1977年式 ヤマハ DT125M

(残念なことにAT125同様写真がない。)
1977年、史上初の一本サス、モノクロスサスペンションを装備した、DT250の最終型に遅れる事数カ月、排気料別に分かれていた呼び名を一本化し、呼び名の変わったDT125。(それまで90ccはHT90、125ccはAT125、250ccはDT,360ccはRT360というように分かれていたが、この前のモデルですべてDTとなった)。
免許取得後、最初に乗ったAT125からするとレーサー並に走破性が高められている。
2サイクルピストンリードバルブは同じだが、工作技術の進歩で、馬力が1馬力、トルクが0.1kgmアップしただけとは思えないほど走る。
特に燃費がすばらしい。確実に35km以上走った。タンクは7リッターしかないが250kmは走れるのだ。
モノクロスサスも素晴らしかった。それまでのトレール車は、スピードをあげていくと後輪が左右に大きくはね、どっちに飛んで行くかわからなくなったのだが、このサスペンションはリアタイヤの上下動を前後の動きに変換しステアリングヘッドで受けとめるため、前へ前へと進むのである。この感動は当時のバイク乗りにしかわかるまい。
今、2サイクルがなくなろうとしている。
もし1台だけ2サイクルを買うとしたら、これのセル付き最終型を選びたい。
林道、オンロードとも何でもこいのオールランダーだ。


ツーリングの思い出
77年に1年留年のあと高専を卒業したが、この年は開校以来最高の就職難となった。私のクラスは40人いたが、求人が40件ちょうど。成績順に行き先を選ぶ事になり、限りなく最下位に近かった私は愛知県から大阪本社の会社に行く事となった。
しかも、福岡支社に配置される事となったのである。
当時の最新型単気筒ロードバイク、SR400をお供に海の向こうへ就職した私が、地元のバイクのクラブをさがしたら、九州トレールクラブというのがひっかかった。
面接に行くと、一度いっしょに走ろうという事になり、SRで行く事となった。軽いツーリングのあと、オフロード車たちが山へ向かった。オンロード組は近くの河原でドリフトごっこである。山へ行った連中が気になり、次回はオフロードで、と決心た。
その夏、愛知の実家へ帰省した際、ヤマハオートセンター(現レッドバロン本店)で一番手ごろなDT125を購入、鉄道で発送してもらったのである。
そして秋、次のツーリングに参加した。
行き先は大分県の秘境、標高1140Mの万年山(はねやま)である。
本部のある甘木を出て観光写真で有名な三連水車を横目にみながら386号線を南下。
どこをどう走ったかは定かではない。
というより道を走った記憶がない。
このひとたちゃ人間じゃないよお。
なにせ,トップを3桁スピードでかっ飛ばしていくのはトライアルのセニア(今で言う国際A級である。)。
トライアルライダーがオフロードでは一番速いという真実は、このときに刷り込まれた。
この人たちに道は必要ない。
登山道を登り、沢を渡り、谷を走り、崖を登る。
ブーツを履いているのに、岩に足をぶつけ小指をくじき、前転して背中から落ちる。
もういやあ、こんな生活!と感じ始めた時、私の目の前に広がったのは。
遥か彼方まで続く草原。
すすきが風に揺れ、まるで、ナウシカになったかのよう。(ちなみにナウシカはずっとずっと後の公開となる)
そうか、今までの苦労はこの一瞬のためだったのかあ。
バイクをかついで崖の上に登ったのも今ではいい思い出である。
で、このツーリングで、クラブにはいるのを見送った。
やっぱ、命が惜しい。
オフロードファンはご存知のように、この人達は今でも健在で、たびたびバイク雑誌に登場している。(林兄弟、あんたたちのことだよー)
みんな20才分、年を重ねて。
あのツーリングが今の私に与えている影響は計り知れない。
バイクはやっぱり一生もんの趣味だ。


ヤマハDT125M 1977年にモデルチェンジ
最高出力14馬力 最大トルク1.4kgm
車重99kg タンク容量7リッター
6速
燃費平均30km/l
販売価格18万9千円



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