光のないこと。
暗いところ。
何もない空間。
私が生まれたところ。
そして、
私が還るところ。


明るいもの。
闇を照らすもの。
温かいもの。
私には必要ないもの。
必要のない、私。

光が消える。
私も消える。
闇に還る、私。
闇の中の、私。
絶無。

でも、今はダメ。
今はまだ、私は必要。
必要とされる時まで、私はいる。
それが、運命。
もうすぐ、必要になる。
必要が無くなれば、消える。
それが、現実。

それまで、私はどうすればいいの?
それまで、生きている。
光の中にいる、私。
光を求めて、いいの?
もうすぐ消える、私。
まだ、いいの?
ここに、いても。




第九日

人の温もり




 その場所は闇に包まれていた。
 何もない空間だった。少なくともそう見えた。
 無限の広がりであるかのような錯覚さえ起こさせる場所だった。
 しかし、その闇を切り裂くような音と共に、黒い石盤のような物体が現れた。
 その表面で赤く光る文字が、薄暗く周りを照らしていた。
 そしてここが無限に続く空間ではなく、有限の領域であることを見せていた。
 突如、闇の中から音が発せられた。
「まもなく滅びの時が来る。そしてそれは再生の時、新たなる始まりの日だ」
 それは人の声だった。しかし、石盤から発せられたのではなかった。
 何もない空間からでもなく、何もないように見えた空間のどこからか発せられた声だった。
 それは不思議なほどこの空間全体に響きわたった。
 その声に呼応するかのように、次々と新たな石盤が闇の中に現れる。
「エヴァシリーズ。その完成の日は近い」
「左様。全てが揃うとき、未来への扉が開くのだ」
「完全なる魂。我々の理想が叶う」
 石盤は次々に自らの言葉を唱え始めた。
「碇ゲンドウ……彼には感謝の言葉を与えよう」
「無論だ。彼が居なくてはここまで来られなかっただろうからな」
「そう、功績は認めねばなるまい」
「だが、最後のシ者を葬ったのはいささか浅はかだったようだな」
「そうだ。この罪は軽くはない」
「その通り。しかし、奴の役割もここまでだ」
「最後の日には彼に制裁をもって餞にするとしよう」
 黙して語らぬものをも含めて、その空間には12の石盤が車座に並んでいた。
 その名を呼ばれた碇ゲンドウなる人物は、この場には居ないようだった。



火曜日
ネルフ本部内第2実験場
機体相互互換試験
被験者:綾波レイ


「おはよう、レイ。どう? 調子は」
 ミサトは管制室からプラグの中のレイに明るく語りかけた。
 しかし、朝の挨拶をするには少々遅い時間だった。もう昼前だ。
 もっとも、彼らは本部内での挨拶にもっぱら『おはよう』を使うのが決まりになっていたのだが。
「……問題ありません……」
 レイが静かな声で答えた。
 管制室からプラグの中がまだモニターされていなかったので、ミサトからは見えなかったが、 レイはシートにゆったりと身を預け、少し上を向いて座っていた。
 心身共にリラックスしていることが、管制室からチェックされている心理グラフから読みとることができる。
 レイはまるでそこが彼女の安らぎの場所であるかのように、完全な平静状態を保っていた。
 ミサトはそのことを確認すると、再び声を送った。
「昨日の成績は気にしないで。落ち着いて。いい?」
「……はい……」
 気にさせたくないなら言わない方がいいように思える。スタッフはみな訝しがった。
 しかし、ミサトは敢えてそれを言っていた。
 それは、そのことを言ってもレイが何らそれを気にすることはないと思っていたから。 いや、そう確信していたから。
 なぜなら、ミサトは今日ネルフに現れたときのレイの姿を見ていたから。
 今日のレイは、いつもミサトが見慣れていた学校の制服を着てはいなかった。
 見慣れない白いワンピースを着ていた。
 もちろん、それはシンジが買った物であることは明らかだった。
 一瞬、甚だしい違和感を覚えたが、改めてよく見ると全く似合わないと言う訳ではない。 むしろその逆だった。
 それは綾波レイという少女がやはり14歳の普通の少女であるということを意味していた。
 空色の髪と紅い瞳という決定的な特徴がなければ、彼女がレイであるとは誰も気付かなかっただろう。
 もちろん、その整った容姿は別の意味で人目を惹いたであろうが。
 ほとんど待ち伏せのような形でミサトはレイに声をかけた。
『おはよう。レイ』
『……おはようございます。葛城三佐……』
 しかしミサトは服について詮索するのを止めた。
 いかにも偶然通りがかっただけのふりをして、挨拶をするまでに留めておいた。
 ただ、レイの歩くペースが心なし速いことだけを確認した。
 まるで誰にもその姿を見られないようにしているかのように……
「あの……葛城三佐……」
 おかしな思い出し笑いをしているミサトを見かねて、マヤが声をかける。
「ん? あ、ごめんごめん。ちょっち考え事してたわ。始めましょう。伊吹二尉、お願い」
「はい。相互互換試験、第一次接続を開始します」
 その声が合図となって、オペレーターたちの手が一斉に動き始める。
 目の前のパネルに次々とランプが灯っていった。
 そしてモニターを流れる全ての数字が問題ないことを表していた。
 マヤはそれらを一瞬にして把握しながら、起動作業を続けていく。
「続いて、第二次コンタクトに入ります」
 横からミサトが口を挟む。
「マヤちゃんも大変ね、毎日毎日……」
「いえ、仕事ですから……ハーモニクス、全て正常」
 マヤはミサトの言葉をさらっと受け流すと、グラフの確認作業を続ける。
 ミサトは知っていた。ここ10日ほど、マヤが休みを取らず、毎日仕事をしているのを。
 彼女は本部に泊まり込み、朝から晩まで端末かコンソールに向かい合っている。
 もちろん、仕事自体の量も多いのだが、別の理由もあったろう。
 別の理由……リツコが居ないことを、気に病んでいるのだろう。
 そしてそれを、リツコの仕事を受け継ぎ、完成させることで紛らそうとしているのだろう。
 リツコが拘束されていることを知っていながら、マヤにそれを知らせていないことで、ミサトは少し心が痛んだ。
 ごめんね、マヤちゃん。今はまだ、教えられない。でも、そのうちきっと……
 私の仕事が済んだら、教えてあげる。ミサトはそう心に誓った。
「……絶対境界線突破。初号機、正常に起動しました」
 マヤの明るい声が管制室に響いた。



 闇の中ではまだ声が響いていた。
「しかし、アダムと共にリリスも奴の手の中にある」
「そのとおり。しかもまだ奴らのエヴァンゲリオンは健在だ。奪還は容易ではないぞ」
「問題ない。予定どおり、初号機を使う」
「リリスの分身たる唯一のエヴァ。それを用いるに何の支障もない」
「弐号機は捨てるのもやむを得まい」
「しかしそれでは数が足りぬ」
「だが時間がないのも事実だ」
「放って置けばあの男に余計な機会を与えるだけだ」
「現状でも不可能ではあるまい」
「左様。少なくとも形にはなる」
「何も問題はない」
「決定」
「では、これにて。約束の日を待つとしよう」
 その声を最後に、黒石盤が次々と姿を消していく。
 そして闇は再び最初の静寂を取り戻した。
 まるでそこには、初めから何もなかったかのように。



同日
ネルフ本部内第2実験場
機体連動試験
被験者:碇シンジ


 遅めの昼食休憩を挟んで、実験場では機体連動試験が始まろうとしていた。
 既に初号機のパーソナルデータの書き換えは終わっている。
 シンジはプラグインテリア内に収まってテストの開始を待っていた。
(今日は早いんだな……)
 LCLに満たされた薄暗い空間の中で、シンジは考え事をしていた。
 いつもはテストは昼からだったのに、今日の綾波のテストは午前中にやったらしい。
 このテストも、いつもより早い時間から始まっている。
 ……もしかして、事故が起こることを想定しているとか?
 いやだな、そんなこと思われるの。
 でも、先週は2回も失敗してるし、病院からの帰りが遅くなってるから、仕方ないかも知れない。
 2回のうち1回は綾波で、1回は僕か。
 そういえば、一人で初号機を起動するのは久しぶりだ。
 先週は……一度も一人で起動していない。
 確かに危ないよな……
 今日は集中しなきゃ。
 そう、今日も綾波のイメージが入ってくるかも知れないから。
 絶対に拒絶しちゃいけない。僕はそう決めたんだから。
「シンジ君、始めるわよ」
「はい」
 ミサトの声に、シンジは力強く答えた。
 そして、落ち着きを取り戻そうとするかのように、右手を握っては開く行為を何度か繰り返した。


「……絶対境界線まで、あと1.0、0.8、0.6、0.5、0.4……」
 マヤのカウントダウンの声が聞こえる。
 この声、いつもと少し違うような気がする。緊張してるのかな、とシンジは思った。
 たぶんそうなんだろう。 先週、複座以外で僕が起動に成功していないのはみんな知ってることだから。
 落ち着け……シンジは意識を集中しようとした。そしてレイのことを思い出した。
(綾波、来るのなら来てもいいよ。僕は拒絶しないから……)
 シンジは来るべきレイのイメージに対して身構えた。しかし、心は広げたままだった。
「……0.2、0.1、突破……初号機、正常に起動しました」


(あれ……)
 初号機はあっけなく起動した。何の問題もなく。
 そして、シンジの頭には何のイメージも流れ込んでは来なかった。
 はっきり言ってシンジは拍子抜けしてしまった。
 どうしたんだろう……今日は何もなかった……
 そうすると、先週のは何だったんだろう?
 もしかして、気のせいだったのかな。いや……
 つい否定的な考えをしてしまう自分を、シンジは押し止めた。
(先週が、気にしすぎだったんだ。これが普通なんだ。それに……)
 シンジはなるべく積極的な考え方ができるように努めてみた。
(それに、今日何もなかったのは、僕が綾波を受け容れることができるようになったからかも知れない……)
 先週は綾波のこと……3人目の綾波のことについて、まだ心に迷いがあった。
 3人目の綾波は、2人目の綾波と違うんじゃないかと思ってた。
 だから必要以上に綾波のことを意識していた。
 そして、無意識のうちに綾波のことを考え、無意識のうちに拒絶していたのかも知れない。
 でも、日曜日に話ができたおかげかな、とシンジは思った。
 あの時、綾波に言うつもりで、自分に言い聞かせていたのだろう。
 綾波レイという人物が、たとえ2人目であろうが3人目であろうが、 綾波レイという魂を持つ者であることに変わりはないということを。
(綾波、僕はもう迷わないから……)
 シンジはもう一度自分に確認するようにそう考えた。
 そして、ミサトの指示を待っている間に、ふと管制室の方に目をやる。
 その時、そこにレイがいることにシンジは気が付いた。
 レイはずっと前にテストが終わったはずなのに、まだプラグスーツのままそこに立っていた。
 綾波……どうしてまだいるの……


 初号機が正常に起動し、連動試験に入る前に、ミサトはレイの方をちらっと見た。
 まだ時間が早いということと、明日の伝達事項をするという理由で、 シンジの試験が終わるまでの待機を命じたのだが、 レイはプラグスーツから着替えもせずにその場にいた。
 昼食に行った様子もないが、手持ちの固形栄養食品か何かで済ませたのだろうか。 以前、何度かそんな光景を見たような気がする。
 ただ、ミサトが管制室に戻ってくる前から、レイはずっとそこに居たようだ。
 そしてシンジがプラグに入る前からずっと実験場の中を見ていた。
 起動の最中も初号機を、いや、初号機の中のシンジが居るであろう辺りをじっと見つめていた。
(そんなにシンジ君のことが心配なの、でも……)
 ミサトは起動中にレイの方をちらちらと見ながら考えていたことに結論を出そうとした。
 ……シンジ君のところに行って話をすればいいじゃない。
 頑張ってとか何とか、声をかけてあげるだけで……
 しかし、それは間違った結論であることにやがてミサトは気付いた。
 そう、間違っている。少なくとも、レイの場合は。
 彼女が自分から人に声をかけているのを、ほとんど見たことがない。
 そしてもう一度考え直し、新たな結論にようやくミサトは達しようとしていた。
(あの子は……そう、まだ、言葉を持っていないのね……自分の言葉を……だから今は、見ていることしかできない……)
 この結論は正しいかも知れない。もちろん、自信はないが。
 しかし、一度は確かめなければならないとミサトは思った。
 そう、今日、確かめましょう。明日のテストのこともあるし……
「続いて、連動試験。シンジ君、いい?」
 ミサトは考えを一旦打ち切って、テストを先に済ませることにした。
 考えるのは後でいい。そう、今晩でいい……
 もう一度レイの方をちらりと眺めたが、レイは相変わらず初号機の方を身じろぎもせず見つめ続けていた。
 ミサトはそんなレイの顔を見てふっと小さく笑うと、正面に向き直って試験の方に集中した。



ninth day

it happened one night




 シンジの乗ったエレベーターの扉が開くと、彼女はそこにいた。
 いつもシンジが待っているベンチに綾波レイは座っていた。
 そしてシンジの姿を見ると、立ち上がって一歩前に出る。
 シンジもエレベータを降りてレイの前に駆け寄った。
 レイは以前のような無表情でシンジの方を見ている。
 昨日のような、何かを訴える瞳ではなかった。
 そしてその瞳を見ても、シンジは自分が以前ほど動揺しないことに気付いた。
 ただ、レイの姿を見てちょっとびっくりした。
 ……綾波、あの服、着てる……昨日は、着てなかったのに……
 おかげで少し言い淀んでしまった。
「ごめん……待たせちゃって……」
「……いいえ……別に、気にしてないから……」
「あ、うん……」
「……行きましょ……」
「あ、待って……」
 シンジがそう言うと、出口の方に向きかけたレイが振り返った。 そしてそのままシンジの方を見ている。
「……何?……」
「あの……病院、行きたいんだけど……」
「……どうして?……」
「アスカの、お見舞い……」
 シンジがそう言った時、レイの瞳が揺れたような気がした。
 だがシンジがそれを確かめようとした次の瞬間、それはいつもの紅い眼差しに戻っていた。
「……そう……」
「あの、一緒に行ってくれるよね?」
「……部屋は?……」
「303号室……こっちなんだけど……」
 シンジが医療棟に向かって歩き始めると、レイは後から付いて来た。
 ただ、なぜか最近そうしていたように、並んで歩いてくれることはなかった。


 病室の前まで来て、シンジはドアを開けようとした。
 ふと横を見ると、付いて来ていたはずのレイがいない。
 視線をさらに後ろにやると、レイは病室の3m程手前で立ち止まっていた。
 そして黙ってシンジの方を見ている。
 何だかその姿がいつもより小さく見えた。
(どうしたんだろう……)
「あの……綾波、入らないの?」
 シンジが訊いても、レイはしばらく黙っていた。
 深紅の瞳が、また揺れたような気がした。しかしそれはすぐに消えてしまう。
 どうしたんだろう、綾波……何か、変だな……
 シンジがもう一度声をかけようとしたとき、レイが小さな声で言った。
「……私、行かない……」
「えっ……どうして?」
 シンジが驚いて聞き返しても、レイはまた口を閉ざしてしまった。
 また瞳が揺れた。そして今度はそれをはっきりと認めることができた。
 綾波……どうしたの……
 しばらくその揺れが余韻を残した後で、レイの瞳はいつもの冷たい光を取り戻していた。
「綾波……どうして?」
 シンジがもう一度訊くと、やっとレイは口を開いた。
「……あの人は、私の存在を、認めていない……」
「えっ……どういうこと?」
 シンジはレイの言った意味が解らなかった。
 アスカが綾波のことをあまりよく思ってないのは知ってるけど……
 存在を認めていないって、どういうこと?
 しばらく沈黙が続いた後で、再びレイが小さな声を漏らす。
「……私が行けば、あの人の心が乱れるわ。あなただけ、行って来て……」
「でも……」
「……その方が、いいと思う。私、待ってるから……」
「うん……」
 シンジは何となく心に引っかかる物を感じながらも、レイの言葉に従うしかなかった。
 アスカは綾波を拒絶しているのかも知れない。そして、綾波もアスカを……
 そう考えるしかなかった。
「あの……じゃ、そこで座って待っててよ。なるべく早く戻るから……」
「……いいえ、いいの……」
「えっ……」
「……ゆっくりして来て……」
「あっ、うん……」
 先程のような弱々しい声ではなく、少し強い感じでレイが答えたので、シンジは少しびっくりした。
(綾波、どうしたんだろう……)
 ゆっくりして来てっていうことは……アスカのことを、気遣ってくれてるってことなんだろうか。
 綾波は、アスカを拒絶してるわけじゃないのかも知れない。でも……
 しかし、シンジにはそれ以上は解らなかった。
 そして、二人のことについて考えることを封印し、病室に入った。
 綾波のことはいつも考えていてあげたいし、僕が支えてあげないといけないのはわかっている。
 ただ、今はアスカのお見舞いの方が大事だと自分に言い聞かせながら……


「アスカ……」
 シンジの目に映った少女は、昨日見た姿のままベッドの上に横たわっていた。
 虚ろな瞳。乱れた髪。くすんだ肌。弱々しい腕。
 そして、ベッドを取り囲む精密機械。少女の心音と呼吸を刻むパルスの音。
 何も変わっていなかった。
 シンジはベッドの横に据えられた椅子に座ると、少女のやつれた顔を眺めた。それでもまだ美しいその顔を。
 そして、優しく声をかける。
「アスカ、ごめん……昨日は、あんなこと言って……」
 シンジは昨日の取り乱した自分の姿を思い浮かべていた。
 どうしてあんなこと言ったんだろう……
 ミサトさんは、僕の意志でアスカをお見舞いに行かなきゃいけないって言った。
 それはきっと、僕がアスカを支えなきゃいけないってことだったんだ。
 それなのに……
「アスカ、少し、話してもいいかな……」
 そう言って、シンジは話し始めた。
 今の自分にはそれくらいしかできないと思ったから。
 アスカと出会ったときのこと。
 一緒に使徒を倒したこと。
 ミサトの家での生活。
 ユニゾンの練習。
 学校のこと。
 温泉。
 そして、キスのこと……
 つらい戦いの日々の中での数少ない楽しかった記憶について、シンジは滔々とアスカに語り続けた。
 そしてシンジは、自分が笑顔で話ができていることに気付いていた。



あなたには、あの人が必要?
あの人には、あなたが必要?
そう、必要なのね。

あなたには、私が必要?
私には、あなたが必要?
わからないの。

私は、必要?
ここにいて、いいの?



『明日また複座試験をするから、シンちゃんはレイを連れて家に帰っておいてね。 夕食の準備よろしく。今日は早く帰るから』

 テストが終わってから帰り際にミサトはシンジにそう言った。
 前と同じようにレイの部屋に一緒に着替えを取りに行き、帰りに買い物をしてミサトの家に戻る。
 それから着替えて、シンジはすぐに夕食の準備を始めた。
 今日のメニューはオニオングラタン、クリームコロッケ、それに野菜サラダ。
 どれもすぐにできるものばかりだった。
 この前レイがここに泊まりに来たとき、肉抜きの料理に何を作っていいか困ったので、 それ以来料理の本をパラパラと見て考えていたのだが、 そのうちのいくつかを憶えていたので今日のメニュー選択にはそれほど困らなかった。
 初めて作る料理でも、本を見ながらなら作れないことはない。いつものことだ。
 アスカは同じメニューが続くとうるさかったからな……進歩がないって。
 ただ、今日はいつもと勝手が違うことが一つあった。
 明らかに背中に視線を感じる。
 レイがダイニングの椅子に座って、シンジが料理を作るのを見ているのだった。
 座って待っててと言ったら、ここに座ってしまった。
 いつもはアスカが座っていた席……キッチンが見える方の席に。
 前のように、リビングに座っててと言ったつもりだったのだが。
 ただ、勘違いしたのではないような気がする。前と違って、こちらを見ているのだから。
 しかし、その理由はわからない。
 何をするにしても、じっと見られながらというのは結構やりにくい。緊張する。
 冷蔵庫を開けたり、棚から食器を取り出したりしている時にレイの方を見ると、視線が合ってしまう。
 その度に、シンジはあわてて目を逸らしてしまうのだった。
(今日の綾波、やっぱり変だ……)
 いくらか理解できるようになったと思っていたのだが、やっぱりまだまだ何もわかっていないのかも知れない。
 でも、他人のことがわからないなんて思いたくない。
 全部はわからなくても、ほんの一部でも理解できたら、そしてそれを少しずつ増やしていくことができたら、それでいい……と思う。
 少なくとも、何も理解しようとしないよりは、ずっといい……
 でも……
 今日の綾波は、昨日とは少し雰囲気が違う。シンジに解ったことはそれだけだった。


 ちょうど料理ができあがった頃にミサトは帰ってきた。
「たっだいまー。待った?」
 最近、ミサトさんは必要以上に明るい。どうしたんだろう。シンジはずっとそう考えていた。
 何だか、無理しているような気もする。僕に気を遣ってくれているのかも知れないけど。
「あ、ミサトさん、お帰りなさい。ちょうどできたところですよ」
「そう、ありがと。じゃ、すぐ食べよっか……って、あら、レイ?」
「……はい……」
 ミサトはダイニングの椅子に座っているレイの方をまじまじと見つめていた。 その目が意味ありげに輝いている。
 そしてレイを頭の上から足のつま先までじっくりと観察してからおもむろに口を開いた。
「いい服、着てるじゃない」
「…………」
 朝、ちゃっかり見ておきながら、ミサトは初めて気付いたかのようにそう言った。
 ミサトのその言葉に、レイは何も答えなかった。 ミサトの方も見ずに、じっと背筋を伸ばしたまま座っている。
 ただ、何かを考えているようにも見えた。
 ……そう、褒められたときに何て答えていいか、知らないのね、きっと。 ミサトはそう思って言葉を続ける。
「シンちゃんに買ってもらったんでしょ?」
「…………」
 レイは無言のままゆっくりと頷いた。ミサトの顔に笑みが広がる。
「良かったわね。うれしい?」
「…………」
 レイはそれにも何も答えない。
 シンジは先程から二人のやりとりをハラハラしながら見ていた。
 ……僕が綾波みたいなあんな中途半端な態度をとったら、きっとまたお説教されるだろうな。
 ミサトさんは綾波には怒らないのかも知れない。いつもああだから……
「ま、うれしくなかったら着ないわよね。そうなんでしょ?」
 ミサトはしばらくレイの言葉を待っていたが、答を聞くのをあきらめたのか、 そう言ってレイと向かい合って椅子に座った。
 シンジは少しほっとして、食事の皿をテーブルの上に並べ始める。
「あらー、また新しい料理なのね。何、これ? グラタン?」
「ええ、オニオングラタン。それと、コロッケと、野菜サラダです」
「へー。おいしそうじゃない。じゃ、早速、いただきましょうか」
「いただきます」
「……いただきます……」
「シンちゃん、おビールちょーだい」
「……はい」
 食事が始まると例によってミサトがレイに『おいしい?』という質問を連発し始めた。
 シンジはミサトが何を考えているのかわからなかったが、 レイが質問の度に頷いてくれるので悪い気はしなかった。



「さーて、始めましょうか」
 風呂上がりのビールを景気よく飲み干した後でミサトは言った。
 ミサトが風呂に入っている間、シンジは食事の後片付けをしていた。
 もちろん、レイに後ろからじっと見つめられながらだったが。
「始めるって……何をです? 明日のテストの説明ですか?」
「リサイタルよ、リサイタル」
「リサイタル?」
「そ。シンちゃんのチェロリサイタル」
 ミサトはそう言ってニコニコ笑っている。悪気があるとしか思えない笑い方だった。
「前にアスカから聞いたわよ。あんなことできるなんて思わなかったって言ってたけど、結構感心してたみたい」
「はあ……」
「私はまだ一度も聴いてないしね。レイも聴いてみたいでしょ? シンちゃんのチェロ」
「…………」
 ミサトの問いかけに、レイはしばらく黙っていたが、やがてポツリと言葉を漏らす。
「……私は……音楽は、わかりませんから……」
 しかし、ミサトはその答は予想通りと言わんばかりに言葉をつないだ。
「ふーん、じゃ、この機会に解るようになったらいいんじゃない? シンちゃん、きっと上手だし」
「そ、そんなに上手じゃないですよ」
「いいから。ね? レイ、聴くわよね?」
 シンジの反論にも耳を貸さず、ミサトはレイをじっと見ながら言う。
「…………」
 レイは静かに頷いた。
「ほーら、シンちゃん、レイも聴きたいって。さ、早く用意して」
 聴きたいって……自分が無理矢理そうさせたくせに……
「でも……もう、夜だし、近所迷惑ですよ」
「近所に誰かいるの?」
「え? あっ……」
 そう言えば……シンジはやっと気が付いた。
 このマンションは新しくて、元々住人が少なかった上に、 市街が壊滅してからここにも被害が及ぶこと恐れて、 ほとんどの人が疎開してしまったのだ。
 まだ数軒残ってはいるものの、少なくともこの部屋の周りには誰も住んでいないはずだった。
「それに、完全防音だから大丈夫だって。さ、準備準備」
 そう言うとミサトはテーブルの周りの椅子を移動させて、観客席よろしくシンジの前にレイと並んで座った。
 シンジは仕方なく部屋からチェロを取ってくると、唯一まともに弾けるレパートリー……『無伴奏チェロソナタ』……を弾き始める。
 もっとも、ちゃんと弾けるのはプレリュードくらいで、途中で何度かつっかえながら最後まで弾いた。
 案の定、ミサトがアンコールを繰り返し、他にも途中までしかできない曲までいくつか弾かされたのだが。


 本部でゆっくり風呂に入った、と言うシンジを無理矢理風呂場に押し込めると、 ミサトはダイニングでレイと向かい合って座った。
 レイはいつものように背筋を伸ばし、手を膝の上に置いて座っていたが、 ミサトの顔を見ずにうつむいてテーブルを見つめている。
 ミサトはテーブルの上で腕を組み、レイの方をじっと見ながら話しかけた。
「レイ?」
「……はい……」
「シンちゃんのチェロ、どうだった?」
「…………」
 レイは口を開きかけたが、しばらくそのまま黙っていた。
 頭の中で先程の音を再現しているのだろうか。そして言葉を綴っているのかも知れない。
「……優しい音……」
 しばらくしてレイは消えそうな程小さな声でそう言った。
 優しい、か……それがシンジ君のイメージなのかしら。
「そう、それじゃあね……」
 ミサトはレイの方に少し身を乗り出すようにして言う。
「シンジ君のこと、どう思う?」
「…………」
 レイは答えずにじっと黙っていた。
 答えたくないのではない。答える言葉を知らないのね、とミサトは思った。
 そう、やっぱりそうだったのね。
「説明できない?」
「……はい……」
「じゃあね……シンジ君って、どんな感じがする?」
「……わかりません……」
「シンジ君のイメージって、どんなのかしら?」
「……わかりません……」
 そう、ここまで言葉がないのね。いえ……
 ミサトは思い直した。
 人のイメージを、言葉にはできない、か……じゃあ……
「シンジ君のことを考えると、レイはどんな気持ちになる?」
「…………」
 レイはまた口をつぐんだ。そして机の上の一点をぼんやりと見つめ続けている。
 ……いいわよ。ゆっくり考えなさい……そして、言葉を見つけなさい……あなたのための、大事な言葉を……
 ミサトはレイをじっと見守っていた。
 ふと、レイが顔を上げる。ミサトが優しく微笑むと、レイはまた視線を下に戻し、小さな声で呟いた。
「……心が……」
「うん……」
 ミサトが軽く促すと、レイは言葉を続けた。
「……温かい……です……」
「そう……」
 温かい、か……ミサトはレイの言葉を心の中で繰り返した。
 そう、それがシンジ君なの……シンジ君に、温かさを求めてるのね……
 うつむいたレイの顔を、ミサトはじっと見つめながら考えていた。


「シンちゃーん、今日はみんなで一緒に寝るわよー」
 風呂から上がってきたシンジは、リビングを見て絶句した。
 そこには、ミサトを真ん中にして川の字に布団が並べて敷かれていた。
 ……僕の布団、わざわざ持ってきてある……
 そして、レイはミサトの横で、早くも安らかな寝息をたてて眠っているのだった。




青い青い、月。
まだ半分。
もう、半分。
満ちては欠け、
欠けては満ちる。
闇から生まれ、
光になり、
闇に消える。


冷たい光。
まるで、氷のよう。
でも、少しだけ、温かい。
なぜ?
光があるから。
そう、
闇ではないから。

光と、闇。
闇から光は生まれ、
そして、
闇へと消える。
それでも求めるの? 光を。
いつかは、消えるのに。

いいえ……
光が欲しいの。
消えるまでの、少しの間でも、
それだけでも、
光が欲しい。
感じたいの、温かさを。

温かさが、欲しい……



新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

To be continued...



Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions