ぼくらはことばでつながっている


 モンテーニュは、『エセー』という本の中で、「われわれはただ言葉だけによって、人間なのだし、またつながっているのである。」と言っている。ことばが人間のあかしであることは当然のこととして、「ことばによってつながっている」というのはいったいどういうことだろうか。

 図書館に並んだ本を眺めていると、ときどき不思議な感覚に襲われる。この何万冊と並んだ本の一冊残らずすべてが、ひょっとしたら、一冊の本なのではないか。すべての本は、ことばで書かれた無限に長い本の「分冊」なのではないだろうか、そんなことを思うからである。そして、その本の実体は、紙でもインクでもない、まさにことばそのものであることに、今更ながら驚くのだ。

 「本を読む」ということは、紙に印刷された文字に目を通す作業を言うのではない。本を読むとき、すでにその本のことばがぼくらの内部で生き始めている。ことばが、ぼくらの内部に沈殿し蓄積される。どれだけのことばをぼくらが覚えているかは問題ではない。本を読むとき、ぼくらの内部は必ず変容する。本のことばは、親や友人や先生から聞いたことばと同様に、ぼくらの内部に深く蓄えられ、ぼくらの生きる土壌となる。ぼくらは、その土壌の上ではじめて生きることができるのだ。

 先日見た映画『シン・レッド・ライン』の中で、ある兵士が「我々は、一つの魂をもった一人の人間なのか?」とつぶやく。それぞれの個性を主張し、競争し、いがみ合い、憎み合い、殺し合う「個人」は、ひょっとしたら「一つの魂をもった一人の人間」の「分身」にすぎないのかも知れないというのだ。もしそうだとしたら、人間はどんなに憎みあっても、いつかはどこかで和解し、結ばれる可能性があることになる。

 その和解と一致は、動物にはない。動物は、はじめから分裂してはいないからだ。ぼくらは不幸にしてことばによって分裂したが、その同じことばによって再び和解し一致することができる。

 近頃の若者は本を読まなくなったという嘆きが聞かれるようになって久しい。もしそれが本当なら、ぼくらの生きる土壌がどんどんやせて行きつつあることを意味している。やせた土地の上では、人は孤立し憎みあうだけだ。まわりの人と本当の意味でつながり、愛しあうためには、ぼくらにとって本を読むことはひとつの義務だ。

 このささやかな小冊子は、ぼくらの「本のある生活」のための広場として刊行される。この広場がみんなの「つながり」のきっかけになることを切に願っている。


栄光学園国語科「窓」vol.1 (1999.6.20発行)


back to index