2000年2月20日(日) 曇りときどき晴れ

Section 1.

私は新婚である。まだ、結納金も納めていないが、先日籍は入れてしまった。順序が違うじゃないかと問われれば、全くもってそのとおりなのだが、現代は色々あると思ってご理解いただきたい。

妻は由緒正しい家柄のお嬢様だが、容貌は派手なところはなく、強いて言えば古風な慎ましやかさが特徴である。しかし、家事はしっかりしているし、小食なのも私好みだ。ただし家柄が家柄なので、これから準備すべき結納金は結構な額になるのが、庶民の私には少々辛いところだ。しかし妻を愛しているので、嬉しい辛さと考えることにしている。

Section 2.

先日、街である娘に出会った。私好みの落ち着いた容貌だが、かなりの才媛らしい。その多才さとは似合わずに人見知りするのか彼女の声は小さい。そのときの私は新妻をつれているにも関わらず、目は彼女を追いかけてしまった。妻の方はというと、いつもと変わらず静かに傍らにいるだけである。

偶然出合った才女とひとしきり世間話をした後、さりげなくその場を離れた。離れ際に彼女は、小さいが綺麗に響く声で言った。「また、ここでお会いしましょう」

Section 3.

今朝目が覚めると、夕べからの雨が少し残っていた。私の頭の中にはあの台詞、「また、ここでお会いしましょう」がこだましている。罪悪感に苛まされながら横目で妻を見ると、いつものように静かに微笑んでいる。

「ちょっと買い物でも行かないか」と言う私に、妻は静かに頷いた。いつものように愛車を走らせる。今朝までのはっきりしない天気も昼頃から回復し、青空も見えるようになった。私は年甲斐もなくオープンのスポーツカーに乗っていて、冬といえども晴れた日はその幌を下ろして走るのが好きである。しかし、今日は幌を閉めたまま愛車を走らせた。

街に出ると、「当座の生活費でも下ろしておこうかな」などと言い訳めいた台詞をつけて、銀行のキャッシュコーナーへ向かった。生活費には多すぎる額だが、妻は何も言わなかった。「(才能を支えるには資金が必要なのだ…)」と心の中で悪魔が囁く。

これと言った目的もないので、街をうろうろした。時々ベンチに座っては、しみじみと妻の顔を見つめる私に、妻は静かに微笑んでいるだけである。NTTのインターネット体験コーナーでさりげなくURLを検索した後、才女のスナップを見た。それほど派手な扱いではないが、世間でも彼女の才能や容姿に注目している人がいるという証でもある。

その後、また街をあてもなく彷徨った。今日は随分歩いたので、いい加減足もくたびれてきている。「そろそろ帰るか」と言うと、妻は不思議そうな顔をしたようだ。「あら、あのお嬢さんに会わなくていいの?」とでも言いたげに見えた。

私は黙って公園の中をまっすぐに歩いた。隣のスポーツ施設にあるプールから、消毒薬臭い匂いが鼻をつんとついた。私は冬なのに夏の匂いがするのは変だなと思った。すでに昼下がりとなって、冬らしい赤みを帯びた光が辺りに満ちてきた。その茜色の光の中でふと傍らを見ると、妻はいつもより一層輝いて見えた。

私はまっすぐ前を向いて歩きながら、心の中で呟いた。
「ごめんね、僕は君とは付き合えないんだ。でもいつかまたその小さな声を聞きたいな、才女君…」

バックミラーの中の夕日に目を細めながら、今日は随分長いこと連れまわしてしまったから、帰ったら妻にマッサージでもしてやろうと思いつつ、いつも以上に軽快に感じる愛車のステアリングの感触を楽しみながら我が家を目指した。

注意書き

このページはフィクションであり、作者の日常や現実とは全く関係がありません。