に迫った。
 後ずさっていく量産機。
 初号機はそのうちの1体に狙いを定めると、猛烈な勢いで駆け出した。
 だが、初号機が相手に飛びかかろうとしたとき、無傷で湖の中に転がっていた1体が起き上がって、後ろから槍を投げつけた。
 初号機がそれに気付き、掌をかざして受け止めようとしたとき、前にいた2体が同時に槍を投じた。
 2つの槍はそれぞれが螺旋状にその形状を変化させながら、初号機が展開したATフィールドを易々と突き破ると、初号機の左右の脚を貫いた。
 初号機は苦しげに身体を震わせ、天に向かって吠えた。
 それでも手で受け止めた槍を投げ返し、後ろにいた1体の頭をそれで貫いた。
 その勢いで量産機はもんどり打って湖の中に倒れ込んだ。
 初号機は脚に突き刺さった槍を引き抜こうとする。
 だが、それはなぜか抜くことができなかった。そして、その槍は初号機の驚異的な再生能力をも封じているらしい。
 しかし、傷口から血を流し、脚を引きずりながらも、初号機は残る2体に迫ろうとする。
 その時、スクリーンを凝視していたミサトたちの目に信じられない光景が映った。
 既に沈黙していたはずの白い巨人たちが、次々と動き始めたのだった。


「そんな……倒したはずの、エヴァシリーズが……」
 誰もが呆然とした発令所の中で、マヤの震える声が響いていた。
 メインスクリーンには頭を潰され、脚を切られ、あるいは腕をちぎられた白い巨人が、ゆっくりと起き上がろうとしている様子が映し出されていた。
「エ、エヴァシリーズ、活動再開……」
 そして白い巨人たちは次々にその羽根を広げて舞い上がり、動きを封じられた初号機に向かって飛びかかっていった。


「うわぁ……」
 シンジはずっと見ていた。
 自分の意志をも上回る程の強さで、闘争本能のままに敵を圧倒してきた初号機を。
 そして今、倒したはずの巨人が再び迫り来る姿を。
 恐怖に麻痺していた頭の中に、再び新たな恐怖が大きな波となって襲ってくる。
 既に動きを封じられたことが、恐怖を倍加させる。
 取り囲まれ、視界までをも奪われて、シンジの恐怖は頂点を極めた。
「うわあああぁぁぁーーーっ!!」
 巨人が手に持つ槍が鋭い形状に変化して、初号機の両の掌を貫いた。
 そして、両腕に、両足に、次々に槍が打ち込まれていく。
 9本目の槍が頭に刺さったとき、シンジは神経が引きちぎられたような痛みを感じていた。
 それは槍の痛みとは違う、心の痛みだった。

「あああああああああああぁぁぁぁぁぁぁーーーっ!」

 突如、ジオフロント内に強風が吹き荒れた。
 倒れていた木々と土埃が舞い、湖が騒がしく波立つ。
 そして、初号機の背中から、2対の光の翅が現れた。
 白い巨人たちが一斉に飛び退いた。
 砂塵渦巻く嵐の中、初号機の身体が少しずつ浮き上がっていった。
 2対の翅は、十字架のようにその形状を変えていく。
 そして、両手を大きく広げた初号機。それはあたかも、巨大な十字架に磔になっているかのようだった。
 白い巨人たちも飛び立ち、その十字架を取り囲む。
 そしてその光る翅を口で銜えると、初号機をゆっくりと上空へ引き連れていった。



 闇の中、12の黒石盤が微かな光を放ちながら円形に並んでいた。
 そして不意に言葉が訪れた。
「遂に我らの願いが始まる。ロンギヌスの槍、そのオリジナルは未だ手に還らぬが、致し方ない」
 そして、黒石盤は一斉に言葉を放った。
「エヴァシリーズを本来の姿に。我等人類に福音を齎す、真の姿に。等しき死と祈りを持って、人々を真の姿に」
 そして初めの声の男に言葉は返った。
「それは、魂の安らぎでもある。では、儀式を始めよう」
 再び闇に沈黙が訪れた。



「エヴァ初号機、拘引されていきます!」
「高度1万2千! さらに上昇中!」
 日向と青葉が次々に現状を告げる。
 ミサトも冬月も、黙って見ていることしかできなかった。
 メインスクリーンには、爆撃から辛うじて生き残った山頂の光学観測カメラからの映像が入っていた。
 初号機はその雄々しき姿を今は槍によって十字架に磔にされ、エヴァシリーズに取り囲まれながら遙か上空へと導かれていく様子が微かに映し出されていた。
「ゼーレめ、初号機を依代とする気か」
 冬月がそう呟くのを、ミサトは聞いていた。
 しかし黙ってスクリーンをじっと見つめる。
 そこには光の十字架と、完全に光を失い、赤黒くぼんやりと輝く月とが映っていた。
「黒き月か……」
 冬月がそう呟いたのと、ミサトがそう思ったは同時だった。
 ミサトは振り返ったが、冬月は黙ってスクリーンの中の十字架と月を見つめているだけだった。



 地下空間には広大なオレンジ色の湖があった。
 LCLの湖。そしてそこに立つ十字架と、磔にされた白い巨人。
 最後の使徒によってリリスと呼ばれたその巨人は、その顔を7つの目の描かれた仮面で隠していた。
 その湖を前にした床に、男と少女が立っていた。
 少女は何も身に着けていなかった。そして巨人を背にし、男と向かい合っていた。
 男は少女を見据えて長い間黙っていたが、やがてゆっくりと言葉を吐いた。
「……アダムは既に私と共にある。ユイと再び会うには、これしかない。アダムとリリス、禁じられた融合だけが」
 少女は男の言うことを黙って聞いていた。
 そして考えた。自分がここにいる理由を。

 ……そう、私はこのためにいたの……この人のために、消えるために……

 その時、少女の身体の周りを覆っていた青白い靄が、オレンジ色の霧へと変わった。
 男はそれを見て、静かに少女に告げた。
「……時間がない。ATフィールドがお前の形を保てなくなる。始めるぞ、レイ。ATフィールドを……心の壁を解き放て。欠けた心の補完。不要な身体を捨て、全ての魂を今、一つに」

 ……そう、私は、あなたにはもう必要ないの……

「そして、ユイの許へ行こう……」
 男のその言葉に、少女は虚ろな視線のまま男を見上げた。

 ……そう、私、消えるの。運命だから……

 そして少女はその目を閉じた。



 闇の中で、一つの黒石盤が人の姿に変わった。
 奇妙な形をしたバイザーを顔に着けたその男は、胸の前で手を組みながら、祈るように呟いた。
「我等が下僕、エヴァシリーズは、皆この時の為に」



 上空の十字架が光を増した。
 それは初号機の周りを取り囲んだ白い巨人が放つ光だった。
 光は虹色になり、一瞬だけ白く輝くと、互いにその光を繋いでいった。
 そして十字架の上の初号機を中心に、巨大な『生命の樹』の模様を夜空に描き出した。
 刹那、オペレータの目の前のグラフが狂ったように反応し始めた。
 スクリーンに目を奪われていた青葉と日向が慌てて報告を始める。
「エヴァシリーズ、S2機関を開放!」
「次元測定値が反転! マイナスを示しています! 観測不能! 数値化できません!」
 目の前のグラフには意味不明の文字列が次々と流れていった。
「アンチATフィールドか……」
 冬月が全てを悟ったかのようにそう漏らした。
 マヤは床に座り込み、ラップトップの画面と睨み合っていた。
「全ての現象が、15年前と酷似している……じゃあ、これってやっぱり、サードインパクトの前兆なの!?」
 ミサトは何もできず、ただ立ち尽くすのみだった。
「エヴァシリーズのアンチATフィールドが共鳴!」
「更に増幅してきます!」
「パイロットの心理グラフ、シグナルダウン!」
「デストルドーが、形而下化されていきます!」
「ソレノイドグラフ、反転! 自我境界が、弱体化していきます!」
「アンチATフィールド、パターンレッドへ!」
 青葉と日向の叫び声のような報告を黙って聞いていた冬月がスクリーンを睨みながら言った。
「これ以上は、パイロットの自我が保たんか……」
「シンジ君!」
 ミサトが悲痛な声でシンジを呼んだ。
 だが、帰って来たのは自らを失いつつあるシンジの絶叫でしかなかった。

「わああああああああああぁぁぁぁぁぁーーーーーっっっっ!!!!!」



(……碇君……)

 レイはシンジの声を聞いたような気がして、閉じていた目をうっすらと開けた。
 ゲンドウも何かを感じたかのように、上を見上げていた。
 だがすぐにレイの方に視線を戻すと、静かな声を漏らした。
「……事が始まったようだ。さあ、レイ、私をユイのところへ導いてくれ」
 ゲンドウはそう言って右手の手袋を外した。
 そこには胎児のような形をした奇妙な物体が貼り付いていた。
 物体は生きているかのように微かに動いている。
 ゲンドウはレイの胸元にその右手を差し延べていった。

 ……私は、消える……この人のために……

 レイはその手が近付いてくるのを黙って見ていた。

 ……でも、それでいいの?……

 だがゲンドウの手がレイの肌に触れようとしたとき、その手は見えない何かによって阻まれた。
 ゲンドウは息を呑んだ。その顔に驚愕の色が走る。
「……まさか!」

「……私はあなたの人形じゃない……」

 レイはゲンドウに向かって小さな声でそう呟いた。

 ……私は……自分で、望むの……

 ゲンドウはレイに歩み寄ろうとしたが、その見えない壁を越えることはできなかった。
「……何故だ!」
 ゲンドウが悲痛な声で叫んだ。
 だがレイは、冷たい視線でゲンドウを見ながら言った。

「……私はあなたじゃ、ないもの……」

 ……そう、私は私だから……

「レイ!」
 だがそのゲンドウの呼びかけにレイは答えることもなく、十字架の方に振り返ると、その身体をゆっくりと宙に浮かべていった。
 後ろからゲンドウの言葉が追いすがる。
「頼む! 待ってくれ、レイ!」
 レイはその言葉に振り返りもせず、独り言のように呟いた。

「……だめ、碇君が呼んでる……」

「レイ!」
 ゲンドウの言葉は虚しく空洞に響くだけだった。
 レイはリリスの胸の前で止まると、仮面に包まれたその顔を見上げた。

 ……そう、私、ここから来たの……だから……










「さよなら」










 次の瞬間、レイの身体を赤い光が包み込んだ。










 ……私は……自分で、望む……









 ……望んで……消える……












「ターミナルドグマに、強力なATフィールドを確認!」
 青葉のその言葉に、ミサトは叫んだ。
「何ですって?」
 馬鹿な! 下に何がいるというの? まさか……
 しかし思考は日向の言葉で遮られた。
「フィールド、メインシャフトを上昇中! 隔壁が破壊されていきます!」
「衝撃波、来ます!」
 青葉の言葉が終わらないうちに、発令所を強烈な揺れが襲った。
 ミサトはまた床に叩き付けられた。
 青葉も日向も、机にしがみついて耐えている。
 マヤは机の下に潜り込んで頭を抱えていた。
 冬月は片膝を衝いて振動に耐えながら指令を飛ばす。
「アブソーバーを最大にしろ! まだ物理衝撃波だ!」
 しかし次の瞬間、誰もの目がスクリーンに釘付けになっていた。
「何だあれは!?」
 最初にそう言ったのは冬月だった。
 ミサトも青葉も日向も、言葉を失ってスクリーンを見つめ続けていた。
 そこにはジオフロントから上空に向かって伸びる赤い光の柱が映し出されていた。
 発令所の中も、赤い光で満たされる。
「何? ……ATフィールド? これが?」
 ミサトのその言葉に、ハッと我に返った青葉と日向がグラフを覗き込んだ。
「初号機のATフィールドが中和されていきます!」
 日向のその声にミサトと冬月が振り向いたが、それに続く青葉の言葉にまた振り返る。
「いえ、これは……共鳴です! 出力、なおも増幅中!」
 ミサトは再びスクリーンに目を走らせた。
 光の柱は生命の樹を貫き、なおも上空へと伸びていく。
 それは夜空に描かれた巨大な十字架のようだった。



 闇の中には少女がいた。
 狭い空間に満たされた液体の中で、少女は身を縮こまらせていた。
 そして固く固く目を閉じていた。
 まるで自分の心を閉ざすように。
 突然、少女の周りがほんの少し、明るくなった。
 赤い光が少女をぼんやりと照らし出した。
 だが、少女にはその光が見えていなかった。
 ただ、自分を包み込む、不思議な温かさだけを感じていた。
 少女は僅かに唇を動かした。
 それは言葉にならなかった。
 赤い光の中で、少女は口を動かし続けた。
 そして微かな声が漏れた。










「……マ、マ……」












「ATフィールドがエヴァシリーズのアンチATフィールドを中和中……ダメです! アンチATフィールドが強すぎます!」
「観測波がフィールドで遮断されました! プラグ内、モニター不能!」
 青葉と日向が口々に叫ぶ。
 冬月は唇の端を僅かに歪ませただけでそれらの声を聞いていたが、続く青葉の声を聞いて驚きを露わにした。
「大気圏外より、大質量物体が高速接近中!」
「まさか!?」
 すぐさま身を乗り出し、解析結果を覗き込んだ。
 そして低く呻くように言った。
「……ロンギヌスの槍か!」
 赤い光に導かれるように、その槍が彼方の上空の生命の樹へと降りてきた。
 それは初号機の胸の前で止まった。
 そして胸にゆっくりと突き刺さり、そこに根を張り、赤い樹へと形を変えていった。



 闇の中でまた、言葉が生まれた。
「ロンギヌスの槍もオリジナルがその手に還った」
「今こそ中心の樹の復活を」
 そしてその後の言葉は呪文のように斉唱された。
「エヴァンゲリオン初号機パイロットの欠けた自我を以て、人々の補完を」
 僅かな静寂に続いて、バイザーの男が静かに声を発した。
「……三度報いの時が、今……」
 そして言葉は続いた。
「始まりと終わりは同じ所にある。……良い、全てはこれで良い」
 胸の前で組んでいた手を解くと、男はまた口を開いた。
「我等はこれより未来へ向かう。心の壁を解き放て。そして自らの存在を捨てよ……」
 闇の中で、黒石盤が一つ、また一つと消えていった。
 そして最後に残ったバイザーの男も、不敵な笑みと共にその存在を消した。
 後にはただ微かな水音だけが残された。



 彼は既に心を開いていた。
 そして光が射すのを待っていた。
 光は降りてきた。彼の傍らに。
「……この時を……ただひたすら待ち続けていた……ようやく会えたな、ユイ」
 彼は光に向かって呟いた。
 光は彼の心に問いかけた。
 彼にしか聞こえない声で。

「……あの子に会わなくていいの?」

 彼は光に向かって答えた。
「俺が側にいると、シンジを傷つけるだけだ。だから、何もしない方がいい」
 光の声が微かに響いた。

「シンジが恐かったのね」

「自分が人から愛されるとは、信じられない。私にそんな資格はない」
 彼は答えた。
 光は再び彼にだけ問いかけた。

「怖くて心を閉じるしかなかったのね」

 彼はその声を聞くと、目を閉じて呟いた。
「……そうだ。私はただ逃げていただけだ……」
 そして彼は自らその存在を消した。
 そこに射していた光も消えていった。



 赤い光の中で、少女は目を閉じていた。
 だが、そこにある温かさを感じていた。
 身体を包み込む、優しさ……
 懐かしい温かさ。
 だが、少女はその温かさを嫌った。
 思い出にあるその温かさは、自分を死へと導く。
 温かさから頑なに心を閉ざした。
 だが少女は声を聞いた。
 聞きたかったその声を。
 聞きたくなかったその声を。
 自分を守るその声を。
 自分を殺すその声を……










(いや……死ぬ……のは……いや……
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……               『まだ、生きていなさい』
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……               『まだ、死んではだめよ』
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……               『まだ、生きているのよ』
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……               『まだ、死なせないわ』
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……               『死んではだめよ』
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……               『殺さないわ』
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……               『まだ、生きていなさい』
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……               『殺さないわ』
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……               『まだ、死なせないわ』
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……               『死んでちょうだい、一緒に』
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……               『まだ、死なせないわ』
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……               『殺さないわ』
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……               『死んでちょうだい、一緒に』
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……               『まだ、死んではだめよ……死なせないわ』
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……               『死んでちょうだい、一緒に』
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……               『殺さないわ』
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……               『生きているのよ』
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……               『生きていなさい』
 死ぬのはいや……
 死ぬのはいや……
 死ぬのは……)



















「いやああああああぁぁぁぁぁぁーーーーーーっっっっっっ!!!!!!」




















 ……その女の子は懸命に駆けていた。
 自分の前を走る影を追い求めて。
 不安げにぬいぐるみを抱きしめ、目には泪を湛えて。
 だが、走っても走っても追いつけない。
 駆け寄ろうとすると遠ざかる影。
 それでも女の子は駆けた。どんなに悲しくても、泣き声をあげることもなく。
 しかし遂に、女の子は立ち止まった。心も身体も、疲れ果てて。
 そして暗い中に一人、立ち尽くす。
 光を求めて彷徨う視線の向こうに、映る影。
 すぐそこにいるのに、手の届かない影。
 堪えきれず、泣き出しそうになったとき、不意にその子は気付いた。
 前にある影は『影』でしかないことを。
 その子が本当に追い求めていた姿は、いつも側にいたことを。
 そう、目の前の影ではなく、その子自身の影となって。
 自らの姿を捨ててまで、その子を守るために。
 女の子の泪が、微笑みに変わる。
 そっと差し出す手を包む、優しい温かさ。
 自分の全てを見つめる柔らかな瞳。
 身も、心も、溶けるような感覚に包まれて……




















 そっと開く瞳。頬を伝う泪。
「……ママ……ここにいたのね……ママ!!」




















 ……私を守るために……ここに残るために……ママは消えたのね……




















 ……私を捨てたんじゃ、なかったのね……ママ……ママ!






















「エヴァ弐号機、起動!」
 発令所に日向の声が響きわたった。
 机の下で、マヤがビクッと震えた。
「アスカなの!?」
 ミサトが駆け寄り、モニターを覗き込む。
「はい! シンクロしています!」
 だが、青葉の言葉はさらなる驚きを生んだ。
「弐号機、ATフィールドを展開中!」
「何ですって!?」
「ドグマからのフィールドと共鳴します! 出力、更に増幅!」
 天に向かって伸びる光の柱が輝きを増した。
 赤い光が、白くなる程に。
 発令所も、ジオフロントも、夜空をも煌々と照らながら、光は天に駆け昇った。
 その光を見ているうちに、ミサトは不思議な感じを覚えた。
 何? この感じは……温かくて、まるで……



 闇の中には一人の女がいた。
 彼女はその狭い空間にしつらえられた、簡素なベッドに身を横たえていた。
 女は目を閉じていた。
 疲れ切っていた。
 拘束されることにではなく、生きることに。
 しかし死への衝動は何故か起きなかった。
 死を望むこともできない程、彼女は疲れていた。
 そこに、どこからともなく赤い光が射した。
 彼女は目を閉じていたが、そこに光が射したことを知った。
 何かを感じた。
 彼女は身を起こした。
 そっと目を開けて、部屋が赤く染まっていることを知る。
 彼女は薄く笑って、ベッドの端に腰掛けた。
 そして床を眺めて呟いた。
「そう、終わるのね、もう……」
 再び目を閉じた。心を開き、何かを望む。
 それからまた呟いた。
「母さん……また後でね……」
 彼女はただじっと待ち続けた。
 終わりを。



 ……ここはどこ?
 どこだろう。わからない。
 見たこともないところだ。
 でも僕はここを知っている。
 前にも一度来た?
 わからない。覚えてないんだ。
 でも、知ってる。
 何だか変な感じだ。
 どこなんだろう、ここは?
 ここは現実? ここは夢?
 そう、夢だ。僕は夢の中にいる。
 でもあのいやな夢じゃない。
 何だか不思議な感覚だ。でも、いやじゃない。
 僕が僕でない感じだ。
 何だかとても気持ちいい……
 ……誰かいるの? そこに。
 誰? 誰か僕を見てくれてるの?
 誰なの? ねえ、こっちに来てよ!
 もっと僕を見てよ! 僕に構ってよ!



 冬月は夜空を焦がす程に輝く光の柱をじっと見つめていた。
 そして考えていた。
 ……ターミナルドグマと弐号機か。
 そして呟いた。
「……ATフィールド、何人にも侵されざる領域、聖なる光、か。そしてそれは生きるためのパトスでもある。後は初号機の意志次第か。未来は碇の息子に委ねられたな……」
 冬月は口を閉じると、メインスクリーンを見ずに、遙か上空を見上げるかのように暗い天井をじっと見つめていた。
 そして思った。
 碇、お前はユイ君に会えたのか?



 誰なの? 誰がいるの? そこに……

 綾波?

 アスカ?


 ミサトさん?
 トウジ?
 ケンスケ?
 洞木さん?
 リツコさん?
 マヤさん?
 加持さん?
 青葉さん?
 日向さん?
 冬月さん?



 ……カヲル君?







 ……父さん?













 ……母さん?




















 母さんなの? どこにいるの?

「……ここにいるわよ」

 ここ? ここってどこ?

「あなたの、夢の中よ」

 夢……じゃあ、ここは夢の中なの?

「いいえ、あなたのいるのは、現実」

 じゃあ、僕の夢はどこ?

「それは、現実の続き」

 僕の現実はどこ?

「それは、夢の終わりよ」

 わからない。僕はどこにいるの?

「ここにいるわよ」

 じゃあ、僕がいるのは現実……

「そう、現実」

 でも、現実が怖いんだ。
 現実がいやなんだ。
 他の人が僕を拒否するんだ。

「でも、現実はあなたが作り上げたのよ」

 僕が?

「そう、あなたの現実。
それは、あなたが作った現実」

 僕が作った現実……

「あなたが作ったあなた自身。
あなたが作った他人。
現実はそれで作られているの。
だから現実は、あなたが作った物」

 じゃあ、僕の夢は誰が作ったの?

「それもあなたが作ったの。
現実の埋め合わせのために」

 わからない。
 じゃあ、現実と夢の境界はどこにあるの?

「それもあなたが作るのよ。
あなたの心の中に境界があるの」

 わからない。
 じゃあ、世界は僕だけなの?

「いいえ、他人がいるわ。
あなたが作った他人が」

 わからない。
 じゃあ、他人はどこにいるの?

「あなたの心の中にいるわ。
他人を作ったあなたの心の中に」

 わからない。
 僕の中に他人がいるの?
 じゃあ、本当の僕はどこにいるの?

「それはあなたが探すのよ」

 でも、見つからないんだ。
 現実にも、夢の中にも、
 僕の中にも、他人の中にも、
 見つけられないんだ。
 本当のことが、わからないんだ。

「見つけようとしたの?」

 わからない。
 どうしていいか、わからないんだ。

「現実が解らないのね」

 現実が嫌いなんだ。
 自分が嫌いなんだ。
 他人も、好きになれないんだ。

「他人を好きになったことがないのね」

 だって、他人は僕のこと、
 わかってくれないかも知れないんだ。

「解り合えないことが、怖かったのね」

 だって、他人なんだ……

「でもそれは、あなたが作った他人なのよ」

 僕が作った、他人……
 わからない。
 どうして僕が他人を作るの?

「あなたの心が、他人を作り上げるの。
あなたの周りの人はあなたの心から、
あなたのためのその人自身を作るの。
だから、他人はあなたが作ったのよ」

 僕の、心……

「他人の中のあなたの姿、
それは、あなた自身の心なの」

 他人の中の、僕……

「あなたの中の他人の姿、
それも、あなた自身の心なの」

 僕の中の、他人……

「あなたの中でも、他人の中でも、
あなたの心があなた自身の
形を作り出しているの」

 僕の中の、僕……

「だから、自分を好きにならなければ、
他人を好きになれないわ」

 でも、僕は僕のことを、
 好きになれるの?

「自分自身の意志で動かなければ、
何も変わらないわ」

 ……自分の、意志で……

「生きていこうとさえ思えば、
どこだって天国になるわ。
だって、生きているんですもの」

 でも、母さんはどうするの?

「……ここにいるわよ……」

 僕の中に……?

「……そう……」

 …………

「…………」


 ありがとう……

「……もういいのね?……」

 ……さよなら……母さん……








































「……シンジ」

 父さん?

「お前は何を望む」

 ……父さんは何を望んだの?

「私はユイに会うことを望んだ」

 そのために僕をエヴァに乗せたの?

「そうだ」

 そのために綾波を作ったの?

「そうだ」

 そのためにアスカをあんな目に遭わせたの?

「そうだ」

 そのためにカヲル君を殺させたの?

「そうだ」

 そのためにトウジを……みんなを……

「そうだ」

 ……どうしてだよ!
 そんなの、ひどすぎるよ!

「では、お前は何を望んでいた」

 僕は……わからない……
 エヴァに乗ったのも、
 みんながほめてくれるから?
 父さんがほめてくれるから?
 でも、どうしてほめられることを
 望んだのか、わからないんだ。

「それはお前が自分の存在理由を
他人に求めていたからだ」

 ……他人に……

「だがシンジ、お前には他人が解るか」

 ……まだわからない……

「他人に心を開けば自分が傷付くだけだ」

 ……でも、心を開かないと、
 他人がわからない……

「そうだ。人は何故か互いに理解し合おうとする。
だが、完全に理解し合うことはできない。
だから他人が他人である必要はない。
他人と自分が一つになることこそ必要なのだ」

 ……でも、僕は違うと思う。
 父さんには母さんが必要だった。
 他人としての母さんが必要だったんだ。
 僕にも、母さんが必要だった。
 父さんも必要だった。
 それに、綾波も、アスカも、
 他のみんなも必要だったんだ。
 僕が僕であるために、
 他人が必要だったんだ。

「他人がお前を必要としなくてもか」

 みんなが僕を必要としてくれるのかどうか
 まだわからない。
 でも、僕は僕でいることを望みたいんだ。

「他人の恐怖に苛まれてもか」

 だってそれが生きることなんだ。
 他人がいるから、僕がいるんだ。
 他人がいないのは、僕がいないのと同じなんだ。
 だからもう一度みんなに会いたいんだ。
 僕はそう望みたいんだ。
 僕はそう望むんだ。

「私は何も望めない人間ということか。
済まなかったな、シンジ」

 ありがとう……父さん……








































 僕はここにいたい……








































 そして初号機の背中から更に4対の翅が現れ、12枚の翅が赤く輝き始めた。



「ATフィールド、出力増大! アンチATフィールドを侵食します!」



 空は赤い光に包まれていた。
 光の中心には紫の巨人がいた。
 その背に輝く光の翅が天を覆う。
 夜空に雄叫びが轟き、大地をも震わせた。
 胸に根を張っていた樹が砕け散り、宙を漂う。
 身体を磔にしていた槍が次々と外れていく。
 そして槍は白い巨人の手へと還っていった。
 彼らは手にした槍で、自らの胸を突いた。
 まるで死への衝動に襲われたかのように。
 生きる意志を失ったかのように。
 槍は胸の赤い光球を貫いた。
 そのまま背中までをも突き通していく。
 異形の顔が更に醜く歪み、目から光が失われていく。
 白い体躯が朽ち果てるように色を変えていった。
 そして紫の巨人の周りを離れ、暗い宙へと昇っていった。
 紫の巨人はゆっくりと降下を始めた。
 地上から射す赤い光に導かれるように。
 その12枚の輝く翅を広げて。


「……終わったの……」
 輝きながら舞い降りてくる初号機の姿を見て、ミサトが呟いた。
 それと共に天を突くように伸びていた赤い光の柱が、次第にその明るさを失っていく。
 初号機はその光の回廊を通りながら地上へと降りようとしていた。
「ターミナルドグマからのATフィールド、出力減少中!」
「えっ!」
 青葉の声がミサトを現実に引き戻した。
 そう、忘れていた。ATフィールド……ターミナルドグマから、何故?
「観測結果、出ます! パターンレッド! 正体不明!」
 日向がそう告げた。
「くっ……」
 ミサトは迷った。
 いったい、下で何が起こっているの?
 ATフィールド……まさか、使徒?
 いや、それはあり得ない。では、何が?
 下に……下に、何がある?
 下にあるのは、リリス……
 ……まさか?
 ミサトは振り返って司令席を見上げた。
 いない! 碇司令がいない!
 そしてここにいない綾波レイ。
 ……まさか?
 これがもう一つの、人類補完計画?
 そんな、まさか……
 どうする?
「アスカ!」
 ミサトは弐号機に向かって呼びかけた。しかし答はなかった。
「だめです! こちらの呼びかけには反応しません!」
 どうする?
「シンジ君!」
 ミサトはまだ上空にいる初号機に向かって声を飛ばした。
 返事がない……通じてるの?
 それとも、まさか……
 ミサトの心に不安がよぎる。
「初号機、モニター回復!」
「パイロットの自我境界が復元されています!」
「リビドー上昇中! 心理グラフが正常化しています!」
「パイロットは無事です! 生きてます!!」
 日向と青葉がシンジの生還を告げる声を次々に響かせる。
「シンジ君!」
 だがミサトの呼びかけも虚しく、シンジからの返事はなかった。
 紫の巨人は赤い光の柱に包まれたまま、メインシャフトをゆっくりと舞い降りて行った。



 初号機は最下層に降り立った。
 その背の12枚の翅がゆっくりと閉じていく。

(……どこだろう、ここは……)

 気が付くとシンジの目の前には赤い世界が広がっていた。
 まだ夢の中にいるような気分だった。
 それともここは、世界の終わり?
 僕はみんなのところに帰れなかったんだろうか。

 何も解らなかった。頭も身体もぼんやりとしていた。まだ自分が自分でないような気がする。
 だが、自分の前に赤い光があるのは解っていた。
 赤い……赤い、光……そうだ、僕はこの光に連れて来られたような気がする……
 でも、ここは……どこなんだろう?

 赤く染まった世界を見ながら、シンジは答の出ない疑問を繰り返していた。
 次第に、赤い光が弱まっていく。
 遙か向こうに、光の源が見えた。
 シンジはその光に導かれるように歩を進めていた。

 不意に、世界が広がる。
 そこはいつか見た空洞。いつか見たLCLの湖。そして、磔にされた白い巨人。
 今にも崩れ落ちそうなその白い巨人の前に、赤く輝く光の球があった。

(光……赤い光……何だ、これ……これが、僕を呼んだの?……)

 シンジは更に踏み出した。
 初号機の足がLCLの湖に浸かる。
 一歩、また一歩と進む。赤い光がもう目の前にあった。
 シンジは初号機の右手を伸ばすと、赤い光を掌の中に包み込んだ。
 掌が弾かれるような感触が伝わってくる。

(ATフィールドだ……まさか、使徒?)

 シンジは無意識のうちに初号機のATフィールドでそれを中和しようとしていた。
 位相空間が侵食され、赤い光の輝きがわずかに弱まり、光の中心が見え始める。
 何かいる……人……人だ……人がいる……

(でも……そんな……まさか……)

 その姿には見覚えがあった。
 いや、違う。見間違うはずもない、その姿……

(綾波……綾波なの? ……まさか……)

 光の中心から現れたのは、紛れもなく綾波レイだった。
 だがその姿は朧な赤い光に包まれていた。
 そして、その白い肌は童話の中の精霊のように微かに透き通っている。
 綾波……でも、どうして綾波が、こんなところに……

「あ、綾波……」

 シンジは思わず呼びかけた。
 捜していた人がそこにいたという安心感。
 だが、その姿が現実の物に思えない不安。
 複雑な思いで返事を待つ。

『……碇君……』

 そう、確かに聞こえた。それはレイの声だった。
 綾波……やっぱり綾波なの……

『……碇君……』

 レイは再びシンジに呼びかけてきた。
 それは真実の声ではない。シンジの頭の中に直接響く声。
 だがシンジは何も気付かなかった。
 そしてただその名を呼び続けた。

「綾波……綾波なの……」

『……碇君……』

 初号機の手の中で、レイは光に包まれながら、シンジを見ていた。
 その瞳に満ちた赤い光は、心を洗うように澄みきっていた。
 そしてあの慈しみに溢れた視線をシンジに投げかけてくる。
 シンジが失いかけ、悲嘆のあまり泣き尽くしたあの優しさを、今また与えてくれていた。

「綾波……どうして……」

 何も言えない。何を訊いていいかも解らない。
 疑問の言葉さえ失ったシンジに、レイが心の声で語りかけた。

『……ごめんなさい……』

 ごめんなさいって、何が?
 だがシンジはそれさえも言葉にすることができなかった。
 唇が震えて、声にならない……

『……ごめんなさい……ここに、呼んでしまって……』

 …………

『……ごめんなさい……もう一度だけ、会いたかったから……だから……』

 …………

『……でも、ごめんなさい……』

「……どうして……謝るの?……」

 シンジはやっとそれだけ口にした。
 だが、レイはそれには答えてくれなかった。
 静かな声だけが返ってくる。

『……私、消えるの……』

 ……消える?
 消えるって、どういうこと? 消える……

「消えるって……綾波……」

 消える、という言葉の意味が、シンジは解らなかった。
 消える……何が消えるの?
 呆然とするシンジに、またレイのか細い声が届く。

『……ATフィールドが、なくなるから……』

「ATフィールドって……」

『……心の壁を、開放したから……』

「心の、壁……」

 シンジはただレイの言葉を繰り返すだけだった。
 まるで夢の中の出来事のような、ぼんやりした感覚。思考力が失われていく。
 ATフィールド……心の壁……病室で、僕を拒絶した、壁……
 それが無くなるって、どういうこと?

『……だから、消えるの……それが運命だから……』

「消えるって……運命って……」

 ATフィールドが無くなることが……心の壁が無くなることが、消えること?
 でも、そんな……消えるって……

『……私は、そのために生まれてきたから……』

 レイは優しい眼差しで淡々と語り続けた。
 そんなレイを見ているうちに、シンジは気付いた。
 レイの身体の周りを包む靄と、輝きながら舞い落ちる光の粒。
 透き通るその身体が、次第に光を失っていく。
 そしてその幻影のような姿が次第に薄れていく。

 消える……レイのその言葉が、突如シンジの中で現実化する。

 消えていく……綾波が、消えていく!

「うわ……あああーっ! 綾波ーっ!」

 初号機の手の中で、次第に色を失っていくレイの影。
 零れ落ちる赤い光の粒は、レイの命を刻む砂時計。
 命の砂がLCLの湖へと溶けていく。
 それは戻すことのできない時の流れ……

「消えるなんて……消えるなんて、そんな……やめてよ! 綾波ーっ!」

 これ以上、光が零れないように……シンジは初号機の左手を差し出した。
 そして光の粒を受け止めようとした。
 だが、光は掌を虚しくすり抜けて、LCLの中へと舞い落ちていく。

「そんな……どうして……どうして消えるの!? どうして消えなきゃいけないの!? 綾波! どうして!?」

『……それが……私の望みだから……』

「望みって……望みって、そんな……」

 望み……消えることが望みなんて、そんな……

「いやだ……いやだーっ! 消えないで! 消えないでよ! そんなの、やめてよ! お願いだから、そんなこと、望まないでよ!」

 シンジは懇願の言葉を繰り返した。
 だが、レイの身体から舞い落ちる光は止まなかった。
 そして見る見るうちにその影を失っていく。
 レイの身体を通して初号機の掌が見える程に。

 そんな……どうしたら、止められる? どうしたら……
 ATフィールド? そう、ATフィールドが消えるなら、それなら……

「ATフィールドが無くなるなら……僕のATフィールドをあげるから! だから、消えないで! お願いだから、消えないで!」

 シンジは初号機のATフィールドを強め、掌の中のレイを包み込もうとした。
 だが、光はそれでも零れ落ちていく。
 ATフィールドを全開にした。ドグマの空洞が赤い光に包まれる。
 それでもレイの影は薄らいでいく……

『……いいの……もう、だめだから……』

「そんな……だめだなんて、そんな……」

『……いいの……あなたのために、消えられるから……』

「僕のためにって、そんな……やめてよ! 僕のためなら、消えるのをやめてよ! お願いだから、やめてよ!」

 シンジは泣きながら叫んでいた。
 頭の中に、消えそうな程小さなレイの声が響いた。

『……私のために、泣いてくれるのね……』

「だって、綾波が、綾波が……」

『……ありがとう……』

「ありがとうって、綾波……」

『……あなたに会えて……』

 だが、その次の言葉は、シンジには聞こえなかった。
 見つめた視線の先で、レイの口が微かに動いていた。

 ……綾波……何て言ったの?

 聞こえなかった。もう何も聞こえなかった。

「うわあああぁぁーっ! 綾波っ! 綾波ーっ!」

 初号機の掌の中で、今にも消えそうになるレイに向かって、シンジは絶叫を続けた。

「綾波ーっ! 綾波ーーっ! 綾波ぃーーーっ!!!」

 その姿はもう霞のようだった。
 だが、シンジには見えた。レイの表情が。

 ……笑ってる……綾波……どうして……笑ってるの……
 ……何か、言ってる……何て言ってるの……聞こえない……

 レイの唇が微かに動いていた。シンジはレイの口元を必死で見つめ続けた。










 










 




















 






























 






























 そんな……さよならって……さよならって、言ってるの、綾波……

「いやだーっ! 綾波ーっ! さよならなんて……さよならなんて、そんなこと言わないでよ! そんな悲しいこと言わないでよ! 行かないでよ! 行っちゃやだーっ! 綾波っ! 綾波ぃーーーっ!!!」

 シンジの声は確かにレイに届いているはずだった。
 しかしレイは微笑みながらシンジの方を見つめ続けるだけだった。
 そしてレイが儚げに、しかし一際美しい微笑みをシンジに投げかけた瞬間、眩い赤い光が華のように開いて、そして砕け散っていった。

 シンジがどんなに目を凝らして見ても、初号機の掌の中にもうレイの姿はなかった。

「綾波……綾波……」

 消えた……綾波……消えてしまったの……本当に……

 受け容れたくない現実を見せつけられ、シンジの頭の中を、耐え難い衝撃が走った。
 そして次の瞬間、シンジの中で何かが音を立てて崩れていった。










「うわああああぁぁぁぁぁーーーーーーーっ!!!!」




















 シンジの絶叫がターミナルドグマの空気を震わせ、やがて消えていった。








































 微かな水音が響いた。
 それは十字架の上の白い巨人が崩れ落ち、LCLの湖に沈んだ音だった。


















































そして、全ての音が止んだ。










































『何を望むの?』

望んで、いいの?


『何を望むの?』



心の、解放……




『何を望むの?』





魂の、安らぎ……






『何を望むの?』







無へと、還ること……








『何を望むの?』









絶無……










『何を望むの?』












…………















『何を望むの?』


















































「 無 言 」





















新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

To be continued...



Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions