映画の「幸福」──溝口健二『山椒太夫』をめぐって


 「作品」というものは、どういうジャンルのものであれ、ある一定の「創造的行為」によって生まれる。それがどのような意図によるものであれ、「創造的行為」によって生まれたものは、「作品」である。その「作品」が「芸術」であるかどうかは別にして、「作品」は、それが人間の「創造的行為」であるが故に、尊い。そんな風にぼくは基本的に考えている。
 「愚劣な作品」というものはあるだろう。しかし、「愚劣な創造的行為」というものは存在しない。あるとすれば、それはすでに、「創造的行為」の名に値しないものだというべきだろう。勝っても負けても、野球選手はプレーそのものを楽しみ、生きるだろう。従って、「作品」の評価というのは、それがある一定の基準によってなされるのは仕方のないこと、あるいは野球の勝ち負けのように必然のことだとしても、絶対的なものではないとぼくは考える。「作り手の幸福」というものは、「批評」とは別の次元にはっきりと存在するのだ。
 ぼくの祖父は、町のペンキ屋の親方だった。職人を使う一方で、自分は、看板の字書きでもあり、また、風呂屋の背景画を描く職人でもあった。看板のペンキの字というのは、習字をやると、かならず「ペンキ屋さんはいけません」と言って、軽蔑の対象となった。つまり、一度書いた文字をなぞるなというわけだ。風呂屋の背景画も、「風呂屋のペンキ絵」と言って、馬鹿にされ続けてきた。最近でこそ、すでにそういうものが消滅しかかっているから、郷愁も手伝うのか、話題にする人もいるが、昔は決して芸術的な評価の対象にすらなりはしなかったのだ。祖父は、風呂屋で描くばかりでなく、油絵としてキャンバスやベニヤ板にもよく風景画を描いた。そういう絵を、職人の絵だといってぼくの父は評価しなかった。自分はそういう絵は描かないといって、「本格的な」油絵を目指した。しかし、父が祖父の絵を軽蔑していたかというとそうでもない。父は時々、祖父が風呂屋で絵を描くときの驚異的なスピードとそのテクニックを感嘆しながらぼくに語ったものだ。祖父の描く姿は見ていないが、祖父の絵が出来たというので、風呂に入りに行った覚えはある。その時は、たしか壮大な滝の絵で、大きな虹がその滝にかかっていた。その時の爽快な気分はよく覚えている。
 父の絵は、純粋な趣味として描かれたが、祖父の風呂屋の背景画は、依頼された仕事として職業的に描いたものだ。しかし、そこに創造の喜びがなかったわけではないだろうし、多くの人に一時の安らぎを与えなかったこともないだろう。そういう意味では、祖父の仕事は幸福なものであったと言えるのだ。
 出来上がった「作品」の評価は、様々になされよう。風呂屋の背景画のように、次々と上へ上へと描きかえられてついに最後には、風呂屋の閉店とともに跡形もなくなり、だれにも評価されずにおわる「作品」もある。そこらにあった紙にちょっとデッサンしたものが、額にいれられ何百万円という値段で取引される「作品」もあるわけだ。しかし、その出発点にかえれば、どの「作者」も、「作品」へのそれぞれの情熱に突き動かされていたことに間違いはないのだ。その情熱に強弱はあっても優劣はないのではなかろうか。
 なぜ、こんなことを書いたかというと、今度、溝口健二の何本かの映画を映画館で見る機会があり、さらに溝口健二の映画のLDを買い、特に『山椒太夫』をためつすがめつ見ているうちに、映画とはどんな風に「作品」となっていくのかについて、改めて考えさせられてしまったからなのだ。
 LDの『山椒太夫』には、副音声で、脚本家の依田義賢と、カメラマンの宮川一夫と、美術の内藤昭が白井佳夫の司会のもとに、映画と同時進行で座談会をやっているのが入っているのだ。それを聞いていて、実におもしろかったし、また考えさせられてしまった。ワンシーンごとに語られる撮影苦心談などを聞いていると、撮影現場のことなどまるで知らないぼくなどには驚くことばかりだ。例えば、安寿と厨子王が母と引き裂かれる海辺のシーン。舟のところへ安寿たちがやって来る場面で、手前に大きな枯れ木が倒れていて、その黒い枝が画面一杯に広がっているが、これは、わざわざこのシーンに入れるために京都から無花果の枯れ木を持ってきて、黒く色を塗ってそこに配置したのだという。あるいはまた、山椒太夫の屋敷のセットの地面は、荒れた凹凸の感じを出すために、一面ブルドーザーで掘り返し、後で撮影所の方から随分文句を言われたという。こういう話を聞いていると、美術スクッフなどの情熱やこだわりにほとほと感心させられる。それが監督の指示だからというよりも、撮影所システムの中で、それぞれの「職人」がフルに働いたということだろう。ここにも、「作り手の幸福」が見えるのだ。
 この辺の事情が最近ではひどく変質しているのは事実だろう。例えば、森田芳光の「それから」。全編に森田芳光の美意識がはりつめた映画だが、代介が百合の花を買う花屋が、現代そのままの花屋を使ってのロケというのが、見おわってもいつまでも喉にひっかかった魚の小骨のように気にかかる。どうしてこんな手抜きを平気でするのか不思議でならないのだ。「職人」の不在を感じざるを得ない。映画というものは、多くの「職人」たちの創造的行為の結晶として成り立っている。文学とは決定的に違うこの点に映画の「幸福」も、そしておそらくは「不幸」もある。

 LDの座談会で、ラストの海岸でのシーンになると、依田が、「さあ、始まりますよ。」と言い、それに続けて、白井が、「溝ロさんは、これが撮りたくてこの映画作った、てなようなものですものね。」と言う。この言葉が印象的だった。
 溝口自身は、この映画の制作意図として自分では次のように書いている。

 森鴎外という人は非常にヒューマニズムの高かった人であり、所謂歴史小説と云われている作品にもその精神が現れているが、その後軍人という身分の為に発表が制約され、「山椒太夫」では甚だ微温的な表現の、宗教の臭いの濃い作品になっている。しかし、時代が違えば宗教観も変わってくるし、もはや鴎外の描いた宗教観は現在の若い人達には不自然であつて、到底理解できないことであろう。
 私は鴎外が真に描こうと考えていたであろう原作の精神を汲み、物語の筋を合理的なものになおし、歴史的に深く突込んで描いて見ようと思った。意図するところは個人の人権の問題である。それを此の原作に仮托して冷静に描いて見たいと思うのである。

 この言葉に嘘はないだろう。確かに映画はこの意図に沿って厳密に作られている。しかし、一方では、厨子王と母との劇的な再会の場面を映像化することに監督溝口健二の最大の興味があったのではないかという白井佳夫の指摘は、映画作家の心を的確に掴んでいるように思うのだ。そのシーンを撮りたいために、この映画を作り、そして、このシーンを撮りたいために、苦手なシーンも、題材も、何とかこなしたというのが芸術家としての溝口の本音だったのかもしれない。
 依田が言うには、溝口健二は、最初八尋不二の書いた「原作に忠実」な脚本に不満を示した。その不満は「子供は困る」ということだったというのだ。つまり、溝口健二は子供が嫌いだったというわけだ。そのために、子供時代は、なるべく早くきりあげてしまい、映画の中心部では、安寿と厨子王はすでに成人した男と女になっている。そればかりか、キャストが先に、香川京子と花柳喜章に決まっていたので、年齢から言って原作の姉弟の設定はむりなため、兄妹に変更してしまっているのだ。
 純粋な芸術的な見地からすれば、本末転倒というべきことだろう。しかし、監督とて撮影所システムの中では一人の「職人」であるとすれば、やむをえない事態という他はない。そういう意味では『山椒太夫』は、妥協の産物とも言えるだろう。しかし、そうした妥協を溝口健二はむしろ逆手にとって、独自の作品世界を展開した。最も興味を感じ、最も力を入れたのがラストシーンであったとしても、そこまでの展開も溝口健二にはもちろん重要な課題であったろう。本心から言えば、あくまで二次的な興味の対象に過ぎなかった途中の展開部においても、溝口は決して手を抜くことはなかった。そればかりか、あくまで歴史を忠実に再現したいという情熱によって、鴎外が深く追求しなかった(あるいは立場上できなかった)問題にまで踏み込むことになった。それが例えば、日本に於ける奴隷の問題であり、溝口流に言えば「人権の問題」であった。そしてもう一つのテーマとして、仏教説話風の奇跡・霊験の物語からいかに脱却し、合理的な世界の中での信仰の意味をいかに描くかということがあった。溝口健二は宗教そのものを排撃しようとしたのではなく、現代にも通用する宗教観を提示したかったのだ。そのテーマの展開のために、姉弟から兄妹への変更が、非常に重要なボイントとなった。
 鴎外の『山椒太夫』を、実は十数年ぶりで読み返してみたのだが、その枠組みが映画ではなかなか忠実に踏襲されていることに意外な感じすらもった。しかし、作品全体から受ける印象はまるで違う。鴎外の『山椒太夫』は、作品全体が、仏の光に暖かく包まれている。それに対して、溝口の『山椒太夫』にはそうした仏教説話風の神秘性は全く姿を消し、現実の苛酷さ・残酷さが全編を覆っている。
 鴎外の『山椒太夫』の大きなテーマの一つは、その頃の鴎外の歴史小説の主要なテーマでもあった、「献身の美しさ」であろう。それは何よりも安寿の姿にはっきりと現れている。
弟を逃がそうと決心した安寿が、いよいよ決行となると、それまでの憂い顔が消えて、「喜びに輝いた顔」になる。

厨子王は杵をおいて姉のそばに寄った。
「ねえさん。どうしたのです。それはあなたがいっしょに山へ来てくださるのは、わたしもうれしいが、なぜだしぬけに頼んだのです。なぜわたしに相談しません。」
姉の顔は喜びにかがやいている。「ほんにそうお思いのはもっともだが、わたしだってあの人の顔を見るまでは、頼もうとは思わなかったの。ふいと思いついたのだもの。」
「そうですか。変ですなあ。」厨子王は珍しい物を見るように姉の顔を眺めている。

 突然弟といっしょに山に芝刈りに行きたいと、山椒太夫の息子二郎に頼んだ安寿に対して、厨子王は「珍しい物を見るように姉の顔を眺めている」と鴎外は書く。つまり、弟を救おうと決心した安寿は既にその時、仏に変わったのだとでも言いたげである。だから、安寿は山へ行くには男のなりでなければならぬということで髪を鎌でさっくり切られても、「喜びの色が消えない」。弟と山に出た安寿は「毫光のさすような喜びをたたえて、大きい目をかがやかしている。」そして、とうとう厨子王は姉に対してこう言うに至る。「そうですね。ねえさんのきょうおっしゃる事は、まるで神様か仏様がおっしゃるようです。」

 安寿のその「喜び」は、自己を犠牲にして弟を救うという行為への喜びなのである。そして安寿をそうした行為へと導いたのは、安寿が見た夢だ。安寿は厨子王としていた脱出の話を山椒太夫の息子三郎に立ち聞きされてしまい、恐れつつ寝ると、額に焼き錢をあてられるという恐ろしい夢を見る。はっと目覚めると、いつも持っていた地蔵仏の額に十文字の傷が鮮やかに見えたというのである。仏教説話風の奇跡物語だ。その傷を見たときから安寿は変わる。
このようにして、鴎外は、仏教説話風の枠組みの中に、単なる神秘的な奇跡物語を越えて、信仰の喜びを普遍的なものとして描き出そうとしたわけだが、こうした部分は溝口の映画からは注意深く除外されることになった。その際、姉弟から兄妹ヘの転換が重要な意味をもつことになった。では、その転換によって何が変化したか。
 まず、中心人物が、鴎外の小説では、あくまで安寿だったものが、溝口の映画では厨子王になる。
 小説の冒頭はこうだ。

 越後の春日を経て今津へ出る道を、珍しい旅人の一群れが歩いている。母は三十歳を越えたばかりの女で、二人の子供を連れている。姉は十四、弟は十二である。それに四十ぐらいの女中が一人付いて、くたびれた同胞二人を、「もうじきお宿にお着きなさいます」と言って励まして歩かせようとする。二人の中で、姉娘は足を引きずるようにして歩いているが、それでも気が勝っていて、疲れたのを母や弟に知らせまいとして、おりおり思い出したように弾力のある歩きつきをしてみせる。

 このように、鴎外の目は自然と安寿に向かい、その人格の気高さを早くも描こうとするのである。
 一方、映画冒頭の美しい山道のシーンでは、小暗い山道に一際輝いてまず登場してくるのは厨子王である。倒木の上を、軽々と楽しげに歩き、それを母があぶないですよとたしなめる。次のシーンでは、厨子王が、「お父様は偉いお方だったんでしょう?」と母に聞く。母がそうだと応えると、「やっぱりそうだったんだ」と厨子王は、明るい木々の中に走って消える。そして、回想シーン。ここでも主役はあくまで厨子王である。父が、幼い厨子王に向かって、「人は慈悲の心を失っては人ではないぞ。己を責めても人には情けをかけよ。人は等しくこの世に生まれてきたものだ。幸せに隔てがあってよいはずがない。」という教えを論す。(この台詞は、何度か映画の中で繰り返されるが、一つの簡潔な思想信条として、よく練られている。こうした思想的な堅固さがこの映画を格調の高いものにしていることも見逃せない。)そしてこれが父の心だと言って仏像を厨子王に与えるのである。こうした一連の冒頭のシーンでは、安寿は言葉すら発しない。
 父が筑紫へと左遷され、海辺の道を去っていく回想シーンの直後、そのまったく同じ場所に、あたかもその夫の後姿を見送るように笠に隠した母の横顔が画面一杯に映し出される。そのままカメラが右へ。ハンすると、海辺(実際のロケは琵琶湖であるという)の風景が広がる。それはまるでルネサンスの肖像画の後ろにひろがる風景のように美しい。この映画の中でも白眉のシーンと言えるだろう。その風景の中を、「厨子王も安寿もお父様の歩いた道を行くのですよ。」という母の言葉が通り過ぎる。ここまでがいわば、この映画の導入にあたる部分であり、そこには、父の歩いた仏の道を辿る厨子王というテーマが一貫して流れている。このように、話が厨子王中心に進められることによって、仏教信仰は、父から息子へ、徹底して行動原理として、生きるべき道として伝えられることになったのだ。これが、原作通りに、安寿が中心であったとすれば、困難な展開と言っていいだろう。一つの時代の女である安寿にとっての信仰は、「自己犠牲」に収斂していく他ないだろう。しかし厨子王に伝えられた信仰は、厨子王をつき動かす行動原理として、やがて社会そのものの変革に向かう広がりを持ちえたのである。
 以後の物語は、この父から受け継がれた仏の道の受難の物語である。こうした構造は、小説にはないものだ。鴎外がごくあっさり描写した山椒太夫の人物も、そしてその屋敷での奴隷の残酷な労働も、溝口は徹底的にリアルに描いていく。鴎外が、案外人の好いところもある人物として描いた山椒太夫を、溝ロは徹底的に残忍な人物として描く。そして、そういう山椒太夫をはっきりと否定する人物として、鴎外が最初から行方知れずとしていた長男を登場させて、そこに思想的な対立関係を生み出している。
 逃亡した者の額に焼け火箸をあてるという刑罰も、鴎外は三郎の脅しの文句としてだけ書き、実際のその惨たらしい現場は夢の中の出来事として描くのだが溝口はそれを現実のものとして描く。しかも異様な迫力をもって描くのである。溝口のサディズムということを言う者もいるが、しかし、それは単なる趣味の問題ではない。その惨たらしさは、溝口の映画にとっては、必須のものなのだ。現実はどこまでも悲惨をきわめ、惨たらしいものだというのが溝口の認識だろう。脚本の依田は「こんな残酷なシーンを書く依田という男はどんなにひどい男かと思われるでしょうが、本当は心優しいから書かないではいられないのです。」と語っているが、それは、その残酷さを要求した溝ロについても言えることであろう。
