以前絵日記に書いたが、昨年(2013)秋、法事のため久しぶりに宮崎の実家に帰ってきた時の事である。
三連休初日の羽田空港はなかなか混み合っていて、展望デッキで遊ぶ時間くらいあるように早めに家を出たつもりだったのだが、手荷物を預ける長い列に並んでいるうちにそんな余裕は吹き飛んでしまったのだ。
宮崎空港に着いてみると、… いつもより混んではいるが、まあまあ、程よい賑わいであった。
… めったに動くものが見えない … のどか … 。
宮崎空港については、ちょっとした思い出がある。
もう何年前の事か、帰省していた私は東京に戻るため宮崎空港行の特急に乗ろうとJRの駅に行くと、人身事故で上下線とも止まっていた事があった。
宮崎空港がそんなに混んでいるはずはないし30分も時間があれば充分なんて考えて、あまり余裕をとっていなかった私は、駅で少し待たされただけで時間的には「アウト!」になってしまったのだ。
事故では仕方がないし、遅い便にすれば一人分の空席くらいどうにかなるだろうとあきらめて、やってきた列車に乗り込んだ。
そうしたら、車内で車掌さんが「空港で飛行機に乗る予定の方は?」と手帳を開いてやってきたのだ。
いちいち、みんなの乗る予定だった便を書き留めている、 … そして少し後、「○○便(私の予定していた便)に乗られる方は、飛行機が離陸を遅らせて待っているので、空港に着いたら大急ぎで手続きをするように!」とのアナウンスがきた!
空港駅に着く前にすでに離陸予定時刻は過ぎていたので、「ほんとかな?!」と思いつつカウンターに行ったら「お急ぎください!」って、本当に待っててくれたのだ!
おそらく、飛行機利用者のかなりの人数が私の乗っていた特急にいたのだろうし、空港の離着陸機がまばらで間隔が空いているということもあったのだろうと思うのだが、なによりJR九州と宮崎空港・航空会社の連携に感謝!
遅れた列車を飛行機が待っていてくれるなんて思いもよらないことだった!!
さて、そんな宮崎空港から、日豊本線に乗り換えて日向市に着いた。
夕焼けの美しい日向市に、である。
そして、法事が終わってから、義兄が私や姉が子供のころに住んでいた山間の村に、車で連れて行ってくれたのだ。
私が、小学一年生だった一年間だけかよった小学校や、その頃住んでいた家は残っているだろうか … 。
2014.10.09. ................トップページへ
正門横の木陰にありました。
植えた木が大きく育って、このプレートを覆い隠しています。
… 閉校記念、なんて寂しい記念なんだろ … 。
小八重(こばえ)小学校は2008年に廃校、の表示があった。
… 最近まで頑張っていたのだね!
私の知っている名前は宮崎県西諸県郡西郷村小八重小学校(旧呼称です。2006年に西郷・南郷・北郷の3つの村が合併し美郷町となった)である。
この小学校の沿革を彫りこんだ立派な石碑もあって、それによると別の場所ながら開校したのは1894年! この地に1947年移転との事。
そんなに歴史のある学校とは全く知らなかった。
100年以上の間にはたくさんの子供が入学し卒業していっただろうが、その流れもすでに止まり、この風景もいつか消えてしまうのだろう。
子育て日記の158項に書いたように、入学前の思い出の方が鮮やかな学校。
もう少し早く来ていれば、子供たちのいる風景を見ることができたのか !
でも … 幸いなことに建物はそのまま残っていた。
私の幼い頃、半世紀前の記憶のまま残っていてくれた古〜い校舎。
正門から見ると左側が教室棟。
建物の向こう側が運動場である。
右側の職員室の建物が、私の記憶とは90度向きが違っていた!
私が引っ越してから数十年間建て替えられることもなかったのだろうか、幼いころの私の記憶のまま、白い校舎の色までそのまま、職員室棟と渡り廊下で結ばれた教室棟、そして思っていたより狭い、ちょっとした駐車場くらいしかない運動場。
こんな広さでちゃんと運動会もやっていたんだな 〜 。
今はダム工事(どこに作ってる?)の建設会社が事務所として使っているようだが、外観は全くそのまま、「理科室」「音楽室」なんて札もそのまま掛っていた。
訪ねたのが休日だったので建物は閉まっていて、中を見せてもらえなかったのがちょっと残念。
私は自分の席がどのあたりだったか覚えているし、算数の授業で先生が「半分」という言葉の意味を皆に教えた後に、「では、半分をまた二つに分けたら、何というでしょう?」と質問をしたら、教室の反対側前のほうに座っていた女の子が「ハイ!」と手を挙げて「半分の半分!」と答えたのを見て「スゲー!」と思った事を覚えているのだ。
母と姉が私の幼い頃のあれこれをしまっておいてくれました。
田舎で最近荷物を整理した時に、私の分を送ってくれたのです。
通知表以外にも、絵やら写真やらたくさんあります。
一学年○組の○が書かれていないのは一学年1クラスだったので、
特に名前を付けていなかったのだと思います。
三学期の保護者印の欄に印がないということは、
私は学年最終日を待たずに引っ越したんですね。
教室前の花壇には野菜が植えてある!
きっと事務所にマメな方がおられるのだろう。
さて、次は住んでいた家捜しである。
どんなかな?
2014.11.01. ................トップページへ
------ ふるさと・3 ------
私は子供の時の記憶が比較的正確に残っていると思っていたのだが、距離感が全く違うという事を思い知らされた。
私が住んでいた家は、小学校の下を流れる川の対岸だったので、一旦幹線道路まで戻り、川の対岸を学校への道と平行にさかのぼる。(私がいた頃は、学校の下に吊り橋があったのだが。)
その道をさかのぼり始めてすぐに、川と崖の間に少し開けた場所があって、小さな小屋があったけれどそこが我家のあった場所とは思えずに、兄にもう少し進んでもらった。
幹線道路の分岐からあまりに近く、 私の記憶では30分くらいは歩いていたはずなのに、数百メートルくらいしかなかったし、 また、私の家を含めて3世帯が住んでいたはずなのにそこは車が数台どうにか止められるくらいの平地しかなかったのだ。
しかし、少し進んだだけで、学校の対岸に来てしまった…。
ここまでの道は、川と崖に挟まれた車一台がやっと通れるくらいの道である。
ということは、やはり先ほどの狭い広場が我家の跡ということか!
曲がり角の、ほんの少し道の広くなった所でやっとU-ターンして先の場所まで戻り、車から降りた。
「コ」の字形に三軒の家があり、その中庭で三輪車に乗って遊んでいた、と、私は思っていた。
でも、いくら眺めても、この狭い平地に三軒の家があったとは、到底信じられない。
私の覚えていた中庭だけでも、この平地全体より広かったのだ。
昔の生活は質素で狭いことなんか気にしなかったとは思うけれど、以前は人が歩いて通れるだけの幅しかなかった路が車が通れる幅に拡張されていたけれど、それでも、記憶と現実のあまりのギャップの大きさにちょっとショックを受けてしまった!
6歳くらいの子供の世界と大人の世界はこんなにも違うのか … !
対岸(学校の側)から見た、私の家があった(であろう)あたり。
家の下にあったはずの少しばかりの河原は、道路を拡張した時に埋まって無くなってしまったようです。
実家から送ってくれた「あれこれ」の中に当時の写真が入っていました。
(サイズからすると、ブローニーフィルムのベタ焼きです。)
残念ながら住んでいた家が写っているものは有りません。
でも、家のあたりの様子が分かるものがあったのです!
上の左側の写真は住んでいた家の前の道だと思います。
三輪車に乗っているのが私。後ろで支えてくれているのは隣のお兄さん(かな?)
当時の道は自動車なんて想定外の、今で言う「山道」ですね…。
もちろん街灯なんてないので、夜歩くのは命がけでした。
右は、家の下の川で遊ぶ私とお守りの母。
ちょうど家の下に、ほんの小さな河原があって、そこで遊んでいました。