寂然法門百首 100

2025.6.22

 


 


水流趣海法爾無停


さまざまの流れあつまる海しあればただには消えじみづぐきの跡

半紙

【題出典】『止観輔行伝弘決』五・中

【題意】 水流海に趣(おもむき)て法爾として停ることなし。

【歌の通釈】
様々の流れが集まる海があるので、ただでは消えまい、この百首の筆の跡は。

【考】
狂言綺語の和歌の流れは、行き着くところ実相の海に注がれる。教文を題としたこの百首は戯れ業ではなく、必ずや実相の海に導くものとなると自信をのぞかせる。その実相の理を縁として発心することこそが最上の発心であるという。つまり、和歌を詠むことは、実相を縁として発心する、すなわち天台の究極の教えである円教の発心につながるというのである。

(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

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【考】にみえる「狂言綺語」とは「道理に合わない言葉と巧みに飾った言葉。とくに仏教や儒教の立場から、いつわり飾った小説、物語の類をいやしめていう。また、転じて、すさび事、戯れ事、管弦などの遊びにもいう。きょうげんきぎょ。」(日本国語大辞典)との意味だが、和歌もまたその「狂言綺語」の類いと仏教からは軽んじられていた面があるのだろう。しかし、寂然は、その和歌も、仏教的な真理への導きになるのだと、この本の最後に述べています。

とくに、「ただには消えじみづぐきの跡」と、その自信のほどを力強く言い切るところに、感動を覚えます。自分が書いたものは、そう簡単には消えないぞ、という自信。それは、文筆に携わる人間の誰しもが、こころのどこかに潜ませているものでしょう。

ということで、ながながと(だらだらと)書き続けてきた「寂然法門百首」も、めでたく100回を書き終え、完結となりました。これを書き始めたのは、なんと、2019年1月4日でした。それから6年半も経ってしまったわけです。

「一日一書」と銘打っているのですから、そのとおりに書いていけば、100日で終わるはずですが、なまけもののぼくには、そんなことは到底できず、一回分を書くにも、どういう字体で書こうかと、一字一字を字典で調べていくのが、だんだん面倒になったりするうちに、ひどいときは年に数回しか書かないなんて事態となりました。

ちょうど半分くらいまで書いたころに、ファイルしてあるものを長男に見せたら、へええ、これはいいなあとため息交じりに言うので、まんざらお世辞でもあるまいと勝手に判断して、完結したらぜんぶお前にやるよ、と言ったのでした。それから数年たってやっとこそ完結したわけですが、100枚全部渡したら、かえって迷惑がるかもしれません。B4ファイル3冊にもなるので。

90を越えたあたりから、掲載していたgoo brogが11月でサービス終了とのアナウンスがあり、これはやばいと、突然スピードアップして、いままでのペースからしたら驚異的なスピードでむりやり完結させてしまいました。

ブログの方は、まるごと「はてなブログ」に移行できそうですが、そちらでの更新は、あまり考えていません。そのため、この「寂然法門百首」の100回分を「Yoz Home Page」に格納する作業を現在続けています。現時点で、71〜100までの格納を終了しています。これもなかなかメンドクサイ作業ですので、少しずつやっていこうと思っています。ブログでは、過去の記事を探すのが大変ですが、ホームページでは目次がありますから、すぐにアクセスできます。

いままで、ご覧頂き、どうもありがとうございました。心より感謝申し上げます。

 

 


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