― アパート ―

 サラリーマンになって数年間暮らしていた会社の寮を出た私は、結局学生時代に下宿していた町の電車の駅の反対側に落ち着いた。

 二階建て六畳一間に台所とトイレ。
 オーソドックスな安アパートである。

 風呂は踏切を越えてすぐのところに銭湯があったし、アパートの前は赤ちょうちん、隣はコインランドリー。学生の多い場所だったので他にも小規模ながら色々な店が近所に揃っていて、とても暮らしやすい町だった。



 私の部屋は二階の奥から二番目。毎朝新聞配達が階段を駆け上がってくるたびにグラグラと揺れていた。

 アパートには割と広い庭があって、私はその庭の右端・桜の木の下に車を止めていた。
 この桜には毎年毛虫が発生し、真下に停めている私の車は毛虫のフンだらけになってしまう。
 一度雨の日に、車で人通りの多い時間帯の駅前ロータリーを緩々と通っていたら、前から来るおばさんが顔をゆがめて大げさに私の車を避けるのである。
 確かに最近洗ってないけどそこまでしなくても、… 失礼だな〜 と思ったのだが、用が済んでアパートに戻って、ふと自分の車をながめてみたら、車にひっついていた大量の糞が雨でふやけてものすごい状態になっていた。
  … やはりたまには洗車しないと世間に迷惑をかけてしまうのですネ!


 冬、雪が降り、翌日積もった雪が屋根から溶け落ちていると、このアパートのどこかで突然周囲一帯に響き渡るような大音響のベルが鳴り始める!
 管理をしていた不動産屋にあわてて電話して尋ねると、漏電警報のアラームだそうで、それ以後雪が積もると、解けきるまでアラームのブレーカーを切っておくのは私の担当になってしまった。(漏電してるから鳴ってたんじゃないの?)


 このアパートの一階には、リッター数キロという燃費の悪さをも自慢していたアメ車乗りの鳶のお兄さんがいた。


 二階の一号室には、その振動が好きで、という単気筒マニアのお兄さんがアパートの隅に二台のバイクを置いていた。

 二階五号室(私の奥の部屋)の女性は、アパート前の赤ちょうちんのおばちゃんの話では、どこかのスーパーの社長のお妾さんだとの事だった。


 二階二号室のおじさんはボヤ騒ぎをおこし、消防車が集まる大騒ぎとなった。
 その時私はというと、部屋のドアを激しく叩く音に目を覚まして朦朧としたままドアを開けると銀色のかぶり物の人にいきなりこのアパートの住所は?と聞かれてびっくりした。いまいち目が覚めていなかったのである。
 モゴモゴと答えながら、横を見ると、銀色の「消防服」の二人が、まさに台所の窓を破って突入するところであった!
 第一発見者は向かいの赤ちょうちんのおばちゃんで、「窓越しに赤い火が見えたので最初にお兄ちゃん(私のことです)の部屋の戸をたたいたんだけど、起きやしないんだもの!」と、翌日夕御飯を食べに行ったらブツブツと言われてしまった…。


 ある日、残業で遅くなって夕食を済ませてアパートに戻って来ると奥の部屋の前の通路に家具が出してあったので引っ越しかと思っていたら、葬式の準備のためであった。
 訪ねてきた旦那さんが病死している彼女を発見して、という経緯は翌日赤ちょうちんで初めて聞かされたのである。
 この時も赤ちょうちんのおばちゃんに「あんた、隣の人が死んでるのに気がつかんかね?!」と呆れられたが、音がすれば気がつくが、音がしないことには気がつかないものなのだ。



 住みやすいアパートだったのだが、家賃が安かったせいか、人が入れ替わるたびに年齢が若くなり、やがて隣室の学生が夜明けまで友人としゃべっている声が気になって、頃合いかな、と引っ越すことにした。



 何かと思い出深い、話のネタの尽きない数年間であった。


2009.07.25. ・・・・トップページへ