きらめく風にのって

Nanase   

 ほころんだ花のつぼみから甘い香りが風にのってほのかに漂う朝、『レンスターからキュアンが遊びに来るぞ』
とお兄様が言った。
 キュアン。お兄様の親友。物心ついた頃から我が家に遊びに来るようになったキュアンは、まったく飾り気のない気さくな人だけれど、本当は私が呼び捨てになどしてはいけないお方。
 レンスターの次期王。お父上さまからも民からも信頼され、慕われているというレンスター王家の嫡男。
 聖槍ゲイボルグを継承する血を持って誕生したキュアンを、皆は生まれながらの王だと歓喜で迎え、愛し、期待した。
 キュアンはそんな皆に応えようと、常に王子然と振る舞っていたけれど、ここシアルフィでは違う。
 それを私は知っている。
 そして……ここにいるキュアンこそが、本当のキュアンだと……そう思ってもいる。
 どこかやんちゃで、とてつもなく鈍くて……くったくがなくて優しい。
 そんなキュアンは私をまるで弟のようだとからかい、来れば必ず稽古をつけてくれて。
「エスリン、また腕をあげたな」
 キュアンにそう言われたいばっかりに私は日々鍛錬を続け、彼が来るのをいつの間にか心待ちにするようになった。
 けれど、彼を待つその心が恋だと気づいた時、私は悲しくてひとり泣いた。
 いえない。言えるわけがない。言ったってきっと笑われるだけ。
 だってキュアンは私を女だとは思っていないし、私のようなおてんばでじゃじゃ馬な女が王妃になんて……なれるわけがないもの。
 そう……キュアンを好きだって告白することは、次期レンスターの王妃になりたいと望むのと同じ。私にはそんな大役つとまるわけがなかったし、だいいちキュアンが私を『弟』としか思っていないのに……告白するのは惨めすぎた。
 言葉にすらできない恋。
 ただ見つめるだけの恋。
 そうしていれば、そのうちこの恋は自然に終わりを迎える。
 キュアンがふさわしい人を見つけ、その人を妻に迎える日がきたら……。
 その時、私は祝辞を言わなければならない。おめでとうって。末永くおしあわせにって。精一杯の笑顔をつくって。
 そして……いつか私も、父の命じるままに、好きでもない人のもとへ、嫁ぐことになる。年頃の娘がいつまでも独り身でいるなんてこと、貴族には許されないから……。
 

 けれど、その日の午後、兄の言葉通り、シアルフィを訪れたキュアンは、いきなり意外なことを父に言い出した。
「レンスター王家よりの正式な申し込みはまた後日に。本日は卿にお許しいただけるかどうか、それを個人的に打診に参りました。エスリンを……私の妻にいただけますか?」
 突然の申し出に驚いたのは父だけではなかった。
 私は物も言えず、ただその場に茫然と立ちつくしていた。
 兄だけはこのことを知っていたのか……笑いをこらえたような表情を浮かべて視線をそらしていたけれど。
 その兄を睨みつける余裕すら、私にはない。
 だって………
 妻?妻?妻〜〜〜〜?
 頭の中でキュアンの声がリピートして…………その言葉の意味はわかるのに、でも理解がどうしてもできない。
 私はキュアンに1度だって「女の子扱い」されたことすらないのに。「好きだ」といわれたこともないのに、いきなり『妻』?
 多分私はその時、立ったまま、気絶しているような状態だったと思う。
「キュアン殿ならば申し分ないどころか、もったいないお相手。不服はないだろう?エスリン?」
 そんな父の言葉も、キュアンの笑みも、何かこの世界にあるものとは違う気さえして、私は相変わらず茫然としていた。
 けれど次の父とキュアンとの会話で……私は一瞬で現実に引き戻された。
「ユングヴィのエーディンが第1候補だと、貴殿の父上に聞いていたが」
 物も言えない私の横で、父はそう言い、キュアンはその質問に冷静に答えた。
「父はそう望んでもいたようですが……私が丁重に断りました。エーディンはユングヴィの継承者とならねばならぬ身。弟のアンドレイはその器ではないと……評判ですし。エーディンはどこからか、ふさわしい男を迎え、婿に迎えねばならないはず。彼女もすでにそれを自覚していますし、そんな彼女をレンスターに連れ去るわけには」
「なるほど。キュアン殿は自国のことだけではなく、グランベルのこともきちんと考えておられるわけだ。頼もしい限りですな。貴殿になら……安心して我が娘を差し上げられます。少々おてんばなところもありますが、心根の優しい娘です。どうか末永く……」
「もちろんです」
 涼しげな声で答えたキュアンが途端、私は憎らしくなった。
 キュアンが望み、父が認めた。
 その会話でもうすべては決まったも同じ。
 そして、それはキュアンに恋をしていた私には……この上ない喜びのはずなのに、私は突きつけられた現実に心を乱していた。
「おい、エスリン、どこへ?」
「ふっ、突然こんな話になっててれくさいのでしょう。しばらく放っておきましょう」
 キュアンと父のそんな声を聞きながら、私はやっと動くようになった足で走り、その場を後にしていた。
 ここで泣くわけにはいかない。
 人前で泣くのは得意ではないし、不本意だ。
 けれど……泣かずにはいられない。
 貴族の娘と生まれたらからには……こんなことは当たり前のこと。今の世は平和だから、この程度ですむことであって、戦乱の世なら、政略結婚で敵国に嫁がされることだってあるはず。
 父は家柄だ身分だと、そうこだわる方ではないけれど、父も貴族であることに変わりはないのだから、キュアンに望まれて断る理由などどこにもないのだ。
 身分も家柄も最高。人柄も文句なし。父親として、ありがたくこそ思いはしても、迷惑だなどと考える要因は一つもない。だから父の返事は当然といえば当然。 
 けれど私は悲しかった。どう言っていいのかわからないけれど悲しくてたまらなかった。

「エスリン?」
 走って走って、森の奥深く木々に囲まれたお気に入りの場所にたどり着くとすぐ、後ろから声がして私は驚いた。
 あんなに全力で走ったのに。簡単に追いつかれている。
 それも、こっちは追われていることにさえ、気づいていなかった。これは騎士としては不覚もいいところだ。
 乱れた息を整えることに意識を集中しながら振り返ると、そこには同じように走ったはずなのに、少しも呼吸を乱していないキュアンが静かに微笑んで立っていて、私はまた、悲しみと悔しさの入り混じったおかしな感情に支配され、声を荒げた。
「ひとりになりたいの。話ならあとにして」
「怒っているようだな」
「いいえ。光栄ですもの。キュアン、あなたに妻にと望まれて」
 私は精一杯虚勢を張って、強がりを言ったけど、キュアンは何もかもお見通しって顔で静かに答えた。
「ふん、その顔は少しも嬉しそうには見えないが?」
「そうね。王妃になんてなりたいと願ったことなどないし。光栄というのは嘘だわ。確かに」
「…………」
「エーディンがダメだから私?そりゃあ政略結婚なんて貴族の世界じゃ当たり前の話かもしれないけど。そのぐらいの覚悟は私にだってできてたけど。でも!堂々と私の前で、エーディンがダメだから私にしたなんていわなくてもいいじゃない!キュアンのバカ!」
「は……」
「だいたい私はエーディンみたいにおしとやかじゃないし、でも男まさりのくせに、杖も剣も半端にしか使えないし、じゃじゃ馬だおてんばだってそんなことしか言われないし、美人じゃないし、でも」
 人前では泣かないと決めていたのに、その頃には支離滅裂な言葉と一緒に私の目から涙がポロポロとあふれ落ちていて、私には自分の感情の収集がもうつかなくなっていた。 
「エーディン以外なら誰でもいいなら……私じゃない人にして……」
「エスリン」
「お願い。他の人にして?」
 嘘八百もいいところ。そんなの嫌なくせに……。その方がもっと嫌なくせに。
 もうひとりの私が頭の中で囁いたけど、私はそう言わずにはいられなかった。するとキュアンは優しいけれど強く真剣な眼差しになって私を見つめ、つぶやいた。
「本当にいいのか?私が他の女をめとり、この腕に抱いても」
「…………」
「答えてくれ、エスリン」
「………」
「ふぅん……いいのか。では、そうするしかないな。他の誰かをめとり、愛してもいないのに愛しているとつぶやき、口づけ、そして……」
「嫌!」
「ふふふふふ。あははははは。だろう?」
「この……」
 自信満々なその言い草と、豪快な笑いが私の勘に触った。
 まんまとキュアンの策略にはまって、嫌と叫んでしまった自分にも腹がたっていたのかもしれない。
 むっとした表情でキュアンを見つめる私に、キュアンはさらに続けた。
「実は私も嫌なんだ。お前が私以外の男の腕に抱かれるのはな」
「キュアン?」
「シグルドは兄だから別だが?」
 からかうような口調。
 でもどこか真剣な瞳。
 その二つに私は惑わされていた。
 そして、言いながらゆっくりと差し出された両腕に吸い寄せられるように、私は自らキュアンの胸に飛び込んでいた。
 まるで魔法のようだ。
 巻きついた腕も、聞こえる鼓動も、まるで(おかえり)って言っているようで……(やっとこの胸に帰ってきたな)って言っているようで、私は瞳を閉じてしばらくその居心地のよさに酔いしれていた。
 ずっとずっと少女の頃に聞いたお話が頭の中によみがえる。
 結ばれる相手は、生まれた時から決まっているって。
 もともと一つだった心がこの世界に生を受けた時、二つに分かれ、それがまた一つになるだけなんだって。だから、誰にだってそんな相手がこの世界のどこかにいるはずなのだと。
 夢みたいな話だって、大きくなるにつれて、私はどこか信じられなくなっていたけど。あのお話は本当だったんだって……その時、そう思えた。
「キュアン……」
「やっと素直になってくれたようだな」
「だって……」
「さっきの話、信じたのか?あれは建前。本音は違う。王子というのは色恋だけでは動けない立場ではあるが……お前が好きだ。父にもそう言った。エスリンが欲しいのだと。他の女ではだめなのだと」
「キュアン……」
「だから使者と正式な申し込みに来る前に……こうして来たんだ。お前の気持ちにはとっくに気づいていた。だが、父上の許可がなければ私は好きな女にプロポーズもできない。こんな時は次期王という立場が疎ましくなるよ。エスリン?私の妻になったら、お前にも同じように不自由な思いをさせるかもしれない。そう思ってためらいもしたが……やはり、私はお前が他の者のもとへ嫁ぐなど……想像しただけで我慢がならないんだ」
 夢を見ているようだった。
 目がさめたら……(今度いつキュアンは来るかしら?)って窓から街道を眺めるいつもの朝が訪れるような気がして。
 でも違った。
 キュアンの腕の中、見上げるように見つめる私にちょっと照れくさそうに微笑んで、キュアンは言った。
「婚儀は盛大なものになるだろう。面倒だが我慢してくれ。夏が来るまでにはすべての準備を整えておく。皆もきっとエスリンを喜んで迎えてくれるよ。私が最も私らしくいられる場所。このシアルフィの風をレンスターに運んできてくれ」
「キュアン……」
 震えながら頷く私の身体を今度は強く抱きしめて、キュアンはそっと頬に口づけた。
 その時、さわやかな初春の風が舞い上がり、その風にのって小鳥が木々の間から大空へと羽ばたいて行った。

 この風にのってレンスターへ行こう。
 私もきらめくこの風にのって……………。         
 大きく頷いてもう一度キュアンを見つめたけれど……再び頬を寄せたキュアンの仕草にうっとりと瞳を閉じた私には……すぐにまた何も見えなくなった。
 

END  


管理人より
すっごいラブラブ♪恋するエスリンが可愛いです。キュアンの自信たっぷりなところも素敵です。
こんなにラブラブなお話が書けるなんて羨ましいです(いつも言ってるけど)。Nanase様、本当にありがとうございました♪

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