私の絆。
与えられた絆。
初めからあった絆。
そして、
私が作った絆。
無から生まれた絆。

違う。
今の私の絆。
それは私のじゃないもの。
前の私。
みんなが知っている私。
その私の絆。

でも、
与えられた絆。
それは前と同じ。
そして、
私が作った絆。
その絆は、
前と同じもの?
わからない。

同じと思っていいの?
私の絆。
思いたいの。
あなたがそう言ってくれたから。
そして、
私がそう思いたいから。


初めからあった絆。
前の私が作った絆。
そして、
今の私が作った絆。
この3つの絆。
持っていたいの。
もう少しだけ。




第拾壱日

命令と服従と自由意志




 その日の早朝。
 彼女は自分の部屋にいた。
 正確には、部屋の窓を出たベランダにいた。
 壮麗な朝日を浴びてじっと佇む彼女の傍らでは、洗濯機が軽い水音をたてて動いていた。
 洗濯機は彼女が住むアパートと同じように古びていた。まるで、そのアパートができた当時からそこにあったかのように。
 しかし、彼女はこれをもう長く使うことはないと思っているので、新しいものを買う気はない。
 古びているとはいえ、全自動式だ。それに、ちゃんと動いている。
 洗濯物自体少ないのだから、何の問題もない。
 洗濯機の中では彼女の制服のブラウスと下着、そして靴下が水流と共に回っていた。
 彼女は週に何度かこうして洗濯をする。そして洗ったものをベランダかあるいは部屋の中に干す。
 ごくたまに、コインランドリーを使うことはあったが、ほとんどはこうして自分で洗濯していた。
 やがて洗濯機が小さな電子音を響かせて止まる。
 脱水まで終わっている洗濯物を取り出して、ブラウスはそのままベランダへ干し、その他の下着類は部屋の中のベッドの枕元に吊り下がっているハンガーに掛ける。
 次に彼女は鞄の中から昨日着ていた服を取り出した。
 そしてそれをベランダに持っていき、洗濯機に入れようとした。
 しかし、彼女の手が止まった。
 一旦入れようとした服を広げて、しげしげと眺める。
 そのうち、彼女の頭の中にある一つの疑問が湧いてきた。
 ……これは他の服と同じにしていいの?
 その服は、彼女はこれまでにまだ2度しか着ていない。
 まだ買ったばかりで、真っ白なままだった。輝くほどに。
 しかし、着たものは洗濯しなければならない。もう2度も着ているのだから。
 だが彼女はそれを洗濯機の中に入れようとしなかった。
 それは、その服に対して他の服と同じ扱いをしたくなかったから。
 本当にそう思ったのかどうかは解らない。しかし彼女は、たぶん自分はそう考えているのだろうと思った。
 やがて彼女はその服を持ったまま、部屋の中に戻った。
 そして、外に出ていくためにいつもの制服を着ると、その白い服を持って出掛けた。
 開け放たれた窓から風が入って来て、吊り下がった洗濯物を揺らした。
 しばらくして戻ってきた彼女の手には、きちんと折り畳まれてビニール袋に詰められた白い服があった。
 彼女はそれをベッドの上に置いた。
 それからおもむろにビニール袋を破ると、中から服を取り出して広げた。
 そして、汚れや傷がないかを確かめるように、その服をじっと眺める。
 その服が前のままであることが解ると、彼女は振り返り、後ろの壁に埋め込まれた収納棚を開いた。
 そして、そこにあったハンガーにその服を吊す。
 それからまたしばらくの間、その服をじっと見つめ続けていた。

 ……これが、今の私の絆? 唯一の……そして、本当の……



 その日の朝。
 旧市街地から程遠く離れた湖の際を走る道路に、青いスポーツカーが停まっていた。
 周りは山の碧と湖の蒼に包まれていた。他にこの辺りを走る車はほとんどない。
 その車は人目を避けようとしているのかも知れない。あるいは目ではなく『耳』か。
 車の中には、女と男がいた。女は運転席に、男は助手席に。
 他に誰も聞いている者がいるとは思えないのに、男は小さな声で女に話しかけた。
 それは男と女の密談ではなかった。仕事上の重要な機密事項の類であったろう。
「例の量産機の件……拾参号機まで、まもなく完成するそうです」
 話しかけられた女は、男に視線を移すことなく答えた。ハンドルさえ手から離していない。
「そう、そんなに早く……いつ? 正確な日は解る?」
「すいません、そこまでは……ただ、例の所にクラッキングをかけてみたんですが、一両日中ということしか解りませんでした」
 男の答えに女はピクリと眉を動かした。
「……あまり危ないことはしないでね。前にも言ったと思うけど……」
 女の心配そうな声に、男は何気なく言葉を返した。まるで、明日の天気の話をするかのように。
「大丈夫ですよ。足なんて付きやしません」
 それから男は少し真剣な声になって言った。
「……それに、今更足が付いても、死ぬのが何日か違うだけですよ」
 女はまた眉をひそめた。確かにそうかもしれない、と女は思った。
 最後の日は確実に近づいてきている。彼らが望むと望まないとに関わらず。
 そして今はなりふり構っていられないのだ。少しでも情報を持っておかなければならない。
 しかし、何のために?
 自分たちが情報を得たからと言って、運命が変わるのだろうか。
 それは女には解らなかった。
 しかし、何もしないで死ぬよりはずっといい。
 それだけでも悔いが残らない。女はそう考えていた。
「……それから、もう一つ」
 女が黙って考えていると、男の方が再び口を開いた。
「何?」
 女が聞き返すと、男はいっそう声を潜めて言った。
「……使徒はもう来ません」
「ええ、知ってるわ」
 女のその答えに、男の方が少し驚いたようだった。
「知ってたんですか?」
「リツコはそう言っていたわ」
「赤木博士が?」
「フィフスチルドレンが、最後の使徒だとね……それに彼らのシナリオにもそう書いてあったわ」
「シナリオ……じゃ、例の文書を?」
「ええ、見たの……詳しいことは、もう少しだけ待って。そのうちみんなに話せると思うから」
「……では、使徒の件はまだみんなには言わない方が……」
「そうね。そうしてちょうだい……いえ、明日にでも全部言った方がいいかも……」
「明日? 何故です?」
「みんなは知っておく義務があると思うから」
「…………」
 義務……何の義務だろう? 男は考えていた。
 あるいは、それは心の準備という意味だろうか。
 しかし、準備をして何になるというのだろう?
 男がそう考えていると、女が低い声で問いかけてきた。
「他には?」
「ありません。それだけです」
「そう……ごくろうさま」
 そう言うと女はキーを回した。
 ガソリン車特有のエンジン振動はなく、低音を響かせてモーターが唸りを上げ始めた。改造車だろうか。
「ありがとう、日向君……ごめんなさい、何度も危ない橋を渡らせて」
「気にしないで下さい、葛城さん……さっきも言ったでしょう、どうせ死ぬなら殆ど違いはないって」
「いいえ……生き残る確率は、0ではないわ……」
「えっ……」
 男の声と同時に、女はアクセルを踏み込むと、車を急発進させ、それから見事なスピンターンを決めて市街地の方に向かって走り去った。
 後には風に揺られて時折舞い落ちる木の葉と、静かに漣立つ湖の水面だけが残された。



木曜日
ネルフ本部内第7実験場
ハーモニクス試験
被験者:綾波レイ


 この日のハーモニクス試験は、いつもとはいささか趣が異なっていた。
 テストプラグに入っているのはレイだけ。そしてシンジは管制室からその光景を眺めていた。
 別にシンジが怪我をしたというわけではない。ただ、この日のテストは一人ずつしかできないのだった。
 レイは00と書かれたプラグではなく、02と書かれたプラグに収まっていた。
 だが、レイの表情はいつもと全く変わりないように見えた。
「レイ、どう? 違和感とかはない?」
 ミサトがマイクを通してレイに話しかける。
「……問題ありません……」
 その声もいつもと同じように抑揚がなかった。
「そう。でも、少しでも違和感があったら、すぐに知らせてちょうだい。危険はないはずだけど」
「……はい……」
 そこまで会話が進められたとき、ドアが開いて一人の男が入ってきた。
「おはよう」
「おはようございます。副司令」
 男……冬月の挨拶に、ミサトを始めとするスタッフ全員が挨拶を返した。
 冬月は軽く頷くとそのまま言葉を続ける。
「今日は弐号機を使ったハーモニクステストだったな」
「はい」
 そう、ハーモニクス試験とはいえ、代替被験者による試験の時の責任者はミサトでは務まらない。
 だから冬月が責任者として立ち会うことになったのだ。
 フィフスチルドレンの試験がそうであったように。
 冬月はひとしきり部屋を見回した後で、ミサトに声をかけた。
「コアの変換はできたということかね」
「はい。伊吹二尉が進めてくれていました」
「そうか……ご苦労だったな、伊吹二尉」
 冬月は穏やかな声でマヤを労った。
「はい……」
 マヤはどう答えていいのか解らなかった。
 ありがとうございますと言うべきか、これも仕事ですからと言うべきか。
 ただ、なぜかどちらも違うような気がしただけだった。
「よし、では始めてくれ」
 そう言った冬月の声は、いつもの少し厳しい口調が戻っていた。
 この人はどこまで知っているのだろう。ミサトはそう考えていた。
「はい。伊吹二尉、よろしく」
「はい。シンクロ、スタートします」
 ミサトが指示すると、マヤが復唱した。
 グラフは動き始めた。


あの人が乗っていたプラグ。
あの人の感じがしない。
別の人の感じ。
…………
あなた、誰?


 ミサトはマヤの肩越しにじっとグラフを見つめていた。
「シンクロ率、30%ちょっとか……これならうまくいくかしら」
「……そうですね。変換コアの方も、今のところ問題ありません。 フィードバックにノイズがありますが、許容範囲です」
 そこに冬月が後ろから声をかける。
「いけそうかね」
「はい、理論上は」
「計算値では、変換コアに対して20%弱のシンクロ率が必要です。これなら、充分余裕があります」
 ミサトに続いてマヤが答えた。
 冬月は頷くと、再び口を開いた。
「起動試験は明後日だったな?」
「はい。明日、弐号機を用いて予備試験を行います。起動試験は明後日を予定しています」
「……そうだったな。明後日か……」
 冬月はそう言って黙った。
 その目は何かを考えているようでもあった。
 シンジは試験の様子を、冬月のさらに後ろから眺めているだけだった。



同日
ネルフ本部内第7実験場
ハーモニクス試験
被験者:碇シンジ


「どう、シンジ君。とりあえず、感想を聞いておこうかしら」
 レイの試験が終わり、今度はシンジが02のプラグに入っていた。
 ミサトの言葉に、シンジはプラグ内で何かを感じ取ろうとするかのように目を閉じていたが、やがて口を開いた。
「いえ、別に……何も……」
「そう。違和感は?」
「……特にありません」
 でも……とシンジは考えていた。
 アスカの匂い、しないな……
 やっぱり、弐号機って初号機や零号機とは違うからかな。
 とにかく、何も感じない。……どうしてだろう?
 アスカの感じがする方が、安心できるのに……
「そう、じゃ、始めるわよ。いいわね」
「あ、はい」
 シンジの思考は、ミサトの声で中断された。


 グラフを見つめるミサトの表情は苦々しかった。
「20%ちょっと、か……ギリギリなのね、これじゃ」
「はい。ハーモニクスの方も……かなり低いですね、これは……」
「起動できるかどうかは、微妙なところという訳か」
 ミサトとマヤのやり取りに、冬月がコメントを挟む。
 そう、誰にとってもこの結果は予想外だった。
 何しろ、シンジは一度弐号機に乗って起動したことがあるのだ。
 もちろん、その時はアスカと一緒だったが。
 しかし、シンジがノイズになって起動できない可能性があることを考えれば、シンジの弐号機とのシンクロ率はそれほど悪くないはずだった。
 実際、シンジのデータを使って行ったシミュレーションでも、もう少し上の値が出ていたのだから。
「暴走の可能性があるような試験は認められんよ」
 ミサトの後ろからモニターを覗き込んでいた冬月が、背を伸ばしながらそう言った。
 その言葉はもっともだった。それは充分すぎるほどわかっている。
 子供たちに危険が降りかかるようなことがあってはならないのだ。特に今は。
 ミサトは重い口調で答えた。
「はい……申し訳ありません。ですが……明日の結果を見て、それから決定させて頂けませんか」
「予備試験か……しかし、シンクロ率が急激に上がるというわけでもあるまい」
「ですが……」
「コアに対する負荷の係数を変えれば、若干ですが改善の余地はあります。今日の結果の解析次第では……」
 答えに窮したミサトに、マヤが助け船を出してくれた。
 冬月は深くため息をつくと言った。
「そうだな。今更文句を言っても始まらん。我々は残された可能性に縋るより無い。よかろう、明日までに何とかしてくれ給え」
「はい」
 ミサトは短くそう答えると、グラフを覗く作業の方に戻った。
 先程よりもわずかながらシンクロ率が上がってきているが、未だ最低限のレベルであることには変わりはない。
 これは今日はマヤちゃん残業ね。私も付き合わなきゃ……
 そう考えるミサトのずっと後ろの方で、レイは冷ややかな目をして実験場の中を見つめていた。



eleventh day

a tempest in a teacup




 シンジは本部内の大浴場にある巨大な湯船に浸かっていた。
 一般の公衆浴場よりも遙かに広いその湯船は、現在のような非常時でも常に満々と温かい湯を湛えていた。
 シンジはたった一人でその無駄に広い領域を占有しながら、ずっと考え事をしていた。
 さっきミサトが言ったこと……明日、弐号機に乗るんだ……大丈夫かな、シンクロ率低かったみたいだけど……
 レイのこと……受け容れることはできるようになったけど、まだ会話が弾むところまでは……
 そして、アスカのこと……今日も、お見舞いに行ってあげた方がいいかな……
 堂々巡りになると考えるのを止めて、数十秒ごとに模様が変わる壁を眺めていた。
 のぼせそうになると、湯から上がって湯船の縁に腰掛け、また考え事を始める。
 風呂……やっぱりいやなことを思い出す……カヲル君のこととか……
 そうか、まだ僕は、吹っ切れてないんだ……
 いやなのに……ホントはエヴァにはもう乗りたくないのに、なぜここにいるんだろう……
 でも……
(僕には、もう、ここ以外に、居場所がない……)
 そして身体が冷えると、また湯に浸かって考え事を始める。
 今晩のおかず、何にしようかな……作りたいのがあったんだけど、何だったっけ……
 数十回も壁の模様が変わるのを見てから、シンジはやっと風呂から上がった。
 ……綾波、もう帰ったかな……テストが終わってから、一緒に講評を受けたけど……シャワー浴びるの早いみたいだから、もう行ってしまったかもしれない……
 そんなことを考えながら身体を拭き、服を着ると、シンジは浴室を後にした。



 長い廊下の一角に、エレベータホールがあった。
 少女は一人、エレベータの前に立っていた。
 そして自分が乗るためのエレベータを待っていた。
 ドアの上では階数を示すランプが一つずつ移動している。
 それはもう間もなくエレベータが到着することを表していた。
 そしてエレベータは到着し、小さなベルの音と共にドアが開いた。
 少女は開いたドアの中を見た。
 そこには一人の男が乗っていた。出入り口のすぐ前に。
 男は薄い色のサングラスの奥から、少女の方を睨んでいた。上から威圧するかのように。
 少女は男の顔を見ず、自分の目の高さに水平に視線を向けているだけだった。
 二人は向かい合ったまま、共に微動だにせず立ちつくしていた。
 そして無言の時間が流れた。
 やがてエレベータのドアがゆっくりと閉まり始めた。
 そして、まさにドアが閉じようとしたとき、男が低い声を発した。
「レイ」
「……はい……」
 少女は小さな声で答えた。
 男は閉じ行くドアの細い隙間から、少女に言葉を投げかけた。
「余計なことは考えなくていい」
「…………」
 少女が答える前に、ドアは閉まってしまった。
 しかし少女は答えることもなく、ただドアの前に無言で佇んでいるだけだった。
 答えても男の耳には届かなかったろう。
 しかし……
 少女は、答えようが答えまいが、それが無意味であることを知っていた。

 ……これも、今の私の絆? 最初の……そして、絶対の……



「綾波……」
 シンジは廊下の先のエレベータの前で立っているレイを見て声をかけた。
 その声にレイはシンジの方に一瞥を投げかけたが、再びエレベータのドアの方を見て動かなくなってしまった。
 シンジはレイに駆け寄ると、彼女の横に立ってもう一度話しかけた。
「まだ帰ってなかったんだ」
「……ええ……」
「あの……これからアスカのお見舞い行くんだけど、一緒に来ない?」
「…………」
 レイはまた無言のままシンジの方を見たが、再び顔を正面に戻すと小さな声で言った。
「……どうして?……」
「どうしてって……」
 行くか行かないかという答しか予想していなかったシンジは、少し戸惑った。
 昨日や一昨日とは明らかに反応が違う。
 このところ、レイの雰囲気が毎日違うような気がした。
「あの……でも、明日弐号機に乗るんだし……そのこと、アスカに言っておいた方がいいかなと思って……」
「……じゃ、あなたが言っておいて……」
 レイは間髪を入れずに即答する。
 その、以前と同じ無神経とさえ思える応対に、シンジはどうしていいか解らなくなりそうだった。
「でも……綾波も自分で言った方がいいと思うよ……」
「……どうして?……」
「どうしてって……」
 そう、そこには理由がなかった。
 アスカのお見舞いに行くというのは、シンジの意志によるものだから。
 そしてそれをレイに対して強制することはできない。
 しかしシンジは何となく納得がいかないものを感じていた。
 ……どうして綾波は行かないんだろう?
「……じゃあ、どうして綾波は行きたくないの? アスカのお見舞いに……」
「…………」
 その時、エレベータが到着してドアが開いたが、レイはそれには乗ろうとしなかった。
 そして、しばらく逡巡してから、小さな声で答えた。
「……命令ではないもの……」
「命令じゃないって……じゃあ、どうして昨日は行ったの? それに、一昨日も……」
「…………」
 レイは答えなかったが、シンジは言葉を続けた。
「そりゃ、病室には入らなかったけど……」
「…………」
「あれは命令じゃなかったのに……」
「…………」
 エレベータのドアが閉まった。
 二人はしばらく無言のままエレベータの前で立っていた。
 ……どうして行きたくないんだろう……でも……
「ごめん……行きたくないのなら、いいよ。やっぱり……」
 シンジはそう言ってエレベータの呼び出しボタンを押した。
 しばらくして二人が待っていたのとは別のエレベータのドアが開く。
 二人はそれに乗り込み、シンジは降りる階のボタンと閉扉ボタンを押した。
 エレベータが動き始め、カチカチと針が階を刻む音だけが箱の中に響く。
 二人は終始無言だった。
 やがてエレベータは停まり、ドアが開いた。
「あの、じゃあ……」
 外に出ると、シンジはそう言ってレイに別れを告げようとした。
 レイは黙ってじっとシンジの方を見ていた。
(綾波……返事もしてくれない……)
 シンジがそう思ったとき、レイが口を開いた。
「……行った方がいいの?……」
「えっ……」
(お見舞い……だよな、アスカの……)
 シンジは一瞬迷ったが、少し強めの口調で答えた。
「あっ、うん……あの、でも、無理にとは言わないけど……」
「……そう……じゃ、そうするわ……」
「えっ……」
 そうするって……どっちにするの?
「行きましょ……」
(病室に……ってことだよな……)
 シンジはレイに目で促されて、医療棟の方へ歩き出した。
 レイはシンジから一歩ほど遅れて付いて来た。
 廊下を歩く二人の足音は、なぜかぴたりと合っていた。


「綾波……」
 シンジが病室に入ろうとすると、レイはまた病室の手前で立ち止まっていた。
 そしてうつむいたまま呟くように言う。
「……ごめんなさい……」
「えっ……」
「……今日は、まだ……」
「でも……」
 なら、どうして来たの? と、シンジは訊きたくなった。
 行く理由がない、と言って拒んだかと思ったら付いて来て、そうかと思うと病室には入らなくて……
 しかしシンジが口を開こうとしたとき、レイが顔を上げて言った。
 その瞳が、微かに揺れているような気がした。
「……明日……」
「えっ……」
「……明日は、会うから……あの人に……」
「…………」
「……だから、ごめんなさい……」
 そう言ってレイは再びうつむいた。
 綾波……迷ってたのかな……でも……
「うん……わかったよ。じゃ……」
 シンジはそう言って病室に入るしかなかった。
「……ごめんなさい……」
 シンジが病室に入った後、レイは一人廊下でそう呟いていた。



なぜ私、ここにいるの……



「明日、弐号機に乗るんだ……」
 ベッドに横たわったアスカを見ながら、シンジは話しかけた。
 なるべく明るい声で。
「今日、ハーモニクステストしたんだ……シンクロ率、ギリギリだって……明日、もう一度テストするんだ、弐号機で……」
 そう言ってシンジはアスカの顔色を伺った。
 しかし、アスカはほんの僅かもその表情を変えることはなかった。
 昨日までと同じ虚ろな眼差しで、中空に視線を漂わせているだけだった。
 ……弐号機の話しても、ダメなのかな、やっぱり……
「弐号機って、アスカの匂いするのかな……零号機の時は……」
 そこまで言いかけて、シンジは口をつぐんだ。
 ……綾波の話は、しない方がいいのかも知れない。
 綾波も、アスカに気を使ってるみたいだから……
「……弐号機が、アスカの匂いすると、いいのにな。そしたら、安心して乗れるのに……」
 そう言ってシンジは以前弐号機に乗ったことを思い出した。
 ……あの時は、匂いなんて感じてる暇がなかったし、第一、アスカのことも知らなかったし……
「あの……僕が乗っても、いいのかな、弐号機……」
 アスカは、弐号機に綾波が乗ることを嫌がってた。でも、僕は……
「その……なるべく、汚したり、壊したりしないようにするから、だから……」
 シンジは落ち着きを取り戻そうとするかのように、いつもの右手を握り開く行為を繰り返した。
「だから、乗っても、いいよね……」
 何を言っても無反応なアスカを前に、シンジはじっと座り込んでいた。
「乗らなきゃ、いけないから……」
 最後のその言葉は、力無く呟いただけだった。
(そう、命令だから……)



 昨日と違い、シンジは今日はレイを部屋まで送って行くことにした。
 送って行く、と言うよりは、今日のレイのとった行動の真意について訊きたかったのかも知れない。
 二人は並んで歩いていた。一言も話をせずに。
 ふと、レイが立ち止まる。
 二、三歩シンジが行きすぎて、振り返った先には、コンビニエンスストアが夕闇の中で煌々と明かりを点けていた。
 そう、前にも寄ったんだっけ、ここ……
「あの……買い物?」
「……ええ……」
 シンジが声をかけると、レイは静かに答えた。
「じゃあ……僕も一緒に行くよ」
「…………」
 レイは何も言わなかったが、シンジが戻ってくるのを待つと、一緒に店の中へ入って行った。


 店の中で、レイが止まるところは以前と同じだった。
 パックの野菜サラダ、固形栄養食品、食パン、ミネラルウォーター……
 それらを次々にかごの中に放り込んでいく。
 その動きさえ、測ったように以前と同じで、まるで機械のようだった。
(やっぱり、いつも同じもの買ってるんだ……)
 しかし、今日はレイはシンジのための飲み物を買ってくれようとはしなかった。
 ミネラルウォーターでも別に構わないけど、どうせなら味の付いた飲み物の方が……
 シンジは飲み物の冷蔵庫から自分用のお茶の缶を一つ取り出すと、レイの後に付いてレジに向かった。
 しかし、レイはレジには向かわず、別の棚の方に廻って行ってしまった。
(あれ……)
 不思議に思って、シンジはレイの後に付いて行く。
 レイは棚の品物を一つ一つ確かめるようにして見ていた。
 まるで何か特定の品物を探すかのように……
(いや……探してるんだ……今まで買ったことがない物を……)
 いつもレイが買う物は決まっているみたいだから、今日は違うものを買おうとしているのに違いない。
 シンジはそう思ってレイに声をかけた。
「あの……何、探してるの?」
「…………」
 レイはそれには答えず、棚の品物を物色し続ける。
 シンジはもう一度声をかけた。
「あの……何、探してるのか教えてくれたら、僕も一緒に……」
 それに、レイには解らなくても、自分ならその置いてある場所の見当が付くかも知れない。
 少なくとも、レイよりはもっといろいろな品物を買ったことがあるのだから……
 しかし、レイはシンジのその申し出を断った。
「……いいの……」
「えっ……」
 レイはシンジの方には目もくれず、品物を検分し続けている。
「あの……いいのって……」
 シンジは諦めきれずにもう一度訊いてみた。
 僕には何を探してるのか教えたくないってこと? でも……
 しかし、レイからは意外な答えが返ってきた。
「……いいの……探すから、私一人で……」
「一人でって、あの……」
「…………」
 レイはもう何も答えなかった。
 シンジは黙るより他になかった。
 レイのことがますます解らなくなっていく気がした。
 この前から、ずっと見続けているのに……見れば見るほど、わからなくなる……
 僕は、どうしたらいいんだろう……
 しかし、今はただ、見守るしかなかった。
 やがて、レイは立ち止まると、探していたらしい商品を手に取った。
 それは何かの缶だった。
「あの、それ……」
「…………」
 シンジの方をレイはちらっと見たが、何も言わずにその缶をかごの中に放り込んだ。
 そしてレジの方に向かって歩き始める。
「あの、綾波、それ……」
「…………」
 シンジはかごの中の商品のラベルに書かれた文字を読みとった。
 見覚えのあるその缶。……綾波、それって……
「それ……紅茶……」
「…………」
 レジのすぐ手前でレイは立ち止まると、シンジに向かって頷いた。
 レイがかごに入れたのは、紅茶のリーフの缶。……それって、綾波……
「綾波……紅茶飲むの?」
「……ええ……」
 シンジのその言葉に、レイは小さな声で答えた。
 紅茶、飲むって……綾波の部屋に、紅茶を入れる道具なんて、あったっけ……
 シンジの頭の中に、レイの部屋の様子が再現される。
 シンクの上の棚の中は見たこと無いけど、入ってないような気がする……
「あの……でも……綾波、ティーサーバーとか、あるの?」
「……ティー……サーバー?……」
 レイは不思議そうな声でそう聞き返してきた。
「うん、あの……こないだ、見たろ、僕が紅茶入れるとき……あの、ガラスのポットみたいなの……」
 綾波……もしかして、それを見たから、紅茶入れようとしてるの? でも……
「……いいえ……無い、と思う……」
 レイは小さな声でそう答えた。
「じゃあ、茶漉しは……」
「……茶漉し……知らない……」
「そう……でも、無かったら、入れられないよ、その紅茶……」
「……そう……なの……」
 レイはそう言ってしばらく考えていたが、やがて今来た方向に戻り、かごの中の缶を元の棚に戻した。
 そして、再びレジの方に向かおうとするのを、シンジが押し止めた。
「あの、でも……紅茶入れたいんだったら、ティーバッグ使えば……」
「……ティーバッグ?……」
「うん、あの、これ……」
 そう言ってシンジは、缶のすぐ近くにあった透明パックを取ってレイに見せた。
 パックの中には50個ほどのティーバッグが詰め込まれている。
 レイは黙ってシンジの手の中のパックを見つめていた。
「これなら、カップがあれば入れられるし……そうだ、ティーカップとかはあるの?」
「……ティーカップ?……」
「うん、紅茶飲むときに使う……あの、陶器でできたカップ……」
「……ある……と思う……」
 そうか、それくらいならあの部屋にもあったのか。
 他には……
「あと、砂糖は?」
「……砂糖? ……わからない……ない、かも知れない……」
「じゃあ、砂糖も買わなきゃ……」
 シンジはすぐ近くの棚からスティック状の砂糖が詰まった箱を取ると、ティーバッグのパックと一緒にレイが持つかごの中に入れた。
 レイは黙ってシンジのすることを見ていた。
「これで、紅茶、飲めるから……」
「……そう……あの……」
「えっ、何?」
 レイは少し口を開いたままシンジの方を見ていたが、やがて視線を外しながら小さな声で言った。
「……ありがとう……」
「あ、うん……」
 そしてシンジはレイの後からレジの方に向かった。
 自分で買おうと思ったお茶の缶は、冷蔵庫に戻しておいた。


 レンジの上では、ミネラルウォーターを張られたホイッスリングケトルが微かな湯気を立てていた。
 そして、その横には大きさの違うカップが2つ。
 レイの部屋の戸棚を探したところ、いくつかの食器が出てきた。
 大きさも形も違う皿が4枚と、このカップ2つ。それに、フォークとナイフとスプーンが一組。
 調理器具はケトルとフライパンと小さな鍋が一つずつ。
 どれも埃をかぶっていた。ずっと前からそこにあったかのように。
 やがてケトルが笛のような音をたて始める。
「あの……お湯、沸いたみたいだよ……」
 シンジがそう言うと、ベッドに座っていたレイが立ち上がり、レンジの方に歩いて行った。シンジも後から付いて行く。
 レンジのスイッチを切るレイの横で、シンジは紅茶のパックを開けて、ティーバッグを一つずつカップに入れた。
 そしてレイがケトルを持って2つのカップに湯を注いだ。
 すぐに紅茶の紅い色が溶け出してくる。そしてほのかに香りがたつ。
 レイは自分の瞳よりも深いその紅い色をじっと眺めていた。
 シンジはティーバッグの糸を持って2、3度振り動かし、取り出して……どこにも捨てるところがないので、シンクの隅にそっと置いておいた。
 レイもシンジの真似をするかのようにティーバッグを揺すってから取り出し、同じ所に置く。
 それからシンジはスティックシュガーを取り出してその口を破くと、自分とレイのカップに半分ずつ入れた。
 そして、スプーンでゆっくりとかき混ぜる。
 まずレイのカップ、そして自分のカップを。
 それから二人はそこに立ったままでカップを手に取る。
 シンジは紅茶を一口飲んでみた。
 リーフティーよりは……やっぱり香りも味も落ちるけど……
 でも、温かかった。この部屋で飲んだ、初めての温かい飲み物。
 これで綾波の気持ちが少しでも温かくなればいいのに。シンジはそう思った。
「少し……味、違ったね……」
 レイが紅茶を一口すすったのを見て、シンジは訊いてみた。
 レイはしばらく考えていたが、やがて小さな声を漏らした。
「……いえ……いいの……」
「えっ……」
 レイはカップを両手で持っていた。そしてカップの中の紅い液体をじっと見つめていた。
「……いいの……紅茶、入れられたから……それに……」
「それに……何?」
 シンジが訊くと、レイは少し間を置いてから言った。
「……温かかったから……」
「そう……」
 じゃあ、これで良かったのかな、とシンジは思った。
 そして、カップの中に残っていた紅茶をもう一口飲んだ。
 レイはまだ大事そうにカップを両手で持って、その中をじっと見つめていた。
 その表情からはエレベータの前で見せた冷たさが微塵も感じられなかった。
 だから、何も訊かなくてもいいような気がした。今日のことは。



 シンジが帰った後で、レイは再びシンクの前に立っていた。
 彼女の前に置かれたカップには、新しく入れられた紅茶が香りと湯気を立てていた。
 レイはカップを手に取ると、しばらくその紅い色を眺めていた。
 そして、一口すする。砂糖が入っていないその紅茶は、少し苦かった。
 それからレイはまたカップを両手で包むようにして持った。

 ……温かい……

 それは心の温かさを思い出すためのきっかけになる温かさ。
 そうして温かさを感じたまま、レイはずっとそこに立ちつくしていた。



あなたは感じていたの?
温かさを。
2人目の私。
絆を持っていた私。
記憶を持っていた私。
わからない。
温かさ、伝わらないから。

温かさ、感じていいの?
もうすぐ消える私。
闇に還る私。
そこには何もない。
絆も。
記憶も。
温かさも。

命令と、遂行。
運命と、服従。
それが、私に与えられたもの。
他には何もない。
必要、ないから。

絆があるから、私は生きる。
運命があるから、私は消える。
でも、本当にそうなの?
消えたいの?
いいえ。
消えたくないの、今は。
生きていたいの、もう少しだけ。

消えないで、
この温かさ。
もう少しだけ、
消えないで……



新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

To be continued...



Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions