寂然法門百首 3

2019.1.25

 


 


 

春陽之日遊戯原野

千歳ふる松もかぎりはあるものをはかなく野べに引く心かな

半紙

【題出典】

願春陽之日遊戯原野。(『法華文句記』)

春陽の日に原野に遊戯するを願う。

【歌の通釈】

千年を経るという松にも限りはあるのに、はかなく子の日の野遊に心を奪われ、小松を引くことだよ。

『全釈』による。

「題」については、前後関係が分からないとむずかしいところ。

普安という王様が、隣の国の四人の王様と話をしていたのだが、

普安は四人に、あなた方はそれぞれ、最も願うことは何か? と尋ねた。

すると、一人の王が、「春陽の日に原野に遊戯するを願う。」と答えた。

つまり、私は、暖かい春の日に、野原で遊びたい、ということだ。

それを聞いた普安は、それを批判して、

私は、「不生不滅不苦不楽を願う。それこそが仏の教えだからだ。」と言った。

それを聞いて、四人の王は、みな悟りを開いたというお話。

寂然は、このことを、「野遊」を

「子の日の遊び」(正月最初の子の日に、野に出て若菜をつみ、小松を引いて(引き抜いて)長寿を祝う風習。)

に置き換えて、歌にしたわけです。

千年生きるという松だって、命に限りがあるというのに、

それよりはるかに短い命しか持たない人間が、

野原で遊んでいてよいものだろうか、ああ、情けない、ということでしょうか。

4人の王様はみな普安に感化されて、仏の道を歩んだのでしょうが、

さて、この世の遊びに心残りはなかったのでしょうか。

限りある命なのだから、さっさとこの世の楽しみは捨てて

仏の道に精進せよという教えを、頭では理解できながら、

それでも、なかなか、捨てきれない。

「春陽之日遊戯原野」を願うのは、煩悩でしょうが、

また、魅力的だからこその「煩悩」だと言えるでしょう。

 


 

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