------  旅・幸運閣  ------


 私は国内の小旅行が好きで、その場合は大抵ユースホステルを利用していた。
 ユースホステルは、私が利用していた頃がそのブームのピークだったのかも知れず、現在はユースの数・利用者共当時の半分以下と聞いている。
 それ程衰退してしまった原因は、ユースホステルという組織の経営に対する姿勢もあったのかも知れないし、それを必要としていた人々の変化のせいかもしれない。
 メリットの一つであった「低料金」ばかりが目立ってしまって一般には「安宿」というイメージが先行して、それがマイナスイメージになったかも知れない。
 しかし、私にとっては、「低料金」も確かな魅力であったし、それ以外にも、ユースホステルという一つの組織なのに非常に個性的な宿に出会える、とても面白い組織なのだ。
 個性的なのは、宿の中身であったり、その立地であったりする。

 私がお気に入りだったユースに山梨の「ユースホステル幸運閣」があった。
 ここは、色々な面でとても個性的で魅力的な(私には?)ユースホステルだったのだ。
  (※残念ながらここは営業を停止し、現存していません。)
  (※この記事は当時の記憶に基づいて書きましたので、現在とは若干様子の違うところもあると思いますが、ご容赦を。)



昔々のユースホステルハンドブック
(ユースホステルの場所や概要、連絡先等の一覧が掲載されている)




 私がこの宿を初めて利用したのは、昭和46年11月21日。
 清里から男山に登り、「信州峠」という名前に惹かれて東京に戻る途中に一日がかりで歩いて峠を越える、という回り道の終点としての1泊であった。


 当時、東京から直接ここに行くには、中央線韮崎駅下車、増富鉱泉行バスに乗り約1時間で「塩川」下車、そして、ここからが問題で、「徒歩2時間」なのである! (※「塩川」は、現在ダムに沈んだようです。)
 瑞牆山の登山口まで歩いて20分かからないくらいの絶好の場所にあるのだが、その前に車道を2時間歩かないとその宿に着かない!
 
 歩くのが好きで時間に余裕があれば、ひたすら緩い上り傾斜が続くこの道は、車もほとんど通らず、途中数個の集落を通り過ぎ、今でも昔ながらの日本の風景を楽しむことのできるすてきな道である。
 が、普通の人は、「バス停から歩いて2時間」と言われると、ちょっと考えるのではないか?

 バスを降りて約2時間歩くと最奥の集落・黒森に着き、道は二本に分かれる。
 左は「信州峠」を越え信濃川上に向かう。
 右が瑞牆山登山口へ続く道でその途中に幸運閣があり、ここから先に人家はない。


 幸運閣にたどりつき、宿泊手続きを終え、二階の部屋に入り、荷物を置いて、ほっとして一服していると気が付く事がある。
 静かなのである。
 周りに人家もなく、めったに車も通らないので、近くの川の水音しか聞こえない。


 さて、ちょっと散歩等をして、夕食時になっても、やっぱり静かなのである。
 なぜかというと、「歩いて2時間」のおかげで … 客が来ない。

 私はここに20泊近くお世話になったのだが、泊っていた時はほとんど私一人だった。
 あまりの静けさに、一度宿泊客数を尋ねたことがあるのだが、「年間300人くらいですかね〜。」という驚くべきのんびりした答えをもらった!
 夏に比較的大勢のお客が来るので、結局他のシーズンは客は無いも同然、とのことだった。
 おかげさまで、大体いつも私一人の貸し切り状態であった。


 ここは、別の事業体が経営をしているので、管理人さんは雇われ管理人という事で給料をもらっていたようだ。
 そうでもなかったら、どう考えてもとても暮らしていけないだろう。


2015.01.00.    ................トップページへ


 さてその管理人さんである。

 最初にお訪ねした時の管理人さんは、比較的若いご夫婦で子供は無く猫を飼っていた。
 東京の大学を出た後、どういう道を通ったのか分からないが、ここにたどり着いたようだ。
 ご主人はごく普通の(に、見える)方だったが、食堂にはダイヤトーンP610を平面バッフルに取り付けたものがおいてあり、世間話の中にもそれなりの主義を持つ方であることは分かっていた。

 奥さんも余りしゃべらない方だったが、別方面でとても傑出していた。
 この宿の周辺は家は無く、というよりほとんど山小屋みたいな立地だったので、ちょっとした買い物でも、下の黒森部落まで出掛けなくてはならなかった。(行っても、小さな雑貨屋さんが一軒あっただけだけど。)
 速達配達区域外で、新聞も黒森までしか配達してもらえず、奥さんが一週間分をまとめて取りに行っていた。
 その時のスタイルである。
 黒森は鍬を担いだじっちゃんやら籠を背負ったばっちゃんやらしかいない。
 そこに行く奥さんは、黒のマキシコートに濃いめの化粧で、寒い時には黒いマフラーをなびかせて、浅川マキみたいな感じで、颯爽と … 山道を行く!
 別に悪くはないのだけれど、とても周りから浮いて目立っていて、面白かった。(奥さん、ごめんなさい!)
 
 いつも客は私一人だったので、寒いときは管理人さんの自室のコタツに招かれ、厚かましくもお茶やお菓子をご馳走になって猫と一緒にゴロゴロしていたのだ。
 「ネコが、ネズミを捕ると自慢しにくわえて見せに来るからね!」と注意された。

 その後、少しご無沙汰の後お尋ねしたら、お二人は熱海の旅館に移った(?)と、新しい管理人となっていた黒森の近所の農家の方が教えてくれた。


 この「近所のご夫婦」も「こんな事よりお蚕さんをやってたほうがよっぽど儲かる」とこぼしながらも人の善い親切な方で、ろくに予約もせずに飛び込む私はずいぶんとお世話になったのだ。


 そしてまた、東京の田園調布でスナックをやっていたというご夫婦に変わり、その後の、私が知っている最後の管理人さんは甲府の方であった。


 お名前を聞いた時、もしやと思ってお尋ねしたら本当にそうだったのだが、生きているうちに神社に奉られた自由民権運動の闘士を生んだ家、また坂本竜馬の許婚としての立場を貫いた桶町千葉道場の娘・さなの晩年を世話した甲府の名家の方であった。
 これもまたどういう経緯でこの山中の宿にこられたのかは聞き洩らした。
 一度、たまたま甲府の一族(?)の方々がこの山中の宿に集まっている所へ飛び込んでしまい、ついでに御馳走になったこともあるのだが、その時家にはまだ鎧等が残っているなんてお話を伺った事はあるのだが。


 余談だが、後年、旅行好きの友達と話していたら、ここは一部の人々には「幻のユースホステル」として有名だったとの事。
 彼は、今度みんなに会ったら「あの「幻のユース」の常連がいたぞ!」と自慢してやろう、と帰って行った。


 結局、このユースには10年以上お世話になったのだが、いつの間にか消えてしまった。
 採算なんて元々合わなかったはずだし経営母体は今でも健在なので、きっと管理人を引き継ぐ人が見つからなかったのだろう。
 なにしろ、山中のほとんど人の来ない宿である。
 近くに人家はなく、人通りはもちろん通り過ぎる車すらめったに無い。
 世間から離れた日々修行の場、みたいなものだから、よほど達観した人でなければ続くまい … 。
 
 もし営業を続けていてくれたら、今でも充分家族で滞在できる環境だったのだが、残念である。





古〜い写真。
黒森から望む瑞牆山

モノクロなのはこのフィルム、TRY-Xを使いたかったからで
カラーフィルムが無い時代だった訳じゃないですよ!




 どこか、あまり遠くない所に、ろくに客が来なくて、静かで、うまい具合に不便で、採算を度外視した格安の宿、 なんて  … 無いか … 。








2015.01.12.    ................トップページへ