2008年2月24日〜3月4日にかけてエジプトを旅してきました。アスワンからルクソールまではナイル川を船で下り、博物館も3ヶ所(カイロ、アレキサンドリア、ルクソール)、ピラミッドの内部、王家の谷の墳墓なども見学できました。
初日こそカイロを観光しましたが、その夜、列車でアスワンに向かいました。アスワンからアブシンベルまでは、コンボイを組んだバス移動というおもしろい経験をしました。それからあとはナイル川にそって旅をつづけ、最後の観光地が地中海に面したアレキサンドリアでした。
この旅行記では、エジプトといえば定番のクフ王や、ラメセス2世、クレオパトラなどはほとんど登場しません。もちろん、ピラミッドやアブ・シンベル神殿の写真はでてきますが、旅行記の主役ではありません。
突然変異のように出現した一神教と、枝分かれした二つの一神教が争った十字軍について、思いつくまま書き連ねました。
エジプトでは、生と死が画然とその領域を主張している。ナイルの恵みを受けた緑地は、一条の生の帯である。その外には広漠たる砂漠が広がる。ここは人の生きていけない世界だと告げている。死が目前に存在する。
この地にはオシリスとイシスの神話がある。オシリスはエジプトを治める神で、セトはその弟神だった。農耕を教えたと伝わる。オシリスの権威と名声を妬んだセトは、仲間と図ってオシリスを木製の箱に閉じ込めナイルに沈めてしまう。オシリスの妹で妻でもあったイシスは、妹のネフティスの助けをかりて遺体を見つけ出し沼地の叢に隠す。気づいたセトは、オシリスの体をばらばらに切断してエジプト中にばらまいてしまう。それでもイシスはひるまない。丹念に遺体のかけらをを拾い集め、つなぎ合わせて交わり息子ホルスを得る。しかし、イシスの呪力をもってしても、オシリスを現世に蘇らせることはできない。彼は冥界に下り、死後の世界の王となる。ホルスはセトと戦い、父親の仇を討つ。
セトは混沌と混乱の神で、「偉大な強さ」という冠詞をもっている。王の強さはセトによって与えられると信じられていた。トリック・スター(道徳秩序を乱す一方で文化の活性化をもたらす存在)といえるだろう。ウガリット(シリア)神話バアルと同一視されることもあり、外来の神だったのかもしれない。ジャッカルの頭を持つ神である。ロバやツチブタとも結び付けられている。
国家統一以前、ホルスを尊崇する北部勢力とセトを奉じる南部が争いあっていた。その歴史が神話化したものだろう。ホルスが王権の守護神として全エジプトで崇拝されるに至って、仇討ち話が生まれたと考えられる。
オシリスは羽飾りのついた冠をかぶったミイラ、イシスは牛の角と日輪を頂く女性として描かれる。オシリスの死と再生は、穀物の種と収穫の寓話である。イシスは死者の保護母神として崇められた。息子のホルスは隼の頭部を持つ天空の神として表現される。エジプト航空のシンボル・マークでもある。イシスに抱かれた幼いホルスのイメージは、キリスト教の聖母子像へとつながった。
他の多くの神話のように、天なる父神にオシリスを、地母神にイシスをあてることもできるが、この地では両者とも絶対的な力を持つ存在ではない。エジプトでは、神すら絶対的ではない。目に見える形で存在する生と死は、具象の世界に人々の思考を呪縛したように思える。
ナイル川は生命を与え続けてきた。その緑の帯の外は皓然たる死の世界である。アジアで想像する暗くじめじめした黄泉ではない。白日のもと、影の存在すら許さない世界である。言葉は矛盾するが、煌々と輝く冥界である。
目前に広がる死の世界は、神々ですら死を免れ得ないとする死生観を生む。だが、死後の世界を無と割り切れるほど人間は強靭ではない。オシリス復活の神話には、古代王(ファラオ)の願いがこもっている。ナイルの恵みを享受したエジプトは豊かな国だった。生は死より楽しい世界だった。
いったんばらばらに切断されたオシリスが、イシスの助けで冥界に蘇えった。神話そのままに、人々は王の遺体をミイラにした上で、豪奢な副葬品とともに埋葬し、オシリスのように生きることを願った。その死生観は、輪廻でも再生でもない。愉快な現世・此岸での暮らしが、冥界・彼岸でも続くことを願う宗教だった。
