MACWORLD Expo/Tokyo'99 at MANDARA 05/10

浜谷隆行の能書き

其の壱 teとの邂逅 1997/03/31
其の弐 打ち込み修業時代 1997/04/10
其の参 X-DAYよ永遠に 1997/04/25
其の四 KORGの選択を 1997/08/16
其の五 ライブの価値は・前編 1997/09/05
其の六 ライブの価値は・後編 1997/10/05
其の七 人の集めしもの 1997/10/24
其の八 To-y、魂の書 1997/11/14
其の九 ヨーヨーとコンピューター 1998/03/19
最終改訂日:2002/01/18


其の壱 teとの邂逅

私が神奈川県立I高校に入ったのは、今を去ること10年以上前の話だ。放送部に入った私が、おずおずと部室にはいると、やけに目つきの悪い先輩がいた。
それが、teだった。彼は私にカセットテープとコピー刷りの冊子を手渡した。そして、これを聞いて感想を提出しろと強制した。今考えれば強制したつもりは更々無いのだろうが新入生の私にしてみれば3年生の、しかも目つきの悪い先輩に言われれば、強制されたと思っても無理はあるまい。それがteのデモテープ「GENTLE ART」だった。シンセサイザー、リズムマシンをメインにしたその内容は当時の私には驚愕すべきものでありしかもそれが、殆ど彼一人の手によって作られた事に何より驚かされた。
一人で音楽が出来る!打ち込みという手法を知った私が自分でシンセサイザー(KORG M1)を購入するのはそれから3年後の事であったがそれはまた別のお話・・・(^_^;


其の弐 打ち込み修業時代

それは私が高校三年生の文化祭での出来事である。
私と、同期のO氏、後輩2名はTM NETWORKのファン、古い表現を使うなら「Fanks!」 だった。4人は共謀してTMのコピーバンドをやることになり、私が打ち込みをする、つまり・ ・・小室哲哉パートをやることになった。しかし、当時高校生で機材も持っていなかった私はteからYAMAHA QX5YAMAHA TX802を借りて、生まれて初めての打ち込みに挑戦した。最初に手を付けた曲は「Come on Let's Dance」だった。イントロのシーケンス部分を打ち込むのに20分位かかったような気がする。そしてQX5のプレイボタンを押したとき、私の人生は変わった。すごい!!今にして思えば児戯に等しい稚拙な打ち込みだったが、楽器を全く弾けない自分が音楽を作り出したという事実に大きな満足感を味わった。しかしそれが大きな落とし穴だったことに、私はまだ気づかなかった・・・

そして今、私はteと同じステージに立つようになった。人の縁とはそういうものなのかもしれない。勿論、音楽という悪の道(^^;に導いてくれたteには感謝しています。いや、マジ で。

文化祭の演奏はというと、MIDIトラブルやら何やらでひどいものだったことは忘れたいので忘れさせてくれ ・・・

teのコメント
私はその文化祭の模様を隠し録り?したテープを持っているのですが、お世辞にも聴けたものではないです。思い出として聴くのは楽しいけれど。ただ、このような経験があってこそ今があることを忘れないことが大事なのではないかと思います。PMO初期のライブもひどかったもんね。ちなみにQX5とTX802はいまだ現役バリバリ!です。


其の参:X-DAYよ永遠に

昔話ばかりで年寄り臭くていけないが、かつてYAMAHAは自社製品の発表会を毎年開いていた。YAMAHA DIGITAL FAIR X-DAYというのがその名前だ。県立I高校放送部員の私は放送とは全く関係ないのにそのイベントに連れ出された。初めて行ったX-DAYは第5回の、池袋サンシャインシティーでやったやつだ。X-DAYの入場券はハガキで、それが放送室に山積みになっていた。何故こんなにたくさん入場券があるのか?それは出場時にプレゼントの抽選があるので何度もでたり入ったりを繰り返していい物を当てようという魂胆があるからだ。しかし世の中そう上手くは行かないもので、私が当てたのは残念賞のYAMAHAロゴ入り袋とステッカーだけであった。同期のO氏はTシャツを当てて、夏になると誇らしげにそれを着ていた。翌年のX-DAYは武道館の隣にある科学技術館で開かれた。(te注…科学技術館が先だった様な気がするが?調べておこう)当時はまだ比較的無名だったTM NETWORKがミニコンサートをやったが残念ながら私は見ていない。そのときも手に入れたのは袋とステッカーだけだった。私は「くそっ、来年こそは」と思っていたが、しかし翌年X-DAYは開催されなか った。時に昭和63年。X-DAYという言葉は禁句だった・・・そして年号が平成になってもX-DAYが再開される事はなかった。

去年からYAMAHAは再び製品発表会を開くようになったが、名前はYAMAHA DIGITAL WORLDになってしまった。まあ、今のヤマハの製品で「X」が付くのはKX5、KX88、WX11、QX3(まだ売ってたっけ?)だけなので、しかたないけどね。

teのコメント
私はYAMAHA X-DAYでTMのステージを見るまでは、はっきり言ってただのイイ子ちゃんバンドだと思っていた。YAMAHAの最新機器を使用した45分間ノンストップのステージは、当時の私にとって、かなり衝撃的なものだった。それから私は自分でライヴをするためにX-SERIESを一通り揃えてステージに立つことを誓った。

能書き 其の四 予告編
ついに自分のシンセを買う浜谷。
しかしKORG M1にするかRoland MC-500+U-110にするかで悩んでいた。
加持は言う「自分で考え、自分で決めろ」、そしてついに現れる六田。
次回「KORGの選択を」
このつぎもサービスしちゃうわよ。


其の四:KORGの選択を

 私が自分のシンセサイザーを買ったのは、大学1年の終わり頃だった。 だんだん増えていく預金通帳の残高と楽器のカタログを並べて眺めつつ、私は楽しい思案に耽っていた。 候補に挙がっていたのは3種類。 「YAMAHA V50」「Roland MC-50+U-110」そして「KORG M1」である。 この中でYAMAHA V50は早々に候補から外れた。 確かにフロッピードライブを内蔵し、シーケンサーの記憶容量も約16,000音というスペックは悪くはなかったが、4オペレーター8アルゴリズムのFM音源は普及してきたPCM音源に比べるといかにも時代遅れに思えた(DX21は良いシンセだと思うけどね )。無理なフォローありがとう(te)
ローランドの組み合わせは、MC-50の専用機ならではの操作性とU-110の音色カードを 4枚も挿せる点が魅力ではあったのだが、MIDIキーボードを付け加えなければならな いのが多少のネックだ。
金額的に不可能ではないが、出来ることなら安く済ませたい。 M1はPCM音源のオールインワンシンセで理想に近いのだが、シーケンサーの記憶容量が7,700音なのと、フロッピードライブがないのでデータファイラーを別に買わなければならないのが大きな不満点だった。
どうも決定打のないまま、私は下見だけを繰り返していた。

その頃秋葉原のラジオ会館に「十字屋」という楽器店があった(多分同じ経営のラジコンの店は今でもある)。 中古シンセを主に扱っていて、KORG PS-3200やSequential Circuits Prophet T-8な どの現物を初めて見たのもこの店だった。 ふらっと秋葉原に立ち寄ったある日、そこでM1の中古を発見した。 正確な値段は忘れたが、「安い」と思った事は確かだ。 これならKORG DF-1などのデータファイラーを買っても余裕がある。 問題としていた外部記憶装置の件は解消されたと言っていいだろう。 そしてその週末に、後輩の六田君を伴って秋葉原に行った。 彼は県立I高校放送部の後輩で、歳の割にYMOに詳しくシンセにも興味があるので、そ の道に引き込むべく今回の買い物に同行願ったわけだ。 運良くM1は売れてはいなかった、いや、このM1は私に買われるべく運命付けられているので売れている筈ないという確信が私にはあった。(^^; 実際買う段になっておまけのソフトケースがファスナーが壊れているという問題はあ ったが、私は非常に満足し、帰りの電車内で他の客に迷惑を掛けつつM1を家まで抱えて帰った。 そのときは本当に上機嫌で、喫茶店で六田君にコーヒーを奢ってあげたくらいだ。

メインの音源とシーケンサーはKORG 01R/Wに取って代わられたが、このM1は今でも マスターキーボードとして使用している。 01と比べるとM1は音が荒っぽいと思う。 どうもD/A変換の部分でノイズが乗っているような気さえする。 しかしあのフィルター全開のピアノや再生YMOも使ったピックベースの音はM1を語る上で通り過ぎることはできまい。 Tシリーズや01シリーズが発売されてもなお、M1はKORGのカタログに残り続けた。 そう、間違いない、KORG M1は80年代を代表する銘機なのだ。

teのコメント
 KORG M1、当時としては最高の選択だろう。岡村靖幸も使用していた暖色系音色をはじめ、伝説のマリンバ、あと何と言ってもデザインが素晴らしい。借り物のPOLY800とデジタルチューナーしかKORG製品を使用していない私でさえ、M1、01/Wといった一連のKORGシンセは興味を持たざるを得なかった。01/W FDは本当に購入しようと思ったほどだ。早くジョイスティック直そうぜ!

次回予告 ついに買ったM1に己の業をぶつける浜谷、そして足りないトラック数。 しかし発表の機会もなく暗く打ち込みをする姿は、人々に希望を捨てさせた。 次回「ライブの価値は」。 みーんなで見てね。(^_^;


其の伍:ライブの価値は・前編

 念願かなってKORG M1を買い、せこせこと打ち込みをしていた私だが、暫くするとやはり「人前でこの成果を披露したい」という欲求が生まれてきた。しかし大学で音楽サークルに入っている訳でもなく、かといって単独でライブを出来るほどレパートリーもない。そこで私は何組かのバンドが出演する対バン形式のイベントをやることを思いついた。

 高校時代私の所属していた放送部のOBには、teをはじめ何故か音楽をやっている人が多い。この連中が集まればそれなりに格好の付いたイベントが出来そうである。だがしかし、イベント実現までには困難と辛酸の道のりがあることに当時の私は気が付いていなかった。

 何よりも先ず最初に、私以外の人に出演の意志があるのか確かめることから始めなければいけない。それが決まってから会場を予約する。音響機材の確保。イベント費用の算出。宣伝。果ては打ち上げ会場の予約まで。やらなければいけない事が山とある、いや私には何をやればイベントの開催まで漕ぎ着けることが出来るのかさえ見えていなかった。そこで私たちは、既にその頃自主ライブイベントを何度か開催したことのあるteをブレーンに何度もミーティングをした。「デニーズ某M店」そこが私たちの会議室だった。どんな些細な事柄も念入りに打ち合わせを繰り返した、ケーキセットコーヒー付きで何時間も粘りながら。

 出演者は予想通りすぐに集まった。2期上のteと彼の中学時代の同級生の田中氏、私の同期の白井さんmiwakoさん、能書き其の参に登場した「同期のO」こと小坂、1期後輩のNさん、同期のタクと彼がスカウトした5期も後輩(現役高校生)のYさんとS君、そして私。合計6組の出演バンドが決定した。どうでもいい事だが、この中で生演奏をするのは2組だけで、他は皆打ち込みを使っていたのが実に私たちらしいと言えるだろう。

 会場は近所の市民館の大会議室を使用すると、割と簡単に決まった。コーラスやダンス等の市民サークルとの抽選競争を見事勝ち抜く強運が私たちにはあったようだ。入念にも前日の夜間も機材の搬入の為に押さえた。今思うとなんて贅沢な使い方なんだろう。その後も音響、照明の確認のために何度も会場の下見に行ったので、いい加減、橋爪功似の市民館の担当者に顔を覚えられてしまった。

 イベントの企画自体がどんどん進んでいく中で、私は自分の抱える問題も解決しなければいけなかった。私がやりたかったのは「遊佐未森のコピーバンド」で、Vocal(白井さん)+打ち込み&Guitar(私)という編成である。しかし、前回の能書きでデータファイラーを買うと言っていた筈が、実はまだ買っていなかったのだ。おまけに私の持っていたギターは借り物のフォークギターだった。ライブではマイクを使用しなければいけないフォークギターより、音をラインで拾えるエレアコの方が望ましい。エレアコは前々から欲しかったので、秋葉原のLa-ox楽器館でYAMAHA APX-6Sを即決で買った。YAMAHAにしたのはTM Networkの木根さんを十分に意識してのことであるのは言うまでもない。(^^;

 さて、エレアコを買ってしまったのでデータファイラーは安く済ませたい。「どっかに中古で安いDF-1でも落ちてないかな〜」などと思いつつ、いつものように私は学校帰りに渋谷の楽器店をぶらぶら巡っていた。さて、またまた昔話になるが、サウンドライクという楽器店が道玄坂にある。YAMAHA渋谷店の反対側の歩道を少し登ったところに回転寿司があり、その角をON AIR(あるいはまんだらけ)の方向に入ったマンションの1Fに今はあるのだが、当時はそこのもっと上の階にあって、非常に狭い店だった(余談だが同じマンションにブルセラショップがあった)。そこで私はKAWAI Q-80の中古品を発見した。表面に煙草の焦げ痕らしきものがあり、キーの一部は印刷が剥げていてお世辞にも美品とは呼べない代物だが、値段もそのぶんお手頃だった。2〜3日逡巡の上、結局20k円弱でこのQ-80を買ってしまった。折角Q-80を買ったのだからこちらをシーケンサーにすれば良いようなものなのだが、どうも操作性が馴染めないのと、ディスプレイが狭い上にバックライトもないので使う気にはなれなかった(あぁ、QX-5を馬鹿にしてるんじゃありませんよ、怒らないでね>te)。(←ちなみにQX5はディスプレイ狭いけどバックライトは付いているぜ!/te)また余談になるが、その時Roland TR-606があって、店員さんに音を聴かせてもらったりしていた。たしか30k円台だったので、借金してでも買っておけばよかったと今だに後悔している。

 さて、買う物も買って心おきなくライブを迎えられるかのように見える私。しかしこの後予想もしなかった事態が起きるのだが・・・なんだかだんだん長くなっている能書きコーナー、後編に続くということで。

teのコメント
 あぁ、懐かしい。会場探しも通常なら真っ先に考える「ライブハウス」という選択肢がなかった(型にはめられるのが嫌だったし、貸し切るだけの資金もなかった)だけに大変だったが、運良く市民館を押さえられたので良かった。もしその時点で会場探しが難航していたなら、現在までに到る道のりも変わっていたであろう。しかしよくミーティングしたこと。このイベントの資料が今までで一番ブ厚いのは言うまでもない。

次回予告「ライブの価値は」後編、お楽しみに。


其の六:ライブの価値は・後編

 前回目出度くデータファイラーを購入したところで終わったので、今回は私の打ち込みTipsをこのページを読んでくれる皆さんに特別にお教えしよう(ってそんな大したものかぁ?)。

 KORG M1はシーケンスモードで8つのトラックを持っている。MIDIは1チャンネルで16のトラックを扱えるので、8トラックという数字ははっきり言って少ない。従ってM1で打ち込みをする際は、この8つのトラックを有効に使うためにパート毎の割り振りをよく考えなくてはいけない。
まずベースのために1trを使う。これはデフォルトである。次にドラムに8trを当てる。SMFではドラムが10tr目に割り当てられるのが普通だが、8トラックしかないM1では致し方ない。よくMIDIには遅れがあるのでベース、ドラムは若い番号にした方が良いと言われるが、私は気にしない。
それより当時私はベースとドラムに、他のパートと一緒にトータルでリバーブを掛けてしまっていた。基本的なことをまるで理解していなかった自分が今となっては非常に恥ずかしい・・・
もっとも当時は自前のミキサーも持っていなかったので、パラアウトにしてしまうとベースとドラムが聴こえなくなってしまうのでしょうがないと言えばしょうがなかった、と言い訳をしてみたりね。(^^;;;
ベースとドラムだけで曲の構成を完成させたら、その後上物の打ち込みに取りかかる。だいたい曲中で通して鳴っているピアノとかパッド系の音色が2trに来ることが多い。こうしてどんどん打ち込みを進めていくと、間奏のあたりでトラック数を使い果たしてしまう場合が多い。さて、ここからが勝負どころだ。
 曲の構成と使用トラックの関係を把握するために、トラックシートを紙に書く。これがM1での打ち込みには欠かせない作業なのだ。
2〜7trの横向きの枠を作り、縦にAメロ、Bメロ、サビなどパートに分けて線を引いて区切る。そして各トラックで音を鳴らしている部分に線を引いて、その部分の音色No.ヴォリューム、パンを書き込む(これが後で重要になるので忘れずに)。こうする事でどのトラックがどのパートで使われているかが一目瞭然になる。
そうしたら空白になっている部分に新たに別の音色を使って打ち込んでやればいいのだ。(*注)
例えばイントロと間奏でしか鳴らないシンセソロなどのトラックがあるので、この途中のパートにプログラムチェンジを入れて他の音色を鳴らしてやる、というふうに1つのトラックを2つ3つの音色で分け合うのである。
「その部分の音色No.ヴォリューム、パンを書き込む」ことが重要なのは、音色を元に戻すときにこれらの項目がわかりやすいように、という理由からだ。
こうして8つのトラックを最大限に使って当時の私の打ち込みは完成されていた。

 さて、私の打ち込みも終わりいよいよライブを迎えるという段になって、まるで予想もしていなかった事態が起こった。同期のO氏が海外旅行に行ったきり連絡が付かないのだ。
行き先はメキシコと聞いていた。ライブまでに帰国する予定だとも聞いていた。しかし、直前になってもO氏からの連絡はなかった。当然ながら滞在先のホテルの住所などわからない。
風の噂によるとメキシコからさらにエルサルバドルに入国したとか。とにかくO氏のライブまでの帰国は絶望的のようだ。

「逃げたな、O」誰からともなく呟きが聞こえた。

 O氏が帰国しない事で生じる問題が2つある。1つ目は運営費用の問題。これはまあ、何とかなる種類の問題なのでよしとしよう。
もう1つは彼から借りる予定だったYAMAHA SY77とキーボードスタンドをどう調達するか。他に当てはないし、レンタルはこれ以上費用をかけたくなかったので却下。結局私が前日にO氏の家に行き、SYとスタンドを借りてくることにした。
ライブ前日、O氏の家に伺うと彼の母親が機材関係の準備を整えて私を迎えてくれた。彼女は私に言った。
「Y夫(O氏の名前だ)が帰ってくるまで、これを預かっていてもらえますか?」
私の部屋にはあのデカいSY77とそのハードケースを置く場所などなかったので辞退したのだが、その時一瞬、私の中の悪魔がこう言っていた。

「O、帰ってこなくていいよ」(^^;;

結局O氏は大学の授業が始まる頃にやっと帰国した。しかもお土産はくれなかった。

 肝心のライブの内容は非常に充実してバラエティーに富んだものだった。後輩のNさんは矢野顕子のカバーをしっとりとピアノ&ギターで聴かせてくれた。白井・miwakoユニットはカバー中心ながら現在は彼女たちのスタンダードナンバーとなった「鳥」を発表した。タクのユニットはPeter, Paul and Maryの歌をメインに渋く決めた。te・田中氏は流石にライブ慣れしているだけあって、貫禄のステージを魅せた。
私と白井さんのユニット「まるいさんかく」も初ライブにしては上出来だった。比べたくないが昔の文化祭のTMコピーバンドの50倍(当社比)くらい良かっただろう。私は最後の曲「0の丘∞の空」の間奏で調子に乗ってステージ下まで降りてギターを弾いた程だ。しかし私のギターテクはその頃からあまり進歩していないような気がするが・・・
 こういう多くのユニットが出演するイベントだとそれぞれの個性が表れて、1粒で何度も美味しいキャンディー的な楽しみがあって良い。しかし各ユニットのステージの間にセットチェンジの時間がかかるため、その間お客さんは多少退屈だったかもしれないが。
 ライブは盛況のうちに終わり、終了後の打ち上げ(タクが幹事だった)には先輩後輩をはじめ卒業以来会ったことのなかった人も来て、非常に楽しいものだった。今ではライブそのものより打ち上げの方が印象が強いくらいである。
 今となっては皆仕事や学業が忙しくて、スケジュールを合わせてライブをやることはかなり難しくなった。それどころか誰かのライブを当時の仲間みんなで聴きに行くこともままならないかもしれない。でももう一度、もう一度だけで良いからOBライブをやりたい、と私は思っている。

*注 01では空白の部分に新たに打ち込みをするとその後ろに記録されていたデータが消えてしまうのでやってはいけません。M1のみのTipsです。

teのコメント
 とうとうtips登場。このようなマニアックな話題もいいね。例の1993年3月のイベントはある意味で原点だったから今でも印象深いものがある。みんなでステージを作り上げたって気持ちが強いし、みんないい表情をしていたね。あの時みたいな感じの打ち上げが理想的なんだけど、なかなか大変だからなぁ。そのうちteページでも当時の写真を交えてフォローするのでお楽しみに。

次回予告 浜谷の昔話シリーズはとりあえず今回で終わり。次回からは浜谷のどうでもいい話シリーズが始まります。次回「人の集めしもの」お楽しみに。


其の七:人の集めしもの

 私は楽器店やレコード店、駅等でカタログ、フリーペーパーなんかを貰うのが好きです。しかし根が貧乏性なので、貰ってきた物が捨てられません。当然雑誌なんかも絶対に捨てないし、スクラップにもしない性格です。必然的に部屋の中はこれらの一見資源ゴミで一杯になっています。
私の部屋と廊下には本棚が3つ有るんですが、普通の本が入っている部分は1/4くらいで(しかもその大半をEVA関連の書籍が占めている)他は雑誌とフリーペーパー、カタログ類によって占領されています。雑誌、特に一時期は毎月買っていたサウンド&レコーディングマガジン(通称「サンレコ」)とキーボードマガジンはローボードと机の下をも占領して床に平積みされています。
いつの間にこんなになってしまったのかよく考えると、やはり原因は高校時代の放送室にあるようです。

 放送室内ではスチール机の引き出しに「資料」と称する音響関係と楽器のカタログが納められ、壁にはビジュアルの美しい(SONYの物が多かった)カタログがポスターがわりに貼られていました。私はその頃ビデオを買うためにカタログを集めていて、各社全種類のカタログを持っていました。それは結構な自慢だったのですが、放送室の質、量ともに充実したコレクションは私の自信を軽く砕きました。自分より凄いコレクションを見ると悔しくなるのはコレクターの性。私は「いつかこの放送室コレクションを凌駕してみせる」と心に誓いました。

 カタロガー(私の造語)の活動が盛んになるのは秋です。秋には毎年オーディオフェアが、2年に1度楽器フェアとモーターショウがあります。各メーカーが一堂に会するこういった展示会はカタログ蒐集には絶好の機会です。
私が初めてオーディオフェアに参加したのは高校1年のことでした。実はフェアで重要なのはカタログよりもメーカーが配る袋です。カタログはフェアが終わっても電気店に行けば貰えますが、袋はフェア以外では一般人はなかなか手に入れることは出来ません。しかも袋は配布する時間を限定する場合が多いので、ブースの前に並んで、あるいはウロウロしてコンパニオンのおねーさんが袋を配ってくれるのを虎視眈々と待たなければいけません。
袋には紙製でビニールコーティングされた物と厚手のポリエチレン製の物の2種類あって、見た目的にカッコイイのは後者なんですが、カタログを入れるとバランスが悪くなって持ちづらいので、実用的には前者が良いのです。こうして貰った袋はライブの時にケーブルなどを纏めて運搬するのに使っています。
大体1回のイベントで高さにして15cmくらいのカタログを手に入れます。はっきり言って往きはよいよい帰りは恐い、いや、重い。朝一で出かけてカタログを一通りもらい終えたら帰ってしまうのですが、それでも15:00くらいにはなってしまうので、この趣味には体力も重要です。そういえば最近は1回に貰うカタログの量が減ってきたような・・・(自爆)
ちなみにオーディオフェアでは、日立電線がカタログをクリアフォルダに入れて配布しているので狙い目です。

 フリーペーパー蒐集は最近渋谷に行く機会が極端に減ったため、一時の情熱が失われてしまいました。「HMV」は9号から一部抜けはあるものの46号までほぼそろっています(46以降を持っていて譲ってもいいという方はメール下さい)。勿論、岡村の「禁じられた生きがい」特集の95年1月別冊は3つ持っています。(<私は10冊以上あったぞ from te)「QUATTRO」は4号から持っています。これは何故かすぐに通しナンバーが付かなくなっています、謎だ。(「QUATTRO」は現在「FLYER」になっています。「HMV」「QUATTRO」ともこの前処分したばっかりだよ〜 from te)

営団地下鉄の「メトロガイド」は、今は細長い形ですが、昔のA5サイズだった頃の物を持ってます。しかし表紙のメトロアイドルの女の娘はあまり可愛くない・・・この女の娘の中からアイドルが誕生したら、「昔はこんな仕事をしていた」という今流行の「お宝発掘」グッズとして小銭が稼げるなーと思っているんですが、無理ですかね。

パルコが以前発行していた「ゴメス」ははっきり言って無料なのが勿体無いくらい出来の良いフリーペーパーでした。バカドリルはつまらなかったけど、原マスミの脳日記は最高だったなー。しりあがり寿のリトラちゃんとか、表紙裏の岡崎京子のイラストもイイ。後期には明和電機も連載していたし。思えば「ゴメス」が96年2月に廃刊になってしまってから、私のフリーペーパーへの情熱は急速に冷めていったようです。たぶんパルコも不景気で大変だったんでしょうね。「ゴメス」の93年3月号以前のものを持っている方、買いますよー。(^o^)

 フリーペーパーにかわって最近、比較的熱心に集めている物は「マッチ」です。喫茶店とか居酒屋で配っているマッチ、これがなかなか奥が深い。パッケージのデザインから、紙製の軸の色、頭の部分の色と、個性を表現する部分があって、集めて分類する面白味があります。ポイントが高いのは軸と頭の色をコーディネイトしている物。店の主人のこだわりが感じられます。逆にファミレスのマッチは、いかにも大量生産という感じが味気なくて悲しいです。最近はちょっとオシャレを気取った店だと、マッチではなく名刺サイズのカードしか置いてないところがありますが、あれはいけません。マッチ蒐集は「燐趣」という名前で明治時代から存在する由緒正しい趣味なのです。

そんなわけで色々と蒐集をしている私ではありますが、どれも決して「深く」はありません。このへんが私の性格を表しているというか、楽器に関しても打ち込み、ギター、ベース、マンドリンと手広くやる割にどれも上手くはないのと共通していますね。女の娘に関しても・・・ということはないです、念のため。(^^;

teのコメント
 今回からプライヴェート・シリーズ、という訳ですな。集めしものねぇ、私の記憶の限りあげると「プロ野球チップスのおまけのカード(当時はG高田のファン)」「スーパーカー消しゴム(ノック式のボールペンで飛ばしっこをした)」「コカコーラのスーパーカー王冠(カウンタックとかが出ると喜んだっけ)」「切手(誰もが通る道?結構いいものあるよ)」「ベリフィケーション・カード(QSLカードともいう、放送を聴いたリスナーからのレポートに対して、放送局が聴取内容を確認したカードのこと、当時は海外の短波放送に凝っていた、国内民放も含めてこれもかなり貴重なものあり)」以上がだいたい中学時代まで。その後は音盤は別としてこれといったものは集めていないなぁ。女の子に関してはノーコメントを貫くとしよう(笑)。

次回予告
 私には音楽の師匠と呼ぶべき人物が二人いる
一人は言うまでもない、teその人
そしてもう一人は、漫画家「上篠淳士」
次回、「To-y、魂の書」
この次もサービスしちゃうわよ(笑)


其の八:To-y、魂の書

 私が音楽をやるようになったきっかけは、一つにはte氏との出会いがあるのだけど、もう一つ重要な出来事がある。それは漫画「To-y」との出会いだ。(ちなみにTo-yは「トーイ」と読む)

 「To-y」は私が中学から高校にかけての時期に週刊少年サンデーに連載されていた上篠淳士の作品である。ストーリーを説明するのは野暮なので、簡単に主人公トーイの芸能界でのサクセスストーリーとでも言っておこう。その頃のサンデーといえば「究極超人あ〜る」をはじめ私の人生に多大な影響を及ぼした作品が連載されていた、私の元ネタ本とも言えるものだ。

 ある日妹が友達から借りてきた「To-y」の単行本を読んで、私は大きな衝撃を受けた。手元には文庫版しかないのでそれが何巻だったかはわからないけど、ベースを弾いているシーンがあった。1ページを縦に2段に分割し、上のコマには4弦3フレ(G)を押さえるベーシストのバストショット、下のコマには同じ構図で3弦11フレ(G#)を押さえる絵。しかも細かいことに下のコマでは上のコマよりベースのネックが持ち上げられていて、いかにもハイポジションを弾いている雰囲気が表現されている。
演奏技術など知らなかった当時の私だが、上のコマと下のコマの間の一瞬の時間の推移を感じることが出来たし、その間に産み出された音がページの中から響いてくるのが聴こえた。

「こんな漫画は今まで読んだことがない!」

私はすっかり「To-y」に、そしてその背後にある音楽の世界に引きずり込まれた。楽器の弾けない私がイメージだけでも音楽の世界に踏み込み、音と一体になる快感を味わうことが出来るメディアが「To-y」だった。「To-y」を読んでいると音が聴こえてくるのだ。このへんの表現方法が上篠は実に上手い。例えば1話に渡って台詞も効果音の描き文字もなくライブが始まるまでを描く。武道館の駐車場のカットから始まり、PAのセッティング、入場する観客。そして最後の最後に2ページ見開きでステージが始まるシーンが大胆に描かれる。その瞬間頭の中に大音響で曲が流れ出す、このドライヴ感!
あぁ、文章で表現するのがもどかしい。これを読んでる人、すぐに書店に行って文庫版か愛蔵版を買え!(^^; 内容は私が保証しよう。
まあとにかく、漫画という手法でこれだけ音楽を効果的に表現できた作品を私は他に知らない。(某マ○ジンでやっていた「デ○ペラー○」なんか、足下どころか爪にも及ばないね)

 さらに付け加えて言うと、「To-y」はオモシロさも兼ね備えている。ギャグではない、そこはかとないオモシロ味だ。登場人物には見た目いかにもの実在するモデルがいる。「哀川陽司」は名前からして吉川晃司だし、「桃ちゃん」はサンプラザ中野、「鮎見初雪」の顔の長さは誰がどう見ても鮎川誠だ。当時は思いつかなかったが「ディレクターの遠藤」は高橋幸宏なんだろうな、きっと。こんなメンバーが出てくるというだけでオモシロくないか?私はオモシロい。奇跡的なカッコ良さの音楽表現、意外と真面目なストーリー展開、所々に効果的に現れる軽妙さ。三要素のバランスの上に「To-y」という作品は成り立っていた。

 漫画論的に見ると、「To-y」というか上篠淳士の魅力はその繊細な画風にある。典型的少年漫画のようなGペンむき出しの太さはなく、かといって少女漫画のような細さとも違う微妙な線の細さ。過剰なまでに精緻なの細部への描き込み(楽器は必ず実在の物が描かれている)と、にも関わらず感じられる抜けるような「空白感」。
 今「To-y」を読むと、精密に描き込まれた新宿や渋谷、或いは武道館前といった街の風景がとても懐かしいものに見えてくる。それは上篠の絵の「空白感」が、失われてしまった街並みと時代へのノスタルジーを掻き立てるからだろう。80年代という、何者とも違う時代の空気がそのまま二次元の世界に固定されたような上篠の画風が心地良く感じることが出来るのはおそらく、80年代を自分の時代としてリアルタイムで通過してきた者だけに与えられ得る特権だ。大友克洋、江口寿史等にも言えるこのような画風はしかし、90年代になるとフォロワーがいなくなってしまったように思う。そのせいかどうか、最近の上篠の活動はあまり盛んではない。連載はヤングサンデーの「赤X黒」以来ない筈だし、単発でもほとんど何も描いておらず、すっかり「寡作の天才漫画家」となってしまった(うーん、岡村ちゃんと同じか?)。
 最近の情報によると、12月に出る「コミックCUE」という本にあのとジョイントを組んで何か描くらしいが、なにせあの江口寿史とあの上篠淳士だから、締め切りまでに描き上がるのかどうか、発売されるまでは予断を許さない状況だ。

がんばれ、上篠!岡村ちゃんだってアルバム出したんだ!!

P.S.
余談なんだけど、「ペニシリン」て名前聞くと「To-y」に出てきた「ペニシリン・ショック」って名前のバンドの方を先に思い出しちゃうのは、ただ単に歳のせいかな?

teのコメント
 今回私としては何もコメントできないなぁ、だって「To-y」を知らないから。「買え!」って言われても今はそんな余裕ないし(笑)。過去に買ったことのある漫画といえば「炎の巨人」「はだしのゲン」「あさきゆめみし」くらいしか思い浮かばない。それより次回以降が心配だ(笑)。

次回予告
 書くことが何も思いつかないのでカット。
9本目にしてついにネタ切れか?
どうした、浜谷!
次回もきっと、サービス、サービス。


其の九:ヨーヨーとコンピューター

やあ、ベイビー達!長いこと待たせたね!今年に入って初めての「能書き」の更新だよ!
#久しぶりなので文体を忘れているらしい・・・(^^;

というような冗談は抜きにして、去年の末から私がハマっているもの、それは「ハイパーヨーヨー」です。
知らない人のために簡単な解説をしましょう。
去年の夏頃から、子供向け漫画雑誌「コロコロコミック」誌上で米国Duncan社とYOMEGA社が製造しBANDAIが国内で販売している「ハイパーヨーヨー」が取り上げられるようになり、小学生の間であっと言う間にヨーヨーブームに火がつきました。ヨーヨーブームと言えば、私が小学生の頃コカコーラのヨーヨーが大ブームとなり、近所のスーパーにヨーヨー名人がやってきたのを見に行った記憶があります。
ハイパーヨーヨーは当時のヨーヨーと比べてデザイン的にもメカ的にも進歩の跡が見られます。
特にYOMEGA社のヨーヨーはナイロンベアリングや遠心クラッチ機構といったメカニズムを搭載した、まさにハイパーの名にふさわしい製品で、値段もそのぶん2000円〜5000円とオモチャとは言えないようなシロモノです。
ハイパーヨーヨーで遊ぶ小学生を見ながら私は「ふん、私がお前等の歳の頃にだってヨーヨーブームがあってなぁ、犬の散歩くらい軽くできたんだからな」と、わけの分からない自尊心を燃やしていました。
そして去年の12月27日、秋葉原でYOMEGAのHyperBrainというヨーヨーを購入し、私もスピナー(ヨーヨーをやる人のことをこう言います)の仲間入りをしました。
実はHyperBrainを買う前に昔ながらのヨーヨーを買ったのですが、20年近くのブランクは大きかったのか、スリープ(ヨーヨーを下で静止させる技)すらできませんでした。ところがHyperBrainに持ち変えると、スリープは一発で決まり、犬の散歩(今は「ウォーク・ザ・ドッグ」と呼ぶらしい)も小一時間ほど練習すればできるようになったのです。
う〜ん、ハイパーヨーヨーは本当にハイパーだった!
調子に乗った私は、翌日がライブであるにも関わらず夜遅くまで「ブランコ」を練習し、しかもライブ本番でお客様に向かってヨーヨーの技を披露してしまいました。(^^;

さて、あれからもう二ヶ月ほど過ぎ、私のヨーヨーの腕前も(自分で言うのも何だが)結構上達しました。
ハイパーヨーヨーには「オフィシャルトリック」と呼ばれる技が30種類あり、難易度が設定されています。その「オフィシャルトリック」の基本レベルの10種類の技は大体できるようになりました。
玩具店などが主催する認定会に参加すると認定証がもらえるのですが、そんなのに行っても周りは子供だらけで恥ずかしい思いをしそうなので自制してます。(苦笑
まあそれはともかく、ヨーヨーを練習している過程で、どうしても上手くできない技というのがあったりします。
「うーん、何度やっても上手くいかないなぁ・・・」と思っていると、ある日突然、偶然にも一回だけ成功するようになります。するとそれから急に、今までできなかった技ができるようになる!
何回やってもできなかった技ができるようになるその瞬間に私は「あぁ、これがヨーヨーをやる喜びなんだなぁ」と感激したりします。
平たく言うと「コツをつかんだ」とか「壁を突破した」という表現にあたるのでしょうが、この感覚を私は「ブレイクスルー」と名付けました。

で、よくよく考えてみるとこのブレイクスルーはなにもヨーヨーに限った話ではありませんでした。
今までにこれと似たブレイクスルーを感じたのは楽器を練習しているときです。
ギターを弾いていて、難しいアルペジオのフレーズが突然弾けるようになったことが以前ありました。ピッキングのタイミングが上手くいかずつっかえていたのが、何かの拍子で一回だけ上手く弾けたのです。
そうなると今度は上手くいったときの感触を思い出しながら弾くようにします。
はじめのうちはミスしますが何回か繰り返すと必ず上手くいくようになり、最後にはつっかえずに弾くことができるようになります。
楽器を練習することの醍醐味はこの「弾けるようになる」瞬間にあるんですね。
ギター、キーボード、ベース、マンドリン、最近はティンホイッスルにも手を出している私ですが、全てはこのブレイクスルーの喜びを味わいたいが為なのかもしれません。

ところでMacを使うようになってかれこれ2年近くになりますが、今までにブレイクスルーを感じたことはないような気がします。
確かにスピードの速いマシンに替えたときに感激したり、ComNIFで自動巡回ができたときに感激したりはしましたが、これはどうもブレイクスルーとは別の種類の感激のような気がします。
自分でプログラムを書く作業などすればブレイクスルーを感じることもあるのでしょうが、一般的なアプリケーションを使っている限りにおいては、どんな作業ができても大して感激はしません。
例えばPhotoshopでバナーを作るとき、それなりに苦労はしましたが、私が明確な意図を持って作業をすればPhotoshopはそれに応えて仕事をしてくれます。
Photoshopには「使い方を学ぶ」過程はあっても、ギターやヨーヨーのように「上手く扱えるようになる」過程というのはありません。(TIPSというものもあるけど、それも違うと思う)
たぶんコンピューターの目的の一部が、こういった「技巧」が必要な作業を簡単に実現させることだからではないでしょうか。
ヨーヨーの技が「できる・できない」の間には連続性はありません。つまりは1or0です。
この間を突き抜けることがブレイクスルーの快感なわけです。
しかし元々が1or0のコンピューターの世界では、ブレイクスルーは当たり前のことなので快感でも何でもない。コンピューターを使う上でブレイクスルーがないのは全くもって当然のことなんです。
どっちが楽しいかというのは比較する尺度が違うので何とも言えませんが。
私にとってはヨーヨーはヨーヨーで、MacはMacでどちらも楽しいものとして矛盾無く共存しています。

しかし世の中は妙なもので、コンピューターのたかだかOSを扱えるようになるだけでブレイクスルーだと勘違いしている人がたくさんいて、扱えるようになるための本がバカ売れしているんですね〜。(もちろんアノOSのことを言ってるんですけど・・・)
それはちょっと違うぞ、と私は声を大にして言いたいです。

そんなわけで皆さんも、そんなことしてる暇があったらヨーヨーでもしようぜ!というのが今回の主旨でした。(笑

teのコメント
 なるほど、浜ちゃんらしい内容だな。ブレイクスルーと聞いてB'zを思い出してしまった。ライブの前日に気分転換でヨーヨーやるのはいいけど、ヨーヨーばっかりやってたらいかんヨ〜。日比谷のステージでもヨーヨーやってくれヨ〜!(自分で書いていて情けない、、、)

次回予告
???



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