新緑の窓から
教室の窓の外には小高い新緑の丘が広がっている。
「なほゆきゆきて、武蔵の国と下つ総の国とのなかにいと大きなる河あり。これをすみだ河といふ。」
千年以上も前の本なのに、こんなふうに今も使われている川の名前なんかが出てくるとびっくりするよね、そう思わないか? 生徒はあいまいな顔をしている。そうでもないか……、でも、ぼくは何となく不思議に思うけどなあ……。
伊勢物語の授業。ただでさえ若者の本離れがやかましく言われている現在、日本の古典が高校生にどのように受け止められるのか、正直ぼくにはよく分からない。しかし、ことばが生まれたてのような初々しさで輝いているこの古い物語の世界に、何とかしてこの子供たちと分け入りたいものだと思いながら、四苦八苦の毎日なのである。
と、そのとき、窓の外でホトトギスが鳴いた。実は、二、三日前から時々耳にしていたので、授業中に鳴いたら生徒に聞かせたいと思っていたのだ。
「しっ、静かに。」
突然ぼくの口調が変わったので、生徒はそれこそ水をうったようにシーンとなった。もう一度、はっきりと鳴いた。霧雨が音もなく降っている。緑を映した銀色のサッシの窓から冷たい空気が流れ込んでくる。
「今、鳴いた鳥、あれが、ホトトギスだよ。」
初めて生でホトトギスの声を生徒に聴かせることができたことにひどく感激してしまっているらしく、ぼくの二の腕はうっすらと鳥肌がたっている。生徒もびっくりしたように目を丸くしている。「あ、また鳴いた。」と喜んでいる生徒もいる。
昔の人はね、この声が好きだったんだ。ウグイスはいつまでも鳴いているけど、ホトトギスは何日か里で鳴いて、すぐに山に帰ってしまうから貴重だったんだね。清少納言もそう書いているよ。ホトトギスの声を聞くために、一晩中寝ないで起きていたなんて和歌もあったような気がするなあ。そんなことをとりとめもなく話している間も、ホトトギスはしきりに鳴いた。
ことばが世界を開いてくれることがある。新緑の丘で鳴く鳥が、ホトトギスという名前を持っていなかったら、その声を聞いてはるか王朝の世界に思いを馳せることは出来ない。紫式部や清少納言が、胸ふるわせて聴いたであろうその声を、そのまま現代の僕らが聴いている。それはあくまでホトトギスという鳥の存在が前提であるにせよ、「ホトトギス」ということばが、通信ケーブルのように過去の人々と僕らをつないだのだ。逆に、ホトトギスということばは残っていてもその鳥が滅びていたら、どうだろうか。相手の出ない電話のように、それもまたむなしく白々しいことだろう。
ことばは、それだけで一つの世界を作るけれど、ことばだけでは空しい。ことばの肉体とでもいうべきものが、ことばを豊かに支え、育んでいるのだ。
国語科研究室に戻ると、同僚の教師がコーヒーを飲みながら、壁にかけたカレンダーを見つめている。「あの写真を見せればよかったなあ。」と呟く。
見ると、森の下草の中に小さな芽が伸び始めた写真である。薄暗い森の中に、その芽だけがスポットライトを浴びたように美しく輝いている。「『夕映え』というのは、よく誤解されるけど、単なる夕焼けのことじゃないんだよな。ああいうふうな感じをいうんだよ。」
そのことばに、あわてて古語辞典のページを繰った。「『夕映え』――夕方あたりが薄暗くなるころ、物がかえってくっきりと美しく見えること。」とある。
薄暗い森の中で「夕映える」ホトトギスのイメージがぼくの脳裏にふと浮かんで、消えた。
「星座」No.5 かまくら春秋社(2001.9発行)