ここは、他のページとはちがい時間が逆に進みます。
狂転体(キョウテンタイ)というワークショップをつくった。最初のメンバーは柴辻秀彦、鈴木宏司、私。私たちはまだ学生で、柴辻は同級生、鈴木は同じ学年の作曲専攻だった。目的は「シュルレアリスムの再認識」だった。
最初に我々がしたことは大学の芸術祭でイベントをおこなうことだった。当時、パフォーマンスという言葉は無く、また今日のパフォーマンスとも意味が違うとも思う。そのイベントは、「クープランの祟り」(注1)というタイトルで、学食の前の芝生の広場にアップライトピアノを置き、鈴木が演奏を始める。その演奏途中から私と柴辻で彼をピアノごとハトロン紙で包み(注2)しかもその上からロープも架けてしまうというものだった。鈴木はその間もクープランの曲をカットアップしながらオートマティックに演奏を続けている。梱包物はしばらくの間演奏を続けているのだが、その行為を見ていなかった人たちは鈴木が自力で破って飛び出してくるのを見て驚くことになる。
(注1)横溝正史の映画が流行った最初の頃だった。
(注2)クリストの影響よりカプローの影響だろうか。
そして狂転体は様々な実験を続けることになる。
3月、京都のアートコアギャラリーでイベント。アートコアは昔、京都三条京極にあった画廊で移転前のギャラリー16の上にあった。私たちは部屋の壁、床をケント紙で覆いその上にダーマトグラフで三角定規を使い1週間三角形を描き続けるということをした。真っ白の空間は次第に三角形でうめられ、会期の終わりにはほとんど真っ黒な壁になる。その行為と同時に画廊の中では鈴木が作曲したワルツが演奏されている。バイオリン、パーカッション、リコーダー、声。それらは私たちが雇った京芸の音楽学部の学生と、友人たちによって続けられた。「五人による三角形的考察」というタイトルだった。
5月、雨の連休。私たちは名古屋の栄にある商店街が休日には遊歩道になることに目を付け、その商店街と交渉し(そのときの会長は漬物屋だったと思うが)5月の連休のときに商店街のスピーカーから自分たちで創った現代音楽を流すという計画をたてた。メンバー各自が各々創ったテープを持ち寄り、それを鈴木が編集した。ものをたたく音、アナログのシンセサイザー、食べる音、話し声、ピアノ。様々な音がミックスされたテープが準備された。連休の1週間前、協力してくれた友人が焼身自殺した。当日は雨。そこは遊歩道にならず、道路には車の走る音と雨の雑音があふれていた。それでも私たちは決行して音を流すことにした。音は雑音の隙間から途切れ途切れに街に流れた。歩く人の耳に忍び込むように自殺した人間の笑い声が聞こえた。
3月、「破随」前々から実現したかった舞台での発表。このときには関西学院大学の哲学にいるメンバーがいた。彼のプランによって「能の形式によるコンサート」という試み。今回も京芸の音楽の人たちに頼み実現する。このときにはやはり京芸の鬼頭君という後に名古屋フィルに行く(今は知らないが)バイオリニストの協力がものをいう。移転前の木造の京芸音楽学部で日夜練習。京都府立文化芸術会館というホールを借り、身の程知らずで半分入らず。大赤字に泣く。
8月の午後1時、暑い日だった。私たちはサングラスをかけ、黒いTシャツにジーンズ、胸に赤いバラを指すという異様な出で立ちで京都四条河原町交差点に立つ。メンバーと手伝いの+α4人は各々肩からテープレコーダーを下げ、交差点の四つ角へ。私たちは青信号になると歩道を渡り、その交差点の雑音を録音する。次の信号が青になる前に先ほどのテープを大急ぎで巻き戻し、次に渡るとき大音響で再生する。そしてそれを繰り返す。私たちは意識の中で時間をずらし続けた。「交差点における位相」というイベントは一時間行われた。
1週間後、私たちは難波で綿100キロを買い電車に乗り込み吉野へと向かう。そのころ私は元具体美術の嶋本昭三氏と知り合い(後、大喧嘩し決別することになるのだが)彼が推進していた吉野芸術村計画地で綿のモニュメントを作り、そこに建てられていた仮設のロッジで一晩ワークショップを行うというもの。その計画地は山間にあり真ん中が湿地帯になっている。そこに綿のキュービックをつくる。緑の葦の中に白い綿は、あっけらかんと放置された。綿100キロは重く暑かった。
そして、京都の八坂神社の横手にあったギャラリーサードフロアでのインスタレーションとパフォーマンス。サードフロアの畠中氏は当時私に一番美術的影響を与えたひとかもしれない。彼の推薦により狂転体は浜田剛爾氏が企画した「サマーパフォーマンス1979」に参加することになる。後に氏とオランダで再会することになるとは、その頃の私には知る由もない。私たちが最初に行ったのは、画廊のウエストラインに10センチごとにヒートンを打ち込み、そこに4キロメーターの凧糸をランダムに渡しもう一つの床を創るというものを公開で行った。それを見た浜田氏の賛美に私たちは喜んだ。
もうひとつ行ったパフォーマンスは、4人が床に座り1時間笑うというものだった。その時から参加した佐々木誠の発案だった。佐々木はイラストレーター志望の同級生で、その頃の一番親しい友人だった。鈴木のスコア、鬼頭のバイオリン、その頃知り合った大阪音大の助手だった小林田鶴子のシンセサイザーにあわせながら?我々は観客を前に笑った。クスクスと始まりげらげらと笑う。そして引きつるようにも。何も可笑しいことなど無いのに笑った。腹筋が何度もつりそうになった。観客は私たちを見て目を背けた。
8月、初の個展はサードフロアだった。A0のトレシングペーパーにどろどろの油絵の具でデカルコマニー。その上からロットリングで加筆。デカルコマニーは各々1対で壁に貼られ、画廊の壁のテクスチャーと交わっている。最初から私の作品は壁や空間と決裂することができなかったのか。2週間毎日画廊へ行き畠中氏と毎晩飲む。「一緒に地獄を覗こうよ」彼はそう言った。
9月、サードフロアで「S氏の3つの視」展。柴辻、佐々木、私の3人による展覧会で1週間おこなわれた。最初の2日は画廊の天井、床、壁面全部に透明のビニールシートを張り、締め切った中でお湯を炊くというもの。中は水滴だらけになり観客は白いサウナの中に。壁は水滴だらけ。今から思えば最初の水の登場だ。次の2日はそのビニールの部屋の真ん中に段ボールの箱を5個置きその中にドライアイスを入れ、上から星雲をコピーした紙で封印するという作品。初日だけ段ボールの外側に少しだけ霜が降りる。最後の2日は佐々木が自分の顔をアルミホイルで型を取りお面を造っていく。それはピンで壁に貼られ、床にも並べられていく。
3月、狂転体で展覧会をやってみようということになる。場所は神戸北野にあったギャルリーキタノサーカス。その画廊は北野通りに面した2階にあり、大きなウインドウになっているので通りからよく見える。中は紫の絨毯で、壁の片面は鏡、片面に白い暖炉、一方にピアノがあるという変わった空間だった。私たちはその天井近くにロープを張り各々が持ち寄った古着を水浸しにし、室内に干すということをした。会期中、新しいメンバーが白い布にくるまれロープで縛られ8時間放置された。(注3)鈴木は即興でピアノ演奏し、私たちはオートマティックに呼び交わした。画廊オーナーの福野氏は私たちのことをディレッタントと呼び、「これで画廊を閉める決心がついたよ」と言った。(注4)
(注3)あくまでも彼の意志で
(注4)その頃、アートコアはオーナーの松本氏が事情で画廊を閉め、サードフロアは経済的な事情で同じく閉廊していた
そして大学中退。教授には「お前に教えるものは何もない」と言われる。それもそうだ。
5月、「映像表現`80」京都市美術館。アートコアの松本正司氏の薦めで柴辻と出品。このときの作品はビデオインスタレーション。TVを3台づつ向かえ合わせに並べ映像を映す。そこにはニュースの司会よろしく人の顔が並んでいる。各自は渡された会話のテキストを1センテンス読んでは20秒沈黙するということを繰り返している。センテンスの長さは各々異なるので会話はずれていく。キャラクターが勝手に会話をはじめるという作品だった。テキストはR・D・レインの「結ぼれ」みすず書房を使用した。(注5)隣のカナダからの招待作家、マイケル・ゴールドバーグが私たちの作品音量にクレームを付ける。松本氏とその時一緒に出品していた今井祝雄氏が「作品の出来が良いので嫉妬しているんだ」とかばってくれ助かる。
この作品のコメント(当時)
S この錠剤を飲みたまえ。叫ばないですむようにしてくれるよ。
S’そうだ!私が獲得するものが多ければ多いほどそれにつれて、私はますます良い人になっていく。
S だがね、君の最善は、まだまだ足りないんだ。
S’ちがうわ!こんなに危険なものと直面しながら恐れないというのは、非常に危険な事だから。
S 君は自己矛盾をきたしているよ。
S’わたしって、滑稽ね。
S わたしが、あなたをさわったら、あなたを傷つけるのかしら?
S’いいえ。なんとか切り抜けるてだてとして、わたしは酒を飲み始めるの。
S わたしをいじめていいわ。
S’本当に・・・。わたし、おびえているの。
(注5)この作品は後、ジーベックの「MUSIC」ラ・フェニーチェの「光の記憶`96」で再制作発表する。
6月、「場の共有展」BOXギャラリー。名古屋の栄にあったギャラリーで朝日新聞の学芸記者の奥さんが経営していた。鈴木との2人展で私が作品を造り彼が音響と会期中に演奏。二人で決めたテーマは「重力」(注6)。段ボールの箱の表面にコンクリートを薄く塗り、会期中クラックが入る。重低音でそのコンクリートは会期中剥落していく。たぶんこの画廊で戸谷成雄氏と初めて話す。戸谷さんは覚えていなかったと思うが。
(注6)この時期、埴谷の「死霊」に出会う
12月、佐々木、卒業制作を出せば卒業が決まっているのに提出せず上京。後、大学抹席。
4月、大阪府立現代美術センターで2回目の個展。大阪府民ギャラリーが移転して名称を変えた間もない頃だったとおもう。A0のトレシングペーパーに蜜蝋に薄く着彩したものを爪楊枝でドリッピングした作品約30点。遠目からは壁に何もないように見える。たまたま見に来た木村秀樹氏からは「ポロックの淡泊なやつ」と評されたが、本人はミショーの影響の方が大きかったと思う。
6月、京都日仏学館イナハタホールで狂転体「ネオバロックの為に」一人を部屋の中央に白い布をかぶせ周りを蝋燭で封印していく。中の人と外の人はオートマティックに呼び交わし、演奏は鈴木のピアノと鬼頭のバイオリン、小林のシンセサイザー。観客の中で泣き出す人が現れる。狂転体のイベントが一番儀式的になったとき。その後、日仏学館の館長が替わる。私たちのせいではないと思うが。
5月、現美センターで個展。トレシングペーパーを木枠に張り色々なオブジェをその木枠で挟む。その上からペインティング。作品は壁に対して斜めに立てかけ空間構成。オブジェはシルエットでしか見えず、ペインティングは壁に色の影を落とす。光の影を使用した初めての作品。
8月、佐々木失踪。
6月、狂転体イベント。ボックスギャラリー。オーナーが閉める最後の展覧会だから何をしても良いと企画してくれた。画廊の空間を金網で二つに仕切る。その金網を石膏で塗り固め、ピンホールからかすかに奥の半分の様子がわかるようにする。敷きっぱなしの布団。積み上げられた大量の本。つきっぱなしのノイズの出ているテレビ。それらの上から薄く均等に振りかけられた石膏の粉。失踪した佐々木の部屋のイメージ。最終日に声楽家のレクイエムとともに壁を打ち壊す。(注7)この時のメンバーは、柴辻、鈴木、私。常時5〜7人のメンバーの入れ替わりがあったが残ったのは最初の3人。
(注7)初めて美術手帖の展評に載る。担当は読売新聞の石井氏だったが後日彼に聞くと覚えておらず。
7月、そして狂転体解散。
6月、現美センターで個展。1×2メーターの透明アクリル板に裏表からペインティング。空間にスチールワイヤーをランダムに張り、そこにつり下げて空間構成。人の風で揺れ色の影が交差する。このシリーズは有地との出会いまで続くことになる。
3月、大阪、中津にあるノース・フォートで個展。ここでは藤本由紀夫氏も展覧会を86年からしている。丁度、私とすれ違いになっている。
4月、ノース・フォートのディレクターだった杉本憲彦氏と柴辻、私の3人のパフォーマンス「食卓」杉本はテーブルを叩き、柴辻は蝋の食品サンプルを燃やし、私は米をぶちまけた。また観客の女性の一人が泣いた。ほんとに怖かったらしい。
8月、現美センターで柴辻との合作。「ネオバロックの為に」墜落した天使がテーマ。トレシングペーパーの雲、床には羽が散乱した死体、塩で造った大きな三日月が光を浴びて光る。
8月から、システム手帳サイズの作品を20点、柴辻と私が各々作り、私たちが選んだ人たち20人に郵送するということをはじめる。それは12回続けられ、最後にそれらの作品が収まるアクリルケースを送って終了する。観る造る買うの関係を逆転したかったからだ。
11月、小林の勤務する大阪音大講師グループの作品発表会の美術一切を依頼される。場所は大阪、吹田メイシアターのメインホール、小ホール、ギャラリー等全館。「ペンタクト」という名前が付けられたのは主要メンバーが5人だったから。
ポスターデザインは笹岡
このとき、すべての美術をすることに手がまわらず、有地左右一に舞台照明を依頼する。有地は大学での一年後輩で当時、照明関係の職に就いていた。(1998年現在も)
この時にギャラリーで行ったのは「シャドウ・ハンティング」というパフォーマンス。参加者は鈴木、柴辻、杉本、私、アシスタントに上村尚子。これは、ギャラリーにリングを造り、その中に柴辻がライトを持ち、杉本がポラロイドカメラを持つ。そして私がレフリーとして3人入る。3分10ラウンドでレフリーがランダムに動き回る。杉本はコーナーに設置されたライトが形作る私の影を撮影しようとする。柴辻は手に持つライトでその影を消し邪魔するというもの。鈴木のコンピュータ演奏とともに40分行われた。どちらが勝ったのかは不明。杉本がプロレス好きだったことをヒントに私と柴辻で考えた。入場料を取ったので不評だった。それでも大まかにはこの企画は盛り上がり、有地と私は今後何か美術的なことを一緒にやることになる。この時の有地が言った「僕は光の魔術師になりたい。」という言葉が後のキーワードになる。ただ、有地が「光の魔術師」になる前に、私が「光のペテン師」になってしまったという人もいる。
この年はなぜか展覧会せず。いや、グループ展ぐらいはしているかもしれない。ここでの文章は基本的には資料に頼らず、なるべく記憶をたどって書き起こしている。あまりにいい加減なところは順次訂正していくつもりではあるが。これらの記憶にはいくつかの展覧会が抹消されている。それには意図的である部分と無意識的な部分とがある。作家は自分のことについて本当のことは言わないものだ。
10月、現美センターで柴辻と2人展。なぜか自分の作品に記憶が無い。ポッカリと抜け落ちてしまっている。柴辻の作品で、黒いアンティークの扇風機の蓋と羽をとり、そこにマネキンの顔だけを切り取ったものを取り付け、それがカタカタと不安げに回転している様だけが印象に残っているのだ。
この年から有地との作品制作が始まる。有地の平野のマンションに週末は入り浸りだった。当時の私にとっては光は捕らえ所がなかったが、酒の量とともに理解が深まっていった。ふたりが最初に水を使うことを思いついたとき、とにかく早く結果を見たいとリビングの座テーブルの周囲にガムテープを張って壁を作り、そこに水を溜めた。そしてそこに光を当ててみるというところから始まった。実験は見事成功し最初のプランができた。ふたりは手を取り合って喜んだが、その瞬間、ガムテープの堤防は決壊した。部屋は水浸しになった。そこから我々の水との悪戦苦闘が始まった。買い物から帰ってきた有地の妻は「あんたら、なにやってんの!」それが有地+笹岡の最初の評価だった。
有地の実家が昔やっていた今は使用していない木造の鋳物工場だった場所を、有地+笹岡の実験場とすることになる。その場所を使用するために周りの草刈りから始まるのだが、その時にどこかで犬が吠えていたため「ドッグスタジオ」と命名する。
作品が一応見えてきたので、発表場所を探すことにする。私は前年オープンした大阪のONギャラリーを推す。たまたま観たONのオープニングがトニー・クラッグで、なんと渋い画廊ができたことかと思ったのと、シンプルな空間で外光が遮断されているからだ。そして12月発表。最初の展覧会にしてはずいぶんジャーナリスティックに評価される。特にONのオーナの渡辺氏が気に入り交流が深まる。この後、私は渡辺氏と長い付き合いになる。
何度かドッグスタジオで作品の発表をする。鑑賞者はごく親しい人限定のような形だったが、そこでの発表と実験が私たちの光表現に対する認識を深めることになる。この時期すでに1989年のONギャラリーの作品を完成させる。水槽でプリズムを作り光を水の波紋で分光するという作品。
5月、有地+笹岡、渡辺氏の企画でソウルのナウギャラリーでのグループ展に参加。韓国の作家と日本の作家数名のグループ展。オープニングの朝、ある女性が私たちの作品のライト100vをコンセント200vに無断でつっこむ。ライト2個の内1個が爆発、パニックになる。有地が遅れて入国することになっていたので、電話で機材を頼む。初日の昼は1個だけのライトでしのぐ。壊した女性が多摩美に留学していたので日本語ができ恩を着せて通訳してもらう。転んでもただでは起きない。有地、オープニングの夕方到着「おまちどぉ。電気やでぇーす。」次の日から画廊回り。韓国にもしっかりとしたアートシーンがあることに驚く。それよりも驚いたのは、朝から晩までの韓国スタイルの接待責め。さすがの私もつらかった・・・。
会場風景。中央が有地+笹岡の作品
8月、有地、イタリアに転勤になる。89年の作品の事前準備をし、心配しながらも出発する。しかし転勤自体は前々から彼が希望していたことが念願かなったこと。
9月、福岡にある三菱地所アルティアムで有地+笹岡の「WATER」発表。BGMを鈴木に依頼する。アルティアムは長さ20メートルの長い空間で、大空間で発表することに自信が付く。オープニング、有地から国際電話がありできを気にする。「どうだった?うまくいってる?」「りっぱなもんですわぁ」とは、後から出発する妻君の返事。この時、企画した中村淳子氏や福岡市美の黒田雷児氏と朝まで屋台を飲み歩く。博多を第二のふるさとと呼んでも良いくらい気に入るが、いまだ次の展覧会呼ばれず。酒癖が悪かったか。
10月?、画家の黄悦氏(ファン・ルイ)に頼まれ中之島公会堂でおこなわれた天安門事件1周忌に参加する。チラシ、チケットのデザインと、インスタレーションの発表をする。大岡信ら詩人が朗読で参加。
11月、ONギャラリーで有地+笹岡のプリズムの作品発表。
1月、京都ギャラリー16で有地+笹岡。アルティアムで観た16が正月1番の企画で開いてくれる。やっと16でできるようになったかと喜ぶが、実際は予定していた村岡三郎氏の個展がベネチアビエンナーレの為に中止になり回ってきた話。作品はアルティアムの再構成。会期中にギャラリーサージの酒井信一氏から展覧会の話が電話で入る。
2月、ONギャラリーで個展。画廊の壁にワイヤーを張りそのワイヤーに1×2メーターの硝子を2枚小さなバイスで密着させたものをつり下げる。モーターを取り付け、その作品はギシギシと音を立てながらゆっくりと揺れる。部屋の壁にはナトリウムライトが取り付けられ、作品と空間はオレンジ色に染められる。2枚の硝子の間にはニュートンリングと呼ばれるモアレが浮き出ている。会期中1度ワイヤーが切れそうになる。気の休まらない展覧会だった。美術手帖で「エイズのように美しい」と石井弥夢氏に評される。今ならさしづめ「香港風邪のように美しい」とでもいうのであろうか。病にも流行があるとは。否、ウイルスとは、はやるもの・・・か。
3月か4月、上京しサージまで打ち合わせに行く。たぶんこの時に田尾氏と画廊で出会ったのだと思うのだが。
6月、大阪、平松画廊で有地+笹岡。道頓堀のど真ん中にあった画廊で、閉廊最後の企画に呼ばれる。いったいいくつの閉廊に立ち会わなくてはならないのだろう。有地とプランについてファックスでやりとりするが、うまくコミュニケーションを取ることが難しい。この時、同じ職場だった中嶋昭文(後にAUBE)に音響依頼する。会期中に有地が一時帰国する。
3月、ONギャラリーで個展。「OIL ON WATER」最初のソロでのWATERシリーズ。細長い水槽の中に水を張り上に油膜をつくる。上から部分的にスリット状のライトを当てる。空間はナトリウムライトのオレンジ色の光で満たされている。スリット状の所だけが銀色に光り、他は水槽の底まで見ることができる。水槽の底にスピーカーを仕掛け、水のノイズが蠢いている。この時も音響に中嶋の協力を得る。
4月、東京、ギャラリーサージと西武百貨店大宮店で有地+笹岡の同時開催。サージでプリズムとノイズを使ったインスタレーション。西武では、水銀灯を使ってデパートの一角の壁が周りの売場より明るいという作品を発表。赤坂での作品タイプの初出。
6月、大阪、現代中国芸術センターで藤本由紀夫+笹岡敬展。そもそも黄悦氏が現代美術の画廊を始めるということで、そこのディレクターを頼まれる。開廊のために展覧会の準備を進めるなか、藤本氏に依頼することが最初に決まる。私は藤本氏に個展でお願いしたのだが、スケジュールの都合、私とのコラボレーションだったら引き受けるということになる。しかし画廊オープンが間近で中止になり企画だけが宙に浮く。そこで古美術の方の新しいスペースで開催。作品は水槽を画廊の真ん中に置き、上から水を落とし続けるというもの。最初は水槽からホースで外に流すようにしていたのだが、ビルの入り口付近の造作が悪く地下に水が漏るというアクシデント。結局、毎日ポンプで汲み出すことにする。水の落ちる音が藤本氏の作品。横手のウインドウに藤本氏が持ってきた小さな小便小僧が置かれる。
写真:笹岡
藤本+笹岡の案内状から
藤本 前にコンピューターで、ランダムにノイズを作って、ピコパコっていうのをずーと短縮していくとそれが水の流れになってくるんですよ。サラサラサラサラっていう、水のそういう音って面白いなと思って、
笹岡 展覧会でノイズ的なものが流れていても、水が目の前にあることによって、それが逆に水の音に聞こえるみたいな、ものの在り方と音の在り方をぐるぐる回してしまうところが、他の物質とはちがう力をもっているように思うんです。
笹岡 藤本さんが水というものにたいして目をつけてるという事と、僕がインスタレーションで水を使うという事とは、おそらく、水の持っている力という事で共通点があるのではないかと思うんですよね。
藤本 水だけでは形にならないですよね。
笹岡 ならないです。
藤本 器とか、そういう問題があって・・・。今まで、落差をつけるというようなことはしたことがありますか。
笹岡 落差はまだないですね。
藤本 デビットボウイが、インタビューで、ちょうどローズヒーローっていう昔LPをだした時、その中に”モスガーデン”という曲があって、日本に行った時のいろいろな印象で作った曲で。その中で、少しうろ覚えなんだけど、三島由紀夫の小説の中でこういう事があった、という言い方だったのか、イメージがあったということだったのか覚えてないんですけども。日本庭園があって、滝が作られている。それで、滝の流れる音がちょっと変わっていたというんですよ。それで、見たら、滝の中腹のところに岩が出ているんですけど、そこに犬の死骸が引っ掛っていた。
9月、神戸、ジーベックホワイエで個展。大きなタンクを6メートルまで持ち上げ下のタンクに大量の水を落とす。水は間欠で落ちポンプで巡回している。搬入で水槽を持ち上げるとき、重すぎて持ち上がらず自動車にロープを結びつけ、引っ張って上げる。搬入の前日、クリストの事故が報道されたばかりだったのでスタッフ一同不安がる。私も怖かったが・・。作品の音響を中嶋に協力してもらい、オープニングに二人でパフォーマンスを行う。音響メーカーだけに大きなスピーカーを用意してくれ、大音響でやりたい中嶋が喜ぶ。
写真:笹岡
1月、ギャラリーサージで個展。水とヒーターのシリーズが始まる。私としては転機になる作品。さすがに、有地+笹岡のプランがネタ切れ、サージでの展覧会を個展で行うことにする。この頃、名古屋ICAの逢坂恵理子氏(注8)から資料の請求がある。相変わらずサージには人が来ないが学芸員と評論家はやたら見に来る。東京での発表は仕掛けを作らないと人が集まらないと思う。
(注8)現在、水戸芸術館学芸員。彼女が美術館に行くと聞いて私たちは反対だった。制度の外側にいてあれだけの仕事ができる人材が希有の存在だからだ。現代の日本の美術状況は彼女のような存在も許さないのか。
3月?、有地帰国。ようやく有地+笹岡の再開。新しい作品にとりかかる。
4月、ONギャラリーで個展。サージでの作品をバージョンアップしたもの。オープニングに中嶋とパフォーマンス。作品にマイクを取り付け、水の落下音を拡声しドライブしていく。
パフォーマンス風景
8月、水戸芸術館、クリテリオム2。クリテリオムとはラテン語の基準という意味だそうだ。私を選んだのは浅井俊裕氏。作品のために部屋のダクト工事をしてもらえる。壁は展覧会ごとに塗り替え。美術館とはそういうものかと思ったが、後、大間違いであることがわかる。
9月、名古屋、MATで個展。水戸の作品を持っていく。名古屋のアートシーンが特別であることに驚く。こんなに大規模なコレクターが多く、しかも日本のアートシーンを支えていたとは。学生の頃にはわからなかったことだ。HAMやギャラリーセラーなどができ一番名古屋が元気だった頃。MATの松本広紀氏もコレクターから画廊を開く。最初に画廊を下見に行ったとき李禹煥の「線より」の代表作が並んでいたことに驚く。ここでも中嶋とパフォーマンス。中嶋が持っていったカセットテープが完売する。
9月、大阪、集雅堂ギャラリーで有地+笹岡。切れかけの蛍光灯をモチーフにして制作。蛍光灯を変圧して人工的に切れかけの状態にする。オープニングで中嶋とパフォーマンス。有地がパフォーマンスにはまるのもこの時から。たぶんこの時、この技術的ノウハウを有地が相談しに行ったのが四宮氏(注9)「僕らは一生懸命、蛍光管がちらつかないように研究しているのに、きれいにちらつくとはどういう意味や?!」と怒られたとは有地の弁。
(注9)この時の四宮氏がシノバーのマスターになるとは誰が想像できよう。
11月、大阪現代アートフェアー、ONギャラリーから出品。小品で展示したがほとんど完売。こんな時代もあったのだ。
4月、大阪、イトーキクリスタルホールで有地+笹岡。ミラーボールを使った作品で評価の賛否分かれる。特に画廊関係には評判悪し。オープニングで中嶋とパフォーマンス。パンフレットのデザイナーと打ち合わせしたら友人だった。関西は狭い。おかげでこちらの希望通りにわがまま通すことができる。
イトーキ、パンフレット
4月、ギャラリーサージで有地+笹岡。集雅堂ギャラリーで発表した「LUMINOUS」を発表。やはり中嶋とパフォーマンス。どちらかというと有地が積極的にやりたがる。
サージでのパフォーマンス
6月、東京、NWハウスでキュレーターズ・アイ。逢坂氏の推薦。ヒーターのシリーズを新作。丁度、ベネチアビエンナーレの時期で評論家の来廊少ない。しかし、逢坂氏の的確なテキストがうれしかった。
9月、MATで個展。ライトに水が落下する新作。このときも中嶋とパフォーマンス。会期中に滋賀近美の高橋佐智子氏が来、「時間/美術」の出品が決まる。
11月、ONギャラリーと福住画廊とで同時開催。ONはインスタレーション、福住はドローイングで。このときONの渡辺氏、オープニング間近に癌で入院。入院前にドローイングの値段を福住氏、渡辺氏、私の3人で決めるが渡辺氏はかたくなに、安い金額を主張する。そのおかげか完売。単に友人が買ってくれただけという噂も。生業の仕事の少ない頃だったのでありがたかった。このとき兵庫近美の尾崎信一郎氏(注10)がアートナウの出品依頼に来る。新作ということだったので、前々から考えていた作品を提案する。こちらのテーマも「時間」滋賀近美と同じテーマなので驚く。
(注10)現在、大阪国立国際美術館
12月、集雅堂ギャラリーで有地+笹岡。高周波を使用した作品発表。この頃から四宮氏に全面協力してもらう。四宮氏は大変アート好きだが、この頃まだカシニョールとマチスしかわからず。「僕、ピカソ持ってるねん」といってマグカップを自慢する。しかし本業ではさすが、私たちの要求を次々に実現化する。一方、実験で四宮氏の予想外の現象も数々起こりテクノロジーとはそんなものかと思う。
12月、ジーベックで「MUSIC」に出品。ディレクターは藤本由紀夫氏。「トーキングコミュニケーション」をテキストを村上春樹の「ノルウェーの森」に変えて再制作。パーティではじめて、同じ出品している小杉武久氏と会う。そのときに一緒に来ていた、私の友人でコレクターである小田泰雄氏が小杉氏のファンだったので紹介する。彼は色々聞きたいことがあったらしいが、緊張して話せず。やっと聞いたのが「今、どちらにお住まいですか?」
MUSICパンフレット
3月、岡山市、ヒロ・チカシゲギャラリーで個展。私を扱う画廊の年齢がほとんど同世代になる。近重氏と松本氏は3つ上で同い年。酒井氏は2つ上、福住氏は同い年。岡山にうまい魚が多いことを知る。藤本氏もここでやることになる。
3月、有地+笹岡、集雅堂ギャラリーよりNICAFに出展。搬入、搬出と私たちの宿泊は手弁当。約束していた制作費は踏み倒される。大阪にもどってからオーナーの岡田一郎氏と決裂。金銭トラブルが解決しないため、その後の展覧会依頼断る。「展覧会できないように潰してやる」と脅される。その翌日、MATの松本氏から電話、「喧嘩したんだって?」「どこから聞いたんですか?」「東京から」情報の早さに驚愕。
5月、滋賀県立近代美術館「時間/美術」に出品。隣に藤本氏が「藤本+笹岡」の水槽にオルゴールをつけた作品を出す。私の作品がまぶしく、鑑賞者が次にある宮島達夫氏の暗い部屋に入ると目に残像が残る。サブタイトル「宮島つぶし」
5月、兵庫県立近代美術館「アート・ナウ」に出品。尾崎氏の努力でゼロックスからデジタルコピー3台借りられる。本人は満足な作品だったが、水の作品を見たかった人には不評。学芸員の山崎均氏とトークショー。なんとか目標の笑い3回取る。
このときのメモの一部から
表現以前の平凡な事物の時間性
ものが存在するのを見るときその存在とは持続的存在を意味している。それは、そこにずっと存在し続けているという意味でそこにある。しばらく前からということは、当然、過去からそこに有るということで、突然そこに出現したわけでは無い。ということは、過去の意味も現在に含まれている。当然、今ここにあるという現在の意味もある。つまり存在とはすでに時間であり、存在の中に時間が含まれていると考えてよい。
時間は均質なのか
時間を計るということは、1年を360日に1日を24時間にというように、時間をある均一の長さに分割するということである。しかしながら、現在の暦でも閏年や閏秒の存在があるように、時間を均一化することが便宜上からあることがわかる。恋人と過ごす1時間が短く感じられ、つまらない授業がとても長い1時間であったことは誰でも経験しているだろう。その実体験的な経験を無視して均一なものと理解してよいものだろうか。例えば、今回のコピーの作品は3台のコピー機が20秒から40秒の間隔ぐらいで光の点滅を繰り返すというシンプルな作品だが、その光の点滅のずれが、規則正しい偶然の間をつくっている。その時光の点滅を待つ時間は体感的には予測できず、各々異なった間として感じ取るはずである。それは、その時の個人としての間であり時間であって、鑑賞者に共通した時間の感覚を提供しない。
8月、有地+笹岡、東京、秋山画廊とギャラリーサージで同時開催。サージで高周波。秋山でインバータの作品を発表する。この時のオープニングは100人近く集まり、東京でもやっと作家らしくなったと思う。パンフレットの評論を水戸芸の浅井氏に頼む。酒井氏の文章が良く感心する。「べつにどおってことねえよ」とはほめた私に対する返事。
サージ・秋山のパンフレット、デザイン笹岡
9月、MATで「5人展」この時、さかぎしよしおう氏と初対面。作品と本人のギャップに驚く。
10月、MATで個展。
11月、広島市現代美術館「光と影」有地+笹岡でミラーボールの作品。学芸員の出原均氏がコピー機の作品を評価していて、ホッとする。
1月、友人たちを「光と影」に案内するために広島に1泊で行く。向こうで牡蠣を腹一杯食べご機嫌で帰ってくる。そのまま、同行していた豊中の小田さんの家に泊まる。朝、うつらうつらしていると、なにか「ゴーッ」という音が聞こえ外が光る。と同時に大きな揺れが。最初は何かが爆発したかと思うが、直に地震だと気づく。回りで崩れる音が響く。小田家は大邸宅だが、それでもつぶれて下敷きになることを覚悟する。そこは無事だったが、周囲の古い家は倒壊。数時間停電で情報わからず。朝、枚方の実家に電話するがまるっきり無事。神戸が震源地とわかり、あわてて有地に電話するがもうすでに通じず。神戸方面の友人たちはずいぶん後まで連絡がとれなかった。車を借りてアパートに帰ってみると中の作品はすべて倒れ冷蔵庫に穴が空く。足の踏み場も無く天井から水が滴る。そこにいたら無事でも骨折は免れなかったと思い、ぞっとする。尼崎の水道、ガスの復旧が遅かった為、約1月小田家にお世話になる。
2月、富山県立近代美術館「とやまの美術」出品。作品集荷が震災前だったので助かる。震災にて出品できずというのでも面白かったかとは思ったが、やはり作品が無事で良かった。学芸員からは震災の話題ばかり出る。
6月、「水の変幻-その新しき表現」O美術館に出品。出品作品を見ると学芸員の天野一夫氏が水の表現を博物館的に見せようとしている。私の作品にも何かしらの現象的要素を期待していたようだが、あえて無視した作品にする。催し物としては成功したのかもしれないが、「鉄の彫刻展」や「石彫展」と何が違うのか。
「やわらかく重く-現代日本美術の場と空間」埼玉県立近代美術館に出品。学芸員の前山裕司氏が自分の趣味で作家を選んだと断言しただけのことがあり、まとまりのある展覧会だったと思う。いわゆる伝統的な絵画や彫刻から軽やかに逸脱することを目指している作品が集まり、私にとっても刺激的だった。