高校生と近代詩


 詩の授業には、忘れられない思い出がある。

 国語の教師となってまだ日も浅いころ、当時勤務していた都立高校三年の現代国語選択の講座で、一年間、詩をやってみたことがある。その選択講座は、一種のゼミ形式で、教師が好きなテーマで講座を設定し、生徒はそれを自由に選ぶというものだった。私は、「詩」の講座ということならば、そんなに多くの生徒は集まらないだろうから、小人数で和気藹々のうちに授業ができるだろうと予想していた。ところが、どうしたことか、実際には五十名近くの生徒が集まってしまった。しかも女子が八割ほどという大変アンバランスなクラスが出来上がってしまったのである。そして最初の授業。その学年には全くなじみのなかった私は、まず生徒との「よい関係」を作るべきであったのに、いきなり座席の決め方をめぐって、生徒と激しく衝突してしまった。生徒のほうは、選択科目だということで、一種の開放感があり、座席も自由でよいものと思っていたらしかった。私も初めはそれでよいと思っていたのだが、生徒の落ち着きのなさに腹をたて、座席を指定したのだ。その時の生徒の反応といったらなかった。教科書を机に叩きつける者、もう先生の授業なんかに出たくないと金切り声で叫ぶ者。そういう中で私の一年間の「詩の授業」が始まったのだった。

 その次の授業。生徒は私の指定どおりの座席についていたが、ほとんどのものが顔を上げず、私の冗談にもクスリとも笑おうとはしなかった。「関係」は最悪であった。よく言われることだが、授業は一種のドラマである。「観客」が白けていたのでは、ドラマは成り立ちようもない。私は途方にくれてしまった。

 私の当初の計画は、詩をいきなり読むのではなくて、まず「詩とは何か」というところから考えていこうというものだった。そこで教材として、山本太郎著『詩の作法』(現代教養文庫)を一人一人に持たせ、「読む」よりも「書く」という面から詩の技法の考察を始めた。「読む」ことも積極的な言語活動には違いないが、やはり「書く」というより能動的な行動を念頭に置く時、詩の技法も切実なものとして理解されるのではないかという期待があったのだ。しかし、その期待もみごとに裏切られた。そもそも五十名近くの生徒が、「詩」の講座を選んだ理由というものが、多種多様であった。詩が好きだからという生徒ももちろんいたろう。しかし、大部分の生徒は、詩のほうが小説より短いから読むのが楽だろう、というぐらいの気持ちで選んだらしいということに気づかざるを得なかった。明らかに生徒は退屈していた。授業中、関係のない本をこれみよがしに読む生徒がいたり、女子の生徒のなかには鏡をだして髪をとかす者までいた。それをどなりつけることは簡単だった。しかし、それで事態が好転するわけではなかった。英語や数学など、教える内容がはっきりと決まっている教科と違い、詩の鑑賞などの授業においては、一方的な押しつけは最も避けなければなるまい。詩はなんといってもまず感情の問題である。授業で扱われている詩が、生徒にしみじみとした感動を伴って受け入れられるためには、教室の「空気」そのものが何よりも大切になる。その「空気」を作り出すために、教師はあらゆる手を尽くさねばなるまい。ところが、どんなに手を尽くしても、依然としてその「空気」は冷えきったままだった。

 木曜日の三・四校時は、こうして、私にとって魔の時間となっていった。しかし「どんなにつらくても、授業内容で勝負するしかない」という同僚の教師の言葉に支えられ、なんとかわかりやすく詩の本質を理解させようと心を砕いた。二か月ほどたつと、指定座席は次第に守られなくなったが、前二三列に坐る生徒が熱心に授業を聞いているのに気がついた。後ろのほうに坐る生徒は、完全に「お客さん」になってしまっていたが、もう気にしないことに腹を決めた。彼女らは、四校時も終わり近くになるとそわそわしだし、校門のところに来てクラクションを鳴らす「彼」に教室の窓から手を振る始末だった。それでも、私は叱らなかった。叱りつけて聞かせるのが「詩の授業」ではないのだ。彼女らが興味をもたないのは、彼女らのせいではない。無礼な態度には腹はたったが、彼女らに興味を持たせることのできない自分の無力を反省しなければと、必死で自分に言い聞かせた。心の中は煮えくりかえる思いだった。

 そうこうするうちに一学期が終わった。いちおう十数名の「支持者」は獲得したもののそれでいいとはとうてい思えなかった。そして、一学期の授業を反省してみて、やはり詩の技法や本質といった理論的な側面から迫るというのは無理があるのではないかと考えた。ある程度の無理は最初から承知の上だったが、生徒の反応を考えると方向転換はやむを得ない状況と思えた。それまで私は、詩の鑑賞は「作品のみ」で行うべきもので、作者の伝記などは無用であるという基本的立場をとっていたが、ことここに至り、思い切ってその立場を捨て、詩人の伝記中心の授業に切り換えてみようと思った。そもそも「作品のみ」という立場は、かなり高度な鑑賞の立場なのではなかろうか。それは、言葉に対する研ぎ澄まされた感受性を要求されるし、また空を翔るような豊かな想像力も必要であろう。それをいきなり高校生に要求するのは酷ではなかろうか。それよりは、波瀾に富んだ詩人の生涯をたどりつつ、その時々に書かれた詩を味わうというほうが、生徒にとっては興味深いのではなかろうか。およそ、こんなことを考えたわけである。

 二学期。まず、室生犀星から始めた。明らかに生徒の反応が変わった。生まれて間もなく貰い子に出され、養母に虐待されて育った犀星の話は、生徒の興味を引いたようだった。次に中原中也の生涯を辿った。早熟で、天才と言われながら、ドロップアウトして激しい恋に生きた中原中也の生き方は、更に生徒の興味を引いたように見えた。それで私は、かなり難しいとは思ったが、中也の一連の恋愛詩をとりあげてみた。『山羊の歌』の中から「盲目の秋」「妹よ」「無題」といった比較的長い作品を続けて読んだのだが、その時びっくりするようなことが起こった。今まで後ろの席に坐って、髪をとかしたり、クラクションの音に窓へ駆け寄って手を振ったりしていた女子生徒たちが、それこそ真剣に目を輝かせて、頷きながら聞いていたのだ。

 私の聖母(サンタマリア)!
   とにかく私は血を吐いた!……
 おまへが情けをうけてくれないので、
   とにかく私はまゐつてしまつた……
 それといふのも私が素直でなかつたからでもあるが、
   それといふのも私に意気地がなかつたからでもあるが、
 私がおまへを愛することがごく自然だつたので、
 おまへもわたしを愛してゐたのだが……
                        「盲目の秋」

 こうした詩句に何の説明もいらなかった。彼女らは涙さえ浮かべかねないほどに感動していた。

 中原中也が終わり、萩原朔太郎に入ると、また彼女らは興味を失ったようだったが、それでも授業態度は格段によくなっていた。そして、最後の授業が終わった教室で、彼女らは仲間どうしでこんなことを言いあっていた。「この授業とって正解だったね」「うん、よかったね」私は、そんな言葉をなかば苦々しく、なかばうれしく聞いたものだった。人の苦労も知らないで勝手なことを言うもんだと思いつつも、それでも一年間やって何編かの詩が本当に心に触れたのならそれでいいじゃないかとも思ったわけである。

 「詩は扱いにくい」とよく言われる。生徒も詩をやると言うと、たいてい嫌な顔をする。彼らも「詩はわからない」と思っているのだ。しかし、本当にそうだろうか。詩が青春の文学であるならば、詩こそ高校生にとって最も身近な文学であるはずだ。それがそう思われていないというのは、一つには教科書の問題があるのではなかろうか。今手元にある国語1の教科書の詩の教材を見てみると、石垣りん「空をかついで」・高村光太郎「レモン哀歌」・中野重治「歌」の三編が並んでいる。この三編をただ型どおりに読んだのでは、生徒が詩に興味を持つようになるとはどうも思えない。高校生はまさに青春の生々しい現実を生きている。その生々しい現実のなかでもおおきな比重をしめるのは、「愛」の問題であろう。その中でも「恋愛」が彼らの重大関心事であることは今更言うまでもなかろう。現に彼らはおびただしい歌謡曲やポピュラーミュージックの歌詞にその渇きを癒している。その中で国語の教科書は、いまだに「レモン哀歌」一編で「愛」をかたづけようとしているかのように見える。

 いつぞや、研究授業で萩原朔太郎のやりきれない性の悩みを歌った一連の詩を扱ったところ、後の反省会で「萩原朔太郎はセックスだけじゃありません」とのお叱りを受けたが、しかし、朔太郎にとって「性」が切実な悩みであったことも確かなことなのである。そして、それは形こそ違え、高校生にとっても大きな問題であることもまた確かなことだ。それならば、そうした「性」の間題から朔太郎の詩に近づいていくのもあながち無謀とも言えないだろう。

 いずれにしても、とにかく辛かった一年間の詩の授業を通じて、生徒にとって切実な問題にかかわる詩であれば、表現がどんなに難解であっても生徒はそれなりの感動を受け取るものだという、極めて当たり前の真理を悟ったわけである。そしてまた、恋愛詩こそ彼らを最もストレートに打つものであるということも。

 「もっと恋愛詩を!」それは詩の問題にとどまらず、頽廃した世相のなかで、真の「愛」の姿を生徒に考えさせる意味でも、重要なことと思われる。


高校通信・東書・国語・262号 (1986.5.1発行)


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