『心が痛いの?』
わからないの……
『悲しいの?』
わからないの……
『不安なの?』
わからないの……
『苦しいの?』
わからないの……
『何を求めるの?』
絆……
『何が欲しいの?』
心のつながり……
『寂しいの?』
そんな気がする……
『誰もいないの?』
いるわ……
『誰がいるの?』
……碇君……葛城三佐…赤木博士…みんな…クラスメイト…弐号機パイロット……碇司令……
『絆がないの?』
わからない……
『心がつながらないの?』
わからない……
『わからないのが不安なの?』
不安……そうかもしれない
『何がわからないの?』
わからない……
『わからないことがわからないの?』
そうかもしれない……
『それが不安なの?』
そう……
『言葉が見つからないの?』
言葉で表せない、気持ち……
『それが不安なの?』
そう……
『自分の気持ちが不安なの?』
そうかもしれない……


自分の中に……言葉で表せない気持ちがあるの……
心が痛いんじゃないの……
悲しいんじゃないの……
苦しいんじゃないの……
寂しいんじゃないの……
言葉で表せない、不安……それが不安……




第弐日

不安の中で




「まもなく準備できます。葛城三佐」
「そう……でも、ここを使うのは、やっぱまだちょっち不安ね。マヤちゃんはどう?」
「そうですね……やっぱり少し気になります。使徒に浸食されたとき以来ですから……」
「よく使う気になったものね」
「でも、先輩がいない間に、先輩の仕事を守るのが、私の仕事ですから……」
「そう……そうね。じゃ、始めましょう。子供たちの準備はできた?」
「今、最後の洗浄中です」


火曜日
ネルフ本部内シグマユニット
模擬体によるオートパイロットテスト
被験者:綾波レイ、碇シンジ


 シグマユニット。拾壱番目の使徒に汚染された忌まわしい過去を持つ場所。
 しかし今は全て修復済みだった。そのはずだった。
 拾壱番目の使徒……本当に殲滅できたのかどうかはわからない。
 未だ、MAGIと共生しているのかもしれない。
 どんなきっかけで復活するかわからない、「恐怖」の使徒。
 不安が全くないわけではないが、この場所を使わないわけにはいかない。
 MAGIの進化に伴う、エヴァシステムの更新。
 赤木博士……リツコがやり残した仕事。
 95%まで終わっていた仕事。
 リツコの意志を継ぐべく、マヤが完成させた仕事。