 厨子王は、この過酷な環境の中で、次第に自分の信仰を見失っていく。上役の命令とはいえ、逃亡に失敗した老人の額に平気で焼け火箸をあてるほどに心がすさむ。父から与えられた仏像を地に投げ捨てるほどになる。こうした展開の中で、安寿は一途な「尽くす女」として生きていく。仏のように厨子王を導く姉ではなく、ひたすら兄の身を案じ、その信仰の荒廃を嘆き悲しむ妹として、安寿は痛切な哀感をもって見る者に訴えかけてくる。鴎外の安寿は、仏の額を見た時から、言わば仏性を帯びて現実の世界を越えた者になっていくが、溝口の安寿は、どこまでも人間の悲惨さを一身に浴びながら仏の道を探し求める者としてとどまり、自身が仏性を帯びることはない。
 従って、逃亡の場面は、映画では当然のことながら、小説とは非常に異なった展開を示すことになる。小説では、逃亡が安寿の考えによる計画的なものだったのに対して、映画では、まず、仲間の女が重病のため山に捨てられることになり、その捨てる役に厨子王が当てられるというどこまでも酷い現実が発端となる。あたりに人骨の散らばる陰惨な山中に瀕死の女を捨てにいくという地獄的なシーンが、次の安寿と厨子王の和解のシーンを用意する。捨てられた女にせめて夜露を凌げるようにと木の枝を集めているうち、同じように筑紫へ向かう途中の野宿で同じことをしたのを思い出す。その時、幻聴のように二人を呼ぶ母の声が聞こえてくる。厨子王は自己を取り戻す。そして安寿に向かって逃げようと言う。安寿はこの時、はっきりと自分を犠牲にして、兄を助けようと決心するが、それは追い詰められたとっさの決心であって、決して鴎外が描くように仏の心を我がものとした結果の「自己犠牲」ではない。日常の尽くす心の行き着く結果の「自己犠牲」なのだ。安寿に毫光がさすことはないのである。兄を逃したあと、安寿は入水するが、そこにも信仰の喜びよりも、尽くす女の悲哀が痛切に感じられる。安寿の体が腰位まで水に入ったところで、安寿の方に向かって懸命に手を合わせて祈る老婆の姿のシーンに切り替わる。そして、次のシーンには、湖面に虚しく広がる同心円の波紋だけが写されるのである。美しく、静かだが、その美しさ、静けさは、一人の薄幸の女の悲哀の昇華したものとして胸に迫ってくる。そしてその悲哀は、瀕死の状態で、動物のように捨てられる女の悲哀と何ら変わるものではないのである。震えながら祈る老婆の姿は、実に印象的で、この老婆の姿こそが溝口の心ではないかと思えるほどだ。おそらく溝口にとって、信仰とは、一つの悟りの境地としての「安心立命」ではなく、辛い現実を懸命に生き抜くことそのものとして考えられているのではなかろうか。
 このようにして、溝口は、山椒太夫とその息子の対立、安寿と厨子王の対立と和解というように思想的なドラマを新たに設定しつつ、「人権」と「信仰」の問題を掘り下げる形で、話を進め、そして、そのうえで、念願のラストシーンに入るのだ。
 仏の加護や霊験によって国守になれたという筋書きを注意深<避けながら、あくまで、仏の道を歩んだ厨子王が、その父の立派な所業によって国守に取り立てられるという展開は、そのまま、丹後の国での「改革」の断行という話に突入していく。そして、その急激な改革は結局、せっかく手にした官位を捨てざるをえないという結末になる。官位を捨てた厨子王は、母を探しに佐渡に渡る。母の方はどうなっていたのか。小説では、佐渡で「鳥追い」をさせられたとしか書かれていない。柳田国男によれば、この「鳥追い」というのは、一年を通じて必要とされた重労働であったという。それほど、農民にとって鳥は重大な被害をもたらすものだったというわけだ。しかし、溝口はそれでも足りないとばかりその母にもっと過酷な現実を味わわせた。すなわち漁師相手の女郎部屋に売られ、遊女となったが、何度も島を抜け出そうとするので、とうとう足の腱を切断されるという運命にさらされるのである。そのあげく失明して、土地の者からもさげすまれて、海女小屋に住む老女と成り果てる。その母を厨子王は尋ねあてるのである。小説では、母は厨子王の持つ仏像の功徳によって目が開き、その開いた目で厨子王を見て、

「厨子王」という叫びが女の口から出た。二人はぴったり抱き合った。

という結末を迎える。しかし、映画はこうした切なくも甘美な終末を許さない。母は、厨子王だと名乗られても、自分をからかうのはやめてくれと取り合わない。しかし、その仏像を渡され、それを手でなでて形を確かめたとき、初めて厨子王が来たのだと納得するのだ。「厨子王、厨子王」と呼びながらわが子を抱く母から、「あなた一人ですか」という言葉がもれる。この言葉は、真に感動的だ。母は厨子王との再会の喜びよりも、娘と夫の死の悲しみにうちひしがれる。この母の描きかたの深さには、本当に驚かされる。この深みは脚本の力にもよろうが、田中絹代の迫真の演技によるところも大きい。盲目のままの母は、悲嘆にくれながらも、「あなたが、お父様の教えを守ったから、こうして会えたのかもしれませんね」と呟く。「再会」は、仏の功徳によってではなく、仏の道を厨子王が実践したその報いとして果たされたのだというのだ。
 再会して抱き合う母と子をそこに残して、カメラは再び移動撮影によって、もとの海岸に戻り、そこで、海藻を拾う漁師の姿を映しながら終わる。こうしたラストの一連の長回しは映画史上あまりに有名になったが、その映像の美しさと、人間への洞察の深さによって、この映画は、鴎外の小説をはるかに凌駕した作品となっている。
 溝口はしかし、この映画が、「無常感のただようものになってしまった」ことを随分気にしていたという。溝口としては、もっと、生きる喜びを感じさせるような映画にしたかったのかもしれない。しかし、作家自身がどう思おうとも、このラストシーンには、表現したいものを十分に表現しえたという監督溝ロ健二の喜びが滲み出ている。
 ところで、この有名なラストシーンは、ロングショットはロケ、クローズアップの場面はセットの撮影となっている。前述の座談会で、宮川一夫が、「このセットの場面は照明が難しくてね。岡本君、うまくやったなー」としみじみと語っている。ロケでの光とセットでの光が、まるで違和感なくつながる見事さは、照明の岡本健一のまさに職人芸的な技術によるということなのだ。こうした座談会でもないかぎり、ぼくら素人には到底測り知ることのできない様々な苦労によって映画が成立していることを思うとき、やはり映画は「幸福」な芸術であると、つくづく思うのである。

 


「FB」創刊号 1993秋 所収


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