ここはどこ?
広大な暗い空間。
白い塩の柱。
LCLの湖。
湖の上に、私は立っている。

誰もいない。

いいえ、誰かいる。
どこ?
後ろを振り向いた。
誰?
十字架の上に、いる。
誰?
私を知っているの?
答えてくれない。

前を向いた。
誰かいる。
誰?
碇君?
碇君が、いる。
私のすぐ前に。
碇君が笑ってる。
手を伸ばせば、届きそう。
手を差し出した。
でも、届かない。
側に行きたい。
歩こうとする。
でも、足が動かない。
足が湖に沈んでいく。
いや……
碇君が離れていく。
遠ざかっていく、笑顔。
いや……
どうして?
行かないで。
手を伸ばしても、届かない。
身体がどんどん沈んでいく。
腰が、胸が、肩が、
顔が、沈む。
碇君が見えなくなる。
いや……
助けて。
行かないで。
碇君……

そして、
私は、消えた。




第八日

夢と現実の狭間で




 レイは目を覚ました。そこは、いつもの自分の部屋。いつもの自分のベッド。
 いつものように、下着姿でシーツの中にくるまって寝ていた。
 夜明けの穏やかな光が、薄汚れた黒いビニールシートのようなカーテンの隙間から射し込んでいた。
 ……ここはどこ?
 ……私、どうしたの?
 レイは、どうして自分がここにいるかわからなかった。
 ……さっきまで、違うところにいたのに……
 辺りを見回した。やはりそこは、自分の部屋だった。見慣れた天井。見慣れた壁。荒涼とした空間。
 だんだん頭がはっきりしてくる。光を感じ、音を感じ、温かさを感じる。
 そしてそれが現実であることを認識する。
 ……私は今、ここに、いる……
 ……そう、さっきのはたぶん、夢……私、夢を見たの?
 ……初めての、夢……碇君の、夢……
 そこまで考えたとき、ヒヤリとした感覚がレイを襲った。シーツが濡れている。汗?
 ……汗をかいたの? 私……夢を見ながら……そう、苦しかったのね、心が……
 レイはしばらくじっとしていたが、やがてベッドから起き上がり、床の上に降り立った。
 そして真っ直ぐ歩いていくと、壁に埋め込まれた収納棚を開けた。
 そこには、昨日シンジに買ってもらった白いワンピースが吊り下がっていた。
 レイはそのまま時間が止まったかのように、それを見つめて立ちつくしていた。
 ……夢じゃ、なかった……



「それで……」
 冬月は目の前に座っている男に声をかけた。
 左手には本、右手には将棋の駒を持って。
「委員会からはまだ何も言ってこないのか?」
 後手の四間飛車は居玉のまま美濃囲いの桂馬を跳ね出すところだ。
 前世紀末に編み出されたこの奇襲はその変化の多さから、未だ難解な局面を作り出す作戦として知られている。
 二人の男がいる場所……本部最上階にあるその空間は、公務室と呼ぶにはあまりにも広すぎた。
 人によっては落ち着かない場所とも言えるだろう。
 狭すぎる空間が圧迫感から来る恐怖を生み出すのに対し、広すぎる空間はどこにも身を隠すことのできない不安を与える。
 しかし、二人の男にとってはこの空間はいかなる感情をも起こさせないらしい。
 その空間の中央から少し外れたところにある机のところで、 二人の男は向かい合って座っていた。
 そしてその机と二人の男の他には、その広い空間を占めている物は何もなかった。
 天井と床には「生命の樹」なるものが描かれていたが、その所以は不明とされている。
 冬月の目の前に座っている男は、最前からの姿勢をいささかも崩すことはなかった。
 口の前で手を組み合わせ、肘を机の上に着いている。
 普段から無表情なその男は、薄い色のサングラスでその目を隠し、 組んだ手で口元を見せないことによって、 他人から表情を読まれることを避けるための防御をさらに堅くしているようにも見えた。
 もとより、冬月としては、目の前の男の腹の中を読もうとさえ思わなかったが。
 冬月が手にした駒を盤上に打つ音の響きが消えたところで、男は口を開いた。
「ああ、まだだ……向こうもまだ全ての準備が整っていないのだろう」
 静かで、落ち着いた低い声だったが、どこか威圧感を感じさせる。
「そうなのか? フィフスの少年を送り込んで来たから、すぐにでも始めるかと思っていたが」
「向こうは一つ予定を繰り上げたからな……それにどうやら、初号機を使うつもりだったらしい」
「そういうことか……しかし、このまま黙って待っているつもりか?」
「こちらもあと少し時間がいるからな……どうやら、同じ頃合いになりそうだが」
「何日かかる?」
「5日後だ」
「5日後? ……そうか、あの日か」
「ああ」
「……問題は、レイだな」
「ああ、そうだ……」
「そのことだが……」
 冬月は、目の前の男を見ていた視線を本の方に戻し、次の手を探した。
 後手の桂馬の二段跳ねを簡単に許すと先手はすぐに苦しくなる。
 そう、先手から迎え撃つことも必要なのだ。
 しかし、無理な動きは却って状況を悪くする。
 一つ歩を進め、様子を見ることも必要だ。そして今はまだその時期だ。
「葛城三佐が、いろいろ構っているらしいな」
「ああ」
「黙視するのか?」
「問題ない……何もできはせん」
「弐号機の件はどうする?」
「却下する理由は何もない」
「釘も刺さないつもりか?」
「…………」
 冬月のその言葉に、男は何も答えなかった。
 両手に隠された口元がわずかに歪んだが、そのことを知る者は男自身を除いて誰もいなかった。



月曜日
ネルフ本部内第7実験場
ハーモニクス試験
被験者:綾波レイ、碇シンジ


「…………」
 ミサトは無言でグラフを見つめていた。 おかしいわね、こんなはずじゃなかったのに……
 マヤはミサトの顔を見ないでも、自分の背後から悶々と漂ってくる雰囲気で、 ミサトがそう考えていることを察知していた。
 そう、確かにおかしい。それはマヤも解っていた。
 グラフに表れた数値は、レイのハーモニクスとシンクロ率が前回のテストに比べて下回っていることを示している。
 先週末はあんなに調子が良かったのに、どうして……これでは一週間前に逆戻りだ。
 さすがに、あの時ほどレベルは落ちていないけれど……
「…………」
 マヤはミサトに何と声をかけるか迷っていた。
 隣にいるサブのオペレータの顔を盗み見てみる。
 彼は真っ直ぐにグラフとその先にあるLCLの水槽とプラグを見つめ、 ミサトやマヤと関わり合いを持たないように、わざと避けているようにも見えた。
 うう、居心地悪いな……気弱なマヤは胃が痛くなりそうだった。
 それでなくても最近、仕事が多くて気苦労が絶えないというのに。
「…………」
 管制室を不穏な沈黙が支配していた。
 いたたまれなくなったマヤは、救いを求めるようにシンジとレイが映ったモニターに目をやる。
 モニターの中の二人は目を閉じて、マヤに救いの手を差し延べてくれそうもなかった。
 もっとも、彼らの方からは何も見えないし、見えたとしても何もできなかっただろうが。
「悪いわね……」
「えっ……」
 突然ミサトが沈黙を破ってぽつりと漏らした一言に、マヤは過剰に反応してしまった。
 そ、そう、仕事よ、仕事……何をぼんやりしてるの、マヤ、しっかりしなさい……
 リツコの声を思い浮かべながら自分を叱咤する。
「そ、そうですね。 1番は前回のレベルを維持していますが、0番は若干下回っているようです……」
 本当は、若干どころではない。
 統計学的に言って有意差が見られるくらい落ち込んでいるのだが、 この場の暗い雰囲気を何とかしようと、悪い結果を隠すように、マヤは少しとぼけてみた。
「…………」
 ミサトがまた無言になる。マヤの心遣いは裏目に出てしまった。怖いよう……
 長い長い沈黙をどうしても打破できないまま、テストは終わりに近づいていった。
 ただ時間が流れ、数値が記録されて行くだけでも、そのテストは無意味ではない。
 何もしないよりはましだから。
 それは誰もが知っていた。



 試験が終わり、二人の被験者への指示事項を伝え終わってしばらくしてから、 ミサトはレイの姿を探していた。
 更衣室には既にいなかった。シャワールームでもなかった。
 まだ本部から退出していないはずなのに、本部内のどこを探してもその姿はなかった。
 しょうがない、出口で待つか……ミサトはエレベーターに乗り込み、 目的の階のボタンを押すと、考え込んだ。
 昨日、シンジ君がレイと一緒に服を買いに行ったって言うから、 今日はレイの服装を見て何か言ってやろうと思って、 来そうな頃合いを見計らって入り口のところで待っていたのに……
 だが、ミサトの目の前に現れたレイは、いつもの学校の制服を着ていた。
 意表を衝かれて、挨拶くらいしか声をかけられなかった。
 わざわざ聞き質すのも不自然かと思ったのだが……
 しかし、今日の試験の結果を見たら、声をかけないではいられない。
 どういうつもりで買ってもらった服を着ずに制服なんて着て来たのか……
 どういう気持ちで……そしてそれが、今日の試験の結果と関係しているのかどうか。
 それを確かめようと、ミサトはレイを探していた。
 ミサトの携帯電話にコールが入ったのは、まだエレベータを下りる前のことだった。


 シンジはいつものように、エレベータの前のベンチに座ってSDATから流れて来る音楽に耳を傾けていた。
 別に、レイを待つ必要もないはずなのだが、先週ずっとそうしていたので、 何となく帰りそびれていた。独りで帰るのが寂しかったのかも知れない。
 それに、レイが昨日買った服を着て来たかどうかを確かめたかったのかも知れない。
 ……どうも最近、綾波に会わないと気分が落ち着かない。
 でも、遅いな……そう考えたとき、エレベータが止まってドアが開いた。
 シンジは顔を上げてそちらの方を見たが、出てきたのはレイではなかった。
「ミサトさん……」
「シンジ君、どうしたの、こんなところで……」
「え……いえ、あの……」
 シンジはなぜか口ごもってしまった。綾波を待っていた、と言うのが何となく気恥ずかしかった。
 ……最近、僕は綾波に頼り切っているような気がする。
 ミサトさんは僕が綾波を支えろって言ってたけど、支えられてるのは僕の方だ……
 だからミサトには理由を言いたくなかった。
 ミサトにしても、シンジがなぜここにいるかをいちいち訊く必要など無かった。
 人を待っているからに決まっているわけで、その待っている相手はレイに決まっている。
 それでもわざわざ訊いてみたのは、レイを探しあぐねて気が立っていたからかもしれない。
 その気持ちが言葉に出て棘にならないように、気を落ち着かせながらシンジに再び声をかけた。
「レイを待っているのなら、まだ来ないわよ」
「え……」
「司令に呼び出されたらしいから」
 ミサト自身も、さっき連絡を受けたばかりだ。マヤが気を使って探してくれたらしい。
「そう……ですか……」
 少し落胆したような表情のシンジを見て、ミサトはやっと気が付いた。
 ……そうなの。レイがシンジ君を頼り切っているだけじゃなくて、シンジ君もレイが頼りなのね……
 最近、レイのことばかりを気にかけていて、 シンジ君のことを充分見てあげられなかったのかもしれない。
 全く気が付かなかった。やっぱり、保護者失格かな……
 ……でもね、とミサトは思い直した。
 シンジ君は忘れてるわ。あなたを頼り切っているもう一人のことを……
「シンジ君」
「はい……」
 ぼんやりしていたシンジは、ミサトの声で我に返った。
「今日、これから時間あるんでしょう?」
「あ……はい……」
「だったら、アスカのお見舞いにも行ってあげて。先週、一度も行かなかったでしょう?」
「はい……」
(そうだ。アスカがいるんだ……)
 そう言えば、先週はアスカのことを気にしてあげられなかった。
 その前に、一度ミサトさんに連れられてお見舞いに行っただけで……
 アスカの姿を見て、何もできなかった自分が情けなくなった。
 自分が何もできない人間のような気がした。
 ……僕は、逃げたのかも知れない。
 アスカに対して、何もできない自分から。
 そして、その逃げ場を綾波に求めたのかも知れない。
 だから、綾波と話がしたかったのかも知れない。
 物言わぬアスカよりも、少しでも話ができることを綾波に求めて……
「……303号室ですよね……」
「そう。行ってあげて」
「わかりました……」
 シンジは立ち上がると、医療棟の方に向かって歩き始めた。
 数歩行ったところで、後ろからミサトの声がかかる。
「シンジ君?」
「はい?」
 シンジは振り返ってミサトの方を見た。ミサトは複雑な表情をしていた。
 言うべきか、言わないべきか、迷っているようにも見える。
 しばらく間があって、ミサトが口を開いた。
「……今のは命令じゃないわ。お願いでもない。 あなたに、自分の意志でアスカのところに行って欲しいの。行ける?」
 自分の、意志で……そうか、逃げちゃダメだってことか……
「わかりました」
 シンジはできるだけ元気な声でそう言うと、また前を向いて病院の方へ歩いていった。
 ミサトはシンジの後ろ姿をじっと見送っていた。
 シンジ君……今は、あなただけがみんなの頼りなの。頑張って……



eighth day

for your eyes only




 その広い空間では、一人の男が机の前に座っていた。
 先程まで一緒にいたもう一人の男……冬月の姿はなかった。
 ただ、男から十数m離れたところに、男と向かい合うようにして一人の少女が立っていた。
 男はその少女を鋭い視線で見つめていた。
 しかし、今までずっと少女のことを見続けていた男でさえも、 少女の表情には、何の感情も見出せなかった。
「レイ」
 男は少女に向かって声をかけた。静かで、優しく、しかし、有無を言わさぬ強い響きがあった。
「……はい……」
 少女は小さな声で答える。そこにはやはり感情のかけらもない。
「わかっているな?」
「……はい……」
「もうすぐお前は必要になる」
「……はい……」
「その時まで、無理をしないよう、注意しろ。代わりはもういない」
「……はい……」
「その時が来れば、お前の望みも叶う。もうすぐだ」
「……はい……」
 男と少女の会話は、二人だけにしかわからないものだった。
 しかし、それは互いに解り合った親子の会話のようなものではない。
 敢えて言うならば、主従を誓った二人の会話だったろう。
 しばらく無言の時間が過ぎた後で、男は静かに言った。
「今日はもう帰っていい……」
「……はい……」
 少女は振り返って、公務室から退出しようとした。 そこに背中から男の重量感のある声が突き刺さった。
「レイ」
「……はい……」
 少女は男に背を向けたままで答える。
「余計なことは考えなくていい」
「……はい……」
「もういい。行け」
「……はい……」
 そして少女はその広い部屋を出ていった。
 後に残された一人の男は、何も表情を変えることなく、ある一つの理想に向けて想いを馳せていた。



 シンジは病室にいた。 視線の先には、ベッドの上で力無く横たわる少女の姿があった。
 ベッドの周りを様々な薬品の瓶と精密機械が取り囲んでいた。
 視線の先にある少女は、シンジがかつて淡い憧れの目で見ていた姿とはかけ離れていた。
 目は虚ろに見開かれ、 かつて宿していた鋭気に満ちあふれた青い光はそこにはなかった。
 血色の良かった頬はこけ、みずみずしい張りのあった腕は見る影もなく痩せ細り、 点滴の針が痛々しく刺さっている。
 少女は何も見ず、何も聞かず、何も感じず、何も考えず、ただ生きているだけだった。
 魂の抜け殻……今まで言葉でしか聞いたことのない姿が、シンジの目の前にあった。
 前に一度見た時と、少しも変わってはいなかった。むしろ、ひどくなっているような気さえする。
「アスカ……」
 シンジは少女に力無く声をかけてみた。もちろん、答えが返ってくることはなかった。
「どうして、こんなことに……僕は……僕は、何をしてあげれば良かったの……」
 少女を見るシンジの表情も虚ろになっていた。そしてその心の中も。
 呼びかけても反応を示さず、生気のかけらも見られない少女を目の前にして、 シンジは何もできない自分の無力さを改めて思い知った。
「アスカ……」
 シンジは虚しい呼びかけを続けることしかできなかった。
「お願い……帰って来て……元気になってよ……そして、 また僕に声をかけてよ……僕に構ってよ……僕に偉そうにしてよ……お願い……僕を独りにしないで……」
 シンジの涙の訴えにも、少女は何も反応しなかった。
 周りを取り囲む精密機器は、心音と呼吸を告げるパルスだけを正確に響かせるだけだった。
 その音が、シンジの声が止んだ病室に虚しく響きわたり、いっそう静寂を強調する。
(僕には……僕には、何もできない……何もしてあげられない……アスカがこんなになっても、 何にもできないんだ……)
(僕は、アスカにとって、 要らない存在なのかも知れない……いやだ、そんなこと、考えたくない……でも……でも、 今のままじゃ、そうなんだ……)
(僕は……僕は、 どうすればいいんだ……教えて……誰か、教えてよ……僕が何をすればいいのか、 教えてよ……誰か僕を、助けてよ……)
 シンジの問いかけに、誰も答えてくれるはずはなかった。
 何もできないまま、何もできない自分を蔑みの目で見つめながら、 シンジはずっと病室に留まっていた。



 アスカの病室を出てからも、シンジはまだ暗い気分を引きずっていた。
 独りでいるのが堪えられなかった。
 またレイを待ってみようとも思ったが、いつになるかわからないのに待っていても、 さらに気分が滅入るだけだ。
 でも、誰かと話がしたい……アスカは何も答えてくれなかった……僕を助けてくれない……そう、 僕がアスカを助けられなかったから。だから、自分のせいだ……
 でも、誰かに助けて欲しいんだ。誰でもいい……
 本部のセキュリティゲートから外に出たとき、シンジは一人の少女の後ろ姿を見つけた。
 空色の髪の少女は、ゲートの外でぼんやりと街の方を眺めていた。
「綾波……」
 シンジの呼びかけに、レイは頭だけをシンジの方に向けた。
 横目でシンジの方を見ている。
 赤い瞳……でも、今日は何だか今までと違う……
 それに、どうしてこんなところにいるんだろう……まさか、 待っててくれたなんてことは……ないよな……でも、その服は……
 シンジはそれを訊かずにはいられなかった。
「あの……綾波……」
「……何?……」
 レイは横目でシンジの方を見つめながら答えた。
「あの……服……着てこなかったんだ……」
「…………」
 レイはシンジから視線を外すと、再び前を見て、ぼんやりと外を眺めた。
「……雨……」
「え……」
「……降ってるから……」
 そう言われてシンジは初めて気が付いた。ホントだ、降ってる……
 一年中夏のような今の日本には珍しい、小糠雨が降っていた。
 どんより曇った空から音も立てずに落ちてくる、細かい雨粒。
 遠くの山が霞んで見えている。いつもは美しい緑を見せる木々も、暗く灰色に煙っていた。
 朝はあんなに綺麗に晴れていたのに……
 しかしその雨は、まるで朝から降っていたかのように、 道路のところどころに小さな水たまりを作っていた。
 もしかしたら、少し強く降った後で、小止みになってきているのかも知れない。
 そこまで考えたとき、シンジはふと気が付いた。傘、持って来なかった……
 傘どころか、鞄さえ持って来ていない。
 持って来ているのは、IDカードと財布くらいだった。全部ポケットに入っている。
 他には何も必要ないのだから。
 どうしよう。止むまで待つか……シンジがそう考えていると、 レイは持っていた鞄から折り畳み傘を取り出して差し、雨の中に出て行こうとした。
 ……やっぱり、待っていてくれたんじゃないんだ。
 今、出てきたところだったのかな。
 でも……上に来るリニアには乗ってなかったような気がするけど……
 別の車両に乗っていて、気が付かなかっただけなんだろうか。
 シンジがそんなことをぼんやりと考えながらレイの後ろ姿を見送っていると、 5m程先でレイが立ち止まって振り返った。そしてシンジの方を見ている。
 ……僕を待ってくれてるの? でも、どうして……
 雨の中で待たせたら悪い。とりあえず、声をかけておかなくちゃ……
「あの……傘……持ってきてないんだ……」
(ごめん、今日は一緒に帰れない……)
 一緒に帰りたかったのは自分なのに、シンジはなぜか心の中でレイに謝っていた。
「…………」
 レイは無言のまま立ちつくしていた。シンジの方をじっと見つめながら。
 ……どうしたんだろう。綾波、どうして待ってるの?
「あの……」
 どうして待ってるんだろう……
「だから、先に、帰っていいよ……」
「…………」
 シンジがそう言っても、レイは立ち去ろうとしなかった。
 シンジの方を見たまま、雨の中で佇んでいる。
 そうするうちに、雨が少しずつ強まってきた。
 細い絹糸のようだった雨足が、次第に大きな雨粒へと変わっていく。
 雨音が大きくなる。地面に細かい飛沫が立つ。足元が霞んでいく。
 それでもレイは歩き始めようとしなかった。
 およそ一分ばかりもその状態が続いただろうか。
 レイが歩を進めた。しかし、それは去り行く方角ではなく、シンジの方へ向かってだった。
(綾波……どうして……)
 レイはシンジの前まで来ると、黙ってシンジを見つめた。
 傘から滴がしたたり落ちて、ゲートの前の乾いたコンクリートの床を濡らした。
 それからしばらく間を置いて、レイが静かに口を開いた。
「……傘……」
「えっ……」
「……入る?……」
「あ……」
 傘に、入れてくれるの? 綾波が? 僕を? でも、どうして……
 レイの気遣いがなぜか意外に思えて、シンジは戸惑ってしまった。
(どうしたんだろう、綾波……いや、僕こそ、どうしたんだ。 どうして人の好意が素直に受けられないんだ……)
 綾波を特別視してはいけない……そう考えてシンジは少し冷静になれた。
 しかし、そのおかげで今の状況を少しはまともに判断することができた。
 レイが持っている傘では、二人入るには小さすぎる……
 普通の長い傘ならともかく、折り畳みでは……
 二人入ったら、それぞれ半身ずつ濡れてしまいそうだ。
 いくら綾波が小柄だからと言っても……
 入れてもらったら迷惑になる。シンジはそう思った。だから、正直に思ったままを言った。
「あの……でも、いいよ……傘、小さいし……僕が入ったら、綾波まで濡れちゃうよ……」
 そして、無理に明るい表情を作りながら言った。
 レイのせっかくの厚意を無にしないように。
「僕なら、いいよ。もう少し止むまで、待つから。だから、先に独りで帰って……」
 そこまで言ってから、シンジは気が付いた。
 綾波……どうしてそんな目してるの……まるで、何かを訴えるような……
 シンジがそう考える時間は、レイの小さな声によって破られた。
「……そう……」
 そう言ってからもレイはしばらくシンジを見つめていたが、 やがて振り返ると、雨の中に歩き出して行った。
 しかしすぐに立ち止まると、もう一度振り返ってシンジの方を見た。
 そしてまた前に向き直ると、ゆっくりと歩き去り始めた。
「綾波!」
 シンジは無意識のうちに声を出していた。
 レイが去り際にもう一度こちらを見たときの目が、心に引っかかって……
 一体、何があったの?
 どうしてそんな目をしているの?
 そんな……そんな訴えるような目で見られたら、僕は……どうしたら……
 だからシンジは無意識のうちにレイを呼び止めていた。
 レイは数歩先で首だけ振り返ってシンジの方を見た。
 何かを訴えるような切ない瞳の光はそのままだった。
「ごめん……やっぱり、入れてもらえるかな……」
 そう言ってシンジは雨の中に飛び出して行き、レイの持つ傘の下に入った。
 待っていたレイの紅い瞳が、切なさの色を少しだけ薄れさせたような気がした。


 雨は激しくなるばかりだった。
 篠突く雨の中、シンジとレイは狭い傘の中で寄り添うようにして歩いていた。
 レイは鞄を持っているので、シンジが傘を持ってやっている。
 しかし、やはり傘が小さいために、既にシンジの左半身はびしょ濡れで、レイの右肩も雨にさらされていた。
 シンジからは見えないが、レイのスカートも右側はもうかなり濡れていることだろう。
 二人はレイのアパートに向かって歩いていた。
 シンジは環状第7号線の駅でレイと別れるはずだったが、 別れ際に再び翳りのある瞳で見つめられて、独りにできなくなってしまった。
 ……今日の綾波は、どこか寂しげで、いつもと違う。
 僕が支えてあげないといけないんだと思う。
 だから、もうしばらく一緒にいてあげたい。
 シンジはそう考えた。


 アパートの入り口に着くと、やっと傘が必要なくなった。
 シンジのTシャツもGパンも、左側は滴が垂れるほどに濡れている。靴の中も水浸しだった。
 レイの右半身も同様だったが、面積的にはシンジよりも被害が少なかったようだ。
 階段を上がり、レイの部屋に向かう。
 ドアを開けてレイの後から部屋の中に入ったとき、シンジはそこに違和感を覚えた。
(……何? ……明るい……どうしてだろう……)
 外は雨が降っていて真っ暗だったが、電気の灯った部屋の中は、今までとは違うような気がした。
 明るさを感じる。以前の薄汚れた感じがしない。
 ずぶ濡れになった靴を脱ぎ、靴下まで脱いで、自分で買ったスリッパに履き替えようとしたとき、 シンジは部屋が明るくなった理由にようやく気が付いた。
(……床が……)
 埃だらけで、泥靴の跡まで付いていた床の汚れが、綺麗に拭い去られていた。
 玄関を見回すと、散らかっていたDMやチラシの類がすっかり捨てられている。
 綾波が、掃除したんだろうか……でも、どうして……
 下を向いたままぼんやりとそんなことを考えていると、目の前に真新しいタオルが突き出された。
 あわてて視線を上げると、レイが無言でシンジの方にタオルを差し出していた。
 バスルームのアコーディオンカーテンが開いている。
 レイ自身はパスタオルを肩に掛けていた。
「あ、ありがとう……」
 シンジがタオルを受け取ると、レイはベッドの方に歩いていき、おもむろに制服を脱ぎ始めた。
「!……」
 シンジはあわてて後ろを向いた。
 雨に濡れた服を着替える……当然の行為だったが、相手がレイであることを忘れていた。
 レイはシンジがいるのも構わずに服を着替え始めていた。
 衣擦れの音を聞かないようにしながら、シンジはもらったタオルでごしごしと濡れた腕を拭いていた。
 しかし、濡れたTシャツやGパンはどうしようもない。
 タオルで叩いて少しでも水分を吸い取るくらいしかできなかった。
「……脱がないと、風邪をひくわ……」
「えっ……」
 シンジはレイの声に驚いて後ろを見た。 レイはいつの間にか着替え終わり、シンジのすぐ後ろに立っていた。
 突然のことと、しかも言われた内容とが、シンジを甚だしく動揺させる。あわてて言葉をつないだ。
「あ、いや……でも……着替えがないから、いいよ……」
 シンジはタオルを持ったまま、激しく手を振って断りの意志を表現した。
「……そう……」
 その言葉に、レイは小首を傾げて答えると、ベッドの方に戻って行った。
 シンジは大きくため息をついてから、スリッパを履いて部屋の中に入った。


 雨は少しずつその勢いを弱めつつあった。
 二人はいつものように、水の入ったコップを持っていた。
 そしてシンジはいつものように椅子に、レイはベッドに腰掛けていた。
 レイは部屋着用に買ってもらったTシャツとキュロットに着替えていた。
 おかげでシンジは先程から少々目のやり場に困っていた。
 レイのしなやかな白い脚がほとんどむき出しになっていたから。
 たとえ一糸まとわぬ姿を見ているとは言っても、やはりそれとは別の感覚だった。
 元々はシンジが選んで買ったものなのだが……
 ……ミサトさんやアスカがこんな格好している時も、最初はやっぱり緊張したっけ。
 あまりじろじろ見ると悪いと思って、シンジは自分の服の方に意識を走らせていた。
 Tシャツの方は生乾きになっているが、 Gパンの方は左側だけだがまだビショビショに濡れたままだ。
 それをずっと履き続けるのはやはり気持ちが悪い。
 気温が高いので、濡れたままでも風邪をひくことはないだろうが。
 早く帰って着替えたかったが、レイのあの何とも言えない憂いを帯びた瞳を思い出すと、 なぜか立ち去りがたかった。
 もう少し、ここにいよう……せめて、雨が止むまでは。
「あの……」
「……何?……」
 しばらく沈黙が続いた後で、シンジはレイに話しかけた。
「掃除、したんだね、ここ……」
「……ええ……」
「どうして?」
「……そうしたかったから……」
「…………」
 そう答えられると、これ以上、言葉が続けられない。でも、どうしよう、何か話さなきゃ……
 シンジは話しかけるのが今の自分にできる唯一のことだと思った。
 レイが何を訴えたいのかは解らなかったが、話しているうちに解るかも知れないと思って。
「雨……降ったの、久しぶりだね……」
「……ええ……」
「朝は晴れてたのに。天気予報で言ってたのかな。知らなかった……」
「…………」
「綾波は、知ってたの? 雨が降るの……」
「……いいえ……」
「えっ……でも、傘、持って……」
「……傘は、いつも持ってるから……」
「そう、なの……」
 ……そうか、いつも持ってたのか……あれ、でも……
 シンジの頭の中に、一つの疑問が浮かび上がった。
(……何か、変だ……だって、あの服着ずに、制服着て来たのは、雨が降ってるからって…… でも、朝は降ってなかったし、知らなかったのなら、どうして……)
 レイの言動は矛盾しているような気がする。なぜ?
 そのことを考えると、胸のつっかえが取れないような、変な気分だった。
(……やっぱり、あの服、気に入ってもらえなかったのかな……)
 今のシンジには、そう考えるしかなかった。
 話しかけるのも億劫になるくらい気が落ち込んだが、 その後も少しずつ話題を見つけてはレイと言葉を交わし続けた。


 それからしばらくして雨は止んだ。
 シンジが帰る時のレイの瞳は、幾分その翳りを和らげたような気がした。
 だが、シンジにはその理由は解らなかった。
 ただ、自分がここにいたことが理由だったらいいのにと思っただけだった。




睡眠中の幻覚。
非現実。
空想的な願望。
心の迷い。
意識の下の欲求。
求めているの?
碇君を。

無からの発生。
偽りの魂。
任務の遂行。
そして、
無への回帰。
それが、私。
必要が無くなれば、消える存在。
それが、運命。
現実。

欲しいものは、安らぎ。
無へと還ること。
魂の消滅。
全てを始まりへ。
それが、願い。
それが、望み。

それが、今までの私。
だけど、今は違う気がする。
消えるのが怖い。
失うのが怖い。
失うのは、絆。
私の求めるもの。
それが、絆。

でも、
ここにあるのは、現実。
夢は、無いの……



新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

To be continued...



Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions