はじめとおわり


 芥川龍之介の長男、芥川比呂志の著書に「はじめとおわり」というエッセイ集があった。大学生の頃、友人が面白いというので買って読んだのだが、内容は覚えていない。ただその題名だけが鮮明に記憶に残った。芥川比呂志は演劇人だったから、おそらく舞台というものについて考えたときに、必然的に「はじめとおわり」ということを考えたのだろうと思う。

 幕の上がらない舞台はないし、幕の下りない舞台もない。幕が上がって、なにがしかの出来事があって、幕が下りる。その三段階において、では何がもっとも大切なのか。常識的に考えれば、真ん中の「なにがしかの出来事」であろう。つまり中味だ。中味のない芝居なんて意味がない。けれども、その中味は、幕が上がるからこそ存在しうるのだ。幕が上がらなかったら中味の存在のしようがない。いやそんなことはない。中味は最初からあって、その中味を見せるために幕が上がるにすぎないのではないかとの反論もあろう。果たしてそうだろうか。

 もちろん、芝居を演じる時には、中味の練習をする。アドリブ劇でもないかぎり、決まった科白を懸命に覚える。だから、中味は幕が上がろうが上がるまいが、はじめからある。けれども、それはあくまで演じる側の問題だ。劇場に来た観客にとって、幕が上がらなかったら、その芝居はないのだ。そして実はそのことは、演じる側にとっても同じことだ。いくら練習を積んできても、幕があがらなかったら、その芝居はやはり存在しない。幕が上がることによって、はじめてその芝居は演じるものにとっても、観客にとっても存在しはじめるのだ。

 幕が上がる、つまり「はじめ」によって、すべてはこの世界に存在しはじめる。それはいちおう誰でも納得のいくことだろう。では、「おわり」はどうなのか。

 芝居の幕がいつまでたっても下りなかったらどうなるか。演じる方は疲れてしまう。それよりなにより、科白がなくなってしまう。アドリブにも限界がある。結局、芝居はかならず途中で無惨に崩壊したまま続くことになる。観客にとっても幕の下りない芝居は悪夢でしかない。「おわり」があるからこそ、観客は安心して観ていられるのだ。

 こう考えてくると、一番大切なのは、「はじめ」と「おわり」なのであって、中味ではないのではないかと思えてくる。言い換えれば「はじめ」と「おわり」さえあれば、中味はなくても芝居は成立する、ということだ。まずとにかく幕が上がる。舞台に何人かが立っている。そのうち音楽が流れて、何人かが倒れる。そして幕が下りるという3分の芝居があったとしても、おかしくない。何が何だかわからなくても、一応は芝居といえる。「はじめ」と「おわり」があるからだ。いつまでたっても幕の上がらない芝居よりましだし、夜が明けても幕の下りない芝居よりもはるかに体によい。

 「はじめ」はものごとをこの世に存在させ、「おわり」はものごとに形を与える。そういえば小林秀雄は「生きている人間はなんだか頼りなくていけない。そこへいくと死んだ人間ははっきりとした形をもっているからいい。」というようなことをどこかで言っていた。

 芝居の「おわり」と人生の「おわり」は似ているが、違う。芝居は、作者が終わらせることができる、つまり「おわり」をコントロールできるが、人生はそうはいかない。ぼくらは「おわり」のあるのことを知っているが、それがいつ、どのような形で訪れるかを知らない。自分の人生に強引に形をつけようとして自ら死を選ぶ人もいるけれど、人生はぼくらが考える以上におおきな形をしているものかもしれない。自殺はその可能性を自ら封じてしまうことになる。「おわり」はいつか確実にやってくる。その「おわり」が与えてくれる形にむしろ期待しながら、ぼくらは生きていくべきなのだ。

 「おわり」は、単なる「おわり」ではない。それは「はじめ」の予兆でもある。劇場の幕が下りたあと、ぼくらが星空を仰いで家路をたどるとき、こころのどこかがふるえているのは、これから上がる幕をどこかに期待しているからだろう。それは、お通夜の帰り道、ときにぼくらを襲う感慨にどこか似ている。


栄光学園国語科「窓」vol.11 (2005.3.2発行)


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