青い青い、月。
闇を照らすもの。
闇を作るもの。
闇にいるのは、私。
今日はまだ、闇。
月は見えない。

『眠れないの?』
そう……
『どうして眠れないの?』
心が、揺れるの……
『どうして揺れるの?』
わからないの……
『どうしてわからないの?』
言葉がないの……


一つしかないもの。
消えないもの。
消えるのは身体……心……絆。
消えるのは、私。
私が無くなっていく。
私の運命。
でも、違う。
消えるのは悲しい。
消えるのは寂しい。
どうして?

『言葉がないの?』
そう……
『教えて欲しいの?』
そう……
『誰に教えて欲しいの?』
わからないの……
『どうしてわからないの?』
誰が知ってるか、わからないの……
『誰も知らないの?』
わからないの……
『あなただけが知らないの?』
わからないの……




第四日

揺れる想い




「おはようございます。ミサトさん」
「あら? シンジ君、どうしてここにいるの?」
「どうしてって……昨日、退院してきたんですよ」
「え? 病院に泊まったんじゃなかったの?」
「……帰るって連絡したはずなんですけど」
「電話くれたの?」
「……綾波が、連絡してくれたみたいなんですけど……」
「レイが? どうしてレイが連絡するの?」
「え? い、いや、あの、昨日、病院に、あ、綾波が、その、お見舞いに来てくれて、 それで、その、退院の手続きとかしてくれたりして、その…… その時に、ミサトさんに連絡しておくって……」
「あらー、シンちゃんも隅に置けないわねー。 すっかりレイに気に入られちゃってー、このこのっ!」
「そ、そんなんじゃないんですってば……それより、ホントに電話とか無かったんですか?」
「えー? あ、そーいえば昨日は留守電聞くの忘れてたっけー。ちょっち待ってて」
『ピー……綾波です。碇君が退院して帰宅します……【午後8時42分です】……ガチャ』
「…………」
「……ちゃんとかかってるじゃないですか」
「……ごっ、ごっめんねー、ほんと。ごめんなさいっ、この通り…… でも、昨日帰る前に病院に連絡したら、まだ退院してないって言ってたし…… それに、軽傷だって聞いてたし…… あと、ほら、今日、シンジ君のテスト、キャンセルになったのよ。 だから、病院でゆっくりしてて欲しいなーっていう希望もあったっていうか…… だから、ほんっと、ごめんっ! ごめんってばー」
「……いいですよ、もう……」
「怒んないでよー」
「怒ってませんっ!」


木曜日
ネルフ本部内第2実験場
機体相互互換試験
被験者:綾波レイ


……碇君の匂い……
……とても、安心する……


 管制室にはピリピリとした緊張感が張りつめていた。
 事情を知らない者なら入った瞬間にその雰囲気だけで頭がくらくらしたに違いない。
 2日続きの事故の後遺症は、スタッフ全員に蔓延していた。
 特に、昨日の事故……初号機の専属パイロットでない綾波レイが正常に起動したのに対し、 専属パイロットである碇シンジの方が暴走寸前の事故を起こしたという、 全くもって予期しない事態のせいだ。
 なにしろ、シンジが初号機に乗って、起動時に事故などあったことが今まで一度もないのだから。
 今日のテストが、昨日正常だったレイの起動試験だというのが唯一の救いか。
 しかし、レイのハーモニクスやシンクロ率が不安定であることはスタッフ全員が当然知っている。
 昨日のことなど、気休めどころか気のせいにしかならない気分になるのも当然のことだろう。
「レイ、始めるわよ」
「……はい……」
「伊吹二尉。始めて」
「はい。ただいまから、機体相互互換試験を始めます。第一次接続開始」

