「 無 言 」








































『何を望むの?』




















…………










『何を望むの?』





…………





『何を望むの?』



……ここはどこ?

『何を望むの?』

ここには、何もない……

『何を望むの?』

これが、私の望んだ世界……

『何を望むの?』

これが、私が還りたかった世界……

『何を望むの?』

寂しさも……悲しみも……

『何を望むの?』

苦しみも……不安も……涙も……

『何を望むの?』

何もない……

『何を望むの?』

心も……絆も……

『何を望むの?』

温かさも……

『何を望むの?』

…………

『何を望むの?』

……望んで、いいの?

『何を望むの?』

望んで、いいの?

『何を望むの?』

会いたい……

『何を望むの?』

還りたい……

『何を望むの?』

会いたい……








































『望みなさい』





エピローグ

The end of 『Rei IV



 発令所は静寂に包まれていた。
 ターミナルドグマのATフィールドが消えて……スクリーンには動きを止めた初号機が映し出されていた。
 初号機はLCLの湖の中に立ち尽くし、何かを掴むようにして両手を虚空に差し延べていた。
 しかしその掌の中には何もなかった。
 発令所にいた全ての者が事の一部始終を目撃していた。
 全ては終わった。冬月もミサトもそれを悟っていた。
 重苦しい雰囲気の中、ミサトがそっとため息をついた。
 それだけで発令所全体の空気が震えたような気がして、ミサトは心が痛んだ。
「か、葛城三佐……」
 床に座り込んでいたマヤが小さな声で話しかけてきた。
 静寂に堪えられなくて……出した声だったろう。
 声が震えていた。
「何……」
 ミサトはスクリーンから目を離さずに答えた。
 私の声も震えてる、とミサトは思った。
「葛城三佐……シンジ君に……シンジ君に、伝えた方がいいんでしょうか……アスカのこと……」
 マヤが心配そうにミサトに問いかけた。
 アスカのこと……アスカが、声を出したこと。
 脳波が活動傾向を示していること。そしてモニターに映った、微笑みながら眠る表情。
 レイの消失と共に訪れた、アスカの回復。
 シンジ君に伝えるべきか?
 ミサトはほんの僅かの時間だけ考えてから、決断を下した。
「まだ……後にしましょう。今のシンジ君に、レイのこと、忘れさせたくないから……」
「は、はい……」
 マヤの小さな声が消えると、誰もが沈黙を守り続けた。スクリーンを見つめながら。
 そして再び発令所を虚無の時間が包んだ。



 シンジはエントリープラグの中で背を丸め、膝を抱えて座っていた。
 何も考えられなかった。綾波レイのこと以外は。
 その他のことを考えるのを、彼の全身全霊が拒否していた。
(綾波……消えた……いやだ……もう、いやだ……みんな……みんな、いなくなってしまう……)
(みんな僕から、離れていってしまう……もう誰も、失いたくなかったのに……)
 シンジの頭の中には、赤い光のかけらを舞い散らせながら消えていったレイの姿が焼き付いていた。
 美しく輝く紅の光の中で、霞むように消えていったレイの微笑みを。
(僕は……決めたのに……みんなと一緒にいるって、決めたのに……)
(それなのに、最初の人が……綾波が、僕を……僕はまた拒否されたんだ……どうして……)
(綾波……笑ってた……ありがとうって、言った……カヲルくんも、言ってた……どうして……)
(どうしてみんな、そんなこと言うんだよ……ありがとうって言われても、全然うれしくないよ……)
(僕は……僕は、どうしたらいいんだよ……何て言えばいいんだよ……)
 そして考え尽くしたとき、シンジはもう何もする気が起きなかった。
 このままここで死んでしまいたい……そんな気持ちだけがシンジに襲いかかる。
(でも、僕は死ぬことさえできないんだ……僕は……)
(僕は、どうしようもない臆病者で、弱虫で、卑怯者で……何もできない人間なんだ……)
 シンジの頭の中で、自分と、自分を取り巻く全ての存在が再び否定されていた。
 僕はもう、ダメだ……

「……綾波……帰って来てよ……僕を独りにしないでよ……」

 自分に聞こえる呟きの声さえ虚しかった。
































 時は流れた。
































 そこに微かな光が舞い降りた。
 エントリープラグの、LCLの中に白い光の粒がいくつも落ちてきた。
 まるで夜空から降ってくる雪のようにも見えるその光は、静かに静かにシンジの身体を包み込んだ。
 堅く目を閉じていたシンジは、そのことに気付かなかった。
 光の粒は、しかし雪のように降り積もることもなく、プラグの壁面を魔法のようにすり抜けて落ちていった。

 ほんの少し、温かい感じがした。

 シンジは何かを感じたような気がして目を開けた。
 そして、自分の周りに舞い散る光の粒に気付いた。

(何だ、これ……光? ……光だ……光が降ってくる……青白い、光……)

 光の粒は次第にその量を増していた。
 電源の切れたプラグの中は真っ暗なのに、自分の周りだけが青白く光って見える。
 ぼんやりと光の粒を眺めていたシンジの頭の中にも、青白い光の粒が降り注いできた。
 光……

(何だ、これ……この感じ……知ってる……そうだ……綾波? ……綾波なの? ……綾波……)

 シンジはあわてて周りを見回した。
 綾波の感じがする。
 イメージだけじゃない、綾波の気配……
 しかし、狭いエントリープラグの中に、シンジはレイを見つけることができなかった。
 すぐそばにいる気がしたのに……

「綾波!」

 シンジは大声でレイに呼びかけてみた。
 もちろん、声が返ってくるはずはなかった。
 しかし、シンジの頭の中が青白く光った。

(綾波が、いる……どこに……どこにいるの? ……綾波……外……外にいるの?)

「綾波!」

 シンジはもう一度叫ぶと、エントリープラグの強制排除スイッチを押した。
 非常用に残された僅かな電源と、プラグ射出用のエアが初号機の背中からエントリープラグを外に押し出す。

(外に……外に、綾波がいる気がする……でも……でも、どうして……)

「綾波!」

 ハッチを内側から開けた。プラグ内のLCLがこぼれ落ちていく。
 外ではプラグの中と同じように、光の粒が粉雪のように舞っていた。
 シンジはハッチから身を乗り出し、どこへともなく呼びかけた。

「綾波!」

 ターミナルドグマの巨大な空洞にシンジの声が響いた。
 そしてそれは僅かな余韻を残して消えていった。
 光の粒はなおも降り注ぎ、辺りの空気を青白く染めている。
 下を見る。LCLの湖が広がっていた。
 シンジは迷うことなく飛び降りると、LCLの中に沈んでいった。
 苦しくはない。もがきながら水面に浮かび上がり、初号機の足元にたどり着いてすがりつく。
 飲み込んだLCLを全て吐き出すと、再び湖に向かって叫んだ。

「綾波!」

 声が空洞内でこだました。
 だがそこに何も答はなかった。
 声の反響が全て消え、再び真の静寂が訪れたとき、シンジを例えようのない孤独感が包んだ。

(いない……やっぱり……やっぱりいないんだ、綾波……)
(消えちゃったんだ……僕は……僕はまた、独りなんだ……)

「うっ……うああっ……ううっ……うっくあぁ……」

 シンジはLCLに漂いながら、声をあげて泣いた。
 独りになったという想いを自分の中で再確認したとき、また涙が溢れてきた。
 涙は頬を伝い落ち、LCLの湖に落ちて、水面にいくつもの波紋を作った。
 青白い光の降雪はいつの間にか止んでいた。
































 水面が揺れた。
































 シンジは泣きながら水面を見つめていた。
 水面が揺れた。
 セントラルドグマのほの明るい光が、さざ波の上で砕けて煌めいた。
 光……

(……光?……)

 水面が光った気がした。
 だが、気のせいかも知れない。
 さっきの光る雪の名残?

(光……光……青白い、光……)

 目の前の水面が揺れて、光った。
 そう、気のせいなどではない。確かに光った。
 青白い光が、LCLの波のプリズムで妖しく輝いた。
 光は、不思議なことに湖の中から射してくる……

(光……湖の中から、どうして……)

 シンジは光る水面をただ見つめていた。
 煌めく、光。まるで、湖に映る月明かりのように。
 そして光は少しずつその強さを増しているような気がする。

(強くなってる……青白い、光……違う、光が……光が、上がってくる……)

 LCLの赤い水面が白く濁って……いや、濁ったのではなかった。
 青白い光の源が、少しずつ浮き上がってきている。
 それは白い影のようにも見えた。

(影……白い、影……まさか……)

 心の中を一瞬だけ恐怖が駆け抜けたが、シンジはその影から目を離すことができなかった。
 荘厳な青白い光を放つその影は、少しずつ、少しずつ水面へと近づいてくる。
 そして次第にその姿をはっきりさせてくる。

(白い、影……使徒……人? ……人だ……人が……浮いてくる……)

 影は人の形をしていた。
 それはまるで、精巧に作られたガラス細工の人形のようだった。
 真っ白な肌……青白いほどに、透き通るように、白い肌……
 細くしなやかな、手足……折れそうに華奢な、躰……
 そして、澄んだ蒼銀の、髪……
 たとえその双眸が閉ざされていても、見まごうはずもないその愛しき面影……

「あ……綾波……」

 思わず声が出る。
 信じられない思いでシンジはその影を見つめ続けた。
 綾波レイ……その可憐な姿が、しずしずと水面に向かって浮き上がってくるのだった。

「綾波……」

 シンジは初号機の足元を離れると、その姿に向かって水面をかき分けていった。
 影は少しずつ水面に近付き、シンジと影の距離も縮まっていく。
 そして綾波レイの姿をしたその影は、水面まで……ついにシンジの手の届くところまで浮かび上がってきた。

「あや……なみ……綾波……」

 シンジはその影に向かって呼びかけ続けた。










……ここは、どこ?
私、消えたのに……
心だけが、あるのね……
ここは……

……夢?
そう、夢を見てるの、私……
二度目の、夢……
夢の中で、声がする……





『綾波!』





この声、知ってる……
碇君……
碇君の、声……
温かい声……
懐かしい感じ……
会いたい……もう一度……










「綾波!」

 綾波レイの姿をしたその影は、シンジの腕の中にあった。
 幻などではない、確かにそこに存在する影。
 シンジはその影をかき抱くと、渾身の想いを込めて呼びかけた。

「綾波!」

 シンジの涙の叫びに、その繊細な人形はうっすらと目を開いた。
 瞼が微かに震え、長い睫毛についた水滴が揺れる。
 赤い瞳が濡れて美しく煌めいた。

「綾波!」










夢……私、夢を見てる……
だって、碇君が、いるもの……
また碇君の夢を、見てる……





『綾波!』





碇君の声……
温かい……どうして?
夢なのに……





『綾波!』





碇君の匂いがする……
碇君の温かさを感じる……
私、消えたのに……どうして?





『綾波!』





碇君……泣いてる……また泣いてる……
前にもあった……こんな時……
そう、こんな時、私……










 シンジは見た。レイが僅かに微笑むのを。自分の腕の中で、レイは確かに微笑んだ。

「綾波……」
「……いかり……くん……」

 小さな声だった。

「あやなみ……聞こえるの? 綾波……」
「……碇君……私……」

 レイの声が儚く途切れた。
 シンジは何も言えず、レイの次の言葉をただ待つことしかできなかった。
 これ以上話しかけたら、またレイが消えてしまいそうな気がした。
 不安で不安で仕方なかった。
 胸が震えた。レイを抱く腕も震えていた。
 震える腕で、シンジはレイの身体の重さを感じていた。
 綾波の、重さ……軽い……でも、確かに、感じてるのに……綾波……消えないで……

「……私……」

 触れたら消えてしまいそうな、声……

「……私……生きてるの?……」
「あや、なみ……」
「……碇君……」
「…………」

 ……碇君……どうして、答えてくれないの?
 ……私……私、やっぱり、消えてしまったの?……

「綾波……」

 言葉にならなかった。
 シンジの胸の奥から熱いものがこみ上げてきて、何も言うことができなかった。
 涙が溢れて、止まらなかった。
 綾波……綾波、また……また、会えた……僕を独りに、しないでくれたんだ……

「綾波……生きてる……」
「……碇君……」
「綾波……生きてる……帰って……帰ってきて、くれた……」

 ……生きてる……私、生きてるの?
 ……そう……それなのに……どうして、泣いてるの?
 ……私……私、泣いてるの?
 ……碇君と、また会えたのに……こんなに、うれしいのに、私、泣いてる……

 レイの赤い瞳から大粒の涙が溢れ、LCLに濡れた頬を伝って、水面にこぼれていった。

 ……涙……うれしいとき出る、涙……温かい……

「……碇君……」
「綾波……」
「……碇君……ただいま……」
「あ、綾波……お帰り、綾波……うっ、うあっ、うう、ああぁ……」

 碇君……泣かないで……私、こんなに、うれしいのに……

奇跡は起こるよ、何度でも



エピローグ

魂のルフラン








『彼女がそれを望んだのさ』





 声がする。
 シンジはその声がした方向を見た。
 LCLの水面に、それは立っていた。
 いや、水面から僅かばかり離れたところに……浮いていた。
 レイと同じ、青白い肌。紅い瞳。そして、銀色の髪。美しく整った顔立ち。
「カヲル君……」
 それは、シンジが最後に見た時と同じ姿で、そこにいた。
 ズボンのポケットに両手を入れて、宙に浮いていた。
 そして、あの人なつっこい、優しい笑顔をシンジに投げかける。
『彼女がそう望んだのさ。君にもう一度会いたいとね』
 その笑顔に、シンジの心が震えた。
「カヲル君……カヲル君なの?」
『そう、僕だよ、シンジ君』
「カヲル君……帰って来てくれたの……」
 しかし、カヲルはそれに答えずに話し続けた。
『彼女は望んだ。消えることを……無に還ることを。そして消えた。望みどおりに。ただ、その後で……もう一度望んだんだ』
 そこでカヲルは一度言葉を切って、一際優しい笑顔を浮かべると、静かに言葉を続けた。
『君に会いたいとね。そしてまたここに還って来た』
「…………」
 シンジは呆然として何も言えなかった。
 カヲル君が何を言っているのか……わかるような気もする……
 そう、僕も望んだから……みんなに会いたいと望んだから、ここにいる……
 でも……まだ信じられない……でも、確かに、綾波はここに……
 そして、自分の腕の中にあるレイを見た。
 レイは目を閉じて力無く水面に横たわっている。
「あ、綾波、綾波!」
 シンジはあわてて声をかけた。
 その細い肩を持って身体を揺らしたが、レイの瞼はピクリとも動かなかった。
『心配ないよ。気を失っているだけさ』
「えっ……」
『還って来たばかりで、まだ身体が弱いんだ。それに、彼女の望みが希薄だからね。シンジ君が支えてあげないとまた消えてしまうよ、彼女は』
「あ……」
 シンジはその言葉にハッとして、もう一度強くレイの身体を抱き寄せた。
 二度と離すことがないように。
『そして彼女が還ることは僕の望みでもあった』
「カヲル君の?」
 カヲルの言葉に、シンジは視線を宙に戻した。
『言ったろう。……君たちには未来が必要だとね』
 そう言ってカヲルはまた微笑んで見せた。
 心が洗われるほどに清々しく。
「じゃあ、カヲル君は……カヲル君は帰って来ないの? 帰って来てくれないの?」
 シンジは先程の疑問をもう一度彼に投げかけた。
『僕は還れないんだ。今、君に見えているのは僕の魂さ。この姿は偽りなんだ。君に会いたいと願ってはいるけれどね』
 カヲルは事も無げにそう言うと、肩をすくめて見せた。
「魂?」
『彼女はリリスより生まれし者だからね。そしてリリスはここにあった。彼女の魂はリリスの身体を得た。だから還れたんだ』
「リリスって……」
『そう、彼女はリリスより生まれし拾八番目の使徒、リリンだ』
「リリン……」
 その名前は、どこかで……
『君と同じなんだよ、シンジ君』
「僕と……同じ?」
『そう。前の彼女も君と同じだったはずだよ。ただ少し特別な存在だっただけでね』
 それからカヲルは一度天を仰ぎ、目を閉じた。
 まるで何事かを回想するかのように。
 そして再び視線を落としてシンジを見ながら言った。
『僕はアダムより生まれし者なんだ。だから……』
 しかしカヲルは急にそこで言葉を切ると、自分の足元の水面を鋭い視線で睨み付けた。
 まともに見ていたら、その瞳の光で背筋が凍ったであろう程の厳しさで。
『まさか!? いるのかそこに!』
 カヲルのその言葉と共に、足元の水面が波立ったかと思うと、それは巨大な水柱となって彼を襲った。
 そしてその姿をシンジの前から消し去った。
「カヲル君……うわっ!」
 ものすごい量の水しぶきがシンジたちに降りかかって来た。
 寄せてくる大きな波にレイがさらわれないように、シンジは必死でレイを抱き留める。
 だが波は二人の身体を容赦なく押し流していく。
 シンジは手を伸ばし、それ以上流されないように初号機の足にすがりついた。
 水柱はやがて滝のような雨となってシンジたちを襲った。
「カヲル君! カヲル君! 大丈夫? カヲル君!」
 雨が降り止み、波がひとしきり治まった後で、シンジは彼がいたはずの水面に向かって呼びかけた。
 だがそこに彼の姿はなかった。
「こっちだよ、シンジ君」
 シンジの後ろからその声はした。
 あわてて振り返ると、カヲルが湖の岸のコンクリートの床から立ち上がろうとしているところだった。
「やれやれ、ひどい目に遭ったな。髪が濡れてしまったよ。後でシャワーを浴びないと。そうだ、一緒に行かないか、シンジ君」
 カヲルはそう言いながら、頭を振るようにして髪の水気を飛ばすと、手櫛で髪型を整えた。
 髪よりも着ている制服の方がずぶ濡れなのだが、そんな余裕のある言葉を吐く姿は何故だかとても様になっている。
 そして再び両手をポケットに突っ込むとシンジの方を見た。
 まるで夕立に降られただけのように平気な顔をして。
「カヲル君……大丈夫?」
「お陰さまでね」
 シンジが心配して声をかけると、カヲルは例の人のいい微笑みをシンジに返した。
 つられてシンジも笑う。
 カヲルが言葉を続けた。
「まさか、アダムもここにあったとはね……」
 レイの微笑みにも似た美しい笑顔が印象的だった。
「えっ、じゃあ……」
「だが、サードインパクトは起きなかったようだね。どういう訳か」
「…………」
 シンジはやっと気が付いた。
 そう、使徒とアダムの接触、それがサードインパクトを引き起こす。
 でも……何も起きない……どうなったんだろう……
「それはもしかしたら彼女の望みなのかな」
 そう言うカヲルの視線はシンジを通り越していた。
「えっ……」
 シンジはあわてて湖の方を振り返る。
 湖の上に……人影が立っていた。
 誰……女の人だ……誰だろう……
 あの笑顔……誰だろう……知っているはずなのに……
 記憶にないのに、その笑顔を見たことがあるような、不思議な気分だった。
 誰だろう……でも、見たことがある……知ってる……
(そう、僕は知っている、この人を……この感じ、知ってる……憶えてる……)
 シンジの頭の中を、子供の頃の思い出が駆け抜けた。
 子供の頃、僕を包んでくれた、温かさ……優しさ……
 思い出の中にある、その笑顔……懐かしい、笑顔……僕は憶えてる……そうだ……





「……母さん……」





 その人影はただ無言のままシンジたちに微笑みかけると、波間に消えていった。

「そう、僕たちが今ここにいるのも、彼女の望みなのかも知れないね」

 カヲルの呟く言葉が空洞に響き、やがて辺りを元の静寂が包み込んだ。










 ジオフロントの遙か上空では、月がその銀色の輝きを取り戻していた。












epilogue

in other words, I love you




 パシュッ……
 病室のドアが開く音がした。
 ベッドの上で起きて座っていたレイは、その音のする方向に顔を向けた。
 もちろん、見なくても誰が入ってきたのかはわかっていた。
 だが、その人の方を見ずにはいられなかったから。
「おはよう、綾波」
「……おはよう、碇君……」
 入ってきたのはシンジだった。
 レイが入院してから、今日でちょうど1週間目になる。
 ターミナルドグマのLCLの湖の中から再構成されたレイは、身体が著しく衰弱していて、回復と精密検査のために本部の地下施設に入院していた。
 もちろん、シンジは毎日病室に通い詰めた。
 と言っても、ジオフロントの崩壊で地上に上がることはできず、館内に泊まり込みながらだったが。
 涙の再会の後、レイは一時的に昏睡状態に陥り、2日間も目を覚まさずにいた。
 このままずっと意識が戻らないのでは、こうしているうちにまたレイが消えてしまうのでは、とシンジは気が気ではなかった。
 だから、シンジの目の前でレイが目覚めたときには、またうれし涙を流してしまった。
 もちろん、そのときレイが浮かべた意識的な微笑みがその涙の量を増やしたのは言うまでもない。
「気分はどう?」
「……だいぶ、いい、みたい……」
「そう。良かった」
 シンジはそう言ってレイに微笑みかけた。
 レイもそれに微笑み返す。
 あれから、レイの表情が豊かになったような気がする、とシンジは思った。
 実は、レイが微笑むのはまだシンジに対してだけで、医師や看護婦にさえ相変わらずの無表情を通しているのを彼は知らない。
「早く退院できるといいね。昨日から上に出られるようになったんだ。ミサトさんの家や、綾波の部屋も残ってたらしいよ。ほとんど壊れてたみたいだけど」
「……そう……」
 幸いにして、ジオフロントには自給自足のための設備から非常食まで全て揃っていたので、一週間閉じこめられていても困ることはなかった。
 昨日、ようやくリニアが復旧し、人と物資の往来が可能になったところだ。
 そして上に行った人が伝えてくれた状況によると、かなり郊外にあったほんの一部の建物だけが残っていたらしい。
 もっとも、倒れていなかったという程度で、廃墟同然だったらしいが。
「あ、そうだ、昨日と言えば、アスカは昨日退院したんだって。急に元気になったらしいんだけど、どうしたのかな、一体」
「……そう……」
 アスカの話題が出て、レイが少し複雑な表情になったのを、シンジは持って来た花を活けていて気付かなかった。



「グーテンターク、シンジ!」
 突然の来訪者があったのは昼過ぎだった。
 両手で抱えるほど大きな花束の後ろから現れたのは惣流・アスカ・ラングレー。
 その姿はあまりにも元気そうだった。
 みずみずしい肌も、つややかな髪も、以前の状態にすっかり戻っている。
 何もかもが昔の彼女、そのものだった。
 そして彼女は、あの黄色いワンピースに身を包んでいた。
「あ、アスカ、来てくれたの?」
 ちょうどレイの昼食が終わったところだった。
 ……良かった。もう少し早く来てたら、綾波に食べさせてあげているところを見られて、また冷やかされるところだった。
 だからシンジは曖昧な表情をしていたのだろう。
 アスカは笑顔から一転して口を尖らせた。
「何よ、その顔は……あたしがお見舞いに来てあげたんだから、もう少しうれしそうな顔しなさいよ」
「え、あ……」
 でも、僕のお見舞いに来たんじゃないはずなのに……
「……ごめんなさい……」
 シンジが言い淀んでいると、レイが先に謝ってしまった。
 アスカはそんなレイの反応に意表を衝かれたのか、キョトンとしている。
「そ、そうね。まあ、今日のところは許してあげるわ。私、今日は機嫌いいから」
 そう言ってからつかつかとベッドに歩み寄ると、大きな白い花束をレイの方に差し出した。
「これ、あげる」
 機嫌がいい割には、素っ気ない言い方だった。目つきも笑っているとは言えない。
「…………」
 レイは無言で花束を受け取ったが、どうしていいかわからないので、シンジの方を見て目で訴えた。
 しかし、シンジもアスカの意外な行動に呆然としていて何も対処してやれなかった。
「ちょっと、ファースト、何か言ったらどうなの? このあたしが、せっかく花束持ってアンタを見舞いに来てやったのに」
 アスカは両手を腰に当てて、レイを睨みながらそう言った。
 睨むと言っても、以前ほどの険悪な目つきではなかったが。
 レイは一瞬アスカの方を見て、それから視線を下に逸らしながら言った。
「……あ……ありがとう……」
 たぶんアスカがもう少し離れていたら聞き取れないような小さな声だった。
 しかし、レイのその言葉に一番驚いていたのはアスカだった。
(あのファーストがお礼を言うなんて……)
 自分がその言葉を要求したはずなのに、実際に言われて彼女は驚いていた。
 あの人形みたいな女が……
 それからジロッとシンジの方を見た。
 ……何かあったのね、こいつと……


 しばらくの沈黙の後、アスカはシンジの方を見て、急に言葉を切り出した。
「ところで、あんた、これからどうするの?」
「どうするって……何が?」
 シンジのその答に、アスカはキッとシンジを睨むと、右手をシンジの方に突き出し、シンジの額を指でパチンと弾いた。
「痛ッ……な、何すんだよ」
「あんたバカァ? 何にもわかってないのね。いいわ、一から説明してあげるからよく聞きなさいよ」
 アスカはシンジの目の前で脚を少し広げて立ち、腕を組んだ。
 アスカお得意の、シンジへの説教ポーズだ。
 シンジは条件反射的におとなしくなってしまう。
「いい? まず、使徒はもういなくなった。人類補完計画もなくなった。ミサトから聞いたわよね?」
「う、うん」
「つまり、エヴァはもう要らなくなった。そうね?」
「うん」
「つまり、エヴァパイロットであるあたしたちの仕事は無くなったの。わかる?」
「うん」
「つまり、あたしたちは解任されるわけ。これもいい?」
「うん」
「つまり、あたしたちはNERVの関係者じゃなくなるの」
「うん」
「つまり、あたしとあんたは、もうミサトと同居できないの。どう、これで全部わかった?」
「えっ、じゃ、つまり……」
 ……そういうことか。
「そ! あたしとあんたは、ミサトの家を出て、新しい居場所を探さなきゃいけないの!」
「…………」
 シンジは無言で考え込んだ。
 理屈では確かにそうだ。僕らはミサトさんの家を出て行かなきゃならないだろう。
 今まで、二度も解任されかかっているからよくわかる。
 無関係な人が同居することなんてできるわけがない。
 ミサトさんはまだ僕にはそんなこと何も言ってないけど、たぶんアスカの言うとおりなんだろう。
 黙ったままのシンジに少々いらついたのか、アスカが大きな声を出した。
「だいたい、あんなにぶっ壊れた家に、もう住める訳ないじゃない!」
「アスカ、見てきたの?」
「当たり前でしょ。家に服取りに行ったんだから」
「あ、そうか……」
 だからあの時の服を着てるんだ。
 シンジはようやく気が付いた。
 アスカは下を向いて考え込んだシンジにもう一度質問を投げかける。
「で、どうすんの!」
「……アスカは、どうするの?」
 シンジは顔を上げて、アスカに訊いてみた。
「あたし? あたしはドイツへ帰るの」
 そう言ったときのアスカの顔は、何となく寂しそうだった。
 シンジを見ていた視線も少し逸らしてしまっている。
「アスカ、帰っちゃうの?」
「だって、私はドイツ支部所属だもの。向こうが私の身の振り方を決めるから、仕方ないのよ」
「そうなの……」
 でも、ドイツに帰れるのに、どうしてアスカはうれしそうじゃないんだろう。
「そうよ。で、あんたはどうすんの?」
「僕は……どうしよう……」
 シンジはまた下を向いて考え込んだ。
 そうだ、僕は何も考えていなかった。
 しばらくしたらまたいつもの生活に戻れるような気がして。
 だけど、そんな考えじゃいけなかったんだ。
 僕は……僕は、どうすればいいんだろう。
 どこに行けばいいんだろう。
 そう言えば、カヲル君はどこへ行ったんだろう。あの後、急にいなくなったけど……
 そうやってシンジが考え込んでいると、アスカがシンジの顔を覗き込みながら言った。
「あたしと一緒に、ドイツに来る?」
 シンジはそう言ったアスカの表情を見て、ドキッとした。
 こんなアスカ、初めて見た……
 その表情は、シンジが今までに見たアスカの笑顔の中で、とびきり最高の笑顔だった。
 はっきり言って、綺麗だった。可愛いというレベルを通り越している。
 思わず顔が赤くなる。
 あわてて言葉をつないだ。
「えっ、で、でも、そんなの、悪いよ。アスカ、せっかくドイツに帰れるのに、僕まで付いて行ったりしたら、迷惑じゃ……それに、僕、ドイツ語しゃべれないし……」
「……ニブい男……」
 アスカのそのつぶやきは、シンジにはよく聞き取れなかった。
「えっ、何?」
「何でもないわよ、バカ!」
 いきなり怒られて訳の解らなくなったシンジを後目に、アスカはレイの方を見て言った。
「あんたはどうすんのよ、ファースト。今、あんたがいる家だって、どうせ壊れかけなんだし、例え残ってたってNERVにあてがってもらってるところなんだろうから、そのうち出て行かなきゃなんないかも知れないのよ」
 アスカが綾波の心配をしてる……シンジは不思議な光景を見て、言葉を失っていた。
 今日のアスカ、どうしちゃったんだろう?
 シンジはアスカとレイの顔を交互に眺めながら考えていた。
「……私は……」
 レイの声は、相変わらず小さな声だった。
 しばらく間を置いてから、呟くように言った。
「……私は、碇君と、一緒になりたい……」
「えっ……」
「なっ……」
 シンジとアスカは絶句した。
「……私は、碇君がいなければ、もう、生きていけないから……」
 レイはうつむき加減で、二人の方を見ずにそう言ったが、表情は真剣だった。
 そう、シンジだけが、自分の心の支え。これからもシンジの存在を頼りに生きていきたい。
 だが、そのことを表現するにはあまりにも言葉が少なすぎた。
「なっ、何よっ、あんたたちっ! ……シンジったら、あたしのお見舞いに来ないと思ったら、ファーストといちゃついてたってわけねっ! もう、信じらんないっ!」
 アスカは顔を真っ赤にしてそう言った。
 顔が赤くなったのには、レイのストレートな言葉に対する幾分の照れがあっただろうが、もちろんシンジはそんなことには気付かない。
 アスカが怒ったと思っていつもどおりなだめにかかる。
「ア、アスカ、えと、そうじゃなくて……」
「うっさいわね、バカシンジ! いいわよ、もう!」
「で、でも、この1週間はちゃんとお見舞いに行ったじゃないか。その前の週だって毎日……」
「もういいって言ってるでしょ!」
 アスカはひとしきり大声を張り上げた後で、小さな声でブツブツとつぶやいた。
「……ったく、シンジが見舞いに来ないと思ったら変な奴は来るし……何なのよ、あいつは……」
「え、何?」
「ああ、もう、うるさい! あたし、帰る! ドイツに戻るのに、荷物詰めなきゃならないし……」
「ア、アスカ……」
 アスカはくるりと踵を返すと、シンジの言うことも聞かず、病室を出て行きかけた。
 ドアを開け、外に出たところで立ち止まる。
 そして振り返りもせずに言った。
「シンジ……ちょっと、来て」
「えっ……」
「いいから、来て!」
 シンジはちらりとレイの方を見たが、レイは考え事でもするかのようにぼんやりとしていた。
「あ、綾波、すぐ戻るから……」
 シンジはレイにそう言うと、立ち上がってアスカの後を追いかけた。


「アスカ!」
 早足でスタスタと歩いていくアスカの後を、シンジは小走りに追いかけた。
「病院で大きな声、出さないで」
 シンジが追いつきかけたところで、アスカはくるりと振り返ってそう言った。
「ご、ごめん……」
 アスカの前で立ち止まると、シンジは思わず謝った。
「何、謝ってんのよ。いいから、もっとこっち来て」
「え?」
「いいから!」
「あ、う、うん……」
 アスカに招き寄せられるままに、シンジはアスカの方に近寄って行った。
「もっと寄んなさいよっ!」
 アスカの顔がどんどん近づいてくる。もう目の前だ。
 久しぶりにこんな近くで見た……あの時、以来……
「えと、アスカ、その……」
「……これは、お別れの挨拶よ。いいわね?」
「え、何……」
 シンジがそう言い終わらないうちに、アスカの顔が急速に近づいてきた。
 思わず身を引きそうになったが、いつの間にかアスカの両手がシンジの顔を押さえている。
 そして二人の影が重なった。あっという間のことで、目を閉じる暇さえなかった。
「……!……」
 シンジは無意識のうちに息を止めていた。
「…………」
 それは10秒にも満たない短い時間だった。
 アスカの顔が、ゆっくりとシンジから離れていく。
 そこにしばらく、言葉はなかった。
 アスカは少し寂しげな目でシンジを見つめていた。
「ア、アスカ、あの……」
「……さよなら……」
 シンジが話しかけた瞬間、アスカは小さい声でそう言うと、振り返って駆け出した。
「ア、アスカ!」
 シンジはなぜか追いかけることができなかった。
 足が立ちすくんでいた。
 アスカは廊下の先で立ち止まって振り返ると、シンジに向かって手を振った。
「アウフ・ヴィーダーゼーン! シンジ!」
 その時のアスカの笑顔は、シンジの胸に一生残るような笑顔だった。
 とても可愛くて、なのに少し寂しげな笑顔。
「アウフ、ヴィーダー、って……なんだろ……」
 アスカに手を振りながらぼんやりと考えているうちに、また振り返って駆け出していったアスカの姿は、シンジの視界から消え去って行った。


 茫然自失の一瞬を過ごした後で、シンジがレイの病室に戻ると、看護婦が二人、シーツを取り替えているところだった。
 レイはシンジがいつも座っている椅子に腰掛けている。
 シンジが病室に入って行こうとしたとき、顔見知りの看護婦がそれに気付いて、シンジを押しとどめた。
「ごめんなさい。少しの間だけ、出ていてくれる?」
「あ、はい……」
 訳が解らないまま、シンジは素直に病室の外に押し出された。
 いつものシーツの取り替えならこんなことはないのに。
 出て行くときに、シンジはちらりとレイの方を見た。
 レイもシンジに気付いて視線を走らせたが、一瞬目が合っただけで、さっと顔を背けてしまった。
 どうしたんだろう。何か顔が赤いみたいだけど。
 また具合が悪くなったのかな……
 しかし、それを確かめる前に病室のドアは閉まってしまった。
 なかなか開かないドアに、シンジはあきらめて遅めの昼食を摂りに行った。



 少年は一人、出口付近の壁にもたれていた。ポケットに両手を突っ込みながら。
 誰かを待っているのだろうか。
 そこにエレベータから降りてきたアスカが通りかかる。
 そして無言で少年の前を通り過ぎようとした。いや、彼女は彼を無視しようとした。
「面会は終わったのかい?」
 少年がアスカに言葉をかけた。
 何気ない会話のように穏やかな声で。
「見ればわかるでしょ!」
 アスカが不機嫌そうに声を返す。少年の顔も見ずに。
 そして、ゲートの前で立ち止まると、持っていたカードをスキャナに通した。
 自動ドアがゆっくりと開いていく。
 完全に開ききる前にアスカは歩き始め、ゲートを通り抜けた。
 少年もその後ろについて歩こうとする。
 すると、アスカがまた立ち止まって低い声で言った。
「……付いて来るのは勝手だけど、変な真似したらコロスわよ。あんたがママのこと知ってたからって、あたしは気を許した訳じゃないんだから」
 少年は肩をすくめて、ゆっくりと言葉を返した。
「行ってしまっていいのかい? このまま」
「ふん!」
 アスカは再び歩き始めると、誰に言うともなく呟いた。
「……どうせすぐ、戻って来れるわよ。こんなところ……」
 銀髪の少年もその後ろから歩いていく。
 そして、二つの足音は去っていった。



 もうすぐ6時になる。
 シンジは昼食から戻ってきた後、レイと一言も話をしていない。
 レイはシンジの方を見てくれようともしなかった。
 顔を背けるようにして、窓の外を眺めている。
 地下の殺風景さを隠すためにホログラムによって描かれた、仮想的な自然の風景を。
 どうしたんだろう、いったい……
 その時、ドアが開いて誰か入ってきた。
「今晩はー」
「……ミサトさん……」
 入ってきたのはミサトだった。NERVの制服のままだ。
 仕事を抜け出して来ているのだろうか。
 ミサトは手に、アスカに比べたらずっと控えめな花束を持っていた。
 赤い花……
「レイ、聞いたわよ。おめでとう」
 ミサトは入ってくるなり、シンジを無視してレイに話しかけた。
 レイはミサトの方をちらりと見遣って、また視線を外すとコクリと頷いた。
 シンジの方は見ようともしてくれない。
 聞いたって、何を? 僕は、何も聞いてないの?
「ミサトさん、あの……何かあったんですか?」
「あ、シンちゃん、聞いてないのね。……レイ、シンちゃんに話しちゃっていい?」
「…………」
 レイは少し躊躇した後でゆっくりと頷いた。
 その頬がほんのりと赤く染まる。
「シンジ君?」
「あ、はい……」
 レイのほの赤い顔をぼやっと眺めていたシンジは、ミサトの呼びかけに振り返った。
「あのね、レイは女の人になったの。わかる?」
「は……」
 女の人って……綾波は、初めから女じゃないか……
「わかんないみたいね。じゃ、夕食取ってきてあげて」
「あ、はい……」
 意味不明の発言の後は、夕食?
 言われるままにシンジは夕食を取りに行った。
 食事の載せられたワゴンを押して病室に帰ってくる。
 何だこれ……変なお粥だな。これが病院食?
「あ、小豆粥ね。それ、たぶんお赤飯の代わりよ」
 と、ミサト。……だから、何?
「第3ヒント。学校で習わなかった? 保健の授業とかで」
 え? ……それって、もしかして……
「あの……」
「解った?」
「何となく……」
「そ。じゃ、そういうこと」
 シンジはレイの方を見た。レイは相変わらずシンジの方を見てくれない。
 ずっと窓の外の仮想風景を眺めている。そしてその頬は朱に染まったままだ。
「何か言ってあげたら?」
 ミサトがそう言ってシンジをけしかける。
 しかし、シンジは何と声をかけていいか解らなかった。


「あの……ミサトさん……」
「ん? 何?」
 レイの夕食の間にNERVの現状やこの先のことをミサトから聞きながら、シンジは昼間のことを思い出していた。
 そう、聞いておかなきゃ。
「あの……僕たちのこれから先のことなんですけど……」
「ん? ああ、部屋の話でしょ?」
「あ、はい……」
「そうそう、それを言いに来たのもあるのよね。選択肢は二つよ。自分で住む部屋を探すか……」
 ミサトは内ポケットから封筒を取り出して言葉を続けた。
「NERVが用意したこの部屋に住むか。第3新東京はもう住むとこないから、第2新東京なんだけど」
「……用意してくれてたんですか?」
「世界を守ってくれた英雄に、お役御免だからって何にもしないんじゃ、ひど過ぎるわよ」
「世界って……別に僕は……」
 もちろん、シンジにそんな実感はない。
 ミサトはそれを無視して話を続けた。
「残念ながら、どっちにしろ当分は監視付きだけどね。…そうそう、退職金みたいなのも出るから。奨学金っていう形で、何回かに分けて毎年国連から支給されるわ。結構法外な額よん」
 そう言ってミサトは茶目っ気たっぷりに笑った。
 シンジもふっと表情を緩めて答える。
「じゃ、そこでいいです……」
「シンジ君が自分で決めてもいいのよ」
 ミサトが急に真剣な顔になってシンジにそう言った。
 こんな真剣な顔のミサトさん、見たことある。
 僕がここに来て、どこに住むかもめたときも、そうだった……
「あの、それじゃ……」
「ん? どっか希望ある?」
 ちょっと身を乗り出したミサトに、シンジは言った。
「とりあえずそこに住んで、しばらく考えてから決めるっていうのは……」
「……ま、シンちゃんじゃそれくらいがせいぜいか……」
 ミサトは少しあきれたような顔をしてそう言った。
 期待が裏切られたような表情で。
「レイ?」
 気を取り直してミサトはレイに声をかける。
「どうするの?」
「…………」
 レイは答えなかった。
「アスカから聞いたんだけど……」
 ミサトがそう言うと、レイはピクッと肩を震わせた。
 しかし、まだ窓の外を見つめたままだった。
「お望みどおりのお部屋を見つけてあげたんだけど、どうする?」
 レイがはっとして振り向き、ミサトを見た。
 ミサトもシンジも初めて見た、レイの驚きの表情だった。
 ミサトは手に持った封筒をうれしそうにヒラヒラさせている。
「とーっても、い・い・と・こ・ろ、よん」
「…………」
「シンちゃんと、同じところなんだけどなー」
 レイの表情が緩んだ。少しうれしそうな表情。
 シンジ以外に見せた、久しぶりの笑顔だったろう。
 その笑顔にミサトは少し驚いたようだが、すぐに自分も笑顔に戻って言葉を続けた。
「それでいいわよね、レイ?」
「……はい……」
 レイはそう言うと、はっきり微笑んだ。
 ミサトは満足げに頷くと、シンジの方を振り向いて言った。
「シンジ君は?」
「えっ……」
「……まさか、嫌なの?」
 ミサトがジト目になってシンジを睨み付ける。
「あっ……いえ、そういうことじゃ……」
 シンジはあわててミサトから視線を外すとレイの方を見た。
 レイは先程の笑顔とは打って変わって、心配そうな表情でシンジの方を見つめていた。
 そんな顔されたら、嫌だなんて言えない。
 いや、そうじゃなくて、その……
「あの……それでいいです……」
 シンジのその言葉に、ミサトがにへらーっと笑った。
 ミサトさんって、やっぱり子供みたいな人だ……シンジは改めてそう思った。
「そ。じゃ、商談成立ね。二人とも……」
 ミサトはそこで一旦言葉を切ると、大人の微笑みを見せながら言った。
「これから、頑張ってね……」
 今度はお姉さんみたいだ、とシンジは思った。
「は、はい……」
「……はい……」
 戸惑いの返事と透き通る声は、綺麗に重なっていた。



私がここにいる理由。
それは私にはわからない。
たぶん、理由はない。
与えられていないと思うから。

私がここにいたい理由。
わからないの?
いいえ、わかっているの。
それは、
私がここにいたいから。
それを私が望んだから。

ここにいて、いいの?
いいえ、違う。
私が望めば、ここにいられる。
ここにいたい。
望んでも、いいから。

なぜ私、ここにいたいの?
なぜ私、それを望むの?
それはきっと、
碇君がいるから。

私の心を表す言葉。
それはまだわからない。
でも、きっともうすぐわかる。
碇君がここいるから。
私と一緒に、いてくれるから……



God's in His Heaven, All's Right with the World.


新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

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Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions