映画・時間・物語

候孝賢「冬冬の夏休み」をめぐって


 『冬冬の夏休み』を映画館の一番前の席で、暗闇に包まれるようにして見ていたとき、突然涙があふれでたシーンがあった。気難しく厳しい冬冬の祖父が、冬冬と並んで応接間のソファーに座り、電蓄にレコードをかける。そして昔のアルバムをひろげる。レコードから流れ出す音楽はスッペの『詩人と農夫』。レコード特有のノイズの多い音楽が滔々と流れる中で、祖父と孫はセピア色の写真に見入り、祖父が何やら懐かしげに語る。そして突然カメラは広々と広がる農村の風景を映し出す。大きな木の緑がスクリーンいっぱいに広がる。僕は涙が止まらなかった。

 突然の涙の原因の一つが、その曲によることは確かだった。スッペの『詩人と農夫』という曲は、いわばクラシック音楽の入門曲のようなものであって、ある程度クラシックにのめりこんでくると、ばかにしてもう聞かなくなる類の曲である。ぼくの場合も、中学生になった頃、親にねだってようやく卓上の電気蓄音機を買ってもらい、十七センチ盤のレコードでこの曲を飽くことなく聞いたものだった。その後ほとんどこの曲を聴くことなく過ごしてきて、突然この映画の中での「再会」だったのだ。それは、ぼくに忘れかけていた中学生の頃の自分が置かれていた環境を思い出させるのに十分だった。しかし、それにしても、この涙は、懐かしい曲との「再会」だけではどうにも説明のしようがなかった。いったい、そのシーンのどこにそんなに心を動かされたのだろうか。

映画というのは、ある特別な時間を、まるで風船の中に水を入れたように、フィルムの中に閉じ込めたものではないかと、時々思う。水を閉じ込めた風船は、たしかな重みをもっていて、不安定にタプタプと揺れながら、しかも、その形を保っている。しかし、その風船の一か所が破れるや、水は一挙に外に向かって流れ出す。ぼくが『冬冬の夏休み』のワンシーンで、突然涙を流した時、ちょうどそのようなことが起こったのだといっていい。映画の中に封じ込められた時間が「ぼくの時間」として、ぼくの心の中へ、奔流のように流れ込んだ。そしてそれは、ぼくの心の奥底に封じ込められていた時間と瞬く間に合流し、ぼくは至福のひとときを味わった。言ってみれば、ぼくの中の「失われた時間」がよみがえったというわけだ。

 映画の中の時間がそのような仕方で外に向かって溢れだすということは、その時間がまさに「生きた時間」だということだ。『冬冬の夏休み』にはそのような「生きた時間」が豊かに流れている。もちろんすべての映画がこうした時間をもっているわけではない。むしろ、多くの映画がもっている時間というのは、風船の中の水のような流動性に富むものではなく、固形化してしまっているものが多いと言える。

 例えば、山田洋次の『男はつらいよ』のシリーズ。この一連の映画の中に流れている時間というのは、一定の枠の中に完全に閉じ込められてしまっている。それは個々の登場人物が、すでに「生きるべき時間」というものを最初から、いわば宿命的にもっていて、その枠の中でしか行動しないからである。寅さんは、自由気儘に生きているようでいながら、実は寅さん以外の何者にもなろうとはしていない。寅さんは、寅さんであることに十分に自足していて、その役柄らしくふるまうだけだ。観客もまた寅さんの変身など願ってはいない。寅さんが、寅さんらしくふるまえばふるまうほど、観客は楽しめる。「ホラ、帰ってきたばかりなのに、また喧嘩した。」「ホラ、また出ていってしまった。」「ホラ、また振られた。」このルーティン化した筋立ては、無限のヴァリエーションをもって、観客をいつまでも楽しませ続ける。その意味で『男はつらいよ』は、観客が虚構の中に身を置いて、最後まで安心して楽しめる極上の娯楽映画なのだと言えよう。これをマンネリズムの極みとして批判するのは見当はずれというものだが、しかし、それと同時に、ぽくらがこの映画から、人間に関する新鮮な発見をすることも難しい。

 『男はつらいよ』は、寅さんという現実ではありえない主人公を登場させ、庶民的ではあるが、庶民の生活そのものではない虚構の家、「寅屋の一家」を主たる舞台にして、たった一つの結果のわかった物語の無限のヴァリエーションを提示する。その楽しさは無類のものだが、その映画の中から、生き生きとした時間がぼくらの心の中に向かって流れ込んでくることはない。『男はつらいよ』の物語は、いわばひとつの「閉じた体系」をもっていると言えるだろう。

 同じように「閉じた体系」をもつものに、例えば『ホームアローン』などの系列の映画がある。ひとりの子供が、家族旅行の際に家に忘れられてしまい、泥棒と大格闘をして、自分の家を守るという「物語」だ。こういう類の映画は、一見時間は自由に流れているように見える。これからどうなるのかという興味で引っ張って行く映画は、時間がどのように経過するかわからないということを前提としているから、時間はどの方向へ向かって流れるかは全く自由であるかに見える。しかしながら、この種の話は、必ずハッピーエンドが強要される。最後に主人公の子供が泥棒に殺されてしまったのでは話にならない。従って時間はひたすらハッピーエンドに向かって突っ走るしかないのだ。ぽくらはそれを前提として、その子供がどんな知恵と勇気で、泥棒に立ち向かうかということに興味を集中させていく。次から次へといろいろなアイディアを繰り出して、間抜けな泥棒をてんてこ舞いさせる少年に、観客は拍手喝采を送ることになるだろう。

 この映画を、中学一年生の海のキャンプの夜の出し物として上映した時の事だ。いよいよ、泥棒が家に入ってくるという段になったとき、「さあ、これから楽しみだなあ。おもしろいぞ。」という声が、生徒の口から洩れた。その言葉を耳にして、映画の素朴で最も原点にある楽しみは、こういう所にあったんだなあと、しみじみ感ずる所があった。考えてみれば、ぼくも小学生の時、東映で作った『里見八大伝』を、それこそ夢中になって見たものだし、テレビの『月光仮面』も『アラーの使者』も『少年ジェット』もみんなそんなふうにして見たのだった。そして、こういう楽しみは「正義は必ず勝つ」というハッピーエンドによって保証されているのだ。月光仮面が死ぬかもしれないと本気で思ったら、楽しんでなんかいられない。(いや本当は楽しむどころか、月光仮面がやられやしないかとハラハラしていたのだったっけ?……)

 この種の映画においてもやはり時間は一つの閉じた体系をもっていて、ぼくらはその体系の中で楽しむ以外にはない。それはそれで娯楽としての映画の十分根拠のある楽しみ方だ。しかし、そういう映画の中に、真実の人間の姿を見いだすことはなかなか難しいし、そんなものを求めること自体、野暮というものだろう。

 月光仮面の荒唐無稽さはさておくとして、例えば『ホームアローン』の主人公の子供は、大人の観念が生み出した「子供らしさ」に基づいて造形されていて、現実の子供からはかけ離れている。この映画でぼくが大嫌いなのは、少年が近所のみんなから恐れられているお爺さんに、教会で「説教」する場面とその「説教」によって、考えを改めたお爺さんが息子に再会する様子を少年が自宅の窓から満足気にながめるラストの場面である。アメリカ人というのは、どうしてこんなコマッシャクレタ子供に魅力を感じるのだろうか。そこには、大人の雛形としての子供、要するに、小さい大人がいるだけである。子供の夢というのも、大人が勝手にこんなもんだろうと考え出したものにすぎない。そして、その役を達者にこなせる子役がいたということが、この映画を成功に導いた。しかし、子役は、考えてみれば、「子供」を演ずる「子供」ということであって、たいていは大人の考えによってすでに本当の子供らしさを失ってしまっているものだ。

 『ホームアローン』は、ハッピーエンドに向かう物語展開のために、主人公の子供が子供として描かれないという結果に終わった。「幼い子供が知恵と勇気で我が家を守る」という物語の枠組みが強固すぎて、全てがその物語の成立のために奉仕せざるを得なくなっている。一人家に取り残された子供が普通感じるであろう、得体の知れない孤独感も恐怖感も、そういう時の時間の異様な長さもここではすべて捨象される。従って、ここでも、ぼくらは子供の大活躍に大喜びをして楽しんだとしても、子供について何か新鮮な発見をすることはないし、ぼくらの子供時代に時間を重ねて涙することもない。そこに流れているのはあくまで「作られた時間」であって、「生きた時間」ではないからだ。

 映画の中に「生きた時間」が豊かに流れるということは、ひとえに登場人物が本当に生きた人間かどうかにかかっていると言えるだろう。そして本当に生きた人間というのは、現実の世界を生きている普通の人間をおいて他にない。虚構の中の人間も、現実の人間のリアリティを獲得して初めて生きた人間となる。だから小説でも映画でも、作家はいかにして登場人物にリアリティを付与するかに腐心することになる。しかし、いちばん確実な方法は、普通の人間を普通に描いてしまうということだ。『冬冬の夏休み』は、普通の人間を普通に描くことで、この生きた時間を映画の中に見事に流れさせることに成功した希有の例なのだと言えるだろう。

 この映画に流れている時間は、何も特別なものではない。ごくありふれた少年の、ありふれた時間に過ぎない。母が入院中の兄と妹が、母の里のお爺さんの家で夏休みを過ごし、そこで様々な事件(それもそんなにだいそれたものではない)に出会うという話だ。しかし、たったそれだけの話が、なぜ、こんな豊かな映画となって成立するのだろうか。それは何よりも、細部の繊密な描写によるのだといっていいだろう。その細部のもつリアリティが「生きた時間」を映画の中に流れさせるのだ。

 映画の最初の方で、冬冬(トントン)たちが田舎にいくということになって、冬冬の叔父さんの昌民(チャンミン)とそのガールフレンドの碧雲(ビーユン)が同行することになる。昌民は人はいいが、だらしのない男として、あとでも問題を起こすのだが、そのガールフレンド碧雲の人間性も、この列車の中での描写で実に精密に描かれる。列車に乗り込む直前になってオシッコに行きたいと言いだす冬冬の妹ティンティンだが、間もなく発車してしまうということで乗ってしまう。昌民は、列車が動きだしてからトイレに行こうとティンティンに言うが、ティンティンは列車が動くとオシッコが出なくなるんだと冬冬が言う。それは大変だと、昌民はティンティンを抱いてトイレに連れていくが、列車は動きだしてしまう。なかなかオシッコのでないティンティンをトイレの外で冬冬と昌民が気づかっているところへ碧雲がやって来て、さきほど昌民から買ってもらったブラウスを早く着たいというのである。この碧雲の「早くブラウスを着たい」ということばは、軽いショックをぼくらに与える。普通の話の進行ならば、ここで当然女である碧雲が、かいがいしくティンティンの世話を焼くということになるはずなのだ。ところがそうならない。そこにぼくらは違和感を感じるわけだ。つまり、この違和感というのは、映画のもっている一般的な物語性を軽く踏み外す所から生じている。それは現実そのものがもっている棘のようなもので、その棘が映画の中に出てくることで、ぼくらは改めて現実に目を見張るということになる。さらに話は進んで、ようやくトイレから出てきたティンティンは、スカートもパンツもびしょ濡れにしてしまっている。大慌ての昌民をそこに残して、碧雲はさっさとトイレに入ってしまう。席に戻って昌民は、一生懸命ティンティンのパンツをはきかえさせるのだが、ティンティンはこのパンツは嫌いだとか駄々をこねる。やっとのことで。パンツをはかせたところへ、碧雲が新しいブラウスを着て戻ってきて、「どう、似合うかしら?」と言う。ティンティンのことなど眼中にないのだ。この一連の出来事によって、この碧雲という女性がおよそどんな性格であるかということが、実に的確に描かれるのだ。時間にしても数分のこのシーンは、単純なようでいて、普通の人間を普通に描くことに見事に成功している。それはちょうど漱石の『明暗』の冒頭部分で、夫婦関係というものの難しさ、煩わしさがほんのちょっとした描写で見事に描かれているのに似ている。

 普通の人間を普通に描くということは、考えてみれば映画のもっとも不得意とすることだろうし、また危険なことでもある。普通の人間というのは、あらゆる類型化を拒む柔軟性をもっている。普通の人間は物語の枠に縛られない、次に何をするかわからない存在なのだ。従って、普通の人間を普通に描くということは、物語の存立そのものを危うくしかねない。普通の人間が普通のことをしている映画など、どこが面白いのか。バットマンやスーパーマンが活躍する映画の方が面白いに決まっている。もし、普通の人間の普通の生き方を映画にして、なおかつ面白いとしたら、「物語」は別種のものとして存在しなければならない。

 『冬冬の夏休み』のもっている物語性というのは、『男はつらいよ』や『ホームアローン』などのようなはっきりとした枠組み・筋立てによって成立する物語なのではなく、時間そのものが胚胎している物語なのだといえよう。それはきわめて自由に展菊しながら、やはりひとつの「おわり」をもっている。しかし、その「おわり」は、生きた時間の一つの経過点としての「おわり」なのであって、映画は豊かな時間を湛えながら、外に向かって流れだそうとするのだ。それは人生そのものの姿に似ている。

 『冬冬の夏休み』は、娯楽映画に見られる登場人物の類型化を拒みつつ、人間の普遍性を描きだすことに成功した。叔父さんとそのガールフレンドを、ありきたりの心優しい男女として描くことなく、そうかといって、特別変わった二人として描くのでもなく、なるほど若い女性にはこんな人もいるよなあ、と言った形で妙にぼくらを納得させてしまうのだ。チキンの骨を碧雲が列車の床に無造作に捨てたり、あげくの果てに碧雲の下車駅で、荷物を忘れて降りてしまった彼女のために、結局冬冬たちの乗っている列車に昌民が乗り遅れてしまったりという出来事も、たいした出来事ではないと思いつつ、人間の面白さを実はたっぷりと感じている自分に気付くのだ。そして、ふとこんな人物の描き方はこれまで映画にあっただろうかと一瞬思わせるのだ。

 冬冬という少年の描きかたひとつとってみても、そこにはまさに等身大の少年そのものが描かれる。そして等身大の少年の姿を徹底的に描くことで少年というものがもっている一種独特の、神秘性までをも描き出してしまっているのである。これは、驚くべきことではなかろうか。

 『冬冬の夏休み』では、スクリーンに映し出される少年や少女の肉体そのものが、神秘的である。そのことに監督の侯孝賢自身気がついていただろうか。例えば、冬冬たちが田舎の子供たちと川で水遊びをする場面での少年のほっそりとした肉体、とりわけその細い脚に感じられるのは少年特有の哀しみのようなものである。それは何とも言葉では表現できないものだ。確かに、そこでは、少年たちは元気に水遊びに興じているだけだ。そのどこに哀しみの入り込む余地があるというのだろうか。それはとりもなおさず、「少年期の短さ」に由来するのだ。少年は限られた時間を生きている。その細い脚も、ある一時期のものに過きず、すぐにただの大人の脚になる。そうした限られた時間の中で無心に遊ぎ少年の描写を通じて、時間そのものの姿を、映画は、ほとんど無意識のうちにくっきりと画面に定着しているのだ。子役として訓練された子供たちでは、この神秘的な時間としての少年期を表現することは出来なかっただろう。『ホームアローン』の子供は、大人の先取りとしての子供であって、「子供なのにすごい」という観点で描かれている。そこには、二度と戻って来ない故の切なさ、哀しみを感じさせる神秘的な時間というものは一切ない。『ホームアローン』の子供の延長線上には、家族を愛し、そのためには勇敢に戦うアメリカの典型的な男性像が予想される。しかし、冬冬は、どんな大人になるかという予想を拒絶する。冬冬の「少年期」は、そのまま完結し、永遠に戻らない時間として終息するだろう。冬冬が将来どんな大人になろうと、そんなことは一切関係ない。「少年期」の時間の、かけがえのなさ、独自の価値、それだけが重要なのである。

 時間そのものが物語を胚胎しているということをさらにはっきりと実感させてくれるのが、冬冬の母親の手術の日の描写だ。冬冬の母親は手術後、なかなか麻酔がきれずに意識が回復しない。娘の所へ駆けつけたくてもそれが出来なかった冬冬の祖父と祖母は、冬冬やティンティンとともに重苦しい一夜を過ごす。なかなか寝つけない冬冬。ティンティンは、自分のために木から落ちて流産をした知恵遅れの寒子(ハンズ)──その治療のために冬冬の祖父と祖母は娘のもとに駆けつけることができなかったのだが──の傍らで、寒子を見守り続ける。(寒子の側にちょこんと座るティンティンの後ろ姿のなんといとしいことか! こんなにもいとしい少女の姿をぼくは他のどんな映画でも見た覚えはない。)時間はいつのまにか流れ、朝になる。誰がいつ寝て、誰が寝なかったのか、描写はない。しかし、時間は確実に流れて、朝が来るのである。小鳥の鳴き声が聞こえ、子供たちの寝ている姿を捕らえたあと、カメラは青い空気の朝の戸外を映し出す。そして橋の上に、並んで遠くを見つめる祖父と祖母の姿が透明な空気の中に、浮かぶ。そのとき、ぼくらは何の説明がなくても、冬冬の母親が助かったのだということを深く納得するのだ。すべては、朝の青い空気が物語っている。侯孝賢は、危篤状態にある母親本人の姿を全く描こうとはしない。意識を回復しない母親の寝顔、額に汗をしてそれを見つめる医師や看護婦、やがて母親の口から微かな声が洩れる……、というような描写を一切しない。侯孝賢はひたすら時間そのものを描こうとしているかのようだ。それは、時間そのものが、物語であることを知っているからに違いない。

 スッペの音楽と共に、祖父と孫とが昔の写真に見入り──つまり、過去の時間を自らの内に蘇らせ──そして、少年自身が二度と戻らない少年の時間を、緑の木々に抱かれて過ごすシーンは、時間を幾重にも豊かに重ね、湛えながら、ぼくらの内なる「失われた時間」へと流れ込んでくる。二度と戻らない少年期の時間という痛切な意識は、ぼくらが生きる今という時間のかけがえのなさへの認識を呼び覚ます。それはぼくらがどんな平凡な日常を生きていようとも、時間がすでに物語を胚胎している以上、今という時間は限りなく豊かで同時に限りなく切ないものなのだという意識へとぽくらを導くだろう。ぼくらはある意味では、結果のわかった物語を生きている。ぼくらがどんな生き方をするにせよ、結果はぼくらの「死」で終わる。短いのは何も少年期だけではない。ぼくらの人生もまた短い。その意識は、ぼくらの平凡な日常の時間感覚をくつがえし、ぼくら自身が物語の主人公であることを痛いほどに実感させるだろう。限りなく豊かで限りなく切ない時間、二度と戻らないけれども、消滅してしまったわけではない神秘的な時間、その時間への愛惜が、ぼくに涙を流させた一番の原因であるのかも知れない。


映画雑誌「FB」No.2 (1994.4.30発行)


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