 …………

「A10神経接続、異常なし」

 …………

「絶対境界線まで、1.5、1.2、1.0、0.8、0.6、0.5、0.4、0.3……」


誰?
…………
……この感じ……
…………
碇君?
……碇君の、感じ……
……碇君が、私の頭に、入ってくる……
…………
……来て……
…………


「……0.2、0.1……突破! 初号機、正常に起動しました。 ハーモニクス、異常ありません」
 管制室の緊張感が解けていく。 やれやれ、と声をあげる者もいた。
 この2日間、暴走事故のおかげで、データ整理などで勤務時間が延びているのだ。
 徹夜して家に帰れなかった者が何人もいる。
 だから今日のテストでは事故が起こらなかったというだけで気が緩んでも当然。
 ミサトもあえてそのことを怒ったりしない。
 機体整備班の方もほっと一息ついてることだろう。
 それに大人がピリピリしていては、被験者である子供の精神状態にも影響する。
 いい雰囲気を作ってやるのも自分たちの仕事のうちだ。
 ミサトはプラグに向かってマイクで呼びかけた。
「続いて、連動試験に入ります。レイ、聞こえてる?」
「……了解……」
 モニターの数値をチェックしていたマヤが、ミサトに話しかけてきた。
「葛城三佐、これ……この、数値……」
「え? どれ?」
「これです。見て下さい、ハーモニクスが……以前の、一番いいときよりも、伸びてます。 シンクロ率も、ほら……零号機の時よりもいい数値です」
「ほんと……全く、どうなってるのか……」
 ミサトとマヤは顔を見合わせて、くすっと笑った。
 久しぶりの心の余裕。
「全く、子供の扱いって、難しいわね」
「ホントですね」
 自然に軽口も出てくる。本当に久しぶりの、和やかな雰囲気だ。
 できれば、いつもこうであってほしい。
 ……いや、こんな実験をしていること自体、非日常だともいえるのだから、 和やかな雰囲気を求めるのは矛盾してるのかもしれない。
 所詮、戦いの最中の一時的な休息、か……

 レイは正面のスクリーンの中に視線を走らせた。
 視線は実験場に面した管制室のガラス窓の一番端のところで止まる。

 初号機が正常に起動して、シンジもほっと一息ついていた。
 今日は自分のテストはないが、昨日の事故のことで今日のテスト……レイのこと……が心配だったし、 ミサトも見ておいた方がいいというので、管制室の端から様子を見守っていたのだった。
(よかった……綾波……何も起こらなくて……)
 その時ふと、シンジは昨日の事故直前、エントリープラグの中であった出来事を思い出した。
 そうだ、あの時、綾波が……綾波が、頭の中に入ってきて……
 零号機とのテストの時もそうだったけど、どうして初号機で……
 昨日、綾波の直後にテストしたのが、関係あるのかな……
 綾波は、何も感じてないんだろうか……
 きいてみた方が、いいかな……
「シンジ君?」
「あ、はい」
 考え事の最中にミサトが呼びかけてきた。
 もしかしたら、一度呼ばれてたのをうっかり聞き逃してたかもしれない。
「昨日の事故について事情聴取したいから、実験が終わったら私の執務室に出頭してくれない?」
「は、はい。わかりました」
 あのこと、話さなきゃいけないんだろうな。
 どうやって説明したらいいだろう。  シンジはブツブツとつぶやきながら実験場の初号機を見つめていた。



「さ、て、と。まあ、おかけなさいよ」
 ミサトの執務室に入ったシンジは、とりあえず椅子を勧められた。
 しかし、この部屋って……まるで、あの時のミサトさんの部屋みたいだ。
 机の上には書類の山。
 どうせ始末書とか請求書、苦情の申告書ばっかりなんだろうから、適当にかたづければいいのに。
 ゴミ箱の紙屑はたまり放題。
 その横にはコーヒーの空き缶がゴロゴロ。
 ビールじゃないだけ、ましか……
 シンジは思わず掃除したくなる衝動に駆られる自分に愕然としていた。
 いつの間にか飼い慣らされてる……
「でね、昨日のことなんだけど」
「は、はい」
「えっとねー、昨日の事故報告書がね、あれ、どこいっちゃたのかしら」
 やれやれ。こうなると思った。
「えーっと、昨日この辺に置いたはずだから、これかしら? あ、あったあった、これこれ。うん。それでね」
「あ、はい」
「えーと、時系列の表はこれよね。 それで、これによると、昨日の事故直前に、 初号機からシンジ君の方に原因不明のパルスが入ってるのよ。 何か心当たりない? 頭にショック感じたとか、違和感あったとか」
「…………」
 やっぱりそうか。気付かれてるんじゃないかと思った。
 でも、どうやって説明しよう。
 まさか、綾波のイメージが入ってきたなんて説明するわけには……
 シンジが返答に躊躇していると、それと察したミサトが切り込んでくる。
「あったんでしょ。 どう言っていいかわかんないだろうけど、 イメージだけでも説明できないかしら。 今後、出撃の時にこんなことがあったら大変だから、 早めに対処しておかなきゃならないの。 わかるでしょ」
(イメージって言ったって……綾波っていうイメージそのものじゃないか。 こんなの説明して、わかってくれるんだろうか……)
 ミサトにしてみれば、シンジが何か言いにくそうにしているのが態度でわかるとでも言いたげだった。
 シンジも答えたいのだが、説明が難しい。
 下手に言い回しを間違うと、誤解を招く恐れが……誤解?
 なんだそれ。僕は綾波とのことを誤解されるのを怖がってるんだろうか。
 そうじゃない。ただ……ミサトさんが、また何か言いそうで嫌なだけだ。
「あの……ミサトさん」
「ん? 説明できる?」
 せかすとシンジがまたへそを曲げるかもしれないので、 ミサトとしてはその辺りは心得ているつもりだった。
 しばらく待っていればシンジの方から話し出すと思って黙っていたようだ。
「あの……あの時、その、頭の中に、何か直接入ってくるような気がしたんです。 なんていうかその、綾波のイメージみたいなのが……」
「綾波の……イメージ? 何、それ……」
「僕もよくわからないんですけど、綾波のような気がしたんです」
「レイのイメージ……前に、零号機に乗ったとき、レイの匂いがするって言ってたけど、 それとはまた別の感じなの?」
「ええ、匂いっていうんじゃなくて、イメージそのものっていうか、印象っていうか……」
「ふーん。イメージが直接……か」
 ミサトは渋い顔をして考え込んでいる。
 また綾波とのこと冷やかされるかと思ったけど、そんなことされなくて良かった。
 朝のこともあったし、ミサトさんも気を使ってるのかもしれない。
「それって……何て言うか、テレパシーを感じるっていうんじゃなくて?」
「えと、そうじゃなくて……意識しないのに頭の中に浮かんで来るっていうか……」
 ミサトは紙とペン用意してシンジの話を聞いていたが、 何を書くでもなく、ペンで紙をトントンと叩いている。
 考えをまとめようとでもいうのか、天井の方に視線を彷徨わせていた。
 それからおもむろに内線電話の受話器を取り上げた。
「ちょっち待って、マヤちゃんの意見も聞いてみるから……あ、 もしもし、葛城だけど、伊吹二尉そこにいる? ……あ、マヤちゃん? ミサトだけど。ごくろうさまー。 今、シンジ君の事情聴取やってるんだけど、 ちょっちマヤちゃんの意見も聞きたいから、資料そろえてこっちに来てくれない? ……うん、私の部屋。すぐ来れる? ……わかった。じゃ、お願い。 あ、それと、レイはもう帰ったかしら? ……わかんない? 着替え中かな。とりあえず、呼び出してみて。 ……じゃ、よろしくー」



fourth day

remember to let her into your heart




「失礼します」
 マヤはそれから3分で来た。小脇にノートパソコンと書類の束を抱えて。
「レイはまだ本部から退出していないようです。 呼び出しておきましたから、もうすぐ来ると思います」
「そう。ごくろうさま。それでね、マヤちゃん」
「はい」
「昨日の事故の、あのパルスのことなんだけど」
「あ、はい。シンジ君は何か……」
「それがね、レイのイメージがしたんだって」
「は?」
 マヤは文字通り目をパチクリとさせて驚いた。
 まるで、女子高生が後輩の女生徒から手紙受け取って下さいと言われたときのような顔をして、 ドアの間際に立ちつくしている。
 そりゃ、誰だって聞いた瞬間は呆然とするわよ。
 マヤちゃんのデジタルな頭にはなおさらわかりにくいんじゃないかしら。
 ミサトは補足説明を続けた。
「えっと、そのー、シンジ君が言うにはね、 レイの印象が頭の中に入って来たみたいな気がしたんだって。 何ていうか、レイを連想させる波長みたいなのが頭に入って来たっていうか……」
(あれ、ミサトさん、ちゃんとわかってくれてるみたいだ)
 シンジはちょっとびっくりした。
 今までミサトさんがここまで自分の説明……というか、 考えを理解してくれたことなんてあっただろうか。
 思わず見直してしまう。
「あ……は、はあ……」
 それに比べて、マヤの方は今ひとつ理解できていない。
 聞いたばかりなので無理があるのかもしれないが。
「あの……じゃあ、少し待って下さい……」
 マヤはそう言ってノートパソコンを開くと、キーボードを叩き始めた。
「何してるの?」
「昨日の、あのパルス……レイの固有波形との相関があるか、調べてみます」
「…………」
 今度はミサトが沈黙する番だった。
 何がしたいのかしら、この子は。
 その時、ドアに控えめなノックの音がした。
「開いてるわよ。どうぞ」
「……失礼します……」
 入ってきたのはレイだった。
 いつもの学校の制服に身を包んで。
 シャワーを浴びてすぐ来たのか、髪がまだ濡れている。
 ほんのりと頬が上気しているのは、急いで来たせいか、それともシャワーのせいか。
 ドアを後ろ手に閉めると、マヤの後ろに控えめに立った。
「椅子が足んないわねー」
「……僕が立ちますよ」
 シンジはそう言って席を立った。そして、マヤとレイの方を見る。
 マヤはノートパソコンと格闘中で見向きもしない。
 レイはミサトの方を見て立っていた。
 ミサトは目が合ったレイに声をかけてみた。
「レイ、座る?」
「……いいえ……」
 そんなやりとりの間に、どうやらマヤの計算が終わったようだ。
「……波形パターンが似てはいるんですが、 やはりこれだけではよくわからないですね……」
「そう……」
 ミサトは頬杖をつきながらマヤの言うことを聞いていたが、 チラと顔を上げてレイの方を見て言った。
「レイ、あなた、今日、起動する瞬間に、何か感じなかった? 頭の中に何か入ってくる感じとか……」
「……はい……」
「感じたの? どんな感じ?」
 やっぱりそんなことってあるの?
 ミサトはちょっと驚いてレイに聞き質した。
「……碇君の感じ……」
「へ?」
「え?」
「…………」
 ミサトとマヤは絶句してしまった。もちろん、シンジも。
 入ってくる印象が違うとは言え、 二人の被験者が似たような現象を感じていたとは……
 ミサトはいち早く気を取り直してレイに質問した。
「そ、それで、今までにも、そんなことあったの?」
「……いえ……」
「今日が初めて?」
「……はい……」
「…………」
 ミサトは頬杖をついたまま固まってしまった。
 マヤはノートパソコンを抱きしめて呆然としている。
 シンジもびっくりして立ちつくしていた。
 レイだけがいつもどおり、平静を保っているように見える。
 四者、無言の時間がしばらく続いた後で、ミサトがため息混じりに口を切った。
「……もうちょっち、データ調べてみよっか。 マヤちゃん、相談するから残って」
「あ、は、はい……」
「シンジ君とレイはお疲れさま。もう帰っていいわよ」
「あ、はい」
「……はい……」
 シンジはレイの方を見たが、レイは既にドアを開けて半分外に出ようとしていた。
 あわてて後についていく。
 ドアのところで振り返ってミサトの方を見た。
 ミサトは考え事をするかのように机の上の一点をじっと見つめている。
「あ、あの、失礼しました」
 そう言ってシンジはゆっくりとドアを閉めた。
 レイはもう廊下を歩きだしていた。あわてて後を追いかけていく。
 部屋には頭が混乱してどうしていいのかわからない二人の女性だけが残された。



「綾波!」
 シンジは廊下をさっさと歩いていくレイに後ろから声をかけた。
 レイは立ち止まると振り返ってシンジの方を見る。
「……何?……」
「あの……さっきのこと、聞きたいんだけど……」
「……さっきのことって?……」
「さっきの……エヴァに乗って、起動する時に、僕の感じがしたって……」
「……そうよ……」
 レイはシンジの目を見たまま、静かに答えた。
 レイの目は……昨日の晩に見た、あの冷たくない目だった。
 赤い視線で見つめられて、シンジは急に言葉が出てこなくなってしまった。
 その……何だっけ、何を言おうとしたんだ、僕は……
「あ、あの……」
「……何?……」
「あの……もう少し、詳しく、聞かせて欲しいんだけど……」
「……そう……じゃ、一緒に帰る?……」
「あ、うん……」
「……鞄、取ってくるから……」
「え、あ……」
 レイはそう言い残すと、すっと振り返って歩いて行こうとした。
「あ、綾波……」
「……何?……」
 レイは再び立ち止まると、顔だけシンジの方に向けて小さな声で聞き返した。
「あ、綾波、その……」
 なぜ呼び止めたのか自分でもわからない。
 しかしシンジはその後の言葉を無意識のうちに口にしていた。
「髪、乾かしてきた方がいいよ……」
「…………」
 レイはその言葉を聞くと、シンジから視線をはずして小さく頷き、 再び廊下を歩いていった。
(僕は……僕は、どうしてあんなことを言ったんだろう…… ただ……ただ、綾波の、濡れた髪が気になって……)
 シンジはレイの後ろ姿を見つめながら、ぼんやりと考えていた。



「……マヤちゃん……」
「は、はい……」
 およそ十分間も続いた沈黙の後で、 ミサトがマヤに呼びかけると、 マヤははっと我に返って返事をした。
「今日のデータ……見てくれない?」
「え、何を……」
「レイがさっき言ったでしょ、シンジ君の感じがしたって…… だから、今日もパルスが来てないかどうか、調べてみて」
「あ、は、はい。わかりました」
 マヤは再びノートパソコンを広げて、カタカタとキーボードを叩きだした。
 無線式端末なので、本部内ならどこからでも主システムにアクセスできる。
 マヤは今日の実験データを呼び出すと、時系列データを調べてみた。
「あ、はい、あります。昨日と同様のパルスが初号機からレイに……」
「相関、調べてみて」
「は?」
「昨日のパルスと、相関調べてみて。どのくらい同じものなのか……」
「あ、はい……」
 待つこと数秒、マヤのノートパソコンはあっという間に答をはじき出した。
「相関率、99.89%です。ほぼ同じものですね……」
 99.89%か……ミサトは苦笑した。
 まさか、あの数字をこんなところで聞くなんて。
 全く自分たちの浅はかさを感じるわ。
「そう……ほとんど一緒のものなのね」
「は、はい。……でも、シンジ君はレイのイメージで、 レイがシンジ君のイメージを受けているっていうのは……」
「それはこの際関係ないわ」
「は?」
 ミサトは沈黙の十分間のうちに、今回の件に関して何となくイメージをつかんでいた。
 もしかしたら……
「ほとんど同じものに関して、二人のイメージが異なっているのは、この際重要ではないわ。 問題なのは、結果のほうよ」
「結果、というと……」
「シンジ君は、レイのイメージを受けて起動できなかった。 でも、レイは……」
「……シンジ君のイメージを受けても、起動できた……」
「そう……それがどういうことかっていうのが大事なのよ」
 ミサトの頭の中ではある仮説ができあがっていた。
 もっとも、ご自慢の「女の勘」というやつでしかなかったのだが。
「シンジ君は突然レイのイメージを受けて、心に迷いが生じたと考えられるわ。 不安といった方がいいかもしれない。 しかも、乗り慣れた初号機から受けたんだから、不意をつかれたってところかしら。 だから、シンクロに乱れが生じたのよ」
「…………」
 マヤは黙ってミサトの言っていることを考えていた。
「レイの方は、シンジ君のイメージを受けることを、ある程度予想していたのかもしれない。 前に、初号機に初めて乗ったとき、シンジ君の匂いがするって言ってたわよね。 つまり……」
「……つまり? ……何ですか?……」
 ミサトは一瞬口をつぐんだ後、小さい声でつぶやくように言った。
「つまり、レイはシンジ君を受け容れることを拒否しなかったのよ。 だから心が乱れなかった。 ……シンジ君の方は、レイを拒否してしまった…… まだレイを受け容れる心の準備ができてないのよ」
 まだ、あそこで見たことを気にしてるのかも知れないわね、とミサトは考えていた。
 一方、そんなことを知らないマヤは、エヴァからパルスが来ることの方が問題なのに、 と思いながらミサトをじっと見つめていた。



「綾波……」
 環状第7号線の電車の中で、シンジはレイに問いかけた。
 環状第7号線は第3新東京市の最外周を走る路線で、 先の零号機自爆による市全体の壊滅的な打撃の中で唯一生き残った公共鉄道だった。
 しかし、人影はまばらで、ほとんどNERVの職員のために動いているようなものだった。
 電車の中で話しかけるなんて、初めてだ。シンジは考えていた。
 でも、なぜか以前あったような気もする……気のせいなんだろうか。
「……何?……」
「さっきのこと……本当なの?」
「……何が?……」
「エヴァの中で、僕の感じがしたって……」
 レイはほんの一瞬だけシンジの方に目を動かし、 また目を正面に戻して虚空を見つめながら小さな声で答えた。
「……そうよ……」
「…………」
 レイの答を聞いた後で、シンジはしばらく黙って考えていた。
 僕の感じ……僕の感じって、何だろう……
 綾波が知ってる、僕の感じ……綾波……2人目の綾波……
 そこまで考えたところで、シンジははっとした。
 3人目の、今の綾波は、やっぱり僕のことを知っている……
 ……やっぱり、前の綾波の記憶を、持ってるんだ……
 じゃあ、今の綾波と、前の綾波は、どこが違うんだろう……
 見かけの姿が同じ綾波、記憶が同じ綾波、心が同じ綾波、魂が同じ綾波……
 違うのは、身体だけ……でも、本当に、そうなんだろうか?
「綾波……」
「……何?……」
 シンジは自ら沈黙を破って、もう一度レイに話しかけた。
「……僕の感じって……その……どんなのかな……」
「……わからない……」
「え……」
 シンジは驚いて横に座っていたレイの方に顔を向けた。
 レイはシンジとは視線を合わさずに、正面を向いたまま座っている。
 その端正な横顔からは、しかしいささかの表情も感じ取ることはできなかった。
「わからない……って、綾波……」
「……わからない……わからないけど、碇君の感じがしたの……」
「……僕の感じ……」
「……あなたは、人の感じを、言葉で説明できるの?……」
「え……」
 シンジは一瞬驚いたが、頭の中で今聞いたレイの言葉を何度も繰り返してみた。
(……人の、感じを、言葉で……人の、感じを、言葉で……人の、感じを、言葉で……)
 説明できない、とシンジは思った。
(僕が受ける、綾波の感じ……髪が青いとか、肌が白いとか、 目が赤いとか、いつも制服を着てるとか、 そんなことじゃなくて……たとえば、初めてあった時みたいな…… そう、包帯とか、怪我とか、血とか……違う……違う、違う、違う…… やっぱり、説明できない……綾波の感じは、綾波そのものなんだ…… じゃあ……じゃあ、前の綾波と、今の綾波の違いは、どうやって説明すればいいんだろう…… 説明できない……同じ感じだから……)
 シンジはレイを部屋まで送って行くと、 いくばくかの時間をレイの部屋で過ごしてから家に帰った。
 その間、ほとんど何も話をせずに。



『言葉がないの?』
そう……言葉がないの……
『伝えられないの?』
そう……伝えられないの……
『何を伝えたいの?』
私の、気持ち……
『あなたの気持ち?』
そう、私の気持ち……
『どんな気持ち?』
わからないの……
『どうしてわからないの?』
知らないから……
『どうして知らないの?』
言葉を、知らないから……
『どうして知らないの?』
言葉で、説明できないから……

私というもの。
それを考えている私が私。
そう考える心が私。
私という心。
私という心の入れ物。
それが私。

私が求めるもの。
絆。人とのつながり。
心のつながり。
心の安らぎ。

心が安らぐのはどこ?
エントリープラグ。
初号機のエントリープラグ。
碇君のエントリープラグ。
碇君の場所。
碇君の匂い。
碇君はどこ?



新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

To be continued...



Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions