どこから来たの?
私。
どこへ行くの?
私。
無から来て、
無へ還る、私。
無は、心の安らぎ。

でも、ここにもある。
心の安らぎ。
そして、温かさ。
今までになかったもの。
求めていたの? 温かさを。
求めていいの?

魂をくれた人。
碇司令。
身体をくれた人。
碇司令。
運命をくれた人。
碇司令。
そして、
温かさをくれた人。
碇君。

私が、ここにいてもいい理由。
それは、碇司令。
碇司令がいたから、
私はいるの。

でも、
私がここにいたい理由。
それは何?
望んでもいいの?
理由を。
ここにいたいの?
何のために?

碇君のために?
それとも、
私のために?




第拾日

記憶の空白




 東の空が白み始めた。
 雲が紫色に染まり、山の端が茜色に萌え始める。
 空に小鳥が飛び交い、その高い鳴き声が空気を優しく震わせる。
 やがて空は明るさを増し、荘厳な光がこの狭い世界を包み込む。
 夜明け。
 一日の始まり。
 闇からの脱出。
 光の誕生。
 しかし、
 それを喜ばない者もいる。
 夜が明ける毎に、自分が消える日が近づくから。
 待ち望んでいたはずのその日が、今は怖いから。


 朝の光が、リビングのカーテンを通して、柔らかく部屋の中に射し込んでくる。
 その部屋には3人の人間が身体を横たえていた。
 女性、少年、そして、少女。
 少女は目を覚ました。
 そして、しばらくじっと天井を見つめていた。
 その天井が、自分の部屋の冷たい天井ではないことを確認するかのように。
 少女がその美しい真紅の瞳で見つめた天井は、少女が昨日言葉にした気持ちを雄弁に物語っていた。
 ……優しい……
 それは少女の中に初めからあった言葉。
 ……温かい……
 それは少女の運命の中には無かった言葉。
 そして、少年が与えてくれた言葉。気付かせてくれた気持ち。
 少女は、その言葉を与えてくれた少年の方を見ようとして、身を横によじった。
 少年は確かにそこにいた。そして、偶然にも自分の方にその優しい顔を向けて眠っていた。
 それを見て、少女は全身が包み込まれるような安らぎを覚えた。
 そして、昨日自分の中で探した言葉を、もう一度確認する。
 ……心が、温かい……
 そして、本当にそう感じることを身体で確かめた。
 しかし、少女の中にふと疑問が湧く。
 ……どうしてここにいるの?
 なぜなら、少女から少年は見えるはずがなかったから。
 そこには、『壁』があるはずだったから。
 『壁』……そう、少女と少年の間には、『葛城ミサト』という壁があるはずだった。
 彼女は昨晩、自ら『ジェリコの壁』と称して少女と少年の間にその身を置いたはずだった。
 では、その壁はどこに行ったのか?
 少女は少し身を起こし、少年の向こう側を見た。
 そこには『壁』はなかった。
 少年が自分と『壁』の間に入ってきたのではないことを、少女は知った。
 次に少女は、少年のいる方向とは逆に身をよじった。
 『壁』はそこにいた。
 ……どうしてここにいるの?
 寝ている間に『壁』が自分を越えて行ったのだろうか。
 あるいは、自分が無意識のうちに少年と『壁』の間に入ってきたのだろうか。
 しかし、少女の意外にも冷静な観察によって、その考えは共に否定された。
 身体だけが動いたのではない。布団も入れ替わっている。
 それは、寝ている間に少女と『壁』が意図的にその位置を変えられたことを意味していた。
 動かしたのは少女ではない。
 では、『壁』が動かしたのか。それとも、少年が動かしたのか。
 少女には判断できなかった。
 もう一度、少年の方に身をよじる。
 そして、布団から少し身体を起こす。
 少女に解るのは、自分のすぐ横に少年がいることだけだった。
 そして、今はそれだけでいいと思った。
 少女は少し身を乗り出すと、安らかな寝息をたてて眠る少年の顔を、じっと眺め続けた。
 心の中に、少しだけ不安が覗く。それは、自分の運命にない安らぎだったからか。
 ……ここにいても、いいの? 私……



 シンジは目を覚ました。
 そして枕元に置いた時計を見て、もう起きる時間であることを確認する。
 最近はこの時間になると、自然に目が覚めるのだった。
 身を起こすと布団の上に座って、まだぼんやりしている頭を徐々にはっきりさせていく。
 ……そうか、昨日はミサトさんと、綾波と、一緒に寝たんだった……
 シンジはミサトたちが眠っている方を見た。
 ミサトはシンジから遠く離れた、昨日寝た場所の一つ向こう側の布団にくるまって寝ていた。
 ……あーあ、ミサトさん、あんなところまで転がって行って……
 相変わらず寝相が悪いよな。綾波のこと、起こしちゃったんじゃないか。迷惑しただろうな、綾波も……
 そしてシンジはレイの姿を探した。見当たらない。ミサトの向こう側にもいないようだ。
 もう起きたのかな。シンジはそう思った。
 前に来たときも早く起きてたみたいだし、きっとシャワーでも浴びに……
 そこまで考えたとき、シンジは急に頭がはっきりしてきた。
 数日前の朝の光景が頭の中に蘇ってくる。
 ……もし今、綾波がシャワーを浴びているとしたら、もうすぐここに着替えに来る!
 そしてそれがどういうことかを、シンジは悟っていた。
 ……どうしよう、もしそうなら、ここから出ていかないと……
 とりあえず、シャワーを使っているかどうかを、確かめないと。
 使っていたら……自分の部屋にでも、退避しとかなきゃ。
 シンジはそう思って、布団から飛び起きると、リビングに続く扉を開けた。
「あれ……」
 そこには、こちらに背を向けて椅子に座っているレイがいた。しかも、既に服を着替えて。
 昨日、パジャマ代わりに着ていたはずのTシャツから、いつもの学校の制服に着替えていた。
 昨日の服は着ていない。今日の分に制服を持って来ていたのだろうか。
 そして、レイは声に振り返ってシンジの方に目をやる。
「あ、あの……」
「…………」
 シンジは少し驚いたので自分が何をしようとしたのか忘れてしまった。 朝の挨拶を言うことさえできないでいる。
 レイはそんなシンジの方を無言で見つめていた。
「あの……おはよう……」
 シンジはやっと声が出せた。
「……おはよう……」
 レイも小さな声で答える。
 どうしよう、会話、会話……シンジは頭の中で言葉を探した。
 他愛ないことを言うだけでいいはずなのに、考えれば考えるほど気持ちが焦る。
 やっとのことで、平凡な朝の会話を思い出した。
「あの……また、早く起きたんだね……」
「……ええ……」
「いつもこれくらい早いの?」
「……ええ……」
「そうなの……あの……」
「……何?……」
「……もう、シャワー、浴びたの?」
「……ええ……」
 そう言えば、レイの髪の毛がまだ少し濡れているように見える。
 シンジはその時になってやっと気が付いた。
 ……良かった、着替えている時に起きなくて。
 もしかしたら、寝ている僕の横で着替えたんだろうか。
 でも、気が付かなくて良かった……
 少しほっとして、シンジは会話を続ける。
「いつ、起きたの?」
「……わからない……時計、見なかったから……」
「そう……じゃ、どのくらい前?」
「……1時間くらい……」
「そう……ずっとここにいたの?」
「……ええ……」
 ここにずっと座って……何してたんだろう。やっぱり何もしてなかったのかな……
「あの、じゃ、もう何か食べる?」
「…………」
 シンジのその言葉に、レイはなぜだか少し不思議そうな顔をして首を傾げたが、無言のまま小さく頷いた。
「じゃ、パン、焼いてくれる? 僕が飲み物入れるから……わかるよね? パン焼くの」
 シンジがそう言うと、レイはパン焼き機が置いてある棚の方をちらりと見てから、シンジの方を向いて頷いた。
 この前来たときに焼くのを見ていたから、たぶん覚えているだろう。
 シンジも頷くと、シンクの上の棚からケトルを取り出し、水を張ってレンジにかけた。
 前はコーヒーだったから、今日は紅茶がいいかな。
 そんなことを考えながら、シンジは顔を洗いに洗面所に入っていった。
 シンジの後ろでは、レイがレトロなパン焼き機にパンを詰めて、スイッチを押し下げようとしているところだった。



 セントラルドグマ。
 シンジとレイを車で本部に連れてきた後、試験が始まる前に、ミサトは本部最下層に近いこの場所まで来ていた。
 レベル5のセキュリティを持つこの場所に来られるのは、本当なら碇司令、冬月副司令、そして赤木博士くらいだった。
 しかし、ミサトはそのチェックをすり抜けてこの場所に来ていた。
 加持リョウジが遺してくれたプレゼントを手掛かりに。
 『人工進化研究所3号分室』……そう書かれた部屋の前を通るとき、ミサトは少し前にここで見た……いや、見せられたものを思い出してしまった。
 ……どうしたら、あんなおぞましいことができるの? 人工の生命の創造、そして、その破壊……
 同じ人間のすることとは思えない。ミサトは激しい嫌悪を感じずにはいられなかった。
 彼らよりもむしろ、彼らによって創られた生命の方が……レイの方が、まだよほど人間らしい。
 今はまだ感情が足りない女の子だけれど、シンジたちとの触れ合いによっていずれ感情も育まれていくことだろう。
 そう、『創られた』ということを除けば、レイは私たちと同じ『人間』なのだ。
 そして、私たちよりも、ずっと汚れていない……
 ミサトはそう考えながら、暗い通路を歩き続けた。
 そして、一つの扉の前で立ち止まると、電子ロックにカードキーを通す。
 緑の発光ダイオードが点滅し、微かなエアの音を立てて扉が開いた。
 ミサトはその中に滑り込む。
 ドアが閉まった。
(たったの1時間か……)
 プレゼントの効力はそれだけだった。
 それ以上ここに居続けると、管理ログに記録が残ってしまう。
 諜報部や保安部に気付かれたら終わりだ。
 ……手早く済ませないとね。
 ミサトはその狭い部屋の中にぽつんと置かれた端末に灯を入れた。
 『人類補完計画』……そしてセカンドインパクトの真相を知るために。


(最初の想い出、か……)
 ミサトの前の端末の画面には「PASSWORD:」という赤い文字があった。
 学生時代のことが頭に浮かんでくる。
 想い出……あいつとの想い出、たくさんあった。たくさん作ったもの。どれもよく憶えている。
 そして、忘れもしない、最初の想い出……
 ミサトはキーボードを叩き、その想い出を打ち込んだ。
 しかし、最後のリターンキーを押す指先は、キーに触れたところで止まってしまった。
(……本当に、これでいいの?)
 何故だか急に不安が訪れてきた。
 あいつとの想い出。最初の想い出。確か、これがそう。
 でも、あいつはどう思っているの?
 別のことを最初だと思っていたら?
 最初の想い出が、私が思っているのと違っていたら?
 私がそれを忘れていたら?
 ……私の記憶は、正しいの?
 本当に、これでいいの?
 ミサトの指先は、微かに震えていた。
 ついさっきまで、正しいと思っていた自分の記憶。
 それが、今になって、こんなにも自信がない。
 これで、いいはず。でも、あいつがどう思っていたのか、自信がない。
 私は、本当にあいつのことを、解っていたの? ……加持のことを……
 解っている気になっていただけじゃないの?
 下唇を噛みしめた。
 ……時間がない。迷っている暇はないの。押しなさい、ミサト。自分を信じて……
 ミサトは自分にそう言い聞かせながら、はっきりと震える指でキーを押した。
 だが、怖くて画面を見ていられなかった。
 自分の想い出が壊されるような気がしたから。
 自分に裏切られるような気がしたから。


(……何だったの、一体……)
 部屋に入ってから約60分後、ミサトは部屋の外に出ていた。
 背中越しにドアが閉じられる音がする。そしてこの時がちょうど60分後だった。
 緊張の糸が切れて、ミサトはドアにもたれかかった。膝が微かに震えている。
「何だったの、一体……」
 今度ははっきり声に出してそう言った。
 やっと知ることができた秘密。セカンドインパクト、そして、人類補完計画。
 2000年、南極、光の巨人、アダム、再生計画、エヴァ、そしてリリス……
 ミサトが断片的に知っている言葉が全てつながった。
 そして、微かに残っている自分の記憶とも。
(これが、セカンドインパクトの真相……)
 そして、人類補完計画。
 膨大な資料は斜め読みしかできなかった。
 読んでいる途中、一度は止まっていた指先の震えを、またはっきりと感じた。
 そして、背中に伝う冷たい物を。
(出来損ないの群体として既に行き詰まった人類を、完全な単体としての生物へと人工進化させる……)
 そして、使徒と人類。いや、使徒としての人類……
(こんなことが考えられていたなんて……いえ、あの人が、こんなことを……)

『碇ユイ』

 ……名前だけしか知らなかった、しかしその存在があまりに重要だった人物の名が、計画書にははっきりと記されていた。
 そして、その計画書に書き込まれていた日付。
(あの日付……まさか、そんな……あの事故の、前の日だなんて……)
 たった今見た物が、信じられなかった。信じたくなかった。
 ミサトはしばし呆然と、暗い通路で立ちつくしていた。



tenth day

nostalgic view train




 テストまでの長い待ち時間の間に、シンジとレイはアスカを見舞いに来ていた。
 しかし、レイはまた病室に入ることを拒んだ。
 シンジは仕方なく一人で病室に入り、アスカに語りかけた。
 話すことのほとんどは昨日と同じこと。
 しかし、シンジは時折自分の子供の時のことについて話した。
 子供の頃……あまりいい想い出はない。泣いていたことばかり思い出す。
 それに、ある時期から先がよく思い出せない。
 それ以前には楽しい想い出がたくさんあったはずなのに……
 だから、話したのはほとんどが先生のところにいた時のことだった。
 でも、楽しいことも毎年同じことの繰り返しだったような気がする。 学校の行事だとか、誕生日だとか……
 それでもシンジは、少しだけしかない楽しい記憶を、アスカに語って聞かせた。
 アスカはいつものように、シンジの話に全く反応を示さなかった。
 レイはシンジが病室にいる間中、ずっと病室の前で待っていた。



なぜ私、ここにいるの?
ここにいたいの?
ここにいても、いいの?

あの人には、あなたが必要。
でも、私は必要?
あなたには、私は必要?

私は必要?
わからないの?
わからないのに、ここにいるの?
なぜ私、ここにいるの?


水曜日
ネルフ本部内第2実験場
複座起動及び連動試験
被験者:綾波レイ、碇シンジ


 シンジとレイは一つのエントリープラグの中にいた。
 レイがシートに座り、シンジがその横で待機していた。
 まだプラグの中は薄暗かった。
 シンジは少し緊張を感じていた。
 ……このテスト、まだちっとも慣れてないや。どうしてだろう?
 暗いところがいやだというわけじゃない。
 ただ……狭い空間に、二人っきりでいるというからなんだろうか。
 隣にいるのが綾波だから?
 でも、もし一緒にいるのが、アスカだったら?
 どうなんだろう。わからない。あの時のことは、無我夢中で何も憶えていない。
 いやだな、緊張……したくない。
 その時、ミサトの声がプラグ内に響いた。
「シンジ君、レイ、準備はいいかしら?」
「はい」
「……はい……」
「では、これより、複座起動及び連動試験を開始します。まず、試験の内容についての確認」
 そこで一旦ミサトの声が切れた。紙をめくる音。しばらくして再び声が響く。
「本日の試験では、被験者両名のA10神経接続比は50:50とします。 パーソナルデータはサードチルドレンの物を使用。 起動後、連動試験。 この際、ファーストチルドレン、またはサードチルドレンのどちらか一方のシンクロを全面カットするシャットダウン試験を行います。 本試験は、複座による戦闘において、どちらか一方の負傷の際、もう一人の操縦士に対してパルス負荷及びフィードバックがどのような影響を及ぼすかを測定することを目的とします」
 そこでミサトは急に優しい口調になって語りかけてきた。
「大丈夫、暴走なんてしないわよ。 二人のデータを使って、マヤちゃんがいろいろシミュレートしてくれてるから。 安心して。いい?」
「そうよ、二人とも、心配しないで」
 マヤもそう声をかけてくれたが、その声が少しこわばっているのは気のせいか。
「あ、はい……」
「……はい……」
 シンジとレイの返事を確認してから、ミサトがまた説明を続ける。
「パルスが安定したところで、カットした被験者のA10神経を再接続。 これをそれぞれの被験者に対して行います。 その後、席を交替して、同試験を繰り返します。 いいわね?」
「はい」
「……はい……」
 ミサトはまた砕けた口調になって二人に話しかけた。
「そんなわけで、今日の試験はちょーっち時間かかるかも知れないけど、我慢してね、二人とも」
「あ、はい」
「……はい……」
 二人は返事を繰り返すことしかできない。
「うまく行けば、早く終われるわ。終わったら、何か奢ってあげようか?」
「え……いいですよ。まだ給料前でしょ……」
「…………」
 シンジの答に、ミサトは思わず苦い顔になってしまった。
 ……ったく、この子は相変わらず素直じゃないわね。もっと子供らしくすればいいのに……
 ま、こないだシンジ君にだいぶ使われちゃったからね……そう言えばまだ返してもらってなかったわ、あれ。
 たかが子供の服だと思って気軽にカードを貸したのは間違いだったわ。
 後で明細書を見て目が点になってしまった。 何もあんなに高いのを買わなくてもいいじゃない……
「あの……始めていいですか?」
 マヤの声でミサトは我に返る。……いっけない、また余計なこと考えてたわ。
「うん、よろしく」
 素知らぬふりをして指示を出す。だが、マヤがしっかりミサトの渋い表情までチェックしていたことには気付かなかった。
「では、これより第一次接続を開始します」
 マヤのその声で、全ての機器に灯が入った。


「で、明日のテスト、大丈夫?」
 試験の前半と後半の間の短い休憩の間に、ミサトはマヤに話しかけた。
「あ、はい。大丈夫です。コアの変換準備はできてますから」
 コーヒーを飲んでいたマヤは振り返ってそう答えた。
 子供たちはプラグの中に缶詰だというのに、大人たちは呑気なものである。
「しかし、よくこんな短期間で準備できたものね」
「……赤木先輩がほとんどやってくれていたことですから……」
 そう、やっぱりそうなのね……
 自爆した零号機のコアの破片の回収、そしてそれを用いた弐号機のコアの変換、シンジ君とレイによる弐号機の起動試験……
 全てのお膳立ては整っていたってことね。頭が下がるわ、全く。
「そう、でも、大変だったでしょう? 残りを全部マヤちゃんが一人でやったようなものだし……」
 彼女のここのところの残業の嵐は、ほとんどこれにかかりきりだったからと言っていい。
 ミサトはマヤの苦労を心底ねぎらった。
「いえ、マニュアルもできてましたから……でも、完全じゃないんです」
「どういうこと?」
 ミサトは少し驚いて聞き返した。
 この期に及んで危険なことはしたくない。
 下手なテストをして災難が降りかかるのは子供たちなのだ。
「データの完全な入れ替えには特殊なコードが必要だったみたいで……それは赤木先輩しか知らないみたいなんです」
「そうなの? じゃあ、どうやって……」
「入れ替えではなくて、データの共存、ということになります。 弐号機のパーソナルデータは初号機や零号機のとかなり違いますから。 その異なる部分のデータは本当は上書きが必要なんですけど、それが私にはできなくて……ですから、共通しない部分は圧縮をかけてコアの中に無理矢理詰めている状態です。 でも、これでも接続負荷を変えれば理論上は動くはずです。 少し高めのシンクロ率が必要になりますが……」
 マヤの言葉の最後の方は、不安を押し隠すようにして少し強めに言われた。
 ミサトも、マヤの苦労を無にするようなことを言いたくない。
 なるべく明るい声で言葉を返す。
「そう。ま、明日のシンクロテストの結果を見て、それからもう一度考えましょ」
「はい……」
「じゃ、テスト再開」
「はい」
 マヤは残っていたコーヒーを飲み干すと、コンソールの方に向き直った。


「シンジ君、レイ、席は替わった?」
「はい」
「……はい……」
 大人たちが悠々と休憩を取っている間に、シンジとレイは狭いプラグの中で席の交替を終えていた。
 今度はシンジがシートに座り、レイはその左側で待機する。前回とは順序が逆だ。
 ……シートが、少し温かい。綾波の、体温かな……
 シンジがぼんやりとそんなことを考えていると、再びミサトの声が響いた。
「レイ? そこ、座りにくくない?」
「……いえ、問題ありません……」
 レイは本当に事も無げに答える。
「無理しないでね。座りにくかったら、シンジ君の膝の上に座ってもいいわよ」
「! ミミミミサトさん! な、何を……」
 予想もしなかったミサトの言葉に、あわてたのはシンジだった。
 レイの方をちらっと見ると、目の前の何もない空間を見つめたまま微動だにしない。
 そこにミサトからまた悪戯っぽい声が返って来た。
「何よ、シンちゃん、レイを膝の上に載せてあげるのがいやなの?」
「そそそそういう問題じゃなくて……」
(いや、その、あの……どうして僕はあわててるんだ?)
 パニック状態になっているシンジには、なぜ自分がうろたえているのかさえわからなかった。
 そこにさらにミサトの声が飛んでくる。
「レイはどうなの? シンちゃんの膝の上に座りたい?」
「だっ、だから……」
「うっさいわね、シンちゃんは黙ってなさい。レイ、どうなの?」
 マヤさん、ミサトさんを止めて下さいよ……シンジはそう言おうとしたが、なぜか言葉が出なかった。
 オロオロしたままレイの方を見る。
 レイはしばらく黙っていたが、やがて口を開いて小さな声を出した。
「……命令があれば、そうします……」
「じゃ、命令してあげましょうか?」
「ミサトさんっ!!!」
 シンジは今度こそ大きな声を出した。
 レイの表情は……全く変わっていなかった。
「じょーだんよ、じょーだん。そんな変な命令出す訳ないでしょ」
 笑い声を押し殺しながらミサトがそう答えた。
「いい加減にして下さいよ、もう……」
「どう? 緊張、とれた?」
「はい……」
 逆に緊張するよ、そんなこと言われたら……
 しかし、シンジはそれは言葉にせず、適当に返事をしただけだった。
 もう一度レイの方をちらっと見たが、その表情には緊張のかけらも伺うことができなかった。
 もちろん、管制室でマヤがミサトの『冗談』に絶句していたのは知る由もない。



 試験を無事に終えて、シンジとレイは地上へ向かうリニアに乗っていた。
 今日はシンジはレイを待っていたわけではない。
 シャワーを浴びて帰ろうとすると、エレベータのところにちょうどレイがいたのだ。
 レイはいつもシャワーを浴びるのが早いので、偶然だろうと思っただけだった。
『あ、綾波……』
『……何?……』
 シンジが声をかけても、レイは振り返ろうともせずに、エレベータのドアを見つめたままだった。
『あの……途中まで一緒に帰っていいかな?』
『……構わないわ……』
『そう、じゃ……』
 それで……環状第7号線の駅まで、二人で帰ることにした。
 リニアはゆっくりと地上に向かって上がっていく。
 二人は進行方向左側のロングシートに並んで腰掛けていた。間に赤ん坊が置けるくらいの小さな隙間を空けて。
 シンジは自分の右に座っているレイの方をチラチラと見ながら、何を話しかけようか考えていた。
 今日もアスカの病室に入らなかったこと……きいても無駄だよな。あの時だって答えてくれないんだし。
 今日のテストのこと……ミサトさんがあんなこと言って、どう思ってるんだろう。 命令ならホントに僕の膝の上に座ったの? ……何をきこうとしているんだ、僕は……
 その他のこと……何か無いかな……
「あの……」
 やっと話しかけることを思いついてシンジがレイに声をかけたちょうどその時、車内の電灯がふっと消えた。
 そしてリニアのスピードがゆっくりと落ちていく。
 ガクンと車輪が接地する音がして、やがて速度が0になる。
 それから一揺れてして、リニアは完全に停止した。
 スロープなのに下に落ちて行かないのは、安全装置が働いているからだろう。
「どうしたんだろう……故障かな……」
 シンジはそう言いながら、電灯の消えた天井を眺めていた。
 ……事故ならアナウンスが入るはずなのに。停電? それならアナウンスが入らないのもわかるけど……
「…………」
 レイも同じようにして上を見ている。
 しばらく待ってみたが、リニアは動こうとしない。
 やっぱり停電? リニアだけ? 下はどうなんだろう……
 シンジは右側から振り返って、窓の外を見ようとした。
 隣に座っているレイに膝が当たらないように、少し腰の位置をずらして身体を横によじる。
 覗いた窓からは、ジオフロントの景色が一望できた。
(……夕焼けだ……)
 ジオフロントに太陽はない。 しかし、上の採光窓からは夕日のオレンジ色の光が射し込んでいた。
 それが遙か眼下の風景を赤く照らし出す。
 地面の下なのに鬱蒼と繁る森の木々。 その中にぽつんと建てられたNERV本部。 そこに螺旋を描いて降りていくリニアやカートレインのレール。 そしてその周りを取り囲む湖……
 地底空間に『造られた』自然の景色なのに、 いや、人工的な建造物もいくつか混じっているのに、 なぜだかそれが本当に自然な景色に見えた。
 人間と自然の調和……そんな安っぽい言葉で片付けたくないほどの美しいコントラスト。
 ……いつも見ているはずなのに、こんなに綺麗に見えるなんて……
「綾波……」
「……何?……」
 シンジは無意識のうちにレイに呼びかけていた。
 この美しい自然の景色を、誰かに見せたい。そう思っただけで。
「見てよ……」
「…………」
 レイはそう言ったシンジの顔を不思議そうに見ていたが、やがてシンジと向かい合うように身体を横に向けて窓の外を眺めた。
「綺麗だね……」
「……そう? わからないわ……」
 シンジの一言に、レイはそう答えただけだった。しかし、じっと窓の外を見続けていた。
「うん、でも……こういうのが、綺麗って言うんだって、憶えておけばいいんじゃないかな……」
「…………」
 レイは何も答えなかった。ただ、何かを考えるような表情でずっと外を眺めている。
 シンジはレイの方を見ていなかったので、彼女がどういう表情をしているのか知らなかった。
(……でも、この景色……前にも見たような気がする……そう、いつも見てる……でも……それよりも、ずっと前に……)
 どうしてそんなことを思うんだろう? シンジはわからなかった。
 ただ、遠い昔の記憶のような気がする。思い出したくても、思い出せないほど遠い昔……
「綾波……」
「……何?……」
「僕は前にも、こんな景色を見たことがあるような気がするんだ……」
「……そう……」
「父さんに呼ばれてここに来たとき、カートレインから見たんだ。 すごいって思った。本当のジオフロントだって。感動したんだ。でも……」
「…………」
 僕はどうしてこんなことを綾波に話しているんだろう……
 シンジはそう思いながらも、レイに話し続けた。誰かに言わずにはいられない……
「でも、その前にもここに来たことがあるような気がするんだ。ずっと前……子供の頃に。 その時にも、見たような気がするんだ、こんな景色……」
「…………」
「憶えてるような気がするんだ。でも、本当はどうなのかわからないんだ。 子供の頃の記憶って、いい加減なのが多いし……」
「…………」
 シンジは自嘲気味に、しかし少し笑いながらレイに語り続けた。
 レイは黙ってシンジの言うことを聞いている。
「そうなんだ。子供の頃の記憶って……憶えてないはずなのに、他の人の話を聞いているうちに、 そんなことがあったって思うようになって……」
 レイは景色を見るのを止めて、シンジの横顔を見ていた。
 その顔は、彼女が今朝見たのと同じ、優しい顔だった。
 シンジは窓の外を見ながら話し続ける。
「そのうち、それが、ホントの自分の記憶みたいに思えて来ちゃうんだ。 だから、憶えてなくても、後から記憶が作られることがあるんだ。 いい加減なんだな、記憶って……」
 ……記憶が、作られるの? でも、その作られた記憶は、あなたのものなの?
「そんな風にして、子供の頃の想い出ってできちゃうんだ。変だよね。 自分が憶えてないことの記憶があるなんて。 ホントに経験したかどうかわからないのに、憶えてるなんて……」
 ……経験しないのに、憶えている……それで、いいの?
「それに、時々思い出すんだ。憶えてないような、昔のこと。 でも、それがホントに自分が経験したことかどうか、わからないんだ。 今のこの景色も、そうなんだけど……」
 ……経験したかどうか、わからない……それで、いいの?
「綾波は、そんなこと無いの?」
「…………」
 レイはそれには答えずに、夕陽に照らされたシンジの横顔をじっと見つめながら考えていた。
 ……それは本当にあなたの記憶なの? それで、いいの?
 やがてシンジはレイの方に顔を戻し、レイが自分の方を見ていたことに気付くと、あわてて言葉をつないだ。
「ごめん、変なこと言って……こんな話、意味ないよね」
 ……意味がない……いいえ、違う……
 レイはぼんやりとシンジの顔を見つめていた。
 あきれられてるのかな、こんな話をして……シンジはもう一度謝ろうとした。
 その時、突然車内の電灯が点いた。
「あっ、ついた」
「…………」
 シンジとレイは同時に天井を見上げた。
 リニアがゆっくり動き始めた。スロープを滑り降りて行く……
 と、次の瞬間カクンと小さく揺れて、リニアが前に進み出した。
「あ……」
「…………」
 ちょうど座り直そうとした時に、シンジの身体は横に……レイの方に倒れていった。
 レイよりもスロープの上の方に座っていたせいかもしれない。確かに車内は傾いていた。
 そう、身体を支えていないとレイの方に倒れるとは思っていた。
 右手で支えようとしたが、手をつこうとしたところにレイの脚があって……
 左手はどこにも捕まれなくて……
 シンジはそのまま倒れていって……レイを右肩で押し倒しかけたところでようやく止まった。
 ちょうどレイの左肩のところにシンジの頭が乗るような姿勢。
 レイは傾きながら右手をシートに突っ張って自分の身体とシンジの体重を支えている。
 そして自分の肩の上に乗ったシンジの顔を見ていた。
「ごっ……ごめん……」
 焦っているせいか、シンジはなかなか体勢を立て直せなかった。
 車内が傾いている上に、リニアが上に向かって加速しているせいもあったのだが。
 スピーカーからは、愛想の無い人工音声が遅ればせながら急停車の非礼を詫びていた。
 ようやく元の体勢に戻れたところで、シンジはもう一度レイに謝った。
「あの……ごめん……」
「……いいえ、気にしてないわ……あなたのせいじゃ、ないもの……」
 レイはシートにきちんと座り直し、シンジの顔も見ないでそう言った。
「うん、でも……」
 そのままシンジはレイに話しかけることができなかった。
 リニアはゆっくりと地上へと近づいて行った。


 そしてその日、シンジは久しぶりにレイを部屋まで送って行かなかった。
 レイは何か考え事をしているように見えて、付いて行くとそれを邪魔しそうな気がしてしまって。



記憶。
過去の経験。
過去の学習。
私自身の、過去の記録。
過去の私。
でも、それは私じゃない。
今の私には、過去はないもの。
でも、
それでいいの?

作られた記憶。
2人目の記憶。
私の知らない、私の記憶。
私が知ってる、過去の私。
それは私?
違う。
私は、私。
2人目じゃ、ないもの。

あなたは、どうなの?
1人目と、2人目。
1人目の私。
何も知らない、私。
2人目の私。
碇君を知っている、私。
みんなを知っている、私。
そして、
絆を知っている私。

私が知っている記憶。
私が知っている絆。
それは、
私が受け継いだ記憶。
そして、
私が受け継いだ絆。
それは私のもの?
それでいいの? 私は。
それでいいの? あなたは。



新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

To be continued...



Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions