石見銀山〔世界遺産〕〔2011年7月25日〕

私の故郷は山口県。仏縁で帰郷した帰り、前々から訪れたいと思っていた『石見銀山』を妻と訪問する。20077月世界遺産に登録された『石見銀山』529haは1526年に博多の豪商神屋寿禎(かみやじゅてい)によって発見され、尼子経久、大内義隆、毛利元就、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康・・・と当時の権力者の財源として掘り起こされ、最盛期には世界銀の3割を算出したと推定されている。まず、世界遺産センターに立寄り情報を入手して、見学開始。音声カイドレコーダー〔500円〕は好きな時に、聞けて大変有効であった。現物は撮影禁止で紹介出来ませんが戦国時代の貨幣『御取納丁銀』、5倍拡大の銀製レプリカを撮影する。それから、石室山 羅漢寺へ 羅漢寺は観世音寺住職の月海が、銀山の坑夫の安全と供養のため造立を発願したもので、月海和尚が1759年(宝暦9年)に没した後は、田安中納言宗武卿(8代将軍吉宗の次男)が支援を行い、30年近い歳月をかけて1766年(明和3年)に完成したそうです。
石窟は3室あり、中央の石窟には釈迦三尊が、左右の石窟に250体づつ計500体の羅漢が安置されています。羅漢は阿羅漢の略で仏陀の弟子を意味しており、日本では羅漢信仰が盛んだったそうです。「親に会いたければ羅漢寺においで」と言われるように、500体それぞれ顔が異なり、仕草や表情が豊かで、一つ一つ見ていくと知り合いの誰かに似ているとも言われておるそうです。次に、豊栄神社にお参りする。毛利元就を祀った神社で、もとは洞春山長安寺と号す曹洞宗の寺院だそうです。1561年(永禄4年)山吹城内に元就が自分の木像を安置し、翌年に石見銀山を掌握。1571年(元亀2年)に木像を長安寺に移したと伝えられます。関が原の戦いのあと、毛利家は長州に移封され、寺も荒廃したが、1866年(慶応2年)に第2次長州戦争が起こり、長州軍が同年7月に大森に進駐した時のこと。長州軍の隊士たちは長安寺に、自分らの藩祖である毛利元就が祀られているのを見つけて感激し、建物を直したり石灯籠や狛犬などを寄進するなど手を尽くしたそうです。隊士の中には、戦国時代から毛利氏に従った石見の武将、祖式氏の子孫もいました。豊栄神社は1869年(明治2年)、朝廷から豊栄神社の社号を贈られ現在に至りますが、氏子が居ないために再び荒れていました。子供は子孫繁栄の為にも必要です。400年余りに渡り石見銀山の興亡の歴史を見守ってきた由緒ある神社は今、崩壊の危機に瀕していました。〔インターネット資料より抜粋転記〕。


高野山真言宗 石室山 羅漢寺

御取納丁銀

石室山 羅漢寺〔必見です〕

豊栄神社〔毛利元就木像が安置されていた〕

表:福神山間歩 裏:高橋家

表:龍源寺間歩入口〔必見です〕 裏:坑道の様子

【福神山間歩】(ふくじんやままぶ)市道沿いに坑道口が残る福神山間歩は、入口から斜めに掘られ、川の下を横切って仙ノ山方面に延びる特殊な構造の坑道です。
山師個人が経営した「自分山」ですが、一時期、代官所直営の「御直山」となったこともあったそうです。次に、高橋家を訪問。山組頭の遺宅で、茶室を設け、付随する建物では酒造なども行っていたという銀山地区屈指の建造物だそうです。山組頭とは谷ごとに任命された山師の代表で、鉱山を取り締まり、支配層と現場労働者とをとりつなぐ重要な役割を果たしていたそうです。たとえば掘り子に年一回配られる大豆4升、麹2升、塩2升を預かって漬け込み「ご勘弁味噌」として配るのも山組頭の役目だったそうです。名字帯刀が許され、関所の通行も武士に準じた扱いとされるなど優遇されていたそうです。酒造などを行った建物の内部には現在、約270トンの貯水槽が設置されており、町並み保存地区の消火栓(50mごとに51箇所)につながっているそうです。
次に、【龍源寺間歩】(りゅうげんじまぶ)「間歩」とは銀を採掘するための坑道のことだそうです。入場料400円ですが、WAONカードを使えばなんと100円割引きとなります。石見銀山には大小合わせて約600の間歩が存在するとされますが、現在、一般公開されているのはこの龍源寺間歩だけだそうです。江戸時代初期に開発され、永久・大久保・新切・新横相の間歩とともに『五ヵ山』と称される大坑道でした。江戸時代中期には代官所直営の間歩(御直山)として操業されました。龍源寺間歩は全長約600mに及びますが、このうち見学できるのは入り口から157mの地点までのところです。坑道内の壁面には当時のノミの跡がそのまま残っており、当時の採掘の様子がよく伝わってきます。また鉱脈に沿って掘り進んだ20余りの横穴や、垂直に100mも掘られた竪坑を見ることもできます。157mの地点から新たに設けられた観光用の坑道(栃畑谷新坑、全長116m)には『石見銀山絵巻』の電照板が展示してあり、当時の銀山の様子を知ることができました。出口には【佐毘売山神社】(さひめやまじんじゃ)あります。
佐毘売山神社は鉱山の守り神である金山彦命を祀る神社だそうです。永享6年(1434年)頃、室町幕府将軍の命で建立され、当時鉱山を領有していた大内氏をはじめ、尼子氏や毛利氏など戦国大名たちに崇敬保護されていました。今の建物は文政2年(1819年)に再建されたものだそうです。石見銀山最大の神社で、銀山に暮らす人々の心のよりどころとなっていたそうです。今も地元では「山神宮」「山神さん」と呼ばれ親しまれているそうです。100段の石段を上ると、広い境内に、山神社としては最大級の社殿が重厚なたたずまいを見せています。神社周辺には多くの住居跡が棚田のような石垣として残っております。


表:佐琵売山神社
裏:新切間歩 

表:清水寺(せいすいじ) 裏:大師堂

表:羅漢像 裏:本堂天井画
次に真言宗の寺院、清水寺(せいすいじ)にお参りする。推古天皇の命により620年、仙ノ山の頂上(石銀地区)に天智院天池寺として建立され、798年(延暦17年)桓武天皇のころ、清水谷に移って勅願寺とされ、1922年(大正11年)に現在地に再建され、1000年を超える歴史を持っているそうです。吸い込まれるように訪れてお参りしました。境内には羅漢像の石仏があり、写真撮影不可の表示は有りませんでしたので、本堂の天井画も含めて写真を撮りました。清水寺は銀山開発と縁の深い寺院で、石見銀山を発見した神屋寿偵は、沖から陸のかなたに輝く霊光を認め、上陸して清水寺に参拝し、帰り道で銀鉱石を拾ったのが始まりと伝えられています。また大久保石見守配下の山師、安原伝兵衛は清水寺に七日七夜籠り、本尊の十一面観音に祈願して釜屋間歩を発見。その功績により1603年(慶長8年)には徳川家康の謁見を賜り、胴服と扇子、「備中」の名を授けられました。この胴服「辻が花染丁字文道服」は安原備中の孫により清水寺に寄贈されました(現在は京都国立博物館に寄託)。清水寺にはこの他にも数々の文化財が残されているそうです。八十八ヶ所参りをしている関係もあり、興味深く参拝致しました。

【熊谷家】(くまがいけ)熊谷家住宅は、石見銀山とともに繁栄した豪商の暮らしぶりを今に伝える貴重な建造物です(1998年、国の重要文化財に指定)。
4年余りかけた修復工事で江戸後期の建物を復元し、2006年4月から一般公開。家財道具など数百点が展示されているほか、銀などを保管した地下蔵も見学できます。
熊谷家は安芸国高松城城主で毛利氏家臣だった熊谷氏の一族であるといわれています。17世紀には石見銀山で鉱山経営をしていたそうです。18世紀、親族の保有する山師株を熊谷三左衛門が譲り受け、大森の地で商売を始めたのが元と言われています。
その後、掛屋、御用達、郷宿など代官所の御用請負人も勤めるようになり、19世紀には町政全般の総責任者である年寄職を代々世襲しました。鉱山経営だけでなく金融業や酒造業も営む町内で最も有力な商家の一つだったそうです。
駐車場は世界遺産センター、石見銀山公園、大森代官所前それぞれに止めたが無料であった。訪問時は生憎の雨であったが、見学しているうちに晴れてきて人も少なくゆっくり見て歩くことができました。


熊谷家

大森代官所跡

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