田山花袋「田舎教師」を読む

 

 

 


 

田山花袋『田舎教師』 1   2018.9.30

 

 岩野泡鳴で思わぬ足止めをくらってしまった。評判のよくない自然主義文学の中でも特に評判が悪い岩野泡鳴の「五部作」を曲がりなりにも読んだことは、思わぬ収穫もあった。自然主義の中でも、特異な地位を占める泡鳴の書きぶりとか生き方をある程度身近なものとして知った今は、それを軸にして他の自然主義文学を眺めることを可能にしてくれたような気がするのだ。

 で、次は何を読もうか。流れからすれば、田山花袋の『蒲団』ということになるだろうが、これは20年ほど前に再読して、ずいぶんと嫌な気分になった気がする。それは、必ずしも、あの有名な、女弟子が出ていった後、彼女が使っていた「蒲団」に顔を埋めて泣いたというウスギタナイ場面の「嫌な感じ」ではなくて、むしろ、当時の女性が置かれていた理不尽な社会的なプレッシャーに驚いたことからくる「嫌な感じ」だった。

 泡鳴の作品でも、ずいぶん嫌な感じを味わってきたので(それはそれで面白かったわけだが)、ちょっと雰囲気の違う作品にしたいということで、同じ田山花袋の作品でも、抒情的な雰囲気をもった『田舎教師』を読むことにした。

 これも再読である。読んだのは、確か、高校生のころ。(ぼくが持っている岩波文庫版は、昭和40年の40刷である。第1刷が昭和6年とあるから、ずいぶんと売れたのだ。このこと自体、隔世の感がある。)内容はまったく覚えていないのだが、なんだか「みじめな教師」のイメージだけがぼくの中に定着した。それが「抒情的」だというのは、後の自然主義についての評論なので仕入れた知識で、高校生のぼくがそう感じたというわけではない。

 何はともあれ、これもできるだけゆっくり読んで行きたい。


 四里の道は長かった。その間に青縞(あおじま)の市のたつ羽生(はにゅう)の町があった。田圃にはげんげが咲き、豪家(ごうか)の垣からは八重桜が散りこぼれた。赤い蹴出しを出した田舎の姐(ねえ)さんがおりおり通った。
 羽生からは車に乗った。母親が徹夜して縫ってくれた木綿の三紋の羽織に新調のメリンスの兵児帯(へこおび)、車夫は色のあせた毛布(けっとう)を袴はかまの上にかけて、梶棒を上げた。なんとなく胸がおどった。


 『田舎教師』の冒頭だ。きれいな田園風景の描写から始まる。しかし、ぼくにはよく分からない言葉がある。「青縞」だ。

 「青縞」というのは、「紺色で無地の木綿織物。法被(はっぴ)・腹掛け・足袋などに用いる。」〈デジタル大辞泉〉のことで、分かりやすいものとしては、剣道着がそれらしい。

 wikiによれば、「青縞は、埼玉県羽生市など、埼玉県北部地域で江戸時代末期ごろから生産されている藍染物の伝統工芸品。武州織物、武州正藍染とも。」とされ、ここに「羽生」の地名が見える。

 ついでだから更に詳しい説明を紹介すると、「藍をもって青く染めた糸で織った縞木綿。天明年間(一七八一〜八九)武蔵国埼玉郡騎西(埼玉県北埼玉郡騎西町)付近の農家の婦人が自家栽培の綿を紡ぎ染めて農閑期に副業として製織したもの。需要の増大につれ綿糸を購入して織るようになった。文化年間(一八〇四〜一八)足立郡蕨(蕨市)の機業家高橋新五郎は青縞の江戸販売の有利を考え足利(栃木県)・青梅(東京都)の機業地を視察し、文政八年(一八二五)高機を木綿用に改良し青縞を製織した。高機は近郷に普及し青縞を製織する者が多くなった。新五郎は天保八年(一八三七)高機二百台の出機を所有したと伝えられている。このころには織元が生まれ農家は織元より糸の供給をうけて賃織した。織賃は織り払いが多く前借・内渡制も行われた。明治以後は青縞の名称は用いられなくなり、紡績綿糸を用いてからは青縞系統の木綿縞として双子縞(ふたこじま)が大正末期まで織られた。」〈国史大辞典〉となる。ただし、この中で「明治以降は青縞の名称は用いられなくなり」というのはどうも間違いのようで、現にこの『田舎教師』では「青縞」と言っている。『田舎教師』の出版は、明治42年(1909年)である。

 「青縞の市がたつ羽生」という部分を、意味不明のまま読み飛ばすと、この小説が薄っぺらなものになる。「青縞」って何? ってところからいろいろ調べると、その土地の歴史とか匂いまで感じられるようになる。それもまた小説を読む楽しみなのかもしれない。

 この「青縞」に関する記述は、この小説には結構でてきていて、最初の方に、こんな記述がある。


 校長の語るところによると、この三田ヶ谷という地は村長や子弟の父兄の権力の強いところで、その楫を取って行くのがなかなかむずかしいそうである。それに人気もあまりよいほうではない、発戸(ほっと)、上村君(かみむらぎみ)、下村君(したむらぎみ)などいう利根川寄りの村落では、青縞の賃機(ちんばた)〈注:機屋から糸などの原料を受け取り、賃銭を取って機を織ること。〉が盛んで、若い男や女が出はいりするので、風俗もどうも悪い。七八歳の子供が卑猥きわまる唄などを覚えて来てそれを平気で学校でうたっている。

 

 主人公の林清三が勤める三田ヶ谷の小学校の校長の話だが、「青縞」はこの地域の大事な産業で、それに伴う「風俗の悪化」も見られるというのである。

 清三が初めて赴任先の小学校へ行く時の描写にも「青縞」が出て来る。


 青縞を織る音がところどころに聞こえる。チャンカラチャンカラと忙しそうな調子がたえず響いて来る。時にはあたりにそれらしい人家も見えないのに、どこで織ってるのだろうと思わせることもある。唄が若々しい調子で聞こえて来ることもある。
 発戸河岸(ほっとかし)のほうにわかれる路の角には、ここらで評判だという饂飩屋があった。朝から大釜には湯がたぎって、主らしい男が、大きなのべ板にうどん粉をなすって、せっせと玉を伸ばしていた。赤い襷をかけた若い女中が馴染らしい百姓と笑って話をしていた。
 路の曲がったところに、古い石が立ててある。維新前からある境界石で、「これより羽生領」としてある。

 

 活気のある光景である。「青縞」がどういうものであるかを知って読むと、こうした描写にも深い奥行きが感じられるようになる。

 花袋は、この『田舎教師』というフィクション(モデルはいるが)を勝手に作りあげるのではなくて、その土地に対する詳しい調査のもとに作品をつくっていることが分かる。彼の小説は、少なくともこの『田舎教師』においては、主人公の生き方だけではなく、その背景となる社会の姿も描こうとする姿勢を見せている。まだそのように断定する段階ではないにせよ、泡鳴の例えば『泡鳴五部作』の第1作『発展』の冒頭と比べればそのことははっきりとする。

 

 麻布の我善坊にある田村と云ふ下宿屋で、二十年來物堅いので近所の信用を得てゐた主人が近頃病死して、その息子義雄の代になつた。
 義雄は繼母の爲めに眞(まこと)の父とも折合が惡いので、元から別に一家を構へてゐた。且、實行刹那主義の哲理を主張して段々文學界に名を知られて來たのであるから、面倒臭い下宿屋などの主人になるのはいやであつた。
 が、渠が嫌つてゐたのは、父の家ばかりではない。自分の妻子──殆ど十六年間に六人の子を産ませた妻と生き殘つてゐる三人の子──をも嫌つてゐた。その妻子と繼母との處分を付ける爲め、渠は喜んで父の稼業を繼續することに決めたのである。然し妻にそれを專らやらせて置けば、さう後顧の憂ひはないから、自分は肩が輕くなつた氣がして、これから充分勝手次第なことが出來ると思つた。

 

 ここでは、いきなり主人公の個人的な事情に入っていってしまい、しかも、ここの人物についての説明もないから、何が何だか分からないうちに、読者はその複雑怪奇な人間関係にまっただ中に巻き込まれていく。そしていくら読んでもその人間関係のどろ沼から這い出すことはできないのである。

 それに比べると、『田舎教師』は、田園の風景描写で悠然と始まり、そこにその土地の歴史と現在を鮮やかに描き出している。歌舞伎の幕開きのような感じである。

 その風景の中を、主人公が「胸をおどらせて」人力車に乗って行く。彼の前にはどんな人生が待っているのだろうか。読者も、ちょっとわくわくする。けれども、この小説はハッピーエンドではない。彼を待っているのは「みじめな教師の生活」だったのだ。その経緯をこれから読んでいくことになる。

 

 

田山花袋『田舎教師』 2   2018.10.5

 

 前回の引用箇所の直後の部分。羽生から人力車に乗って、弥勒の三田ヶ谷村にある小学校へ向かう途中である。

 

 清三の前には、新しい生活がひろげられていた。どんな生活でも新しい生活には意味があり希望があるように思われる。五年間の中学校生活、行田から熊谷まで三里の路を朝早く小倉服着て通ったことももう過去になった。卒業式、卒業の祝宴、初めて席に侍る芸妓なるものの嬌態にも接すれば、平生むずかしい顔をしている教員が銅鑼声を張り上げて調子はずれの唄をうたったのをも聞いた。一月二月とたつうちに、学校の窓からのぞいた人生と実際の人生とはどことなく違っているような気がだんだんしてきた。第一に、父母からしてすでにそうである。それにまわりの人々の自分に対する言葉のうちにもそれが見える。つねに往来している友人の群れの空気もそれぞれに変わった。

 

 清三の前にひろがる「新しい生活」は、すぐに、幻滅へと変わって行くわけだが、このあたりの感情的起伏は、ぼくもほとんど同様に経験したところで、それがまるで昨日のことのように思い出される。ぼくもまた、都立高校へ最初に就職したが、町田郊外にあった学校は桑畑の真ん中にできた新設校で、ぼくは、まさに「田舎教師」そのものだったのだ。

 境遇は似ているが、もちろん違うことも多い。時代は60年も隔たっている。そもそも、清三が着ていた「小倉服」からして、イメージできない。できないけど、なんとなく、分かる。たぶん、『二十四の瞳』などの映画で得たイメージがあるからだろう。念のために調べてみた。

 

【小倉(こくら)服】小倉織で仕立てた洋服。色は白・黒・霜ふりなどが多く、学生服や作業服などに用いられた。〈日本国語大辞典〉
【小倉織】織物の一種。福岡県北九州市小倉地方から産出する木綿織。経(たていと)を密にし緯(よこいと)を数本合わせて厚く織ったもの。地質は強く主に男物の帯地・袴地または学生服地や下駄の鼻緒などに用いられる。白地・紺地が多い。小倉。小倉縞。〈日本国語大辞典〉

 

 前回の「青縞」といい、この「小倉服」といい、調べなければ分からないというのも情けないが、調べれれば分かる、というのも嬉しいものである。

 明治時代の中学校というのは、12歳から16歳までの5年間である。(尋常小学校が6歳から12歳までの6年間)今でいえば、高校2年で卒業ということになる。

 それにしても、「卒業式、卒業の祝宴」の図が摩訶不思議だ。芸者を呼んで大騒ぎなんて、今じゃ考えられない。教師も酔っぱらって、酔態を演じている。生徒のいないところならともかく、「卒業の祝宴」だというんだから驚く。中学を卒業したら、もういっぱしの大人と認めていたということだろうか。周囲の空気が変わったと清三が感じているのも、そういうことだろう。

 清三の家は貧しかった。父はもともと足利で呉服屋をしていて財産もあったのだが、好人物で騙されやすい性格が災いして、清三が7歳のときに家は没落した。今では、いかがわしい書画を売って歩いている。そのことを正直な清三は「人間のすべき正業ではない」と感じている。中学を出たからといって、高等学校へ行ける経済的な余裕はなかったのだ。

 その清三の友人に、加藤郁治という者がいた。その父のお陰で、清三は小学校の「代用教員」の口を紹介され、どうやら採用が決まり、今まさにその小学校へ向かっているのである。

 郁治の父親は郡視学であった。郁治の妹が二人、雪子は十七、しげ子は十五であった。清三が毎日のように遊びに行くと、雪子はつねににこにことして迎えた。繁子はまだほんの子供ではあるが、「少年世界」などをよく読んでいた。
 家が貧しく、とうてい東京に遊学などのできぬことが清三にもだんだん意識されてきたので、遊んでいてもしかたがないから、当分小学校にでも出たほうがいいという話になった。今度月給十一円でいよいよ羽生在の弥勒の小学校に出ることになったのは、まったく郁治の父親の尽力の結果である。

 中学を卒業したあと、教師になるには師範学校へ行くか、小学校教員検定試験に合格するしかない。清三はそれができなかったわけだが、それでは、教師になどなれないかというと、当時は「代用教員」というのがあった。このあたりの制度は入り組んでいてメンドクサイのだが、とにかく、当時は、小学校教員が不足していたので、師範学校を出ていなくても、教員免許がなくても、「代用教員」として教室で教えることができたのである。

 明治の小説を読んでいると、この「代用教員」というのがやたら出て来る。一度ちゃんと調べてみたいと思っていたのだが、ネットで検索していたら、格好の論文がみつかった。ヴァン・ロメル ピーテルという人の書いた「明治後半における教育と文学 :『田舎教師』の時代」である。筑波大学の「文学研究論集」に掲載されている。

 いやはや、どこの国の人か知らないが、外国人がこれだけの詳細な研究をしているなんて、たいしたものである。ざっと目を通したにすぎないが、ぼくがずっと感じてきた日本における「教師」の社会的な地位の低さがどこに起因するかが、資料をもとにきちん論じられている。

 その中で、「代用教員」についての記述を少しだけ紹介しておく。


 小学校の支柱は本科正教員であった。正教員は師範学校卒業者と小学校教員検定試験に合格した教員からなっていたが、師範学校卒小学校教員の地位の方が検定試験合格者より高かった。正教員、ことに師範卒の教員は小学校のヒエラルキーで最も高い地位を占め、高学年を担当し、給料も最も高かった。小学校長になるのも正教員、ことに師範学校卒業者であった。
 正教員の下には准教員の試験を受けた准教員と無資格の代用教員がいた。師範学校卒の「田舎教師」を社会の周辺に属する人物として位置づけるならば、准教員と代用教員はさらにその周辺に属したと言わなければならない。准教員と代用教員の仕事は、当人たちにとっては進学か、より良い仕事を得る機会が現れるまでの一時的なものだったが、その機会がなければ長引いた。その場合、教師は自宅勉強をして検定試験に挑戦したり、師範学校や県が行う講習に参加することで、自分の地位を改善することができたが、師範学校卒業者と同じレベルまで昇進することはできなかった。正教員との区別は低い月給にも反映されていた。
 藤村や啄木、花袋の作品や教育雑誌に載せられた教育小説がこうした准教員や代用教員を主人公とすることは顕著である。つまり、田舎教師の中で最も地位の低い教師が文学の中心となったのである。また、学校のヒエラルキーから生じる摩擦、ことに師範学校卒教員との対立は重要なテーマの一つであった。師範学校卒の教員に対する准教員と代用教員の批判的な眼差しが教育小説では頻繁に表される。

 

 このヒエラルキーは、もちろんこの『田舎教師』においても顕著で、すでに最初の方には次のような記述が見られる。小学校の校長に会った場面だ。

 

 一時間後、かれは学校に行って、校長に会った。授業中なので、三十分ほど教員室で待った。教員室には掛図や大きな算盤や書籍や植物標本やいろいろなものが散らばって乱れていた。女教員が一人隅のほうで何かせっせと調べ物をしていたが、はじめちょっと挨拶したぎりで、言葉もかけてくれなかった。やがてベルが鳴る、長い廊下を生徒はぞろぞろと整列してきて、「別れ」をやるとそのまま、蜘蛛の子を散らしたように広場に散った。今までの静謐とは打って変わって、足音、号令の音、散らばった生徒の騒ぐ音が校内に満ち渡った。
 校長の背広には白いチョークがついていた。顔の長い、背の高い、どっちかといえばやせたほうの体格で、師範校出の特色の一種の「気取り」がその態度にありありと見えた。知らぬふりをしたのか、それともほんとうに知らぬのか、清三にはその時の校長の心がわからなかった。
 校長はこんなことを言った。
「ちっとも知りません……しかし加藤さんがそう言って、岸野さんもご存じなら、いずれなんとか命令があるでしょう。少し待っていていただきたいものですが……」
 時宜によればすぐにも使者をやって、よく聞きただしてみてもいいから、今夜一晩は不自由でもあろうが役場に宿(とま)ってくれとのことであった。教員室には、教員が出たりはいったりしていた。五十ぐらいの平田という老朽と若い背広の関という准教員とが廊下の柱の所に立って、久しく何事をか語っていた。二人は時々こっちを見た。
 ベルがまた鳴った。校長も教員もみな出て行った。生徒はぞろぞろと潮のように集まってはいって来た。女教員は教員室を出ようとして、じろりと清三を見て行った。
 唱歌の時間であるとみえて、講堂に生徒が集まって、やがてゆるやかなオルガンの音が静かな校内に聞こえ出した。

 

 郡視学の加藤の口利きで、清三の採用が決まったはずなのに、村長も、校長もどうやら知らないようだ。しかも、ここに出て来る「老朽」の平田というのが役に立たないので辞めさせることになっていて、その代わりに清三をということだったらしい。平田はそんな話を聞いてないから、おかしいと思って、「准教員」と「何事かを語っていた」というわけである。

 初めて見る教員室の様子が、見事に描かれている。さまざまな「音」が効果的。

 それよりも、思わず笑ってしまうのが、「校長の背広には白いチョークがついていた。」の一文。背広にチョークが付いているのが、教師の「紋章」のようなものだ。ミジメな「紋章」……

 ぼくは、教師を42年もやったが、その「ミジメな紋章」を欠かしたことはなかった。やだなあと思いつつ、上着についたチョークをパタパタと幾度はたいたことだろう。

 この「背広についたチョークをパタパタとはたく」という動作は、伊藤整の小説に出てきて、ひどく印象に残ったのだ。なんという小説だったかは覚えていないが、とにかく、これ以上に「教師らしい」しぐさはない。そして、それが、とても貧乏くさくて、みじめったらしいので、ずいぶん気をつけていたのだが、気がつくと、パタパタやっていたものである。

 


 

田山花袋『田舎教師』 3   2018.10.7

 

 夜はもう十二時を過ぎた。雨滴れの音はまだしている。時々ザッと降って行く気勢(けはい)も聞き取られる。城址の沼のあたりで、むぐりの鳴く声が寂しく聞こえた。
 一室には三つ床が敷いてあった。小さい丸髷とはげた頭とが床を並べてそこに寝ていた。母親はつい先ほどまで眼を覚ましていて、「明日眠いから早くおやすみよ」といく度となく言った。 
「ランプを枕元につけておいて、つい寝込んでしまうと危いから」とも忠告した。その母親も寝てしまって、父親の鼾に交って、かすかな呼吸がスウスウ聞こえる。さらぬだに紙の笠が古いのに、先ほど心が出過ぎたのを知らずにいたので、ホヤが半分ほど黒くなって、光線がいやに赤く暗い。清三は借りて来た「明星」をほとんどわれを忘れるほど熱心に読み耽った。
   椿それも梅もさなりき白かりきわが罪問はぬ色桃に見る
 わが罪問はぬ色桃に見る、桃に見る、あの赤い桃に見ると歌った心がしみじみと胸にしみた。不思議なようでもあるし、不自然のようにも考えられた。またこの不思議な不自然なところに新しい泉がこんこんとしてわいているようにも思われた。色桃に見ると四の句と五の句を分けたところに言うに言われぬ匂いがあるようにも思われた。かれは一首ごとに一頁ごとに本を伏せて、わいて来る思いを味わうべく余儀なくされた。この瞬間には昨夜役場に寝たわびしさも、弥勒から羽生まで雨にそぼぬれて来た辛さもまったく忘れていた。ふと石川と今夜議論をしたことを思い出した。あんな粗い感情で文学などをやる気が知れぬと思った。それに引きかえて、自分の感情のかくあざやかに新しい思潮に触れ得るのをわれとみずから感謝した。渋谷の淋しい奥に住んでいる詩人夫妻の佗び住居〈ずまい〉のことなどをも想像してみた。なんだか悲しいようにもあれば、うらやましいようにもある。かれは歌を読むのをやめて、体裁から、組み方から、表紙の絵から、すべて新しい匂いに満たされたその雑誌にあこがれ渡った。
 時計が二時を打っても、かれはまだ床の中に眼を大きくあいていた。鼠の天井を渡る音が騒がしく聞こえた。
 雨は降ったりはれたりしていた。人の心を他界に誘うようにザッとさびしく降って通るかと思うと、びしょびしょと雨滴れの音が軒の樋をつたって落ちた。
 いつまであこがれていたッてしかたがない。「もう寝よう」と思って、起き上がって、暗い洋燈を手にして、父母の寝ている夜着のすそのところを通って、厠に行った。手を洗おうとして雨戸を一枚あけると、縁側に置いた洋燈がくっきりと闇を照らして、ぬれた南天の葉に雨の降りかかるのが光って見えた。
 障子を閉(た)てる音に母親が眼を覚まして、
「清三かえ?」
「ああ」
「まだ寝ずにいるのかえ」
「今、寝るところなんだ」
「早くお寝よ……明日が眠いよ」と言って、寝返りをして、
「もう何時だえ」
「二時が今鳴った」
「二時
……もう夜が明けてしまうじゃないか、お寝よ」
「ああ」
 で、蒲団の中にはいって、洋燈をフッと吹き消した。

 

 清三が、行田の自宅へ帰ってきた場面だ。親子の情愛がさりげなく描かれてる。そして、清三の文学への憧れ。

 郁治の家で、友人たちと文学談義をして、借りてきたのが雑誌「明星」だ。この「明星」が、当時の文学青年にどんなに強い関心をもって迎えられたかがよく分かる。

 センチメンタルな性格の清三は、明星派の短歌のロマンチシズムに憧れたが、今夜語りあった友人の石川は、「何がいいんだか、国語は支離滅裂、思想は新しいかもしれないが、わけのわからない文句ばかり集めて、それで歌になってるつもりなんだから、明星派の人たちには閉口するよ」と言っていた。石川は、アララギ派に共感しているのだろうか。

 清三が読んでいる「明星」に載っていた歌は、与謝野晶子の歌。難しい歌だ。石川が「わけのわからない文句ばかり集めて、それで歌になってるつもり」というのも案外的を射ているのかもしれない。

 あえて訳してみれば、「椿も梅も純白でキレイだけど、なんだかその純白さがいかにも『汚れのなさ』をそうあるべきものとして強要してくるような気がして嫌だなあ。その点、桃の色のピンクは、私のこの罪深い恋を許してくれるような気がする。」ということになるだろうか。

 ちなみに、俵万智は、「チョコレート語訳 みだれ髪」でこの歌を、「桃だけが私の味方この恋を白き椿も梅も許さず」と訳している。見事なものだが、分かりやすすぎて、かえって面白くない。晶子の「わけのわからない文句ばかり並べた」歌のほうが、恋がもつ矛盾や葛藤を表現するにはふさわしいような気がする。

 まあ、それはそれとして、なかなかいい場面である。清三の文学への憧れが貧しい家に降り注ぐ雨の音の中ではばたいている。

 こんな時間を持てるのは、やはり幸せである。その幸せは、いつの時代でも変わらない。

 

(注)最初に出てくる「むぐり」とは水鳥の「カイツブリ」の異名。

 

 

田山花袋『田舎教師』 4   2018.10.10

 

 清三の教師としての生活も始まった。その一方で、文学への憧れもたかまるばかりだ。行田の仲間と文学談義をしているうちに雑誌を出そうという話が持ち上がる。「行田文学」と名前もつけた。その雑誌に、東京で名のしれた新体詩の作家、山形古城という坊さんがいることを知る。羽生の成願寺という寺の住職である。

 ある日、清三は、新しくできた友人の荻生と共に成願寺を訪ねた。

 

 詩の話から小説の話、戯曲の話、それが容易につきようとはしなかった。明星派の詩歌の話も出た。主僧〈注:山形古城〉もやはり晶子の歌を賞揚していた。「そうですとも、言葉などをあまりやかましく言う必要はないです、新しい思想を盛るにはやはり新しい文字の排列も必要ですとも……」こう言って林の説に同意した。
 ふと理想ということが話題にのぼったが、これが出ると主僧の顔はにわかに生々した色をつけてきた。主僧の早稲田に通って勉強した時代は紅葉露伴の時代であった。いわゆる「文学界」の感情派の人々とも往来した。ハイネの詩を愛読する大学生とも親しかった。麻布の曹洞宗の大学林から早稲田の自由な文学社会にはいったかれには、冬枯れの山から緑葉の野に出たような気がした。今ではそれがこうした生活に逆戻りしたくらいであるから、よほど鎮静はしているが、それでもどうかすると昔の熱情がほとばしった。
「人間は理想がなくってはだめです。宗教のほうでもこの理想を非常に重く見ている。同化する、惑溺するということは理想がないからです。美しい恋を望む心、それはやはり理想ですからな、……普通の人間のように愛情に盲従したくないというところに力がある。それは仏も如是一心と言って霊肉の一致は説いていますが、どうせ自然の力には従わなければならないのはわかっていますが──そこに理想があって物にあこがれるところがあるのが人間として意味がある」
 持ち前の猫背をいよいよ猫背にして、蒼い顔にやや紅を潮した熱心な主僧の態度と言葉とに清三はそのまま引き入れられるような気がした。その言葉はヒシヒシと胸にこたえた。かつて書籍で読み詩で読んだ思想と憧憬、それはまだ空想であった。自己のまわりを見回しても、そんなことを口にするものは一人もなかった。養蚕の話でなければ金もうけの話、月給の多いすくないという話、世間の人は多くパンの話で生きている。理想などということを言い出すと、まだ世間を知らぬ乳臭児のように一言のもとに言い消される。
 主僧の言葉の中に、「成功不成功は人格の上になんの価値もない。人は多くそうした標準で価値をつけるが、私はそういう標準よりも理想や趣味の標準で価値をつけるのがほんとうだと思う。乞食にも立派な人格があるかもしれぬ」という意味があった。清三には自己の寂しい生活に対して非常に有力な慰藉者を得たように思われた。

 

 ここでも「明星派」が話題にのぼっている。背景となっている時代は、明治34年。(この直前に、清三が、教室で裕仁親王の誕生を知らせる場面が出てくる。)「明星」の創刊は明治33年だから、まさにリアルタイムだ。

 「理想」という言葉が古城から出るが、この文脈での「理想」というのは、主に恋愛に関する「理想」であり、肉の愛ではなくて、精神の愛をもって至上のものとする精神主義を指すようである。「理想」に対するのは、「惑溺」であり、「盲従」であり、「自然の力」である。つまりは、性欲に溺れることが「理想に反する」ことなのだ。

 自然主義については、よく「無理想・無解決」ということがよく言われたわけだが、それは、たぶん、この意味での「無理想・無解決」だったのだろう。泡鳴の思想をみれば、その点は明らかだろう。

 あるいは漱石の「こころ」に出て来るKという男の悩みも、こうした「理想」からくるものであったはずだ。

 明治の青年を悩ませたのは、キリスト教的な純潔主義だったのだろう。泡鳴も、独歩も、藤村も、キリスト教の洗礼を受けながら、みんな途中で離れていくのは、この純潔主義と、それにまつわる偽善性ゆえだったのだと今さらながら気づかされる。

 清三が古城の話に、「ヒシヒシと胸にこたえた」思いがしたというのは、なるほど実感がある。理想に燃えた青年が初めて社会に出たときに感ずる幻滅は、なにも清三に限ったことではない。ぼくが教師として就職したその一年間に味わった、ありとあらゆる幻滅は、今思いだしても、よくぞ耐えたと思うほどのものだった。

 学校帰りに飲みにいき、そこでの仲間の教師たちの話の馬鹿らしさ、卑俗さに、愛想を尽かして黙っていると、「お前は、おれたちをバカにしているんだろう。」と絡まれた。心の中で「そうだ、それの何が悪い。」と呟きながら、黙って下を向いていたことが何度あったことだろう。校長からは、「他の先生たちが君は何を考えているのか分からないって言っているぞ。」と注意されたこともあった。それはそうだろう。ぼくは、自分の思いを口に出すことなどしなかったのだから。ぼくは、その頃、ただただ教師になったことを後悔し、一刻もはやくこの境遇から抜け出すことばかり考えていた。だから、この清三の気持ちは、まるで自分のことのようによく分かる。

 

 昨日の午後、月給が半月分渡った。清三の財布は銀貨や銅貨でガチャガチャしていた。古いとじの切れたよごれた財布! 今までこの財布にこんなに多く金のはいったことはなかった。それに、とにかく自分で働いて初めて取ったのだと思うと、なんとなく違った意味がある。母親が勝手に立とうとするのを呼びとめて、懐から財布を出して、かれはそこに紙幣と銀貨とを三円八十銭並べた。母親はさもさも喜ばしさにたえぬように息子の顔を見ていたが、「お前がこうして働いて取ってくれるようになったかと思うとほんとうにうれしい」としんから言った。息子は残りの半分はいま四五日たつとおりるはずであるということを語って、「どうも田舎はそれだから困るよ。なんでも三度四度ぐらいにおりることもあるんだッて……けちけちしてるから」
 母親はその金をさも尊そうに押しいただくまねをして、立って神棚に供えた。神棚には躑躅(つつじ)と山吹とが小さい花瓶に生けて上げられてあった。清三は後ろ向きになった母親の小さい丸髷にこのごろ白髪の多くなったのを見て、そのやさしい心のいかに生活の嵐に吹きすさまれているかを考えて同情した。こればかりの金にすらこうして喜ぶのが親の心である。かれは中学からすぐ東京に出て行く友だちの噂を聞くたびにもやした羨望の情と、こうした貧しい生活をしている親の慈愛に対する子の境遇とを考えずにはいられなかった。

 

 清三は代用教員なので、正教員の半分ほどの給料しかもらえない。半月で、3円80銭。明治30年ごろの小学校の教師の月給は、16円という記録があるから、この3円80銭というのは、いかにも少ない。この頃の1円は、今の3800円ぐらいに相当するらしいから、半月働いて、およそ15000円にしかならないことになる。

 ちなみに、明治30年の記録は、長野県の小学校の教師の給与なのだが、生活費は、下宿料=6円、図書費(新聞・雑誌共)=2円、交際費及び諸会費=1円50銭、臨時費=1円、衣服費=2円50銭、となっていて、残りが3円である。

 ちなみに、この『田舎教師』にも、生活費の内訳を描いている部分があって、それによると、「25.0=認印 22.0=名刺 3.5=歯磨および楊子 8.5=筆二本 14.0=硯 1,15.0=帽子 1,75.0=羽織 30.0=へこ帯 14.5=下駄」〈注:単位は銭〉ということになっている。これだけで約4円。半月分の給料がとんでしまう。

 時代がくだっても、教師の給与というのは、その後もぱっとせず、ぼくが貰った初任給は48000円ほどだった。当時は初任給のいい出版社なんかが8万円ほどだという噂を聞いたことがある。

 それにしても、この清三が「懐から財布を出して、かれはそこに紙幣と銀貨とを三円八十銭並べた。」というところを読んで、思わず笑ってしまった。

 というのも、ぼくも初任給をもらったその日、財布からではなくて、給与袋からだったが、その48000円を、親の前で、ちゃぶ台の上に並べて見せて、「ほら、こんなにもらったよ!」って言って喜んだという話を親から聞いているからだ。まったくバカだねえ、この子は、と父も母も呆れたというのだが、ぼくにはまったく記憶がない。

 大学生のころは、半月も、尾瀬の自然保護センターでバイトをしても、食事代などを差し引かれて手元に残ったのが8000円で、それでも大喜びでギターを買ったくらいだから、48000円というのは、見たこともない大金だったわけだ。我が家もぜんぜん金持ちじゃなかったけれど、親たちは、48000円を誇らしげに並べるぼくを、哀れと思ったか、ほんとうにバカだと思ったか、とにかく呆れたそうだ。

 それに比べると、清三の母親は、「しんから喜び」、そのお金を神棚に供えた。その貧しさが切なくも哀しい。

 ところで、今、こんなことを書いていて、ふと思ったのは、ぼくが48000円をちゃぶ台の上に並べて見せたのは、ひょっとしたら『田舎教師』のこのシーンをまねたのではないかということだ。『田舎教師』は、確かに高校時代に読んでいるのだから、そういうことがあったとしてもそれほど不思議ではない。

 昔読んだ小説のディテールを(いや大筋すら)ちっとも覚えていないことに、つい最近、古い友人に呆れられたばかりだが、そのころはまだ少しは記憶力もあっただろうから、それはありうるなあと思う。「金がない」ことにかけては、清三もぼくも、五十歩百歩だったのだから。

 どうも、泡鳴の小説とちがって、この小説は、読めば読むほど、ぼく自身の経験と重なるところ多くて、共感ばかりだ。泡鳴の場合は、まったく経験と重なるところがなかったので、余計そう感じるのかもしれない。

 

 

田山花袋『田舎教師』 5   2018.10.13

 花袋の風景描写は美しい。この『田舎教師』が当時もよく読まれたのは、そのせいもあるだろう。

 青春時代を過ごした熊谷は、清三にとっては第二の故郷であり、そこを清三はたびたび訪れた。

 

 関東平野を環のようにめぐった山々のながめ――そのながめの美しいのも、忘れられぬ印象の一つであった。秋の末、木の葉がどこからともなく街道をころがって通るころから、春の霞の薄く被衣(かつぎ)のようにかかる二三月のころまでの山々の美しさは特別であった。雪に光る日光の連山、羊の毛のように白く靡(なび)く浅間ヶ嶽の煙、赤城は近く、榛名は遠く、足利付近の連山の複雑した襞には夕日が絵のように美しく光線をみなぎらした。行田から熊谷に通う中学生の群れはこの間を笑ったり戯れたり走ったりして帰ってきた。
 熊谷の町はやがてその瓦屋根や煙突や白壁造りの家などを広い野の末にあらわして来る。熊谷は行田とは比較にならぬほどにぎやかな町であった。家並みもそろっているし、富豪(かねもち)も多いし、人口は一万以上もあり、中学校、農学校、裁判所、税務管理局なども置かれた。汽車が停車場に着くごとに、行田地方と妻沼(めぬま)地方に行く乗合馬車がてんでに客を待ちうけて、町の広い大通りに喇叭(らっぱ)の音をけたたましくみなぎらせてガラガラと通って行った。夜は商家に電気がついて、小間物屋、洋物店、呉服屋の店も晴々しく、料理店からは陽気な三味線の音がにぎやかに聞こえた。

 

 熊谷というと、すぐに「日本最高気温の町」とかいうイメージが先行する昨今だが、こういう自然や町の表情を見事に捉えているのは、今の群馬県館林市に生まれた花袋が親しく接してきたからこそだろう。

 熊谷と行田の違いも、同じ「地方都市」として、はっきりとは認識できないけれど、当時ははっきりとした「格差」があったわけだ。

 

 熊谷の町が行田、羽生にくらべてにぎやかでもあり、商業も盛んであると同じように、ここには同窓の友で小学校の教師などになるものはまれであった。角帯をしめて、老舗の若旦那になってしまうもののほかは、多くはほかの高等学校の入学試験の準備に忙しかった。活気は若い人々の上に満ちていた。これに引きくらべて、清三は自分の意気地のないのをつねに感じた。熊谷から行田、行田から羽生、羽生から弥勒(みろく)とだんだん活気がなくなっていくような気がして、帰りはいつもさびしい思いに包まれながらその長い街道を歩いた。
 それに人の種類も顔色も語り合う話もみな違った。同じ金儲けの話にしても、弥勒あたりでは田舎者の吝嗇(けち)くさいことを言っている。小学校の校長さんといえば、よほど立身したように思っている。また校長みずからも鼻を高くしてその地位に満足している。清三は熊谷で会う友だちと行田で語る人々と弥勒で顔を合わせる同僚とをくらべてみぬわけにはいかなかった。かれは今の境遇を考えて、理想が現実に触れてしだいに崩れていく一種のさびしさとわびしさとを痛切に感じた。

 

 行田に住んでいた清三は、熊谷の方向ではなくて、弥勒の方向へと落ちぶれていったということになる。

 熊谷の中学の「同窓の友で小学校の教師などになるものはまれであった」ということに注目したい。つまり、清三はその中学の中では、いわば「落ちこぼれ」の地位に甘んじなければならなかったということだ。ほとんどの同窓生は、みんな高等学校へ進学するのに、清三は、それができず、小学校の「代用教員」となる。つまりは、アルバイトの身の上なのだ。

 明治になって、学校というものができ、次第にその数を増していくうちに、教員不足になった。全国に師範学校はできたものの、それでも足りずに、「代用教員」が雇われたわけである。

 『田舎教師』の記述によれば、清三は、ただ中学を卒業しただけで、後はなんの試験も受けずに、ただ友達の郁治の父が郡視学をしていた関係で、弥勒の校長に紹介されて採用されただけのこと。何の自慢にもならないのだ。自慢どころか、高校にも行けないヤツとして、馬鹿にされたことだろう。

 清三は、自分がこの弥勒の小学校の「代用教員」に終わる未来を絶対に認めたくなかった。弥勒の人々は、「小学校の校長」というものが「よほど立身したように思っている」ことや、その校長自身が「鼻を高くしてその地位に満足している」ことに、清三は激しい嫌悪を抱く。こいつらは、なんてケチくさい根性なんだ! と思うのだ。

 このあたりも、ぼくには、痛いほどわかる心情だ。ぼくが就職した昭和47年のころ、まだ世の中には「デモシカ教師」という言葉が実在していた。「教師デモやるか」「教師シカない」といった意味で、要するに、教師なんて職業は、他に行き所のないヤツがしょうがなくてやる仕事だといった意味だ。

 ぼくが勤めた都立高校は、新設校だったせいもあり、教育への情熱をもった若い教師が多かったが、それでも、教師たちの飲み会は、貧乏く、そこで語りあえることは、決して文学・芸術のことではなくて、どこまでいっても、通俗的な世間を離れることはなかった。今思えば、それも当たり前なのだのが、ぼくは、それに耐えられない思いをしたものだ。

 「いつかこの教師という仕事から抜け出すのだ」という意志のようなものが、当時のぼくの意識を支配していたように思う。とすれば、それは清三の意識そのものだということになる。


 若いあこがれ心は果てしがなかった。瞬間ごとによく変わった。明星をよむと、渋谷の詩人の境遇を思い、文芸倶楽部をよむと、長い小説を巻頭に載せる大家を思い、友人の手紙を見ると、しかるべき官立学校に入学の計画がしてみたくなる。時には、主僧にプラトンの「アイデア」を質問してプラトニックラヴなどということを考えてみることもあった。「行田文学」にやる新体詩も、その狭い暑苦しい蚊帳の中で、外のランプの光が蒼い影をすかしてチラチラする机の上で書いた。
 学校の校長は、検定試験を受けることをつねにすすめた。「資格さえあれば、月給もまだ上げてあげることができる。どうです、林さん、わけがないから、やっておきなさい!」と言った。

 しかし、その校長を、清三はこんなふうに見た。

「自分も世の中の多くの人のように、暢気なことを言って暮らして行くようになるのか」と思って、校長の平凡な赤い顔を見た。

 この校長が、回りからも「出世した人」とみられることに満足している様に、清三は「哀しい未来」を見るのである。

 

 


田山花袋『田舎教師』 6   2018.10.14

 

 花袋の風景描写はとても美しいのだが、その美しい風景の中に描かれる清三のこころのありかたは、決して共感ばかりをぼくに生んでいるわけではない。むしろ、歯がゆくも、腹立たしくもなるのだ。

 たとえば、こんな部分。

 

 高等学校の入学試験を受けに行った小島は第四に合格して、月の初めに金沢へ行ったという噂を聞いたが、得意の文句を並べた絵葉書はやがてそこから届いた。その地にある兼六公園の写真はかれの好奇心をひくに十分であった。友の成功を祝した手紙を書く時、かれは机に打っ伏して自己の不運に泣かざるを得なかった。

 

 小島という中学時代の友人の第四高等学校への入学の祝いの手紙を書きながら、「机に打っ伏して自己の不運に泣かざるを得なかった」清三の姿には、同情を禁じ得ないが、しかしまた、あまりにも弱々しい青年の姿に、戸惑わざるもえない。

 チコちゃんじゃないけれど、「メソメソ生きてんじゃねえや!」って、一喝入れてやりたい気分にもなろうというものだ。

 清三は家の貧窮のために、小学校の代用教員たらざるを得ない自分の不幸を、ただただ嘆くばかりだ。

 確かに「不幸」な境遇には違いないが、そこから何とかして抜け出そうとする強烈な意志がない。いや、ないわけではない。詩人となろう、小説家になろうとして、夢中になって創作することもあったのだが、すぐに挫折してしまう。やっぱりオレには才能がないんだと断念してしまう。そういう清三の「弱さ」にも、ぼくは情けなくも共感してしまうことになり、それはまたぼく自身の「弱さ」を改めて確認するはめになるわけである。しかし、この年にもなれば、就職したての自分の向かって、「ちっちゃなことでグチグチ言ってんじゃねえや!」って言いたい気分になることも事実なのだ。

 さて、ここで、久々に吉田精一に登場してもらおう。大著『自然主義の研究』には、もちろん田山花袋も、大きくとりあげられ、詳細に論じられている。

 吉田は、花袋という作家の本質をズバリと突いている。

 

 ルソオは我が国の文学にも強い影響を及ぼした。ことに藤村や花袋にそれが強い。(中略)時代の波に動かされながら、外国文学通と呼ばれながら、常に彼〈花袋〉は自我の観照と詠歎から離れ得なかった。彼の自我は貧しく、常に肥え太らなかった。想像力は貧弱で、情熱も強くない。文学的才能として凡ての点でルソオに劣りながら、自然に対する親しみと愛のみは近いものがあった。むしろ彼はロマンチックな風景詩人だった。(中略)不自然と作為を脱して、素朴と自然なものを求める彼本来の志向は、必然的に有限な世相や社会を越えて、永遠なるもの、無限なるものにあこがれた。それらは冷酷な現実には見出されず、つねに期待のうちにしか存在しないところから、結果として、憂鬱と感傷の中にかきくれざるを得ない。花袋初期の作風の基調は、一言でいへばここに存するのである。

 

 毎度のことながら、見事なものである。

 この『田舎教師』においても、この作風ははっきりしている。清三は、花袋自身ではなく、モデルがいるのだが、この薄倖の青年への花袋の興味は、そこに自分と同質のものを感じたことからくるだろう。したがって、この清三の「弱さ」は、また花袋の「弱さ」でもあったといっていいだろう。

 清三を取り巻く環境は、清三をただただ絶望させる。その「絶望」の中で、清三は嘆き、泣くばかりだ。

 泡鳴とのなんという違いだろう。泡鳴なら、清三よりももっともっと絶望的な状況の中でも、絶望的な「この今」こそが生きる場だ、生命を燃焼させる場だとして、「行動」するだろう。それがどんなに不道徳で、どんなに破滅的であろうとも、とにかくがむしゃらに生きる。泡鳴は、自分を哀れんで泣いてなどいない。それに対して、清三は「行動」せずに、「不運な自分」を哀れむ。哀れんで涙を流す。それが「感傷的」という意味だ。

 清三の、こうした感傷的な態度は、どんなことをしていても、つきまとい、そのために清三は「今の自分」を肯定できないのだ。

 清三はここへ来ると、いつも生徒を相手にして遊んだ。鬼事(おにごと)の群れに交って、女の生徒につかまえられて、前掛けで眼かくしをさせられることもある。また生徒を集めていっしょになって唱歌をうたうことなどもあった。こうしている間はかれには不平も不安もなかった。自己の不運を嘆くという心も起こらなかった。無邪気な子供と同じ心になって遊ぶのがつねである。しかし今日はどうしてかそうした快活な心になれなかった。無邪気に遊び回る子供を見ても心が沈んだ。こうして幼い生徒にはかなき慰藉を求めている自分が情けない。かれは松の陰に腰をかけてようようとして流れ去る大河に眺めいった。

 

 無心になって生徒と遊ぶことを、「幼い生徒にはかなき慰藉を求めている自分」と捉えて、それが「情けない」と感じるわけだ。幼い生徒と無邪気に遊んでいる自分は、大臣よりも幸福だ! って叫んでもいいのに、どこまでも「かわいそうなぼく」を守ろうとする。

 こうなると、もう感傷の無限循環のようなもので、吉田は、それを「憂鬱と感傷の中にかきくれる」と表現したわけだ。その「かきくれ方」は、この直後の次の部分にはっきりと描かれている。

 

 一日(あるひ)、学校の帰りを一人さびしく歩いた。空は晴れて、夕暮れの空気の影濃(こまや)かに、野には薄(すすき)の白い穂が風になびいた。ふと、路の角に来ると、大きな包みを背負って、古びた紺の脚絆に、埃で白くなった草鞋をはいて、さもつかれはてたというふうの旅人が、ひょっくり向こうの路から出て来て、「羽生の町へはまだよほどありますか」と問うた。
「もう、じきです、向こうに見える森がそうです」
 旅人はかれと並んで歩きながら、なおいろいろなことをきいた。これから川越を通って八王子のほうへ行くのだという。なんでも遠いところから商売をしながらやって来たものらしい。そのことばには東北地方の訛があった。
「この近所に森という在郷がありますか」
「知りませんな」
「では高木というところは」
「聞いたようですけど……」
 やはりよくは知らなかった。旅人は今夜は羽生の町の梅沢という旅店にとまるという。清三は町にはいるところで、旅店へ行く路を教えてやって、田圃の横路を右に別れた。見ていると、旅人はさながら疲れた鳥がねぐらを求めるように、てくてくと歩いて町へはいって行った。何故ともなく他郷という感が激しく胸をついて起こった。かれも旅人、われも同じく他郷の人! こう思うと、涙がホロホロと頬をつたって落ちた。

 

 道ばたで会った旅人を見ても、それに我が身の「不幸」を重ねて「涙がホロホロと頬をつたって落ちた」りしていたのでは、どうにもならない。

 弥勒の小学校の校長の姿をみて、自分の「哀しい未来」を見てしまうのも、結局はこうした「感傷」から来るのである。校長が、「田舎の小学校の校長」という社会的地位に満足しているなら、それはそれでいいじゃないか。自分がそうなりたくないなら、「そうじゃない田舎の校長」になればいいじゃないか。何も、「その校長のようにならない」ためには、文学者になんぞならなくたっていい。その校長とは別の価値を持って生きる校長になればいい。というか、そんな自分とは関係のない校長を軸にして、自分の生き方を考えること自体が愚かだと気づかなければならない。それができないのは、清三の、そして結局は花袋の「想像力が貧弱」だからなのだ。そう吉田精一は言いたいのだと思う。

 

 

 

田山花袋『田舎教師』 7   2018.10.17

 

 現実に失望した清三は、次第に、すべてに消極的になっていく自分をどうすることもできないが、ある日、それまで、老訓導(「訓導」というのは、今でいう「小学校教諭」の意味で、小学校の正教員である、)から話には聞いていた、遊郭に行ってみようと思う。もちろん、そんなことが知れたら代用教員だってクビになるかもしれないのだが、なんとか気分の打開をはかりたかったということだろう。

 この小説は、実在したモデルがいて、その日記などを元に花袋がフィクションとして書いているのだが、この遊郭へいくというくだりは、もとの日記にはないことで、花袋自身の経験をもとにしているといわれている。

 風景描写がいちだんと美しい一節でもあるので、長いが引用しておきたい。

 

 秋季皇霊祭の翌日は日曜で、休暇が二日続いた。大祭の日は朝から天気がよかった。清三はその日大越の老訓導の家に遊びに行って、ビールのご馳走になった。帰途についたのはもう四時を過ぎておった。
 古い汚ない廂の低い弥勒ともいくらも違わぬような町並みの前には、羽生通いの乗合馬車が夕日を帯びて今着いたばかりの客をおろしていた。ラムネを並べた汚ない休み茶屋の隣には馬具や鋤などを売る古い大きな家があった。野に出ると赤蜻蛉が群れをなして飛んでいた。
 利根川の土手はここからもうすぐである。二三町ぐらいしか離れていない。清三はふとあることを思いついて、細い道を右に折れて、土手のほうに向かった。明日は日曜である。行田に行く用事がないでもないが、行かなくってはならないというほどのこともない。老訓導にも校長にも今日と明日は留守になるということを言っておいた。懐には昨日おりたばかりの半月の月給がはいっている。いい機会だ! と思った心は、ある新しい希望に向かってそぞろにふるえた。
 土手にのぼると、利根川は美しく夕日にはえていた。その心がある希望のために動いているためであろう。なんだかその波の閃めきも色の調子も空気のこい影もすべて自分のおどりがちな心としっくり相合っているように感じられた。なかばはらんだ帆が夕日を受けてゆるやかにゆるやかに下って行くと、ようようとした大河の趣をなした川の上には初秋でなければ見られぬような白い大きな雲が浮かんで、川向こうの人家や白壁の土蔵や森や土手がこい空気の中に浮くように見える。土手の草むらの中にはキリギリスが鳴いていた。
 土手にはところどころ松原があったり渡船小屋があったり楢林があったり藁葺の百姓家が見えたりした。渡し船にはここらによく見る機回りの車が二台、自転車が一個(ひとつ)、蝙蝠傘が二個、商人らしい四十ぐらいの男はまぶしそうに夕日に手をかざしていた。船の通る少し下流に一ところ浅瀬があって、キラキラと美しくきらめきわたった。
 路は長かった。川の上にむらがる雲の姿の変わるたびに、水脈のゆるやかに曲がるたびに、川の感じがつねに変わった。夕日はしだいに低く、水の色はだんだん納戸色になり、空気は身にしみわたるようにこい深い影を帯びてきた。清三は自己の影の長く草の上にひくのを見ながら時々みずからかえりみたり、みずからののしったりした。立ちどまって堕落した心の状態を叱してもみた。行田の家のこと、東京の友のことを考えた。そうかと思うと、懐から汗によごれた財布を出して、半月分の月給がはいっているのを確かめてにっこりした。二円あればたくさんだということはかねてから小耳にはさんで聞いている。青陽楼というのが中田では一番大きな家だ。そこにはきれいな女がいるということも知っていた。足をとどめさせる力も大きかったが、それよりも足を進めさせる力のほうがいっそう強かった。心と心とが戦い、情と意とが争い、理想と欲望とがからみ合う間にも、体はある大きな力に引きずられるように先へ先へと進んだ。
 渡良瀬川の利根川に合するあたりは、ひろびろとしてまことに阪東太郎の名にそむかぬほど大河のおもむきをなしていた。夕日はもうまったく沈んで、対岸の土手にかすかにその余光が残っているばかり、先ほどの雲の名残りと見えるちぎれ雲は縁を赤く染めてその上におぼつかなく浮いていた。白帆がものうそうに深い碧の上を滑って行く。
 透綾の羽織に白地の絣を着て、安い麦稈の帽子をかぶった清三の姿は、キリギリスが鳴いたり鈴虫がいい声をたてたり阜斯(ばった)が飛び立ったりする土手の草路を急いで歩いて行った。人通りのない夕暮れ近い空気に、広いようようとした大河を前景にして、そのやせぎすな姿は浮き出すように見える。土手と川との間のいつも水をかぶる平地には小豆や豆やもろこしが豊かに繁った。ふとある一種の響きが川にとどろきわたって聞こえたと思うと、前の長い長い栗橋の鉄橋を汽車が白い煙を立てて通って行くのが見えた。
 土手を下りて旗井という村落にはいったころには、もうとっぷりと日が暮れて、灯がついていた。ある百姓家では、垣のところに行水盥(ぎょうずいだらい)を持ち出して、「今日は久しぶりでまた夏になったような気がした」などと言いながら若いかみさんが肥えた白い乳を夕闇の中に見せてボチャボチャやっていた。鉄道の踏切を通る時、番人が白い旗を出していたが、それを通ってしまうと、上り汽車がゴーと音を立てて過ぎて行った。かれは二三度路で中田への渡し場のありかをたずねた。夜が来てからかれは大胆になった。もう後悔の念などはなくなってしまった。ふと路傍に汚ない飲食店があるのを発見して、ビールを一本傾けて、饂飩(うどん)の盛りを三杯食った。ここではかみさんがわざわざ通りに出て渡船場に行く路を教えてくれた。
 十日ばかりの月が向こう岸の森の上に出て、渡船場の船縁にキラキラと美しく砕けていた。肌に冷やかな風がおりおり吹いて通って、やわらかな櫓の音がギーギー聞こえる。岸に並べた二階家の屋根がくっきりと黒く月の光の中に出ている。
 水を越して響いて来る絃歌の音が清三の胸をそぞろに波だたせた。
 乗り合いの人の顔はみな月に白く見えた。船頭はくわえ煙管の火をぽっつり紅く見せながら、小腰(こごし)に櫓を押した。
 十分のちには、清三の姿は張り見世にごてごてと白粉をつけて、赤いものずくめの衣服で飾りたてた女の格子の前に立っていた。こちらの軒からあちらの軒に歩いて行った。細い格子の中にはいって、あやうく羽織の袖を破られようとした。こうして夜ごとに客を迎うる不幸福(ふしあわせ)な女に引きくらべて、こうして心の餓え、肉の渇きをいやしに来た自分のあさましさを思って肩をそびやかした。廓の通りをぞろぞろとひやかしの人々が通る。なじみ客を見かけて、「ちょいと貴郎(あなた)!」なぞという声がする。格子に寄り合うて何かなんなんと話しているものもある。威勢よくはいってトントン階段を上がって行くものもある。二階からは三絃(しゃみせん)や鼓の音がにぎやかに聞こえた。
 五六軒しかない貸座敷はやがてつきた。一番最後の少し奥に引っ込んだ石菖(せきしょう)の鉢の格子のそばに置いてある家には、いかにも土百姓の娘らしい丸く肥った女が白粉をごてごてと不器用にぬりつけて二三人並んでいた。その家から五六軒藁葺の庇の低い人家が続いて、やがて暗い畠になる。清三はそこまで行って引き返した。見て通ったいろいろな女が眼に浮かんで、上がるならあの女かあの女だと思う。けれど一方ではどうしても上がられるような気がしない。初心なかれにはいくたび決心しても、いくたび自分の臆病なのをののしってみてもどうも思いきって上がられない。で、今度は通りのまん中を自分はひやかしに来た客ではないというようにわざと大跨に歩いて通った。そのくせ、気にいった女のいる張り見世の前は注意した。
 河岸の渡し場のところに来て、かれはしばらく立っていた。月が美しく埠頭にくだけて、今着いた船からぞろぞろと人が上がった。いっそ渡しを渡って帰ろうかとも思ってみた。けれどこのまま帰るのは――目的をはたさずに帰るのは腑甲斐ないようにも思われる。せっかくあの長い暑い二里の土手を歩いて来て、無意味に帰って行くのもばかばかしい。それにただ帰るのも惜しいような気がする。渡し船の行って帰って来る間、かれはそこに立ったりしゃがんだりしていた。
 思いきって立ち上がった。その家には店に妓夫(ぎふ)が二人出ていた。大きい洋燈(らんぷ)がまぶしくかれの姿を照らした。張り見世の女郎の眼がみんなこっちに注がれた。内から迎える声も何もかもかれには夢中であった。やがてがらんとした室に通されて、「お名ざし」を聞かれる。右から二番目とかろうじてかれは言った。
 右から二番目の女は静枝と呼ばれた。どちらかといえば小づくりで、色の白い、髪の房々した、この家でも売れる女(こ)であった。眉と眉との遠いのが、どことなく美穂子をしのばせるようなところがある。
 清三にはこうした社会のすべてがみな新らしくめずらしく見えた。引き付けということもおもしろいし、女がずっとはいって来て客のすぐ隣にすわるということも不思議だし、台の物とかいって大きな皿に少しばかり鮨を入れて持って来るのも異様に感じられた。かれは自分の初心なことを女に見破られまいとして、心にもない洒落を言ったり、こうしたところには通人だというふうを見せたりしたが、二階回しの中年の女には、初心な人ということがすぐ知られた。かれはただ酒を飲んだ。
 厠は階段を下りたところにあった。やはり石菖の鉢が置いてあったり、釣り荵(しのぶ)が掛けてあったりした。硝子の箱の中に五分心の洋燈が明るくついて、鼻緒の赤い草履がぬれているのではないがなんとなくしめっていた。便所には大きなりっぱな青い模様の出た瀬戸焼きの便器が据えてある。アルボースの臭に交って臭い臭気が鼻と目とをうった。
 女の室は六畳で、裏二階の奥にある。古い箪笥が置いてあった。長火鉢の落としはブリキで、近在でできたやすい鉄瓶がかかっている。そばに一冊女学世界が置いてあるのを清三が手に取って見ると、去年の六月に発行したものであった。「こんなものを読むのかえ、感心だねえ」と言うと、女はにッと笑ってみせた。その笑顔を美しいと清三は思った。室の裏は物干しになっていて、そこには月がやや傾きかげんとなってさしていた。隣では太鼓と三絃の音がにぎやかに聞こえた。

 

 遊郭のある「中田」というのは、栗橋から利根川を渡ってしばらく行ったところにある。栗橋というと、円朝の落語「牡丹灯籠」の「栗橋宿」が思い起こされる。こうした地名から喚起されるイメージは、とても大事で、滅多なことでは「地名変更」はしてほしくないものだ。

 夕暮れの利根川はやがて暮れていき、渡し船は、月がキラキラひかる川面を滑っていく。まるで夢のような風景だ。今ではまったく失われた風景が、ここには、見事に残っている。文学の貴重さを思い知るのは、こういう文章を読んだときだ。

 清三の弱々しいこころのあり方には、イライラもするし、しっかりせよと叱咤もしたくなるけれど、こうした風景の中を遊郭へといそぐ清三の気持ちに寄り添って、しばしその感傷をともにしたい。

 

 

田山花袋『田舎教師』 8   2018.10.23

 清三は、結局、肺結核のために21才の若さで亡くなるのだが、それにしても、体の不調を訴えても、地元の医者が、「胃が弱っている」としか診断できないのが、どうにも腑に落ちない。読んでいてもどかしい。

 咳が続き、夕方になると微熱が出て、だるくてしょうがないというような症状は、医者でなくても肺結核ではないかと疑うはずなのに、そして母親はそう疑ってもいるのに、医者がそう診断できない。明治時代の地方というのは、そんなものだったのだろうか。

 そのうち、どんどん体が弱っていくので、行田の原田医院へいって受診すると、「いま少し早くどうかすることができそうなものだった」と原田医師はいう。あきらかに肺結核で、しかも、もうすでに手遅れだというのだ。どうして最初から原田医院へ行かなかったのだろうか。

 病気が悪化していく清三の内面が、きちんと書かれていないという批評がどこかにあったが、確かにその通りで、書かれているのは、彼の焦りだけだ。清三が死んだのは、日露戦争のさなか。その戦争にいけない我が身を恥じる思いが彼の頭をいっぱいにするのだ。

 

 日本が初めて欧州の強国を相手にした曠古(こうこ)の戦争、世界の歴史にも数えられるような大きな戦争──そのはなばなしい国民の一員と生まれて来て、その名誉ある戦争に加わることもできず、その万分の一を国に報いることもできず、その喜びの情を人並みに万歳の声にあらわすことすらもできずに、こうした不運(ふしあわせ)な病いの床に横たわって、国民の歓呼の声をよそに聞いていると思った時、清三の眼には涙があふれた。
 屍(かばね)となって野に横たわる苦痛、その身になったら、名誉でもなんでもないだろう。父母が恋しいだろう。祖国が恋しいだろう。故郷が恋しいだろう。しかしそれらの人たちも私よりは幸福だ──こうして希望もなしに病の床に横たわっているよりは
……。こう思って、清三ははるかに満州のさびしい平野に横たわった同胞を思った。

 

 こう書かれた直後に、清三は息を引き取るのである。

 日露戦争の熱狂のなか、こうして片田舎で、なんの業績も残すことなく、ただの「代用教員」としてわずか21才で死んでいった若者の悲哀を花袋は描きたかったわけだろうが、あまりにこの清三の「不運」「悲哀」に感傷的に寄り添いすぎたために、当時の日本社会のあり方への深い洞察や批判には至らなかったということだろう。

 花袋自身は、この日露戦争を、どう捉え、どう評価していたのだろうか。清三は花袋自身ではないにしても、この清三の感慨は、花袋にとっては、なんの違和感のないものだったのだろうか。

 『田舎教師』は、花袋の作品の中では「傑作」とも評され、花袋自身も満足していたということらしいが、全体としてみると、その風景描写の美しさばかりが際立ち、小説というよりは長編の抒情詩に近い味わいを持つ作品だ。花袋はまさに吉田精一のいう「ロマンチックな風景詩人」なのだということだ。

 清三の人物造型も、その鬱屈と悲哀は、きめ細やかに描かれていて鮮やかだが(特に前半は)、どこまでも感傷に流れて(特に後半は)、精神の深さには到達することはできなかった。

 「感傷に流れる」ということの罪は、人間認識を薄っぺらなものにしてしまうということだ。「悲しみ」を描くことは、読者の共感を得やすいから、さらに、「共感を得やすい」書き方になっていってしまう。通俗に流れる、ことになる。

 岩野泡鳴は、感傷を排することで、読者の共感を拒み、それゆえに自由になり、通俗に堕すことから免れた。泡鳴の『五部作』は、今ではほとんど読者を持たないのに対して、花袋の『田舎教師』は、いまなお一定の読者を持ち得ている(たぶん)のも、それ故であろう。

 花袋はこのへんにしておいて、さて、次は、どうしようか。渋いところで、徳田秋声でも読むことにしようか。

 この「日本近代文学の森へ」は、どうも、「おもしろくなさそうな」小説ばかり読む傾向がますます顕著になってきたようだ。


 

Home | Index