消えないで、私の心。
私の言葉。
消したくない、私の絆。
心のつながり。

心が震える。
どうして?
私の知らない、私の気持ち。
どうして?
自分がわからない……
私は、私なのに……

心が、私じゃないの?
違う。
私が、私を知らないの。
私を知らない、私。
私を知りたい、私。

私を知る人。
碇君。
私を知る人。
葛城三佐。
私を知る人。
碇司令。
私の心を、知ってる人?
わからない……

知りたい?
知りたい。
知りたい……
私の心。
教えて……
私の気持ち。

碇君……




第七日

偽りの姿、本当の気持ち




 朝食を食べた後で、僕はミサトさんを待っていた。
 まだ帰って来ていないらしい。昨日は当直だったようだ。
 もう9時。遅いな。
 いつもなら、8時前には帰って来てるんだけどな。
 頼み事があるのに、早く帰って来てくれないと、間に合わない。
 もうすぐ、綾波との待ち合わせ時間なのに……
 パシュッ
 あ、帰って来た。
「ミサトさん、お帰りなさい」
「ふわ……おはやう、シンジ君……」
「ミサトさん、あの……ちょっと、お願いが……」
「んー、当直だったから眠いの。話は後にして、寝かせて……」
「いや、あの、今じゃないと、間に合わないんです、けど……」
 ミサトは眠い目をこすりながらシンジの方を見た。
 目は充血しているし、目の下に隈ができている。
 目をしばたたかせて、また大あくび。
 この状態で車に乗ってよく無事に帰って来られたものだ、とシンジは思った。
 眠気で少々気が立っているミサトは、睨むような目つきでシンジを見つめた。
「……何?」
 語気も荒い。シンジは腰が引けながらも、用件を告げた。
「あ、あの……カード……クレジットカード、貸して欲しいんですけど……」
「クレジットカードって……シンちゃん、自分の持ってるじゃない」
「で、でも、僕のカードじゃ、限度額があって……」
「ん? 何? 何か高い物買うの?」
「え、ええ、ちょっと……」
 シンジが曖昧にそう答えると、ミサトが身を乗り出してシンジに詰め寄った。
 シンジは思わず一歩引いてしまった。
 血走った目が怖い。
「何買うの?」
「あ、あの、服を……」
 NERVから支給されているクレジットカードは本来、使用額は無制限なのだが、 シンジたち未成年者のカードには限度額がある。
 月、一万円まで。だが、中学生の小遣いとしては多い方だろう。
 それ以上使用するには、使用目的を明記した正式書類が必要になる。 食料品など、一部の例外的な商品を除いてだが。
 しかし、今日の買い物は急のことなので、昨日書類をもらうのを完全に忘れてきてしまった。
 一万円では、女の子の服を一通り買い揃えようと思ったら足りないに決まってる。
 アスカも、よくそうぼやきながら書類をもらってた。
 だから、シンジはミサトのカードを借りたかった。
 これなら、シンジのIDカードとミサトの“一筆”で買い物ができる。
「服? シンちゃんの服なら、限度額でも買えるんじゃないの?」
「あ、あの、だから、その……」
 シンジが返答に困っていると、ミサトの表情が緩んだ。
 ニヘラ〜ッとシンジに笑いかける。
「レイの服、買ってあげるのね?」
「え、いや、あの……」
「そーなんでしょ?」
「あ、あの……そうです……」
 ミサトの表情がますます緩んでいく。
 頭の中が眠っているのか、感情の抑制が利いていないらしい。
「そお、よかったわねー……ハイ、これ」
 ミサトはそう言ってバッグに入れた財布の中からクレジットカードを取り出し、 シンジの前に差し出した。
「あ、ありがとう、ございます……」
「待ってて、今、“一筆”書いてあげるから」
「ど、どうも……」
 はあ、良かった。間に合った……

「後でちゃんと返しなさいよ」
 わかってます……



 10時5分前。再開発地区にある、古ぼけたアパート群。402号室。
 シンジはレイの部屋の前に立っていた。
 はあ、良かった。間に合った……
 ミサトさんが“一筆”を書いている最中に、 突然眠りに落ちていったので、一時はどうなることかと思ったが。
 何とか叩き起こして書いてもらうことができた。
 おかげで時間が無くなって、マンションから駅まで、駅からここまで走るはめになってしまった。
 スウ、ハアァ……よし。
 走ってきたせいもあるが、別の意味でも心臓がドキドキする。
 深呼吸で息を整えてから、ドアホンを押す。
 手応えはあったが、音がしない。
 まだ直してないんだな。しかし、いつから壊れてるんだろう。
 ドアをコンコンとノックした。
「綾波」
 返事はない。
「碇だけど、入るよ」
 ノブを回して、ゆっくりとドアを開けた。
 いつもどおり、鍵はかかってない。
 いつもの、少しきしむような音がする。
「あ……」
 シンジは少し驚いた。ドアを開けたところにはレイが立っていた。
 まるでドアの外にいたシンジが見えていたかのように、じっとシンジの方を見つめながら。
 そして、いつもの制服を身にまとって。
 ……そうか、当たり前だよな。これから買いに行くんだから。
 シンジの方は、いつものようにTシャツとGパン。
 自分の服もついでに買った方がいいかも知れない。
 レイの顔を見ながらぼんやりとそんなことを考えていると、レイがすっと前に出てきた。
 あわてて後ずさり、道を開ける。
「…………」
 レイは外に出ると、黙ってシンジの方を見つめた。
 今日、一緒に買い物に行くことを、どう思っているのだろうか。
 しかしレイの赤い瞳は、彼女の心を映し出してはいなかった。
「あの……」
「…………」
 まだ何も言ってくれない。楽しく買い物できる雰囲気じゃないよな。
 でも、何とかするしかないか……
「あ……じゃ、行こう、か……」
「……うん……」
 レイは静かに頷いた。シンジがドアを閉めても、やはり鍵はかけなかった。


 シンジたちが買い物に来たのは、郊外…… 市の中心部がもはや無くなっているのに、郊外とは変な言い方だが…… すなわち、山裾にある、大型の服飾専門店だった。
 ちょうど、ミサトのマンションとレイのアパートの中間辺りにある。
 ミサトに車で何度か連れて来てもらって、買い物したことがあった。
 店内はいくつかのエリアに分けられていて、 紳士服、婦人服、子供服、流行物、季節物、婚礼物、正装、下着……と一通り何でも揃っている。
 他にも、宝飾品や小物、靴のエリアもあり、 ファッションに関する物は全て揃えることができて便利なことこの上ない。
 しかし、客の姿はまばらで、よくこの状態で経営が成り立つものだと感心するほどだ。
 市の中心部から離れたところにはNERVの職員を始め、 まだそこに住み続けている一般の人がいるので、何とかやっていけるのだろう。
 シンジとレイは連れだって店の中を歩いていた。
 目指す売場は婦人服なのだが、シンジはやはりちょっと入りにくかった。
 それでも、行かなければ始まらない。
 レイは黙ってシンジの後を付いて来る。
 シンジは辺りをキョロキョロと見回しながら、若者向けのコーナーを探した。
「あの……」
 目指すコーナーが見つかったところでシンジは立ち止まり、レイの方を振り返って声をかけた。
「どんなのが、いいかな……」
「……わからない……」
「え……」
「……あなたが、買うんじゃないの?……」
「あ……」
 そ、そうか。そういう約束だったよな。
 つまり、僕が決めなくちゃいけないのか。
 でも……どうしよう……
「あの……えっと……じゃあ……」
 シンジはそう言いながら周りの服を物色した。
 とは言っても、婦人服のことなんて、シンジにわかるわけがない。
 こんな時、アスカがいれば相談できるのに……
 ミサトさんでも良かったけど、あれだけ眠そうじゃ無理だよな……
 とりあえず、目に付いた服を試着してもらって、決めるしかないな。うん……
 しかし、目に付くような服さえなかなか見つけられなかった。
 要するに、シンジにはその手のセンスが欠落しているのである。
 服……どうやって選ぼう……綾波の、イメージで、選ぶ?……
「あの……これ……どうかな?……」
 シンジがやっとのことで選び出したのは白いワンピースだった。
 丸襟、半袖、ベルト、たぶん膝丈くらいのスカート……何の飾り気も感じられない、 シンプルなデザイン。
 よくわからないが、シンジはレイに白のイメージを感じていた。
 そして、簡素で清楚なイメージを。
 あるいはそれは、レイのプラグスーツのイメージだったかも知れない。
 レイはワンピースをちらりと見ただけで、小さな声で言った。
「……わからない……」
「あ……じゃ、とりあえず、着てみて……あそこで」
 シンジが試着室を指差すと、レイは顔をそちらに向けた。
 レイのことだから、放っておいたらこの場で着替え始めるかも知れない。
「いらっしゃいませ」
 この時になって初めて、若い女性店員が寄ってきた。
 愛想のいい、しかし営業用の作られた笑顔を浮かべながら。
「お手伝いしましょうか?」
「あ、お願いします」
 シンジはレイの代わりに答えた。
「では、お客様、こちらへ」
 店員はシンジからワンピースを受け取ると、レイを促した。
 レイはちらりとシンジを見た。
 そしてシンジが頷いたのを見ると、店員に連れられて試着室に入った。
 カーテンが閉じられた。


 カーテンが開かれた。
 白いワンピースを着たレイが出てくる。
 後ろににこやかな愛想笑いを顔に貼り付けた店員を従えて。
「いかがでしょう?」
「はあ……」
 店員がシンジに意見を求める。
 シンジはぼんやりとレイの姿に見とれていた。
 こんな服を着ているところは初めて見るだけに、やはり新鮮な印象だった。
 白い服がレイの肌の白さを、その微妙な色合いの違いでいっそう際立たせていた。
 気のせいか、身体全体が輝いているようにも見える。
 そしてデザインのシンプルさが可憐な感じを醸し出していた。
 無表情は却って高貴な印象さえ与えている。
 シンジはただただレイの姿に魅入っていた。
 似合ってる……かな。どうなんだろう。わからない……でも……
 でも……綺麗だ……
「よくお似合いだと思いますが?」
 シンジがレイの方を眺めたまま何も言わないので、店員が口を挟む。
 たぶん、いつもそんなことを言っているのだろう。
 レイは何も言わないだろうから、シンジが答えなくてはいけない。
「あ、はい……」
「お客様は大変お痩せになっておられますので、少々腰回りのお直しが必要かと思いますが」
「はあ……」
「他にもお選びになりますか?」
「あ、あの……」
 そうしたいけど、このまま自分が選んだら、何時間かかるかわからない。
「あの……選んでもらえませんか?」
 シンジが苦し紛れにそう言うと、店員は一際愛想のいい笑顔を浮かべて答えた。
「では、お見立てさせて頂きます。お客様、こちらへ……」
 そしてレイを連れていくつかの服を試し始めた。
 シンジは横からそれを眺めていた。
 時々、店員とレイが意見を求めるようにシンジの方を伺う。
 シンジは店員よりはずっと心のこもった笑顔と言葉でそれに答えた。


 お節介な店員がいろいろと服を試すので、結構な時間がかかってしまった。 もう昼を過ぎている。
 結局、買うことに決めたのは、最初に試した白いワンピースと、 服に合わせた白いソックス。
 それと、部屋着用に大きめの白いTシャツと淡いブルーのキュロット。
 これは試着しなかったが。
 Tシャツの前は無地、背中には上の方に小さく「XTC」と書かれている。
 最後に靴売り場に行って、白い靴を選んだ。
 ちょうど、アスカやヒカリが履いていたのと同じような型の靴の白い物で、 足の甲をストラップで止めるようになっている。
 それだけの物を買って、シンジはミサトに借りたクレジットカードで精算を済ませた。
 ワンピースの直しが終わるまで、 レイをそこで待たせておいてシンジは自分の服を物色したが、 服は買わずに別の物を買い求めた。



seventh day

I won't be afraid




 買い物帰りに、シンジとレイは昼食を摂りに喫茶店に入っていた。
 レイは先程買って腰回りを直してもらった白のワンピースを着ている。 もちろん、ソックスと靴も。
 買い物に着て来た制服は、他に買った服と一緒に手提げの紙袋の中だ。
 紙袋を持っているのは当然シンジだが。
 窓際の席に向かい合って座った二人は、傍目には恋人同士に見えないこともない。
 しかし、二人が一言も話を交わさない様子を見ていれば、 別れ話でもするのかと思った人もいるだろう。
 二人の前には野菜のサンドイッチとアイスティーが並べられていた。
 ……ご注文は何になさいますか? 野菜サンドとアイスティー。 綾波も、同じのでいい? ……うん……
 喫茶店に入ってから、注文の品が並べられるまでに交わされた会話はそれだけだった。
 サンドイッチを食べ始めても、しばらく会話はなかった。
 半分ほど食べ終わったところで、ようやくシンジが口を開いた。
「あの……」
「……何?……」
「今日は、その……買い物に、付き合ってくれて、ありがとう……」
「…………」
「あの……迷惑だった?」
「……いいえ……」
「そ、そう……」
「…………」
「あの……今日買った、服……気に入って、もらえた、かな……」
「…………」
 レイは黙ったまま紅茶を一口飲んだ。
 シンジは頬張っていたサンドイッチを紅茶で流し込むと、レイの返事を待った。
 あんまり、気に入ってもらえなかったのかな……そう考えると、 何となく、食欲も落ちるような気がする。
 ほんの30秒くらい間があっただけなのに、やけに長く待った気がした。
「……わからない……」
「え……」
「……服のこと、よくわからないから……」
「そう……でも、よく似合ってる、けど……」
 シンジは口ごもりながらそう言った。女の子の服を褒めるのは慣れてない。
 アスカなんて、褒めたら『当ったり前でしょ!』とか言ってバカにされそうだったし……
「……そう……でも、わからないの。ごめんなさい……」
「え……あ、いや、いいよ。僕が、無理言って、付き合ってもらったんだし……」
「…………」
 わからない……つまりそれは、レイが自分を評価する基準を持っていないことを示しているのだろう。
 限られた人だけと付き合い、与えられた服だけを着、与えられた仕事だけをこなす……
 そこには、自分のことを評価してくれる人など存在しない。
 そうして今のレイが作られたのだろう。シンジはそう思った。
 それから食事が終わるまで、会話はなかった。


 喫茶店を出てから、レイの部屋に荷物を置きに行く。
 一緒に並んで歩きながら、シンジはレイの方を横目でチラチラと眺めていた。
(こうして見ると、綾波もやっぱり普通の女の子だよな……)
 じゃあ、とシンジは考え直した。
 僕は今まで、綾波のことを普通の女の子だと思っていなかったんだろうか?
 考え始めると、止まらなくなってしまう。
(僕は、綾波のことを特別な目で見ているのかもしれない……)
(もちろん、最初に見たときから、何と言うか、不思議なイメージの女の子だと思った……)
(話してみて、少なくとも僕らとは違う意識を持っているという感じだった……)
(でも、一番衝撃的だったのは、あの地下の実験室だった……)
(綾波の、秘密を知って……そう、僕は、やっぱり、綾波のことを、特別な目で見ている……)
(だから、僕は、綾波を、拒絶したのかも知れない。あの時……)
(今の綾波が、前の綾波と違うから?……)
(綾波が、僕らと違って、作られた人間だから?……)
(たぶん、そうなんだと思う……)
(どうすればいい?……)
(今の綾波を、前の綾波と同じように見るには……)
(綾波を、普通の女の子と同じように見るには、どうすればいい?……)



 レイの部屋に着くと、シンジは自分の買い物袋の中から緑色のスリッパを取り出して床に置いた。
 さっきの店で買ってきたものだ。そしてそれを履いて部屋の中に入る。
 先に部屋に入っていたレイは、その様子をじっと見ていた。
 シンジはレイのその視線に気付いて、ぎこちなく笑いながら言った。
「あの……これ、ここで使いたいから買ってきたんだけど……いいかな?」
 レイは視線をシンジの顔に移すと、無言で頷いた。
 しかし、何だか不思議そうな表情をしている。
「じゃ、次に来たときも使いたいから、置いといていい?」
 シンジが訊くと、レイはやはり無言で頷いた。
「そう……あの、じゃ、今日買ってきた服、どこに入れといたらいい?」
「……ここに……」
 レイは壁に埋め込まれた収納棚を開けた。
 そこには制服のブラウスが5、6着掛かっていた。
 それに、替えのスカートが1枚。それと、見覚えのある水着……
 綾波の服って、これだけしかなかったのか。
 シンジは買い物袋の中から買ってきたTシャツとキュロットを取り出すと、 棚の中に掛けた。ハンガーもちゃんともらってきてある。
 着替えた制服とソックスと靴は……何となくさわりにくい。
 シンジが躊躇していると、レイが紙袋から制服とソックスを取り出して、ベッドの上に置いた。
 その間にシンジは靴を取り出し、ドアの方に向かって歩いて行った。
「靴は、ここでいい?」
 ドアの脇の下駄箱の前からレイに声を掛ける。
 レイはベッドの前で振り返って頷いた。
 シンジは靴を一番上の棚に入れておいた。
 それから玄関に目を落とす。
 そこに置かれたレイの真新しい白い靴が、一際異彩を放って輝いていた。


 シンジの手にはコップが握られていた。
 中にはレイに入れてもらった水が入っていた。
 シンジは椅子に座っていた。
 レイはシンジと同じように水の入ったコップを持って、ベッドに腰掛けていた。
 いつもと同じ光景。沈黙の時間がどんどん過ぎていく。
 シンジの頭の中では、帰り道で考えていたことが、ずっと引っかかっていた。
 ……どうしたらいい?
 綾波と、話をしなければいけない。
 そう、綾波に、全部しゃべってしまわなければいけない。
 僕が知っていることを。
 僕が知っている、綾波のことを。
 でも、なかなか言えなかった。タイミングがつかめない。
 でも、レイからきっかけをくれることはないだろう。
 決心しなければいけない。水を一口飲んだ。
「あの……」
「……何?……」
 お互いに、視線は合わさなかった。
「あの……綾波に、話さなきゃいけないことが、あるんだ……」
「…………」
 そう、話さなきゃいけない、あのことを。
「僕は……僕は、見たんだ、本部の下の実験室で、綾波が生まれ育ったっていう場所を……」
「……そう……」
 レイは意外なほど冷静な声だった。まるで、シンジがそこを見たことを知っているかのように。
 シンジは少し躊躇したが、何とか言葉を続けた。
「それで、わかったんだ。綾波が、あの時、3人目だって、言った理由が……」
「…………」
 そう……見たのね、あれを……でも、どうして? どうして、ここにいるの?
 見たのに……あなたと私が違うことを、知っているのに……
「綾波は……今の、綾波は……前の綾波と、どう違うの?」
 シンジのその問いかけにレイはしばらく黙っていたが、やがてつぶやくように言った。
「……魂以外、全て……」
「うん……でも、記憶は……記憶は、同じなの? ……どこまで知ってるの? 僕のこととか……」
「…………」
 どうして、答えてくれないんだろう……シンジはそう思って、レイの顔を見た。
 レイはうつむき加減で、どこも見つめてはいなかった。
 しかし、無表情ではなかった。翳りのある、寂しげな表情に見えた。
「あの……アスカを槍で助けたことは……」
「……知ってる……」
「そう……」
 知ってる、か……そう、憶えてる、んじゃないんだろうな……
 綾波は、その時の記憶が、自分の記憶じゃないことを、知ってるんだ……
 でも……どうしてそれじゃいけないんだろう。
 今の綾波と、前の綾波は……魂が一緒だから……それで、いいじゃないか……
「それで、いいじゃないか……」
「…………」
 シンジの心の中の言葉が、自然に口をついて出てくる。
 まるで自分自身に言い聞かせるように。
 レイは黙って顔を見上げ、シンジの方を見た。
 しかし、シンジはレイを見てはいなかった。
「それで、いいんだ……綾波は、綾波だから……」
 何がいいの?
「だって、魂は一緒なんじゃないか……心が、一緒なんじゃないか。 それなのに、どうして……どうして、3人目なんて、言うんだよ。 一緒でいいじゃないか……」
 どうしていいの?
「……でも……今の私の記憶は、私のものじゃないから……」
「そんなことないよ……」
「……今の私の絆は、私のものじゃないから……」
「そんなことないよ!」
 シンジのその叫ぶような声を聞いて、レイの顔に当惑の色が走った。
 どうして?
 あなたは、何を言ってるの?
 どうして泣いてるの?
「綾波が……」
 シンジは涙声になって言った。
 どうして、僕は泣いてるんだろう……
「綾波が、僕を知ってて……みんなを知ってて……それで、僕が綾波を、知ってて…… みんなが、綾波を知ってて……それで、いいじゃないか……何にも変わってないよ…… 同じなんだ……前の、綾波も、今の、綾波も……それで、いいじゃないか……」
 どうしていいの? ……本当に、それでいいの?
「……本当に、それでいいの?……」
 それでいいの?
「いいんだ……綾波は、綾波だから……」
 私は、私だから……そう……そうかもしれない……でも、それでいいの?
 レイはシンジから目が離せないでいた。
 シンジは涙を拭いて、笑顔を作りながらレイの方を見た。
 その笑顔がレイの瞳にまぶしく映った。
 笑ってる……どうして?……
「ごめん。変なこと言って……でも、僕は、本当に、それでいいと思う…… だから、綾波も、3人目とか、そんなこと言わないで…… 今までと、同じように…… これからも、みんなで一緒に頑張っていこうよ」
 どうして謝るの?
「ごめん。今日はいろいろ迷惑かけたかな。 買い物に付き合わせたりして。 服も、うまく選べなかったけど…… それに、さっきのことは、あんまり気にしないでいいよ。 ホント言うと……僕が、確かめたかっただけなんだ。 今の綾波が、前の綾波と、一緒だってこと。 でも、僕がそう思ってるっていうことだけは、忘れないで欲しいんだ。 綾波は、綾波だから、それでいいって、僕は思うし…… あ、ごめん。やっぱり、あんまり気にしないでね」
 どうして謝るの?
「あの、じゃ、僕、そろそろ帰るから……」
 シンジはそう言うと、コップの水を一気に飲み込んだ。
 一度にたくさんしゃべって、喉が渇いてしまった。
 もうぬるくなっていたが、それでも渇いた喉には心地良かった。
 それに、しゃべったおかげで何となく心がすっきりした。そう、僕はもう迷わない。
「あの……それじゃ……」
 シンジは帰ろうとしてレイに声をかけた。
 どうして帰るの? ……帰っては、ダメ。
 私、まだ、何もわかってないのに……
 こんな時、私、どうすればいいの?
「あ、あの、コップ、こっちに置いとくから……」
 シンジはそう言うと立ち上がってシンクの方に歩いて行き、コップをシンクの中にそっと置いた。
 そしてそのままドアの方に行ってしまう。
 レイは弾かれたように立ち上がり、シンジの後を追った。
 帰るの? どうして? ダメ……
「あ、あの……じゃ、また、明日……」
 スリッパから靴に履き替えると、シンジはレイの方を振り向いてそう言った。
 シンジの笑顔を、魅入られたようにレイは見つめていた。
 自然に口が動く。
「……あの……」
 私、何を言えばいいの?
「……また、明日……」
 違う……そうじゃない……
 しかし、レイの口から次の言葉が出ることはなかった。
「うん、それじゃ……」
 シンジはそう言うと、ドアを開けて出て行った。
 ドアが閉まる最後の瞬間まで、レイに笑顔を見せながら。
 レイは閉じられたドアをじっと見つめていたが、ふと視線を下に落とした。
 その赤い瞳には、シンジが買ってきたスリッパが映っていた。

 また、明日……



 その夜。
 レイは、ドアの前の床に、膝を着いて座っていた。
 部屋で着るように、とシンジが買ってくれたTシャツとキュロットに身を包んで。
 シャワーを浴びたばかりで、まだ髪が濡れていた。
 手には真新しいタオルが握られていた。
 タオルは水で濡らされ、彼女の非力な手によって絞られていた。 そして丁寧に折り畳まれていた。
 レイはタオルを床に置くと、そっと滑らせた。
 埃だらけの床に、タオルの通った跡が刻み込まれる。
 いくつかの足跡が拭い去られた。
 床は傷だらけだったが、濡れタオルによって描かれた線だけは、 照明の淡い光を受けて鈍く輝いていた。
 レイは自分が今拭いたばかりの床をじっと眺めていたが、 おもむろに横に視線を移した。
 そこには、シンジが買ってきた緑色のスリッパが置かれていた。

 また、明日……



言葉を知らない、私。
何も知らない、今日の私。
伝えられない、私の心。
届かない、私の気持ち。

どうして泣いてるの?
どうして笑ってるの?
碇君は不思議。
私の心を乱す人。
でも、嫌じゃない。
少しだけ、不安。
でも、安心。

また、明日……
明日、会える。
でも、それでいいの?
どうして何も言えなかったの?
何を言えば良かったの?
わからない。
知らない。
つなぎ止める言葉。

これが、絆?
私が欲しかった、絆?
碇君との、絆……
わからない。
そうかも知れない。
でも……
他の言葉で、表したい……



新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

To be continued...



Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions