転載元「ARICHI Soichi+SASAOKA Takashi REFLEX1999」(ギャラリーサージ発行)

田尾弘一氏の許可を得転載



Blindness and Insight

 なにものかを見るべき場所に、見るべきなにものかが置かれている。あたりまえのこととして受け取られうる、それでいてどこか奇妙なこうした風景の中に、A+Sはそこにあるべきなにものかに似通った別のなにものかを、静かに置く。
 それは確かにその場所で、あるべきなにものかとして、いかにもふさわしげに振る舞う。視線を向け、彼らが記した言葉などうなずきながら読み、近づき、遠ざかる者
たちは、どこか満足げに囁き合っている。それでもやはり、そこにあるなにもの
かは思っているような代物ではない、そんな微かな疑念を抱きうるならば、A+
Sはそこから侵入するだろう。
 人が目にする、形あるものは、すべて光の下にある。しかし人はそのことを意識しはしない。光を見ているのではない。対象の明暗にかかわらず、明るみの中のクリアな視界と、暗がりの中境界の不分明な視界とにかかわらず、彼は形あるなにかそのものをこそ見ている。そのはずだ。しかしこの逃れがたい枠組みの中で彼は、見ていることを、それが繰り返される限りにおいて常に失い続ける。
 自己と他者が適当な距離を取って存在し、連続する入力の中で、人が見ていることを見失う、この驚くべき場所は、実は日常と呼ばれているようだ。日常において、人は見たものを思い出すことができない。あなたはこの文章を目にする10分前に見たものを正確に言い当てることはできないはずだ。
 そしてA+Sの光は、非−日常的な時空、<見ること>がまさに<見ること>であるような時空、ある固有の時空をひらくためのデバイスとして結果的に機能する。
 「光の持つ力の追求」、A+Sは自らの作品展開の目的をごく簡潔に語る。そこにあるのはなにかを明るみに出し、ものに色と形を与えるためのメディアとしての光ではない。情報伝達のための媒体である光自体がいやおうなしに帯びる力に向かって、作品は組織される。光はまず、それ自体として存在し、いかなる意味も、物語も、現象学的還元の果てにかけらも残らないような場所がかたちづくられる時、見る者はそこから、攻撃的な沈黙を引き出すことになる。
 1988年からはじまる、光と水が織りなす影を基調とする「WATER」シリーズ、1992年からはじまる、蛍光灯を操作して新たな光を取り出す「LUMINOUS」シリーズ、そして今回展示される、1993年からはじまる、強い光源と反射材を用いた「REFLEX」シリーズを通じて、A+Sは、シンプルな仕掛けで展示空間に驚くほどの装飾性を付与してきた。しかし、それは彼らの持つ一つの側面にすぎない。装飾性が結果として<見ること>を日常に回収するために機能するがゆえに、「光の持つ力の追求」において、A+Sは極めてそれを注意深く扱っているのだ。
 1996年の「REFLEX 1996」(「根の回復として用意された12の環境 日本・オランダ現代美術交流展1995-1996」)は、それゆえに提示されねばならない作品だったろう。会場となった廃校の教室、教壇の下のスタジアムライトが強烈な光でスクリーンを照らすこの作品は、それまで展開されてきたシリーズの中で最もポエジーから遠く、ほとんど最小限の装飾性によって構成されている。しかしそこで繰り広げられていたのは、ミニマル・アートあるいはレディメイドの反復といった事態ではない。
 日常的なものから引き出されるリアリティに依拠し、この世界に偏在する美を証そうととしたこれらの先行者に対して、A+Sは、日常の中に隠蔽される巨大な力自体を取り出し、彼我の距離をずらした上でそこにとりあえず置いてみせたにすぎない。それは美学的な要請において聖別されるのではない。あらゆる美術の前提としての<見ること>が、あまりにも脆弱なものであることを証そうとするがゆえに、力は追求される。
 1997年、6基の信号機を積み上げ、白塗りの細長い空間に設置した「REFLEX 1997−Signal」(「光をつかむ−−素材としての<光>の現れ」展、東京・O美術館)のカタログに、A+Sはこんな言葉を寄せている。

「もう一度光を見つめてみよう。私達は見慣れた信号灯の光の中にもあらゆるメタファーが発見できるはずだ。光はあらゆるものに通底している」(有地左右一+笹岡敬「アンケート《現代における<光>,あるいは<光>の表現について》」)

 しかし、信号灯の持つ予想外の強い光は、まず見る者からあらゆるメタファーを剥奪しはしまいか。外界から切り離され、距離を縮約され、本来の意味を失った青−黄−赤の反復の中で、人はメタファーの根拠を維持しえない。そして恣意的に切り出された時空において、かつて自らが属していた自己と他者の距離感を回復すべく、日常に立ち返ろうとする瞬間、まさにその瞬間においてこそ、あらゆるメタファーは起動する。
 ここにあるのは、あるいは<見ること>の本来性なのかもしれない。<見ること>はいつも、未開の領野に向かってひらかれているにもかかわらず、気がつけば慣れ親しんだ風景としての日常に回収され続けている。それでもなお<見ること>は、いつもすでに、主体の意識とほとんど関わることなく、繰り返し生起し続ける。人はこうした事態に対してもっと驚くべきではないだろうか? いずれにせよA+Sは、この偏在する驚くべき死角がひらかれる瞬間に立ち会うために作品を構成するだろう。
 その拡がりも奥行きもさだかならざる日常が、絶えまなく続く<見ること>の結果として維持されている時、この非−日常的な<見ること>にさらされ続ける日常の、その一つ一つの<見ること>こそ、体験と名付けられるべきものに他ならない。A+Sは、見る者に体験をこそ与える。だから人はそこで一人として同じものを見ることはない。体験とは、悲しいくらい孤独に味わわれるものなのだから。例えそれがいまここで開示されないとしても、彼は不意に思い出すだろう。日常の中で、突然、A+Sが切り出したあの光が回帰する。あらゆる脈絡を越えて、にわかに彼は力としての光を思い出す。そんな想起にも、またA+Sの意匠が刻まれている。


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