王は冥界での暮らしを、身近な動物たちの精霊に委ねた。ミイラを作る神アヌビスは山犬の姿をしている。墓地の守護者でもある。神々の書記トト神は朱鷺の頭を持つ。イシスやネフティスは、鳶に姿を変えて遺体を守る。死者の内臓を保護するホルスの四人の息子はヒヒ、隼、人間、山犬の姿をしている。死者の国の守護女神ハトホルは、牛の角と日輪を頭にいただく女性である。ときには日輪をいただく牝牛の姿で表現される。太陽の復活を助けるスカラベは、昆虫のフンコロガシである。バーと呼ばれる霊魂は、死者の頭をもつ鳥だった。
すべての神性が具象化して示される。加えて、古代エジプトの人々は天性のデザイナーだった。レリーフや壁画、象形文字に見る斬新な造型感覚は現代でも十分通用する。優れた具象表現力は、精神風土まで抽象化を忌避する。蘇生の過程すら徹底して具象化してしまう。
王家の谷の墳墓には、数多くの呪文が書き残されている。それらをまとめて、エジプトの「死者の書」という。呪文はまず、冥界の王オシリスからパンやビールを分けてもらうための文言に始まり、口が使えるようにする開口の儀式の呪文、地獄へ落ちないよう身の潔白を証明してくれるトト神への呪文など、身につまされるような数多くの願いが続いたあと、最後に死者の国の守護女神ハトホルに再生を託す呪文が来る。壁画にはハトホル神のほかにタウェレト女神が描かれている。河馬の姿をしたこの女神は、まるで妊婦のように腹を突き出している。出産を助ける女神は、再生の願いに通じるものがあった。呪文はどこまでいっても抽象に達しない。
唯一例外は、真理・真実を象徴するマアトだけである。マアトは羽根で現される。死者はオシリスの面前で裁きを受ける。死者の心臓とマアト(羽根)が秤にかけられ、その傾きをアヌビス(山犬)が見守り、トト(朱鷺)が記録する。心臓がマアトより重ければ、冥界の楽園イアル野での蘇生は許されない。
だが、ここにも呪文がある。盗みを働いたことはないとか、人を殺したことはない、神を冒涜したことはないなど42項目の呪文を、死者はよどみなく唱えなければならない。間違えれば地獄行きが待っている。とはいえ、呪文は墓所の壁面に書かれ、虎の巻(あんちょこ)の役を果す。象形文字はそれ自体霊力をもつと信じられていたから、読み上げるまでもなかったかもしれない。マアトの持つ形而上的概念はたちまち俗にまみれてしまう。
かつてピラミッドは墳墓と考えられていた。いまは疑問視されているが、葬祭に関連した施設であったことに違いはない。古王国時代(紀元前2649年〜2152年)に数多く作られた。中王国時代から新王国時代(紀元前2065年〜1075年)に入ると葬祭殿建設へ変わった。王朝後半期に入ると、王のみでなく神官や高級官僚も自分たちの墓を作るようになった。だが、あくまでも権力者たちの占有物だった。
オシリス同様に冥界で生きるためには、霊魂バーに遺体を見つけてもらわなければならない。当初ピラミッドはそのための目印だった。王の虚栄心が目印を巨大化させた。墓泥棒を招くようなものである。巨石で入口を塞いでも、墓泥棒の魔手から逃れることはできなかった。副葬品がなければ、オシリスへの貢物にも事欠く。オシリスの怒りを買えば蘇りはない。権力者たちは、後世王家の谷と呼ばれる地域に墓所を集中し警備の徹底を図った。だが、いかに地下深く墓所を掘り下げても、ツタンカーメンを除いて無傷だった墓はない。
霊魂が自分のミイラを見つけたかどうかは分からない。だが盗人は間違いなく嗅ぎつけた。
ピラミッド建設は農閑期の公共投資だったという説もある。だが、その資金は他国から略奪してこない限り年貢頼りである。権力者側の弁解じみた説明に過ぎない。
古代エジプトの宗教は、権力者のためのものだった。中央集権の旨味は神官を含めた王の取り巻きに限られる。傀儡の王であれば、それにこしたことはない。権威は王に、権力は取り巻きに…いつの世も仕組みは大差ない。権威を示す宗教施設や儀式は、華麗に複雑化していった。
庶民の信仰は、タブーやアニミズムの段階に留まっていた。高価なミイラ作りや墳墓建設など、仰ぎ見るだけの高嶺の花だった。エジプト考古学博物館には、庶民の暮らしを伝える土偶が数多く残っている。だが、彼らがどのような死生観を持っていたのか語るものは何もない。古代エジプトを旅しながら生じる心の空隙は、そのあたりに起因している。
生も死も具体的なエジプトでは、神のイメージが完全な抽象にまで到達しなかった。権力者のみの宗教は哲学としての深さをもち得なかった。
どのように具象化されたものであっても、複雑な呪文や儀式は祭司階級の仕事を専門化する。権勢の跋扈を招く。その力は王の権威を脅かすまでに巨大化する。
アメンホテプ4世(新王国時代第18王朝、治世・紀元前1350年〜1333年)が宗教改革に踏み切った動機は、おそらく神官の排除を目指したものだったに違いない。彼が即位したとき、王都はテーベ(ルクソール)だった。王権は、アメン・ラー神によって守られていると信じられていた。もともとは別々の神で、ラーは古王国時代から信仰された太陽神だった。王はラーの息子とされ、名前の末尾にラーのつくファラオは数多い。アメンはテーベの地方神だったが、ラーと結び付けられて権威を増した。
アメンホテプ4世は突如アートン神への帰依を宣言した。残された讃歌や図像で見る限り、アートンは太陽神である。ラー神の概念が発展したものとも考えられる。だが、そこには大きな隔たりがある。多神教の世界では、太陽神は恩恵を与える存在ではあっても創造者ではない。彼が信仰したアートンは創造者である。すべての動植物、自然そのものの造物主である。ここまで飛躍すると、この宗教は一神教といってよい。
アメンホテプ4世はマアト(真理・真実)の信奉者だった。エジプトの神々の中で唯一抽象的概念であるマアトを求めた彼の宗教が、創造主の宗教(純粋な一神教)へと発展していったのかもしれない。彼の念頭には、「死者の書」の俗っぽい呪文など存在する余地がなかった。
それでも、一神教への飛躍の謎が解けたとは思えない。
彼は自分の名前をイクナートン(アクエンアテン…アートン神に益する者)と変え、王都をテーベから200キロほど下流のアマルナに遷した。アメン神に対する祭祀は禁止され、古い神々の名は碑銘から削りとられた。アメン神官は職を失った。
石像やレリーフに残された彼の像は不気味としかいいようがない。長い頭と顔、切れ長の細い目と尖った顎。腹と太腿はふっくらとしているが膝から下は異様に細い。それまでの画一的、理想主義的な造形とはまったく異なる。奇妙に写実主義的な時代だった。
しかし、彼の宗教改革は実を結ばなかった。一代限りでもとの多神教に戻った。新都アマルナに築かれたアートン神殿は破壊された。ルクソール博物館にレリーフの断片が復元されている。その断片は、カルナックのアメン神殿解体修理の際発見された。礎石の詰め石として利用されていた。権威を回復した宗教指導者たちは、アートン神信仰を形の上でも否定したのである。
次の王は有名なツタンカーメンである。黄金のマスクをはじめ豪華な副葬品が無傷で掘り出されたが、その一つ黄金の玉座の背もたれにはアートン神の象徴(太陽と手先を持つ幾条もの光線)が描かれている。もとの彼の名前はツタンカートンといい、アートン神の名が反映していた。一代限りで終わったとはいえ、次の王まではその影響が残っていた。新旧宗教間で激しい勢力争いがあったにちがいない。ツタンカートンは、アメンの文字を含むツタンカーメンへと改名させられた。都もテーベに戻された。旧勢力が勝利をおさめるまで混乱が続いた。18歳で早逝したツタンカーメンの暗殺説が消えないのも不思議はない。
精神分析の創始者、ジークムント・フロイト(1856〜1939)は、「モーセと一神教」を最後に書き残した。精神分析の手法が用いられている箇所もあるが、一見考古学の論文のようでもある。執筆の動機は、「ユダヤの民はなぜ迫害されるのか」を説明するところにあった。彼の死後、ナチによるユダヤ人大虐殺が起きている。イギリス亡命以前も、陰に陽に差別を味わっていた。被迫害は切実な終生のテーマだった。
彼は「神なきユダヤ人」の一人である。徹底した無神論者だったから、このような本が書けたともいえる。当初この本は「モーセ…歴史小説」という論文だった。彼は精神医学や考古学の論文を書くつもりはなかった。多神教の土壌から突然変異のように生まれたユダヤ教(一神教)の本質を、小説の手法で解き明かし、それがなぜ迫害に結びついたのかをユダヤ人として理論づけたかったのである。
彼は、モーセがエジプト人だったという仮説から出発する。川に流されたユダヤの嬰児が王女に拾われたという聖書の挿話は、英雄伝説によくあるパターンにすぎないと書いている。フロイトは、モーセがイクナートンの皇子か高官だったと想定した。王の死後、多神教が復活したことに失望したモーセは、一神教を実践するためユダヤ民衆の中に入り込む。差別され抑圧されていた民衆は全知全能の神に共鳴した。ユダヤの民を一つにまとめ上げたモーセは、エジプトから「約束の地」への移住を実行する(多神教に戻ったエジプトが、一神教に拘泥するユダヤの民を排除したという説も否定されていない)。
ところが、モーセはアートン神以上に短気で専制的だった。彼の課した戒律はユダヤの民にとって荷が重かった。彼らは共謀してモーセを殺害する。その後、次の指導者を選んだが、その男もモーセといった。二番目のモーセは一神教をユダヤ教として維持しようとしたが、当初の戒律主義に比べればゆるやかで原始的な宗教だった。今日残されているモーセ像はこの二人を圧縮したものである。
ユダヤの民は、次第に最初のモーセを偉大な父として崇拝するようになる。この回帰現象を、フロイトは独特の心理分析で解明しようとする。原父殺害はユダヤ教独特の原罪意識を生んだ。太陽を創造主としたイクナートンの一神教は、フロイトの表現に従うと、「洗練された抽象化の高みへの飛躍を成し遂げた」。
ユダヤ教以外の宗教を、彼は未熟なものとして切り捨てていく。キリスト教も例外ではない。「ユダヤ教は父親の宗教であったのだが、キリスト教は息子の宗教に変貌を遂げ」「ユダヤ教が登りつめた精神化の高みを維持できなかった」と言い切る。
「なぜ迫害されるか」については、ここでようやく答えが示される。息子の宗教を受け入れた人々はユダヤ民族のごく一部であり、新宗教を拒否した人々だけがユダヤ人とよばれるようになった。そして彼らは、この新宗教を信じる”非ユダヤ人”たちから、「我々は自分たちの罪を認め、告白し、キリストを信じることで罪を浄められた」「お前たちは神=原父を殺害しながらその償いをしていない」と非難されるようになった。キリスト教の普及に伴って、その非難は西欧全域での迫害へとつながった…と結論づける。そして、キリスト教徒が自覚し、その罪を認め、浄めようとした点で、倫理的には一段階進歩しているのかもしれないと書き残す。この独白には、「倫理的進歩を共にできなかった」ユダヤ人の性(さが)への共感と諦観がこもっている。
ふつう理不尽な差別や迫害にあったとき、人はそれを他人のせいにする。ユダヤの民は己を責めつづけた。その強靭さが、国を失っても民族として生き残ってきた原動力だったにちがいない。
原父殺害と原罪については、フロイトにもう一つ興味深い著作「トーテムとタブー」がある。
トーテミズムには、自分たちのトーテム動物を殺さないというタブーと、同じトーテム族の女性との性交を禁じるタブーがある。このタブーをフロイトは、エディプス・コンプレックス…父を除き去り母を自分の妻にしたいという願望…から解明する。ダーウィンが想像したとおり、原初、人類は遊牧者として群れをなして暮らしていた。群れは専制的な暴君に支配されている。女は全て専制者のものであり、生まれた男児は危険な競争者として殺されるか追放される。復讐の念に燃える息子たちは、あるとき共同して父親を殺す。父親は敵でもあったが、憧憬すべき偶像でもあった。暴君を倒したあと、息子たちは互いに争い、共同体は以前より不安定な状態に陥る。この失敗と後悔に学んだ息子たちは、互いに理性的になり、トーテミズムに基づく一つの同胞種族体を作り上げた。トーテムは偉大な原父の象徴となり、トーテム種族の成員たちはタブーを守ることを誓い合った。息子たちが犯した原父殺しの罪悪感は、トーテム種族内の男女の性交を禁じ、外婚制度をとる原因となった。なぜなら、同族の女たちを所有しようとする衝動が原父殺害の動機だったからである。この罪悪感が原罪の起源であり、人が人として、人倫の道を歩み始める最初の一歩となった…とフロイトは述べている。
トーテミズムの誕生にまつわる原父殺害については、おそらくフロイトの説のとおりだろう。それが原罪意識にまで発展するかどうかには疑問を持っている。多くの神話で、最高神は古い神の死骸を乗りこえて登場する。ギリシア神話でも、ゼウスは父親のクロノスを倒してオリンポスに君臨する。
青春期の少年は、父親の存在をどこかで凌駕しなければならない。その過程は、通過儀礼としての原父殺害に他ならない。それが原罪意識にまでつながるかどうかは、ユダヤの民族性にまで踏み込まなければ解明できないのではないか、と思う。
古代エジプト社会で、ユダヤの民が奴隷のような存在だったことは間違いない。一神教は虐げられ抑圧された被差別民の宗教になりやすい、と主張する社会学者(岸田秀)もいる。多神教の世界であれば、いずれかの神を選び帰依すればよい。
一神教ではほかの神々をあがめてはならない。ほかの神々の存在を否定する。神と契約し永遠の義務を負う。しかし、その契約によって抑圧と差別からの開放が得られる。この希望と救いにかけられた願いは重い。
多神教の世界に住む者には、神との契約など畏れ多すぎて口にすら出しにくい。神秘の世界に、契約という俗世界の秩序を持ち込める精神構造に違和感を覚える。同時に、その強靭な神経に、とても敵わないと脱帽したくなる。
いまの一神教が、アートン教から発展したものかどうか、フロイトのように言い切る自信はない。だが、フロイト以外にも、聖書をエジプトやイクナートンに結びつけようとする試みがある。唯一神の最初の礼拝者アブラハムはイクナートン、モーセは軍人から王になったラメセス1世(第19王朝の創始者)、エデンの園はナイル川流域の緑り豊かな地域だとする説である。確かめるすべはないが、興味の尽きないテーマである。
フロイトに関して残念なのは、頑なな西欧知識人にありがちな、東洋宗教に対する無理解である。無常感を精神の弛緩や退廃と断じきってしまっている。せめてショーペンハウアーほどの共感をもってくれていたらと思う。
(イクナートンはアクエンアテンと表記すべきかも知れない。フロイト「モーセと一神教」(ちくま学芸文庫:渡辺哲夫訳)ではイクナートンと表記されておりそれに従った。「…」内の訳文は同書から引用した。)
カイロでは、ムハンマド・アリ・モスクを見学した。サラディン(1138〜1193)が築かせた城砦(シタデル)の内部に建てられている。城砦は十字軍に対する防衛が主な目的だった。
サラディンはアイユーブ朝(1169〜1250)を樹立してエジプトを治めた。エルサレムを奪還した英雄として中東では名高い。
我々は、多大に西欧の歴史観に影響されている。どう評価しても、十字軍は西欧側に非がある。なぜなら、パレスチナの地がアラブ人の手に落ちたのはローマ帝国が崩壊したからであり、キリスト教徒の聖地エルサレムへの巡礼は帝国崩壊後も許されていたからである。十字軍が建国したエルサレム王国は、植民地主義のはしりだといえないこともない。ところが、十字軍という言葉からくるイメージは正義の軍隊である。
「アラブが見た十字軍」(アミン・マアルーフ著、訳:牟田口義郎・新川雅子、ちくま学芸文庫)は日本で読める唯一の反十字軍史といってもいい。サラディン(サラーフ・アッディーン)については、講談社から「十字軍と戦った男サラディン」(佐藤次高著)という本が出ている。以下は、この二つの本からの受け売りである。
当時の中東地域には、セルジュ−ク朝(現在のイラン、シリア、トルコ)、ファーティマ朝(エジプト)という二つの強大な勢力があったが、実態は部族の寄り集まりだった。カリフ(ムハンマドの正統な後継者)をいただくアッバース朝は、現在のイラク地域を治める小国だった。
部族主体の行動原理は今も昔もあまり変わらない。部族の利害得失は、国家より優先する。敵の敵は味方である。この分裂状態が、十字軍のエルサレム征服を容易にした。同じアラブ民族でありながら、敵対する部族をたたくためには十字軍と同盟することも厭わなかった。
サラディンはシリア一帯を治めるザンギー朝の一武将だった。エジプトを治めるファーティマ朝の政情は不安定だった。十字軍も食指を伸ばしてきていた。ザンギー朝ヌール・アッディーンは、ファーティマ朝の要請を受けて(機会に乗じて)サラディンと彼の叔父シールクーフをエジプトに派遣した。
ヌール・アッディーンは傑物といっていい王だった。十字軍に奪われたイスラムの聖地を奪還しようと聖戦を呼びかけた。今一歩およばなかったが、サラディンの先駆者といえるだろう。
サラディンは、自ら策を弄して王になろうとしたわけではない。時の流れが彼を押し上げていった。ヌール・アッディーンが死ぬと、エジプトとシリアは自然に彼の支配下に入った。二つの国の間を、キリスト教徒のエルサレム王国が隔てている。統治する上で、エルサレム王国は物理的な邪魔者だった。小規模の戦いに勝ち続けるサラディンに、アラブの期待が集まり始める。ヌール・アッディーンの意思を継ぐ条件が自然に整ってくる。
彼の寛大さや謙虚さを伝える逸話は数多い。金銭にも恬淡だった。王者というより賢者にふさわしい資質の持ち主だった。謙虚さは、彼がクルド人だったからかもしれない。当時から、クルド人はアラブ民族の中で二流の存在だった。
1187年、ヒッティーンの会戦で彼は決定的な勝利を得る。エルサレムを占領したサラディンは、わずかな身代金で住民を解放する。金を払えない貧しい人々は無償で釈放した。そればかりでなく、未亡人や孤児には金を与えて退去させた。西欧側の記録「十字軍」(ルネ・グルッセ著、橘西路訳、角川文庫)には、「偉大なスルタンは退去する人々に護衛をつけ、ベドゥイン族の襲撃に備えた」とある。さらに、「海岸地区の諸侯(十字軍)はあさましいことに亡命者の窮状につけこんで金品を容赦なく取り上げた」と記述しており、書いたグルッセもさぞ筆が重かったことだろう。
サラディンの開いた王朝アイユーブは父親の名である。自分の名前をつけようとはしていない。クルド人だったが、同民族をことさら重用したわけでもない。謙虚さも、公平さも、少しばかり度が過ぎていた。
アラブ世界の第一人者となった彼の許に、アッバース朝のカリフ、ナースィルから叱責の手紙が届く。アッバース朝は小国だが、ムハンマドの嫡流としての権威は残っていた。手紙は、サラディンが名乗った称号「勝利の王(マリク・ナースィル)」がカリフと同じ名であることを非難していた。エルサレム奪還を賞賛する言葉はなかった。
そのとき、サラディンの心のどこかが壊れたのではないだろうか。その後も十字軍の襲来は続いた。獅子心王リチャード率いる第3回十字軍との戦いはほぼ引き分けに終わるが、どこか精彩を欠いている。
彼は幼少を過ごしたダマスカスの方が、エジプトより好きだった。戦が終わると、シリアの地に戻った。55歳で死去、黄熱病だったという。死後手許に残っていたのは、金貨1枚と銀貨47枚だけだった。彼の墓はエジプトにはない。ダマスカスに小さな霊廟が建っているそうである。
「キングダム・オブ・ヘブン」という映画に、脇役としてサラディンが登場する。アカデミー賞監督リドリー・スコットの作品だが、賞をもらった「グラディエーター」より出来はずっといい。史実も、ほぼ要所をおさえている。評判にならなかったのは、西欧人が見たくないエルサレム陥落を描いているからだろう。
…エルサレムはサラディン率いるアラブ軍に完全に包囲されている。守備隊長バリアンは、死を賭してサラディンと降伏条件を折衝する。住民退去の保証を得たバリアンは、サラディンの寛大さを疑い、「かつてキリスト教徒はイスラム教徒を皆殺しにしたが…」と尋ねる。サラディンが答える。「私はそいつらと違う。私はサラディンだ…サラーフ・アッディーン(宗教の救い)だ」
再びバリアンは「エルサレムの価値とは?」と問う。サラディンの返事は「無だ」とにべもない。いったん背を向けた彼は、向き直って、
「…だが、すべてだ」と答える。顔には苦い笑いが浮かんでいる。
映画ならではの脚色だが、印象的なシーンである。
「アラブが見た十字軍」の著者アミン・マアルーフは、レバノンのジャーナリストである。彼はこの本をフランス語で書いた。著者のメッセージが中東、西欧双方に向けられていることが察せられる。末尾にジャーナリストならではの分析がある。
彼は「勝ったアラブが、今ではどうして負けてしまっているのか」を考える。
当時のヨーロッパは宗教に支配されていた。異端審問や神明裁判のような暗愚な裁きも横行していた。一方、中国の製紙法を学んだアラブは、ギリシアの文献をせっせと翻訳し図書館を充実させていた。交易で得た知識も豊富だった。西欧の方が文化的後進国だった。
だが、敗れた西は東を学んだが、東はそうしなかった…それが、著者の苦い結論である。
かつて、ピラミッドを築くのに多くの奴隷が使役されたと学んだ。いまはほぼ否定されている。
奴隷というと、我々はアメリカ南北戦争以前の、アフリカから連れてこられた人々を思い浮かべる。
アラビア語で奴隷のことをマムルークという。王侯は、奴隷が有能であれば将軍や副官にとりたてた。王の後継者が無能であれば、奴隷将軍が独自の王朝を開くこともあった。1250年から1517年にかけてエジプトを治めたマムルーク朝がその一例である。インドにも奴隷王朝(1206〜1290)があった。
「奴隷」と一言で片付けられないことに、いまごろ気がついている。
エジプトの象形文字は美しい。ふつうパピルスの上に書いた。パピルスはナイル川流域に群生していた。強い繊維の茎を裂いて広げ、格子状に重ねて紙に近い記録材を作った。平面の上で、古代エジプト人は自由に曲線を書いた。曲線が象形文字の美しさを生んだ。
文明の古さではエジプトと肩を並べるメソポタミアでは、チグリス・ユーフラテス両河で良質の粘土がとれた。粘土板に記録するため楔形文字が生まれた。楔形文字ではハムラビ法典が有名だが、固い閃緑岩に刻まれていたのが幸いして現代まで残った。粘土は、パピルスに比べて、移動に不便で破損しやすいように思える。ところがいったん火を通すと、破片になっても判読できる。保存性の高い記録材だった。
世界最古の文学といわれる「ギルガメシュ叙事詩」は、考古学者たちが粘土板の破片をたんねんに拾い集めたおかげでいま読むことができる。そこには、ノアの方舟(はこぶね)そっくりの大洪水伝説がある。オルフェウスや伊邪那岐命の冥界下りに似た話もある。いずれも、ギルガメシュの方がはるかに古い。
我々は、コンピューターに付属した便利な記録材を持っている。その出発点は、パピルスや粘土板だった。
本来クルド民族については「トルコ半周記」のところで書いておくべきだったかもしれない。あのときの現地ガイドはクルド人だった。
クルド人は、トルコ全人口の約20%(約1300万人)を占める。イラン、イラク、シリアの国境地帯に住み、国土を持たぬ最大の民族(総人口約3000万人)といわれる。
サラディンの項でふれたが、彼はクルド人だった。中東の人々は、古来から部族中心の遊牧の民だった。彼らには国という意識が希薄だった。サラディンも、エジプトやシリアにクルド人の国を作ろうとはしていない。民族も、身分(奴隷か否か)も、現在の尺度では計れないほど曖昧だった。
さまざまな王朝が生まれては消えていったが、国境の線引きはあってないようなものだった。統治対象が中東では点の集合体だった。面のヨーロッパと基本的な違いがあった。
西欧諸国は、植民地を維持しきれなくなったとき、いかにして権益を残すかさまざまに画策した。妥協はあったが、それは現地の人々とではなく西欧諸国間で行われただけだった。結果、直線的な国境線が引かれたり、少数民族の存在が無視されたりした。
アメリカのイラク侵攻は、国内の超保守派に操られたブッシュ大統領の失策だが、クルド人に独立の夢を与えるものとなった。現イラク政府は、イスラム・シーア派、スンニ派、クルドの三つを貼りあわせたパッチワークである。そのなかで、ジャラル・タラバニ大統領はクルド人である。北西部は実質クルド民族の自治下にあり、アラブ人も手が出せない。クルドのサンクチュアリ(聖域)になっている。石油資源も豊富である。
2008年末のアメリカの大統領選挙で誰が勝とうと、遅かれ早かれ駐留軍は引き揚げなければならない。重石がはずれたとき、イラクは三つに分裂するだろう。スンニ派の多く住むバグダート地域からは石油が出ない。いまは対立しているが、アラブ人どうしの宗派を超えた妥協があるかもしれない。その場合でも二つには分かれる。いずれにせよ、クルド民族はサンクチュアリを死守しようとする。そうなったとき、アメリカは独立を阻止できない。駐留軍引き揚げ以前に、独立を阻止する有効な布石が打てるとも思えない。
トルコ東部ではクルド労働者党(PKK)を中心とした独立運動が活発である。過激なグループはテロ活動を繰り返し、国境を越えてイラクへ逃げ込む。トルコ政府は、2008年3月、軍隊を派遣しゲリラ掃討作戦を実施した。短期間ではあるがイラクの国境を越えた。攻撃はアメリカの情報を得てなされたといわれる。越境は、クルドの独立をおそれるアメリカとイラク政府ヌーリ・マリキ首相の、暗黙の了解なしにできるはずがない。
トルコ、イラン、シリア三国とも、クルド独立のために寸土たりとも自国の国土を割く気はない。しかし、イラクが割れてクルドが独立することに反対はしない。条件は整いつつある。
もし、クルドが独立したら、ブッシュ大統領の怪我の功名となるだろう。
「ギルガメシュ叙事詩」を残したシュメル文明の地イラクは、いま混沌の坩堝と化している。サウジアラビアやエジプトは、表面上、親米を装っているが内面は嫌米といっていい。イランやシリアはもとより嫌米、嫌西欧である。
第二次世界大戦後では、イスラエル建国が最大の紛争原因である。アラブ側の、「大虐殺はヨーロッパで起きた。ユダヤの国を作るならヨーロッパに作ればよい」という主張は、単純すぎるが一理はある。そのアラブ諸国も、1967年第3次中東戦争直前の状態に戻すならばという条件付で、イスラエルを国家として認める態度に変わりつつある。
部外者には、平和にいたる隔たりはさして大きくないように思える。しかし、妥協は成立しない。イスラエルの強硬姿勢と、無条件でそれを支持するアメリカ政府が最大の阻害要因である。国連での拒否権行使回数だけでいえば、イスラエル問題に関するアメリカが最も多い。
パレスチナの建国を認め、難民の帰還を許し、エルサレムを国連で共同統治すれば問題は解決する。だが、イスラエルは決して承知しない。
アメリカの偏向は、パレスチナ内に過激なハマスの台頭を招いた。レバノンは分裂状態である。イスラエルの核兵器を廃棄しない限り、イランの核開発を止めることはできない。
一方、ファトワ(死刑宣告)を連発するイスラム宗教指導者たち、宗派間の抗争を扇動する宗教指導者たちも非難されるべきだろう。あまりもの過敏さは、己の信仰に対する自信のなさを示していないか。
かつて、神聖ローマ帝国にフリードリヒ2世(1194〜1250)という君主がいた。彼はアラビア語を理解し、イスラムの宗教・哲学に造詣が深かった。アイユーブ朝のスルタン、カーミルとの間に友情も生まれた。そのためローマ教皇とは不仲で二度も破門されている。
アラブ側の仲間割れも幸いしたが、一時期平和裏にエルサレムを占有した。我々は、フリードリヒ2世の知恵に学ぶべきである。
もし、生きている間にエルサレムを訪れることができれば、この魅力ある人物のことをもっと調べてみたいと思う。限りなく望み薄なのが残念だが…。
2008年4月26日 記す。
エジプト考古学最高評議会などの国際研究グループは、2010年2月17日、米医学会誌に最新の研究結果を発表し、同時に記者会見を開いた(AP通信)。それによると、ツタンカーメンは、骨折とマラリア感染が重なって死亡した可能性が高いとのことである。暗殺説の根拠となった頭蓋骨の穴は、ミイラ化する作業過程で空けられたものらしい。DNA鑑定によって、彼の父はイクナートン(アメンホテプ4世)、母がイクナートンの妹であると確定した。ツタンカーメンの墓には130本の杖がおさめられていた。その中の数本には、使用した痕跡が残っていた。幼少から歩行に支障があったと見られている。虚弱な体質は、近親結婚の結果が招いた…と記事は紹介している。
2010年2月20日 記す。