雲崗・五台山・平遥・龍門への旅

…剛と艶あるいは儚と常…

 2006年9月6日から9月14日にかけて、中国山西省大同市から南へ下り、太原を経て河南省洛陽まで、時代的には北魏・隋・唐の歴史遺産を訪ねる旅をしてきました。名もない石工たちの残した偉大な芸術遺産に、深い畏敬の念を抱いた旅でもありました。
 雲崗と龍門の石窟がセットになったパッケージのツアーがなかなか見つからず、チベット旅行を実施してくれた旅行社イエイテンに再度お世話を願いました。インド旅行で旧知の仲となった小野ご夫妻との四人旅です。
 訪問先は、大同(雲崗石窟、華厳寺、善化寺、九龍壁)、渾源(懸空寺)、応県(釈迦塔)、五台山(顕通寺、塔院寺、碧山寺、菩薩頂、黛螺頂)、五台山山外(仏光寺、広斉寺、南禅寺)、平遥(古城、喬家大院)、洛陽(龍門石窟、関林、白馬寺、少林寺)。帰途便の関係で上海へ向い、玉仏寺、豫園を訪問しました。
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文明への憧れ

 今回の旅行地は、北魏(AD398〜534、その後年東西に分裂)に関連が深い。鮮卑族拓跋氏の興した王朝である。草原の民だった彼らは武力で漢民族を征服したが、中華文明に強い憧れを抱いていた。北魏王朝は、漢民族との通婚を奨励し、鮮卑語や胡服の使用を禁じた。自らの中国化を図ったのである。
 長城外の民族で、中国全土を支配したのは元と清だけだが、地域的に限れば、漢族以外の王朝は数多い。そのいずれも北魏同様積極的に中国化を図っている。国民に弁髪を強制した清ですら、基本的には中国になりきっている。勿論彼らには独自の文化があり、中国化していく過程で、中華文明を活性化する新たな刺激となっていたことだろう。結果として生まれた多民族文明は、いまでも我々を魅惑する。
 しかし、漢民族からは、群小文明が中華へ中華へと靡くように見えたに違いない。歴史の積み重ねが、不幸にして他の文明に対し、漢民族を鈍感にした。西欧諸国がアジア諸国を植民地化して行ったとき、清王朝は、いずれ彼らも中華文明に染まると楽観していた。朝貢支配に慣れすぎていたことも、感覚を鈍らせた一因だった。
 侵入者たちは、武力も科学も一神教も自己の文明とする異質の民族だった。そして、中国と同様に他文明に対し鈍感だった。植民地主義の残した負の遺産は、すべてこの鈍感さに起因している。
 鈍感な者には、自負はあっても憧れなどない。
 ところで、漢民族とはどういう民族だろう。統計的には中国人口の約九割が漢族である。残りの一割の中に55とも56とも言われる少数民族が存在する。
 北魏王朝崩壊後、隋が再統一するまで小国乱立の時代が続く。その一つ、北周に独孤信という鮮卑族の将軍がいた。三人の娘の内、一人は皇子に、一人は後輩の将軍楊忠の子楊堅に、もう一人は長安の唐国公に嫁がせた。
 楊堅は、北周の静帝(彼にとって孫に当る)から禅譲を受ける形で帝位を奪い、国号を隋(581〜619年)に改める。諡号を文帝という。しかし、その隋は3代で滅びた。
 唐国公に嫁いだ鮮卑族の娘は、李淵を生む。次王朝、唐(618〜907年)を建国したのが、その李淵(高祖)だった。
 この流れを見ると、隋も唐も、鮮卑帝国が国号を変えながら発展して来たように思える。同時に、純粋の漢族は存在するのかどうかも疑わしくなる。純粋の日本民族が存在しないのと同様であろう。
 重要なことは、武力ではなく文明が周囲の民族を中国化して行ったという事実である。果たして、共産政権下の現代中国にそれだけの魅力があるだろうか。
 アメリカは、武力でイラクに侵攻したが、かえって中東での影響力を減じていないだろうか。キリスト教とイスラム教の紛争だけでなく、イスラム内の宗派間抗争まで誘発してしまった。
 アメリカの、多民族国家ならではの文化を、中東の若者たちは嫌ってはいなかった。いま、彼らは、アンチ・アメリカ一色に染まっている。
 各国の指導者が煽動するナショナリズムが、自国民を、他の文明に対し、鈍感にさせてはいないか。
 そこに文明への憧れはない。

仙人の夢、懸空寺

 懸空寺は、山西省渾源、道教の聖地恒山の岩壁に、まるで宙吊りにされたように建っている。道・儒・仏、三教合一の寺院であるが、もともとは道教から出発した寺院ではないかと想像している。
 儒教は、宗教とは言いがたいほど地に足が着いている。釈迦は、教えを説く方便として浄土や地獄について語ったが、哲学的主題について答えようとはしなかった。中国仏教では、これを「無記」と言っているが、これもまた地に足が着いている。
 自然崇拝から生まれた道教は、始祖を老子としている。これは後からの権威づけとみていい。始祖とされたのは、自然に全てを委ねようとする彼の教えが、道教の理念に合致したからだろう。
 日本の修験道が、始祖を役行者としているのに似ている。現在の修験道は仏教の一宗派であるが、もともとは仏教伝来以前から存在した山岳信仰である。道教からの影響も認められる。
 全ての宗教は、人智を超えた自然現象への畏敬と恐怖から生まれている。一神教は、その畏敬の念を、自然の上に神を置くことで克服しようとした。アジアの各宗教とは対極的な概念である。
 とりわけ、道教は自然を超越しようなどとは考えなかった。老子の理想は、自然と調和し、自然そのものになりきることだった。
 自然と完全に合一出来たとしよう。そこでは、全ての束縛から解き放たれた仙人という存在もあり得ようし、不老不死の境地にも達し得る。荘子のように、蝶の夢を見て、自分が蝶を夢見たのか、蝶が自分を夢見ているのか、と考えを巡らすのも楽しいだろう。
 考える人、老子や荘子はそれでよい。しかし、平凡な我々一般大衆は、そうは行かない。現世利益を求める。権力者ともなれば、その願望はいっそう強く、始皇帝のように、不老不死の秘薬を求めよと徐福に命令することにもなる。
 懸空寺は、その庶民願望が形になって現れている。寺院に参拝した信者たちは、さながら仙人の境地を味わったに違いない。現在、寺院の入口付近は、基礎を煉瓦積みで強化してあるが、かつては全て木柱で支えられていた。その危うさも、自然崇拝の念を一層強めたことだろう。
 構想のよく似た寺院が鳥取県にある。三徳山三仏寺投入堂である。規模を比較は出来ないが、懸空寺同様断崖の窪みに貼りつくように建っている。伝承は、役行者が法力で投入れたと伝える。
 日本人は、外国の文明を日本化しつつ上手く取り入れてきた。箱庭化と言ってもいい。それはものを卑小化するのではなく、極小化することで軽さと無常観を生み出した。投入堂には、そのような飛翔感と儚々たる美がある。
 空中に浮かんだ寺院こそ、仙人たちが夢見たものだった。懸空寺も三仏寺投入堂も、その夢を叶えようとする試みだったに違いない。

三武一宗の法難と文化大革命

 日本は、明治初年(慶応4年)、神道を国教とした。明治の為政者たちは、西欧先進諸国に追いつくことを第一目標とした。手本としたすべての国々には、強力な宗教のバックボーンがあった。一見、明治維新は天皇復権だったし、天皇制の基盤は神道に拠っている。日本の国教とは何かと考えた為政者たちにとって、神道の国教化はごく自然な流れだったろう。
 しかし、その動きは神道復古派に利用され、神仏分離・廃仏毀釈が強行された。聖徳太子をはじめ仏教に帰依した皇室は多い。古人は、本地垂迹説を編み出し、仏教を巧みに日本化してきた。神仏習合の否定は、伝統を踏みにじる暴挙だった。以来、分離された神社と仏閣は再結合することなく、仏教は殆ど葬式宗教と化した。
 中国には、三武一宗の法難と言われる仏教弾圧がある。
 華北を統一した北魏の太武帝(408〜452年、在位423〜452年)を皮切りに、北周の武帝(543〜578年、在位560〜578年)、唐の武宗(814〜846年、在位840〜846年)と続く。いずれも、道教への復古が主たる要因である。後周の世宗(921〜959年、在位954〜959年)による法難は、国の財政事情に依るものと言われるが、四帝とも、どちらかと言えば賢帝であるところが悩ましい。
 ともかく、これらの法難を克服して、ほぼ二千年、中国仏教は存続してきた。
 共産政権は宗教を害毒とみなしたが、少なくとも文化大革命までは直接的な迫害を加えていない。末期の毛沢東は、フルシチョフによるスターリン批判に驚愕し、その影響が中国にも及ぶことを怖れた。誰一人、カリスマ的毛沢東に取って代わろうなどとは考えていなかったにも拘わらず、劉小奇やケ小平らの進める経済改革を、彼は批判と受け止め、有害無益な権力闘争を始めてしまった。煽動された若者たちがいまとなっては哀れだが、当時彼らは冷酷な加害者だった。多くの寺院が何らかの被害を蒙っている。三武一宗に比べても、悪質で次元の低い法難だった。
 今回訪問した中でも、応県の釈迦塔内の如来像は無残な姿を晒していたし、五台山山外にある広済寺は完全に寺院としての機能を喪失していた。

円仁、求法の旅

 生真面目な最澄は、自分の学んだ密教が不十分だったと自覚していた。空海は、長安の青龍寺で、恵果から密教を学んで帰った。一番弟子でもあった。最澄は、一年後に帰国した空海から密教経典を借りようとし、婉曲に拒絶された。それ以来、天台密教は真言密教に対し負い目を感じてきたようである。
 円仁(後の慈覚大師)は最澄の直弟子である。彼は比叡全山の輿望を担って入唐した。しかし、天台山への入山を希望する彼の望みは、なぜか叶えられなかった。それだけでなく、請益僧の資格で入唐していた彼は、短期間の滞在しか許されず帰国を命ぜられてしまう。船から逃亡したり、新羅僧と偽り山中に隠れたり、辛苦を嘗めた後ついに文殊菩薩化現の地五台山に入った。その間のことを、彼は「入唐求法巡礼行記」に書き残している。
 五台山での修業を終えた円仁に、長安への入京が許可される。彼は、空海と同じ青龍寺で、義真から密教の奥義を学んだ。宗派に拘泥しない円仁の、学ぶ姿勢の一途さに胸を打たれる。
 なかなか許されなかった日本への帰国が、武宗の仏教弾圧で叶ったのも皮肉だが、彼の真摯な願望と、不屈の精神、名前の通りの人柄が、究極のところで彼を救ったのだろう。45歳で入唐した円仁は、55歳になっていた。
 中国から帰国した円仁は、天台第三世座主まで登りつめる。天台密教は、円仁が空海以上に密教を会得したとして、ようやく真言密教に対する劣等感から解放された。
 71歳で入滅するまで、彼の開創・再興と伝えられる寺院は、鰐淵寺、三仏寺、立石寺、中尊寺、恐山菩提寺等々と数多い。それらはいずれも、巨石のふところや、この世の果てのような地にある。彼が、日本の中に中国的な風光を見出そうとしたように思われて興味深い。
 今回の旅行で、華厳寺、顕通寺など、円仁ゆかりの寺院に行くことができた。

剛と艶あるいは儚と常

 古来、歴史書の多くは男性の手によって書かれてきた。そのせいか、女性の為政者に対する筆は常に厳しい。呂后や西太后等々、決して好意的には描かれていない。エリザベス一世も、残した業績の割には冷たく扱われることが多い。例外はマリア・テレジアかエカテリーナ二世くらいのものだろう。とりわけ、則天武后は中国唯一の女帝だったせいもあって、記録は苛烈を極める。
 曰く…。美貌を見初められて唐の2代皇帝大宗の後宮に入ったのが13歳のとき。大宗存命中に、皇太子(後の高宗)と通じ、将来の地位を保全した。当時、子女のない側室は、皇帝に殉じ出家するのが慣わしだったからである。大宗没後、一旦尼となった彼女は2年後に還俗し、高宗の側室となった。このとき27歳。一男一女を得た彼女は、産褥見舞いに来た正室・王皇后を罠に掛ける。出産したばかりの女児を、皇后に殺されたと訴えたのである。もちろん、殺したのは実の親である彼女だった。
 31歳で皇后に納まった彼女は武后と名乗った。高宗は無能で病弱だった。彼女は、高宗の背後から簾越しに指示を出す「垂簾の政」を行うようになった。
 権力を握った武后は、前皇后をはじめ、反対する者たちを抹殺していった。近親者だけでも70名を越えるといわれる。その中には、自分の長男、次男も含まれる。とくに、前皇后は四肢切断、酒漬けにされたという。
 武后は仏教の力も利用した。高宗の発案として、龍門に自分に似せた巨大な盧舎那仏を開鑿させる。高宗没後(683年)、わが子を皇帝(最初に中宗、すぐ廃位して睿宗)に即位させたが実権は与えなかった。
 薛懐義(愛人を俄僧に仕立てて白馬寺に送り込んだ)ら10人の僧に「大雲経」の偽作を命じ、「武后は弥勒菩薩の生まれ変わりであり、彼女の下で太平の世が訪れる」と喧伝させた。龍門の仏像も「則天」のイメージ作りに役立ったことだろう。
 690年、睿宗を退けて唐朝を廃し新王朝周を樹立、初代皇帝となった。66歳だった。権力志向は強かったが、長期的展望は欠如していたようである。新王朝を樹立しながら後継者のことは一切考えていなかった。
 15年後、唐王朝の復活を図るクーデターが勃発、病床にあった武后は幽閉され退位、間もなく老衰により他界、中宗が復位して唐の国号に戻した。81歳で没するまでの15年間、国内は平穏だったという記述もあるが、「告密制度」による恐怖政治だったとも、老いを忘れて性に溺れ宮中が退廃を極めたとも伝えられ、これまた余りいい話は残っていない。
 武后の時代をさかのぼること約300年、華北は北魏の支配下にあった。
 北魏の基礎を築いた道武帝は仏教を保護奨励した。そのころから雲崗石窟の開鑿が始まっている。明元帝を経て、太武帝(在位423〜452年)のとき、最初の仏教弾圧が始まる。道教への復古が要因だった。太武帝は北魏を磐石たらしめた賢帝であり、仏教徒としてはその点評価が悩ましい。
 弾圧は長く続かず、文成帝の時代には完全復活する。彼は沙門統(仏僧の長官)だった曇曜の提言を入れ、これまでの五帝のための石窟を彫らせる。曇曜五窟と呼ばれるもので、いずれも、北方遊牧民族の、溢れんばかりのエネルギーと覇気に満ちた雄大な造形である。とりわけ20窟の如来坐像の、悠揚迫らぬ存在感、永遠を見つめるような眼差しに圧倒される。
 その後、孝文帝が都を大同から洛陽へ遷す(493年)。彼が採用した三長制(戸籍・税制改革)や均田制は、5胡16国時代に荒廃した国土復興に大いに貢献した。均田制は、日本が律令時代に実施した班田法のお手本となった。先代同様仏教を奨励した彼は、龍門に、雲崗に匹敵するような石窟の造営を推進する。
 文成帝は、雲崗で曇曜五窟を祖先の霊に捧げた。孝文帝の後を継いだ宣武帝は、龍門で賓陽三洞を父母と自分のために開鑿した。それらは、漢化した騎馬民族による壮大な宗教遺産となった。
 孝文帝の意図はやがて則天武后の盧舎那仏につながって行く。美しさだけから言えば、この仏像は世界でも一二を争うだろう。しかし、政治的背景を思うと感嘆は溜息に変わる。この像が彫りだされる以前は、前面に小さな洞窟群が存在していたのではないか、とも思う。巨大な仏像のために、破壊されたであろう数多くの仏像を悼みたい気にもなる。尊顔の唇の歪みまで、コケティッシュに見える。
 それでも、この仏像は美しい。名もない石工たちの残した芸術は、人々の持つ欲望や思惑を超越している。「悪を内包した美」が存在するとすれば、これこそそういうものかもしれない。
 雲崗の石窟には、血なまぐさい闘争を経て華北を統一した鮮卑族の、平和への一途な思いがこもっている。雄渾なたたずまいがある。剛と表現してもいい。一方、龍門の盧舎那仏を表現するには、単純な「美」より、「艶」という言葉の方がふさわしい。
 雲崗と龍門について記述しながら、私の筆がやはり、北魏に甘く、武后に対し辛辣になっていることに気づく。どうしても、男性の目で見てしまっているのだろう。
 「剛」も「艶」も、いま芸術遺産として目の前にある。それすらも、いつかは消滅するときが来る。まして、命の無常さなど比べようがない。時は過ぎて行く。
 釈迦は、飽くことなく常に対する儚(無常)を説いた。人が無常を語れば、虚無や退廃におちいる。なぜ、釈迦はそこに逃げ込まずにすんだのか。彼は、人生は何をしても無駄だ、とは決して言わなかった。
 阿難の伝える釈迦の最後の言葉は、一見矛盾している。「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修業を完成なさい(「ブッダ最後の旅」中村元訳より)」
 彼が45年間説きつづけたのは、無常を悟ること、修業に精励すること、に尽きる。厭世哲学などではない。
 儚と常、そんなことを、とりとめもなく考える旅だった。 

旅の雑感

関羽と楠正成

 中国では、至る所で赤ら顔の関羽にお目にかかる。三国時代、蜀の国の武将関羽は、忠義と豪勇で知られた。終世劉備に忠節を尽くした彼は、出身地山西省商人たちの尊崇の対象となり、転じて信用を重んじる商業の神となった。ホテルやレストランの一隅に、必ずと言っていいほど彼の像が祀られている。
 それだけではない。死後、彼の地位は徐々に上昇し、皇帝と同等に扱われるようになる。三国時代、最も小さく短命だった国の一武将が、ここまで祭り上げられた理由は一つしかない。歴代の王朝にとって理想の部下だったからである。
 戦前の日本では、楠正成がそうだった。河内の一土豪が、軍国主義教育では神になった。神社もある。日本人の心情として、商業の神としなかった点だけが異なる。
 三国時代、魏・呉・蜀は、ときに手を結んだり、裏切ったりしあった。赤壁の戦い(AD208年)では、呉の孫権と劉備が手を結び魏に勝利した。魏の勢いが小休止した隙に、劉備が蜀を建国し漢中王を自称すると、今度は呉と魏が連合した。蜀の最前線襄陽の太守だった関羽は、魏の守る襄樊城を攻撃中、背後を呉軍に突かれて敗走、子の関平ともども呉軍に捕らえられ斬られてしまう(AD219年)。魏の曹操は、関羽の首を荊州から洛陽まで運ばせた。関羽に助けられたことのある曹操は、彼に対し怖れと友情がないまぜになった複雑な感情を抱いていたらしい。
 洛陽には、その首塚を祀る関林がある。中国で、墓を現す言葉は上から、廟、林、塚、墳の順であるが、林は、孔子と関羽にしか用いられていない。この二人には、ときに廟がつくこともある。各地にある文武廟では、文聖が孔子、武聖が関羽である。
 孔子は、その残した業績からみて神格化されても不思議はない。関羽の神格化には、政治的な意図が隠されている。戦後の日本では、軍国主義教育の反動もあって、楠正成は忘れられた存在となった。学校の試験にも出ない。関羽は、共産政権下でも利用価値があると見える。その人気は衰えを知らない。
 関林の園内の、至るところに紅いリボンが結び付けられている。それぞれに名前が書かれている。子の成長を願う親の思いがこもっている。
 陵の石碑には、「忠義神武霊佑仁勇威 顕関聖大帝林」と彫られていた。

ヤオトン(窰洞)

 浅学にして、映画「黄色い大地」から得た知識しかなかったので、ヤオトンとは崖地に作られる横穴式の住居だとばかり思っていた。
 今回、現地ガイドの案内で洛陽郊外にある、地面から掘り下げて作られた沈下式ヤオトンを見学した。
 住んでいたのは96歳のおばあちゃんである。息子夫婦は近くにある普通の住居に住んでいて、交代制でおばあちゃんの面倒を見ている。一度は、おばあちゃんも息子たちと一緒に住んだらしい。環境の変化に耐え切れず病気になったので、またヤオトンに戻ったとのことだった。
 ちょっとしたお土産物も並べており、観光客の訪問が小遣い稼ぎになっている。
 ガイドの説明では、沈下式のヤオトンは、金持ちしか作ることが出来なかったとのこと。たしかに、中庭まで掘り下げただけでは済まない。下水をきちんと外部に流すだけの深さを、更に掘り下げる必要がある。もちろん、その行き先も確保しておかねばならない。
 冷暖房不要で、住まいとしては快適だろうが、周囲が崩壊しつつあり、維持が大変だと思われる。
 息子夫婦は、ヤオトンに住む気はなさそうだった。おばあちゃんが亡くなると、ここは廃墟になるのだろう。沈下式のヤオトンは、次第に減少していると説明を受けた。
 おばあちゃんの足は纏足だった。繰り返してはならない歴史の一こまを見たような気がした。イスラム教で、宗教上の制約とはいえ、女性にブルカを強制するのも似たようなことではないかと思った。ブルカなど、コーランにも書かれていない。女性保護の美名の下、男性が作り出した宗教慣習に過ぎない。
 いまが一番幸せですよ、と言わんばかりのおばあちゃんの笑顔が救いだった。

俄か信者

 一度は、宗教を害毒と見なした共産政権も、人心を収攬するには当らず触らずが賢明と悟ったのだろう。宗教が容認されてきている。文化大革命の反省もあって、国家予算の中から修復費も出されている。
 現世利益に敏感な国民性から見て、当然のことだが、俄か信者が急激に増えている。そのあたりが、日本の宗教風土に似ている。むしろ、それ以上かも知れない。大きな線香をかざして、四方に礼拝する。後に長い列が出来ていても、無頓着に、ご本尊の正面で三拝九拝する。
 宗教は、これ位おおらかな方が平和だと、アジア的・多神教的視点で見てしまう。おそらく、一神教の信者には許せない行為に違いない。

2006年10月21日、記。


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