お布施

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 坊主がホームページを開いた以上、避けて通れない話題だろうから、思うところを書き並べてみたい。

 お布施が話題になるのは、本来、金額に定めがないから「お布施」なのに、坊主の側から金額を指定されるからである。少なくとも、そう、理解されている。しかし、これは問題の捉え方が違う。もし、坊主の指定する金額が、想像していた金額よりも低ければ、それも、望外に低ければ、いくら金額を指定されても不満は出ないだろう。金額が想像以上に高額であるから、問題になるのだ。つまり、低額でも良いような気持ちにさせておいて、高額を要求されるから、腹が立つのだ。ありていに言えば、受け取る方が強欲で、出す方もケチだから、問題になるのである。お布施について、形而上学的な議論を繰り返してみても無意味である。

 お布施の金額を指定しない坊主は、良い坊主か。というと、必ずしもそうではない。もちろん、清廉故にお布施の額にこだわらない立派な坊主もいるだろうが、私のような極悪坊主も、お布施の額は言わない。なぜか。

 親鸞聖人は、ほとんどの人間は、煩悩具足の凡夫と喝破された。解りやすく言えば、フツーの人間は欲深い(=ケチ)ということである。もし、そうだとすれば、指定された額のお布施を支払ったケチは、自分が払ったお布施の元が取れたかどうか気になって仕方ないだろう。すると、坊主のお経や法話(説教)が、自分の払ったお布施に見合うものかどうか査定するに決まっている。「これは、5万円に見合うだけのお経か。」「これは、5万円に見合う内容のある話か。」云々。これでは、坊主の側が精神的に風下に立つことになる。私は、自由を求めて坊主になったのだ。査定されるなど、ご免こうむりたい。それに、第一、相手を精神的に有利な状態にしてしまうと、こちらの話に耳を傾けてくれなくなる。これでは、法話をする意味がない。こういう普通の人間にこそ、浄土真宗の話を聞いてもらいたいのに、である。

 逆に、お布施の額を指定しなければ、相手は、坊主を査定しない。なぜなら、大抵の人間は、ケチではあるが、ケチだと思われたくはない。だから、お布施の額を指定されなければ、金を出したくない気持ちと、ケチだと思われたくないという気持ちが葛藤する。自分で決めたお布施の額は、いずれこのような2つの煩悩の妥協の金額である。後ろめたさがつきまとう。だから、坊主を査定するほど強気にはなれないのである。これは、いい加減と適当を売りにする私のような極悪坊主にとっては、都合の良い状態である。

 そんなこんなで、私はお布施の金額は指定しない。自分のケチを棚に上げて、お布施について議論していると、私のようなお人悪の坊主に見透かされるのが関の山である。