 マイクのスイッチを入れ、ミサトはシンジとレイに呼びかけた。
「シンジ君、どんな感じ?」
「……何か、やっぱり少し違います。 身体が、浮き上がるような……」
「そう……レイは?」
「……身体の左側だけが、はっきりしています……」
 シンジとレイは、シミュレーションプラグの中に収まっていた。
 例によって、17回の洗浄を終えて。
 例によって、プラグスーツも着用せずに。
 ミサトはマヤに声をかけた。
「少しパラメータの値を変えてみて」
「はい」
 マヤはそう言っていくつかボタンを押し、キーボードを叩いた。
 操作が終わるのを待って、ミサトがもう一度シンジとレイに呼びかける。
「シンジ君、今度はどう?」
「……だいぶ良くなったみたいです」
「レイは?」
「……問題ありません……」
「そう……ハーモニクスは?」
 ミサトはマヤの方を向いてそう言った。
 マヤはモニターに目を走らせて答える。
「1番の方は正常です。0番の方は……昨日よりも、若干落ちています……」
「そう……」
「葛城三佐……レイの方は、今日はやめておいた方がいいんじゃないでしょうか」
「どうして?」
「前のテストで模擬体を使徒に浸食されてますし……精神的に不安要素が……」
「レイはそんなこと気にするような子じゃないわ」
「でも……」
「不安は別のところにあるのよ……私の考えでは……」
「…………」
 それがどんな不安であるかは、ミサトには想像もつかなかった。
 ただ、エヴァに乗ることに不安があるのではないと思った。
 もちろん、間接的な理由としてはそれもあるかもしれない。
 しかし、少なくとも直接的な理由ではない。
 本当は、それを知るまでは、テストするべきじゃないのかもね……
 でも、時間がないのよ、時間が。テストの中から、探り出していくしかない……
「始めましょ。まず、シンジ君の方を模擬体を通して初号機に接続」
「はい」
「シンジ君、右手を動かすイメージを描いてみて」
 ミサトはマニュアルどおりにシンジに指示を出していく。
「はい」
 シンジがレバーを持つ手に力を込める。 模擬体がわずかに動いて、パルスを初号機に伝える。
 ケージに安置された初号機は動かない。
 パルスはMAGIによってインターセプトされている。
 初号機からの返り値だけが記録されていく。
「次、左手」
「はい」
 こうして各部の動作パルスを記録していき、 そのフィードバックを用いてエヴァのシステムを再構築する。
 しかし、今はエヴァは一体しかないので……弐号機はまだ互換が利かないので…… レイのデータはMAGIで変換をかけて初号機に接続する。
 そして交互に接続を切り替えながら試験を行う、というのが伊吹マヤの考え出した苦肉の策だった。
 もちろん、切り替え回数が少なくなるよう、 動作をいくつかのパートに分けてデータをまとめるやり方を取ることにした。
 試験を一人ずつ別の日に分けることも検討したが、 各被験者に対してなるべく同じ条件を保ちたいので同じ日にすることにした。
 二人の試験を前後に分けず、何度か切り替えして行うのも同じ理由だ。
「第一パート、全て終了しました」
「次、レイの方を接続するわ」
「はい。1番は接続を現時点でホールド。 続いて0番を変換コア経由で初号機に接続します」
「シンジ君は申し訳ないけど、少し待ってて。次、レイ、いくわよ」
「はい」
「……はい……」
「変換コアからのパルス正常。 0番と初号機を接続します。 ハーモニクス……」
 ピーーーーーッ!!!!
 その時、コンソールルームにアラームが鳴り響いた。 スクリーンに躍る「WARNING」の赤い文字。
「どうしたの!?」
「パルス逆流! 神経接続が拒絶されていきます!」
 模擬体の左腕が激しく震えている。
 ミサトの、マヤの、そして他の全てのスタッフの頭の中に、 過去の恐怖の光景がよみがえってきた。
「まさか……またあの、使徒!?」
「い、いえ……初号機からの浸食です!……でも……でも、まさか、そんな……」
「テスト中断! 全電源をカット! 早く!!!」
「はい!」
 スタッフの手が一斉に動く。
 計器のランプが次々と消されていく。
 動力までも断たれ、模擬体の活動は止まった。
 アラームも鳴り止む。最悪の事態には至らなかった。
 しかしコンソールルームは騒然とした雰囲気に包まれていた。
 呆然とするミサトとマヤ。凍り付く全てのスタッフ。
「レイの……レイの様子は!?」
「モ、モニター回復します……脳波、乱れています。 呼吸器、循環器、異常なし。 命に別状は……ありません……」
「精神汚染は!?」
「不明です。このレベルでは心配ないと思いますが……」
「そう……」
 ミサトは大きくため息をつくと、キッと模擬体を見つめて言った。
「テストは現時点で中止します。 データはMAGIで解析。 シミュレーションプラグ排出。 レイは病院へ移してちょうだい」
「はい……」
「シンジ君、聞こえる?」
 ミサトはマイクでプラグの中のシンジに呼びかけた。
「あ、はい」
「ごめんなさい。事故があったの。今日は中止します。上がっていいわ」
「事故って……綾波、ですか?」
「そうよ……ごくろうさま。上がって、いいから……」
「あ……はい……」
 ミサトは深いため息をつきながら、プラグが排出されていく様子を眺めていた。
 レイの不安は、エヴァに乗ることにあるというの?
 それだけは、あり得ないと思っていたのに……何が不安なの?



『何が不安なの?』
わからない……
『絆がないの?』
わからない……
『絆が欲しいの?』
わからない……

わからないことが、わからないの……


 ここはどこ? ここは病院。そう、実験中の事故。だから私は病院にいる……
「あ、綾波、気がついたんだね。良かった……」
 レイは声のする方に顔を傾けた。この声、知ってる……
 目を開けてみた。視点がぼやけて……次第にシンジの顔がハッキリと目の中に入ってくる。
 ベッドの横に座っているのだろうか。
 ……碇君、笑ってる……どうして、笑ってるの?
「……碇君……」
 どうしてここにいるの?
「気分はどう?」
「……大丈夫……」
「そう。良かった。 ……あ、あの、歩けるようなら、帰ってもいいって、先生が。 ダメなら、このまま寝ててもいいって……」
 どうしてここにいるの?
「……そう……」
「帰れそう? ……帰れそうなら……その……送って、行く、けど……」
 どうしてここにいるの?
「……帰れると、思う……」
 そう言って、レイは体を起こし、ベッドの上に座った。
 そして、パジャマのボタンをはずし始める。
 シンジはあわてて立ち上がると後ろに飛びずさり、レイに背を向けた。
「あ、あの、か、帰れるなら、その、服、と、取ってくるから、 その……ちょ、ちょっと、そのままで、待ってて」
「…………」
 シンジはそれだけ言うと、病室を飛び出した。
 ……綾波は、恥ずかしくないのかな……
 恥ずかしく、ないのかもしれない。前もそうだった。
 一人で育てられたから? 人とのふれあいが少なかったから?
 でも、そんなこと、ききようがないじゃないか……
 シンジはあれこれ考えながら、レイの服を受け取りにミサトのところへ急いだ。


 時計の針は、7時を少し回ったところだった。
 シンジは、レイが着替え終わるのを、病室の外でしゃがみ込んで待っていた。
 そして、服を受け取りに行ったとき、ミサトから言われたことを思い出していた。
「シンジ君……レイに、何が不安なのか、訊いておいてくれない?」
「え……どうして、僕がきくんですか……ミサトさんが、きけばいいじゃないですか……」
「シンジ君に、訊いて欲しいの……私が訊いたんじゃ、言ってくれないと思うわ。 シンジ君が適任だと思うから、頼んでるの。お願い」
「でも……そんなこと、言ったって……何をきいたらいいのか……」
「お願い。何が不安なのか、わからなくてもいいの。 不安に思ってることが、あるかどうかだけでも訊き出して欲しいの。お願いだから」
「……できるかどうか、わかりませんよ。そんな……」
「話をするだけでも、いいから……」
(どうして、僕なんだろう……)
 シンジがそこまで回想したとき、パシュッ……と電動ドアの開く音がして、レイが出てきた。
 足取りはしっかりしているみたいだ。
 レイがシンジの方に歩み寄ってくる。シンジはあわてて立ち上がった。
 綾波……今日もやっぱり、制服なんだ……
「あの……大丈夫? ……ちゃんと、歩ける?」
「……大丈夫……」
「そう……じゃ、帰ろうか……」
「…………」
 シンジとレイは並んで歩き出した。



second day

there will be an answer




 帰りの電車の中でも、シンジはなかなか言葉を切り出すことができなかった。
 何をきけばいいんだよ……どうやってきけばいいんだよ……
 頭の中で、考えだけが巡る。時間だけが、徒に過ぎていく。
 いつの間にか、駅に着いてしまった。
 それでもシンジはまだ何も言えなかった。


 アパートへ向かって歩く途中、ふと、レイが立ち止まる。
 シンジは二、三歩行き過ぎてから、レイの方を振り返って言った。
「……どうしたの?」
「……ここ、寄って行くから……」
「コンビニ……」
「……そう……少し、待ってて……」
「あ……僕も、行くよ」


 シンジはレイと一緒に、買い物かごを提げて店内を歩き回る。
 パックの野菜サラダ、固形栄養食品、食パン……
 まるで止まるところが決まっているみたいに、他のものには目もくれず、 レイはかごの中に品物を放り込んでいく。
 まさか、毎日同じものを食べてるのかな……
 でも、綾波なら、あり得る。何となく、そんな気がする……
 そしてレイは飲み物の冷蔵庫の前で立ち止まり、シンジの方を見た。
「……何か、飲む?……」
「え……」
 何のことだか、一瞬わからなかった。
 綾波が、買ってくれるの? 僕の飲み物を?
 それって、どういう……
「あ……い、いいよ、自分で買うから……」
「……いいの、私が買うから。何が欲しいの?……」
 シンジを見つめるレイの赤い瞳が、強烈な意志を帯びているように思えた。
 昨日と違う、強制力のある瞳。じっとシンジを見つめている。
 視線を逸らすことさえできなかった。
 断ることなんてとてもできない……
「あ……あの……じゃ、じゃあ、これ……」
 シンジはとりあえず目に付いたジュースの缶をつかむと、レイに手渡した。
 レイはそれを受け取ってかごに入れる。
 そしてミネラルウォーターのペットボトルもかごに入れると、レジに向かって歩いていった。
 ネルフのカードで支払いを済ませる。
 シンジは後ろからぼうっとそれを眺めていることしかできなかった。


「あの……」
「……何?……」
 コンビニエンスストアを出た後で、シンジはようやく話を切り出すことができた。
 ……僕の知らない綾波に話しかけること。 それも僕の仕事の一つだと思う。 僕の義務、僕の責任……
 違う。そんなんじゃない。
 ……絆……そう、絆。
 僕と綾波の絆。今の綾波と、僕の絆。
 僕は、綾波と話をしなきゃいけない。いや、それも違う。
 綾波と話がしたいんだ。ミサトさんに言われたからじゃない。
「あの……今日の、テストの、こと、なんだけど……」
「…………」
「何か、その、綾波が、その、不安があるんじゃないかって、その……ミサトさんが……」
(でも、どうしてこんなこと言ってしまうんだろう……)
「……葛城三佐が?……」
「うん……きいておいてくれって……」
 だからあそこにいたの?
 レイは少し考えてから、静かに言った。
「……わからない……」
「わからないって……不安がないの?」
「……不安は……あると思うの……」
「で、でも、わからないって……」
「……何が不安か、自分でもわからないの……」
「何がって……」
「……何が不安か、言葉にできないの……」
「言葉に……できない……不安……」
「…………」
「それって……何なのかな……」
「…………」
 何言ってんだ、僕は……
 ダメだ、こんなこと言ってちゃ。
 このままじゃ、綾波がますます不安になっちゃうじゃないか。
 何とかしなきゃ、何とか……
 綾波の不安を、少しでも取り除いてあげなきゃ……
「あの……何か、手がかりとか、ないの?」
 やっとの思いで、絞り出した声。震えてる。
 ミサトさんに言われたからじゃない。
 僕がきかなきゃいけないんだ。
 僕にしかできない、僕にならできること。これも、そう。
 しかし、レイの答は同じだった。
「……わからない……」
「わからないって……でも、どんなとき、不安になるとか……ないの?」
「…………」
「エヴァに乗るときとか……」
「……違うわ……」
「でも……あの、事故は……」
「……違うの……それだけは、わかる……」
「そう……なのかな……」
「……そう……」
(綾波のわからない不安……僕の知らない不安……僕がわからない不安…… どうしてそんなことが知りたいんだろう……どうして綾波のことが気になるんだろう…… わからない不安……それも不安……)
 いつの間にか、レイの部屋の前に来ていた。


「あの……じゃ、今日は、これで……」
 シンジがそう言って帰ろうとしたとき、 レイが振り返ってその赤い瞳でシンジを見つめた。
 なぜだかシンジは足がすくんだ。
 冷たくないのに……でも何だか、心を読まれているような気がするから……
 シンジが戸惑っていると、レイが小さな声で訊いてきた。
「……飲まないの?……」
「え……」
「……これ……」
 そう言ってレイはコンビニの袋を指差した。
 その中には、レイがシンジのために買ったジュースが入っているはずだ。 すっかり忘れていた。
「あ、うん……飲むよ」
「……そう……」
 そう言ってレイはドアを開け、部屋に入って行った。
 つられるようにシンジも後から入って行く。
 レイはベッドの上に買ってきたものをぶちまけると、 機械仕掛けの人形のようにそれらを片づけていった。
 まるで、毎日同じことを繰り返しているかのように。
 パックのサラダとミネラルウォーターは冷蔵庫に。
 固形栄養食品と食パンは冷蔵庫の上に。
 後に残ったのはシンジのジュース。
 レイはそれを手に取ると、シンジの方に差し出した。
「……はい……」
「あ、ありがとう……」
「…………」
 レイは缶をシンジに手渡すと、冷蔵庫を開け、 ミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。
 冷蔵庫の上に乗っていたコップに水を注ぎ、ペットボトルを冷蔵庫にしまうと、 ベッドに腰掛ける。
 そしてそのままコップを見つめていた。
 まるで身体が固まってしまったかのように。
 昨日と同じ光景……
「……座らないの?……」
 レイがコップから目を離さずにシンジに言った。
「え、あ……」
 シンジはあわててパイプ椅子を引き寄せて座る。
 しばらくレイの方を見ていたが、レイはコップから目を離さない。
 シンジは手に持ったジュースの缶の方に視線を戻すと、 小さくため息をついて、缶のふたを開けた。
 カシュッ……
 乾いた金属音。中の液体を口の中に流し込む。
 何だかよくわからない味。初めての味がした。
(何だろう、これ……わからない……)
 こんなことも不安なのかな、とシンジはぼんやりと考えていた。
 ……わからないことが不安?
 でも、それがジュースの味だということは、わかっている。
 綾波が不安なのは、何が不安なのかがわからないこと。
 闇の中にいるような不安。見えないことの不安……
 もう一口、ジュースを飲んでみる。
 少しだけ、味がわかってくる。
 不安の解消。不安を考えることによる、不安の理解。
 そう、不安から逃げちゃダメだ……
 顔を上げてレイの方を見ると、レイはまだコップを見つめ続けていた。
「綾波……」
「……何?……」
 レイはコップから目を離さずに答えた。
 僕を見ない……僕の目を見ない……どうして見ない? ……不安……これも一つの不安……
「綾波の、不安のこと、もう少し、考えてみようよ……そうすれば、 何が不安なのか、わかるかも知れないから……」
 そう、不安と戦わなきゃいけない。シンジはそう思った。
 僕自身も不安を持っている。僕は今、何をするべきなのか。
 それがわからないから不安なんだ。
 綾波も、もしかしたら同じなのかも知れない。
 いや、何が不安なのかわからないだけ、綾波の方がもっと不安なんだ……
 不安って、何だろう。
 『人は闇を恐れ、火を使い、闇を削って生きてきたわ』……綾波が教えてくれた言葉。
 闇は不安。火は……火は、光。光は、希望……
 闇の中の灯し火……闇の中に射す、一筋の光明。それが、希望……
 そう、何を希望するのかがわかれば、何が不安なのかわかるかも知れない。
「綾波は……何か、希望はないの?」
「……希望?……」
「そう、希望……」


『何を望むの?』
……絆……
『絆?』
……そう、絆……
……人との、つながり……それが、絆……


 シンジはじっとレイの方を見ていた。レイはまだコップを見つめている。
 しかしその目の焦点は合っていない。虚ろな瞳。考える瞳。不安を恐れ、悩む瞳……
 ほんのわずかの空白の時間が過ぎ去る。たぶん一分にも満たない、短い時間。
 でも、二人にとって、長い時間……
 レイが小さな声を発した。
「……絆……」
「絆?」
「……そう、絆……」
「絆が欲しいの?」
「…………」
「じゃあ、絆が欲しくて、エヴァに乗ったの?」
「……わからない……でも、そうかもしれない……」
 絆。人とのつながり。
 何もない部屋で育った綾波。人とのふれあいもなしに育った綾波。
 前の綾波とは違う綾波。前の綾波が持ってた、わずかなふれあい、それさえも知らない、今の綾波。
 ふれあいの記憶だけを持っている、今の綾波……
「じゃあ、綾波も一緒なんだね、僕と……」
 シンジは持っていたジュースの缶に目を戻しながら言った。
 そして、気付いていなかった。レイの肩がわずかに震えたのを。
 ……同じ……碇君と、同じ? でも、私は私。碇君じゃないもの……
 レイの頭の中を、同じ言葉だけが駆け巡る。思考の迷路に落ち込んでいく。
 同じ? なぜ?
 ……わからない。わからないことが不安。わからないことがわからないのが不安……
「…………」
「…………」
 沈黙の時間が過ぎていく。お互いに、何も言い出せなかった。
 シンジは何を言っていいのかわからなかった。
 レイは何も考えられなかった。
 時間だけが刻々と過ぎていく。
 しばらくそうした無言の時が過ぎたところで、シンジが口を切った。
「あの……」
「……何?……」
「もう……帰らなきゃ……」
「……そう……」
 レイはやはりシンジの方を見なかった。
 コップを見つめているのではなかった。 その先にある空間を、ただぼんやりと眺めていた。
「あの……今日は、ごめん。その……力に、なってあげられなくて……」
「…………」
 ……どうして謝るの?……それに、何て言ったの? ……力? ……力って、何?……
「でも、あの……僕で、僕で良かったら、その……また、相談に乗るから……」
「…………」
 ……それも、葛城三佐の命令? ……それとも……
「あの……じゃあ、また、明日……」
「……うん……また、明日……」
 レイは最後までシンジの方を見なかった。
 僕はこのまま、帰ってもいいんだろうか……これもまた、不安……
 でも、シンジは何もできなかった。何もできない自分を知っていた。
 僕には、まだ何もできないんだ……
 ジュースを飲み干し、ゴミ箱代わりの段ボール箱の中にそっと置く。
 ドアの方に向かって歩いたが、レイは今日は付いて来てはくれなかった。
 やっぱり、何もできなかった……


 シンジが家に帰ったのは、9時過ぎだった。
 いつの間に、そんな時間が過ぎていたのだろうか……
 ミサトは早く帰ってきて食事に待ちくたびれたのか、 テーブルに積み上げられたビールの空き缶の中に突っ伏して寝ていた。
 ……レイのことが、心配なんじゃなかったの?



不安
何もわからない不安。
わからないことがわからない、不安。
でも、一つだけわかった。
私の不安は、絆。

『寂しかったの?』
そう。寂しかったの……


私の不安は、絆を求める気持ち。

既にある絆。
碇司令との絆。
みんなとの絆。

『まだ絆が欲しいの?』
そう……絆が欲しいの……
『それは誰との絆?』
わからない……
『それがわからないの?』
そう……わからないの……
『本当はわかってるんじゃないの?』
そうかもしれない……
『自分の心を、隠してるんじゃないの?』
そうかもしれない……

でも、わからないの……
わからないことが、わからないんじゃないの。
本当にそうなのか、わからないの。
今の自分の気持ちが……

この気持ち、どうすればいいの……



新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

To be continued...



Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions