それは人とのつながり。

それは生きる希望。

それは心の灯火。

それは何?
温かさ。

温かさを求める心。
今の私の心。
求めていいの?
わからないの。
でも、
求めたいの。
今だけは。
あと、少しだけは。

消える絆。
消える心。
消えてしまう、私の気持ち。
そう、
私、消えるの。
消えるの、この世界から。
消えるの、あの人のために。
消えるの、あなたの心から。

寂しいの? 心が。
そう、寂しいの、私。
でも、いいの。
心も、消えるから。
寂しい私の心も、一緒に消えるから。
だから、いいの。

寂しいのは、今の私。
まだ消えていない、私……




第拾弐日

月の光、浴びて、二人




《おお友よ、音を止めよ!》
《代えて朗らかに出だし始めん》
《喜びに満ちた音を!》

誰?

『さあ、僕を消してくれ』

カヲル君?

『君に会えて、うれしかったよ』

カヲル君なの?

《喜びよ、美しく神々しき光》
《楽園より来たりし女神》
《我ら熱き心にて踏み行く》
《妙なる汝神聖の地へ!》

カヲル君……そこにいたの?

何故 殺した

だって、しかたなかったんじゃないか!

何故 殺した

だって、カヲル君は……
彼は使徒だったんだ!

同じ 人間なのに?

違う!
使徒だ!
僕らの敵だったんだ!

同じ 人間だったのに?

違う! 違う!
違うんだ!

「私と同じ、ヒトだったのに」

違う!
使徒だったんだ……

「だから殺したの?」

そうだ……
ああしなければ僕らが死んじゃう……
みんなが殺されちゃうんだ……

「だから殺したの?」

好きでやったんじゃない!
でも、しかたなかったんだ……

だから殺した

助けて……

だから殺した

助けて……

だから殺した

助けて……

だから殺した

誰か助けて!

だから殺した

お願いだから誰か、助けてよ!

《相抱かれよ、幾百万の人々よ!》
《その接吻を全世界に与えよ!》
《同胞よ、星の天幕の上には》
《愛しき父の坐すなるを》

そうだ……生き残るならカヲルくんの方だったんだ。
僕なんかよりずっといい人だったのに。
カヲル君が生き残るべきだったんだ。

違うわ。
生き残るのは、
生きる意志を持った者だけよ。
彼は死を望んだ。
生きる意志を放棄して、
見せかけの希望にすがったのよ。

エヴァンゲリオン初号機……
結局僕は、これに乗らなきゃいけないのか……

《墜つるか、幾百万の人々よ?》
《造物主を認めるか、世界よ?》
《星の天幕の上に見出だせよ!》
《星の彼方に坐すなるを》

誰か助けてよ!

何故 殺した

「うわあああああぁぁぁーーーっっっ!!!」



「……!……」
 シンジは目覚めるとベッドの上で飛び起きた。
 その手は布団をきつく握りしめていた。
 全身が汗で濡れていた。息が荒い。
 心臓は早鐘のように打っていた。
 そしてシンジは大きく息をついた。
(また……あの夢だ……)
 渚カヲルを扼殺した夜に見た夢。
 その後、何度も見た夢。
 その夢に、またうなされている。
 苦しい、つらい、心が痛い夢。
 しばらく見なかったのに……
 どうしてこんな夢、また見るんだ。
 どうしてこんな夢、見なきゃいけないんだ。
 どうして……
 ……そうだ、僕は何も変わってないんだ、あの時から……
 何もわかってない。誰も僕をわかってくれない。
 すっと独りなんだ。誰も僕を助けてくれないんだ。
 誰も……
 ミサトさんも、アスカも、綾波も、誰も僕を見てくれない……
 みんな……みんな、見てくれない……
 僕は……みんなを見ようとしたのに……
 でも……まだ何も、見えてないんだ……何も……
 だからこんな夢を見るんだ……
 そうだ……
「また今日も……乗らなきゃいけないんだ……」
 シンジはそう呟いた。
 息も鼓動も、少しずつ治まりつつあった。
 改めて辺りを見回した。まだ薄暗い。夜が明けたばかりだろうか。
 そして時計を見た。
 起きるにはあまりにも早過ぎる。
 しかし、もう一度眠る気分にはとてもなれなかった。
 シンジはベッドの上に座ったまま、時が過ぎるのをじっと待っていた。
 ただ待つしかなかった。



 日向マコトは本部施設内の自動販売機コーナーにいた。
 コーヒーの販売機に何枚かコインを放り込む。
 ボタンを押して、しばらくして出てきたコーヒーの紙コップを取り出すと、後ろにいた男に手渡した。
 後ろの男、青葉シゲルは、そのコップを、さらに後ろにいた女に渡す。
 その女、伊吹マヤは、青葉に目で促されて、側にあったテーブルのところまで行って腰掛けた。
 その間に日向はもう一つコーヒーを買って、それを青葉に渡す。
 青葉は日向が自分のコーヒーを買い終わるのを待ってから、彼と一緒にマヤが待つテーブルの方に歩いて行った。
 日向と青葉はマヤの前に並んで座った。
 三人は暫しの間、沈黙していた。
 最初に口を開いたのは青葉だった。
「それで」
 青葉はテーブルに片肘をつきながら、日向の方を見てさらに言った。
「本当なんだな、例の噂は」
 日向はテーブルの上で腕を組んで座っていた。
「最後の使徒だったの? あの少年が」
 マヤは膝の上に両手を置いたまま日向の方を見てそう問いかけた。
「ああ、すべての使徒は……消えたはずだ」
 日向は低い声でそう言った。
「じゃあ、平和になったってことじゃないのか?」
「なのに、どうして私たち、ここにいるの? それに、エヴァはどうなるの?」
 青葉とマヤが口々に日向に質問を浴びせてくる。
 日向は二人の顔を交互に見ながら言った。
「詳しいことはまだ解らない。しかし、エヴァ量産機が間もなく完成するらしいんだ」
「量産機? それって……どういうこと?」
「そうだ、それが……何の関係があるんだ? なぜそんなものが必要なんだ? 使徒はもういないんじゃないのか?」
「そうよ……それに、どうして私たちには知らされてないの?」
「まさか、人類補完計画に関係あるのか?」
「あるいはね」
 日向は短くそう答えただけだった。
「解らないな……しかし、使徒がみんなここに来たってことは、ここに何かあるってことだろ、サードインパクトの原因になる……俺たちの仕事が終わってないってことは、まだそれを守らなきゃいけないんだ。じゃ……まさか……」
 そう言った青葉の顔がさっと気色ばんだ。
 日向は青葉の顔を見ずに頷いただけだった。
「じゃ、まだ敵が来るって言うのか? ってことは……」
「そういうことさ」
「……どういうこと?」
 マヤが前に座った二人の渋い顔を見ながら小さい声で訊く。
 日向はマヤに視線を合わすことなく、まるで関係ない方向を向いたまま言った。
「我々の敵は使徒じゃないってことさ」
「敵? 敵って……何? 使徒じゃないって……じゃあ……」
 マヤが心配そうな声を出す。
「ああ」
「そうだ」
 二人は同時にマヤの方を向きながら言った。
「敵は使徒じゃなくて、ヒトさ」
「そして、量産機エヴァってことだろ」
 マヤの顔が不安に歪む。
「じゃあ、人類補完計画は……どうなるの?」
「知るもんか」
 青葉が吐き捨てるようにそう言って顔を背けた。
 日向だけがマヤの方をじっと見ながら言った。
「発動してるよ。だけど、こっちと向こうじゃ、シナリオが違ったらしい」
「向こうって?」
「委員会だろ」
 青葉がそっぽを向きながら言った。
「シナリオが違うって、どういうこと?」
「向こうがこっちのシナリオを潰しに来るってことじゃないのか」
 苦虫をかみつぶしたような表情で青葉が言う。
「でも……」
「とにかく」
 泣きそうな顔になっているマヤを見据えながら日向が言った。
「自分たちで粘るしかないんだよ。もう逃げられないんだ」
 生き残るにはな、という言葉だけは、日向は言わなかった。
 三人はしばらくそのまま無言で座っていた。
 誰もまだコーヒーに口を付けていなかった。


金曜日
ネルフ本部内第2実験場
機体相互互換起動予備試験
被験者:綾波レイ


 レイは薄暗いエントリープラグの中にいた。
 乗り慣れた零号機でも、少し慣れた初号機でもなかった。
 初めて乗る弐号機のエントリープラグ。
 彼女はそこで匂いを感じようとしていた。
 だが、彼女は弐号機パイロットの匂いを意識したことはない。
 それでも、前の自分が持っていた微かな記憶に従って、それを感じとろうとしていた。
 華やかさ。
 太陽のような明るさ。
 そして、自信に満ちあふれた勝ち気な表情。
 そのどれも、彼女は感じ取ることができなかった。
 ただそこにあるのは空虚。
 曇りガラスを通して見るような霞んだ意識。
 閉ざされた心と、それを無理にこじ開けられた気配。
 そして、もう一つ。
 彼女自身に似た感じ。


……なぜここに、私がいるの?
いいえ、私じゃないわ。
あなた、誰?
そう、あなたなのね。
あなたも、消えることを望んだの?
なぜ、望んだの?


「レイ、何か感じる?」
 ミサトは管制室からそう問いかけた。
 今日の試験は物々しい雰囲気の中で行われていた。
 もちろん、冬月は責任者としてそこにいたのは言うまでもない。
 さらに、スタッフの数がいつもの倍近くいた。
 オペレータだけでも、マヤの他に日向、そしてなぜか、青葉もいた。
 作戦部の日向は時折この種のテストに参加していたが、青葉は初めてだ。どうやら冬月の指示で来たらしい。
 しかし、人数が多くなったからと言って、テストの危険が減るわけではない。
 緊急の場合の対処が良くなるわけでもない。
 それに、今日の試験は危険を伴わないはずだった。
 それでも、彼らはそこにいた。
 何かが心配だったのだろうか。
 だが、オペレータの三人は、先程の密談など無かったかのように平静な表情を保っていた。
 そして、彼らから離れた後ろの壁にもたれてシンジがいた。
 虚ろな瞳をして。
「……何も……」
 衆人注視の中、プラグからレイの声が返ってきた。
「違和感があったら、すぐに言うのよ。いいわね?」
「……はい……」
 ミサトの声は少しピリピリしていた。それは彼女自身も気付いていた。
 自分がこんなことではいけない。彼女はそう思っていた。
 それもこれも、朝からシンジのあんな辛気くさい顔を見たからかも知れない。
 フィフスチルドレン、いや、拾七番目の使徒殲滅以来の、シンジの空虚な表情。
 最近までに取り戻していた少しばかりの自信は一体どうなったというのだろう。
 そんなことでは、今日も……
 ダメだ、今こんなことを考えてはいけない。
 ミサトはそう思って軽く息を整えてから言った。
「ではこれより、ファーストチルドレンによる弐号機に対する互換試験を行います。まず内容を確認します。本日の試験は……」
 ミサトはそこで手元のマニュアルを見ながら言った。
「起動予備試験です。起動は行わず、実機を用いたフィードバック誤差の測定を主とします。 A10神経接続後、双方向回線を開放、シンクロ率とハーモニクスを確認の上、 起動絶対境界線まで1.0を目安として接続負荷をかけます。 この状態を維持したまま各種データを測定、後、終了します」
 それからミサトは実験場の中の弐号機を見ながら言った。
「もう一度確認するけど、異常があったらすぐに言って。レイ、解ってるわね?」
「……はい……」
 レイの答を聞いてから、ミサトは後ろの冬月の方を見た。
 冬月が小さく頷いたのを確認してから、ミサトは試験の開始を告げた。
「では、起動予備試験、開始。伊吹二尉」
「はい。起動予備試験、第一次接続を開始します」
 シグナルは揺れ始めた。


 起動レベルを示すインジケーターは、絶対境界線の1.0手前で微かに前後を繰り返していた。
 この辺りは完全に安全な領域。理論上、暴走事故が起こらない範囲とされている。
 全てのグラフは安定していた。
「シンクロ率、38.7%か……昨日のテストのフィードバックが役に立ったみたいね」
「はい」
 ミサトの指摘に、マヤが答えた。
 今日の試験のための準備で、徹夜は免れたものの、データの整理は明け方近くまでかかってしまった。
 もちろん、ミサトもマヤに付き合った。それほど大した手伝いにはならなかったかも知れないが。
 それから二人とも少しだけ仮眠をしてから、今日のこの試験に臨んでいた。
 まだこれくらいは体力が残ってるってことか……ミサトはそう考えていた。
 できるだけ体力は温存しておきたいのだけれど、やるべきことをやらないうちは、寝付きが悪くなるだけだから。
 心配しなくても全てが終わればゆっくりできる……生きるにしても、死ぬにしても。
「理論値と比べて、誤差はどう?」
 ミサトは横でグラフを眺めている日向に訊いた。
「許容範囲内です。誤差、0.001%もありません」
「ハーモニクスはシミュレーションの結果とほぼ一致しています。誤差、理論値内です」
 日向に続いて青葉が答える。
 慣れない計測グラフを前にしながらも、青葉は無難にその観測作業をこなしていた。
「これなら起動できるかしら」
 ミサトはモニターを覗くのにかがみ込んでいた背筋を少し伸ばして、実験場の中の弐号機を見ながら言った。
「問題ないと思います」
「使えそうかね」
 マヤの答に続いて、後ろから冬月が問いかける。
「今のところは、行けそうです」
 ミサトが振り向いて答えた。
「そうか。では、この後のテストも鑑みてからになるが、弐号機の専属はファーストチルドレンをベーシックにできるかもしれんな」
「ベーシック……とは?」
 冬月の言葉に疑問を持ったミサトが逆に聞き返す。
 他に何かあるというの? まさか……
「もちろん、バックアップはセカンドチルドレン、あるいはサードチルドレンと言うことだ」
「……失礼しました」
「弐号機にはダミーシステムは使えんよ」
 ミサトの心の内を見透かしたかのように、冬月が呟いた。
 知ってるのね、この人も……
 ミサトは実験場の弐号機を見つめながらそう考えていた。
 程なく、試験は終了した。


 レイの試験終了後、シンジは実験場に入り、プラグ搭乗口の近くの壁にもたれて待っていた。
 少しうつむき加減になって。そして、その瞳は何も見ていなかった。
 そこに、レイが乗っていたプラグがクレーンで運ばれてくる。
 スライドハッチが開き、巨大なアームがインテリアシートを掴み出し、それをゆっくりと搭乗口に降ろす。
 シートがタラップに横付けにされると、レイはシートから身を起こし、タラップの上に降り立った。
 レイの身体から滴り落ちたLCLでタラップが濡れる。髪からも滴が落ちて微かな水音をたてた。
 そしてレイはすぐ横の壁にもたれて搭乗を待っているシンジの方を見た。
 その虚ろな表情を。
 しばらくシンジの方を見遣った後で、レイは何も言わず、出口に向かって歩き始めた。
 だが、シンジの前を二歩、行き過ぎたところで立ち止まった。
 二人の横では作業員たちが次のテストのための簡単な整備を行っている。
 喧騒の中、顔も見合わせない二人にとって、僅かばかりの時間が流れた。
「……心を、開いてあげて……」
 時間にして数十秒ほどの沈黙の後、レイがそう言った。
 シンジはふと顔を上げた。そしてレイの後ろ姿を見つめる。
 ……心を、開いて……
 どういう意味だろう。僕は心を開いてないんだろうか……誰に?
 弐号機? アスカ? 綾波? ミサトさん? 父さん? ……カヲル君?
 考えが深まりそうになったとき、レイが再び歩き始めた。ヘッドセットを外しながら。
「あの!」
 シンジはレイを呼び止めた。思わず大きな声を出してしまった。
 レイが立ち止まって顔をシンジの方に向けた。
 ヘッドセットを胸の前で持ってシンジの目をじっと見ている。
 その赤い視線が冷たい。
 ……僕は……何を言おうとしたんだろう……
 シンジは混乱した頭のまま、言葉を紡ぎ出していた。
「あの……後で、話がしたいんだ……」
「…………」
 レイは何も答えず、黙ってシンジの方を見つめ続けている。
 怖いくらい冷たい視線なのに、シンジは目を逸らすことができなかった。
 何も考えられずにじっとレイの目を見ていた。
「それに、あの……お見舞い……」
「……そう……わかったわ……」
 微かに聞こえるくらいの声でレイはそう呟くと、また振り向いてキャットウォークを歩いて行った。
 シンジはそれ以上何も声をかけられずに、レイの後ろ姿を見送っていた。
 整備員に準備完了を告げられるまで、シンジはレイが消えて行ったドアの方をただ眺め続けていた。


 ミサトはそんな二人の様子を、管制室の窓からずっと見ていた。



twelfth day

there's a calm before the storm



同日
ネルフ本部内第2実験場
機体相互互換起動予備試験
被験者:碇シンジ


 レイと入れ替わりにシンジはエントリープラグへ。
 そしてレイは管制室へ。濡れた髪を拭うことさえせずに、レイは実験場の中を見つめていた。
(心を開く……心を開く……心を開く……)
 プラグの中で、シンジはずっと考え込んでいた。先程のレイの言葉を。
 心を開く……エヴァに? 心を開かなければ、また事故を起こす……
 そう、前みたいに……拒絶すると、動かなくなる……
 拒絶しちゃダメだ。受け容れないと……
「シンジ君、準備は?」
 しかしシンジの思考はまたも中断させられた。ミサトの声によって。
 レイが言った『心を開く』ということが、今、シンジが考えたことかどうかは解らない。
 だが、今のシンジにとっては、そう受け取るしかなかった
「あ、はい……大丈夫です」
「違和感があったら言ってね」
 マヤがそう呼びかけてきた。
「いえ……何ともありません」
 シンジは答えた。もう一度ミサトの声が聞こえてくる。
「いいかしら? 始めるわよ」
「あ、はい」
「ほら、もっと肩の力抜いて、リラックスリラックス!」
 ミサトの声が一際明るい。
 そうか、リラックス……
 シンジは乗り慣れないシートながらも、なるべく深く身体を埋めるようにして、テスト開始を待った。
(心を、開く……)
 そしてそう考え続けることによって、意識をテストに集中させようとした。


「絶対境界線まで、1.5」
「負荷、入ります」
「絶対境界線まで、1.2。負荷、上昇中」
「負荷、上限レベル到達。固定します」
「絶対境界線まで、1.0。全パルス安定。ハーモニクス正常位置。シンクロ率、31.2%です」
 その声に、管制室を覆っていた僅かばかりの翳った雰囲気が取り払われた。
 まずは一安心、というところか。
 事故が起きないとは言っても、それだけが心配なのではない。
 シンジの今朝からの暗い表情はスタッフの全員が見ている。
 何があったのか知らないが、それでは困る。エヴァに乗るには精神状態が大切なのだ。
 昨日よりもシンクロ率やハーモニクスが落ちるようなことがあれば、弐号機どころか初号機にさえ乗れない。
 マヤやミサトにしても、今朝までの苦労が報われない。
「まずまずだな」
 最初にそう口を開いたのは冬月だった。
 管制室の緊張感が解きほぐされる。
 もちろん、冬月自身がその役を買って出たのである。それも責任者の役目の一つだろう。
「振幅誤差率はどうだ?」
 ミサトが黙ったままなので、また冬月がオペレータに問いかけた。
 その声でミサトがハッと我に返る。
「誤差±0.09。許容範囲内です」
「ハーモニクスは昨日より上がってるわね」
 日向の答に続けて、ミサトはグラフを見ながらそう言った。
 ……また、仕事を忘れてるわね、私は……
「そうですね。初めて初号機に乗ったときと同じくらいです」
 マヤがデータを確認しながら答えた。
 これなら行けるかも……ミサトがそう考えていた時だった。
「プラグ深度を下げてみろ」
 冬月の冷徹な声が響いた。
「深度を? しかし……」
「このレベルでは実戦に堪えん。0.1下げてフィードバックを確認だ」
 ミサトの反論を遮って冬月が命令を下した。
 冬月がテストに対して指示を出すことは滅多にない。
 フィフスチルドレンのテストの時が初めてだったくらいだから。
 ミサトが迷っていると、再び冬月が口を開く。
「今日のテストはデータの収集が目的ではないのかね」
 ミサトは言葉を返すことができなかった。
 今のままでは、弐号機はレイが起動することになるだろう。
 だからと言って、シンジのテストをこのまま終わらせるのはあまりにも無策だ。
 少しでも別のデータを収集しておく必要がある。
 冬月の命令は間違っていない。
「……伊吹二尉……」
「はい……」
 ミサトの指示でマヤが端末を操作する。
 ゆっくりとプラグの深度が下がっていった。
 しかし、シンジの精神状態を示すグラフには、さしたる乱れはなかった。
 だが、特に有効なデータを得ることもなく、試験はその後速やかに終了した。



 レイは一人、病室にいた。
 シンジは病室の外で待っていた。
『……独りにして……』
 アスカに独りで会うことを、レイは望んだ。
 シンジは疑問を感じながらもレイの言葉に従うしかなかった。
 そして病室の外で待っていた。ただ一人。
 レイはベッドの横の小さな椅子に座り、アスカの顔をじっと眺めていた。
 何も語りかけることなく、ただそうしているだけだった。
 そしてかつての記憶をたどり、彼女のことを思い出そうとしていた。
 今の自分がただの一度も会ったことがない彼女のことを。
 2人目の自分が憶えているはずの彼女のことを。

……光……
……太陽……
……赤い人……

……活動的……
……感情的……
……独断的……

 それが、2人目が持っていた彼女の印象。

『仲良くやりましょ。その方が都合がいいからよ』
『あんた、碇司令のお気に入りなんですってね』
『ちょっとヒイキにされてるからって、ナメないでよ!』
『シンジの悪口を言われるのが、そんなに不愉快?』
『機械人形みたいなアンタにまで同情されるとは……』
『あんた、碇司令が死ねと言ったら死ぬんでしょ!』

 それが、2人目が彼女にかけられた言葉。

『あんたバカァ!?』

 それが、彼女のシンジに対する口癖……

 ……冷たい人……

 それが、今の自分が彼女に持った印象。

 ……なのに、なぜ……

 それが、疑問。

 ……なぜ、碇君は、あなたを……

 レイはアスカの顔を見つめ続けた。
 自らの疑問に対する答が出せないままに。
 どれくらい時間が過ぎたのか解らない。
 やがてレイは、アスカの方にゆっくりと手を差し延べた。
 なぜ自分がそうしたのか解らないままに。
 そしてベッドの上に力無く置かれた手に、そっと触れる。
 その手を持ち上げ、両手で軽く包み込んだ。

 ……温かい手……

 彼女の手は自分よりも僅かに温かかった。

 ……そう、あなたの方が、温かいのね、私より……

 そしてその手をまた静かにベッドの上に戻す。
 それからレイはまたじっとアスカの顔を見つめ続けた。
 手に触れられても何一つ表情を変えないその顔を。

「……あなたも、求めているの? 温かさを……」

 レイはただそこに座ったまま、小さく呟いた。
 そしてその後には精密機械がパルス音を刻むだけの静寂が戻った。



 病室のドアが開いた。そしてレイが出てくる。
 ずいぶん長く会ってたんだな……シンジはそう思いながら立ち上がった。
 そこにレイが歩み寄ってくる。今日のレイは、あの白い服を着ていた。シンジが買った服を。
「あの……何か話、した?」
「……ええ……」
 シンジの問いかけに、レイが小さな声で答えた。
 何の話をしたんだろう……シンジは考えた。
 しかし、独りにしてくれと言ったくらいだから、きかない方が……
 でも……
「何か、言った? アスカ……」
 僕がさっき入った時は何も言わなかったけど……
「……何も……」
 レイは淡々とそう答えるだけだった。
「そう……」
 シンジはレイに見つめられて戸惑っていた。
 どうしたんだろう。また、昨日と、違う感じだ……
「あ、あの……」
 思わず声が出た。言い訳をするときのような情けない声。
 しかし、レイの方が先に言葉を漏らした。
「……話……」
「えっ……」
 話って……何か話があるの?
「……何を……話したいの……」
「えっ、あ……」
 話……そうか、僕の話……そうだ、僕が話したかったんだ……
「ごめん……忘れてたよ。あの……」
「……何?……」
 そう答えたレイの瞳は、慈しみに満ちていた。
 こんな目……綾波が、こんな目をするなんて……でも……
 シンジはその紅い瞳の光を吸い寄せられるように見ていた。
 でも……今なら、話せる気がする……
「あの……一緒に、来て欲しいんだけど……」
「……そう……」
 どこに、と訊くこともなく、レイはただシンジを見ていた。
 二人はしばらくそうして見つめ合っていたが、やがてシンジが視線を切り、歩き始めた。
 レイは黙ってその横に並びかけた。


「ここで会ったんだ、カヲル君と……」
 そこは第3新東京市だった湖。その畔。
 零号機の自爆によってできた窪み。そこに芦ノ湖の水が流れ込んでできた湖。
 コンクリートの浜。いくつも転がった瓦礫と砂利。
 水から突き出た電柱。天使の姿をした石像の破片。
 山を越えて吹く風によって打ち寄せられる波。
 そしてそこでシンジが会った一人の少年、渚カヲル。
「……カヲル君?……」
 シンジの左側に立って同じように湖を見ていたレイが、顔を少しだけシンジの方に向けて呟いた。
 夕焼けの名残を微かに留めた暗い空には、早くも幾多の星が瞬いていた。
 湖を渡って来る風が肌に心地よい。少し気持ちが落ち着く。
「うん……綾波も、会ったろ、あの……」
 そう、カヲル君に会ったのは、今の綾波なんだ……
 でも、今のとか、前のとか、そんなこと、気にしちゃいけない。
 なのに……
「……会った……」
 そう呟いたレイの顔をシンジは見た。
 レイはシンジの方を見ずに、湖の方に目を戻していた。
 その横顔が、なぜか寂しげで、何か儚げに見えた。
「うん……憶えてるよね……」
「……わからない……」
「えっ……」
 そんなはずは……
「……その名前、知らないの……」
 名前、そうか……シンジは思い出した。
 名前なんて、記号なんだ。人を識別するための。
 だから、綾波が知ってるカヲル君は……
「フィフスチルドレンが、カヲル君って言うんだ……」
「……フィフス……チルドレン……」
「うん、それが渚カヲル君……憶えてるよね?」
「……ええ……」
 ……そう、あの人が、フィフスチルドレン……渚カヲル……
 ……なぜあなたは、消えることを望んだの? なぜ……
 ……なぜ私、消えることが怖いの? 望んでいたのに……
「カヲル君が言ったんだ。僕を消してくれって……」
 シンジはレイの顔を見るのを止め、うつむいた。
 そうして右手を握りしめる。
 思い出すのは今朝の夢のこと。
「…………」
 レイはまたシンジの方を見た。無言のままで。
 しかし、シンジはその場に力無く座り込んでしまった。
 レイは立ったまま、上からシンジを見ていた。その顔は見えなかった。
「夢を見たんだ……」
 座って下を向いたまま、シンジがそう呟いた。
「……夢?……」
 ……夢……現実ではない物……
 レイが聞き返すと、シンジがまた声を漏らす。
「うん……夢にカヲル君が出てきて、言うんだ。僕を消してくれって……」
 ……それは、現実? それとも、夢?……
「それなのに、みんなが僕のことを責めるんだ。なぜ殺したって……」
 ……それは、現実? それとも……
「僕は……僕は、しかたなかったのに……なのに……」
 ……それは、現実?……
「なのに、みんなが責めるんだ、夢の中で……」
 ……それは……
「どうしてこんな夢を見るんだろう……」
 …………
「何で僕が苦しまなきゃ……」
 そして、シンジは黙った。
 レイはそんなシンジをずっと上から見つめていた。
 ……夢……あなたにとって、夢は何?
「……夢が、怖いの?……」
 ……夢……私にとって、夢は何?
「うん……見たくないんだ、こんな夢……」
 シンジは絞り出すような声でそう言った。
 なんて情けないんだ、僕は。女の子の前で泣くなんて……
 僕は、僕は……僕は、綾波を支えるなんて言いながら、本当は……
 本当は、僕が綾波に頼ってたんだ……
 綾波に、助けて欲しかったんだ……
 夢の話までして……
「う……」
 涙が零れた。
 シンジの肩が震えるのを、レイはじっと見ていた。
 ……何、泣いてるの?
 ……涙……あなたの、涙は、何?
 ……涙……私の、涙は……
 どうすればいいのか。レイは解らなかった。
 泣いている人にかける言葉を知らない自分があった。
 シンジに対して、何もできない自分を知った。
「…………」
 ただ無言のまま、レイはシンジの横に座った。
 少し、躊躇した。それは、買ってもらった服を汚しそうになったからか。
 洗えばいいのかも知れない。でも、もう洗えないかも知れない。自分には時間がないから。
「……ごめんなさい……」
 自分にしか聞き取れないほどのか細い声で呟きながら、レイは座った。
 そして、泣いているシンジを見続け、泣きやむのを待つしかできない自分を知った。
 ……何もできない、私……何も知らない、私……
 ……私にできるのは、微笑むことと、泣くことと……
 ……でも、私には、言葉がないから……
 ……だからあなたは、私より、あの人が……
 声を立てず泣くシンジの横で、レイはただ考え続けていた。
 遠い山の向こうから、月明かりが二人の影を映し始めていた。


 辺りを支配するのは冴え凍る月の光とその影。
 高く昇った月が、長い時間の経過を物語っていた。
 青い光が、湖の中の天使を妖しく照らし出していた。
 水面を滑る風が少し冷たくなり、穏やかな波を立てている。
 二人はまだそこにいた。
 ただ、風と波の音を聴きながら。
 シンジはもう泣いてはいなかった。膝を抱えるようにして、座っていた。そして、湖を見ていた。
 レイも同じように座り、そして同じように湖を見ていた。
 共に話しかける言葉を持たず、時間だけが過ぎ去っていた。
「ごめん……」
 長い長い沈黙の後で、シンジがポツリと呟いた。
「……何が?……」
 同じようにレイが小さな声を出す。
「話、聞いてもらったのに、泣いたりして……」
 ……どうして謝るの?
「でも、話したら、少しすっきりした……」
 ……どうして?
「それに、泣いたし……だから……」
「……何?……」
「ありがとう……」
 ……ありがとう……感謝の言葉……
 レイはシンジの方を見た。だがシンジは湖の方を見ていた。
 レイもまた湖の方に視線を戻す。
 ……感謝の言葉……私、何をしたの? あなたに……
 ……何も、できなかったのに……
 ……ただここに、いただけなのに……
「あの……もう、帰ろうか?」
 レイが黙って考えていると、シンジがレイの方を見てそう問いかけてきた。
「どうして?」
 レイは湖の方を見たまま言葉を返す。
 その言葉に、シンジが戸惑った。
「どうしてって……だって、もう遅いし……」
「……帰りたいの?……」
 レイの言葉が、シンジの胸に突き刺さった。
 ……僕は、何を求めていたんだろう……
 人と、話すこと? 人に、聞いてもらうこと?
 そして、それが終わったら、帰ること?
 もしそうなら……僕は、勝手な人間だ……
 自分のことしか、考えてなかった……
「わからない……」
 自分が何をしたいのか、わからない……
「……帰りたくないの?……」
「わからない。でも……」
 シンジはまたうつむいた。
 僕は、何がしたいんだ……
「帰りたいけど……帰るのが、怖い気もする……」
「……怖いの?……」
「うん……」
「……夢が……」
「えっ……」
 シンジはまた顔を上げてレイの方を見た。
 レイの瞳が宿す赤い光は、月と同じように冷たかった。
 そして、冷ややかに言葉を言い放つ。
「……夢が、怖いのね……」
「…………」
「……帰って、見る夢が、怖いのね……」
 シンジは何も答えられなかった。
 そして、ただうつむいて考えた。
 怖い……夢を見ることが、怖い……違う、本当はそうじゃない……
 怖い夢を見る自分が、嫌なんだ。
 いつまでも考え込んでる、弱い自分が嫌なんだ。でも……
「うん……怖いんだ……」
 そうなんだ。同じことなのかも知れない。
 結局、自分のせいなんだ……
 怖い夢を見るのは、僕が弱いからだ。だから……自分が……嫌いなんだ……
 そうして考え込むシンジを、レイは眺めていた。
 ……怖い……だからあなたは、あの人を……
 ……私のことが、怖いの? あなたは……
 ……でも、私は……
「えっ……」
 ふいに手にヒヤリとした冷たい感触を得て、シンジは顔を上げた。
 膝の上で組んだ手に、レイの右手が重ねられていた。
 レイの顔を見る。しかしレイは、重ねた手の方をじっと見ていた。
「あの……綾波……どうしたの?……」
 レイの思いがけない仕草に、シンジは戸惑った。
 綾波……どうして、手なんて……
 でも、こんなに冷たい手だったんだ、綾波って……
 前にさわったときより、ずっと……
 そしてなぜか顔が赤くなる自分を感じた。
「……ごめんなさい……何でもないの……」
 そう言ってレイは手を引いた。そしてまた膝を抱える。
 しかし、レイは感じていた。シンジの手の温かさを。
 ……温かい……あの人より……
 ……そう、あの人も、この温かさを、求めているのね……
 ……でも、私は……
 不意に、レイが空を見上げた。
 つられてシンジも空を見る。
 星が霞んで見えなくなるほど、明るい月がそこに輝いていた。
「月だ……」
 そして、初めて周りの明るさに気付く。
 月って、こんなに明るかったんだ……
 それに……
「綺麗だね……」
 シンジは無意識のうちにそう言っていた。
 感動すると、つい言葉に出るのはなぜだろう……
「……そう? わからない……」
 しかしレイはそう答えただけだった。
「うん、でも、明るくて……もう、満月なのかな……」
「……いいえ……」
「えっ……」
「……満月は、明日……」
 どうしてそんなこと知ってるんだろう……その時、シンジはただそう思っただけだった。
「そうなんだ……じゃあ、明日も晴れるといいね」
「……どうして?……」
「だって、そうなれば満月が綺麗に見えるから……」
「……そう……でも、満月は欠けていくわ……」
「うん、でも……また、しばらくすれば、満月になるし……」
「…………」
 最後のシンジの言葉を、レイは無言で考えていた。
 ……欠けていく月……消えていく月……でも、また還る……
 ……同じ……昔の私と……でも、今の私は……
「明日も見えるといいね、月が……」
 シンジのその言葉には何も答えず、レイはずっと月を見続けていた。

 ……私は……消える……還れない……



 その夜。
 彼女は自分の部屋にいた。
 窓から零れ入る月の光の中、部屋の灯りも点けずに彼女は立っていた。
 その手には、彼女の絆の一つである、壊れかけた眼鏡が握られていた。
 最初の絆。しかし、一度は壊そうとした絆。
 しかし、壊せなかった。自分がここにいる理由。それがこの絆。
 2人目の絆。しかし、今の自分が作った絆も、この絆がもし無かったら……
 だから、壊せなかった。
 もし壊せば、今の自分も壊してしまうような気がしたから。
 もう少しだけ、今のままでいたいから。



私、生きてるの?
なぜまた、生きてるの?
消えるために。
還るために。
どこに?
無へ。
始まりへ。
生まれたところへ。

あなたはなぜ望んだの?
消えることを。
そう、消えたかったの。
それが望み。
私の望みも同じ。
私が望んだの。
消えることを。
無に還ることを。

私、生きてるの?
なぜ、生きてるの?
私は望んでない。
生きることも。
ここにいることも。
そう、あの人が望んだの。
私が生きることを。
私がここにいることを。
そして、
私を捨てるために。

だから、
望めないの、私。
生きることを。
ここにいることを。
私、もう、必要ないから……



新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

To be continued...



Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions