時間
流れていくもの。
止まらないもの。
永遠に続くもの。

流れてしまう、
私の時間。
止まってしまう、
私の時間。
もう、続かない、
私の時間。
消えていく、時間。

落ちていく夕陽のように、
欠けていく月のように、
消えていく私。
日はまた昇り、
月はまた満ちても、
還らない私。
還れない私。

そこにあるのは何?
無。
いいえ、違うの。
何も無いの。
心も、
絆も、
そして、
温かさも。

でも、いいの。
寂しさもないの。
悲しみもないの。
苦しみも、
不安も、
涙も、
何も無いの。

消えてしまえば。
そう、
消えてしまえば……



第拾参日

見えない壁




 暗闇には男が一人、テーブルの前に座っていた。両肘を衝き、顔の前で手を組んで。
 そこは真の闇ではなかった。
 広大な闇の空間の中に、真上から光線が当てられ、男の姿を浮かび上がらせていた。
 そしてその光の輪が周りの闇を一層深く見せている。
 座った男はサングラスでその表情を隠していた。
 その男の横にはもう一人、初老の男が立っていた。
 初老の男は後ろで手を組み、直立不動の凛とした姿勢をいささかも崩そうとしない。
 闇を見つめる二人の男の姿は、床とおぼしき場所から僅かに浮いていた。
 彼らの姿は、あるいは立体的に作られた幻影なのかも知れない。
 少なくとも、その場にいるのではなかった。
 二人の男は微動だにせず、ただ無言だった。
 まるで時間が止まったかのように思えたその時、闇の空気を震わせながら黒石盤が現れた。
 それらは時計の針が巡るように二人の男の周りに次々と現れて、彼らを取り囲んだ。
 石盤に刻まれた光る赤い文字が、微かに彼らを照らしていた。
 あたかも法廷のように見えるその場で、二人の正面に立つ石盤が声を発した。
「約束の時が来た。ロンギヌスの槍を失った今、リリスによる補完はできぬ。唯一、リリスの分身たるエヴァ初号機による遂行を願うぞ」
 その声の主はこの席の議長であるらしい。
 命令ともとれるその強い口調は、あるいは裁決なのだろうか。
 だが、テーブルの前に座った男は、不敵な笑みを自らの手で隠しながら嘯いた。
「ゼーレのシナリオとは違いますが……」
 その言葉に議長を始めとする誰もが答えようとしなかった。
 そしてその沈黙を破って、初老の男が静かに言葉を発する。
「ヒトはエヴァを生み出すためにその存在があったのです」
 続いて再び座った男が口を開いた。
「ヒトは新たな世界へと進むべきなのです。そのためのエヴァシリーズです」
 禅問答のようにも聞き取れる彼らの会話は、ヒトの在り方を述べたものなのだろうか。
 だがその根底には、双方にとって明らかに理念の相違があるらしい。
 その時、中央に位置する男たちの言い分を黙って聞いていた周りの石盤の一つが声を発した。
「我らはヒトの形を捨ててまで、エヴァという名の箱船に乗ることはない」
 それに続いて他の石盤からも次々に声が発せられる。
「これは通過儀式なのだ、閉鎖した人類が再生するための」
「滅びの宿命は新生の喜びでもある」
「神もヒトも全ての生命が死を以てやがて一つになる為に」
「終わりを始まりと為すことによって未来へと進むのだ」
「それが我らの選ぶ唯一の道に他ならない」
「もはや後戻りは許されぬのだぞ」
「これは神判なのだ。ヒトが受けるべきな」
「君一人が翻意を表してもどうにもならぬのだよ」
 まるで、中央の男たちを責めるかのようにそれらの言葉は浴びせられた。
 だが、座した男はいかなる言葉にも動じることなく、やがて声が途切れたところでポツリと呟いた。
「……死は何も生みませんよ」
「無論だ」
 その声と共に、彼の正面に立っていた黒石盤が、突如人間の姿に変化した。
 その姿も幻であろう。幻の人間もまた、テーブルの前に座り、身を乗り出していた。
 そしてその人間、即ちこの場の議長は、奇妙な形をしたバイザーの奥から中央の男を睨み付けた。
 二人の男は互いにその視線を隠しながら無言で対座していた。しばらくしてバイザーの男が静かに声を漏らす。
「……死は、君たちに与えよう」
 その言葉と共に、居並ぶ12の黒石盤が時計の針を戻すように消えていった。
 そして最後まで残っていた正面のバイザーの男も、暫し目の前の男を睨んでいたが、やがてその存在を消した。
 彼の発した言葉は最後通告であるのだろうか。
 その場に取り残された二人の男は、しばらくの間、黙ってその場にいた。
 やがて初老の男が小さなため息と共に言葉を吐いた。
「ヒトは、生きて行こうとする処にその存在がある。それが、自らエヴァに残った彼女の願いだからな」
 その言葉にも、座った男は表情一つ変えなかった。
 やがて彼らを照らしていた灯りが落ち、それと共に彼らの姿も闇に還っていった。



 そこはあまりにも広い空間だった。
 その空間の四方を巡るガラス窓から充分に光が取り込まれていても、中央部はいささか薄暗かった。
 あるいは、その空間の主は、不必要に明るい場所を好まないのかも知れない。
 そしてその中央から少し外れた机のところに、男は座っていた。
 その脇は初老の男が、そして彼らに向かって、一人の女が立っていた。
 女……葛城ミサトはその場で、初老の男の話を聞いていた。
 そして約束の日が来たことを知った。彼女が覚悟していたとおりに。
「12時間後……ですか……」
「そうだ、即ち、1800より、警戒態勢に移行。遡ること6時間、1200より、本部施設の出入りを全面禁止する。関係各部にはその更に2時間前を以てその旨を通達。以上だ」
「……解りました」
 しかし彼女は、何故自分がここへ呼ばれ、何故そのことを伝えられたのかが解らなかった。
 作戦部には早く連絡する意味があるのか?
 だが、今言われた情報以外何も知らない中で、どのような作戦行動をとれというのか。
 そして、なぜこれほどまでに余裕を持ったタイムスケジュールが定められているのか。
 なぜ今すぐではないのか……
「質問をよろしいでしょうか」
 だから彼女はそう言った。
「……聞こう。だが、答えられん事もある」
 座っていた男が静かに口を開いた。
 だが、その口元は手で隠されていて見えなかった。
 初老の男が、一瞬だけ目を動かして、その男の方を見た。
「本日の試験は中止ということでしょうか」
 それはいささか遠回しな質問だったかも知れない。
 しかし、試験が中止ならば……それは作戦行動をとることを意味するのだろう。彼女はそう思っていた。
「試験は予定どおり行い給え。ただし、警戒態勢移行までに終了しなければならん」
 初老の男がそう答えた。
 ミサトは続けて訊いた。
「万が一、事故が起こった場合の対処は?」
 そう、警戒態勢に入ることが解っているのに、何故試験を行うのだろう?
 初老の男は何も答えなかった。
 やがて座っている男が口を開く。
「……初号機が準備可能なら問題ない。事故が起こっても、パイロットのどちらかが初号機に搭乗可能であることは間違いない。事故が起こらなければ、エヴァ2機による待機が可能だ。そのための試験続行だ」
 あまりにも妥当な返答だった。
「……解りました」
「他に質問はないな?」
 ミサトの了解に続いて、初老の男が有無を言わさぬ口調でそう言った。
 それはこれ以上の質問は認めないことを意味しているのだろう。
「ありません」
「なお、本件は正式な通達が届くまで、守秘事項とする。いいな?」
「はい」
「以上だ。退出してよし」
「葛城三佐、退出します」
 ミサトは敬礼して振り返り、公務室を後にした。
 ……さっきの言葉は、ウソね。廊下を歩きながらミサトは考えていた。
 弐号機の試験続行の理由は、私を足止めするための……これ以上、余計な行動をとらせないためね。
 そう、知っているのね、あの人たちは、何もかも……
 私が何を知っていようが、何もできないことを……
 下に降りるエレベータの中で、ミサトは拳を堅く握りしめることしかできないでいた。


「いいのか、碇?」
 ミサトが退出した後の公務室で、冬月は横の男に言葉をかけた。
「お前の息子が事故を起こした場合、レイが初号機に乗ることになるんだぞ?」
「……問題ない」
 問いかけられた男は、その表情を崩すこともなくそう答えた。
「その時は、時計の針をこちらで勝手に進めるまでだ」
 その言葉が何を意味するかを、男は明らかにしないまま口を閉じた。
 だが、冬月はそれを理解しているかのように沈黙した。
 ただ、唇の端を少し歪めただけだった。



(ハァ……)
 計算機室のコンソールの前に座り、一心不乱にキーボードを叩いていたマヤは、一段落したところでスクリーンから目を離すと、天井を見上げてため息をついた。
「どうして私、こんなことやってるんだろう……」
 マヤは目を閉じてそう呟いた。幸い、部屋には他に誰もいない。
 愚痴を言っても、咎める者はいない。もっとも、愚痴を聞いてくれる者もいない。
 それからまたマヤは下を向いて、膝の上に置いた手を見ながら昨日のことを考えていた。
(どうなるの、私たち……)
 他の人間にはしゃべるなと言われた。
 近いうちに、誰かがここに攻めてくるらしい。
 昨日、初めてそのことを聞いた。
 でも、それは使徒ではない。別の敵。敵? 敵って何?
 敵は、ヒト。自分たち以外の、ヒト。
 ヒトと、戦う……
(違う……私は……そんなことがしたいんじゃない……)
 私がここに来たのは、私が必要とされたから。
 私の持っている技術が、必要とされたから。
 使徒から人類を守るために。サードインパクトを未然に防ぐために。
 そして赤木先輩。そう、先輩が私を誘ってくれたから。
 先輩が私のことを、必要だと言ってくれたから……
(先輩……どこにいるんですか……)
 いつから見ていないのだろう。
 気が付いたら姿が見えなくなっていた。
 研究で何日か部屋に籠もることはしょっちゅうだから、しばらく見かけなくても不自然じゃなかった。
 だから、最初の何日かは姿が見えないことはそれほど気にならなかった。
 でも……もう……2週間以上、見てない……
 どこにいるの? 誰か知っているの? 先輩の所在を。
 司令は? 副司令は? きっと知っているに違いない。
 知らないはずがない。先輩のことを何一つ言わないこと。それは逆に知っているということ。
 知っていて隠しているということ。
 だから先輩がいなくなっても、捜したりしない。
 他に、誰か知っている?
 日向さんは知らない。青葉さんも知らない。
 葛城さんは? もしかしたら知っているかも知れない。
 でも、どうして私に言ってくれないのだろう?
 私がこんなに心配していることを、知っているはずなのに……
(ハァ……)
 マヤはもう一度ため息をついた。
 そして再びスクリーンの方に目を戻す。
 仕事……続けなきゃ……私の、仕事……
 そう思ってキーボードの上に手を置いたものの、その指は動かなかった。
 ただぼんやりとスクリーンを眺めていた。
 ……私の仕事って、何だろう……


「マヤちゃん……何?」
 自分の執務室に戻ろうとしていたミサトは、ドアの前でマヤが待っているのを見つけた。
 声をかけて振り向いたマヤの顔を見たミサトは、その視線にただならぬ物を感じた。
 まさか……気付かれた? クラッキングのことが……
「葛城さん……教えて下さい……」
「…………」
 震えるマヤの声を聞いて、ミサトは何も言うことができなかった。
「先輩は……赤木先輩は、どこにいるんですか……」
「…………」
 クラッキングのことではなかった……しかし、これも隠していたことだ。
 これ以上黙っていていいのだろうか?
 リツコのことも、その他のことも……
 だが、ミサトはそれを口にできなかった。
 今はまだ、混乱を招く……
 みんなが、だけではない。自分も、混乱する……
「先輩は……一体、何をしてるんですか? 葛城さんは何を知ってるんですか? 教えて下さい……」
「ごめんなさい……」
 堪えきれず涙声を漏らすマヤに、ミサトはそれだけしか言えなかった。
「葛城さん……どうして言ってくれないんですか……」
 目の前にマヤの顔が迫っていた。
 ミサトはその目を見ることができなかった。あまりにもつらくて。
「ごめんなさい……今日のテストが終わったら、必ず話すから……」
 そう、いずれ、話さなければならない。
 でも、まだ、今は……
「……信じていいんですか?……」
「信じて……」
 震えるマヤの肩に、そっと手を置くことしかミサトはできなかった。
「……仕事に……戻ります……」
 しばらく泣いた後で、マヤはそう言って去って行った。
 その後ろ姿を見送りながら、ミサトは悔しさに唇を噛みしめることしかできなかった。
 それこそ、血の滲むほどに。
 もう時間がないのに、何もできないなんて……



「……以上が本日の試験の内容です。質問は?」
 ミサトはそう言うと、目の前に立っているシンジとレイを見た。
 二人とも既にプラグスーツに着替えている。
 そしてミサトはシンジがためらうこともなくすっと手を挙げるのを見た。
 ……シンジ君が質問? 滅多にしたことないのに……いつも黙って、従うだけなのに。
「何? シンジ君」
 そう言ってミサトが顔を向けると、シンジは手を挙げたままで言った。
「どうして綾波の方が先なんですか?」
「何ですって?」
 ミサトは一瞬質問の意味が解らなかった。怪訝な顔でシンジに聞き返す。
「どうして綾波の方が先にテストをするんですか?」
 シンジがもう一度聞き直した。その顔は真剣そのものだ。
 昨日とは全然違う……まるで別人のようだ。
 今日はみんなにいろんな表情を見せられる……
「どうしてって……いつもそうしてたからよ。いつもレイのテストを先にしてたでしょう? 昨日だって、その前だって……何か問題があるの?」
 そう、順番に何の問題があるのだろう。
 だが、シンジからは意外な言葉が返ってきた。
「綾波は初めて弐号機に乗るんですよ。危険です。僕が先にやります」
「…………」
 ミサトは言葉を失った。
 ……これがシンジ君の言葉? ミサトは考えていた。少なくとも、昨日の彼からは想像もできない……
 昨日はあんなに自信をなくしていたのに。
 シンクロ率が僅かに上がったというだけで、自分たちも思わずホッとしたほど心配していたのに。
 いったい、どういうこと? 一晩のうちに、何があったの?
「シンジ君も初めてのようなものじゃないの」
「違いますよ、2回目です。前にアスカと乗りましたから」
「あれは単独じゃなかったでしょう」
「でもちゃんとシンクロしましたよ」
「……パーソナルデータは既にレイの方を用意してあるのよ」
「じゃ、書き換えて下さい」
「…………」
 ミサトはまた考え込んでしまった。シンジの言葉は全く淀みがなかった。
 言っている内容はそれほど説得力がないが、この強硬な口調はどうだろう。
 彼がこれほど自己主張するなんて……しかも、これじゃまるで、レイのことを気遣って……
 ミサトはちらりとレイの方を見た。
 昨日、帰りにレイと何かあったのだろうか?
 しかし、レイはいつもどおりの無表情を崩すことはなかった。
 何があったのかは推し量ることもできない。
 どうする? ミサトは迷っていた。
 順番を変更すればスケジュールが狂う。時間が足りなくなるかも知れない。
 それに順番を変える必要性はどこにもない。
 ただ、順番自体にも特に必要性がないのも確かだ。
 そして、シンジがこれほどまでに前向きな姿勢を見せているのに、それを拒むのは得策ではない。
 今、彼は自分たちにとってあまりにも重要な存在なのだ。そう、エヴァパイロットとして。
 ミサトはそう考えて、黙って冬月の方を見た。
 冬月も黙って頷く。同じことを考えたのだろうか。それを見てミサトはマヤに呟くように言った。
「……伊吹二尉」
「はい……」
「パーソナルデータをサードチルドレンのものに書き換えて」
「あっ……はい……」
 それからミサトは管制室内の全てのスタッフに向かって告げた。その声はケイジ内の作業員にもマイクを通して伝わっている。
「テスト開始時間を、予定より30分繰り下げます。それに伴い、内容を一部変更。変更箇所は15分後に通達します」
 言い終わってからミサトはシンジを見た。
「シンジ君?」
「はい」
「搭乗口で待機しておいて」
「はい」
 そう答えたシンジの表情は自信に満ちあふれているようにも見えた。
 それからミサトはレイを見て言った。
「レイ?」
「……はい……」
「順番を変更します。シンジ君の試験が終わるまで待機して」
「……はい……」
 レイは静かにそう答えた。そしてただそこにじっと佇んでいた。
 シンジが管制室を出ていくのを見送りもせずに。

土曜日
ネルフ本部内第2実験場
機体相互互換試験
被験者:碇シンジ


「パーソナルデータ、書き換え完了しました」
「了解。第一次接続を開始します」
「プラグ内、LCL注水」
「主電源接続完了。全回路、動力伝達確認」
 試験はきっかり30分遅れで開始された。
 だが、遅れたからと言って、起動試験の途中を省略するわけにはいかない。
 省略されることになったのは起動後の連動試験の一部。
 もっとも、正常に起動するかどうかの方が問題だった。
 データ上は起動において問題ないことを示していたが……
「第二次コンタクトに入ります」
「A10神経接続、異常なし」
「初期コンタクト、全て正常」
「双方向回線、開きます」

(心を、開く……)
 次第に明るくなっていくプラグの中で、シンジは念じるようにそのことを考え続けていた。
 エヴァに対して、心を開く。アスカに対して、心を開く。綾波に対して、心を開く。
 そう、自分の周りの全てに対して、心を開く……
 昨日からずっと考えてきたことは、こういうことなのかもしれない。
 本当にそうなのかどうかは、わからない。
 でも、そのことを考えていたせいか、今朝は夢を見なかった。あの嫌な夢を……

「ハーモニクス、全て正常」
「第三次接続を開始します」
「オールナーブリンク、終了」
「絶対境界線まで、1.5、1.2、1.0、0.8、0.6、0.5、0.4、0.3……」
 ハーモニクス、シンクロ率、心理グラフ、全てが安定していた。
 起動する。間違いなく、起動する。正常に、起動する……
 スタッフの誰もがそう信じ、誰もがそう念じていた。

(……光だ……)
 シンジは頭の中に光を感じた。
 遙か彼方から、赤い光がシンジに向かって飛んで来る。
 鮮やかな赤い光……明るくて、暖かい光……
 ……アスカ……だよ、ね……
 シンジは目を閉じ、光が届くのを待った。

「……0.2、0.1、突破! ……弐号機、正常に起動しました……」
 そう告げたマヤの声が、僅かに上ずっていた。
 緊張……いや、興奮していたのかも知れない。
 全ての計測値が、昨日の予備試験の結果を遙かに上回っていたのだから。
「……シンクロ率……53.4%です……」
「本当に?」
 マヤの驚きの声に、信じられないといったミサトの声が重なる。
 スタッフは誰もが、驚きを隠せないといった表情だ。
 じっと見守っていた冬月は後ろで「ほう」と感嘆の声を漏らした。
「信じられません、一日でこんなに……」
「そう……でも、気の持ちようなのよ……」
「あ、はい、でも……」
 マヤがそう言いながら振り返ったが、ミサトは腕を組んで実験場の中を見ながら言った。
「何かのきっかけで、シンジ君は自信を取り戻した。何があったのかは解らないけど……」
 そう言ってミサトはちらりとレイの方を見た。
 レイは相変わらず無表情で実験場の中を見ていた。
 その視線には、以前に見たような真剣さは感じられなかったが……
「でも、今はそれでいいわ。テストを続けましょう。連動試験」
「あ、はい……」
 何があったのか、レイに訊いてみる? ミサトは思った。
 しかし、思い直す。訊かない方が、いいのかも。二人だけの問題かも知れないから……



thirteenth day

identity crisis



同日
ネルフ本部内第2実験場
機体相互互換試験
被験者:綾波レイ


「パーソナルデータ、書き換え完了」
「第一次接続を開始します」

 彼女は昨日の夜のことを考えていた。
 彼と湖の畔にいたことを。
 彼と話をしたことを。
 彼の泣くところを見たことを。
 彼の手に、温かさに触れたことを。
 彼と月を見たことを。
 彼ともう少しそこにいたいと思ったことを。

 そして思う。
 何もできない自分を。
 何も知らない自分を。
 消えていく自分を。

「A10神経接続開始」


……誰?

『君も消えることを望むのかい?』

……いいえ、私じゃないの
あの人が、そう望むの……

『君は生きることを望むのかい?』

……いいえ、望めないの
それが、運命だから……

『君は僕と同じだね』

……いいえ、私は私
あなたじゃないわ……

『では君はどこにいるんだい?』

……私はここにいるわ……

『では君はどこに行くんだい?』

……私は無に還るの……

『では君は何を望むんだい?』

……私は……

「碇司令が死ねと言ったら死ぬんでしょ!」

…………


「絶対境界線まで、1.5、1.2、1.0、0.8、0.6、0.5、0.4、0.3……」
 管制室ではマヤのカウントダウンの声が続いていた。
 しかし次の瞬間、全てが闇に沈んだ。



「……何だ?」
 暗闇の中、最初に声をあげたのは冬月だった。
 全ては一瞬の出来事だった。
 何もかもが視界から消え失せた。
 誰もが思考と言葉を失っていた。
 あまりにも突然のことに、誰も反応できなかった。
 モーターの回転が止まる音が鳴り響き、やがて消えていった。
 インジケータの明かりだけがゆっくりと落ちていったのは、コンデンサに残った電気のためか。
「……何が、起こったの?」
 ミサトは目の前の席に座っていたマヤの声をかけた。
「えっ……」
 その声にマヤは慌てて周りを見回した。
 そして管制室全員の視線が自分に集中していることを知った。
 マヤの目の前に置かれたラップトップのディスプレイが、まるでスポットライトのように彼女の姿を闇の中で照らし出していた。
 暗い所に置かれた人間が明るい物に目を遣るのは自然な行動だが、今回はそれだけではないらしい。
「わ……」
 マヤは思わず口を開いた。
 呆然と彼女を見つめる視線の中に、冷ややかなものを彼女は感じていた。
 そしてそれを避けるように顔を隠しながら言った。
「……私じゃありません……」
 そしてマヤは闇の中で震えていた。違うんです。違うんです。私のせいじゃないんです。私のせいじゃ……
 見かねてミサトが声をかけようとしたとき、誰かが叫び声をあげた。
「綾波!」
 それはシンジだった。
 シンジは実験場に面した窓ガラスに飛び付いたが、すぐにドアの方に走って行った。
 そして両手でドアをこじ開けようとする。
 だが電源の切れた自動ドアは、シンジの力ではビクともしなかった。
 それでもシンジは懸命にドアにかじり付いていた。
「誰か手伝ってやれ」
 冬月が鋭い声でそう言った。その声に、ミサトがハッと我に返る。
「手伝って! ドアを開けて!」
 すぐに何人かのスタッフがドアに駆け寄り、ドアをこじ開けるのを手伝った。
 エア式のドアは異常に堅く、開けにくい。
 それでもほんの少し隙間が開くと、そこに一人が指を差し込み、無理矢理隙間を広げると、腕をこじ入れて力任せに押し開けていく。
 エアの抜ける音がして、ドアは少しずつ開かれていった。
「シンジ君! 行ってあげて! 早く!」
「はい!」
 人一人、いや、子供一人通れるだけの隙間がようやく開いた。
 シンジはそこから飛び出して行くと、実験場に向かって廊下を駆けて行った。
 その後ろ姿を見ていたミサトの胸ポケットで、携帯が突然鳴った。
 まさか、緊急事態? ミサトは慌てて携帯のスイッチを入れた。
「もしもし……何ですって?」
 緊急事態ではなかった……
 しかし、電話の内容は驚くべき事だった。
「……断線? そんなことが……ここだけなのね? ……そう、解ったわ。できるだけ早く復旧して……」
 ミサトはそれだけ答えると、携帯を切った。
「葛城さん、今の……」
 マヤが振り返ってミサトに問いかけた。
 ミサトはふうっとため息をつきながら答えた。
「ああ、今の……いいえ、大丈夫よ、事故の原因が判っただけだから……」
「事故の原因?」
 マヤがヒヤリとした顔をする。もしかして、ホントは私のせい? そんな、違うのに、違うのに、私じゃないのに……
 ミサトはそんなマヤの顔を見て無理矢理笑顔を作りながら言った。
「断線ですって、物理的な……大元の原因は判らないけど、どこかで回線が切れたらしいわ。この実験ブロックだけだそうよ。すぐに復旧するらしいから」
「そ、そうですか……」
 ホッとした表情のマヤ。しかし、ミサトの次の一言でハッと我に返る。
「レイの様子は? プラグの中はモニターできる?」
「えっ、あっ、は、はいっ!」
 マヤは目の前にあったラップトップのキーボードを叩いた。生き残っている機器はこれだけだ。
 他は全て主電源から切られてしまっている。
「ダメです。モニター回路にアクセスできません。ハブの電源が落ちてます」
「そう……でも、大丈夫だと思うわ。エヴァの内部電源が残ってるから……」
 ミサトはそう言いながら実験場を見つめていた。
 マヤも、他のスタッフも一斉に実験場の中を見た。
 冬月は最初から見ていた。
 実験場では弐号機の複眼が鈍く輝いていた。



「綾波!」
 シンジはそう叫びながら実験場に駆け込んで行った。
 実験場のドアは既に開いていて、中ではもう救出作業が始まっていた。
 忙しく作業員が動き回り、怒鳴り声が広い場内にこだまする。
 シンジはまるでその声に負けんとするかのように声を張り上げた。
「綾波!」
 シンジはプラグ搭乗口に行こうとした。
 しかし、内部電源の残りを使って手動で強制排出されたエントリープラグは、ワイヤーで吊り下げられて、非常用ディーゼルを使ってゆっくりと床に降ろされて行くところだった。
 作業員が弐号機の足元に群がっている。
 シンジは辺りを見回し、下に降りる非常階段を見つけると、飛び降りるように段を降りていった。
 下まで降りると、プラグがゆっくりと横たえられているところだった。
 急いで作業員の群の中に駆け込んで行く。
「綾波!」
 シンジはまた叫んでプラグに走り寄ろうとした。
 しかし、一人の作業員の手に押し止められた。
 そして輪の一番外側で救出作業を見ていることしかできなかった。
 プラグが完全に床に着くと、作業員の一人がプラグに走り寄り、排出弁を開いた。
 LCLが流れ出し、辺りの床一面を水浸しにする。
 別の作業員が非常用ハッチのハンドルをこじ開ける。
 ハッチが開かれると、シンジは作業員の制止を振り切ってプラグに駆け寄っていた。
「綾波!」
 もう一度叫ぶ。
 だが、答はなかった。
 プラグの中に身を乗り入れていた作業員がやがて出てくる。
 白いプラグスーツに包まれた脚の部分が出てきた。
 もう一人の作業員がその脚を持ち、二人掛かりでゆっくりとレイの身体を運び出した。
 そしてシンジは見た。
 まるで蝋人形のように白く、生気のないレイの顔を。
 目を閉じて、微かに苦悶の表情を留めたその表情を。
「綾波……」
「大丈夫だ、脈はある」
「気絶してるだけだ」
 シンジの心配そうな声に、レイを運び出した二人の作業員がそう答えた。
 そして用意されていたストレッチャーにレイの身体を載せる。
 力無く横たわった華奢な身体が、あまりにもいたわしい。
 それが緊急治療室に運び込まれるまで、シンジはずっと横についてレイの顔を見ていた。
 治療室に運ばれてからも、黙ってそのドアの前で立ちつくしていた。
 ただ何もできないままに。



『命に別状無し』
 医師はそう断を下した。
 だが、レイの意識はまだ戻らなかった。
 レイの身体はそのまま緊急処置室に運び込まれ、カプセルに収容された。
 精密機械がその周りを取り囲み、レイの身体の全ての状態をチェックし続ける。
 パルスを刻む低い音が聞こえ、モニターにはその形状が映し出されていた。
 シンジは遠く離れた椅子に座って、それをただ眺めることしか許されなかった。
 カプセルのガラス窓から、僅かにレイの横顔が見えた。
 その顔は今はあまりにも安らかだった。
 それが逆にシンジに不安を起こさせる。
 何かにすがりたくても、すがるべきものがそこには何も無かった。
 黙って座っているだけの自分が、あまりにも無力に思えた。



「総員、第一種警戒態勢」
 ミサトたちは発令所に呼び戻された。
 実験場の電源は復旧したが、事故の原因はまだつかめていなかった。



 通常病室に移されても、レイは昏々と眠り続けていた。
 シンジはその傍らに座ってレイの顔を見ていた。
 窓の外は既に暗い。
 ジオフロントに夜が訪れていた。
 部屋の明かりは薄暗く灯されているだけだった。
 シンジは何をするでもなく、ただレイの顔を眺めていた。
 夜目にも白いその顔を。
 そして昨日のことを思い出す。
 同じように薄明かりの中で見たレイのことを。
(昨日は……ごめん……)
 そして心の中で謝る。
 昨日は、僕だけ話を聞いてもらって……
 それなのに、泣いたりして……
 勝手に自分だけ帰ろうとして……
(だから、ごめん……)
 そしてシンジは思う。
 綾波は、帰りたくなかったの?
 あの時は、気付かなかった。
 自分のことだけで、頭がいっぱいになってた。
 だから綾波のことを、考えてあげられなかった。
 何か僕に言いたかったの?
 もっと顔を、よく見ておけば良かった。
(だから、ごめん……)
 またシンジは思う。
 どうして昨日は、僕の手を……
 何かしようとしてくれたの?
 綾波の手、冷たかったけど……
 だけど、少しだけ安心した。
 ふれられただけで、安心した。
 自分の側にいてくれる人がいると思っただけで……
(だから、ありがとう……)
 そしてシンジはそのまま、レイの寝顔を見つめ続けた。


 窓の外が少し明るくなった。
 月明かりがジオフロントにも射し込んでいた。
 採光窓から取り込まれた微かな光が、地下の空気を薄青く染めていた。
 シンジはまだレイの顔を見ていた。
 瞬きさえ惜しむようにして、レイが起きるのを待っていた。
 だから、気付いた。
 レイの顔が、微かに揺れた。
 口元が僅かに動いた。
 そして長い睫毛が震えた。
 シンジは息を呑むようにしてその様子を見守っていた。
 ゆっくりと、ゆっくりと、レイの両の瞼が開かれていった。
(良かった……気付いた……)
 だが、声をかけることが一瞬だけためらわれた。
 なぜかレイの表情があまりにも悲しげに見えたから。
 レイのその紅い瞳が真っ直ぐに天井を見つめて、しばらく経ってからシンジはようやく声を出した。
「あ、綾波……」
 レイがゆっくりと首を動かし、シンジの方を見た。
 その目はいつもよりさらに深い紅だった。
 そしてその視線で射抜くようにシンジを見つめる。
「良かった、気付いて……」
 シンジはそう言ってレイに微笑みかけたが、レイは何も言わず、再び天井を見上げた。
 まだ……気分が、悪いのかな……
 シンジはそう思って再び問いかけた。
「あの……大丈夫?」
「…………」
 しかし、レイは何も答えなかった。
 まだ、ダメなのかな……
 そう思ってもう一言だけ声をかけようとしたとき、レイの小さい声が聞こえた。
「……いで……」
「えっ……」
 その声はあまりにも小さすぎて聞き取れなかった。
 シンジは少し身を乗り出した。そして聞こうとした。
「……来な……いで……」
「えっ……」
 今度ははっきりと聞き取れた。でも……
 来ないでって……いったい……
 どういうことなの……
「あ、綾波……どうしたの……」
 シンジはもう少し、レイに近づこうとした。
 しかしシンジの額に何かが当たり、それ以上近寄ることを拒まれた。
 顔を上げて見たが、そこには何も無かった。
 でも、何か、ある……
「何……これ……」
 差し延べようとした手が、何かに阻まれた。
 そこには確かに何かがあった。目に見えない何かが……
「綾波……何、これ……」
 シンジはその見えない何かに手で触れ続けた。
 だが次の瞬間、シンジの頭の中で、レイのさっきの言葉と、その見えない壁が結び付いた。
 綾波が僕を拒絶するから、近寄れない……
 誰にも侵されない領域、心の壁……
 そんな、じゃ、まさか……



「ATフィールド!?」
 ミサトはそう叫びそうになって、慌てて声を押し殺した。
 既に第一種警戒態勢が敷かれ、ミサトたちは発令所にいる。
 だが、冬月に許可を受け、ミサトとマヤは先程の事故の原因を究明しようとしていた。
 エヴァに関係する事故なら、見逃すことはできない。
 警戒態勢に支障ない範囲でMAGIの使用を許された。
 そして、結果が出た。
 ミサトの前では、マヤが複雑な顔をしていた。
「……そうです。MAGIのレコーダによれば、あの事故の直前、0.03秒間だけ、実験場内とその周辺にATフィールドの発生が確認されました」
「でも、弐号機は起動する前なのに……」
「……そうなんです。でも、間違いありません。ATフィールドです。それがエヴァの中の全てのパルスと電流を遮断したんです」
「それじゃ、ブレーカーが……でも、物理的な断線だって……」
「そうなんです。その断線も、エヴァを中心にして球状の地点で発生しているんです。壁の中に埋まった回路までが、何かに切断されたみたいになってたんです……」
「…………」
 ミサトはマヤの困惑した顔を見ながら黙っていた。
「でも、どうしてそうなったのか解らないんです。ATフィールドが発生した原因も、何もかも……しかも、発生源は計算によればプラグの中からなんです。どういうことだか、私にはもう何も……」
 そう言ってマヤは口をつぐんだ。
 ミサトはマヤの顔を見ていられなくて、視線を逸らした。
 このまま何もかも、隠しておいていいのだろうか。ミサトは考えていた。
 この子に話したのも、リツコが拘束されているという事実だけ。
 セカンドインパクトの真相も、人類補完計画のことも、レイの出生の秘密も、何も話していない……
 この子だけじゃない。みんなにも。
 話すべきか、話さざるべきか。どちらを選べば後悔しないのかを、ミサトは考え続けていた。



「うわあああぁーっ! 綾波っ! 綾波ーっ!」
 シンジは目の前にある見えない壁を両手で叩き続けていた。
 レイはベッドの上で、シンジから顔を背けて横たわっていた。
 壁を叩く音が、全く耳に入っていないかのように。
 その顔は無表情だった。いや、青白い光に晒されて、冷たささえ感じさせる。
「綾波っ! 綾波っ! 開けてよっ、綾波ーっ!」
 シンジは必死になって壁を叩き、レイに呼びかけた。
 だが、どんなに叩いても、それを越えることは許されなかった。
 いかなる検知器にもかからないほどの微弱な『壁』だったが、シンジを拒むには充分すぎた。
 そう、シンジはレイに拒まれたことを知った。
「嫌だっ! 綾波っ! 僕を拒否しないでよ、綾波っ! 綾波ぃーっ!」
 手が痛くなるほど叩いても、壁が崩れることはなかった。
 レイがシンジを見てくれることもなかった。
「……来ないで……」
 そしてレイがもう一度そう言ったとき、ゆっくりと壁が動き始めた。
 壁はレイとシンジの間を、少しずつ少しずつ広げていった。
 シンジは椅子から転がり落ちても、レイの方を見ながら絶叫し、壁を叩いた。
「嫌だっ! 独りにしないでっ! お願いだから、僕を独りにしないでよぉっ!」
 遠ざかるレイを見ながら、シンジはなおも壁を殴り続けた。
 しかしその願いは聞き届けられることもなく、壁は次第にレイとシンジを引き離していく。
 涙を流しながらシンジはレイに訴え続けた。
「嫌なんだ! もう、嫌なんだっ! 独りになるのは、もう、嫌なんだっ!」
 だがついにその見えない壁は、シンジをドア付近の壁際に追いつめた。
 床に座り込みながらも、シンジは壁を叩き続けることを止めなかった。
 しかしその叩く力が次第に失われていく。
「だから、お願いだから、僕を独りにしないで……」
 そしてシンジの声も小さくなっていった。
 その手はもう壁を叩いてはいなかった。
 壁に両手をつき、もたれかかるようにしてシンジはその場に崩れ落ちた。
「お願いだから……お願いだから、僕を見捨てないでよぉっ……」
 その言葉を最後に、シンジはもう動かなくなった。
 ただそこで泣き続けた。
 レイはいつの間にかシンジの方を向き、その紅い瞳で泣き崩れるシンジを見ていた。
 瞳の色はもう冷たくなかった。
「うあっ……うっく……あうぁ……」
 シンジはまともに声も出せなくなるほど泣きじゃくっていた。
 そして床にひれ伏すように崩れていた。
 だから、何も気付かなかった。
 いつの間にか壁が無くなっていたことにも。
 レイが自分の前に立ってじっと見下ろしていたことにも。
「…………」
 声もなく泣き続けていたシンジがそのことに気付いたのは、手に冷たい感触を覚えたときだった。
 力無く顔を上げたその先には、目の前に跪いて自分を見ているレイの姿があった。
 窓の外が薄明るくて、逆光でレイの表情はよく見えなかった。
 ただ、その瞳が微かに濡れて美しく輝き、慈しみに満ちていることだけが解った。
「うっく……あや……なみ……うぁ……」
 シンジは両手でレイの手を堅く握りしめると、再び泣き崩れた。
 レイは泣きじゃくるシンジを、ただ見つめているだけだった。


 レイはベッドの上で座っていた。
 傍らではシンジが椅子に座り、ベッドに突っ伏していた。
 レイの左手をしっかりと握りながら。
 シンジは壁を叩き疲れたのか泣き疲れたのか、既に眠りに落ちていた。顔を横に向けて。
 レイはそんなシンジの横顔を眺め続けていた。
 ……私……なぜ、拒んだの? あなたを……
 そして、考えた。自分の心を。
 プラグの中で拒否したのとは違う。
 あれは……あの人に、心を覗かれたから。
 本当のことを言われたのに、受け容れるのが怖かったから。
 でも、今の気持ちは違う。この気持ちは……
 ……そう、これ以上あなたと一緒にいるのが、怖かったから……消えるのが、怖くなるから……
 だから拒んだ。それなのに……
 ……私……なぜ、もう一度望んだの? あなたを……
 そして再びレイは考えた。考え続けた。
 『見捨てないでよ……』
 シンジの最後の言葉が頭の中に蘇る。
 ……そう、あなたも、捨てられるのが、怖いのね……私と、同じに……
 レイはシンジの横顔を見ていた。
 涙の跡を残しながらも、穏やかに微笑んでいるその表情を。
 ……だから、私は……捨てたくなかった……
 そう考えながらレイはシンジに握られた手を見た。
 そしてその手の温もりを感じていた。
 昨日も触れたその温かさを。
 ……そう……もう一度だけ、欲しかったから……温かさを……
 そしてその温かさを、今は少しでも長く感じていたいと思った。
 許される限り長く。そして思う。
 ……できるなら……このまま……ずっと……
 右手をシンジの手にそっと添える。
 それから目を閉じた。
 まるでその温かさを心に刻もうとするかのように。
 そのまま時間が止まって欲しいと願うかのように。
 しかし、しばらくしてその目は見開かれた。
 そして窓の外を見る。
 月の光がほの明るくジオフロントを照らし出していた。
 青白い光が病室をも満たす。
 不意に、レイの周りの空気が青い靄が立ちこめたかのように輝き始めた。
 彼女は、知った。
 ……私にはもう、時間がない……温かさを感じ続ける、僅かな時間も……
「……ごめんなさい……」
 眠っているシンジに向かって、レイはそう呟いた。
 不意に、レイの手に温かな滴が落ちた。
 それは二つ、三つと落ちて来て、手の甲を濡らした。
 ……これは……涙? ……私また、泣いてるの? なぜ……
 ……そう……寂しくて……悲しくて……泣いてる……
 また涙が頬を伝い落ちた。
 そしてレイは自分の手に落ちた涙の粒をじっと見つめていたが、やがてシンジの手から自分の手を抜き取った。
 堅く握られていたはずの手が、まるで手品のように外れてしまう。
 それからレイは音もたてずにベッドを降りると、ゆっくりと歩き始めた。
 ドアのところで振り返り、もう一度シンジの方を見た。
 ……ごめんなさい……
 だがその言葉は、レイの口から再び発せられることはなかった。
 ドアが閉じる微かな音を残して、レイは病室を去った。
 紅い瞳から悲しみの色が消えた。
 そしてそこに宿された光は、冴え凍る月の光よりもまださらに冷たかった。



もう終わりなの?
そう、もう終わり。
消えるの、私。
消えるの、この世界から。
消えるの、それが私の運命だから。

時間
流れてしまった時間。
止まらなかった時間。
続かなかった時間。
でも、いいの。
少しだけでも、いられたから。
あなたの心に。
あなたの時間に。
あなたの瞳の中に。

でも、
少し、寂しい?
少し、悲しい?
絆、消えてしまうことが。
温かさ、憶えていられないことが。
そう、
寂しいけど、
悲しいけど、
でも、いいの。
もう、終わりだから。

「ありがとう」
絆をくれて。
「ありがとう」
温かさをくれて。

「ごめんなさい」
何も言えなくて。
「ごめんなさい」
何もできなくて。

「さよなら」
碇君。
「さよなら」
……私……



新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

To be continued...



Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions