田山花袋「蒲団」を読む

 

 

 


 

田山花袋『蒲団』 1   2018.10.24

 

 『田舎教師』の後は、徳田秋声でも読もうかと思ったのだが、やはり、花袋とくれば『蒲団』を外すわけにはいかないだろうと思い直した。

 これは、少なくとも二度読んでいる。一度目は、たぶん高校生のころ。なんて、ヘンテコな小説なんだと腹を立てたような気がする。その「衝撃的」なラストシーンばかりが記憶に残り、そもそもこの小説のせいで、その後の日本の自然主義がヘンテコな方向へ行ってしまったのだというような文学史的な定説のようなことを、国語の授業でもしゃべったような気がする。

 そのヘンテコな方向というのは、何がなんでも自分の醜い部分を洗いざらい告白すれば文学になると思い込む方向、というように理解して、そんなのはダメなんだ、文学は、そんな狭くて、せこいもんじゃないんだと生徒にも言ったような気がする。すべて、「気がする」レベルのおぼつかなさだが。

 二度目に読んだときは、そのラストシーンが「衝撃」でもなんでもないことに呆れ、それよりも、当時の日本社会が女性の「処女性」をいかに強烈に重んじたかという事実にそれこそ衝撃を受けた。小説のほとんどを占める問題が、「彼女はまだやってないか、どうか」という一点にのみあるように思われ、ただただ呆れた。それがたぶん、20年ほど前のことである。その時、その驚きを味わってほしくて、周囲の人間に、「『蒲団』を読め! びっくりするから。」と、ずいぶん熱っぽく勧めたものだ。

 で、今回は三度目。どうなることか。

 冒頭からいきなり感情が異様な勢いでぶちまけられている。『田舎教師』の、しずかな、ロマンチックな味わいは、どこにもない。

 

 小石川の切支丹坂から極楽水に出る道のだらだら坂を下りようとして渠(かれ)は考えた。「これで自分と彼女との関係は一段落を告げた。三十六にもなって、子供も三人あって、あんなことを考えたかと思うと、馬鹿々々しくなる。けれど……けれど……本当にこれが事実だろうか。あれだけの愛情を自身に注いだのは単に愛情としてのみで、恋ではなかったろうか」
 数多い感情ずくめの手紙──二人の関係はどうしても尋常ではなかった。妻があり、子があり、世間があり、師弟の関係があればこそ敢て烈しい恋に落ちなかったが、語り合う胸の轟、相見る眼の光、その底には確かに凄じい暴風(あらし)が潜んでいたのである。機会に遭遇(でっくわ)しさえすれば、その底の底の暴風は忽(たちま)ち勢を得て、妻子も世間も道徳も師弟の関係も一挙にして破れて了(しま)うであろうと思われた。少くとも男はそう信じていた。それであるのに、二三日来のこの出来事、これから考えると、女は確かにその感情を偽り売ったのだ。自分を欺いたのだと男は幾度も思った。けれど文学者だけに、この男は自ら自分の心理を客観するだけの余裕を有(も)っていた。年若い女の心理は容易に判断し得られるものではない、かの温い嬉しい愛情は、単に女性特有の自然の発展で、美しく見えた眼の表情も、やさしく感じられた態度も都(すべ)て無意識で、無意味で、自然の花が見る人に一種の慰藉(なぐさみ)を与えたようなものかも知れない。一歩を譲って女は自分を愛して恋していたとしても、自分は師、かの女は門弟、自分は妻あり子ある身、かの女は妙齢の美しい花、そこに互に意識の加わるのを如何ともすることは出来まい。いや、更に一歩を進めて、あの熱烈なる一封の手紙、陰に陽にその胸の悶(もだえ)を訴えて、丁度自然の力がこの身を圧迫するかのように、最後の情を伝えて来た時、その謎をこの身が解いて遣(や)らなかった。女性のつつましやかな性(さが)として、その上に猶(なお)露(あら)わに迫って来ることがどうして出来よう。そういう心理からかの女は失望して、今回のような事を起したのかも知れぬ。
「とにかく時機は過ぎ去った。かの女は既に他人(ひと)の所有(もの)だ!」
 歩きながら渠はこう絶叫して頭髪をむしった。

 

 いきなり話の核心の飛び込んでいく様は、泡鳴の書きっぷりに似ている。いや、泡鳴がこの『蒲団』の書きっぷりを真似たのかもしれない。泡鳴自身、『蒲団』からの影響を認めていたのだから。

 しかし泡鳴の小説より、格段に分かりやすい。この冒頭だけで、この話がどういう輪郭を持っているかがすぐに分かる。

 妻子ある作家が、女弟子に恋をしたのだが、裏切られた、ということである。実にシンプルで他愛のない話だ。それなのに、どうして日本の近代文学において、良くも悪くも重要な作品となったのか。その辺を、頭におきつつ読んでいこうと思う。

 この冒頭部の後、主人公の男の仕事の様子が描かれる。

 

 縞セルの背広に、麦稈帽、藤蔓の杖(ステッキ)をついて、やや前のめりにだらだらと坂を下りて行く。時は九月の中旬、残暑はまだ堪え難く暑いが、空には既に清涼の秋気が充ち渡って、深い碧の色が際立って人の感情を動かした。肴屋、酒屋、雑貨店、その向うに寺の門やら裏店の長屋やらが連って、久堅町(ひさかたまち)の低い地には数多(あまた)の工場の煙筒が黒い煙を漲らしていた。
 その数多い工場の一つ、西洋風の二階の一室、それが渠の毎日正午から通う処で、十畳敷ほどの広さの室の中央(まんなか)には、大きい一脚の卓(テーブル)が据えてあって、傍に高い西洋風の本箱、この中には総て種々の地理書が一杯入れられてある。渠はある書籍会社の嘱託を受けて地理書の編輯の手伝に従っているのである。文学者に地理書の編輯! 渠は自分が地理の趣味を有っているからと称して進んでこれに従事しているが、内心これに甘じておらぬことは言うまでもない。後れ勝なる文学上の閲歴、断篇のみを作って未だに全力の試みをする機会に遭遇せぬ煩悶、青年雑誌から月毎に受ける罵評の苦痛、渠自らはその他日成すあるべきを意識してはいるものの、中心これを苦に病まぬ訳には行かなかった。社会は日増に進歩する。電車は東京市の交通を一変させた。女学生は勢力になって、もう自分が恋をした頃のような旧式の娘は見たくも見られなくなった。青年はまた青年で、恋を説くにも、文学を談ずるにも、政治を語るにも、その態度が総て一変して、自分等とは永久に相触れることが出来ないように感じられた。

 

 花袋は、明治4年、今の群馬県館林市に生まれた。父は館林秋元藩士だったが、西南の役に従軍して戦死している。花袋が7才の時だった。その後は、学校に行くことはなかったが、漢学や英語や和歌を学び、21才のときに尾崎紅葉門下となる。しかし、その後の文筆活動は芳しくなく、ここに書かれているように、「ある書籍会社」に入社して「地理書の編輯(へんしゅう)」をしたりしていた。この会社は、明治32年、花袋29才のときに入社した「博文館」であり、花袋は明治45年まで在職する。つまり、42才になるまで、花袋の創作活動は、会社勤務の側らに行われたのだ。

 『蒲団』は明治40年、花袋37才の作だから、まさに、この小説はほとんどが花袋自身の実体験であるわけで、この小説がいわゆる「私小説」への道を切り開いたといわれるのも、そのためである。

 出版社に勤めながらの文学活動が思うにまかせず、評判も悪いことへの愚痴も、作者自身の感慨であろう。

 それにしても、世の中の変化に驚き嘆く様は、まるで今と同じで、人間や社会というものは、いつまでたっても、「一変」の連続なのだろう。

 「女学生は勢力になって、もう自分が恋をした頃のような旧式の娘は見たくも見られなくなった。」と花袋は書くわけだが、それなら、今の世の中の「娘」を何とみるだろう。明治の末期、すでに「旧式の娘」はどこにもいない。36才の花袋は、ついていけないやと嘆いているのである。こういうことって、ほんとに不思議である。

 

 で、毎日機械のように同じ道を通って、同じ大きい門を入って、輪転機関の屋(いえ)を撼(うごか)す音と職工の臭い汗との交った細い間を通って、事務室の人々に軽く挨拶して、こつこつと長い狭い階梯を登って、さてその室に入るのだが、東と南に明いたこの室は、午後の烈しい日影を受けて、実に堪え難く暑い。それに小僧が無精で掃除をせぬので、卓の上には白い埃がざらざらと心地悪い。渠は椅子に腰を掛けて、煙草を一服吸って、立上って、厚い統計書と地図と案内記と地理書とを本箱から出して、さて静かに昨日の続きの筆を執り始めた。けれど二三日来、頭脳(あたま)がむしゃくしゃしているので、筆が容易に進まない。一行書いては筆を留めてその事を思う。また一行書く、また留める、又書いてはまた留めるという風。そしてその間に頭脳に浮んで来る考は総て断片的で、猛烈で、急激で、絶望的の分子が多い。ふとどういう聯想か、ハウプトマンの「寂しき人々」を思い出した。こうならぬ前に、この戯曲をかの女の日課として教えて遣ろうかと思ったことがあった。ヨハンネス・フォケラートの心事と悲哀とを教えて遣りたかった。この戯曲を渠が読んだのは今から三年以前、まだかの女のこの世にあることをも夢にも知らなかった頃であったが、その頃から渠は淋しい人であった。敢てヨハンネスにその身を比そうとは為(し)なかったが、アンナのような女がもしあったなら、そういう悲劇(トラジディ)に陥るのは当然だとしみじみ同情した。今はそのヨハンネスにさえなれぬ身だと思って長嘆した。
 さすがに「寂しき人々」をかの女に教えなかったが、ツルゲネーフの「ファースト」という短篇を教えたことがあった。洋燈の光明(あきら)かなる四畳半の書斎、かの女の若々しい心は色彩ある恋物語に憧れ渡って、表情ある眼は更に深い深い意味を以(もっ)て輝きわたった。ハイカラな庇髪、櫛、リボン、洋燈の光線がその半身を照して、一巻の書籍に顔を近く寄せると、言うに言われぬ香水のかおり、肉のかおり、女のかおり――書中の主人公が昔の恋人に「ファースト」を読んで聞かせる段を講釈する時には男の声も烈しく戦(ふる)えた。
「けれど、もう駄目だ!」
 と、渠は再び頭髪(かみ)をむしった。

 

 引用部の最後のあたりの女の描写を読むと、この二人はすぐにでも肉体関係を結ぶかと思われるのだが、そうはならない。そこが、変といえば変だし、面白いといえば面白い。

 とにかく、こうして、『蒲団』は、始まる。

 

 

田山花袋『蒲団』 2   2018.10.26

 

 ことの概要を述べてから、主人公の紹介に入る。そしてすぐに、どうして彼が女弟子に恋することになったのかの、生活的な背景がざっと書かれる。

 

 渠(かれ)は名を竹中時雄と謂(い)った。
 今より三年前、三人目の子が細君の腹に出来て、新婚の快楽などはとうに覚め尽した頃であった。世の中の忙しい事業も意味がなく、一生作(ライフワーク)に力を尽す勇気もなく、日常の生活――朝起きて、出勤して、午後四時に帰って来て、同じように細君の顔を見て、飯を食って眠るという単調なる生活につくづく倦き果てて了(しま)った。家を引越歩いても面白くない、友人と語り合っても面白くない、外国小説を読み渉猟(あさ)っても満足が出来ぬ。いや、庭樹の繁り、雨の点滴、花の開落などいう自然の状態さえ、平凡なる生活をして更に平凡ならしめるような気がして、身を置くに処は無いほど淋しかった。道を歩いて常に見る若い美しい女、出来るならば新しい恋を為たいと痛切に思った。
 三十四五、実際この頃には誰にでもある煩悶で、この年頃に賤しい女に戯るるものの多いのも、畢竟その淋しさを医(いや)す為めである。世間に妻を離縁するものもこの年頃に多い。

 

 この小説は、「渠(かれ)」という三人称を使っているけど、「渠」は、花袋自身をモデルにしている。しかし、それがいわゆる「私小説」であるかというと、そうでもないようで、例えば、新潮文庫『蒲団・重右衛門の最後』の解説で、福田恆存は、「かれ(花袋)の主張した平面描写論というのは、よきにつけあしきにつけ、元来私小説とは反対のものであります。藤村には私小説にふさわしい一種のあくの強さがありましたし、また花袋のあとに後期自然主義の中心人物となり、その一元描写論によって花袋と対立した岩野泡鳴のほうが、私小説作家として、より徹底しておりました。泡鳴にくらべて花袋は、小説の登場人物的生涯を送るだけのロマンチックな情熱はなかった。また藤村にくらべて、隠すべき、あるいは隠したものを告白すべき自我の秘密をもっていなかった。」と述べている。

 それで、福田恆存は、『蒲団』には「感傷的なうそがおおい」としている。これが正しいのかどうかはぼくには判断ができないけれど、『蒲団』に書かれていることが全部事実だ、花袋の告白だ、とはいえないということは、頭においておかねばならない。

 まあ、いくら作家が「事実の告白だ」と言ったところで、そこに嘘がないなんて信じることはできない。もともと「嘘つき」だから作家になれるのだ。本人に嘘をついているという自覚がなくても、「語られたこと」に嘘がまじらない保証はないということは、何も作家に限ったことではない。ぼくらの日々の生活の端々に、嘘はたくさん転がっている。

 そういうわけで、「竹中時雄」イコール「田山花袋」ではないとしたうえでのことだが、それでも、ここに書かれている生活の背景は、ほぼ花袋のそれである。花袋は、尾崎紅葉門下となったけれど、あまりパッとしなかった。それで、博文館に勤めながら創作活動を続けたわけで、不遇の我が身への愚痴は、花袋のものであったろう。

 花袋の結婚は明治32年であり、『蒲団』が発表されたのは明治40年だから、だいたい事実と符合する。ここでいう「今」が、『蒲団』執筆時だとすると、この「事件」は、明治37年ごろ(花袋34歳)というあたりとなるわけである。

 「三人目の子が細君の腹に出来て、新婚の快楽などはとうに覚め尽した頃」、つまりは、結婚しておよそ5年目ぐらい。すでに子どもも2人おり、さらに妻は身重だ。だから、時雄はすべてにおいて「面白くない」という。平凡すぎる「言い訳」だ。正直といえば正直。

 家に帰れば糠味噌臭い女房がいるだけで、糞面白くもないから、遊郭へ行って「賤しい女に戯るる」しかないような「煩悶」は、この年ごろの男なら誰でも感じるものであり、その果てには「妻を離縁する」ものも多いのである、という書き方は、「だから、女弟子に恋したのも当然だったのだ」って言いたいわけ? という反発を生む。「世間に妻を離縁するものもこの年頃に多い。」という言い方も、あまりに一方的で、「離縁されるのも無理はない。みんな女房の方が悪いのだ。」といわんばかり。花袋は「言わんばかり」で、実際には「言わない」が、泡鳴となると、「色気を失った女房が悪い」と面と向かって言ってしまう。

 「道を歩いて常に見る若い美しい女、出来るならば新しい恋を為たいと痛切に思った。」などというあたりは、泡鳴に比べると、むしろカワイイもので、福田恆存が「小説の登場人物的生涯を送るだけのロマンチックな情熱はなかった。」というのもムベなるかなである。しかし、カワイイも度が過ぎると次のような次第となる。

 

 出勤する途上に、毎朝邂逅(であ)う美しい女教師があった。渠はその頃この女に逢うのをその日その日の唯一の楽みとして、その女に就いていろいろな空想を逞(たくましゅ)うした。恋が成立って、神楽坂あたりの小待合に連れて行って、人目を忍んで楽しんだらどう……。細君に知れずに、二人近郊を散歩したらどう……。いや、それどころではない、その時、細君が懐妊しておったから、不図難産して死ぬ、その後にその女を入れるとしてどうであろう。……平気で後妻に入れることが出来るだろうかどうかなどと考えて歩いた。


 ほんとに、まったくいい気なものだが、世の中の男というものは、こんなしょうもないことを結構考えているもので、同類の男としては忸怩たるものがあるけれど、それにしても、難産で死んだらその後にその女をいれることができるかなあ、なんて思うあたり、まったくヒドイとしかいいようがない。現代の女性がこれを読んだら、もう、ここだけでアウトだろう。次を読む気が起きないんじゃないだろうか。

 けれども、岩野泡鳴は、こんなもんじゃなかった。女房が死んでくれればいいと考える場面が何度もでてくる。そして、妻に対する不満は、もっと身も蓋もない言い草になる。つまり、女というものは、結婚して子どもを産むと、もう、子どものほうへ気持ちが行ってしまうから、夫にとっては意味がない、みたいなことを言うのだ。しかも、それを妻に対して罵倒の口調で言い放つ。妻も黙っちゃいないから、激しく言い返し、すさまじい大げんかとなるわけだが、それはそれで、どこか痛快な印象がある。「お互いに言いたい放題」だからだ。

 しかし、時雄の場合は、心の中でそう思っているだけで、妻に文句を言うわけではない。文句を言わずに、心のなかでグチグチと思っている。泡鳴のほうが豪快で、「男らしい」のかもしれない。まあ、「男らしさ」なんて、この際どうでもいいのだが。

 

 

田山花袋『蒲団』 3   2018.10.29

 

 では、時雄が恋した女弟子とはどんな女性だったのか。前回の引用部分の直後である。

 

 神戸の女学院の生徒で、生れは備中の新見町(にいみまち)で、渠の著作の崇拝者で、名を横山芳子という女から崇拝の情を以て充された一通の手紙を受取ったのはその頃であった。竹中古城〈注:時雄のペンネーム〉と謂えば、美文的小説を書いて、多少世間に聞えておったので、地方から来る崇拝者渇仰者の手紙はこれまでにも随分多かった。やれ文章を直してくれの、弟子にしてくれのと一々取合ってはいられなかった。だからその女の手紙を受取っても、別に返事を出そうとまでその好奇心は募らなかった。けれど同じ人の熱心なる手紙を三通まで貰っては、さすがの時雄も注意をせずにはいられなかった。年は十九だそうだが、手紙の文句から推して、その表情の巧みなのは驚くべきほどで、いかなることがあっても先生の門下生になって、一生文学に従事したいとの切なる願望(のぞみ)。文字は走り書のすらすらした字で、余程ハイカラの女らしい。返事を書いたのは、例の工場の二階の室で、その日は毎日の課業の地理を二枚書いて止(よ)して、長い数尺に余る手紙を芳子に送った。その手紙には女の身として文学に携わることの不心得、女は生理的に母たるの義務を尽さなければならぬ理由、処女にして文学者たるの危険などを縷々(るる)として説いて、幾らか罵倒的の文辞をも陳(なら)べて、これならもう愛想をつかして断念(あきら)めて了(しま)うであろうと時雄は思って微笑した。そして本箱の中から岡山県の地図を捜して、阿哲郡(あてつぐん)新見町の所在を研究した。山陽線から高梁川(たかはしがわ)の谷を遡って奥十数里、こんな山の中にもこんなハイカラの女があるかと思うと、それでも何となくなつかしく、時雄はその附近の地形やら山やら川やらを仔細に見た。

 

 芳子は、時雄の熱烈なファンだったということだ。紅葉門下で、「美文的小説」を書いてはいたが、いっこうに芽の出なかった時雄にしてみれば、嬉しかったはずだが、そんな手紙はそれまでも何通も貰っていて、いちいち取り合うこともしなかったんだと強がりながら、「同じ人の熱心なる手紙を三通まで貰っては、さすがの時雄も注意をせずにはいられなかった。」という。なにが「さすがの時雄」なのかよく分からない。「いくら堅物の時雄でも」といいたいのだろうが、魂胆・下心みえみえの時雄では、「さすがの時雄」じゃ意味不明だ。

 どんな女が言い寄ってきても、断固として排斥するのが時雄の信条じゃないはずだろう。「道を歩いて常に見る若い美しい女、出来るならば新しい恋を為たいと痛切に思った。」と書いたばかりじゃないか。

 で、「熱心なる手紙」を、たった「三通」貰ったということで、もう時雄は、返事を書かずにいられない。「熱心さ」よりも、年が19というのが、決定的だったんじゃなかろうか。

 時雄は手紙をじっくりと見る。その文章は「表情の巧みなのは驚くべきほど」、筆跡は「走り書のすらすらした字」だ。手紙から相手の人間性を推し量るというのは、平安時代からなんら変わらないところ。その分析の結果は、「余程ハイカラな女らしい」ということになる。

 この「ハイカラ」が問題だ。今ではほとんど使わないが、かといって、意味が分からなくなってしまったというほどでもないけっこう息の長い言葉だ。当時としては、「ハイカラな女性」といえば、「進んだ女性」ぐらいの意だろうか。江戸時代以来の古くさい女性ではなくて、西洋の価値観に影響された先進的な女性。あるいは、そこまでいかなくても、教養のある女性、ぐらいでもいいかもしれない。

 しかし、文章が巧みで、筆跡がスラスラしているだけで、どうして「ハイカラ」だと言えるのか。ハイカラじゃない当時の女性は、そうそう手紙なんて書けなかったということだろうか。

 この「ハイカラ問題」は、実は、この小説にとっては非常に重要な問題であることが、すぐに分かってくる。

 時雄は、いそいそと返事を書く。それも、「長い数尺に余る手紙」だ。当時のことだから、巻紙に書いたわけだ。その内容たるや、どうにもしょうもない、およそ文学者らしくない陳腐なものだ。

 「女の身として文学に携わることの不心得」とはなんだろう。いったい何が「不心得」なのか。女は文学などというヤクザなものに携わることなく、その「生理的」本然に従って子どもを産むことこそが肝要であります、てなことだろうか。それなら、男が携わることが相応しいのだろうか。二葉亭は「文学は男子一生の仕事にあるず」って言ってたけど。

 「処女にして文学者たるの危険」というのは、ますますもって意味不明。なんでここに「処女」が出て来るのか、さっぱり分からない。「処女」が「文学者」になるとどうして「危険」なのだろうか。恋愛も何にもしらない「処女」では、恋愛の機微など書けるわけないからそれで文学的に「危険」なのだろうか。それとも、「文学者」には、ろくなヤツはいないから、「処女」だということがバレようものなら、いつなんどき、そいつらに襲われるか分かったもんじゃないという意味での身の「危険」なのだろうか。何とも判断しかねる。この後の展開からすると、後者が当たらずといえども遠からず、といったところだけど。

 そうした陳腐な説教めいたことを、1メートル以上も書いて、しかもそれを「幾らか罵倒的の文辞をも陳べ」たというのだから呆れる。「罵倒的の文辞」なんて、「てめえ、二度とこんな甘い手紙を書いてくるんじゃねえぞ!」なんてこと書いたというのだろうか。それも、ほんとは下心ありありなのに、わざと「愛想づかし」をしたというのだからいけすかない。

 で、「これならもう愛想をつかして断念(あきら)めて了(しま)うであろうと時雄は思って微笑した。」というのだが、この最後の「微笑」がまた分からない。一体全体この「微笑」って何だろう。これで諦めるだろうという「安堵の微笑」であるはずがない。言葉は「罵倒的」でも、1メートルを越す返事を貰って、相手が、あ、いけそう、って思わないわけがない。だから、これだけ書いてやっても、この子は、きっとまた熱烈な返事をくれるに違いない、シメシメ、の「微笑」だろう。やだよなあ、こういう男。

 そうしたヘンテコな「微笑」を頬に浮かべながら、時雄は、地図を見る。この部分は悪くない。

 「阿哲郡新見町」というのは、今の新見市だ。今では、伯備線が通っているが、伯備線の全線開通は昭和になってからのことだから、当時はまだ、「山陽線から高梁川(たかはしがわ)の谷を遡って奥十数里」ということになる。花袋は地理好きで、後年には、紀行文もたくさん書いているので、こういう記述も得意とするところだったのだろう。

 手紙をくれた女がどんなところに生まれ住んでいるのだろうと「研究」する気持ちは、下心を別にして、とてもよく分かる。人間には、生まれ育った土地、風土の刻印が色濃く刻まれているものだ。土地、風土のイメージは、そこに生まれそだった人間のイメージに濃密に結び付く。

 読者のほうもまた地図で「新見ってどこ?」と探すことになる。ぼくの場合は、「高梁」に宿泊したことがあるので、ちょっと嬉しい。ああ、新見の女性ね、と、ぼくまでもが、「なつかしい」感じにおそわれる。

 ちなみに、ここにでてくる「なつかしい」という言葉は、今でいう、「昔がなつかしい」とか「故郷がなつかしい」とかいう意味で使われているのではなくて、古文でよく出てくる意味で使われている。古語辞典の説明はこうなっている。

 「なつかし=動詞「なつ(懐)く」(=なれ親しむ)からできた形容詞。基本的には、その人や物に心がひかれ、離れたくない、もっとそばに置きたい、という気持ちを表す。そこから、好ましい、いとしい、の意になる。現代語との違いに注意。」(小学館「全文全訳古語辞典」)

 

 

田山花袋『蒲団』 4 作家の「容色」   2018.10.31

 

 これでもう返事はこないだろうと思って、「微笑」した時雄だったが、「案の定」返事が来た。

 

 で、これで返辞をよこすまいと思ったら、それどころか、四日目には更に厚い封書が届いて、紫インキで、青い罫の入った西洋紙に横に細字で三枚、どうか将来見捨てずに弟子にしてくれという意味が返す返すも書いてあって、父母に願って許可を得たならば、東京に出て、然るべき学校に入って、完全に忠実に文学を学んでみたいとのことであった。時雄は女の志に感ぜずにはいられなかった。東京でさえ――女学校を卒業したものでさえ、文学の価値(ねうち)などは解らぬものなのに、何もかもよく知っているらしい手紙の文句、早速返事を出して師弟の関係を結んだ。

 

 「紫インキで、青い罫の入った西洋紙に横に細字で三枚」という手紙。その昔、梓みちよが「ミドリのインクで手紙を書けば〜」と歌ってたけど(今調べて、今さらながらびっくりしたのだが、この「メランコリー」って歌は、作詞・喜多条忠、作曲・吉田拓郎だったんだ。)、あれは「別れの印」だった。「紫インク」かあ。しかも「青い罫の入った西洋紙」、その西洋紙に「横に細字」。たしかに「ハイカラ」だ。これが、新見という岡山の奥の田舎から来たのだから、いかにこの頃の文学熱が、地方へまで広がっていたかがわかろうというもの。

 地方での文学熱というと、すぐに室生犀星と萩原朔太郎のことが思い出される。金沢と前橋の風土の中に育った、それもまったく違った家庭環境に育った二人の熱い文学的な交流は、近代文学史の中でも異彩をはなっている。

 文学への熱意を綴った女の手紙を読んだ時雄は、前に出した手紙で「女の身として文学に携わることの不心得」を説いたにもかかわらず、掌を返したように「女の志に感ぜずにはいられなかった」という。「東京でさえ──女学校を卒業したものでさえ、文学の価値(ねうち)などは解らぬものなのに、何もかもよく知っているらしい手紙の文句」に感激してしまう。くどいけど、「女が文学に携わることの不心得」はどうなったのさ! 

 そして、「早速返事を出して師弟の関係を結んだ。」わけなのだ。この「早速(さっそく)」に、時雄の「待ってました!」の信条が露骨に現れている。

 それにしても、「師弟の関係」というのは、どういうものなんだろうか。今では、小説家が「弟子入り」するなんて話はほとんど聞かないが、明治のころは、かなり一般的だったのだろう。花袋自身が、尾崎紅葉に弟子入りしているわけだし、男女で有名なのは、与謝野鉄幹と晶子で、これなんかは、ドロドロの師弟関係だったわけで、花袋の頭の中には、晶子のことが浮かんでいたのかもしれない。

 さて、その後、どうなったのか。引用を続けよう。


 それから度々の手紙と文章、文章はまだ幼稚な点はあるが、癖の無い、すらすらした、将来発達の見込は十分にあると時雄は思った。で一度は一度より段々互の気質が知れて、時雄はその手紙の来るのを待つようになった。ある時などは写真を送れと言って遣ろうと思って、手紙の隅に小さく書いて、そしてまたこれを黒々と塗って了った。女性には容色(きりょう)と謂(い)うものが是非必要である。容色のわるい女はいくら才があっても男が相手に為ない。時雄も内々胸の中で、どうせ文学を遣ろうというような女だから、不容色(ぶきりょう)に相違ないと思った。けれどなるべくは見られる位の女であって欲しいと思った。


 文学的な才能はあると時雄は判断する──といっても、手紙だけで、将来見込みがあると判断するのはいかにも早計だ。結局、時雄にとって、将来の見込みなんてことは二の次なのだ。頭は、どんな女なんだろうということでいっぱいで、せめて写真で確かめたい。で、「写真を送れ」と「手紙の隅に小さく書いて、そしてまたこれを黒々と塗って了った。」ということになる。「写真を送れ」なんて書いたら、下心を見透かされると思ったのだろうが、書いたのを「黒々と塗る」なんて、やっぱり思わせぶり。書き直せばいいのに。

 その後の記述がヒドイ。「女性には容色(きりょう)と謂(い)うものが是非必要である。容色のわるい女はいくら才があっても男が相手に為ない。」って、いったいなに、この言い草は。オレだけが美人が好きなわけじゃない、男はみんなそうだ、なんて言われたら、泡鳴なんかは怒るだろう。

 泡鳴が恋をした相手は、すべて、「容色のわるい女」だ。美人なんかひとりも出てこない。なんだか、嫌な顔した女だなあなんて思いながら、その女に溺れていくのが泡鳴で、「美人にひかれない男はいない」などと言って、自分の不道徳な恋を正当化しようなんてこれっぽっちも思わないのが泡鳴だ。

 花袋は(時雄は)違う。恋に先立って、相手の「基準」を作ってしまう。まあ、これも、そう目くじら立てて非難されるべきことではないのかもしれなくて、今でも、「好みの女性(男性)のタイプは?」なんて質問は当たり前のように行われ、それに対して、「美人じゃなきゃダメです。」とか「イケメンがいい。」とか普通は言わずに、「あたたかい人がいいです。」とか、「やさしくて面白い人がいいです。」とか言ってるけど、心の底では、「美人がいい。」「絶対イケメン。」とか思っているに違いないのだ。

 でも、ほんとうは、恋に「基準」なんてなくて、「なぜだか分かんないけど、好きになっていた」あたりがリアルなところじゃなかろうか。

 まあ、それはそれとして、この後の「時雄も内々胸の中で、どうせ文学を遣ろうというような女だから、不容色(ぶきりょう)に相違ないと思った。けれどなるべくは見られる位の女であって欲しいと思った。」というのは、正直といえば正直だけど、なんか身も蓋もない言い方だ。

 昔から女性の作家に美人はいないみたいなことが言われていて、戦後曾野綾子が出てきたとき、珍しく美人作家の出現だとかいってもてはやされたことがあったような気がする。今では美人の女流作家なんて珍しくもないけど。というか、今ではもうどういうのが美人なのかさっぱり分からない。いい時代である。

 作家の容色というのは、別に女性だけの問題じゃない。松本清張などは、自分が醜男だったことをバネにして作家の道に励んだという話も聞くし、室生犀星など、もう醜男の典型みたいなもので、子どものころはそれが原因で学校でも素行が荒れて、放校になったなんて話もある。イケメンだからといっていい作品が書けるわけじゃないから、どっちだっていいようなものだが、吉行淳之介のようなイケメンになると、なかなか犀星のような醜男にはありえないような女性関係もあったりするから、その作品世界はそれなりに広がるのも事実。だから、作家の容色は、どうだっていい、ということにはならない。

 時雄は、「どうせ文学を遣ろうというような女だから、不容色(ぶきりょう)に相違ないと思った。」わけだが、それは、それまで出会ってきた「文学を遣ろうというような女」は、おしなべて「不容色」だったという経験があるからなのだろうか。それとも、それが当時の通念だったのだろうか。で、もし本当に「不容色」な女だったら、時雄はそれでもその女を弟子として受け入れたのだろうか。

 「けれどなるべくは見られる位の女であって欲しいと思った。」というのが最後に来るわけだが、どうにも煮え切らない。どうせ下心見え見えなんだから、「見られる位の女」なんて回りくどいこといわずに(それにしても、「見られる位の女」とは、変な言い方だなあ)、「超美人だったらいいなあ。」ぐらい言うだけの率直さがほしい。この変に煮え切らないところに、作家花袋の性格が出ているのだろうか。

 

 

田山花袋『蒲団』 5 「ハイカラ」な女学生   2018.11.4

 

 さて、件の女がやってきた。どうせブスに決まっているといいながら、できれば「見られる位の女」だったらなあという虫のいい時雄の思いは予想を裏切る形でかなえられた。美人だったのだ。


 芳子が父母に許可(ゆるし)を得て、父に伴(つ)れられて、時雄の門を訪うたのは翌年の二月で、丁度時雄の三番目の男の児の生れた七夜の日であった。座敷の隣の室は細君の産褥で、細君は手伝に来ている姉から若い女門下生の美しい容色であることを聞いて少なからず懊悩した。姉もああいう若い美しい女を弟子にしてどうする気だろうと心配した。時雄は芳子と父とを並べて、縷々(るる)として文学者の境遇と目的とを語り、女の結婚問題に就いて予(あらかじ)め父親の説を叩(たた)いた。

 

 しかし、時期が悪すぎる。時雄の妻は、子どもを産んで間もない「お七夜」を迎えたばかり。こともあろうに、その産褥の床の隣室の座敷に、美人の芳子が通された。無神経にもほどがある。

 「座敷の隣の室は細君の産褥で、細君は手伝に来ている姉から若い女門下生の美しい容色であることを聞いて少なからず懊悩した。」とあるけど、なんとも中途半端な書き方だ。

 この小説は、三人称が使われていて、いちおう「客観的な視点」(いわゆる「神の視点」)で書かれているわけだが、実際には、ほとんどが「時雄」の視点で書かれているといっていい。というのも、登場人物の中で、その心の中が詳しく描かれるのは時雄だけだからだ。「細君」は、やってきたのが美人だって聞いて、「少なからず懊悩した」とだけ書かれていて、その内面はまったく書かれない。詳しくは書かれないけど「懊悩した」ことは「事実」として書かれているわけで、これが一人称の視点の小説だと、「細君は少なからず懊悩したらしい」とか「細君は少なからず懊悩したと後で姉から聞いた。」とか書かねばならない。「細君」の心中は時雄には分からないからだ。

 三人称の小説は、その点、「細君」の心中に立ち入って描くことができるわけだから、それこそ微に入り細に入って細君の「懊悩」を書けるのだ。そしてそうしてこそ、脳天気な時雄と、その時雄に振り回される「細君」の苦悩がドラマチックにからみあい、読み所多い小説ともなるのだ。

 逆に、「一人称の視点」を徹底するなら、「細君」の心中はそれこそ「闇」であると認識し、その言動とか表情を繊細に書くことで、「細君」の内面をおもんぱかることとなり、それはそれでまた読み所は多いわけだ。

 それなのに、中途半端に「少なからず懊悩した」でおしまいでは、どうしようもない。「細君」のことなんか、完全に置いてけぼりである。姉も「心配」したとあるだけで、その心配の中身は「姉」なる人物の感想、「ああいう若い美しい女を弟子にしてどうする気だろう」というだけで、そっけない。

 そんな細君や姉の懊悩やら心配やらには頓着することなく、時雄は、芳子とその父を前にトウトウと演説をぶつ。

 「文学者の境遇と目的」をどう語ったのかはだいたい想像はつくけれど、「女の結婚問題に就いて予め父親の説を叩いた。」というのはなんのことだろう。「叩いた」というのだから、批判して否定したのだろうが、それじゃ、父親はどういう「説」を語ったのか。それを書かなきゃダメじゃないか。

 あえて想像すれば、父親は、「この子は文学に携わろうとしてはいますが、結婚だけは、人並みに、しかるべき家のしかるべき男との縁組みをさせたいと存じます。」とか言ったのだろうか。それに対して時雄は、「お父さん、それは心得違いというものです。今は、時代がすっかり変わったのです。女も一人の人間として自立しなければなりません。ですから、結婚は、お嬢さんの意志が最優先すべきなのです。」てなことかしら。

 芳子の家はどういう家だったかが、ここで問題となる。花袋は、順序よく書いている。

 芳子の家は新見町でも第三とは下らぬ豪家で、父も母も厳格なる基督教信者(クリスチャン)、母は殊(こと)にすぐれた信者で、曽(かつ)ては同志社女学校に学んだこともあるという。総領の兄は英国へ洋行して、帰朝後は某官立学校の教授となっている。

 田舎とはいっても、その新見町の「豪家」だったのだ。しかも両親とも「厳格なる基督教信者」だ。母が学んだのが同志社だというから、プロテスタントの信者ということになる。しかし「母は殊にすぐれた信者で」というところが変。「すぐれた信者」という根拠が「同志社女学校に学んだ」ということになっていて、そんなことで信者の優劣が決まるなんて、通俗にすぎる。まあ、花袋は、あんまり基督教への興味も理解もなかったのだろう。


 芳子は町の小学校を卒業するとすぐ、神戸に出て神戸の女学院に入り、其処でハイカラな女学校生活を送った。基督教の女学校は他の女学校に比して、文学に対して総て自由だ。その頃こそ「魔風恋風」や「金色夜叉」などを読んではならんとの規定も出ていたが、文部省で干渉しない以前は、教場でさえなくば何を読んでも差支(さしつかえ)なかった。学校に附属した教会、其処で祈祷の尊いこと、クリスマスの晩の面白いこと、理想を養うということの味をも知って、人間の卑しいことを隠して美しいことを標榜するという群の仲間となった。母の膝下が恋しいとか、故郷が懐かしいとか言うことは、来た当座こそ切実に辛く感じもしたが、やがては全く忘れて、女学生の寄宿生活をこの上なく面白く思うようになった。旨味い南瓜を食べさせないと云っては、お鉢の飯に醤油を懸けて賄方(まかないかた)を酷(いじ)めたり、舎監のひねくれた老婦の顔色を見て、陰陽(かげひなた)に物を言ったりする女学生の群の中に入っていては、家庭に養われた少女のように、単純に物を見ることがどうして出来よう。美しいこと、理想を養うこと、虚栄心の高いこと──こういう傾向をいつとなしに受けて、芳子は明治の女学生の長所と短所とを遺憾なく備えていた。


 家が金持ちだから、「神戸の女学院」に入ることができた。そして、そこで「ハイカラ」な女学生となったというのだ。

 ここで興味深いのは、「基督教の女学校は他の女学校に比して、文学に対して総て自由だ。」という記述。基督教教育の中では、むしろ「文学」に対していは厳しいのかと思うと、「公立学校」の方がよほど厳しかったらしい。「文部省の干渉」というのは、どのくらいあったのだろうか。詳しく調べてみたい誘惑にかられる。少なくとも、この「文学に対して総て自由」の女学校でも、『魔風恋風』や『金色夜叉』は、読んではいかんという文部省からの指導が、私立学校のほうへもあったということになる。

 明治の社会での道徳というものは、まだまだ江戸時代以来の古い道徳が色濃く残っていて、そこに新風を吹き込んだのは、西欧の文化を担う、キリスト教だったことがよく分かる。けれども、またその新風は新たな「道徳」として、人々を縛ることにもなったのだ。

 『金色夜叉』はともかく、『魔風恋風』なんて聞いたことないので、調べてみると、小杉天外の小説で、当時は新聞に載って、やたらあたったらしい。新聞が売れすぎて、新聞を「増刷」するという珍しいことまで起きたと、wikiには書いてあった。かつては岩波文庫に入っていたが、長らく絶版だったのを、本田和子(ますこ)が『女学生の系譜』(1990)で論じたことで復活したらしい。岩波文庫での復活ではなくて、他社から出たようだ。当時の「ハイカラな女学生」の生態が描かれているらしく、これも読んでみたい誘惑にかられるが、時間がないので、やめておこう。きりがない。

 「学校に附属した教会、其処で祈祷の尊いこと、クリスマスの晩の面白いこと、理想を養うということの味をも知って、人間の卑しいことを隠して美しいことを標榜するという群の仲間となった。」というあたりが、当時の女学生の一般的な姿ということになるだろう。「人間の卑しいことを隠して美しいことを標榜する」というのが分かりにくいけど、これが当時のキリスト教的な理想主義的恋愛観、つまり「人間の卑しいこと=性」「美しいこと=精神的な恋愛」ということになるだろう。いわゆる「プラトニックな愛」である。

 これこそが、当時の若い男女の恋愛を導いていたのであって、だからこそ、最初はキリスト教に入信した岩野泡鳴が、そこから離脱して、「心身合一」を唱え、性愛も含めた恋愛こそ本当だと叫んだのである。

 さて、それなら、花袋の「恋愛観」はどうなっているのか。それは、今後の時雄の行動となって現れるに違いない。

 

 

 

田山花袋『蒲団』 6 『蒲団』のほんとうの「衝撃」   2018.11.6

 

 前回から、途切れることなく引用する。少しは省略したいのだが、ツッコミ所が多すぎて、看過できないのである。読者におかれましては、しばらくのご辛抱を願いたい。


 尠(すくな)くとも時雄の孤独なる生活はこれによって破られた。昔の恋人──今の細君。曽(かつ)ては恋人には相違なかったが、今は時勢が移り変った。四五年来の女子教育の勃興、女子大学の設立、庇髪(ひさしがみ)、海老茶袴(えびちゃばかま)、男と並んで歩くのをはにかむようなものは一人も無くなった。この世の中に、旧式の丸髷、泥鴨(あひる)のような歩き振、温順と貞節とより他に何物をも有せぬ細君に甘んじていることは時雄には何よりも情けなかった。路を行けば、美しい今様の細君を連れての睦じい散歩、友を訪えば夫の席に出て流暢に会話を賑かす若い細君、ましてその身が骨を折って書いた小説を読もうでもなく、夫の苦悶煩悶には全く風馬牛で、子供さえ満足に育てれば好いという自分の細君に対すると、どうしても孤独を叫ばざるを得なかった。「寂しき人々」のヨハンネスと共に、家妻というものの無意味を感ぜずにはいられなかった。これが──この孤独が芳子に由(よ)って破られた。ハイカラな新式な美しい女門下生が、先生! 先生! と世にも豪(えら)い人のように渇仰して来るのに胸を動かさずに誰がおられようか。

 

 普通の現代人なら、もう、これで限界、ギリギリ、これ以上読む気がしないといったところだろうか。いくら辛抱願いたいと言われても、こんな小説に付き合っている義理はないやと、さっさと立ち去るべきところだろう。

 ぼくはといえば、かなり「普通じゃない」からガマンするわけで、朝ドラにしても、2007年の『どんど晴れ』以来、その全話(『ちりとてちん』だけはなぜか、断片的だったが)を見て、今に至っている。『つばさ』や『ウエルカメ』や『純と愛』なんかが、どんなにつまらなくても、ガマンして見続けてきた。別に自慢できることじゃないけど、そうこうしているうちに、つまらないものに対する変な「耐久力」がついてしまったらしい。

 だからこそ、曲がりなりにも『泡鳴五部作』も読み通したし、『田舎教師』もまたしかりで、その後めでたく『蒲団』に至っているわけである。こんなところで、投げ出すわけにはいかないのである。

 さて、閑話休題。(おまえは最近寄り道ばっかりしてるけど、そうしなきゃ、やってられないってことだろ? って古い友人に言われたが、まっこと図星である。)この引用した文章は、どこをとっても噴飯物である。

 弟子入り志願してやってきたのが、思いがけない美人で、内心ホクホクの時雄なのに、「尠(すくな)くとも時雄の孤独なる生活はこれによって破られた。」というのだから、何のこっちゃ、である。自分は文学者だから「孤独なる生活」が実は大事なのだが、この女によってその大事な生活が破られたってことか思うと、ぜんぜん違う。その後を見ると、えんえんと妻の魅力のなさに対する批判が書かれているわけで、中でも、妻が自分が「骨を折って書いた小説」を読もうともしない無理解さを嘆いているわけで、そういう「精神的な孤独」が、「破られた」ということなのだ。

 「昔の恋人──今の細君。」という対比もひどい。そんなこと言ってもしょうがないことぐらい大人なら誰でも知ってる。妻になっても、ずっと恋人みたい、なんて関係があるわけもない。一年も一緒に暮らせば、お互いどんなに気どっていても、ボロが出る。そのボロを認め合ってこその夫婦だろう、なんて、柄にもないことを言いたくなる。

 時雄は、「男と並んで歩くのをはにかむようなものは一人も無くなった」ということを、嘆かわしいと思っているのか、それとも、喜ぶべきことだと思っているのかが、どうも分からない。言い方としては、嘆いている。けれども、その後を読むと、「ハイカラ」な女を賛美している。それにくらべて、うちの女房ときたら、「旧式の丸髷、泥鴨(あひる)のような歩き振、温順と貞節とより他に何物をも有せぬ細君」にすぎない。そんな細君に満足している自分が情けないという。おかしな理屈である。

 そもそも、当時の世の中の女がみんな女子教育をうけて、「ハイカラ」になったわけじゃない。むしろ、そんな女はごく一部の上流階級の女にすぎないだろう。時雄の言っていることは、おもちゃを買ってくれとせがむ子どもが、親にダメって言われて、「でも、みんな持ってる!」ってだだをこねるのと何ら変わりはない。

 「温順と貞節とより他に何物をも有せぬ細君」だからこそ、まだ子どもを産んで7日しかたっていない産褥にありながら、隣の部屋に若い女を呼び込んで、エラそうに演説ぶっている亭主を張り倒さないですんでいるんじゃないか。ハイカラな女房だったら、ただじゃすまないはずだ。

 自分はひとかどの文学者だと思い込んでいるけれど、ろくな作品も生み出せないのに、女房がそれを読みもしなければ、「夫の苦悶煩悶には全く風馬牛」だといって怒っているけど、なにが「夫の苦悶煩悶」だ。そんな売れない作家の女房の「苦悶煩悶」はどうしてくれるのだ。「ハイカラ」な女房だったら、とっくに家を出て行っているはずだ。

 「子供さえ満足に育てれば好いという自分の細君」と批判するが、子供を満足に育てたらそれでもう十分じゃないか。「子供を満足に育てる」ことがどれだけ大変なことか。その大変さに比べたら、作家の苦悶煩悶なんて、屁みたいなものだ。女は命がけで子供を産んでいるのだ。作家は、少なくとも時雄は、自分の命と引き換えに作品を生んでいると言えるのか。

 こうした男の子どもじみた身勝手きわまる考えは、何も時雄(花袋)だけの専売特許ではない。これとほとんど同じ内容のことを、岩野泡鳴は、もっと下品に、もっと露骨に、えげつない言葉にしている。そしてそれを、当の妻にぶつけている。泡鳴に言わせれば、「女は、子どもを産むと、子どもにかまけて、亭主をかえりみなくなるからダメなんだ。だから男は浮気もするし、女郎買いもする。それのどこが悪い。」ということになる。自分の欲望を正当化する開き直り以外の何ものでもないわけで、花袋よりずっとタチが悪いが、それでも、その思いを現実に実行してしまって、塗炭の苦しみをなめるところに、花袋の言葉だけで苦しんでいるようなフリをして実際には何もしない男より、ある意味、心を打つものがあるのだ。

 花袋と泡鳴に、驚くほど共通するこの女性観の背景には、例の「ハイカラな女」の出現がある。泡鳴も口を開けば、女は独立しなくちゃいかんと言うのだが、それは、独立・自立しようもない多くの当時の女を、ただただ不幸にする結果を招いただけだったのではないか。

 ごく一部の女が、目覚め、自由奔放な生き方をした。例えば、与謝野晶子。世の中の男どもは、そういう女こそ「新しい女」だと褒めそやし、自分の女房の「古さ」を嫌悪した。それが、明治末期の世の中であったということになるが、この「構図」は、実は、今でもちっとも変わっていない。

 「妻」となることで、そこに必然的に生じてくる様々なシガラミ、そのシガラミから来る「煩悶」は、今も明治の時代も、そんなに変わっていない。「妻」になった女は、依然として姑との関係に苦しみ、そうかと思えば、我が家のリビングの「生活感」を消そうと懸命になる。なぜ、「生活感」のない部屋が「素敵」なのか。「素敵」ともてはやされるのか。そのことを、じっくり考えてみれば、今の世の中にも、依然として蔓延している、「ハイカラな女への憧れ」があぶり出されるはずだ。

 だから、どんなに馬鹿馬鹿しくても『蒲団』が描き出す世界は、けっしてぼくらと無関係な、荒唐無稽な世界ではないのだ。

 しかし、それにしても、引用部の最後のあたりは、なんという間抜けな「正直さ」だろう。まともな神経の男なら、こんなこと恥ずかしくて書けやしない。『蒲団』は、この「恥ずかしくて書けない」ことが書いてあるからこそ有名になったわけだが、そして、その「恥ずかしくて書けない」例が、あの「衝撃のラスト」だと一般には思われているようだが、実は、そんなところより、こうしたことのほうがよほど「恥ずかしい」。

 「ハイカラな新式な美しい女門下生が、先生! 先生! と世にも豪(えら)い人のように渇仰して来るのに胸を動かさずに誰がおられようか。」なんて、普通の男なら書かない。書けない。自分が「えらくない」と自覚している男は、ハタチにもならない小娘が「先生! 先生!」といって夢中になったとしても、そんなことで「胸を動かし」たりはしない。いや、心の中では、どんな聖人君子でも、「あ、うれしい」ぐらいは思って、「ひょっとしたら、どうにかなるかも」なんて妄想を抱くことがあることを否定はしない。けれども、それをそのまま書いちゃったら、「オレはほんとうにバカヤロウなのだ。」ということを天下に公言するようなものではないか。若い女が、「先生! 先生!」と「渇仰」してくるから、そりゃ、舞い上がるのが当然でしょ、って言いたいのだろうが、そんなことで舞い上がるのは、バカなオマエだけだよ、って言われるに違いないと、誰が思わずにおられようか。

 そういうふうに全然思っているふしもなく、臆面もなく「胸を動かさずに誰がおられようか。」などと書いちゃうのだから、まことに福田恆存がいうとおり、花袋には「才能も創造力もなかった」のだと思うしかない。

 その愚かしいとしか言い様のない思考回路を、堂々と書いたことこそが、花袋の世間に与えた「衝撃」に他ならず、それまで、文学者とか作家とかいうものは、少なくとも、普通の人よりは「エライ」のだという固定観念を根底から打ち壊し、そうか、こんなバカなことを作家は考えてるんだあ、それなら、オレのほうがよっぽどマトモかも、って思わせる力があって、なんか生きづらい世の中だなあと思っていたような人々に、一筋の「希望」を与えたのかもしれない。まあ、ものはいいようだけど。

 

 

 

田山花袋『蒲団』 7 妻のガマン   2018.11.8

 

 妻が産褥にあるにもかかわらず、女弟子を一つ屋根の下に住まわせるという、無神経きわまる時雄のわがままは、いっとき家の様相をまったく変えた。


 最初の一月ほどは時雄の家に仮寓していた。華やかな声、艶(あで)やかな姿、今までの孤独な淋しいかれの生活に、何等の対照! 産褥から出たばかりの細君を助けて、靴下を編む、襟巻を編む、着物を縫う、子供を遊ばせるという生々した態度、時雄は新婚当座に再び帰ったような気がして、家門近く来るとそそるように胸が動いた。門をあけると、玄関にはその美しい笑顔、色彩に富んだ姿、夜も今までは子供と共に細君がいぎたなく眠って了って、六畳の室に徒(いたずら)に明らかな洋燈(ランプ)も、却(かえ)って侘しさを増すの種であったが、今は如何に夜更けて帰って来ても、洋燈の下には白い手が巧に編物の針を動かして、膝の上に色ある毛糸の丸い玉! 賑かな笑声が牛込の奥の小柴垣の中に充ちた。

 

 何となく森鴎外の『舞姫』を思わせる文体だが、どこかで意識しているのだろうか。花袋は才能がないだけに勉強家だったようだから、研究したのかもしれない。(ちなみに『舞姫』は明治23年発表。『蒲団』は、明治40年発表である。)

 それにしても、まったく、時雄のなんという脳天気ぶりだろう。芳子は妻の手伝いをかいがいしくするけれど、それを妻はどんなに苦々しい思いで受け入れたことか。受け入れたくなんてなかったろう。「出ていきなさいよ!」って叫びたかったことだろう。それなのに、時雄ときたら、まるで新婚家庭を得たかのように浮かれまくっている。妻の思いをまったく無視すれば、こんな「楽園」のような家庭の図が描けるというものである。

 花袋は「平面描写」ということを唱え、主観を交えずに事実だけを客観的に描くことを小説の方法として主張した。けれども、この「家庭の幸福」の図は、まったく「客観的」ではない。どこまでいっても、「時雄がみた図」である。時雄の主観にとことん染まった光景である。見たいものしか見ず、都合の悪いことは見ない、という態度が生んだほとんど「幻想」である。

 「賑かな笑声が牛込の奥の小柴垣の中に充ちた。」というけれど、その「笑声」に妻のものが交じっていたとでもいうのだろうか。たとえ交じっていたとしても、作り笑いでしかなかったろう。

 しかし、それはそれとして、女弟子の芳子は、いったいどういう気持ちで、時雄の家に一月も住んだのだろうか。19歳だからといっても、りっぱな大人の女だ。いくら文学への志が強かったとはいっても、産後間もない奥さんのいる家に一緒に住むことに何の抵抗もなかったのだろうか。靴下を編んだり、着物を縫ったりして尽くしてはいるが、同じ女として、奥さんがそれをどう思うか、まったく考えなかったというのだろうか。花袋は、そのことをまったく書かない。だから、ちっとも芳子という女が「立体的」にならない。まさか、それを「平面描写」だというわけではないだろうが。

 結局、妻がもたなかった。ガマンにも限界があったわけである。


 けれど一月ならずして時雄はこの愛すべき女弟子をその家に置く事の不可能なのを覚った。従順なる家妻は敢てその事に不服をも唱えず、それらしい様子も見せなかったが、しかもその気色(きしょく)は次第に悪くなった。限りなき笑声の中に限りなき不安の情が充ち渡った。妻の里方の親戚間などには現に一問題として講究されつつあることを知った。
 時雄は種々(いろいろ)に煩悶した後、細君の姉の家──軍人の未亡人で恩給と裁縫とで暮している姉の家に寄寓させて、其処から麹町の某女塾に通学させることにした。


 「一月ならずして」というけど、「1ヶ月も住まわせたのかよ!」ってことだよなあ。「愛すべき女弟子をその家に置く事の不可能なのを覚った。」なんて遅すぎる。せめて三日で気づけってことだ。

 妻は、「従順」だから、「不服をも唱えず、それらしい様子も見せなかった」というが、それがほんとうならずいぶん出来た妻である。けれども「それらしい様子」は、しょうっちゅう見せたに違いない。時雄が気づかなかっただけの話である。ぜんぜん気づかなかったというなら、ほんとに鈍感な男だが、実際には、気づいていても無視していたのだろう。まあ、そのうち、慣れるだろうぐらいに高をくくっていたのかもしれない。けれども、その妻も「その気色(きしょく)は次第に悪くなった」わけで、さすがの時雄も、対策を講じて、芳子を家から出さざるを得なかったわけである。

 で、芳子は何をしていたのか。時雄の妻の姉の家に住んだわけだが、そこから「某女塾」に通った。彼女の部屋の描画が、当時の文学志望の女学生の生態をよく伝えている。


 その寓していた家は麹町の土手三番町、甲武の電車の通る土手際で、芳子の書斎はその家での客座敷、八畳の一間、前に往来の頻繁な道路があって、がやがやと往来の人やら子供やらで喧しい。時雄の書斎にある西洋本箱を小さくしたような本箱が一閑張(いっかんばり)の机の傍にあって、その上には鏡と、紅皿と、白粉の罎と、今一つシュウソカリの入った大きな罎がある。これは神経過敏で、頭脳(あたま)が痛くって為方(しかた)が無い時に飲むのだという。本箱には紅葉全集、近松世話浄瑠璃、英語の教科書、ことに新しく買ったツルゲネーフ全集が際立って目に附く。で、未来の閨秀作家は学校から帰って来ると、机に向って文を書くというよりは、寧ろ多く手紙を書くので、男の友達も随分多い。男文字の手紙も随分来る。中にも高等師範の学生に一人、早稲田大学の学生に一人、それが時々遊びに来たことがあったそうだ。

 

 尾崎紅葉、近松の浄瑠璃、ツルゲーネフといったラインナップは、時雄の影響だろう。

 問題は「男文字の手紙」であった。

 

 

田山花袋『蒲団』 8 すれちがいの恋   2018.11.12

 

 時雄と芳子の関係はどうなっているのか。

 芳子は、時雄を師として「渇仰(かつごう・かつぎょう)」している。この「渇仰」なんて言葉、今じゃ使わないが、「日本国語大辞典」によれば「(渇して水を思うように、仏を仰ぎ慕う意)仏を深く信じ仰ぐこと。転じて、人や事物を尊び敬うこと。あこがれ慕うこと。」とある。ずいぶん大げさな言葉だが、当時は普通に使われていたのだろうか。ちなみに、「日本国語大辞典」には『栄花物語』だの『義経記』だのの用例が載っているから由緒正しい言葉である。

 芳子は時雄を師として渇仰しているが、恋しているわけではない。一方、時雄は、完全に芳子に恋をしているのである。それを「世間」が見たらどういうことになるか。


芳子と時雄との関係は単に師弟の間柄としては余りに親密であった。この二人の様子を観察したある第三者の女の一人が妻に向って、「芳子さんが来てから時雄さんの様子はまるで変りましたよ。二人で話しているところを見ると、魂は二人ともあくがれ渡っているようで、それは本当に油断がなりませんよ」と言った。他(はた)から見れば、無論そう見えたに相違なかった。けれど二人は果してそう親密であったか、どうか。

 

 どうにもよく分からない書き方だ。「単に師弟の間柄としては余りに親密であった」として、「第三者の女」の見たても「無論そう見えたに相違なかった」と肯定しているのに、「けれど二人は果してそう親密であったか、どうか。」というのはどういうことなのか。そこが分かりにくい。

 つまりは、自分の気持ちを考えれば、師弟関係としては常軌を逸していると思われるし、世間もそれに気づいているだろうが、実際には、それは自分の一方的な気持ちの問題においてそうなのであって、肉体関係で結ばれている「恋人同士」ではなかったのだ、ということなのだろう。「親密」の語の含む意味が揺れ動いている。

 師として渇仰しているだけだといっても、芳子は、時雄からみると、やはり魅力的な女なので、彼女の心のうちを推し量って思い惑うことになる。


 若い女のうかれ勝な心、うかれるかと思えばすぐ沈む。些細なことにも胸を動かし、つまらぬことにも心を痛める。恋でもない、恋でなくも無いというようなやさしい態度、時雄は絶えず思い惑った。道義の力、習俗の力、機会一度至ればこれを破るのは帛(きぬ)を裂くよりも容易だ。唯(ただ)、容易に来らぬはこれを破るに至る機会である。


 芳子の「恋でもない、恋でなくも無いというようなやさしい態度」は、果たして時雄の目に映った芳子の虚像だったのか、つまり、時雄にはそう見えただけの話なのか、それとも、芳子にも「その気」があったのか。そこが時雄にも分からないから思い惑うことになるわけで、確かに、女性というのは、無意識の媚態ともいうべきものを表すものだ。

 「道義の力」というのは、道徳的な観念によって「女弟子に手をつけるなんて不道徳だ」として時雄を押さえつける力、「習俗の力」とは、「まあ、時雄さんたら、先生のくせに、教え子に手をつけるなんて」といった世間の目の圧力。そんなものは、チャンスさえあれば、いとも簡単に突破できたのだと時雄はいう。ただそのチャンスが来なかっただけの話なのだと、妙に勇ましい。

 けれども、その直後に、チャンスは二度あったのだと言うのである。それじゃ、あったんじゃないか。それならいとも簡単に破ればよかったじゃないかと思うよね。それが「できなかった」と言うのである。


 この機会がこの一年の間に尠(すくな)くとも二度近寄ったと時雄は自分だけで思った。一度は芳子が厚い封書を寄せて、自分の不束(ふつつか)なこと、先生の高恩に報ゆることが出来ぬから自分は故郷に帰って農夫の妻になって田舎に埋れて了(しま)おうということを涙交りに書いた時、一度は或る夜芳子が一人で留守番をしているところへゆくりなく時雄が行って訪問した時、この二度だ。初めの時は時雄はその手紙の意味を明かに了解した。その返事をいかに書くべきかに就いて一夜眠らずに懊悩した。穏かに眠れる妻の顔、それを幾度か窺って自己の良心のいかに麻痺せるかを自ら責めた。そしてあくる朝贈った手紙は、厳乎たる師としての態度であった。二度目はそれから二月ほど経った春の夜、ゆくりなく時雄が訪問すると、芳子は白粉をつけて、美しい顔をして、火鉢の前にぽつねんとしていた。
「どうしたの」と訊くと、
「お留守番ですの」
「姉は何処へ行った?」
「四谷へ買物に」
 と言って、じっと時雄の顔を見る。いかにも艶かしい。時雄はこの力ある一瞥に意気地なく胸を躍らした。二語三語(ふたことみこと)、普通のことを語り合ったが、その平凡なる物語が更に平凡でないことを互に思い知ったらしかった。この時、今十五分も一緒に話し合ったならば、どうなったであろうか。女の表情の眼は輝き、言葉は艶めき、態度がいかにも尋常(よのつね)でなかった。
「今夜は大変綺麗にしてますね?」
 男は態(わざ)と軽く出た。
「え、先程、湯に入りましたのよ」
「大変に白粉が白いから」
「あらまア先生!」と言って、笑って体を斜(はす)に嬌態を呈した。
 時雄はすぐ帰った。まア好いでしょうと芳子はたって留めたが、どうしても帰ると言うので、名残惜しげに月の夜を其処まで送って来た。その白い顔には確かにある深い神秘が籠められてあった。

 

 この二度のチャンスのうち、最初の方は、どうも不可解だ。芳子の手紙の内容は、作家になりたかったけど才能の限界を感じるので田舎に帰ろうと思うということで、別に恋の告白じゃない。それなのに、時雄は、「その手紙の意味を明かに了解した」という。どう「了解」したのだろうか。

 先生、私は、ほんとうは文学を勉強するために来たんじゃないんです。先生が好きでたまらなかったからなのです。それなのに、先生はいつまでたっても私の気持ちに気づいてくださらない。だからもう、私、田舎に帰ります。帰って、お芋でも育てて暮らします──という意味が裏に込められていると「了解」したのだろうか。そうとしか考えられない。だから時雄は、その「恋」に報いるべきかどうかで、「一夜眠らずに懊悩した」わけである。そして、妻の寝顔をみて、良心が目覚め、「厳乎たる師としての態度」で返事を書いた。完全な独り相撲である。

 二度目のチャンスのほうは、素直に読める。この湯上がりの女の「嬌態」は、「知ってそうしたのか、知らずしてそうなったのか」というようなことが、鴎外の『舞姫』にも出て来る。『舞姫』のほうは、そのまま、男は女と関係を結んでしまうわけで、それが結局二人を悲劇に導いていくのだが、こっちの場合は、「あと15分」というところで、時雄は帰ってしまう。それが、「道義の力」ゆえだったのか、「習俗の力」ゆえだったのか知らないが、とにかく「帛(きぬ)を裂くよりも容易だ」と思っていたのに、ぜんぜん容易じゃなかったわけだ。ハードルは意外に高かった。というよりは、勇気が(というのも変だけど、まあ一種の勇気ではあるだろう)なかっただけなのだ。岩野泡鳴なら、最初からハードルなんてないから、一気に関係してしまうだろう。その変わり、それによって生じるどんな地獄にも耐えたろう。その地獄を生きることが泡鳴の人生だったのだから。

 何かというと、オマエは、泡鳴を持ち出して比較するが、そんなに泡鳴が好きなのか? って聞かれるかもしれないが、好き嫌いはともかく、ハチャメチャな泡鳴のほうが人間としては面白いと思う。

 で、芳子はどうなったのか。


 四月に入ってから、芳子は多病で蒼白い顔をして神経過敏に陥っていた。シュウソカリを余程多量に服してもどうも眠られぬとて困っていた。絶えざる欲望と生殖の力とは年頃の女を誘うのに躊躇しない。芳子は多く薬に親しんでいた。

 

 「神経過敏」からくる「不眠症」に苦しむようになってしまったというのだが、その原因を「絶えざる欲望と生殖の力」にあると時雄は断定するのである。まるで、自分が芳子の欲望を充足してやれなかったから、芳子は病気なったとでもいわんばかりだ。すべてを芳子の性欲の問題に還元してしまっているが、あまりに独断的ではなかろうか。

 この後(ほんとうに「この後」なのか、それとももっと以前からなのか、曖昧なのだが。)芳子は別の男に恋をする。つまり、これが今まで何度も出てきた「事件」であり、この小説の冒頭近くに書かれていた「今回のようなことを起こしたのかもしれぬ」の「今回のようなこと」である。

 で、くどいようだが、その冒頭部分を今一度引用しておく。


 小石川の切支丹坂から極楽水に出る道のだらだら坂を下りようとして渠(かれ)は考えた。「これで自分と彼女との関係は一段落を告げた。三十六にもなって、子供も三人あって、あんなことを考えたかと思うと、馬鹿々々しくなる。けれど……けれど……本当にこれが事実だろうか。あれだけの愛情を自身に注いだのは単に愛情としてのみで、恋ではなかったろうか」
 数多い感情ずくめの手紙──二人の関係はどうしても尋常ではなかった。妻があり、子があり、世間があり、師弟の関係があればこそ敢て烈しい恋に落ちなかったが、語り合う胸の轟、相見る眼の光、その底には確かに凄じい暴風(あらし)が潜んでいたのである。機会に遭遇(でっくわ)しさえすれば、その底の底の暴風は忽(たちま)ち勢を得て、妻子も世間も道徳も師弟の関係も一挙にして破れて了(しま)うであろうと思われた。少くとも男はそう信じていた。それであるのに、二三日来のこの出来事、これから考えると、女は確かにその感情を偽り売ったのだ。自分を欺いたのだと男は幾度も思った。けれど文学者だけに、この男は自ら自分の心理を客観するだけの余裕を有(も)っていた。年若い女の心理は容易に判断し得られるものではない、かの温い嬉しい愛情は、単に女性特有の自然の発展で、美しく見えた眼の表情も、やさしく感じられた態度も都(すべ)て無意識で、無意味で、自然の花が見る人に一種の慰藉(なぐさみ)を与えたようなものかも知れない。一歩を譲って女は自分を愛して恋していたとしても、自分は師、かの女は門弟、自分は妻あり子ある身、かの女は妙齢の美しい花、そこに互に意識の加わるのを如何ともすることは出来まい。いや、更に一歩を進めて、あの熱烈なる一封の手紙、陰に陽にその胸の悶(もだえ)を訴えて、丁度自然の力がこの身を圧迫するかのように、最後の情を伝えて来た時、その謎をこの身が解いて遣(や)らなかった。女性のつつましやかな性(さが)として、その上に猶(なお)露(あら)わに迫って来ることがどうして出来よう。そういう心理からかの女は失望して、今回のような事を起したのかも知れぬ。
「とにかく時機は過ぎ去った。かの女は既に他人(ひと)の所有(もの)だ!」
 歩きながら渠はこう絶叫して頭髪をむしった。

 

 ここまで読んでくると、この謎の多い冒頭部分は、そういうことだったのね、と納得ができる。なかなか巧みな構成なのである。

 しかし、「今回のようなことを起こした」原因が、自分が彼女の訴えてきた「謎」を解いてやらなかったことにあるするのは、時雄の勝手な妄想だろう。師への恋が叶わなかったから、恋の相手を若い男に変えたなんてことじゃないぐらい、「文学者」なら分かるはずだ。けれども、この小説は、肥大化する時雄の妄想の世界をあますところなく語っていくわけで、ますます常軌を逸した物語となっていくのである。

 

 

 

田山花袋『蒲団』 9  神聖なる恋愛   2018.11.14

 

 不眠に苦しむ芳子は、四月に入って、いったん帰郷し、九月に上京してくる。ここで「事件」が起きたわけだ。


 四月末に帰国、九月に上京、そして今回(こんど)の事件が起った。
 今回の事件とは他でも無い。芳子は恋人を得た。そして上京の途次、恋人と相携えて京都嵯峨に遊んだ。その遊んだ二日の日数が出発と着京との時日に符合せぬので、東京と備中との間に手紙の往復があって、詰問した結果は恋愛、神聖なる恋愛、二人は決して罪を犯してはおらぬが、将来は如何にしてもこの恋を遂げたいとの切なる願望(ねがい)。時雄は芳子の師として、この恋の証人として一面月下氷人(げっかひょうじん)の役目を余儀なくさせられたのであった。

 芳子の恋人は同志社の学生、神戸教会の秀才、田中秀夫、年二十一。
 芳子は師の前にその恋の神聖なるを神懸けて誓った。故郷の親達は、学生の身で、ひそかに男と嵯峨に遊んだのは、既にその精神の堕落であると云ったが、決してそんな汚れた行為はない。互に恋を自覚したのは、寧(むし)ろ京都で別れてからで、東京に帰って来てみると、男から熱烈なる手紙が来ていた。それで始めて将来の約束をしたような次第で、決して罪を犯したようなことは無いと女は涙を流して言った。時雄は胸に至大の犠牲を感じながらも、その二人の所謂神聖なる恋の為めに力を尽すべく余儀なくされた。

 

 「芳子は恋人を得た。」とあるが、実は、「恋人」であるかどうかは別として、芳子は東京に出て来る前から、神戸の女学院に通っているころから、この田中秀夫を知っていたのだ。ただ、どうも、この9月の上京の途次、「京都嵯峨に遊んだ二日」以来、「恋」に発展したと時雄は睨んでいるのである。

 「その遊んだ二日の日数が出発と着京との時日に符合せぬ」というわけだが、ずいぶんと細かく計算する「師」である。まるで嫉妬深い古女房が、あなた、北京を出発したのは昨日とおっしゃっていたけど、航空券の半券(そんなのがあるかしらないが)みたら、一昨日ってなってるじゃないの! 「空白の一日」はいったいどうしたの? なんて感じだ。

 時雄は「詰問」する。どうしたんだ、日数が合わないじゃないか、説明しなさい! 

 そうしたら、芳子の口から出てきたのは、「恋愛、神聖なる恋愛、二人は決して罪を犯してはおらぬが、将来は如何にしてもこの恋を遂げたいとの切なる願望」だった。自分は、芳子に告白もしていないわけだから、そう言われては、「月下氷人(仲人のこと)」をするしかない、ということになる。

 芳子が19、恋人の田中が21じゃ、お似合いで、35、6の時雄なんか問題にならない。今なら35なんて若いけれど、当時はいい大人、中年だ。なにしろ「初老」とはもともとは40歳のことなんだから。

 年も違うし、立場も違うのだから、大人としては、「月下氷人」でも何でも引き受けて、若い二人を祝福してあげればいいだけの話。当時は恋愛結婚なんて、跳ねっ返りのすることだったのかもしれないが、女は自分をしっかり持って、自分で人生を決めなくちゃダメだぞ、ってことを、時雄は芳子に教えてきたのだから、諸手を挙げて賛成、じゃなきゃおかしい。

 けれども、もちろん、この小説はそんな話ではない。この妻子ある中年男が嫉妬に狂うことになっていくのである。

 しかし、時雄の嫉妬はいま措くとして、ここに出て来る「神聖なる恋愛」という概念をきちんと理解しておく必要がある。これは、簡単にいえば、性的交渉を伴わない恋愛、つまりは「プラトニックラブ」のことだ。「二人は決して罪を犯してはおらぬ」という芳子の言葉は、つまりは、「まだ肉体関係を結んでいません」ということだ。それさえなければ、心理的、感情的にはどうであれ、「神聖な恋愛」ということになる。性欲抜きの「恋愛」の「精神的中身」は、いったいいかなるものであるかについての考察はいっさいない。芳子も考えないし、時雄も、芳子の父親も考えない。ただ「やったか、やらなかったか」だけが問題になり、それを根拠に「神聖」だの、「堕落」だのと言うのである。

 この「神聖なる恋愛」という考え方は、明治になってひろまったキリスト教、なかでもプロテスタントの教えから生まれてきたのだろうが、キリスト教における「愛」それも「精神的な愛」の問題は、教義の中心なのだから、精神的な深みを持っているはずで、「やりさえしなきゃいい」なんていいかげんなものではない。

 日本の近代化の問題、(とくに精神文化における)は、様々な反省をともなって論じられてきたわけだが、恋愛観も、実にゆがんだ形でしか理解されなかったのではないかと思われる。

 この辺の事情は、いつか詳しく調べてみたいとも思うのだが、明治の青年たちは、多かれ少なかれ、この「神聖なる恋愛」観に、苦しめられてきたのではなかったろうか。

 しかし、考えてみれば、この問題は、実はそんなにはるか昔の問題であるわけでもない。つい最近まで、ぼくがまだ学生だったころまで、案外根強く残っていた。ぼく自身もカトリックの教育をうけてきたので、わりと身近な問題だったのだ。

 

 時雄は悶えざるを得なかった。わが愛するものを奪われたということは甚だしくその心を暗くした。元より進んでその女弟子を自分の恋人にする考は無い。そういう明らかな定った考があれば前に既に二度までも近寄って来た機会を攫むに於て敢て躊躇するところは無い筈だ。けれどその愛する女弟子、淋しい生活に美しい色彩を添え、限りなき力を添えてくれた芳子を、突然人の奪い去るに任すに忍びようか。機会を二度まで攫むことは躊躇したが、三度来る機会、四度来る機会を待って、新なる運命と新なる生活を作りたいとはかれの心の底の底の微かなる願であった。時雄は悶えた、思い乱れた。妬みと惜しみと悔恨(くやみ)との念が一緒になって旋風のように頭脳(あたま)の中を回転した。師としての道義の念もこれに交って、益ゝ(ますます)炎を熾(さか)んにした。わが愛する女の幸福の為めという犠牲の念も加わった。で、夕暮の膳の上の酒は夥(おびただ)しく量を加えて、泥鴨(あひる)の如く酔って寝た。

 

 時雄の煩悶は、こんなふうに語られるが、どこまでいっても、矛盾だらけだ。「元より進んでその女弟子を自分の恋人にする考は無い。」といい、だからこそ、あの二度もあったチャンスに躊躇した。(「躊躇」というレベルだったのが情けないけど)それなのに、「三度来る機会、四度来る機会を待って、新なる運命と新なる生活を作りたいとはかれの心の底の底の微かなる願であった」と言うのである。「心の底の底の微かなる」にすぎないなら、無視できる程度なのかと思うと、「妬みと惜しみと悔恨との念が一緒になって旋風のように頭脳の中を回転した。」というのだから、やっぱり常軌を逸している。「師としての道義の念」だの、「わが愛する女の幸福の為めという犠牲の念。」なんて、みんなウソっぱちだ。時雄は、酒に溺れる日々となる。

 

 

田山花袋『蒲団』 10  おもしろいのか? 『蒲団』は  2018.11.20

 

 まあ、それにしても、なかなか進まない。おもしろいからなのか、つまらないからなのか、よく分からない。先日、ある大学の若い先生と飲んで話したときに、学生と読書会をやったんだけど、『蒲団』がすごい人気だった、ってことを聞いたような気がする。酔っぱらっていたので、ぜんぜん正確な話ではないが、今の大学生にも『蒲団』を「おもしろい」って思う人がいるんだということは、おもしろい。どこがおもしろいのか、聞いてみたいものだ。

 先を急いでもいいのだが、「急ぐ」意味がない。どっちみち、ヒマな老人なので、急がないことにする。

 芳子に恋人がいることが分かり、自分が仲人役をしなければならない現実に、時雄はヤケになり、酒におぼれ、食事の支度が遅いといって女房に文句を言い、肴がまずいといって癇癪を起こす。5歳になる男の子を可愛がって接吻したかと思うと、その子が泣き出すと、「ピシャピシャとその尻を乱打」する始末。他の三人の子どもはお父さんのあまりの変わりように、びっくりして遠巻きにおそるおそる見守るばかり。一升近くも酒を飲んで倒れてお膳をひっくりかえしたかと思えば、訳の分からぬ「新体詩」を歌いだし、その挙げ句に、女房がかけた蒲団を着たまま厠に入って小便をしたかと思ったらそこにそのまま寝てしまうというテイタラクだ。

 時雄は、こうした自分を分析してこんなことを考える。


 渠(かれ)は三日間、その苦悶と戦った。渠は性として惑溺することが出来ぬ或る一種の力を有(も)っている。この力の為めに支配されるのを常に口惜しく思っているのではあるが、それでもいつか負けて了う。征服されて了う。これが為め渠はいつも運命の圏外に立って苦しい味を嘗めさせられるが、世間からは正しい人、信頼するに足る人と信じられている。三日間の苦しい煩悶、これでとにかく渠はその前途を見た。二人の間の関係は一段落を告げた。これからは、師としての責任を尽して、わが愛する女の幸福の為めを謀るばかりだ。これはつらい、けれどつらいのが人生(ライフ)だ! と思いながら帰って来た。

 

「惑溺」という言葉が耳馴れないけど、「ある事に深く迷って本心を失うこと。溺れること。」の意(日本国語大辞典)。泡鳴がよく使い、小説の題にもなった「耽溺(ある境地にふけり溺(おぼ)れること。特に、酒や女色などにふけり溺れること。)同書」とほぼ同じ意味。

 時雄は「性として惑溺することが出来ぬ或る一種の力を有(も)っている」というのだが、要するに、泡鳴のようにとことん溺れてしまうことができず、どこかでブレーキが効いてしまうということだろう。だから、「世間からは正しい人、信頼するに足る人と信じられている。」というわけだが、ほんとにそうだったのだろうか。これを花袋のことだとして考えた場合、もし、花袋が世間からそういう人だと信じられていたのだとすれば、この『蒲団』という小説がいかに衝撃的だったかが分かろうというものである。

 三日の煩悶の後、時雄は、芳子の師としての責任を自覚し、「つらいのが人生だ!」という結論に至る。中2でも至ることのできそうな「結論」だけど。

 ところがそこへ芳子からの手紙がくる。恋人の田中に最近の事情を書いてやったら、田中は心配して、こっちへ出てきてしまい、今旅籠に泊まっている。「私共も激しい感情の中に、理性も御座いますから、京都でしたような、仮りにも常識を外れた、他人から誤解されるようなことは致しません。誓って、決して致しません。」なんて書いてある。「京都でした常識を外れたこと」というのは、一緒に旅館に泊まったことを指すらしいが、それでも、「私共」には「汚れた関係はない」と言い張るのだ。つまり一緒に宿に泊まりましたけど、「やってません」てことで、昨今の「一泊デート」をスクープされた芸能人がいつも言う言葉。「ただ仕事の相談をしていただけです。」みたいな言い訳がくっつくけど、まあ、今時、誰も信じない。

 性道徳の厳しかった明治時代でも、やはりこれでは、いくら「惑溺することが出来ぬ或る一種の力」を持っている時雄でもたまらない。

 

 この一通の手紙を読んでいる中、さまざまの感情が時雄の胸を火のように燃えて通った。その田中という二十一の青年が現にこの東京に来ている。芳子が迎えに行った。何をしたか解らん。この間言ったこともまるで虚言(うそ)かも知れぬ。この夏期の休暇に須磨で落合った時から出来ていて、京都での行為もその望を満す為め、今度も恋しさに堪え兼ねて女の後を追って上京したのかも知れん。手を握ったろう。胸と胸とが相触れたろう。人が見ていぬ旅籠屋の二階、何を為ているか解らぬ。汚れる汚れぬのも刹那の間だ。こう思うと時雄は堪らなくなった。「監督者の責任にも関する!」と腹の中で絶叫した。こうしてはおかれぬ、こういう自由を精神の定まらぬ女に与えておくことは出来ん。監督せんければならん、保護せんけりゃならん。私共は熱情もあるが理性がある! 私共とは何だ! 何故私とは書かぬ、何故複数を用いた? 時雄の胸は嵐のように乱れた。着いたのは昨日の六時、姉の家に行って聞き糺(ただ)せば昨夜何時頃に帰ったか解るが、今日はどうした、今はどうしている?
 細君の心を尽した晩餐の膳には、鮪の新鮮な刺身に、青紫蘇の薬味を添えた冷豆腐、それを味う余裕もないが、一盃は一盃と盞を重ねた。

 

 まったくこれには笑ってしまう。大学生たちも、この辺ではきっと笑ったろうと思うと更に可笑しくなる。35にもなるいい大人が、それも作家としていちおう世に認められている男が、「手を握ったろう。胸と胸とが相触れたろう。人が見ていぬ旅籠屋の二階、何を為ているか解らぬ。汚れる汚れぬのも刹那の間だ。」なんて書くんだから呆れちゃう。ただ嫉妬に狂っているだけなのに、「監督せんければならん、保護せんけりゃならん。」という建前を叫び、「私共」という言葉に激怒する。滑稽の極みで、うまくアレンジすれば、そんじょそこらのお笑い芸人のやるコントよりよほどおもしろい。

 この時雄の激怒ぶりもおもしろいのだが、その直後にある、「晩餐の膳」の描写が、この場面とぜんぜん調和してないのが、またおもしろい。時雄は激怒しつつ、「鮪の新鮮な刺身に、青紫蘇の薬味を添えた冷豆腐」を見ていたことになる。「味わう余裕もない」とはあるけれど、時雄の視点で書くならば、膳に何が乗っていたかなんて必要のないことだし、目に入るはずもない。それこそ「何を食ったんだか分からぬ」というのがほんとうだろう。これがひょっとしたら「平面描写」か?

 ぼくなんか、飲み会では、いつもくだらぬことを話すのに夢中になって、ほとんど何を口にいれたか覚えていない。(たぶん、ほとんど食べてない。)

 さて、その直後の、夫婦の会話。細君が案外冷静なのもおもしろい。

 

 細君は末の児を寝かして、火鉢の前に来て坐ったが、芳子の手紙の夫の傍にあるのに眼を附けて、
「芳子さん、何て言って来たのです?」
 時雄は黙って手紙を投げて遣った、細君はそれを受取りながら、夫の顔をじろりと見て、暴風の前に来る雲行の甚だ急なのを知った。
 細君は手紙を読終って巻きかえしながら、
「出て来たのですね」
「うむ」
「ずっと東京に居るんでしょうか」
「手紙に書いてあるじゃないか、すぐ帰すッて……」
「帰るでしょうか」
「そんなこと誰が知るものか」
 夫の語気が烈しいので、細君は口を噤(つぐ)んで了った。少時(しばらく)経ってから、
「だから、本当に厭さ、若い娘の身で、小説家になるなんぞッて、望む本人も本人なら、よこす親達も親達ですからね」
「でも、お前は安心したろう」と言おうとしたが、それは止(よ)して、
「まア、そんなことはどうでも好いさ、どうせお前達には解らんのだから……それよりも酌でもしたらどうだ」
 温順な細君は徳利を取上げて、京焼の盃に波々と注ぐ。
 時雄は頻りに酒を呷(あお)った。酒でなければこの鬱を遣るに堪えぬといわぬばかりに。三本目に、妻は心配して、
「この頃はどうか為ましたね」
「何故?」
「酔ってばかりいるじゃありませんか」
「酔うということがどうかしたのか」
「そうでしょう、何か気に懸ることがあるからでしょう。芳子さんのことなどはどうでも好いじゃありませんか」
「馬鹿!」
 と時雄は一喝した。
 細君はそれにも懲りずに、
「だって、余り飲んでは毒ですよ、もう好い加減になさい、また手水場(ちょうずば)にでも入って寝ると、貴郎(あなた)は大きいから、私と、お鶴(下女)の手ぐらいではどうにもなりやしませんからさ」
「まア、好いからもう一本」
 で、もう一本を半分位飲んだ。もう酔は余程廻ったらしい。顔の色は赤銅色に染って眼が少しく据っていた。急に立上って、
「おい、帯を出せ!」
「何処へいらっしゃる」
「三番町まで行って来る」
「姉の処?」
「うむ」
「およしなさいよ、危ないから」
「何アに大丈夫だ、人の娘を預って監督せずに投遣(なげやり)にしてはおかれん。男がこの東京に来て一緒に歩いたり何かしているのを見ぬ振をしてはおかれん。田川(姉の家の姓)に預けておいても不安心だから、今日、行って、早かったら、芳子を家に連れて来る。二階を掃除しておけ」
「家に置くんですか、また……」
「勿論」
 細君は容易に帯と着物とを出そうともせぬので、
「よし、よし、着物を出さんのなら、これで好い」と、白地の単衣に唐縮緬の汚れたへこ帯、帽子も被らずに、そのままに急いで戸外へ出た。「今出しますから……本当に困って了う」という細君の声が後に聞えた。

 

 家においておくことは到底できないと判断して、奥方の姉の家に芳子を仮寓させたのに、このままでは監督できない、あぶなくてしょうがないというので、またぞろ家に置こうと時雄は考えるのである。「本当に困って了う」という細君の嘆きが耳に残る。

 

 

 

田山花袋『蒲団』 11  「悲哀」の実相   2018.11.24

 

 「本当に困って了う」の細君の声を背中に聞いて、時雄は、外に出る。芳子を預けている細君の姉の家に行こうというのである。

 矢来、酒井の森、神楽坂、中根坂、左内坂、市ヶ谷八幡、といった地名を織り込んだ「道行き」は、当時の東京の面影を伝えて趣深い。『田舎教師』もそうだったが、この『蒲団』も、こうした情景描写は花袋の得意とするところで、読み所のひとつである。

 

 夏の日はもう暮れ懸っていた。矢来の酒井の森には烏の声が喧しく聞える。どの家でも夕飯が済んで、門口に若い娘の白い顔も見える。ボールを投げている少年もある。官吏らしい鰌髭(どじょうひげ)の紳士が庇髪の若い細君を伴れて、神楽坂に散歩に出懸けるのにも幾組か邂逅(でっくわ)した。時雄は激昂した心と泥酔した身体とに烈しく漂わされて、四辺に見ゆるものが皆な別の世界のもののように思われた。両側の家も動くよう、地も脚の下に陥るよう、天も頭の上に蔽い冠(かぶ)さるように感じた。元からさ程強い酒量でないのに、無闇にぐいぐいと呷(あお)ったので、一時に酔が発したのであろう。ふと露西亜の賤民の酒に酔って路傍に倒れて寝ているのを思い出した。そしてある友人と露西亜の人間はこれだから豪(えら)い、惑溺するなら飽まで惑溺せんければ駄目だと言ったことを思いだした。馬鹿な! 恋に師弟の別があって堪るものかと口へ出して言った。
 中根坂を上って、士官学校の裏門から佐内坂の上まで来た頃は、日はもうとっぷりと暮れた。白地の浴衣がぞろぞろと通る。煙草屋の前に若い細君が出ている。氷屋の暖簾が涼しそうに夕風に靡く。時雄はこの夏の夜景を朧げに眼には見ながら、電信柱に突当って倒れそうにしたり、浅い溝に落ちて膝頭をついたり、職工体の男に、「酔漢奴(よっぱらいめ)! しっかり歩け!」と罵られたりした。急に自ら思いついたらしく、坂の上から右に折れて、市ヶ谷八幡の境内へと入った。境内には人の影もなく寂寞(ひっそり)としていた。大きい古い欅の樹と松の樹とが蔽い冠(かぶ)さって、左の隅に珊瑚樹の大きいのが繁っていた。処々の常夜燈はそろそろ光を放ち始めた。時雄はいかにしても苦しいので、突如(いきなり)その珊瑚樹の蔭に身を躱(かく)して、その根本の地上に身を横えた。興奮した心の状態、奔放な情と悲哀の快感とは、極端までその力を発展して、一方痛切に嫉妬の念に駆られながら、一方冷淡に自己の状態を客観した。
 初めて恋するような熱烈な情は無論なかった。盲目にその運命に従うと謂うよりは、寧(むし)ろ冷かにその運命を批判した。熱い主観の情と冷めたい客観の批判とが絡(よ)り合せた糸のように固く結び着けられて、一種異様の心の状態を呈した。
 悲しい、実に痛切に悲しい。この悲哀は華やかな青春の悲哀でもなく、単に男女の恋の上の悲哀でもなく、人生の最奥に秘んでいるある大きな悲哀だ。行く水の流、咲く花の凋落、この自然の底に蟠(わだかま)れる抵抗すべからざる力に触れては、人間ほど儚い情ないものはない。
 汪然として涙は時雄の鬚面を伝った。

 

 福田恆存の言う、花袋の「ツルゲーネフの登場人物になりたがっているという念願そのものの切実さ」をここに見ることができる。一升酒をくらって、路上に倒れこみながら、「露西亜の賎民」を思い出す。あれに比べたら自分などは「惑溺」の度合いが足りないと時雄は思うのである。

 前回に引用したとおり、時雄は「性として惑溺することが出来ぬ或る一種の力」を持っているのである。いや、「持っている」と思い込んでいるのである。ぼくみたいな1合酒で酔える人間からすれば、一升飲んで路上に倒れるなんて、十分すぎるほど「惑溺」してると思うのだが、時雄の「基準」は露西亜にあるのだからたまらない。アルコール分解酵素が違うのだから、比較したって始まらない。

 いや、酒だけのことを言っているのではない。花袋にしても、泡鳴にしても、標準的な日本人からすれば、そうとう「惑溺」するタイプだろうけど、欧米の小説を読んでいると、呆気にとられるほど「惑溺」もし、常軌を逸してしまうのに驚く。スタンダールの小説など、なにかというと「決闘」となってしまう血の気の多い展開に、ついて行けない思いがした。信じられないほどの自我の強さ、それゆえの自分の名誉を傷つけられたときの激しい怒り、それらは、やっぱりぼくのような軟弱な日本人には理解を絶していた。

 明治の若者が、その初々しい感性で、ヨーロッパに憧れたこと自体は、どんなに感傷的であっても、馬鹿にしてはいけない、尊重しなければいけないと、福田恆存は言うのだが、また一方で、その「ういういしさ」だけでは文学はダメなのだとも言っている。

 この福田の言い分は、この『蒲団』の部分を読むと、なるほどと深く納得されるのだ。

 露西亜文学の中の酔っ払いは、ツルゲーネフであれ、ドストエフスキーであれ、もっと「精神的な深さ」とか「闇」を抱えていたように思う。「聖なる酔っ払い」的なところがある。けれども、ここでの時雄に、そんなものはない。ただ、嫉妬に狂っているだけの酔っ払いだ。

 「興奮した心の状態、奔放な情と悲哀の快感とは、極端までその力を発展して、一方痛切に嫉妬の念に駆られながら、一方冷淡に自己の状態を客観した。」と花袋は書くけれど、どこを読んでも「冷淡に自己の状態を客観した」部分は見当たらない。ただただ興奮しているだけ。

 そして、くだらぬ嫉妬の念を、誇大妄想的に拡大し、精神的な深みに引きあげようとする。自分の悲哀は、単なる恋の悲哀じゃなくて、「人生の最奥に秘んでいるある大きな悲哀」だというのだが、いったいそれって何? 花袋は「それ」が何なのか知らないし、ほんとうは興味もないのだというのは福田恆存の言い分である。だから、そんなのはみんな「感傷的なウソ」だというのだ。

 ぼくもほぼ同意である。「人生の最奥に秘んでいるある大きな悲哀」と言ってはみたものの、その内実がどういうものか分からないから、「行く水の流、咲く花の凋落、この自然の底に蟠(わだかま)れる抵抗すべからざる力に触れては、人間ほど儚い情ないものはない。」なんて、『方丈記』の焼き直しみたいな陳腐な感慨でごまかすしかない。いくら「汪然として涙は時雄の鬚面を伝った。」などと気どってみせたところでダメだ。そこの浅さはみえみえである。

 精神的な深みに欠ける人間が、精神的な深みを持った人間に憧れるのは結構だが、憧れたからといって、それがそんな簡単に実現するわけじゃない。そのことを知らずに、ただ憧れているだけなのに、あたかも自分こそは精神の深みを持った人間になったのだと思い込むことほど滑稽なことはない。花袋は、その滑稽さをものの見事に表現したのだが、そのことに花袋が自覚的であったかは、ぼくにはよく分からない。

 

 

田山花袋『蒲団』 12  「他者」の不在   2018.11.28

 

 芳子を連れ帰りに出かけた時雄は、市ヶ谷八幡の境内の「常夜燈」に、妻と出会ったころのことを思い出して涙する。あの時は、あんなに幸せだったのに、たった8年でこうも変わろうとは。あんなに可愛かった妻と暮らした楽しい日々がどうしてこんな荒涼たる生活に変わってしまったのだろう、と嘆く。

 

 時雄は我ながら時の力の恐ろしいのを痛切に胸に覚えた。けれどその胸にある現在の事実は不思議にも何等の動揺をも受けなかった。
「矛盾でもなんでも為方(しかた)がない、その矛盾、その無節操、これが事実だから為方がない、事実! 事実!」
 と時雄は胸の中に繰返した。

 

 時雄は「時の力の恐ろしさ」というが、「恐ろしい」のは「時の力」ではなくて、時雄の心ではなかろうか。誰だって新婚気分のまま8年を過ごすことはできない。結婚して1年もすれば(いや1ヶ月か)、相手が天使でもアイドルでもないことがわかる。衝突もすれば、愛想も尽かす。そうした小さないざこざやすれ違いを、そのままにしておけば、果てに待っているのは「荒涼たる生活」だろう。「時の力」のせいじゃない。みんな自分(あるいは相手も含めてもいい)のせいなのだ。それなのに、そういうことをまったく顧慮しようともしない時雄は、すべてを「時の力」という観念的で曖昧なもののせいにしてしまう。

 「時雄は我ながら時の力の恐ろしいのを痛切に胸に覚えた。」という表現は、文学的な表現に見えるけれど、「感傷的なウソ」でしかない。何にも時雄には分かっていない。だからこそ、その後に、「けれどその胸にある現在の事実は不思議にも何等の動揺をも受けなかった。」という驚くべき心のあり方が出て来るのだ。

 悪いのは「時」だ。「時間」だ。結婚してすぎた8年という時間だ。だとすれば、「その胸にある現在の事実」つまりは、芳子への恋慕は、何の反省も伴わずに、ごく「自然」なこととして揺るがない。「不思議にも何等の動揺をも受けなかった。」とあるが、「不思議」でもなんでもない。当然の帰結である。その当然の帰結は、「矛盾でもなんでも為方がない、その矛盾、その無節操、これが事実だから為方がない、事実! 事実!」という叫びとなる。

 「矛盾」でも「無節操」でも、それが「事実」なんだから「しかたがない」というのなら、人生、なんだっていいことになってしまう。「しかたがない」なら、「煩悶」もなかろう。さっさと、芳子と寝ればいいのである。それだけのことじゃないか。

 「矛盾」というが、それは「道徳観」と「自分の行為」の間に齟齬があることを示す。「無節操」というのは、「節操」という観念が心にあって、それを無視する、あるいは踏みにじることだ。けれども、すべての自らの行為や状況を「時の力」のせいにしてしまえば、「矛盾」も「無節操」も消えてなくなり、自分自身の責任はまったくないことになるわけだから、「事実」だけを受け入れて、それを生きればいいということになってしまう。

 ここで言われる「事実」とはいったい何なのだろう。この場合に限っていえば、「自分は芳子が好きでたまらない。」ということだ。それだけが「事実」だというのだ。そのことが、妻子ある身にとって果たして許されることなのかどうかとか、師弟関係において適切なことなのかどうかとか、芳子には恋人がいるにもかかわらず、こともあろうに師としての責任を負っている自分がそんな思いに動かされていいものだろうかとか、そういった様々な、人間としての生き方における規範あるいは道徳といったものよりも、「事実」が優先するのだということになる。けれども「事実」は、次から次へと出現する。今、芳子の夢中になっているのが「事実」なら、あした道で会った別の女にもう夢中になったとしても、それは新しい「事実」だ。「事実だからしかたがない」という言い草は、「無節操」ですらない。

 ここで言われる「事実」でもっとも重要なのは、それが「時雄にとっての事実」でしかないということだ。「時雄が芳子を好きでたまらない。」ということは、芳子にとっては、はなはだ迷惑な「事実」であり、妻にとっては、困ってしまう「事実」である。彼女らにとっては「しかたがない」じゃすまないのだ。「事実! 事実!」という叫びが、いわゆる「無理想・無解決」の自然主義宣言のように聞こえるのだが、それなら、確かに、日本の自然主義の出発点に『蒲団』がなってしまったのは不幸なことだった、という誰だかの意見(吉田精一だったか、平野謙だったか、他の誰だったか、調べきれていないが)は、なるほどもっともだと思うのである。

 改めて、人間の生き方について思いをはせてしまう。いったい、人間というものは、どう生きればいいのだろうか。時雄のように、とことん自分の欲望だけを軸にして、それを「事実」と置き換えて、「事実! 事実!」と叫んで生きていけばいいわけじゃない。本人はそれで本望だろうが、まわりがいい迷惑だ。やはり人間、なんらかの自分なりの「生きる軸」を持たねば、生きる意味がない。その「軸」をどこにおくか。いくらぶれても、「軸」があるのとないのでは雲泥の差が生まれる。

 時雄の問題は、つまりは「事実」が自己の中だけで完結してしまっていて、それが「他者」との関係の中で捉えられていないということだ。大事なのは「自分」じゃない。まして「自分の欲望」じゃない。大事なのは、「他者との関係における自己」あるいは「自己との関係における他者」なのだ。

 ぼくの母校でもあり、また長く勤務した学校でもある栄光学園の「校訓」は、「man for others」だ。訳せば「他者のための人間」となり、俗っぽくいえば「人のためになれ」という教えともなる。しかしぼくはこの言葉は、「もともと人間は、他者のために生きるものなのである。」という人間の定義なのだと思っている。他者のために生きるということは、別に一生を奉仕活動に費やすということではない。人間というものが、その人間らしさを発揮できるのは、他者との関係においてのみだ、ということなのだ。

 そのいちばん端的な例は、「赤ん坊をあやす母親(別に母親じゃなくてもいい、大人一般でも構わない。)」に見ることができる。母親は、単純に赤ん坊に笑いかける、それは「自分の欲望」とは無関係だ。赤ん坊がにっこり笑うとき、母親は無条件に幸せになる。人間というものは、そういうふうにできているのだ。
ここに、時雄を置いてみれば、どれだけ時雄の心のあり方が、「人間的でない」かが分かるだろう。

 時雄の「事実」の中に、実は「他者」たる芳子は存在していないのである。

 

 

田山花袋『蒲団』 13  「複数」の問題   2018.12.2

 

 芳子を住まわせている妻の姉の家に着いたが、芳子はまだ帰ってこない。いったい芳子はどこで何をしているのかと時雄はヤキモキする。待つこと一時間半、ようやく芳子が帰ってくる。


 下駄の音がする度に、今度こそは! 今度こそは! と待渡ったが、十一時が打って間もなく、小きざみな、軽い後歯(あとば)の音が静かな夜を遠く響いて来た。
「今度のこそ、芳子さんですよ」
 と姉は言った。
 果してその足音が家の入口の前に留って、がらがらと格子が開く。
「芳子さん?」
「ええ」
 と艶(あで)やかな声がする。
 玄関から丈の高い庇髪の美しい姿がすっと入って来たが、
「あら、まア、先生!」
 と声を立てた。その声には驚愕(おどろき)と当惑の調子が十分に籠っていた。
「大変遅くなって……」と言って、座敷と居間との間の閾の処に来て、半ば坐って、ちらりと電光のように時雄の顔色(かおつき)を窺ったが、すぐ紫の袱紗に何か包んだものを出して、黙って姉の方に押遣った。
「何ですか……お土産? いつもお気の毒ね?」
「いいえ、私も召上るんですもの」
 と芳子は快活に言った。そして次の間へ行こうとしたのを、無理に洋燈の明るい眩しい居間の一隅(かたすみ)に坐らせた。美しい姿、当世流の庇髪、派手なネルにオリイヴ色の夏帯を形よく緊(し)めて、少し斜(はす)に坐った艶やかさ。時雄はその姿と相対して、一種状(じょう)すべからざる満足を胸に感じ、今までの煩悶と苦痛とを半ば忘れて了った。有力な敵があっても、その恋人をだに占領すれば、それで心の安まるのは恋する者の常態である。

 

 下駄の音で帰宅がわかるってのも、いいもんだなあと思う。「後歯の音」というのがイマイチ分からないけど。小走りになると「後歯」だけが地に着くのだろうか。(と書いてアップしちゃったけど、いくらなんでも、そんな不安定な小走りはないよなあと思って、辞書を調べたら、「@下駄の後ろの歯。A前の歯と台は同じ材で作り、後ろの歯を差し入れた女性用の下駄。」(デジタル大辞泉)とあった。あきらかにこれはAの方。訂正します。)「その足音が家の入口の前に留って、がらがらと格子が開く。」ってのもいい。下駄の後歯の音(じゃなくて、後歯の下駄ね)といい、格子戸のガラガラと開く音といい、これを英語とかフランス語に訳すとしたら、どうしたらいいのだろうか。俳句や短歌の翻訳の不可能性ということはよく言われるけど、小説だって、無理だよね。どんなに内容がつまらなくても、ぼくがどうしても日本文学に魅力を感じるのは、こうした「翻訳不可能」な言葉や言葉遣いがあるからだ。

 それにしても、芳子は19歳。時雄は35、6歳。時雄にとって、芳子がどうしようもなく魅力的にうつるのは、まあ、しょうがないよなあとは思う。子育てに懸命で、亭主のことなんてジャマだぐらいにしか思わない(だって、手伝おうとすらしないんだからね)、化粧っ気のない古女房なんて、どうしたって勝ち目はない。

 芳子に自分の家に戻ってくるように説得すると、この姉の家の旧式なのがあんまり気に入っていなかったので、すぐに同意する。先生の家のほうが気が楽だというのだ。ということは、芳子は時雄にまったく気がないということだ。先生は自分たちの恋の庇護者なんだから、その先生の家に住むほうがいいというわけなのだが、時雄はそういう芳子の気持ちは分かっているけど、それはそれとして、とにかく芳子を身近においておきたい。身近において監視せねばならないという口実のもとに、ただただ芳子のそばにいたいのだ。

その晩は、そのまま姉の家に泊まった。


 今夜にもと時雄の言出したのを、だって、もう十二時だ、明日にした方が宜(よ)かろうとの姉の注意。で、時雄は一人で牛込に帰ろうとしたが、どうも不安心で為方がないような気がしたので、夜の更けたのを口実に、姉の家に泊って、明朝早く一緒に行くことにした。
 芳子は八畳に、時雄は六畳に姉と床を並べて寝た。やがて姉の小さい鼾(いびき)が聞えた。時計は一時をカンと鳴った。八畳では寝つかれぬと覚しく、おりおり高い長大息(ためいき)の気勢(けはい)がする。甲武の貨物列車が凄じい地響を立てて、この深夜を独り通る。時雄も久しく眠られなかった。

 

 「どうも不安心で為方がないような気がした」から、そのまま姉の家に泊まったというのも、田中がその晩にでも来やしないかと心配したわけだろうが、常軌を逸した心配のしかただ。何もそんなに急がなくてもと思うのだが、翌朝、さっそく引っ越しをさせる。たいした荷物もないから、あっという間に引っ越しは終わるのだが、この引っ越しの場面に、例のラストへの「伏線」が張られている。

机を南の窓の下、本箱をその左に、上に鏡やら紅皿やら罎やらを順序よく並べた。押入の一方には支那鞄、柳行李、更紗の蒲団夜具の一組を他の一方に入れようとした時、女の移香が鼻を撲ったので、時雄は変な気になった。

 この「変な気」が、ラストにもう一度出て来るわけである。やっぱり、嫌な感じである。
 引っ越しも一段落すると、さっそく時雄は、芳子に説教をする。


「どうです、此処も居心は悪くないでしょう」時雄は得意そうに笑って、「此処に居て、まア緩(ゆっ)くり勉強するです。本当に実際問題に触れてつまらなく苦労したって為方がないですからねえ」
「え……」と芳子は頭を垂れた。
「後で詳しく聞きましょうが、今の中は二人共じっとして勉強していなくては、為方がないですからね」
「え……」と言って、芳子は顔を挙げて、「それで先生、私達もそう思って、今はお互に勉強して、将来に希望を持って、親の許諾(ゆるし)をも得たいと存じておりますの!」
「それが好いです。今、余り騒ぐと、人にも親にも誤解されて了って、折角の真面目な希望も遂げられなくなりますから」
「ですから、ね、先生、私は一心になって勉強しようと思いますの。田中もそう申しておりました。それから、先生に是非お目にかかってお礼を申上げなければ済まないと申しておりましたけれど……よく申上げてくれッて……」
「いや……」
 時雄は芳子の言葉の中に、「私共」と複数を遣(つか)うのと、もう公然許嫁(いいなずけ)の約束でもしたかのように言うのとを不快に思った。まだ、十九か二十の妙齢の処女が、こうした言葉を口にするのを怪しんだ。時雄は時代の推移(おしうつ)ったのを今更のように感じた。当世の女学生気質のいかに自分等の恋した時代の処女気質と異っているかを思った。勿論、この女学生気質を時雄は主義の上、趣味の上から喜んで見ていたのは事実である。昔のような教育を受けては、到底今の明治の男子の妻としては立って行かれぬ。女子も立たねばならぬ、意志の力を十分に養わねばならぬとはかれの持論である。この持論をかれは芳子に向っても尠(すくな)からず鼓吹した。けれどこの新派のハイカラの実行を見てはさすがに眉を顰めずにはいられなかった。


「ゆっくり勉強するです。」とか、「それが好いです。」とかいった言い方は、今からするとちょっと変だが、当時はこういう言い方が一般的だったのだろうか。

 時雄は、女の「新しい生き方」を鼓吹した。それを、芳子にも説いた。それなのに、芳子が「私達」(時雄は、「私共」と言い換えているが、「私共」の方が「正しい」言い方だろう。)という言葉を使うだけでも不快を感じるのだ。前にも、芳子が「複数」を使って自分たちのことを語ることに怒っていた時雄である。自分と恋人を「複数」で語るということが、当世の「女学生気質」だというのだが、それなら、「自分等の恋した時代の処女気質」とは、いったいどういうものだったのだろうか。

 たとえ恋人同士となったとしても、他人に対しては、けっして「私達」などという複数では語らない。「許嫁の約束」でもしないかぎり、自分たちが「一体」であることを言葉でも示すことはできなかったということだろうか。

 男女のペアは、「ペア」として、生きた有機体とは認められなかったということだろうか。生きた有機体とは、ヘンテコな言い方だが、つまり、恋する者同士は、お互いに対等な人間としてひとつの「からだ」を有するということだ。「私達」の意志は、男の意志でもあり、同時に女の意志でもある、ということだ。「恋人たち」は、世間に対して、そうした「生きた有機体」として立ち向かうことはできなかった。若い娘は、男に恋をしても、その関係を「私達」という複数で公にはしなかったということだろうか。

 それはつまり、女性が結局のところ男の付属物のようなものとしてしか考えられていないということを物語るような気がする。恋人同士でも、決して女性が「私達」などとは言えない空気。女性が「私達は」と言えば、なんか、女性が前にしゃしゃり出てきて、ナマイキな感じがする、という感覚。女性は常に、うしろに控えているべきで、たとえば夫婦のことを話すにしても、「私達」と言えるのはあくまで男性なのだ。というよりは、当時の男性は、そもそも「私達」とは言わなかったのではなかろうか。「私は」ですんだのだ、たぶん。女房の言い分なんて、最初から考慮しない男たちがほとんどだったのではなかろうか。

 時雄が言う「この新派のハイカラの実行」が何を指すかといえば、この場面では、自分たちのことを「私達」と言ったことと、「公然許嫁(いいなずけ)の約束でもしたかのように言う」ことだけだ。後者は「今はお互に勉強して、将来に希望を持って、親の許諾(ゆるし)をも得たいと存じておりますの」という言葉だけど、それらのことを、時雄は「まだ、十九か二十の妙齢の処女が、こうした言葉を口にするのを怪しんだ。」というのだ。まったく、「新派のハイカラ」が聞いて呆れる。自分では「新しい」つもりの時雄だが、その「思想」は、旧態依然たるものである。いくら頭の中が新しくても、それを現実に応用できないんじゃしょうがいない。この程度のことを「新派のハイカラ」だとして「眉を顰める」師に、弟子はいったい何を学んだらいいのだろう。

 まあ、なんだかんだとイチャモンつけている時雄だが、要するに、芳子に恋人がいるのが我慢ならないだけのこと。それを、なんやかやと理屈をこねているわけなのだ。

 東京へ来ていた田中は、結局、時雄ともあわずに帰っていき、時雄と芳子には、穏やかな日々がしばらく続く。時雄の女房も、芳子に恋人がいることがはっきりしたので、安心したわけである。まあ、それは、普通の成り行きというものだろう。

 

 

田山花袋『蒲団』 14  「考えない人」   2018.12.3

 

 ここで、ちょっと本文を外れて、吉田精一の文章を紹介しておきたい。『田舎教師』のときも、この一部を引用したが、実に正確に花袋の文学の本質をついている。

 

 ルソオはその「懺悔録」の冒頭に云ふ。

 私のやらうとしてゐるのは、嘗て先例のないことで、これからも恐らく真似手があるまい。それは人間ひとり素裸にして世間の人達の目の前に晒者にしようといふのだ。さうしてその人間が私自身なのである。(略)いつの日、最後の審判の喇叭が鳴り渡るとも、私はこの一冊を携へて、審判者なる神の前に出で、高らかに声を挙げて云はうと思ふ。──斯く予は為しき、斯く予はありき。……虚妄と知りしものを、真実となしたることは断じてあらず、時には低劣下賤なる人間として、時には善良なる、寛大なる人間として、ありまゝに自らを曝露せり。……

 ルソオはわが国の文学にも強い影響を及ぼした。ことに藤村や花袋にそれが強い。自我の告白と懺悔、そこにひそむ倫理的要求は、他の誰よりもこの二人のものであった。藤村は「藤村詩集」の一巻に、その主観の跳梁と、感傷を流し棄てて散文に立ち向かひ、やや客観的な姿勢をとったが、花袋は空想と感傷のうちに溺れつつ、自己と個性に執着しつづけた。彼は自我を客観的に形象化し得ぬロマンチックな詩人的小説家として出発した。しかし誰はばからぬその感傷の露出は、紅葉等硯友社になく、二葉亭になく、風葉、天外等にないものであった。時代の波に動かされながら、外国文学通と呼ばれながら、常に彼は自我の観照と詠歎から離れ得なかった。彼の自我は貧しく、常に肥え太らなかった。想像力は貧弱で、情熱も強くない。文学的才能として凡ての点でルソオに劣りながら、自然に対する親しみと愛のみは近いものがあった。むしろ彼はロマンチックな風景詩人だった。この花袋の本然の傾向は、硯友社文学のアンチテーゼであった。不自然と作為を脱して、素朴と自然なものを求める彼の本来の志向は、必然的に有限な世相や社会を越えて、永遠なるもの、無限なるものにあこがれた。それらは冷酷な現実には見出されず、つねに期待のうちにしか存在しないところから、結果として、憂鬱と感傷の中にかきくれざるをえない。花袋初期の作風の基調は、一言でいへばここに存するのである。
 彼は「考へるより先ず感じ」る作家であり、感じなければ考へない人だった。このことが彼を、あくまで自己に正直な、自己の問題しか興味をもち得ない、主観的詩人的作家にした。それは彼のスケールを小さくし、又彼を千篇一律な主観詩人とした。たまたま外国作家や作品からフィクションをかりると、それはとってつけたやうな主題とはなればなれのものとなり、その不器用さを現したのである。にも係はらず、この自我に執する個人主観的態度は、その中につくりものの客観的描写にない、誠実さと主観的真実を含んでいたのである。それはロマンチック・レアリズムともいふべきものだった。自我をつきはなしそれを分析しえない彼に批判は弱く、告白があるばかりだった。

(吉田精一『自然主義の研究』)

 

 

 これを簡単にいえば、花袋は、才能も想像力もない凡庸な作家で、そのうえ、思考能力にも欠ける人だったが、自分が感じたことだけは無類の正直さで書いた。そしてそこになかなか他の文学作品にはない真実があったのだ、ということになろう。

 「感じなければ考えない」というのは、言い得て妙で、つまりは、「ほとんど考えない」ということだ。だって「考えるよりは先ず感じる」人なんだから、「感じる」ことが常に「考える」ことに優先する。とすれば、「考える」ひまなんてないわけである。

 もちろん、まったく考えないなどということはないだろうけど、「考え」は、「感じ」にいつも負けるし、その結果いつのまにか、考えることを忘れている、というわけだ。

 これを『蒲団』にあてはめてみれば、心ゆくまで納得される。時雄にとっては、すべての場面で「感じる」ことが優先されてしまう。自分が「感じたこと」、それを時雄は「事実」と呼び、「事実なんだからしょうがない」として「考える」ことを放棄してしまうのある。

 吉田精一もいうように、「自己の問題にしか興味をもち得ない」から、妻の嘆きとか、弟子の芳子の困惑とか、芳子の恋人の苦悩など、「描写」はするけれど、その中に入り込むことはできない。「想像力が貧弱」だからである。

 それが自分のこととなると、もうやたらに精密だ。微に入り細に入り、重箱の隅をつつくような執拗さで、自分の「感じたこと」を書き尽くしている。

 前回の、引っ越しの場面で、芳子の蒲団をしまうとき、そこに「女の移り香」を嗅いで、「変な気になった」なんてところは、普通は書かない。「変な気になる」ことは、誰にもあってもおかしくないし、それほど「変態的」なことでもない。ただ、そのときの「感じ」を、しつこく覚えていて、それがラストになって、思い出され、具体的な行為に及ぶとなると、その「感じ方」は尋常なものではない。自分の「感じたこと」への執着がやはり異常に強く、「そんな恥ずかしいことは、やっぱり隠しておこう。」と「考える」ことがない。

 仮にも弟子としてとった女に、若い恋人ができたからといって、狂ったように酒に溺れて暴れ、弟子を執拗に問い詰めるなどという「大人げない」始末になってしまうことの「恥ずかしさ」「面目なさ」を、時雄は「考える」ことができない。恥ずかしい、面目ないと思ってはいるのだろうが、いつも、「感じたこと=事実」に負けてしまうのだ。

 吉田のいう「ロマンチック・レアリズム」というのは、「涙に濡れたレアリズム」ってことだろうか。レアリズムというからには、冷静に現実を見つめ、その本質をえぐり出さなければならない。けれども、そうしようと思いつつ、いつも泣いているから──つまり感傷から自由になれないから──現実がちゃんと見えない。ちゃんと見えないから分析もできない。つまりは、そんなのはぜんぜんレアリズムじゃないのだ。時雄の叫ぶ「事実」が、「事実」でもなんでもないのと同じように、「ロマンチック」じゃ、リアルになれない、ってことだ。それをあえて「ロマンチック・レアリズム」と言ってみせる吉田精一も、お茶目な人だ。

 それにしても、吉田精一のいうとおり、花袋が「考えない人」だったとしても、それを難詰したり嘲笑したりすることはどうもぼくにはできない。それというのも、ぼくもまた「考えるへるより先ず感じる」人間であり、「感じなければ考えない」人間であるからだ。そればかりか、自我が弱いとか、想像力が貧困だとか、文学的才能に劣るとか、なんだか全部ぼくのことを言われているような気になる。自然に対する愛と親しみはルソオに近い(まあ、ぼくの場合はそれすら中途半端だが)というところまで似ている。だから、花袋のことを考えることは、必然的に己を反省することにもなるのである。

 

 

 

田山花袋『蒲団』 15  ハガキと手紙   2018.12.5

 

 芳子の恋人は、とにかく故郷へ帰ったので、時雄の気持ちもだいぶおさまり、女房のほうでもすっかり安心して、平和な生活がしばらく続いたのだが、恋人たちの手紙のやりとりは頻繁である。あまりにぶ厚い手紙だったりすると、時雄は気になって、こっそり盗み読んだりする。とんでもない「師」である。

 空想から空想、その空想はいつか長い手紙となって京都に行った。京都からも殆ど隔日のように厚い厚い封書が届いた。書いても書いても尽くされぬ二人の情──余りその文通の頻繁なのに時雄は芳子の不在を窺って、監督という口実の下にその良心を抑えて、こっそり机の抽出(ひきだし)やら文箱(ふばこ)やらをさがした。捜し出した二三通の男の手紙を走り読みに読んだ。
 恋人のするような甘ったるい言葉は到る処に満ちていた。けれど時雄はそれ以上にある秘密を捜し出そうと苦心した。接吻の痕、性慾の痕が何処かに顕われておりはせぬか。神聖なる恋以上に二人の間は進歩しておりはせぬか、けれど手紙にも解らぬのは恋のまことの消息であった。

 時雄の関心は、二人の恋の行方というよりも、二人がどこまで肉体的な交渉をもったかという、まことにゲスな好奇心であり、それは好奇心というレベルを超えて、もうそれだけは絶対に許さないという、「師としての使命感」の様相を呈するのだ。

 そんなある日、衝撃的な「端書(ハガキ)」が届く。


 ところが、ある日、時雄は芳子に宛てた一通の端書を受取った。英語で書いてある端書であった。何気なく読むと、一月ほどの生活費は準備して行く、あとは東京で衣食の職業が見附かるかどうかという意味、京都田中としてあった。時雄は胸を轟かした。平和は一時にして破れた。
 晩餐後、芳子はその事を問われたのである。
 芳子は困ったという風で、「先生、本当に困って了ったんですの。田中が東京に出て来ると云うのですもの、私は二度、三度まで止めて遣ったんですけれど、何だか、宗教に従事して、虚偽に生活してることが、今度の動機で、すっかり厭になって了ったとか何とかで、どうしても東京に出て来るッて言うんですよ」
「東京に来て、何をするつもりなんだ?」
「文学を遣りたいと──」
「文学? 文学ッて、何だ。小説を書こうと言うのか」
「え、そうでしょう……」
「馬鹿な!」
 と時雄は一喝した。
「本当に困って了うんですの」
「貴嬢(あなた)はそんなことを勧めたんじゃないか」
「いいえ」と烈しく首を振って、「私はそんなこと……私は今の場合困るから、せめて同志社だけでも卒業してくれッて、この間初めに申して来た時に達(た)って止めて遣ったんですけれど……もうすっかり独断でそうして了ったんですッて。今更取かえしがつかぬようになって了ったんですッて」
「どうして?」
「神戸の信者で、神戸の教会の為めに、田中に学資を出してくれている神津という人があるのですの。その人に、田中が宗教は自分には出来ぬから、将来文学で立とうと思う。どうか東京に出してくれと言って遣ったんですの。すると大層怒って、それならもう構わぬ、勝手にしろと言われて、すっかり支度をしてしまったんですって、本当に困って了いますの」
「馬鹿な!」
 と言ったが、「今一度留めて遣んなさい。小説で立とうなんて思ったッて、とても駄目だ、全く空想だ、空想の極端だ。それに、田中が此方(こっち)に出て来ていては、貴嬢の監督上、私が非常に困る。貴嬢の世話も出来んようになるから、厳しく止めて遣んなさい!」
 芳子は愈ゝ(いよいよ)困ったという風で、「止めてはやりますけれど、手紙が行違いになるかも知れませんから」
「行違い? それじゃもう来るのか」
 時雄は眼をみはった。
「今来た手紙に、もう手紙をよこしてくれても行違いになるからと言ってよこしたんですから」
「今来た手紙ッて、さっきの端書の又後に来たのか」
 芳子は点頭(うなず)いた。
「困ったね。だから若い空想家は駄目だと言うんだ」
 平和は再び攪乱(かきみだ)さるることとなった。


 この時雄と芳子のやりとりを読んでいると、思わず笑ってしまう。時雄の言葉はどこまでもマジメでユーモアの欠片すらないのに、可笑しい。マジメな人が、マジメに怒ると、どこかにおかしさが生じるものだ。

 時雄がなんでマジメなんだ? イヤラシさ満載のフマジメまオッサンじゃないかと思う方も多いと思うが、時雄は決してちゃらんぽらんな男ではない。妄想は「フマジメ」な方へ広がるが、その妄想に対して厳格なほどマジメなのだ。吉田精一の言葉を借りて言うなら「あくまで自己に正直」なのだ。正直すぎて、自己矛盾に気づくいとまもないわけだ。

 女弟子の恋人田中が、文学をやりたいと言っていると聞いて、時雄は、真っ向から反対する。田中がどんな文章を書き、どんな人間なのかも知らないのに、頭から反対だ。「とても駄目だ。」「全く空想だ。」「空想の極端だ。」と叫び散らす。まあ、自分の小説がまったく駄目で困っているわけだから、気持ちは分かるけれど、二人まとめて文学の方も指導してやればいいじゃんって、意地悪く思ったりもする。

 時雄の本音はもちろん、芳子を独占したいということだけだ。「田中が此方に出て来ていては、貴嬢の監督上、私が非常に困る。貴嬢の世話も出来んようになる」というのも結局は建前で、田中に芳子をとられてしまうのが嫌なだけだ、ということがみえみえで、ほんとうに「自己に正直」なんだなあと感心してしまう。

 それよりも、おもしろいのは、ハガキと手紙だ。田中はなぜハガキで、しかも英語で、そんなことを書いてきたのだろう。ハガキなんかに書いたら時雄の目に入ることはしれたこと。田中は時雄の気持ちはまったく知らないのだから、それはいいとしても、それならなぜ英語で書くのか。ただキザなだけなのだろうか。よく分からない。

 そのハガキを見て、時雄は驚愕する。せっかく田舎に帰ったのに、また来るのか! ジャマなやろうだ。時雄は必死で芳子に、こっちへ来るを阻止せよと言うのだが、手紙を出しても、「行き違い」になるかもしれないと「言ってよこした」という。時雄はその言葉に混乱する。いつそんなことを「言ってよこした」のか。ハガキにはそんなことは書いてなかった、と思うのだ。すると、「今来た手紙」にそう書いてあったという。「今来た手紙ッて、さっきの端書の又後に来たのか」という時雄の言葉にも笑ってしまう。ハガキを出した直後にすぐに手紙を書いた田中という男も、よほど切羽詰まったのかもしれないが、そういうハガキだの手紙だのが、ランダムに届くという状況は、当時は当然のことだが、今の「通信事情」を考えると、ほんとうに隔世の感がある。ほとんど別世界だ。そしてこの「情報の混乱」が、そのまま時雄の心の混乱につながっているようで、おもしろい。

 そういえば、『泡鳴五部作』でも、「お鳥」が北海道へやってくるという知らせを受けて、彼女がどこにいるのか、どうしたら連絡できるのかで、すったもんだするところがあった。そこにもいらだたしい混乱があった。やっぱり、「携帯電話」は、世界を変えたんだなあとしみじみしてしまう。

 

 

田山花袋『蒲団』 16  芳子の恋人   2018.12.8

 

 芳子の恋人田中は、結局東京へ出てきてしまった。安い旅籠にとまって、どうしても京都には帰らないと言い張っているという。時雄は、勝手にしろと思うこともあったけれど、芳子が学校の帰りに田中のところに寄りはしないか、そこで何かしないかと気が気じゃない。それで、とうとう、時雄は田中に会いに行った。


 その夕暮、時雄は思い切って、芳子の恋人の下宿を訪問した。
「まことに、先生にはよう申訳がありまえんのやけれど……」長い演説調の雄弁で、形式的の申訳をした後、田中という中脊の、少し肥えた、色の白い男が祈祷をする時のような眼色をして、さも同情を求めるように言った。
 時雄は熱していた。「然し、君、解ったら、そうしたら好いじゃありませんか、僕は君等の将来を思って言うのです。芳子は僕の弟子です。僕の責任として、芳子に廃学させるには忍びん。君が東京にどうしてもいると言うなら、芳子を国に帰すか、この関係を父母に打明けて許可を乞うか、二つの中一つを選ばんければならん。君は君の愛する女を君の為めに山の中に埋もらせるほどエゴイスチックな人間じゃありますまい。君は宗教に従事することが今度の事件の為めに厭になったと謂うが、それは一種の考えで、君は忍んで、京都に居りさえすれば、万事円満に、二人の間柄も将来希望があるのですから」
「よう解っております……」
「けれど出来んですか」
「どうも済みませんけど……制服も帽子も売ってしもうたで、今更帰るにも帰れまえんという次第で……」
「それじゃ芳子を国に帰すですか」
 かれは黙っている。
「国に言って遣りましょうか」
 矢張黙っていた。
「私の東京に参りましたのは、そういうことには寧(むし)ろ関係しない積(つもり)でおます。別段こちらに居りましても、二人の間にはどうという……」
「それは君はそう言うでしょう。けれど、それでは私は監督は出来ん。恋はいつ惑溺するかも解らん」
「私はそないなことは無いつもりですけどナ」
「誓い得るですか」
「静かに、勉強して行かれさえすれァナ、そないなことありませんけどナ」
「だから困るのです」

 

 この田中という男にも拍子抜けする。なんとも田舎くさい、トロい感じの男である。時雄の持ち出した「二択」も何でそれしか選択肢がないのか訳が分からないけど、田中の言い分も、なんだか要領を得ない。さらに田中についての記述が続く。

 

 時雄の眼に映じた田中秀夫は、想像したような一箇秀麗な丈夫でもなく天才肌の人とも見えなかった。麹町三番町通の安旅人宿(はたご)、三方壁でしきられた暑い室に初めて相対した時、先ずかれの身に迫ったのは、基督教に養われた、いやに取澄ました、年に似合わぬ老成な、厭な不愉快な態度であった。京都訛の言葉、色の白い顔、やさしいところはいくらかはあるが、多い青年の中からこうした男を特に選んだ芳子の気が知れなかった。殊に時雄が最も厭に感じたのは、天真流露という率直なところが微塵もなく、自己の罪悪にも弱点にも種々(いろいろ)の理由を強いてつけて、これを弁解しようとする形式的態度であった。とは言え、実を言えば、時雄の激しい頭脳(あたま)には、それがすぐ直覚的に明かに映ったと云うではなく、座敷の隅に置かれた小さい旅鞄や憐れにもしおたれた白地の浴衣などを見ると、青年空想の昔が思い出されて、こうした恋の為め、煩悶もし、懊悩もしているかと思って、憐憫の情も起らぬではなかった。
 

 やっぱり、時雄は、田中がどんなに素敵な好青年だろうと想像していたわけだ。読者もまたそうだろう。芳子とは神戸の教会で出会ったということだし、年は22だし、どう想像したって芳子以上にハイカラで、垢抜けた青年しか思い浮かばない。それが、こんな「京都訛」(どうも、京都訛には聞こえないけど)の、オドオドしたような歯切れの悪い情けない男だったとは意外である。

 しかし、この田中青年の姿は、時雄の目を通しての姿で、芳子からみれば、魅力的な男なのだろう。ここで、客観的にはどうだったのかは、考えても仕方ないが、時雄の色眼鏡をはずして考えても、やはり、それほどの好男子ではなさそうだ。しかし、時雄は、その青年を見ているうちに、なんだか切なくなってきてしまい、君たちの「温情なる保護者となろう」とまで言ってしまうのだ。翻訳の仕事も紹介してやろうとまで言った。そして、そんな人のいい自分をまた罵るのだった。

 この辺の時雄の心情というものは、なかなか複雑である。もし、田中が目を見張るような好青年だったら、時雄も諦めがついたかもしれない。それでなくても、一回り年が違うのでは勝ち目はないはずなのだ。それが、こんな男じゃオレの方がよっぽどマシじゃないかと時雄は思ったに違いない。「多い青年の中からこうした男を特に選んだ芳子の気が知れなかった」というのも無理はないのかもしれない。

 気が知れなかった、といっても、それは仕方がない。恋とはそういうものだ。しかし、こんなヤツにオレが負けてる、という意識は時雄を苦しめたろう。

 そればかりではない。時雄の女房もまた、同じような感想を田中について持つのだ。「厭な人ねえ、あんな人を、あんな書生さんを恋人にしないたッて、いくらも好いのがあるでしょうに。芳子さんは余程物好きね。あれじゃとても望みはありませんよ。」なんて言うのである。女房は、亭主の浮気心に気づいているのに、なんでこんな火に油を注ぐようなことを言うのだろうか。「いくらでも好いの」が、時雄である可能性をなぜ考えないのか。「余程物好き」な芳子なら、一回り以上も上の妻子持ちにだって恋をするかもしれないとどうして考えないのか。「考えない人」である点では、女房もまた同類なのかもしれない。

 時雄は、口を極めて田中が「嫌な人間」であることを言い立てるのだが、「天真流露という率直なところが微塵もなく、自己の罪悪にも弱点にも種々(いろいろ)の理由を強いてつけて、これを弁解しようとする形式的態度」とは、まさに時雄のことではないか。

 時雄は心の中でこそ「恋に師弟なんて関係ない!」と叫ぶけれど、口から出る言葉は、「天真流露という率直なところ」など「微塵もない」。そればかりか、大人のいやらしさ全開で、言葉では人の道を語りながら、なんとかして、二人の中を引き裂こうとしか考えていない。


 時雄は京都嵯峨に於ける女の行為にその節操を疑ってはいるが、一方には又その弁解をも信じて、この若い二人の間にはまだそんなことはあるまいと思っていた。自分の青年の経験に照らしてみても、神聖なる霊の恋は成立っても肉の恋は決してそう容易に実行されるものではない。で、時雄は惑溺せぬものならば、暫くこのままにしておいて好いと言って、そして縷々として霊の恋愛、肉の恋愛、恋愛と人生との関係、教育ある新しい女の当に守るべきことなどに就いて、切実にかつ真摯に教訓した。古人が女子の節操を誡めたのは社会道徳の制裁よりは、寧ろ女子の独立を保護する為であるということ、一度肉を男子に許せば女子の自由が全く破れるということ、西洋の女子はよくこの間の消息を解しているから、男女交際をして不都合がないということ、日本の新しい婦人も是非ともそうならなければならぬということなど主なる教訓の題目であったが、殊に新派の女子ということに就いて痛切に語った。


 時雄がどんなきれい事を並べようと、要するに、時雄は、芳子が田中と肉体関係を持ち、それに「惑溺」することだけを恐れているということだ。とにかく、時雄は、芳子の「純潔」(注:この言葉はこの小説では使われていない。)を守りたい。それは、表向きは芳子の「庇護者」であるからだが、しかし芳子の「純潔」がそれほど大事なのは、他ならぬ自分が芳子の「最初の男」になりたいからだ。その欲望を強く持っているからだということが、この後を読んで行くとはっきりしてくる。

 

 

 

田山花袋『蒲団』 17  「真面目」とは何か?   2018.12.12

 

 東京へ出てきてしまった田中はそのまま帰らない。時雄の煩悶は続く。


 その恋人が東京に居ては、仮令(たとい)自分が芳子をその二階に置いて監督しても、時雄は心を安んずる暇はなかった。二人の相逢うことを妨げることは絶対に不可能である。手紙は無論差留めることは出来ぬし、「今日ちょっと田中に寄って参りますから、一時間遅くなります」と公然と断って行くのをどうこう言う訳には行かなかった。またその男が訪問して来るのを非常に不快に思うけれど、今更それを謝絶することも出来なかった。時雄はいつの間にか、この二人からその恋に対しての「温情の保護者」として認められて了った。


 まあ、マヌケな話ではある。ほんとうに芳子をものにしたい(どうも品のよくない表現ばかりですみません)のなら、むしろ芳子を自分の家になんかおかないで、妻の姉のところもやめて、ぜんぜん関係のないところに下宿でもさせて、自分が通っていけばいい。田中が来るかもしれないけど、自分も乗り込んでいって、追っ払えばいい。ちょうど、鮭が産卵するときに、オスがメスの奪い合いをするようにやればいい。鮭だってそのくらいのことはするんだから、人間にできないことはない。

 鮭と人間と一緒にするなって話かもしれないけど、結局、本質は変わらない。「霊的な恋」なんて、所詮、時雄には無理だし、時雄じゃなくても一般人には無理なのだ。そんなものは、生かじりのキリスト信徒の妄想でしかないのだ。

 野は秋も暮れて木枯の風が立った。裏の森の銀杏樹も黄葉(もみじ)して夕の空を美しく彩った。垣根道には反かえった落葉ががさがさと転がって行く。鵙(もず)の鳴音(なきごえ)がけたたましく聞える。若い二人の恋が愈ゝ(いよいよ)人目に余るようになったのはこの頃であった。時雄は監督上見るに見かねて、芳子を説勧(ときすす)めて、この一伍一什(いちぶしじゅう)を故郷の父母に報ぜしめた。そして時雄もこの恋に関しての長い手紙を芳子の父に寄せた。この場合にも時雄は芳子の感謝の情を十分に贏(か)ち得るように勉めた。時雄は心を欺いて、──悲壮なる犠牲と称して、この「恋の温情なる保護者」となった。

 花袋の得意な風景描写が出て来る。しかし本当はこの描写は不必要だ。木枯らしが立とうが、モズが鳴こうが、そんなことと芳子と田中の恋の行方は関係ないからだ。彼らは彼らなりに燃えたわけで、季節の推移に応じたわけじゃない。けれども、こういう風景や季節の描写をさし込むことで、物語に客観性をもたせようとしたのだろう。演歌の歌詞にも似たような手法が氾濫している。(「さざんかの宿」とか「天城越え」とか、きりがない。)

 とうとう、二人の恋は、その親の知るところとなった。それも、時雄が直接「チクった」のではなくて、「一伍一什(いちぶしじゅう)を故郷の父母に報ぜしめた」、つまり芳子に報告させたのだ。その上で、時雄は「温情なる保護者」として、「長い手紙」を親に書いた。時雄はどこまでも「いい子」でいたいのだ。

 こうなればもう恋の行方は知れている。いくら、時雄が「芳子の感謝の情」を得ようと心を砕いてこの恋を認めてくれるように父親に説得しても、そうはいくまい。あわよくば、二人は別れさせられて、田中は故郷へ戻り、芳子は相変わらず弟子として自分のところにとどまることになるかもしれない。時雄はその可能性に賭けたのかもしれない。

 そんなとき、時雄は仕事の関係で、しばらく上州の方へいく。一時帰宅したときに妻から聞いた話では、芳子の恋は「更に惑溺の度を加えた様子」であるという。あまりに二人が頻繁に往来するので、妻は芳子に注意してそれで口論になったともいう。妻も、「保護者」としてふるまっているわけで、やっぱり時雄の「恋心」を察してはいても、それほど深刻には考えていないのではないかと思われる。時雄の芳子への「激しい恋」は、妻には「想定外」なのだろう。
再び上州へ戻った時雄の元に、芳子からの手紙が届いた。


先生、
まことに、申訳が御座いません。先生の同情ある御恩は決して一生経っても忘るることでなく、今もそのお心を思うと、涙が滴(こぼ)るるのです。
父母はあの通りです。先生があのように仰(おっ)しゃって下すっても、旧風(むかしふう)の頑固(かたくな)で、私共の心を汲んでくれようとも致しませず、泣いて訴えましたけれど、許してくれません。母の手紙を見れば泣かずにはおられませんけれど、少しは私の心も汲んでくれても好いと思います。恋とはこう苦しいものかと今つくづく思い当りました。先生、私は決心致しました。聖書にも女は親に離れて夫に従うと御座います通り、私は田中に従おうと存じます。
田中は未だに生活のたつきを得ませず、準備した金は既に尽き、昨年の暮れは、うらぶれの悲しい生活を送ったので御座います。私はもう見ているに忍びません。国からの補助を受けませんでも、私等は私等二人で出来るまでこの世に生きてみようと思います。先生に御心配を懸けるのは、まことに済みません。監督上、御心配なさるのも御尤(ごもっと)もです。けれど折角先生があのように私等の為めに国の父母をお説き下すったにも係らず、父母は唯無意味に怒ってばかりいて、取合ってくれませんのは、余りと申せば無慈悲です、勘当されても為方が御座いません。堕落々々と申して、殆ど歯(よわい)せぬばかりに(注:「歯す」とは、「仲間として交わる。同列に並びたつ。」の意。ここでは、「堕落した者と同列に扱う」といった意味か。)申しておりますが、私達の恋はそんなに不真面目なもので御座いましょうか。それに、家の門地々々と申しますが、私は恋を父母の都合によって致すような旧式の女でないことは先生もお許し下さるでしょう。先生、私は決心致しました。昨日上野図書館で女の見習生が入用だという広告がありましたから、応じてみようと思います。二人して一生懸命に働きましたら、まさかに餓えるようなことも御座いますまい。先生のお家にこうして居ますればこそ、先生にも奥様にも御心配を懸けて済まぬので御座います。どうか先生、私の決心をお許し下さい。
   芳子
   先生 おんもとへ

 


 要は、もうここまできたら、私は家も親も捨てて、仕事も探して自立して、先生の家を出て、田中と一緒に暮らしていきます、ということだ。それこそが新しい女の生き方だと先生が教えてくれたではありませんか、と言われては、時雄もグーの音もでない。

 時雄は芳子の父への手紙で、二人の恋を認めてやって欲しいと書いたけれど、そんなことを父が認めるわけがないことは知っていたし、「むしろ父母の極力反対することを希望していた」のだ。父親は案の定、猛反対して、勘当するとまで言ってきた。それに対して時雄はひたすら弁明につとめ、是非、東京へ来て、一緒に芳子を説得してほしいと書いてやったのだが、父親はそんなの無駄だといって出てこない。

 そこへ芳子からのこんな手紙だ。

 二人の状態は最早一刻も猶予すべからざるものとなっている。時雄の監督を離れて二人一緒に暮したいという大胆な言葉、その言葉の中には警戒すべき分子の多いのを思った。いや、既に一歩を進めているかも知れぬと思った。又一面にはこれほどその為めに尽力しているのに、その好意を無にして、こういう決心をするとは義理知らず、情知らず、勝手にするが好いとまで激した。

 「警戒すべき分子」というのは、二人が一緒に暮らす以上、そこで二人の恋が「肉の恋」へと発展する可能性ということだろう。いや、可能性どころじゃない。「既に一歩を進めているかも知れぬ」ではないかと時雄は焦る。

 面白いよね。今じゃ考えることすらできない。ここまで来た二人が「できてない」なんてことあり得ないでしょう? ってことになる。しかし、これがまだ「疑惑」の域を出ない、つまりまだ「やってない」ということが本当ではないという証拠もないわけで、そういうことが現代の世の中では絶対にないというわけでもない。

 ただ今の世の中で「やったか、やってないか」なんてことは、あんまり意味がない。そもそも今の世の中に「神聖なる恋」なんて概念がないんだから。当時にしても、「神聖なる恋」なんていったところで、「肉体関係のない恋」という程度の底の浅い概念でしかない以上、ほんとうはそんなことどうでもいいはずなのだ。

 『蒲団』という小説を読んでいて、一番不可解なのは、どうしてここまでそんなことにこだわるのか。女の「貞操」「純潔」「処女」にここまでこだわるのはなぜなのか。いったいどういう文化的・精神的な背景があるのか、ということだ。

 という問題意識がぼくにはあるけれど、時雄の場合は、そんな文化的、精神的な背景などほとんど関係なく、自分の欲望だけが問題となる。


 時雄は土手を歩きながら種々のことを考えた。芳子のことよりは一層痛切に自己の家庭のさびしさということが胸を往来した。三十五六歳の男女の最も味うべき生活の苦痛、事業に対する煩悩、性慾より起る不満足等が凄じい力でその胸を圧迫した。芳子はかれの為めに平凡なる生活の花でもあり又糧でもあった。芳子の美しい力に由って、荒野の如き胸に花咲き、錆び果てた鐘は再び鳴ろうとした。芳子の為めに、復活の活気は新しく鼓吹された。であるのに再び寂寞荒涼たる以前の平凡なる生活にかえらなければならぬとは……。不平よりも、嫉妬よりも、熱い熱い涙がかれの頬を伝った。
 かれは真面目に芳子の恋とその一生とを考えた。二人同棲して後の倦怠、疲労、冷酷を自己の経験に照らしてみた。そして一たび男子に身を任せて後の女子の境遇の憐むべきを思い遣った。自然の最奥に秘める暗黒なる力に対する厭世の情は今彼の胸を簇々(むらむら)として襲った。


 芳子が家を出ていってしまう、ということがもたらすのは「寂寞荒涼たる以前の平凡なる生活」であり、それが辛いということらしい。その辛さが嫉妬より大きく、それがために「熱い熱い涙がかれの頬を伝った」のだそうだ。笑止千万である。「嫉妬に狂った」っていえばすむことじゃないか。その方がまだ分かるし、共感できる。たとえ人の道に反していようと、そういう恋だってある。

 更にいけないのは、「真面目に芳子の恋とその一生を考えた」ことだ。それこそ余計なお世話じゃないか。「自己の経験に照らして」みればなんでも分かるというもんじゃない。挙げ句の果てに出て来る「自然の最奥に秘める暗黒なる力に対する厭世の情」とはいったい何なのか? たぶんどこか外国の小説にでてきた概念をそこに持ちだしているだけの話だろう。

 「真面目に」とあるが、それは、オレは自分のことだけを考えているわけじゃない、芳子の人生についても「真面目に」考えてやっているのだということだろうが、こういうのは「真面目」とはいわない。芳子がどうなろうとオレの知ったことか、と突き放すことのほうが、余程「真面目」である。「真面目」が「誠実」とほぼ道義であるとすれば、他者に対する「真面目さ」とは、他者を自分の価値観や感情で軽々しく判断しない、ということだからだ。


 

田山花袋『蒲団』 18  芳子の父親   2018.12.15

 

 芳子の手紙に衝撃をうけた時雄は、芳子の父と会って話そうと思う。芳子の手紙を自分の手紙に添えて送りつけ、近況を知らせ、とにかく二人を引き離そうとしたのである。


 真面目なる解決を施さなければならぬという気になった。今までの自分の行為(おこない)の甚だ不自然で不真面目であるのに思いついた。時雄はその夜、備中の山中にある芳子の父母に寄する手紙を熱心に書いた。芳子の手紙をその中に巻込んで、二人の近況を詳しく記し、最後に、
 父たる貴下と師たる小生と当事者たる二人と相対して、此の問題を真面目に議すべき時節到来せりと存候(ぞんじそうろう)、貴下は父としての主張あるべく、芳子は芳子としての自由あるべく、小生また師としての意見有之(これあり)候、御多忙の際には有之候えども、是非々々御出京下され度(たく)、幾重にも希望仕(つかまつり)候。
 と書いて筆を結んだ。封筒に収めて備中国新見町横山兵蔵様と書いて、傍に置いて、じっとそれを見入った。この一通が運命の手だと思った。思いきって婢(おんな)を呼んで渡した。
 一日二日、時雄はその手紙の備中の山中に運ばれて行くさまを想像した。四面山で囲まれた小さな田舎町、その中央にある大きな白壁造、そこに郵便脚夫が配達すると、店に居た男がそれを奥へ持って行く。丈の高い、髯のある主人がそれを読む──運命の力は一刻毎に迫って来た。


 また「真面目」が出て来る。「真面目なる解決」とはいったい何か。「今までの自分の行為(おこない)の甚だ不自然で不真面目であるのに思いついた。」とは何か。まるで分からない。自分の行為の「不自然で不真面目」だったというのは、芳子の恋を目の当たりにしながら、親にも知らせず、指をくわえて見ていたということを言うのか。それとも、芳子に恋をしているのに、その気持ちを欺き、芳子の「庇護者」然としてふるまっていたということか。後者なら、意味は通るけれど、実際には前者なのだから、「真面目」が聞いて呆れるわけである。この際の「真面目なる解決」とは、自分にとって望ましい解決以外のなにものでもないのだ。

 父には「父としての主張」があり、芳子には「芳子としての自由」があり、自分には「師としての意見」があるとしながらも、「芳子の自由」はまるで考慮するつもりはないのだから、これ以上「不真面目」な手紙はないわけである。

 最後の段落が、まるで大小説のクライマックスみたいな書き方で、吹き出してしまう。いったい何が「運命の力」だというのか。そこにあるのは、時雄の、エゴでしかないではないか。

 時雄が東京へ帰った翌日に芳子の父からの返事が届き、父はすぐにやってきて、娘と対面する。芳子は少し風邪気味。時雄も同席した。


「芳子、暫くじゃッたのう……体は丈夫かの?」
「お父さま……」芳子は後を言い得なかった。
「今度来ます時に……」と父親は傍に坐っている時雄に語った。「佐野と御殿場でしたかナ、汽車に故障がありましてナ、二時間ほど待ちました。機関が破裂しましてナ」
「それは……」
「全速力で進行している中に、凄じい音がしたと思いましたけえ、汽車が夥(おびただ)しく傾斜してだらだらと逆行しましてナ、何事かと思いました。機関が破裂して火夫が二人とか即死した……」
「それは危険でしたナ」
「沼津から機関車を持って来てつけるまで二時間も待ちましたけえ、その間もナ、思いまして……これの為めにこうして東京に来ている途中、もしもの事があったら、芳(と今度は娘の方を見て)お前も兄弟に申訳が無かろうと思ったじゃわ」
 芳子は頭を垂れて黙っていた。
「それは危険でした。それでも別にお怪我もなくって結構でした」
「え、まア」
 父親と時雄は暫くその機関破裂のことに就いて語り合った。不図(ふと)、芳子は、
「お父様、家では皆な変ることは御座いません?」
「うむ、皆な達者じゃ」
「母さんも……」
「うむ、今度も私が忙しいけえナ、母に来て貰うように言うてじゃったが、矢張、私の方が好いじゃろうと思って……」
「兄さんも御達者?」
「うむ、あれもこの頃は少し落附いている」


 読んで目を疑うほどの、ものすごい事故である。蒸気機関車の機関が爆発して、列車は坂道を逆走し、火夫が二人も死んだのに、二時間待って機関車をつけかえて運転続行とはびっくりだ。それほどの事故が起きたら、今なら一日ぐらいは運行見合わせになるところ。昔は、鉄道の上を列車が走っているだけで、コンピュータを使って列車の運行管理なんかしてなかったわけだから、かえって復旧も早かったということだろうか。それほどの事故でも誰も知らない。明治末期のこととて、ラジオもなかったのだからしょうがないけど。ちなみに、日本最初のラジオ放送は大正14年だとのこと。

 まあ、それはそれとして、父親としては、娘に会って、そんな話でもするしかなかったのだろう。いきなり芳子の恋愛について文句を言うわけにもいかない。そのうち、昼飯となって、芳子は自分の部屋に行ってしまう。時雄は、例の話を持ち出さずにはいられない。


「で、貴方はどうしても不賛成?」
「賛成しようにもしまいにも、まだ問題になりおりませんけえ。今、仮に許して、二人一緒にするに致しても、男が二十二で、同志社の三年生では……」
「それは、そうですが、人物を御覧の上、将来の約束でも……」
「いや、約束などと、そんなことは致しますまい。私は人物を見たわけでありませんけえ、よく知りませんけどナ、女学生の上京の途次を要して途中に泊らせたり、年来の恩ある神戸教会の恩人を一朝にして捨て去ったりするような男ですけえ、とても話にはならぬと思いますじゃ。この間、芳から母へよこした手紙に、その男が苦しんでおるじゃで、どうか御察し下すって、私の学費を少くしても好いから、早稲田に通う位の金を出してくれと書いてありましたげな、何かそういう計画で芳がだまされておるんではないですかな」
「そんなことは無いでしょうと思うですが……」
「どうも怪しいことがあるです。芳子と約束が出来て、すぐ宗教が厭になって文学が好きになったと言うのも可笑しし、その後をすぐ追って出て来て、貴方などの御説諭も聞かずに、衣食に苦しんでまでもこの東京に居るなども意味がありそうですわい」
「それは恋の惑溺であるかも知れませんから善意に解釈することも出来ますが」
「それにしても許可するのせぬのとは問題になりませんけえ、結婚の約束は大きなことでして……。それにはその者の身分も調べて、此方(こっち)の身分との釣合も考えなければなりませんし、血統を調べなければなりません。それに人物が第一です。貴方の御覧になるところでは、秀才だとか仰しゃってですが……」
「いや、そう言うわけでも無かったです」
「一体、人物はどういう……」
「それは却って母さんなどが御存じだと言うことですが」
「何アに、須磨の日曜学校で一二度会ったことがある位、妻もよく知らんそうですけえ。何でも神戸では多少秀才とか何とか言われた男で、芳は女学院に居る頃から知っておるのでしょうがナ。説教や祈祷などを遣らせると、大人も及ばぬような巧いことを遣りおったそうですけえ」
「それで話が演説調になるのだ、形式的になるのだ、あの厭な上目を使うのは、祈祷をする時の表情だ」と時雄は心の中に合点した。あの厭な表情で若い女を迷わせるのだなと続いて思って厭な気がした。
「それにしても、結局はどうしましょう? 芳子さんを伴れてお帰りになりますか」
「されば……なるたけは連れて帰りたくないと思いますがナ。村に娘を伴れて突然帰ると、どうも際立って面白くありません。私も妻も種々村の慈善事業や名誉職などを遣っておりますけえ、今度のことなどがぱっとしますと、非常に困る場合もあるです……。で、私は、貴方の仰しゃる通り、出来得べくば、男を元の京都に帰して、此処一二年、娘は猶お世話になりたいと存じておりますじゃが……」
「それが好いですな」
 と時雄は言った。

 

 時雄は、父親の言うことに対して、いちいち、「そんなことはないでしょう」とか、「善意に解釈することもできますが」と反論ふうなことを口に出すわけだが、その言葉の裏に自分の思うように穏便に話を進めようとする魂胆が見え透いていてイヤラシイ。

 で、結局は、時雄の思い通りのところに落ちついた。つまり、田中を京都に帰し、芳子は一二年預かるという、まさに時雄の思う壺だったわけである。

 最後の「それが好いですな。」に、時雄の「やった!」という気持ちが手に取るように表れている。ここではもう、「そうはおっしゃっても、少しは二人の気持ちを考えてやってはどうでしょう?」と心にもないことを一応持ちかけてみる余裕もない。この父の言葉を得たからには、あとはこの線で突っ走るしかない。時雄はそう思ったのだ。

 

 

 

田山花袋『蒲団』 19  疑念   2018.12.20

 

 時雄にとっては、芳子が恋人と肉体関係をすでに持ったのかどうかが大問題なのだが、芳子の父親にとってもそれは同じだ。けれども、時雄よりも父親のほうが、冷静というか、大人というか、世間を知っているというか、二人はすでに「できている」と考えるのだ。

 二人の間柄に就いての談話も一二あった。時雄は京都嵯峨の事情、その以後の経過を話し、二人の間には神聖の霊の恋のみ成立っていて、汚い関係は無いであろうと言った。父親はそれを聴いて点頭(うなず)きはしたが、「でもまア、その方の関係もあるものとして見なければなりますまい」と言った。

 父親としては、こういうことを言いたくはないだろうが、普通に考えれば、「その方の関係」はあるというしかない。いまだって、芸能人が、男女二人でホテルから出てくれば、いくら部屋で仕事の打ち合わせていただけだと言っても誰も信じないのと同じで、明治のころならなおさら、旅先で一緒に泊まったことだけで、「その方の関係」があろうがなかろうが、十分非難に値するわけだ。芳子がいくら「私達の関係はそんな汚れたものじゃありません」って言い張っても、それを信じる、あるいは信じようとするのは時雄ぐらいのものだ。もっとも時雄が「信じる」あるいは「信じようとする」のも、芳子を心から信頼しているからではなくて、ただただ「そうあってほしい」という願望にすぎないのだが。

 父親の胸には今更娘に就いての悔恨の情が多かった。田舎ものの虚栄心の為めに神戸女学院のような、ハイカラな学校に入れて、その寄宿舎生活を行わせたことや、娘の切なる希望を容(い)れて小説を学ぶべく東京に出したことや、多病の為めに言うがままにして余り検束を加えなかったことや、いろいろなことが簇々(むらむら)と胸に浮んだ。

 まあ、娘をもつというのも、やっかいなことだ。

 呼びにやった田中が来た。


 一時間後にはわざわざ迎いに遣った田中がこの室に来ていた。芳子もその傍に庇髪を俛(た)れて談話を聞いていた。父親の眼に映じた田中は元より気に入った人物ではなかった。その白縞の袴を着け、紺がすりの羽織を着た書生姿は、軽蔑の念と憎悪の念とをその胸に漲らしめた。その所有物を奪った憎むべき男という感は、曽(か)つて時雄がその下宿でこの男を見た時の感と甚だよく似ていた。
 田中は袴の襞を正して、しゃんと坐ったまま、多く二尺先位の畳をのみ見ていた。服従という態度よりも反抗という態度が歴々(ありあり)としていた。どうも少し固くなり過ぎて、芳子を自分の自由にする或る権利を持っているという風に見えていた。


 ここでは、田中が父親の目にどう映ったかを「客観的」に描いている格好をとっているが、あきらかにここに描かれる田中は、時雄の目を通した田中だ。表現としては、「父親の眼に映じた田中は元より気に入った人物ではなかった。」と断定的に書いているが、ほんとうのところは、「父親の眼に映じた田中は元より気に入った人物ではなかったはずだ。」ということだ。

 花袋は、三人称の小説として、いわゆる「全知視点」(作者は、登場人物のすべての心の中を知っている、という書き方)でこれを書いているのではない。もし、そうなら、もっと父親の内面について詳しく描かねばならないだろう。たとえば、この場面で、父親は時雄の「魂胆」をまったく見抜けないばかりか、寸毫も疑っていない。この先生、ひょっとしてうちの娘に気があるのではなかろうかと、ちょっとぐらい疑ってもよさそうなものだが、それがない。父親が見た田中は、おなじ「田舎」から出てきた者としてのある種の共感のようなものがあってもおかしくないが、それもなく、ただただ「軽蔑」と「憎悪」しか感じない。つまりは、時雄とまったく同じ感慨しか抱かないのだ。

 時雄と父親は、田中が田舎に帰るように説得するのだが、田中は頑として応じない。父親は、とにかく今は早すぎる。君は神戸に戻ってもっと勉強するがいい。その間に、芳子を嫁にやってしまうなどという裏切りは神に誓ってしないからと言うのだが、それでも、将来の結婚の約束をさせてもらえないなら、嫌だと田中は言い張るのだ。


「よう解っております」と田中は答えた。「私が万事悪いのでございますから、私が一番に去らなければなりません。先生は今、この恋愛を承諾して下されぬではないと仰しゃったが、お父様の先程の御言葉では、まだ満足致されぬような訳でして……」
「どういう意味です」
 と時雄は反問した。
「本当に約束せぬというのが不満だと言うのですじゃろう」と、父親は言葉を入れて、「けれど、これは先程もよく話した筈じゃけえ。今の場合、許可、不許可という事は出来ぬじゃ。独立することも出来ぬ修業中の身で、二人一緒にこの世の中に立って行こうと言やるは、どうも不信用じゃ。だから私は今三四年はお互に勉強するが好いじゃと思う。真面目ならば、こうまで言った話は解らんけりゃならん。私が一時を瞞着して、芳を他(よそ)に嫁(かたづ)けるとか言うのやなら、それは不満足じゃろう。けれど私は神に誓って言う、先生を前に置いて言う、三年は芳を私から進んで嫁にやるようなことはせんじゃ。人の世はエホバの思召(おぼしめし)次第、罪の多い人間はその力ある審判(さばき)を待つより他に為方が無いけえ、私は芳は君に進ずるとまでは言うことは出来ん。今の心が許さんけえ、今度のことは、神の思召に適っていないと思うけえ。三年経って、神の思召に適うかどうか、それは今から予言は出来んが、君の心が、真実真面目で誠実であったなら、必ず神の思召に適うことと思うじゃ」
「あれほどお父さんが解っていらっしゃる」と時雄は父親の言葉を受けて、「三年、君が為めに待つ。君を信用するに足りる三年の時日を君に与えると言われたのは、実にこの上ない恩恵(めぐみ)でしょう。人の娘を誘惑するような奴には真面目に話をする必要がないといって、このまま芳子をつれて帰られても、君は一言も恨むせきはないのですのに、三年待とう、君の真心の見えるまでは、芳子を他に嫁けるようなことはすまいと言う。実に恩恵ある言葉だ。許可すると言ったより一層恩義が深い。君はこれが解らんですか」
 田中は低頭(うつむ)いて顔をしかめると思ったら、涙がはらはらとその頬を伝った。
 一座は水を打ったように静かになった。
 田中は溢れ出ずる涙を手の拳で拭った。時雄は今ぞ時と、
「どうです、返事を為給(したま)え」
「私などはどうなっても好うおます。田舎に埋れても構わんどす!」
 また涙を拭った。
「それではいかん。そう反抗的に言ったって為方がない。腹の底を打明けて、互に不満足のないようにしようとする為めのこの会合です。君は達(た)って、田舎に帰るのが厭だとならば、芳子を国に帰すばかりです」
「二人一緒に東京に居ることは出来んですか?」
「それは出来ん。監督上出来ん。二人の将来の為めにも出来ん」
「それでは田舎に埋れてもようおます!」
「いいえ、私が帰ります」と芳子も涙に声を震わして、「私は女……女です……貴方さえ成功して下されば、私は田舎に埋れても構やしません、私が帰ります」
 一座はまた沈黙に落ちた。
 暫くしてから、時雄は調子を改めて、
「それにしても、君はどうして京都に帰れんのです。神戸の恩人に一伍一什(いちぶしじゅう)を話して、今までの不心得を謝して、同志社に戻ったら好いじゃありませんか。芳子さんが文学志願だから、君も文学家にならんければならんというようなことはない。宗教家として、神学者として、牧師として大(おおい)に立ったなら好いでしょう」
「宗教家にはもうとてもようなりまへん。人に対(むか)って教を説くような豪(えら)い人間ではないでおますで。……それに、残念ですのは、三月の間苦労しまして、実は漸くある親友の世話で、衣食の道が開けましたで、……田舎に埋れるには忍びまへんで」
 三人は猶語った。話は遂に一小段落を告げた。田中は今夜親友に相談して、明日か明後日までに確乎たる返事を齎(もた)らそうと言って、一先(ひとま)ず帰った。時計はもう午後四時、冬の日は暮近く、今まで室の一隅に照っていた日影もいつか消えて了った。

 

 いい大人が若い二人をよってたかっていじめてるとしか思えない。父親はまだいい。その言い分も父親ならもっともだ。言葉を尽くして説得する態度にも好感がもてる。けれども、時雄ときたら、その父親の尻馬にのって、「どういう意味です」とか、「君はこれが解らんですか」とか、「どうです、返事を為給(したま)え」とか、ただただ怒鳴るばかりだ。まるで、祭りの神輿の周りで大きなウチワをあおぐアンチャンみたいだ。あげくの果てに、田中の「二人一緒に東京に居ることは出来んですか?」という至極もっともな叫びに、「それは出来ん。監督上出来ん。二人の将来の為めにも出来ん」と言う始末。「監督上出来ん」ってことは、要するに二人の肉体関係を阻止することができない、ということだろうが、そんな「監督」は誰も頼んでやしないのだ。父親でさえ、「その方の関係」はほとんど諦めているのだ。「二人の将来の為めにも出来ん」なんてまるで意味をなさない。何が「二人の将来のため」になるかなんて、時雄は真剣に考えてなんかいないのだから。

 結局話はラチもあかず、田中は帰り、芳子は部屋に戻る。時雄と父親二人が残った。二人で田中の悪口を言っているうちに、時雄の胸にまたしてもあの「疑念」が湧き上がった。果たしてふたりにはまだ「その方の関係」が本当にないのだろうか? という「疑念」だ。話は再びまたそこへ落ちていくのだ。

 

 

田山花袋『蒲団』 20  動かぬ証拠  2018.12.21


 一室は父親と時雄と二人になった。
「どうも煮えきらない男ですわい」と父親はそれとなく言った。
「どうも形式的で、甚だ要領を得んです。もう少し打明けて、ざっくばらんに話してくれると好いですけれど……」
「どうも中国の人間はそうは行かんですけえ、人物が小さくって、小細工で、すぐ人の股を潜(くぐ)ろうとするですわい。関東から東北の人はまるで違うですがナア。悪いのは悪い、好いのは好いと、真情を吐露して了うけえ、好いですけどもナ。どうもいかん。小細工で、小理窟で、めそめそ泣きおった……」
「どうもそういうところがありますナ」
「見ていさっしゃい、明日きっと快諾しゃあせんけえ、何のかのと理窟をつけて、帰るまいとするけえ」
 時雄の胸に、ふと二人の関係に就いての疑惑が起った。男の烈しい主張と芳子を己が所有とする権利があるような態度とは、時雄にこの疑惑を起さしむるの動機となったのである。
「で、二人の間の関係をどう御観察なすったです」
 時雄は父親に問うた。
「そうですな。関係があると思わんけりゃなりますまい」
「今の際、確めておく必要があると思うですが、芳子さんに、嵯峨行の弁解をさせましょうか。今度の恋は嵯峨行の後に始めて感じたことだと言うてましたから、その証拠になる手紙があるでしょうから」
「まア、其処までせんでも……」
 父親は関係を信じつつもその事実となるのを恐れるらしい。
 運悪く其処に芳子は茶を運んで来た。
 時雄は呼留めて、その証拠になる手紙があるだろう、その身の潔白を証する為めに、その前後の手紙を見せ給えと迫った。
 これを聞いた芳子の顔は俄かに赧(あか)くなった。さも困ったという風が歴々(ありあり)として顔と態度とに顕われた。
「あの頃の手紙はこの間皆な焼いて了いましたから」その声は低かった。
「焼いた?」
「ええ」
 芳子は顔を俛(た)れた。
「焼いた? そんなことは無いでしょう」
 芳子の顔は愈ゝ(いよいよ)赧くなった。時雄は激さざるを得なかった。事実は恐しい力でかれの胸を刺した。
 時雄は立って厠に行った。胸は苛々して、頭脳(あたま)は眩惑するように感じた。欺かれたという念が烈しく心頭を衝いて起った。厠を出ると、其処に──障子の外に、芳子はおどおどした様子で立っている。
「先生──本当に、私は焼いて了ったのですから」
「うそをお言いなさい」と、時雄は叱るように言って、障子を烈しく閉めて室内に入った。


 「中国の人間」というのは、もちろん中国地方の人間ということで、この場合は山口県だが、「関西人」と「関東人」の相違なのだろうか。まあ、江戸っ子が、さっぱりしてるということはよく言われるけど、事実かどうかわかりはしない。

 「小細工で、小理窟で、めそめそ泣きおった……」というふうに田中を批判するのも、なんだか可愛そうだ。田中には、芳子への一途な思いがあるだけで、「小細工」も「小理屈」もないとぼくは思うのだが。昔から、日本人は目上の者に反抗すると、「理屈を言うな!」っていって抑えられてきたような気がする。幼いころから、そう言われ続けてくれば、日本人の中に「論理的思考力」が育たないのも無理はないわけだ。今さら文科省がしゃしゃり出て、「論的思考力をつけさせろ」なんて言っても遅いのだ。

 権威とか権力とかいうのは、理不尽な力だから、それに対抗するには「論理」しかない。けれども、権威・権力の側は、「論理」的に振る舞うわけではなく、ただ「従え」と命令するだけだから、「論理的」に負けていると感じたとき、その「論理」を「小理屈」という言葉に変換して否定しようとする。「小理屈を言うな!」「そんなのは屁理屈だ!」と言われたら、じゃあ、何を言えばいいのですか? って言い返せばいい。結局「ガタガタ言わずにオレに従えばいいんだ。」てな言葉しか返ってこないだろう。

 それはそれとして、ここでの問題は、時雄の言い出した「確かめておく必要」だ。以前から顔馴染みだった田中と芳子が急速に恋仲になったのは「嵯峨行」以後だから、その「嵯峨」で、きっと「何か」があったに違いない。それを確かめよう、というのである。「その証拠になる手紙」があるだろうと時雄はいうのだが、そんな手紙を書くものだろうか。

 父親は、そこまでしなくてもいいじゃないかと消極的なのは、「関係を信じつつもその事実となるのを恐れるらしい」と書かれているけれど、むしろ娘をあんまり追い詰めたくないという親心だろう。肉体関係があるに違いないと思っている父親にしてみれば、そのこと自体を責め立てる気持ちはないわけだ。責めてみてもしょうがない。そんなことを責めて、娘を苦しませるのは可愛そうだと、親ならそう思って当然だ。けれども、時雄はまったく違う。それこそが時雄にとっての「大事」なのだ。

 以前から、時雄は、芳子のところに来る田中の手紙を盗み見ては、「性的交渉」の証拠がそこにないか探していたのだが、いったいどういう「証拠」がありうるのか不思議だ。「あなたと結ばれて、私は幸せでした。」「もう一度会って、再び結ばれたいです。」みたいな文句を書くのだろうか。よく分からないが、まあ、そういうことがあったと推測されるようなちょっとした「表現」が、その「証拠」となるというのだろう。

 それで、時雄は、芳子に、「その証拠になる手紙があるだろう、その身の潔白を証する為めに、その前後の手紙を見せ給えと迫った。」わけだが、この場合の「その証拠になる手紙」というのは、「身の潔白の証拠となる手紙」であるわけで、これはこれでむずかしい。何かをした証拠ならいくらでもあるだろうけど、何かをしなかった証拠って、そもそもあるんだろうか。

 「ホテルに一緒に泊まった証拠」なら、その日付けのあるホテルのレシートなんかが考えられる。けれども、「ホテルに一緒に泊まらなかった証拠」なんて、それこそ膨大な「アリバイ」を必要とするだろう。

 だから「その前後の手紙」を見せろというのだ。「その前」と「その後」を比べれば、分かるということらしいが、分かるものだろうかと、読解力に欠けるぼくなんかは思うけれど、時雄には自信があるらしい。

 ところが、芳子は、顔を赤くして、低い声で、そんな手紙は全部焼いてしまったと言う。「焼いたはずはない」と時雄は激高する。大事な恋人の手紙を、それもまだ現在進行形の恋のさなかに、焼いてしまうはずはない、という時雄の思いは十分に納得できる。この芳子の返事とその時の態度が、「動かぬ証拠」となったのだ。

 

 

田山花袋『蒲団』 21  煩悶又煩悶、懊悩また懊悩  2018.12.26

 

 芳子の裏切りを確信した時雄は、煩悶また煩悶、懊悩また懊悩で、夜も寝られない。この煩悶・懊悩の中身が、呆れるほどにひどく、いくら正直でも、ここまで書かなくてもいいじゃないかと思うほどだ。


 父親は夕飯の馳走になって旅宿に帰った。時雄のその夜の煩悶は非常であった。欺かれたと思うと、業が煮えて為方がない。否、芳子の霊と肉──その全部を一書生に奪われながら、とにかくその恋に就いて真面目に尽したかと思うと腹が立つ。その位なら、──あの男に身を任せていた位なら、何もその処女の節操を尊ぶには当らなかった。自分も大胆に手を出して、性慾の満足を買えば好かった。こう思うと、今まで上天の境(きょう)に置いた美しい芳子は、売女か何ぞのように思われて、その体は愚か、美しい態度も表情も卑しむ気になった。で、その夜は悶え悶えて殆ど眠られなかった。様々の感情が黒雲のように胸を通った。その胸に手を当てて時雄は考えた。いっそこうしてくれようかと思うた。どうせ、男に身を任せて汚れているのだ。このままこうして、男を京都に帰して、その弱点を利用して、自分の自由にしようかと思った。と、種々(いろいろ)なことが頭脳(あたま)に浮ぶ。芳子がその二階に泊って寝ていた時、もし自分がこっそりその二階に登って行って、遣瀬(やるせ)なき恋を語ったらどうであろう。危座して自分を諌めるかも知れぬ。声を立てて人を呼ぶかも知れぬ。それとも又せつない自分の情を汲んで犠牲になってくれるかも知れぬ。さて犠牲になったとして、翌朝はどうであろう、明かな日光を見ては、さすがに顔を合せるにも忍びぬに相違ない。日長(た)けるまで、朝飯をも食わずに寝ているに相違ない。その時、モウパッサンの「父」という短篇を思い出した。ことに少女が男に身を任せて後烈しく泣いたことの書いてあるのを痛切に感じたが、それを又今思い出した。かと思うと、この暗い想像に抵抗する力が他の一方から出て、盛にそれと争った。で、煩悶又煩悶、懊悩また懊悩、寝返を幾度となく打って二時、三時の時計の音をも聞いた。


 「そうか、やっぱり芳子は田中とやっていたのか。あんなヤツにやられるくらいなら、おれがやってしまったほうがよほどよかった。」なんて、まったく身も蓋もない。まともな大人の言うことじゃない。多少でも教養のある人間なら、決して口にしない言葉、世間に向かって言わない言葉だ。

 人間というものは下劣な心を持っているもので、どんなに表面上は紳士を気どっていても、心の奥底で、どんなにうす汚いことを考えているかしれたものではない、ということは、ぼくも骨身にしみて知っているつもりだ。けれども、これほど人間の下劣さをそのまま言葉にされると、やはり衝撃をうける。

 以前にも書いたことだが、『蒲団』の与えた衝撃は、ラストシーンだけにあるわけではない。むしろ、こうした人間の心の下劣さを隠さずに正面切って書いた部分こそが世の人々に衝撃を与えたのだ。

 田中へのいわれなき差別意識。そんな男に身を任せたということで、芳子を「売女」と決めつけ、そんな「汚れた女」は、自分はどうにでもできるはずだと考える時雄は、ショックのあまり、まともな理性を失い、人間的な感情を持てなくなってしまっているのだろう。そうだとしても、自分が今さらながら芳子に告白したらどうなるだろうと想像するあつかましさはいったいどこから来るのだろう。「せつない自分の情を汲んで犠牲になってくれるかも知れぬ」なんてどうして考えることができるのだろう。時雄の軽蔑する「売女」でもそんな「犠牲」には決してなるまい。

 自分の恋が「せつない」からといって、どうして芳子がその「犠牲」にならなくちゃいけないのか。なんでここに「犠牲」という言葉がでてくるのか。それは、時雄が、女性というものを一人の尊厳ある人間として認めていないからだ。「新しい女性」の自立した生き方を説きながら、自分にはまったく女性への尊敬の念がない。男が性欲にかられ、その充足を訴えれば、女性はその「犠牲」になるべきものだという意識がどこかにあるのだ。

 つまりは、女性というものは、男の性欲の満足のためにある、突き詰めればそう時雄は考えていることになる。花袋がそう考えていたかどうか知らないが、「時雄」はそう考えていたわけだ。

 泡鳴も、実はそう考えていた。自分が女郎買いをするのは、女房が子どもにばかりかまけて色気を失っているからだ。そのどこが悪いとその小説の随所で開き直っているのだ。

 「どうせ、男に身を任せて汚れているのだ。」という時雄の「思想」は、時雄がどんなに煩悶しても、懊悩しても、びくともしない確固たる「思想」として時雄の中に根付いていて、時雄はそこから逃れようもない。そうした人間のとらえかたの根本的な錯誤は、その「恋」をも非人間的なものにせざるを得ない。そのことに気づかない時雄は、煩悶やら懊悩やらを、「切ない恋の感情」だと勘違いして、のたうちまわっているだけなのだ。そして、その煩悶、懊悩の深さにおいて、たぶん、モウパッサンの精神に触れているとこれまた勘違いしている。花袋は、あれほど外国文学を熱心に読んだのに、そこから何も学ばなかったと、福田恆存にバッサリ切られてしまう所以である。

 

 

田山花袋『蒲団』 22  腐りきった大人たち  2018.12.27

 

 煩悶、懊悩のうちに一夜を明かした時雄だったが、芳子もまた寝られなかったのか、昼になっても二階の部屋から降りてこない。様子を見に行った細君が、芳子は手紙を書いていると言うので、田中に書いているのだと思った時雄は激高して二階へ行くが、芳子は、「先生、後生ですから、もう、少し待って下さい。手紙に書いて、さし上げますから」という。時雄に手紙を書いていたのだった。しばらくしてその手紙を下女がもってきた。


先生、
私は堕落女学生です。私は先生の御厚意を利用して、先生を欺きました。その罪はいくらお詫びしても許されませぬほど大きいと思います。先生、どうか弱いものと思ってお憐み下さい。先生に教えて頂いた新しい明治の女子としての務め、それを私は行っておりませんでした。矢張私は旧派の女、新しい思想を行う勇気を持っておりませんでした。私は田中に相談しまして、どんなことがあってもこの事ばかりは人に打明けまい。過ぎたことは為方が無いが、これからは清浄な恋を続けようと約束したのです。けれど、先生、先生の御煩悶が皆な私の至らない為であると思いますと、じっとしてはいられません。今日は終日そのことで胸を痛めました。どうか先生、この憐れなる女をお憐み下さいまし。先生にお縋り申すより他、私には道が無いので御座います。
  芳子
    先生 おもと

 

 「先生に教えて頂いた新しい明治の女子としての務め、それを私は行っておりませんでした。矢張私は旧派の女、新しい思想を行う勇気を持っておりませんでした。」ということの意味がよく分からない。「新しい明治の女子としての務め」とは、何を指すのか。「あくまで神聖なる霊の恋、清浄な恋を貫くこと」を時雄は教えたということだろうか。けれども自分は「旧派の女」なので、恋人に肉を許してしまった、ということなのだろうか。そして芳子は、時雄が煩悶しているのは、自分がその先生の教えを守らなかったために怒っていると思っているのだろうか。芳子はほんとうに、時雄の胸のうち、その燃える恋に気づいていないのだろうか。ここがどうにも読み取れないところだ。

 こんなに身近に接していながら、芳子が時雄の気持ちに気づかないというのは、よほど時雄が自分の気持ちを抑制し、おくびにも出さなかったからなのか、それとも、芳子が田中に夢中で時雄などまったく眼中になかったかのどちらかだろうが、やっぱり後者だろう。芳子にとっての時雄は、厳しい師以外の何者でもなかったのだろう。

 と考えてはみるが、いくら田中という恋人に夢中になっていたとはいえ、時雄の気持ちにまったく気づかないというのも、なんか不自然な感じもする。やはりこの小説は、ほとんど「私小説」のようなもので、芳子の内面については、まったくといっていいほど書かれていないのだから仕方のないことではあるのだが。

 いずれにしても、この手紙は、自分の嘘を告白し、時雄に憐れみを乞い、なんとか自分たちの恋を成就させてくださいとの切なる願いのこもった手紙である。けれども、時雄は、その芳子の真意を汲もうともしなかった。いや、その余裕がなかったというのだ。時雄の「激した心」は、ただただ田中に芳子を犯されたことへの悔しさで満たされていたのだ。


 時雄は今更に地の底にこの身を沈めらるるかと思った。手紙を持って立上った。その激した心には、芳子がこの懺悔を敢てした理由──総てを打明けて縋ろうとした態度を解釈する余裕が無かった。二階の階梯をけたたましく踏鳴らして上って、芳子の打伏している机の傍に厳然として坐った。
「こうなっては、もう為方がない。私はもうどうすることも出来ぬ。この手紙はあなたに返す、この事に就いては、誓って何人にも沈黙を守る。とにかく、あなたが師として私を信頼した態度は新しい日本の女として恥しくない。けれどこうなっては、あなたが国に帰るのが至当だ。今夜──これから直ぐ父様の処に行きましょう、そして一伍一什(いちぶしじゅう)を話して、早速、国に帰るようにした方が好い」
 で、飯を食い了るとすぐ、支度をして家を出た。芳子の胸にさまざまの不服、不平、悲哀が溢れたであろうが、しかも時雄の厳かなる命令に背くわけには行かなかった。市ヶ谷から電車に乗った。二人相並んで座を取ったが、しかも一語をも言葉を交えなかった。山下門で下りて、京橋の旅館に行くと、父親は都合よく在宅していた。一伍一什──父親は特に怒りもしなかった。唯同行して帰国するのをなるべく避けたいらしかったが、しかもそれより他に路は無かった。芳子は泣きも笑いもせず、唯、運命の奇しきに呆るるという風であった。時雄は捨てた積りで芳子を自分に任せることは出来ぬかと言ったが、父親は当人が親を捨ててもというならばいざ知らず、普通の状態に於いては無論許そうとは為なかった。芳子もまた親を捨ててまでも、帰国を拒むほどの決心が附いておらなかった。で、時雄は芳子を父親に預けて帰宅した。


 「あなたが師として私を信頼した態度は新しい日本の女として恥しくない」ってどういうことかさっぱり分からない。それじゃ、時雄が「師として芳子を我が物にしたいと熱望した態度」は、日本の男として「恥ずかしくない」のか。そんなことはないだろう。十分「恥ずかしい男」が、恥ずかしげもなくこんな御託を並べるわけだ。

 「こうなっては」っというのは、「あなたが田中と通じたことを認めたからには」ということで、その結果として「国に帰るのが至当」とはこれいかに。なんで恋人と寝たら、国に帰らなきゃならないの? って話だけど、まあ、男女で夜道を歩いていても警官にとがめられる時代ということを考えれば、親の認めない「婚外交渉」なんて、絶対あってはならないということなのだろう。(ああ、「婚外交渉」なんて言葉を使う自分の古さを痛感する。)もっとも、「親の認める婚外交渉」なんてものがあるはずもなかったわけだから、時雄の言うように、「国に帰るのが至当」ということになるのかもしれない。

 まあ、こんな理屈にもならない理屈と馬鹿馬鹿しい倫理感で、芳子は、田中と結ばれることを諦め、田舎に帰っていくことになったのである。芳子は時雄によれば「唯、運命の奇しきに呆るるという風」だったということになり、やはりここでも芳子のほんとうの気持ちは書かれていない。

 時雄は、最後のあがきのように「捨てた積りで芳子を自分に任せることは出来ぬか」と父親に言うのだが、「自分に任せる」とは、言葉上は芳子を自分に任せてこの恋を成就させてはどうかという意味だろうが、下心はみえみえである。それを知ってか知らずか、父親はすげない。娘が親を捨てるならともかく、それができないならダメだということになる。芳子は親を捨てるまでの決心がない。そこが「旧派の女」ということだろうか。今の世でも、親を捨てなければ成就しない恋はたくさんある。

 話が決まると早い。時雄は芳子を父親のもとに連れていくと、さっさと帰宅してしまう。そして翌朝、田中が芳子を訪ねてくる。


 田中は翌朝時雄を訪うた。かれは大勢の既に定まったのを知らずに、己の事情の帰国に適せぬことを縷々(るる)として説こうとした。霊肉共に許した恋人の例(ならい)として、いかようにしても離れまいとするのである。
 時雄の顔には得意の色が上った。
「いや、もうその問題は決着したです。芳子が一伍一什をすっかり話した。君等は僕を欺いていたということが解った。大変な神聖な恋でしたナ」
 田中の顔は俄かに変った。羞恥の念と激昂の情と絶望の悶とがその胸を衝いた。かれは言うところを知らなかった。
「もう、止むを得んです」と時雄は言葉を続(つ)いで、「僕はこの恋に関係することが出来ません。いや、もう厭です。芳子を父親の監督に移したです」
 男は黙って坐っていた。蒼いその顔には肉の戦慄が歴々(ありあり)と見えた。不図(ふと)、急に、辞儀をして、こうしてはいられぬという態度で、此処を出て行った。

 

 何も知らない田中が芳子に会いにやってきたのを見て、「時雄の顔には得意の色が上った」とは恐れ入る。「やったぜ、ざまあみろ!」ってことだ。なんという「正直さ」だろう。そしてなんて子どもっぽい態度なんだろう。まるで小学生レベルだ。「ざんねんでした! またどうぞ!」なんて子どものころの囃子詞も思い出される。ここが一番「衝撃的」かもしれない。この酷い展開はあまりにも意外でびっくりした。以前に2回読んだときは、まったく記憶に残らなかったところだ。

 午前十時頃、父親は芳子を伴うて来た。愈ゝ(いよいよ)今夜六時の神戸急行で帰国するので、大体の荷物は後から送って貰うとして、手廻の物だけ纒(まと)めて行こうというのであった。芳子は自分の二階に上って、そのまま荷物の整理に取懸った。
 時雄の胸は激してはおったが、以前よりは軽快であった。二百余里の山川を隔てて、もうその美しい表情をも見ることが出来なくなると思うと、言うに言われぬ侘しさを感ずるが、その恋せる女を競争者の手から父親の手に移したことは尠(すくな)くとも愉快であった。で、時雄は父親と寧ろ快活に種々なる物語に耽った。父親は田舎の紳士によく見るような書画道楽、雪舟、応挙、容斎の絵画、山陽、竹田、海屋、茶山の書を愛し、その名幅を無数に蔵していた。話は自らそれに移った。平凡なる書画物語は、この一室に一時栄えた。

 つくづく時雄というヤツはフシギな男である。あれほど恋い焦がれた芳子が田舎に帰ってしまうというのに、田中との仲を裂いてやったという快感で、むしろセイセイしてしまって、ハイになってる。で、芳子の父親と書画談義に花を咲かせるのだ。

 時雄も時雄だが、父親も父親である。娘を連れて帰りたいのだが、一緒に帰るのは嫌がったり、娘の悲嘆には同情すらせずに、書画自慢をしてみたり、まったく何を考えているのやら。芳子こそ言い面の皮である。

 そこへ、田中がやってきて、どうしても芳子に会いたいという。ところが、この男どもは、すぐ二階にいる芳子に会わせようともしないのである。


 田中が来て、時雄に逢いたいと言った。八畳と六畳との中じきりを閉めて、八畳で逢った。父親は六畳に居た。芳子は二階の一室に居た。
「御帰国になるんでしょうか」
「え、どうせ、帰るんでしょう」
「芳さんも一緒に」
「それはそうでしょう」
「何時ですか、お話下されますまいか」
「どうも今の場合、お話することは出来ませんナ」
「それでは一寸でも……芳さんに逢わせて頂く訳には参りますまいか」
「それは駄目でしょう」
「では、お父様は何方へお泊りですか、一寸番地をうかがいたいですが」
「それも僕には教えて好いか悪いか解らんですから」
 取附く島がない。田中は黙って暫し坐っていたが、そのまま辞儀をして去った。


 なんという底意地の悪さだろう。恋人に一目会いたいという青年を前に、いい気味だとばかり愚弄するのだ。腐りきった大人たちだ。状況は全然違うけれど、この場面、どこか、『忠臣蔵』の「松の廊下」を思い出させる。吉良が浅野をなぶるシーンだ。

 だから、いつか田中が立派な大人になったとき、自分を愚弄したにっくき男たちを、コテンパンにやっつけるシーンを待ちわびてしまうわけだ。「てめえら人間じゃねえや、叩き斬ってやる!」って、「破れ傘刀舟」みたいにね。けれども、この小説は、そんなカタルシスを用意などしない。ただただ後味の悪い結末を用意するのである。


 

田山花袋『蒲団』 23  「衝撃の」ラスト?  2018.12.28

 

 芳子は田舎へ帰ることになり、芳子は時雄の細君と涙の別れをして家を出る。時雄は駅まで送っていく。途中、田中らしき人物の影がみえるが、詳しくは語られないままだ。

 

 冬の日のやや薄寒き牛込の屋敷町、最先に父親、次に芳子、次に時雄という順序で車は走り出した。細君と下婢とは名残を惜んでその車の後影を見送っていた。その後に隣の細君がこの俄かの出立を何事かと思って見ていた。猶その後の小路の曲り角に、茶色の帽子を被った男が立っていた。芳子は二度、三度まで振返った。

 

 まだ人力車の時代だったのだと改めて思う。


 車が麹町の通を日比谷へ向う時、時雄の胸に、今の女学生ということが浮んだ。前に行く車上の芳子、高い二百三高地巻、白いリボン、やや猫背勝なる姿、こういう形をして、こういう事情の下に、荷物と共に父に伴れられて帰国する女学生はさぞ多いことであろう。芳子、あの意志の強い芳子でさえこうした運命を得た。教育家の喧しく女子問題を言うのも無理はない。時雄は父親の苦痛と芳子の涙とその身の荒涼たる生活とを思った。路行く人の中にはこの荷物を満載して、父親と中年の男子に保護されて行く花の如き女学生を意味ありげに見送るものもあった。

 

 いわゆる「客観的」な叙述なのだろうが、事情が事情なだけに、「他人事」のようなそっけなさを感じる。「芳子、あの意志の強い芳子でさえこうした運命を得た。教育家の喧しく女子問題を言うのも無理はない。」とは、どういうことだろう。芳子が「得た運命」とは、結局、親の許さぬ恋をして、その男に身を任せてしまった結果、親の怒りをかって田舎に連れ戻される、ということで、それが「運命」というのでは、芳子も浮かばれない。都会に出ても、恋の自由すらないのなら、田舎に埋もれて親の決めた男と結婚して子どもを産んで育てる、という道しか女にはないということになる。そんなものは「運命」でもなんでもない。ただの「社会通念」とか「世間の常識」とかでしかない。それを否定し、「新しい生き方」を指し示すのが時雄の「師」としての使命ではなかったのか。

 それなのに、芳子の一歩踏み出した恋を、自分の欲望の故に踏みにじり、まさにその「犠牲」となって田舎に埋もれていこうとする芳子を、こんなにも冷たい目で見るなんてなんとしたことか。

 それに「教育家の喧しく女子問題を言うのも無理はない。」とは何事か。「教育家」は、何と言っているのか。おそらく、「昨今の女子は自立だなんだといって自由奔放に振る舞っているが、その挙げ句に性的な放縦に陥っている。まことにゆゆしき問題である。」とか言っているのだろう。つまりはこの「教育家」は「旧派」であって、時雄のような「新派」ではないはず。その旧態依然たる「女子論」に対して、時雄は、「無理はない」と屈服しているわけだ。「申し訳なかった。私は旧派の男だったのだ。」と芳子に手をついて謝らなければならないのは時雄のほうだ。

 いよいよ新橋から汽車が出る。そのとき、時雄は妙なことを考える。


 発車の時間は刻々に迫った。時雄は二人のこの旅を思い、芳子の将来のことを思った。その身と芳子とは尽きざる縁(えにし)があるように思われる。妻が無ければ、無論自分は芳子を貰ったに相違ない。芳子もまた喜んで自分の妻になったであろう。理想の生活、文学的の生活、堪え難き創作の煩悶をも慰めてくれるだろう。今の荒涼たる胸をも救ってくれる事が出来るだろう。「何故、もう少し早く生れなかったでしょう、私も奥様時分に生れていれば面白かったでしょうに……」と妻に言った芳子の言葉を思い出した。この芳子を妻にするような運命は永久その身に来ぬであろうか。この父親を自分の舅と呼ぶような時は来ぬだろうか。人生は長い、運命は奇しき力を持っている。処女でないということが──一度節操を破ったということが、却って年多く子供ある自分の妻たることを容易ならしむる条件となるかも知れぬ。運命、人生──曽(かつ)て芳子に教えたツルゲネーフの「プニンとバブリン」が時雄の胸に上った。露西亜の卓れた作家の描いた人生の意味が今更のように胸を撲った。
 時雄の後に、一群の見送人が居た。その蔭に、柱の傍に、いつ来たか、一箇の古い中折帽を冠った男が立っていた。芳子はこれを認めて胸を轟かした。父親は不快な感を抱いた。けれど、空想に耽って立尽した時雄は、その後にその男が居るのを夢にも知らなかった。
 車掌は発車の笛を吹いた。
 汽車は動き出した。


 時雄は芳子の将来を考えるのだが、そこに自分を入り込ませる。つまり「芳子の将来」ではなくて「自分の将来」を考えるのだ。

 芳子と将来結婚できないものだろうか。この父親を舅と呼ぶ日がこないだろうか。それはありうることかもしれない。芳子が「処女じゃない」ということも、その場合、事を容易にするだろう、というのだ。子持ちの自分には、「処女じゃない芳子」の方が妻の条件にかなっている、ということか。なんだかよく分からないが、父親も自分の娘が「傷物」である以上、相手の男が子持ちであってもまあしょうがないかと許してくれるんじゃないか、ってことなんだろう。

 まあ、こんなふうな考えかたは、今だって残っているようにも思うけど、しかし、時雄の妄想から「妻」が完全に欠落している。「妻が無ければ」という条件付きでの妄想ではあるが、あまりといえば自分勝手な妄想である。

 たとえ芳子と結婚したとしても、そのとき芳子が髪を振り乱して子どもを叱る普通の妻にならない保証はどこにもない。芳子と「理想的生活・文学的生活」ができるなんて、今時の高校生だって考えないだろう。

 駅の柱の蔭ににいた中折れ帽の男とその後ろにいた男のことが、意味ありげに書かれているが、あきらかに田中と思われる「男」をめぐって、話が展開していくことなく、唐突にラストを迎えることとなる。


 さびしい生活、荒涼たる生活は再び時雄の家に音信(おとず)れた。子供を持てあまして喧しく叱る細君の声が耳について、不愉快な感を時雄に与えた。
 生活は三年前の旧(むかし)の轍(わだち)にかえったのである。
 五日目に、芳子から手紙が来た。いつもの人懐かしい言文一致でなく、礼儀正しい候文で、
「昨夜恙(つつが)なく帰宅致し候儘(まま)御安心被下度(くだされたく)、此の度はまことに御忙しき折柄種々御心配ばかり相懸け候うて申訳も無之(これなく)、幾重にも御詫(おわび)申上候、御前に御高恩をも謝し奉り、御詫も致し度候いしが、兎角は胸迫りて最後の会合すら辞(いな)み候心、お察し被下度候、新橋にての別離、硝子戸の前に立ち候毎に、茶色の帽子うつり候ようの心地致し、今猶まざまざと御姿見るのに候、山北辺より雪降り候うて、湛井(たたい)よりの山道十五里、悲しきことのみ思い出で、かの一茶が『これがまアつひの住家か雪五尺』の名句痛切に身にしみ申候、父よりいずれ御礼の文奉り度存居(ぞんじおり)候えども今日は町の市日(いちび)にて手引き難く、乍失礼(しつれいながら)私より宜敷御礼申上候、まだまだ御目汚し度きこと沢山に有之候えども激しく胸騒ぎ致し候まま今日はこれにて筆擱(お)き申候」と書いてあった。

 

 当時の手紙は、言文一致体のものと候文のものが混在していたことが分かる。親しみをこめた手紙は言文一致体で、堅苦しい手紙は候文で、と使い分けていたのだ。これはちょっと羨ましい。ぼくは、礼状や挨拶状などを書くことが非常に苦手で、候文のような型があれば、楽に書けるのになあと思うからだ。

 それにしても、一茶の句の引用は、なんだか笑ってしまう。まだ20歳にもならない娘の感慨としては、あまりにも枯れている。


 時雄は雪の深い十五里の山道と雪に埋れた山中の田舎町とを思い遣った。別れた後そのままにして置いた二階に上った。懐かしさ、恋しさの余り、微かに残ったその人の面影を偲ぼうと思ったのである。武蔵野の寒い風の盛に吹く日で、裏の古樹には潮の鳴るような音が凄じく聞えた。別れた日のように東の窓の雨戸を一枚明けると、光線は流るるように射し込んだ。机、本箱、罎、紅皿、依然として元のままで、恋しい人はいつもの様に学校に行っているのではないかと思われる。時雄は机の抽斗(ひきだし)を明けてみた。古い油の染みたリボンがその中に捨ててあった。時雄はそれを取って匂いを嗅いだ。暫くして立上って襖を明けてみた。大きな柳行李が三箇細引で送るばかりに絡(から)げてあって、その向うに、芳子が常に用いていた蒲団──萌黄唐草(もえぎからくさ)の敷蒲団と、線の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。時雄はそれを引出した。女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟の天鵞絨(びろうど)の際立って汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。
 性慾と悲哀と絶望とが忽(たちま)ち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた。
 薄暗い一室、戸外には風が吹暴(ふきあ)れていた。

 

 まあ、これが有名な『蒲団』のラストである。芳子の部屋の場面の前の、情景描写は、なかなか鮮やかで印象的だ。しかし、その後に書かれる、女々しい、薄汚れた男の行為は、誰が読んでも不快感を催すだろう。これをもって「花袋は変態」だという人が出てきてもしょうがない。

 『蒲団』ってどういう小説? って聞かれると、妻子ある作家が女弟子を家に住まわせたんだけど、その女に恋しちゃったわけ。でも、立場は師だから告白もせずにウジウジしてると、実はその女弟子に若い恋人がいることがわかって、作家はメチャクチャ頭にくるんだけど、どうしようもない。結局、彼女の父親が田舎に連れ帰ってしまう。女が出ていったあと、その女の使っていた蒲団に染みついた匂いを嗅いで泣くって話だよ、と答えると、へえ、いやらしい小説だなあ、なんて答えが返ってきてそれで終わってしまう。その上、日本の自然主義の原点になったらしいけど、だから日本の自然主義っていうのはしょうもないものなんだよね、なんてしょうもないことを付け加えたりするに至るのである。

 これ、ほとんど、ぼくがかつての教壇で生徒に語ってきたことである。『蒲団』を授業で読んだわけではなくて、文学史で自然主義文学を説明するためにちょこっと話した程度だが、あまりにも「聞きかじり」すぎた。確かに、日本の自然主義文学が、ヨーロッパのものとは違った方面に進んでいってしまい、最後には「私小説」に至ったのは、島崎藤村の『破戒』ではなくて、田山花袋の『蒲団』が事実上の出発点になったからだ、という説が一般的だったのは間違いないとは思うけど。(誰が言ったことなのか、いずれ、確かめてみたい。)

 しかし、それはそれとして、『蒲団』という小説を、この「衝撃的なラスト」で語るというのは、正当な読みではないだろう。それは一種の「オチ」であって、こうでも書かなければ収拾がつかなかったのではないかと思うのだ。今までさんざん時雄の醜態を描いてきたので、更にそれの上をいくインパクトのある「醜態」は、これでいくしかないよな、と花袋は思ったのではなかろうか。だからまたこのラストシーンをめぐって、事実かそれともフィクションかの論争も起きたのだ。そのことはいずれ回を改めて書いてみたい。

 これまで20回以上にわたって、この小説を細かく読んできてみて思うのは、このラストなどたいしたことじゃない、ということだ。別にこれをもってして「変態」だといってもはじまらないし、それほど変態的な行為でもない。題名が「蒲団」だから、必要以上にこのシーンだけが問題視され、語られることになったのだろうが、むしろ問題なのは、ここに至る経緯にちりばめられている、時雄の目を背けたくなるような自己中心的な思考である。そのおぞましい自己中心的な思考を、それこそ赤裸々に書き切ったのが『蒲団』であり、そこに書かれた思考は、実は誰の心の中にも存在しているものだというのが、何よりも大事な点なのだ。

 時雄っていうヤツはなんてジコチュウなヤツなんだ。そんなヤツの話なんて聞きたくもないと思って読んでいるうちに、いつのまにか、あまりに自分に思い当たるフシがあるので、思わず引き込まれてしまう。この小説を読む人間は、少なくとも男は、どうしてもこの時雄を自分とは無縁なヤツとして切り捨てることができないのだ。だからこそ、100年以上たっても、この『蒲団』というヘンテコな小説は、どこかで──たとえばこんなところで──読み継がれている。花袋の「正直」な筆は、人間の心の奥底に流れる何か得体の知れないのしれないモノに触れることができたのである。


 

田山花袋『蒲団』 24  文学論争の楽しさ  2018.12.28


 『蒲団』については、いろいろな評論家や学者がさまざまな角度から論じているので、今さらぼくが何かを論じてもしょうがないのだが、まあ、ぼくは別に研究論文を書いているわけじゃないので気楽なもので、この小説をめぐって、ああだこうだと議論されている様を眺めるのは楽しいことだ。

 『蒲団』が発表されたのは、明治40年。これが当時ものすごいショッキングな反響を呼び、毀誉褒貶の嵐にさらされた。それは花袋自身が驚くほどだったという。特に島村抱月の『早稲田文学』の合評での「この一篇は肉の人、赤裸々な人間の大胆な懺悔録である。」という発言が、この『蒲団』の読まれ方を決定づけたという。つまり、島村抱月の評は、この小説が、花袋自身の「赤裸々な懺悔」だと決めつけたわけだ。以来、多くの人が、主人公の時雄は、花袋自身だと思い込んだ。そして、この小説に書かれていることは「全部事実だ」と思い込んだのだ。

 平野謙は、正宗白鳥の論をこんなふうに紹介している。

 

 正宗白鳥は昭和七年に『田山花袋論』を書き、そのなかで、「龍土会会員で西洋近代文学を耽読していた者は、少なくなかったが、田山氏以前に、自己の実生活描写を小説の本道であると解釈したものは一人もなかった」とか、「西洋の自然主義文学は、客観的分子に富んだ文学で、花袋氏の独断にかゝる自己の日常生活描写とは異なっている」とか、『蒲団』における花袋の「革命態度」の影響によってみな「自分々々の『蒲団』を書きだし、自分の恋愛沙汰色欲煩悩を蔽うところなく直写するのが、文学の本道である如く思われていた」とか、「私には、田山氏があんな創作〈『蒲団』をさす〉やあんな文学観〈『露骨なる描写』以後のエッセエ類をさす〉を発表しなかったら、自伝小説や自己告白小説があれほど盛んに。明治末期から大正を通じて、あるいは今日までも、現れはしなかったであろうと思われてならない」などと書いているのである。

 

 要するに、明治末期から大正にかけて、自分の恥をさらすような小説が氾濫したのは、みんな花袋の『蒲団』のせいだ、というわけである。日本の自然主義文学が、西洋のそれとはまるで違ったヘンテコな方向へ行ってしまって、挙げ句の果てに、日本にしか存在しない「私小説」なんてものを生み出してしまったそもそもの原因は、『蒲団』にある。『蒲団』が諸悪の根源だと白鳥は言っているのである。

 もっとも、そういう白鳥も日本の自然主義の作家だから、その作品は色濃く『蒲団』の影響を受けているはずだと推測されるのだが、白鳥の小説はまだ読んだことがないので、その辺はなんともいえない。

 平野謙は更に続けて、この白鳥の批判を「理論的に完成」したのが、中村光夫の『風俗小説論』であったとして、その中村光夫の批判を紹介している。かつて読んだことのある『風俗小説論』だが、今読み返してみると、その舌鋒鋭い『蒲団』批判は、異様な熱っぽさにあふれていて非常におもしろい。そして、ぼくが授業中にちょろっと話した『蒲団』批判は、この中村の論の影響だったのだと改めて気づいた。

 たとえば、中村光夫はこんなふうに批判する。

 

 こうした「蒲団」の描写の欠陥は、たんなる技法の未熟さのためではなく、もっと根本的な作者の制作態度の間題なのです。「筋を通す道具」にすぎないのは細君だけではありません。女弟子の芳子もその愛人の田中も、要するに登場人物はみな主人公の主観的感慨を支える道具にすぎないのです。彼等の心理描写はこの小説には一言もないのです。
 こういう欠陥の原因は、主人公の独白という表現形式にあるのでもありません。モノローグで深い立体感をあたえる小説の例として、僕等は書簡体、日記体の小説の傑作をいくらでもあげることができます。だから「蒲団」の読後に僕等の感じる息苦しい平板性は、そうした形式のためでなく、もっと根本的な作者の主人公に対する態度から来ています。作者と主人公とが同じ平面にいて、しかも両者の距離がほとんど零に等しいからです。作者は主人公の人物を少しも批評していないし、また主人公は作者にもっとも近親な存在だという事実にいい気になって甘えているだけです。
 普通、告白は自己に対する反省を動機とします。自己批評のない告白とはそれ自体矛盾である筈なのに、我国の最初の告白小説が、まさしく作者の自己批評の喪失によって成立したのは、特異の現象として注目に価します。ゲーテの「ウェルテル」や、コンスタンの「アドルフ」のようなかけへだたった例をここに持出すまでもありません。「蒲団」の作者の主人公に対する態度は「青春」における風葉にくらべても、また「破戒」の藤村にくらべてもずっと甘いのです。風葉の場合は、作者と主人公とはいわば他人同士なのですから、「作者が残酷なまでに、最後のページまで、主人公の弱点を抉るの刀を措かなかった」のは、もとより当然かも知れませんが、「破戒」ですら、藤村が「主観的感慨を以って塗りつぶした」のはただ丑松の心理だけであり、彼の周囲にはそれとは別な作者の眼で眺められた自然と社会が拡がっています。
 ところが「蒲団」では作者の自己陶酔の傀儡である主人公が作品一杯に拡がって、そのほかにほ誰もいないのです。


 今まで『蒲団』を読んできた上でこれを読むと、いちいち頷けることばかりである。細君や芳子や田中の内面が書けてないなんてずいぶん言ってきたけど、「彼等の心理描写はこの小説には一言もないのです」というんじゃあ、しょうがない。

 時雄のジコチュウな言動にしても、なんともいえない「すっきりしない感じ」がいつもあったのは、この「自己告白的」な小説に、「自己に対する反省」が見られないからだったとも思える。中村によれば、それは、「作者は主人公の人物を少しも批評していないし、また主人公は作者にもっとも近親な存在だという事実にいい気になって甘えているだけです。」ということになる。

 どうしてそんな「甘え」が許されるのかといえば、それは、「文学という後ろ盾」があるからだとこの後に中村は書いている。普通の社会人には、こんな甘ったれは許されないけれど、オレは「文学」を書いているんだということが、その「甘え」を許しているというのだ。

 こうした中村の完膚なきまでの『蒲団』批判は、しかし、『蒲団』が、「主人公=作者」の設定で書かれていること、つまり、書かれていることは全部事実だということ、を前提としているわけだが、平野謙は、そこに疑問を投げかける。ほんとうに、『蒲団』に書かれていることは全部事実なのか、フィクションはないのか、というのだ。

 それというのも、実際には、この話には後日談ともいうべきものがあり、そこでは、芳子のモデルとなった岡田美知代は再び花袋の勧めで上京し、田中のモデルとなった永代静雄と結ばれて子どもを産むが、別居し、生家から勘当され、花袋の養女となり、子どもを花袋の義兄にあずけて、もう一度文学に精進するが果たせず、結局は永代と都落ちするというなんとも波乱に富んだ話なのである。

 そこで、平野は言うのだ。そもそも、この『蒲団』に書かれていることが全部事実ならば、そんな男(花袋)のもとに、『蒲団』を読んだ父親が再び娘を託すだろうかと。美千代も、その父も、静雄も、みんなこの『蒲団』という小説が「事実そのものではなく小説(フィクション)だ」ということを理解していたのではなかったか、とも言うのだ。それなのに、世間では、あの島村抱月の評を真に受けて、この小説を「事実の赤裸々な告白」として読んでしまった。その間で、花袋は悩んだに違いないと、まあ、そんなふうな意見なのである。

 そんな後日談があるなら、平野の言うことには、一理も二理もある。その上で、平野は最後の「蒲団をかぶって泣く」シーンに言及し、それは「嘘にきまってる」と言うのだが、中村光夫はムキになって反論する。その応酬が面白いので紹介しておきたい。平野の文章でその応酬が再現されている。


 中村光夫はそこで私の説をまず紹介している。第一に「白昼、シラフのまま自宅の二階の部屋に女の蒲団を敷いて、そのなかで泣いている最中に、もし細君でもあがってくれば、なんと弁明すればいいか。そういうことに全然考慮をはたらかせないこの中年男の心理は、どんな昂奮状態にあったにしろ、はなはだ非現実といわねばなるまい」という論点、第二に「食いつめたわけではあるまいし、どんなにとりみだしていたとはいえ、良家の子女が寝具類をとり片づけもせず帰郷するなどとは、常識では考えられない。机類などの梱包こそ間に合わなかったかもしれないが、身のまわりのものも始末もしないなどとは、到底考えられもしない。そういう場合、父親というものは、普通に考えられるより、よく気がつくものである。おそらく父親は運送屋にたのんで、手廻しよくすべてを国許に送り届けるくらいの手配をしたにちがいない」という論点を紹介して、「なかなか鋭い、ユーモアにとんだ着眼であり、説得力もあります。」などと一応お土砂をかけながら(注:「お土砂(どしゃ)をかける」は、「お世辞を言う」、の意)、しかし、として、おもむろに私の論拠を反駁したのである。
 たしかに氏の言うように、横山芳子父子が蒲団を荷づくりもせずに帰郷するのは、常識では考えられないことでしょう。しかし、だからといって、主人公がここに書かれたようなことをした筈がないとは言えません。芳子がまだ家に寄寓している間に、彼女も細君も留守のときを狙えば、機会はいくらもあるわけです」と中村光夫は論じ、その証拠として、「机、本箱、罎、紅皿、依然として元の儘で、恋しい人はいつものように学校に行って居るのではないかと思われる」という描写をあげ、『蒲団』の末尾に「実景としてはあり得ない筈の描写が何故挿入されているかも〈こう考えれば〉説明がつきます」と断じている。そういわれれはたしかにそのとおりであって、竹中時雄という三十六歳になる中年男は、横山芳子がまだ二階に寝とまりしていたとき、その留守を狙って、こっそり机の抽斗をあけ、そのなかに捨てられた古いリボンの匂いを嗅いだり、押入れをあけて、女の寝具の襟に頻をあてたことくらいあったかもしれない。「東の窓を一枚明けたばかり、暗い一室には本やら、雑誌やら、着物やら、帯やら、罎やら、行李やら、支那鞄やらが足の踏み度もない程に散らばって居て、塵埃の香が夥しく鼻を衝く中に、芳子は眼を泣腫らして荷物の整理を為して居た」という描写がすぐ前にある以上、中村光夫の指摘するとおり、「机、本箱、罎、紅皿、依然として元の儘で」云々という描写はたしかにおかしい。まだ女が寄寓しているとき、ひそかにその留守を狙ってやった行為を、結末にまでずらせただけであって、必ずしも平野謙のいうあの結末全体を架空の妄想とは断言しがたいのじゃないか、というのが中村光夫の新しい言い分である。これはいままでも誰もいわなかったウマイ着眼点である。

 

 というようにエンエンと続くのであるが、やはり、結末の「蒲団かぶって泣いた」が、嘘だという平野謙の言い分のほうが、納得しやすい。部屋の描写は、確かに変なのだが、だからといって、これがまだ芳子が住んでいたときの出来事で、それを最後に挿入したんじゃないかという中村の言い分は、平野はいちおう感心しているけど、いくらなんでも無理がある。そんな時間をずらすなどという技巧は、この小説の他の部分には見られないことだし、たとえそういう技巧を使ったにせよ、あまりに不自然だ。

 ぼくもこの最後のシーンについては、前回、「それは一種の『オチ』であって、こうでも書かなければ収拾がつかなかったのではないかと思うのだ。今までさんざん時雄の醜態を描いてきたので、更にそれの上をいくインパクトのある『醜態』は、これでいくしかないよな、と花袋は思ったのではなかろうか。」と書いているとおり、平野説に近い。ただ、平野の言うようにフィクションというよりは、中村のいうように「留守を狙ってやった行為」を、「オチ」として使ったというわけで、時間配列からするとフィクションだが、素材からすると事実、ということになる。けれども、事実なのは、「夜着の襟の天鵞絨(びろうど)の際立って汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。」までで、「その蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた。」というのは、フィクションだとぼくは考える次第である。平野の言うとおり、いくら「留守を狙った」といっても、女房が帰ってきたらどうするのだ、という問題は依然としてあるからだ。

 それにしても、中年男がそんなことするわけない、っていうところの平野の言い方が、とても愉快だ。なんだか新橋の酒場で、文学談義しているような面白さがある。しかも、中村の言い分を紹介するにしても、「お土砂をかける」なんて聞いたこともない言い回し(ぼくだけか?)を使って皮肉っているあたり、論じている作品が作品だけに、おもわず笑いを誘われるし、最後のところの「これまで誰も言わなかったウマイ着眼点である。」なんて「お土砂をかけ」かえしてるあたりも笑える。

 中村が無理してでも、『蒲団』のこのラストが事実だということを押し通したいのは、もし、ここがフィクションだとしたら、これまでの『蒲団』批判がぜんぶひっくり返ってしまうからだ。ラストがフィクションなら、この小説の至るところにフィクションがあってもおかしくないということになり、最初の島村抱月の賛辞は、どこかへふっとんでしまう。そうなると、今までの「日本の自然主義」そのものの評価もまた変わってくる可能性がある、ということだろう。

 この平野vs中村の論争に割って入ったのが吉田精一で、それも平野は紹介している。


しかし元来が主観詩人であり、告白的な作風のもち主たる花袋の作中でも、『蒲団』がもっとも事実に即し、事実性が強いものであることは否定できない。小説とはいえぬ紅葉の『青葡萄』をのぞけば、この作品ほどに自己の実生活に即し、実際の事実に忠実であろうとしたものはそれ以前になかった。その意味でエポックメーキングの作品であることは否定できない。しかも『青葡萄』と違い、羞ずべき内面、自己のいわゆる「醜なる心」を赤裸々に描き、社会的体裁を捨てて、自己の真の姿をみつめようとした態度が、正直、真摯な作者の人間性の表現として、世を驚かしたのである。この意昧で若干のフィクションがあろうと、それをのちの私小説の嘆矢と見ることは、やはり間違っていない。

 吉田精一はこの前に中村光夫の「錯誤」説にも訂正を試みていて、いわば喧嘩両成敗的な論評を加えたのである。これが公正な文学史家の見解というべきかもしれぬが、いささか公正すぎて衛生無害のような気がしないでもない。


 と、何やら不満げである。吉田精一の「裁き」を、「公正な見解」としながらも、「衛生無害のような気がしないでもない」と、歯切れの悪いことを言っているが、平野としてみれば、この際「公正さ」などよりも、心強い味方が欲しかったというところだろう。別に中村と喧嘩してるわけじゃないんだろうが、ここはひとつ「勝負!」といきたいというような、遊び心が彼らにはあるのである。そこへ、国文学者の吉田精一が出てきて、まあまあ、ここはひとつこういうところで手を打ちましょうなんて言われると、思わず鼻白むというわけである。

 昨今では、このような「文学論争」めいたことにはとんとお目にかからないが、なんとも寂しいことである。「文学論争」なんて、世間からみれば、およそどうでもいいことばかりで──特にこの「論争」は、大の男が女の蒲団を被って泣くということがあるかどうか、なんだから、どうでもいいことの極地ともいえる──暇人がなにやってんだかって、冷たい目で見られそうだが、そういう暇人の居場所があってこその「文化」ではなかろうか。忙しい人が、目先の利益を求めて血眼になっている間は、文化など「お呼びでない」ってことになるし、したがって、豊かな人生も望めない、と思うのだが、さてどんなもんだろう。


 

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