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呆然としていたら、ばっと、手の中からそれが、消えた。
はっとすると、顔を真っ赤にした彼が、目の前にいて。
「…見た、のか…?」
おそるおそるの言葉に、とっさにすみません、と謝る。
視線を落とすと、彼の足先が見えて。
「あ、いや、これは、その、そう!練習で…。」
ああ、やっぱり。では意味を知っていた、わけではないのだろう。
第一百人一首には恋の歌が多いから。たまたま、そうたまたまなんだろう。だから。
期待しないで、冷静に、冷静に。
混乱しかけている頭でそう考えていると、日本、と少し緊張した声に呼ばれた。
「はい?」
どうかしましたか。できるだけ平然を装って顔を上げると、何故かすごく真剣な瞳と目が合って、驚いた。
強い瞳。見つめられて、どきどきと、心臓が高鳴る。

「…あの、何か?」
しばらく続いた沈黙の後に、なんとかそう尋ねると、しってる、と一言。
「何を、ですか?」
「この、歌の意味、だ。」
「!」
目を丸くすると、そっと手を取られた。
さっきまで紅茶を入れていたから、手袋を取った手が触れる。緊張しているのか、冷たい手。
手に渡されるのは、その、彼が書いた、歌で。

「ずっと、言いたいと思っていた。…こんな形でしか、言えない臆病者、なんだが。」
好きなんだ、日本。…この身が焦がれるくらいに。

思わず、泣きそうになった。
そんな、の、だって、…ああ、嘘、全然思っていなかった、まさか両想いだったなんて!
「…答えを、聞かせてくれないか。」
声が震えている。彼も怖いんだ。なんてかわいらしい。でもそんなことを言ったら彼はすねてしまいそうだけれど。
うまく働いてくれない頬を動かして、けれど口で伝えるのは、どうしていいのかわからなくて、そうだ、と懐から手紙を取り出した。
声も出せないまま、目を閉じてそれを彼の胸に、押し付ける。
「?て、がみ?俺宛、か?」
こくこくとうなずくと、最後の封をしていなかったそれを、彼は開けて。
書いてあるのはとても、短い文章だ。
伝わるかどうかも怪しいけれど、今なら。きっと、今なら。彼はわかってくれる。

Fly me to the moon.

たったそれだけ、だけれど。曲を知っている、から。彼は。
だから、伝わる、はず。
私を月まで連れて行って、幸せにして、手をつないで、キスして、愛してる。
そんな回りくどい、この言葉が。


目を閉じたままでいると、心臓が耳にあるみたいに、どくどく大きな音がした。
何も言わず、けれどそれが、うるさくて。
全然沈黙に思えないでいたら、ぐ、と腕を引かれた。
体勢を崩して、彼の胸に飛びこんでしまうと、ぎゅ、と強い力で抱き寄せられて。
「っいぎりすさ、」
「日本。」
焦った声は、彼の強い声に、かき消されて。
にほん。もう一度、確認するように、呼ばれ、は、い、と答える。
「…日本。」
「はい。」
「好きだ。」
…なんて、綺麗な声で優しい声で、そう言うんだろう、彼は。
思って、小さく笑って。
私もです、と答えて、その背中に腕を回した。


そのとき、きん、と小さな金属がぶつかるような音と。


扉が開く、音がした、気がした。