HISTORY |
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BC1200頃 | 古代イタリア人、北方よりイタリア半島中部に移住。 | ||||||||||
BC800頃 | エトルリア人、恐らく小アジアよりイタリア半島北部に移住。 | ||||||||||
BC 753 | 伝説上のローマ建国。 4.21ローマ建国。初代王ロムルス。サビニ王ティトゥス・タティウスとの共同統治。 | ||||||||||
BC715 | 第二代王ヌマ・ポンピリウス即位。 | ||||||||||
BC673 | 第三代王トゥルス・ホスティリウス即位。 | ||||||||||
BC641 | 第四代王アンクス・マルティウス即位。 | ||||||||||
BC616 | 第五代王タルクィニウス・プリスクス即位。 | ||||||||||
BC579 | 第六代王セルヴィウス・トゥリウス即位。エトルリア 人 王 の 時代 の 開始 | ||||||||||
BC578 | 民会の一つ兵員会を設立。 | ||||||||||
BC534 | 第七代王タルクィニウス・スペルブス即位。 | ||||||||||
BC510 | 頃 第一次ローマ・カルタゴ条約。ローマは西地中海に於けるカルタゴの貿易独占承認。ローマ及びその同盟者カルタゴの攻撃を受けない。 | ||||||||||
BC509 | ルクレティア凌辱事件。ローマは共和政を宣言。プブリコラの統治始まる。王政廃止(王を追放)、共和政樹立 | ||||||||||
BC508 | エトルリア人ポルセンナ、ローマを占領。 | ||||||||||
BC507 | カピトリウムにユッピテル神殿建立(貴族の祭祀)。 | ||||||||||
BC506 | ポルセンナと和約。 | ||||||||||
BC504 | サビーニ人アッティウス・クラウスス、ローマ市に移住(最後の氏族)。 | ||||||||||
BC503 | プブリコラ死亡。 | ||||||||||
BC501 | 初めて独裁官が任命される。 | ||||||||||
BC499 | 7.15 レギルス湖畔の戦い(ローマ:ラテン 同盟 に 勝利 ) | ||||||||||
BC498 | 第一次ラテン人戦争(〜493)。ローマはラテン諸市の自治を承認するが、戦時には軍事指揮権を行使。相互に貿易、通婚を認める。 | ||||||||||
BC496 | 平民層、アウェンティヌス丘にて祭祀挙行。 | ||||||||||
BC495 | 平民は共同宣誓し、ローマ市を去ってアウェンティヌス丘の聖山に立て籠もる。貴族の譲歩で、ローマに戻る。その結果、トリブス制平民会成立。護民官が指揮。その任務は護民官(3名)の選出、及び平民に関する決議。護民官の任務は(身体は神聖不可侵とされ)執政官の横暴から平民を守り市民に対する刑罰或いは逮捕への異議申し立て権、戦時を除き政務官の職務行為や元老院の決議に対する拒否権を持つ。 | ||||||||||
BC 494 | 聖山事件(平民が蜂起し、平民会と護民官が設置される。) | ||||||||||
BC493 | ケレス、リベル、リベラの三柱の神々を祀るアウェンティヌス丘の神殿を奉献。平民造営官が神殿監督を担当。護民官を補佐。執政官スプリウス・カッシウス、ラティウム人と条約締結。 | ||||||||||
BC492 | 頃 コリオリ陥落。 | ||||||||||
BC488 | 頃 コリオラーヌスがローマを攻める。 | ||||||||||
BC486 | ヘルニキ人をラテン人と同様に扱うという条約を結ぶ。アエクィ、ウォルスキが山地から平野部に侵入し、これを破ったローマは以後対外強硬策に移る。 | ||||||||||
BC485 | 頃 貴族は身分を閉鎖化。 | ||||||||||
BC485 | スプリウス・カッシウスの土地法案。 | ||||||||||
BC478 | 頃 7.18 クレメラの敗戦(ファビウス氏族、ウェイイと戦って全滅)。 | ||||||||||
BC475 | エトルリア人、クマエに敗れローマを去る。 | ||||||||||
BC473 | タレントゥムとレギウムがイヤピュゲス人によって討たれる。アペニン山脈の人々が海の方へ移動。マグナ・グラエキアの諸市は、最初にこの変動に抵抗。タレントゥムとレギオンは、イヤピュゲス人によって災害を受け、その存在すら危うくなり、苦しい守勢に立たされた。ラティウムにエクエス人とサビニ人が進出して来た。 | ||||||||||
BC460 | サビーニ貴族ヘルドニウス、カピトリウムを一時占領。 | ||||||||||
BC459 | アキリウス法の制定(アウェンティヌス丘を平民居住区に開放)。 | ||||||||||
BC458 | 独裁官キンキナートゥス、アウェークィー族を破る。 | ||||||||||
BC453 | 3人の元老院議員が法律制定の為ギリシアを視察。 | ||||||||||
BC451 | ( 階級 闘争 の 結果 ) 十二 表 法 の 成立 | ||||||||||
BC 450 | 十人委員会がソロンの業績をもとに慣習法を十二表法として制定。内容は私法、刑法、手続法、国家法、宗教法規等。貴族、平民間の通婚を禁止。これらの法規は12の銅版に記されフォルムに掲示。450頃 サビーニ人の第二次侵入。 | ||||||||||
BC451 | 十人委員会の解散。 | ||||||||||
BC449 | 財務官が置かれ、国庫の管理を担当(執政官によって任命されていた財務官が民会によって選出される様になった?)。 | ||||||||||
BC447 | カヌレイウス法により貴族・平民間の通婚が可能となる。執政官職の代わりに執政官権限軍事護民官を設置(定員は6名)。執政官と同等の権力を有し、平民も就任し得た。 | ||||||||||
BC445 | カヌレイウス法(貴族と平民の通婚が認められる) | ||||||||||
BC 445 | 監察官が置かれ、風俗の監視、財産査定を担当 | ||||||||||
BC443 | 頃 サムニテス人がカプアを占領し、カンパニア地方にオスク人の国を建設する。 | ||||||||||
BC438 | フィデナエとの戦争(〜425?)。 | ||||||||||
BC435 | 頃 市民の名簿を作る為にケンソル団が創設される。 | ||||||||||
BC430 | 頃 ローマ人とラテン人の同盟。ラティウムへのサムニテスの脅威から。アウェークィー人とウォルスキー人を決定的に打破。この時若きカミルスが活躍。 | ||||||||||
BC425 | フィデナエを陥落させる。 | ||||||||||
BC423 | サムニウム人のカンパニア占領(〜421)。サムニウム人はカプアやクーマエを陥落させる。侵入したサムニウム人は徐々にカプア人と同化し、後から来るサムニウム人やケルト人撃退の役を担った。 | ||||||||||
BC406 | ウェイイとの十年戦争(〜396)。 | ||||||||||
BC396 | ウェイイを 包囲 、エトルリアを 制圧 | ||||||||||
BC396 | 独裁官カミルス、ウェーイイーを占領。 | ||||||||||
BC390 | クルシウムの戦い(ガリア人 VS. ファビウス・アンブストゥス) 7.18 アリアの戦い(ガリア人 VS. ローマ)ローマはカピトリウムの丘を除いてガリア人に占領される。7カ月の包囲の後ガリア人は退去。 | ||||||||||
BC 390 | ケルト人の来襲 | ||||||||||
BC390 | ガリア人のローマ劫掠 | ||||||||||
BC389 | カミルスがローマの同盟国スートリウムを解放。 | ||||||||||
BC384 | マルクス・マンリウス・カピトリーヌスを処刑。 | ||||||||||
BC380 | ローマ市再建。七つの丘を囲む強固な城壁(セルウィウスの城壁)の建設。 | ||||||||||
BC378 | ウェーイイーの旧領に4トリブスを設置。 | ||||||||||
BC375 | リキニウス・ストローが護民官となる。 | ||||||||||
BC367 | 再度ガリア人の来襲。独裁官にカミルスが任命され、これを破る。リキニウス・セクスティウス法承認。内容は借財の緩和(利息として既に支払われた額を元金から控除)。公有地私有の制限(一人500ユゲラ〈125ha〉まで)。執政武官職の廃止、及び平民に執政官職を解放。法務官及び高等造営官の創設。 | ||||||||||
BC367 | リキニウス・セクスティウス 法 の 成立 により 平民 の 地位 が 向上 | ||||||||||
BC 367 | リキニウス・セクスティウス法(執政官のうち1人を平民から選ぶことになる) | ||||||||||
BC366 | 初めて平民出身の執政官が選ばれる。以後法務官はローマ市民同士の訴訟を扱う | ||||||||||
BC365 | カミルスが疫病で死亡。 | ||||||||||
BC358 | ガリアの脅威に対抗すべく、ローマ、ラテン諸市ヘルニキ族間の条約更新。 | ||||||||||
BC357 | リキニウス・ストローが自分の定めた法律により罰せられる。エトルリア諸都市と戦い、その大半を屈服させる(〜350頃)。 | ||||||||||
BC356 | 独裁官職を平民に開放。 | ||||||||||
BC354 | ローマとサムニテス族が対ガリア人防衛同盟を結成。両者に共通の隣接都市(ウォルスキ、アウルンキ、カンパニア)を抑える。 | ||||||||||
BC351 | 監察官職を平民に開放。 | ||||||||||
BC348 | 第二次ローマ・カルタゴ条約。ローマとラテン諸市は西地中海貿易から締め出されるが、シチリア、カルタゴとは交易可能。ローマに服属するラテン諸市をカルタゴの干渉から保護する為のもの。 | ||||||||||
BC345 | アウルンキ族服属。 | ||||||||||
BC343 | 第 1 次 サムニウム 戦争 〜BC341 | ||||||||||
BC343 | シディニキ市がローマ・カプア条約によりサムニテス族と結ぶ。(←→)サムニウム人がシディニキ人とカンパニア人を攻めた為、ローマがカンパニア人の要請を受けて介入し、サムニウム人を破る。第一次サムニテス戦争(〜341)。サムニテウス戦争(〜BC290) | ||||||||||
BC341 | 第一次サムニテス戦争終結。サムニテス族はカプアのローマ編入を、ローマをシディニキ市のサムニテスとの合併を相互に認める条約で。 | ||||||||||
BC340 | 第二次ラテン人戦争(〜338)。ラテン諸市は同盟を再組織して反乱。シヌエッサの戦い(ローマとサムニテスの同盟軍 VS. ラテン諸市)。 | ||||||||||
BC340 | ラテン 戦争 〜BC338 | ||||||||||
BC338 | ラテン人戦争の海戦に勝利。戦利品の船の舳先はローマのフォルムの演壇に飾られた。ラテン同盟は解体。ラテン諸市はそれぞれ異なる法的地位を与えられてローマと条約を結ぶ。カプアはローマと同等の法的地位を与えれ、独自の軍隊の編成、貨幣鋳造、自治組織等が認められる。プブリウス・ピロの立法。民会決議の有効性の承認を強制(平民の政治的権利の伸長)。 | ||||||||||
BC337 | 法務官職を平民に開放。 | ||||||||||
BC329 | ローマはプリウェルヌム占領。終にウォルスキ降伏。 | ||||||||||
BC328 | ローマはフレゲラエ市を占拠、要塞化してサムニテスに備えた。 | ||||||||||
BC326 | ローマがネアポリス(現ナポリ)と対サムニウム同盟を結び、第二次サムニテス戦争(〜304)が始まる。サムニテス人がフレゲラエを占領。ポエテリウス・パピリウス法の制定(拘束行為の禁止)。 | ||||||||||
BC326 | 第 2 次 サムニウム 戦争 〜BC304 | ||||||||||
BC322 | 借金返済不可能時での借人の自由剥奪を禁止。 | ||||||||||
BC321 | カウディナエの敗戦。ローマ軍がカウディナエの隘路で包囲され、不名誉な条件(人質の提供、捕虜の辱めである軛門をくぐる)を呑み撤退。この後、316年までの間に、執政官が指揮する軍団数は各1個から2個に増加。 | ||||||||||
BC312 | アッピウス・クラウディウス・カエクスが監察官となる。アッピア街道敷設に着手。彼は、選挙資格の決定に際し初めて動産と不動産の収入を同等に認めたことにより、平民を決定的に進出させた。非土地所有者を全トリブスに分散登録させる。 | ||||||||||
BC311 | エトルリア人がサムニテス族と同盟を結ぶ。 | ||||||||||
BC310 | ウァディモ湖の戦い(ローマ VS. エトルリア)。 | ||||||||||
BC不明 | ローマは諸植民市を築いてサムニテスを包囲。アプリア、サムニウムに進撃。サムニテスの首都ボウィアヌムを占領。 | ||||||||||
BC306 | 第三次ローマ・カルタゴ条約。ローマはイタリアを、カルタゴはシチリアを。 | ||||||||||
BC304 | 第二次サムニテス戦争がローマの勝利に終わる。ローマ・サムニテス間の平和条約でカンパニアをローマ領とし、サムニテス同盟の存続を認める サムニテス領の以後の拡大は妨げられた。非土地所有者のトリブス指定を、都市の4トリブスに限る。高等造営官フラウィウス、方式書を公開。 | ||||||||||
BC300 | クィントゥス・オグルニウスがオグルニア法を制定し、神官職を平民に開放。 | ||||||||||
BC298 | 第 3 次 サムニウム 戦争 〜BC290 | ||||||||||
BC290 | 中央 イタリアを 掌握 | ||||||||||
BC298 | 第三次サムニテス戦争(〜290)。サムニテスの同盟者はエトルスキ、ケルト、サビニ、ルカニ、ウンブリ。ローマは各個撃破。ボウィアヌムを占領。 サムニテスは北方に逃れ、ウンブリでケルト、エトルスキと共に再起を図る。 | ||||||||||
BC297 | ローマ元老院は非常事態宣言を発する。予備役までも招集される。ファビウス・マクシムス・ルリアーヌスが執政官に任命される。 | ||||||||||
BC295 | 執政官ルリアーヌスがセンティヌムで勝利(サムニウム人、ガリア人、ウンブリア人を破る)。エトルスキと和約。 | ||||||||||
BC291 | アプリアのウェヌシアに植民市(市民二万)建設。 | ||||||||||
BC290 | サムニテス人と和約。出兵義務を課す。第三次サムニテス戦争終結。イタリア中南部の制覇を完了。平民層はマニウス・クリウス・デンタトゥスらに指導されてサビニの土地分配を要求(〜287)。 | ||||||||||
BC287 | 新征服地の分配や借財問題を巡って平民がヤニクルムの丘上に分離。独裁官クィントゥス・ホルテンシウスにより秩序回復が行われ、ホルテンシウス法平民会議決が元老院の承認無しに法律となることとなる)が制定される。平民会決議は貴族を含めた全市民を拘束する事に。 | ||||||||||
BC285 | ガリアとの戦い(〜282)。カプアまで敷設されていたアッピア街道が植民市ウェヌシアまで延長される。 | ||||||||||
BC284 | 頃 ローマはガリアの一部族セノネスの領土を獲得。ローマの中部イタリア制圧完成。 | ||||||||||
BC283 | ヴァディモーネ湖畔の戦いでガリア・エトルリア連合軍を破る。植民市セナ・ガリカ建設。 | ||||||||||
BC282 | タレントゥム(タラス)との戦い(〜272)。ルカニと対立したローマがトゥリ、ロクリ、レギウム諸市に援助を与えた為タレントゥムの利害と衝突。トゥリオイ市保護の名目で出兵。303年の条約で使用が禁じられていたタレントゥム港でローマ艦隊が攻撃されてから戦争開始。タレントゥムの要請でエペイロス王ピュロスは二万の傭兵、三千のテッサリア騎兵、26頭の戦闘象部隊を指揮、来援。 | ||||||||||
BC280 | ヘラクレアの戦い(ピュロス VS. ローマ)。ブルッティ、ルカニ及びサムニテスがピュロス軍に参加。ピュロスは勝利するも多大の損失を受ける。彼は南イタリアからのローマの退去を提案して和約を図ったがローマ元老院はこれを拒否。この頃、最初の銅貨、最初の銀貨が発行される。以前は不定形の銅の固まり(Aes Rude)や、銅の延べ板(Aes Signatum)が使われていた | ||||||||||
BC280 | ピュロス 戦争 | ||||||||||
BC279 | アウスクルムの戦い(ピュロス VS. ローマ)。ローマはカルタゴと軍事同盟を結び、カルタゴは援軍の艦隊をオスティアに派遣。 | ||||||||||
BC278 | ピュロスはカルタゴ領シチリアのギリシア人諸都市の救援に応じて同地に遠征、その殆どを占領(〜275)。シチリア、南イタリアに王国を建設しようとするピュロスの野望は、ギリシア諸市が離反して密かにカルタゴと結んだ為挫折。 | ||||||||||
BC275 | ベネウェントゥムの戦い(ローマ VS. ピュロス)。ピュロスはエペイロスに帰る。イタリア南部の支配権を確立 | ||||||||||
BC273 | 頃 エジプトからローマとの友好関係を樹立する任務を帯びた特使が到着。 | ||||||||||
BC272 | タレントゥム(タラス)がローマに降伏。タレントゥムの返還で講和締結。タレントゥム領をローマに割譲。南イタリアのギリシア諸都市はローマの同盟者となる。南イタリアに於けるローマの覇権確立(マグナ・グラエキアの征服完了)。 | ||||||||||
BC270 | ローマがレギウムを占領。 | ||||||||||
BC268 | ローマによるベネウェントゥム建設。サビーニ人に完全なローマ市民権を付与。 | ||||||||||
BC267 | ローマは初めて自前の通貨を作り始める。 | ||||||||||
BC264 | ウォルシニイの陥落(エトルリアの最終的屈服)。第1次ポエニ戦争起こる(〜BC241) | ||||||||||
BC238 | コルシカ、サルデーニャを 属州 化 | ||||||||||
BC 227 | シチリアを属州とする | ||||||||||
BC 218 | 第2次ポエニ戦争始まる(〜BC201)ハンニバルのアルプス越え | ||||||||||
BC 216 | カンネーの戦いでハンニバルに大敗 | ||||||||||
BC 215 | 第1次マケドニア戦争(〜BC205) | ||||||||||
BC 211 | 最初のデナリウス銀貨が発行される | ||||||||||
BC 202 | ザマの戦いで大スキピオがハンニバルを破る | ||||||||||
BC 201 | 第2次ポエニ戦争が終わり、ローマが西地中海の覇権を握る | ||||||||||
BC 200 | 第2次マケドニア戦争(〜BC196) | ||||||||||
BC 171 | 第3次マケドニア戦争(〜BC168)この戦争でローマの勢力が東地中海に広がる | ||||||||||
BC 149 | 第3次ポエニ戦争(〜BC146)4次マケドニア戦争(〜BC148) | ||||||||||
BC 146 | カルタゴを滅ぼす(小スキピオ)マケドニアを属州とし、コリントを破壊する | ||||||||||
BC 133 | ティベリウス・グラックス護民官となり、土地問題の改革を目指すが元老院派に殺される | ||||||||||
BC 123 | ガイウス・グラックスが護民官となり、諸改革にのりだす | ||||||||||
BC 121 | ガイウス・グラックスが元老院派に襲われて自殺 | ||||||||||
BC 111 | ユグルタ戦争(〜BC105) | ||||||||||
BC 107 | マリウスの軍制改革 | ||||||||||
BC 91 | 同盟市戦争始まる | ||||||||||
BC 88 | 同盟市戦争終わる、イタリア諸都市の自由民にローマ市民権を与える 第1次ミトリダテス戦争(〜BC85) | ||||||||||
BC 83 | 第2次ミトリダテス戦争(〜BC82) | ||||||||||
BC 82 | スラが終身独裁官になる(〜BC79)このころから金貨が臨時的でなく発行されるようになる。(アウレウス金貨) | ||||||||||
BC 74 | 第3次ミトリダテス戦争(〜BC63) | ||||||||||
BC 73 | スパルタクスの反乱(〜BC71) | ||||||||||
BC 70 | ポンペイウス、クラッススが執政官になる | ||||||||||
BC 63 | キケロが執政官になる。カティリーナの陰謀。 | ||||||||||
BC 60 | 第1回三頭政治(ポンペイウス、カエサル、クラッスス) | ||||||||||
BC 58 | カエサルのガリア征服が始まる(〜BC51) | ||||||||||
BC 49 | カエサル、ルビコン川を渡りローマに進軍 | ||||||||||
BC 48 | ファルサロスの戦いでカエサルがポンペイウスを破る カエサルが独裁官になる | ||||||||||
BC 44 | カエサルが終身独裁官になる。カエサルが暗殺される。 | ||||||||||
BC 43 | 第2回三頭政治(アントニウス、オクタウィアヌス、レピドゥス) | ||||||||||
BC 42 | フィリッピの戦い | ||||||||||
BC 31 | アクティウムの海戦でオクタウィアヌスがアントニウスを破る | ||||||||||
BC 30 | オクタウィアヌスがエジプトを征服 | ||||||||||
BC 27 | オクタウィアヌスがアウグストゥス(尊厳者)の称号を受ける帝政の開始は普通このときからとされる | ||||||||||
AD 14 | アウグストゥス死去 ティベリウス 即位(〜AD37) | ||||||||||
AD 37 | カリグラ 即位(〜AD41) | ||||||||||
AD 41 | クラウディウス 即位(〜AD54) | ||||||||||
AD 54 | ネロ 即位(〜AD68) | ||||||||||
AD 64 | ローマの大火。ネロ帝がキリスト教徒を迫害。 | ||||||||||
AD 66 | ユダヤの反乱(〜AD70) | ||||||||||
AD 68 | ガルバ 即位(〜AD69) | ||||||||||
AD 69 | オト 即位(〜AD69) ウィテリウス 即位(〜AD69) ウェスパシアヌス 即位(〜AD79) フラウィウス朝の始まり | ||||||||||
AD 79 | ヴェスピオ火山の噴火ティトゥス 即位(〜AD81) | ||||||||||
AD 81 | ドミティアヌス 即位(〜AD96) | ||||||||||
AD 96 | ネルウァ 即位(〜AD98) 五賢帝時代の始まり | ||||||||||
AD 98 | トラヤヌス 即位(〜AD117) | ||||||||||
AD 117 | トラヤヌス帝がアルメニア、メソポタミアを併合し、ローマ帝国の版図が最大となる ハドリアヌス 即位(〜AD138) | ||||||||||
AD 122 | ハドリアヌスの長城の建設 | ||||||||||
AD 138 | アントニヌス・ピウス 即位(〜AD161) | ||||||||||
AD 161 | マルクス・アウレリウス 即位(〜AD180) | ||||||||||
AD 180 | マルクス・アウレリウス帝死去(五賢帝時代の終わり)コンモドゥス 即位(〜AD192) | ||||||||||
AD 193 | ペルティナクス 即位(〜AD193) ディディウス・ユリアヌス 即位(〜AD193) セプティミウス・セウェルス 即位(〜AD211) セウェルス朝の始まり | ||||||||||
AD 211 | カラカラ 即位(〜AD217) | ||||||||||
AD 212 | アントニヌス勅法(帝国内の全自由民にローマ市民権を与える) | ||||||||||
AD 214 | カラカラ帝、最初のアントニニアヌス貨発行。 | ||||||||||
AD 217 | マクリヌス 即位(〜AD218) | ||||||||||
AD 218 | エラガバルス 即位(〜AD222) | ||||||||||
AD 222 | セウェルス・アレクサンデル 即位(〜AD235) | ||||||||||
AD 235 | マクシミヌス・トラクス 即位(〜AD238) 軍人皇帝時代の始まり | ||||||||||
AD 238 | ゴルディアヌス1世2世 即位(〜AD238) バルビヌス、プピエヌス 即位(〜AD238)ゴルディアヌス3世 即位(〜AD244) | ||||||||||
AD 244 | フィリップス・アラプス 即位(〜AD249) | ||||||||||
AD 249 | デキウス 即位(〜AD251) | ||||||||||
AD 250 | デキウス帝によるキリスト教徒の迫害 | ||||||||||
AD 251 | トレボニアヌス・ガルス 即位(〜AD253) | ||||||||||
AD 253 | アエミリアヌス 即位(〜AD253) ウァレリアヌス 即位(〜AD260) ガリエヌス 即位(〜AD268) | ||||||||||
AD 260 | ウァレリアヌス帝がペルシャ王シャープール1世に捕らえられるポストゥムス(ガリア皇帝) 即位(〜AD268) | ||||||||||
AD 268 | ウィクトリヌス(ガリア皇帝) 即位(〜AD270) クラウディウス2世 即位(〜AD270) | ||||||||||
AD 270 | テトリクス1世(ガリア皇帝) 即位(〜AD273) クィンティルス 即位(〜AD270) アウレリアヌス 即位(〜AD275) | ||||||||||
AD 275 | タキトゥス 即位(〜AD276) | ||||||||||
AD 276 | フロリアヌス 即位(〜AD276) プロブス 即位(〜AD282) | ||||||||||
AD 282 | カルス 即位(〜AD283) | ||||||||||
AD 283 | ヌメリアヌス 即位(〜AD284) カリヌス 即位(〜AD285) | ||||||||||
AD 284 | ディオクレティアヌス 即位(〜AD305) | ||||||||||
AD 286 | マクシミアヌス 即位(〜AD305) | ||||||||||
AD 293 | ディオクレティアヌスによる帝国の4分割統治 | ||||||||||
AD 294 | ディオクレティアヌス帝による大規模な貨幣制度改訂 | ||||||||||
AD 301 | ディオクレティアヌス帝の最高価格令 | ||||||||||
AD 303 | 最後のキリスト教大迫害が始まる | ||||||||||
AD 305 | コンスタンティウス1世 即位(〜AD306) ガレリウス 即位(〜AD311) | ||||||||||
AD 306 | セウェルス2世 即位(〜AD307) マクセンティウス 即位(〜AD312) コンスタンティヌス1世 即位(〜AD337) フラウィウス朝の始まり | ||||||||||
AD 308 | リキニウス 即位(〜AD324) | ||||||||||
AD 310 | このころソリドゥス金貨の発行が始まるマクシミヌス・ダヤ 即位(〜AD313) | ||||||||||
AD 311 | ガレリウス帝の寛容令(キリスト教徒の迫害をやめる) | ||||||||||
AD 313 | ミラノの勅令(キリスト教徒にも信仰の自由を認める) | ||||||||||
AD 324 | コンスタンティヌス大帝、共治帝リキニウスを倒し、ローマ帝国の再統一を実現 | ||||||||||
AD 325 | ニカイア公会議(キリスト教の教義を統一) | ||||||||||
AD 330 | コンスタンティヌス大帝、都をビザンティウムに移し、コンスタンティノポリスと名を改る | ||||||||||
AD 337 | コンスタンティヌス2世 即位(〜AD340) コンスタンス 即位(〜AD350) コンスタンティウス2世 即位(〜AD361) | ||||||||||
AD 360 | ユリアヌス 即位(〜AD363) | ||||||||||
AD 363 | ヨウィアヌス 即位(〜AD364) | ||||||||||
AD 364 | ウァレンティニアヌス1世 即位(〜AD375) ウァレンス 即位(〜AD378) | ||||||||||
AD 367 | グラティアヌス 即位(〜AD383) | ||||||||||
AD 375 | ウァレンティニアヌス2世 即位(〜AD392) | ||||||||||
AD 376 | 西ゴート族の移住(ゲルマン民族の大移動始まる) | ||||||||||
AD 378 | ハドリアノポリスの戦いでウァレンス帝が西ゴート族に破れる | ||||||||||
AD 379 | テオドシウス 即位(〜AD395) | ||||||||||
AD 391 | テオドシウス大帝がキリスト教を国教化する | ||||||||||
AD 392 | エウゲニウス 即位(〜AD394) | ||||||||||
AD 395 | テオドシウス帝死去、ローマ帝国の東西分裂 カディウス(東) 即位(〜AD408 ホノリウス(西) 即位(〜AD423) | ||||||||||
AD 408 | テオドシウス2世(東) 即位(〜AD450) | ||||||||||
AD 410 | 西ゴート王アラリックのローマ占領 | ||||||||||
AD 425 | ウァレンティニアヌス3世(西) 即位(〜AD455) | ||||||||||
AD 429 | テオドシウス法典の編纂(〜438) | ||||||||||
AD 450 | マルキアヌス(東) 即位(〜AD457) | ||||||||||
AD 452 | フン族の王アッティラのイタリア侵入 | ||||||||||
AD 455 | ヴァンダル族のローマ占領ペトロニウス・マクシムス(西) 即位(〜AD455)アウィトゥス(西) 即位(〜AD456) | ||||||||||
AD 457 | マヨリアヌス(西) 即位(〜AD461) レオ1世(東) 即位(〜AD474) | ||||||||||
AD 461 | セウェルス3世(西) 即位(〜AD465) | ||||||||||
AD 467 | アンテミウス(西) 即位(〜AD472) | ||||||||||
AD 472 | オリブリウス(西) 即位(〜AD472) | ||||||||||
AD 473 | グリケリウス(西) 即位(〜AD474) | ||||||||||
AD 474 | ユリウス・ネポス(西) 即位(〜AD475) ゼノン1世(東) 即位(〜AD491) | ||||||||||
AD 475 | ロムルス・アウグストゥルス(最後の西ローマ皇帝) 即位(〜AD476) | ||||||||||
AD 476 | 西ローマ帝国の滅亡 | ||||||||||
AD 480 | ユリウス・ネポス殺害(西の皇統断絶) | ||||||||||
AD 527 | ユスティニアヌスが東ローマ皇帝に即位 | ||||||||||
AD 529 | ローマ法大全の編纂(〜533) | ||||||||||
ヨーロッパ全体 | イギリス | フランス | イタリア | イベリア | ドイツ | ||||||
1190 | 十字軍 1189-1192 イングランド王リチャード1世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)、フランス王フィリップ2世が出陣 アッコンを臨時首府としてエルサレム王国を再建 聖地奪回には失敗 1187年 イスラム側のサラディンがエルサレムを占領 以後、遠征は宗教目的よりも現実的利害関係に左右されるようになる |
リチャード1世獅子心王 イングランド王(1189-1199) 王権を確保アキテーヌ経営の後、十字軍参加。 遠征前に浸りの最高司法官のうちの1人エセックス伯ウィリアム・ド・マンデヴィルが死去。 大法官ウィリアム・ロンシャンを最高司法官に抜擢、教皇代理であったため、権勢欲に対する反乱が相次ぐ。 1189年、ウィリアム・マーシャルWilliam MarshalがStrongbowの娘Isabellaと婚姻。チェプストウ城を領有。(1115・ヘンリー1世がクレール(Clare)家にチェプストウを委ねる。1176・Richard de Clare the Strongbowが没し城は王家直轄となっていた。) ウィリアム1世 スコットランド王(1165-1214) 1189カンタベリーで臣従解除の協定。1万マーク=160万シルバーペンス。イングランド王ヘンリー2世のころからの屈服関係を解消。自前の教会組織を持つ。カンタベリー教区ではなくスコットランドの教会ができた。 |
フィリップ尊厳王 フランス王(1180-1223) 1180にフランス王ルイVII世が死に息子であるフィリップII世(PhilippeII Auguste)が即位 |
教皇クレメンス3世 在位1187−1191 |
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1191 | H.フィッツアルウィンが初代ロンドン市長に就任 | 教皇ケレスティヌス3世 在位1191−1198 第三回十字軍、サラディンと休戦協定 |
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1192 | サラディン、第3回十字軍と休戦条約を締結。 キリスト教徒のエルサレム巡礼を許す | 末 リチャード1世 オーストリア公レオポルドの旗を踏み倒す。十字軍帰途に逮捕される。 |
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1193 | サラディン没 1138-1193 イラク、ティクリート出身。クルド族。 アラビア名、サラーフ・ウッディーン アレッポのザンギー朝に仕え、ファティマ朝の宰相に。 1171年 ファティマ朝に代わり新王朝を開く アッバス朝の承認を得てスルタンを号す エジプト、アイユーブ朝の始祖。 開明的君主としてイスラムの英雄とされ、ヨーロッパでの評価も高い。 |
十字軍遠征費用の拠出に最高司法官ヒューバート・ウォルター 在任1193-1198と ウォルター・オブ・クータンスが課税徴収に万全を期していた。 2月 ドイツ皇帝ハインリヒ6世がリチャードの身柄を引き取り幽囚 |
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1194 | 州長官の反発を抑え課税しリチャード王の身代金10万ポンド捻出。政府年間経常収入の3倍。 リチャード王帰国。 王弟ジョン フランス亡命 |
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1195 | |||||||||||
1196 | |||||||||||
1197 | |||||||||||
1198 | リチャード、甥のオットーをドイツ皇帝に推す。 英国をヒューバートに任せ大陸領アキテーヌ・トゥーレーンを確保。 フランドル伯、ブラバン伯、ドイツ諸侯らと交友。 8月24日スコットランド、アレクザンダー王子誕生。 |
ノートルダム? 《地上のすべての国々は》初演 ペロティヌス |
教皇インノケンティウス3世 在位1198-1216 アルビジョワ十字軍、第四回十字軍、第四ラテラノ公会議、教皇権の絶頂期、フランチェスコ修道院の創立 |
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1199 | イギリス王リチャードI世が死去、4月リムーザン攻めの際、シャリュース城包囲戦の流れ矢による。弟のジョン失地王(John
Lackland)が即位。兄ジェフリーの子、ブルターニュ公アーサーを差し置いてのこと。 10月ウィリアム・ロンシャン大陸亡命。ウォルター・オブ・クータンスがその任を変わる。 スコットランド北部マリ地域スコットランド王に臣従。最北のケイスネス、サザーランドも支配下に。 |
ノートルダム? 《かしらたちは集まり手》初演 11/26聖ステファノ祝日 ペロティヌス |
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1200 | ジョン王、アングレーム伯の所領拡大の動きに対し伯の娘イザベルとの婚姻で懐柔。 12世紀後半-13世紀初頭ウェールズ法再編集。 最初の中世英語作品『ブルート』(韻文の歴史物語)成立 「縮絨水車」 普及開始 オックスフォード大学、 学則憲章のない始まったばかりの大学 |
フィリップ2世、離婚問題により破門。 アキテーヌはアングレーム伯オードマー、アンジュ、メイン、トゥレーンにはアーサー公がおり、イングランドの大陸領でジョン王直轄はノルマンディのみ。この地の確保のためジョン王はフィリップ2世に忠誠。 ノルマンディで最も古い「慣習法集成」が現れた。ノルマンディ の家老 (セネシャル)下僚達が、 罪人と一緒に罪人の血縁全体を刑罰に連座させるのを妨げるのに苦労していた(個人と集団とは分かちがたいとみなされていた。) |
この頃から、 ヨーロッパ諸都市 で サンチャゴ巡礼団 の 組織化 が 進む | ||||||||
1201 | ジョン王とグウィネッズ王ルウェリン・アプ・ヨーワース(大ルウェリン1195-1240・45年間)条約締結(ジョン王、ルウェリンの支配権を全面的に承認) ロージャ・オヴ・ボウデン『年代記』 ウィルタ ・ マップ1140?-1209『De Nugis Curialium(廷臣のむだばなし)』 他を著す。(イングランド、ヘレフォードシャー 生まれ。ヘンリー2世付きの聖職者で官吏、巡回裁判官として活躍。リンカンの聖パウル大聖堂参事会員(文書局長)、オックスフォード司教座聖堂助祭。1179年ローマで、ワルド派を 審理し、ワルド派の説教を禁止した。 ジョン王、イザベルと婚約していたリュニジャン家ユーグを不当に処分、フランス宮廷に償還されるも、出頭せず。大陸領没収を示唆するが…翌年 |
2人の在位 (ラウマー「騎士の時代」) |
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1202 | 十字軍 1202-1204 遠征軍は聖地へは向かわず、ベネチア商人のすすめでハンガリー、ビザンティン帝国に侵攻 コンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国を建設 |
ブルターニュ公アーサーの軍隊をポワティエの北ミラボーで強襲。 | 7月 ノルマンディー で ジョン王 と フィリップ2世 の 戦争開始 | カスティーリャ王 アルフォンソ8世、 スペイン 最初 の 大学、バレンシア大学 を 認可 | |||||||
1203 | ジョン王、ブルターニュ公アーサー暗殺。信望を失うとともにフィリップ王の怒りを買う。 イノケンティウス3世の仲介を依頼するも、より刺激することとなる。 ブルターニュ反乱、メインの貴族も反抗。 |
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1204 | ノルマンディ、リチャード王の建築したガイヤール城を拠点に戦うが3月に陥落。フィリップ2世による大陸領没収宣言。 6月にはノルマンディを奪われ、ロアール川以南とガスコーニュを残すのみ。 大陸領経営に失敗したジョン王は内政に没頭することとなる。 |
ガイヤール城がフィリップII世に奪われる。ノルマンディーからイギリス軍が撤退する。 アキテーヌ公ギョーム9世の孫にして、フランス王ルイ7世の妻 アリエノール・ダキテール没 |
6月15日 アラゴン王 ピエール2世 と マリー(モンペリエ領主 ギョーム8世 と 東ローマ皇女 エウドキア との間の 娘)が 結婚 | ||||||||
1205 | ウェールズ、グウィネッズ王ルウェリン ・ アプ ・
ヨーワース(大ルウェリン、在位1195-1240)ジョン王、庶子ジョアンと結婚。 大法官にしてカンタベリ大司教ヒュバート死去。 12月カンタベリー大司教の二重選挙(ジョン王が、教皇に反抗し大司教の後任に友人ノリッチ司教ジョン・オブ・グレイの就任を望んだ。 武器令。自由民、不自由民の区別なく国民全体に武器を取る義務。国家防衛義務を課す。 サンク・ポート5港都市の特権の再確認と常設海軍の設置。 |
1174-1205 動物叙事詩?風刺文学『狐物語』 ピエール・ドサン=クルー リシャール・ド・リゾン |
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1206 | 12月6 教皇 インノケンティウス3世、カンタベリー大司教 スティーブン・ラングトン を 叙任(英国への入国拒否… | ||||||||||
1207 | カンタベリ司教座 ラングトン…ジョン王と面識なく、王の敵であるフランス王の保護下で 長く暮らした。王の同意しないカンタベリ大司教の選任はウィリアム1世以来の慣例と、1164年のクラレンドン法に反する ヘンリー3世生誕 1207-1272 イングランド「一三分の一税」(本格的全国課税 開始)6万ポンドに上る。 |
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1208 | カンタベリ司教座空位収入の横領のため禁制下におかれ協会儀式を停止を命ぜられる。 ウェールズ、グウィネッズ王ルウェリン・アプ・ヨーワースポウィスからケレディギオンを奪い取り、アベラストウィズ城を再建し支配強化。 ウェールズ、ポウィス王グウェンウィンウィン・アプ・オウェン(在位 1197-1216・19年間)ジョン王よりポウィスの支配権を実質上指定する 「屈辱的条約」を押しつける。 |
3月24日 教皇 インノケンティウス3世、 イングランド に 聖務停止令 発布 | トレード大司教 に ロドリーゴ 就任 (在任 1208〜1247 39年間) | ||||||||
1209 | ジョン王、聖職者財産を押収したが、あちらこちらで反乱勃発 スコットランド王ウィリアム1世、フランス王フィリップ2世との提携を 策す 石でできたロンドン橋が完成。1750にウェストミンスター橋ができるまではテムズに唯一の橋。 ケンブリッジ大学 成立 オックスフォードもタウンとガウンの争いが元で学生が各地に散る |
11月 教皇 インノケンティウス3世、 ジョン王 を 破門 | |||||||||
1210 | |||||||||||
1211 | |||||||||||
1212 | 少年十字軍 | 秋 ジョン王、教皇イノケンティウス3世との和解交渉開始 | |||||||||
1213 | 国内の軍役要求、聖職者の国外逃亡へ悩まされ、5月15日ジョン王、教皇イノケンティウス3世に屈辱的な降伏。ラングトン大司教受け入れ、聖職へ損害賠償、教皇へ貢献。 この決定に教皇は歓喜、フランドル伯、ドイツ皇帝オットー4世の後援を受け、フランス・ポアトゥに侵入し北上してロアール川に迫る。 最高司法官ジェフリー・フィッツ・ピーター在任1198-1213の後任にウィンチェスター司教ピーター・デイ・ロッシ。貴族からは不評。 |
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1214 | 部下の背信により、アンジュー支配の好機を失い、ラ・ロシェルに引揚げ、ここでブーヴィーヌ敗戦の報を聞く 12月4日スコットランド王ウィリアム1世死去。 |
南北挟み撃ちにあったフランス軍は北の皇帝軍に専心し、7月ブーヴィーヌにて勝利 | |||||||||
1215 | 5月北英貴族がスタンフォードに集結。教皇の仲裁も意味なく。 6月ジョン王をテムズ川ラミニードに迎えマグナ・カルタを認めさせる…正式に認められないまま推移し、正式な承認を要求する貴族と、ローマ教会の支持を得て抵抗する国王派との間で内戦。 11月ジョン王ロチェスター奪取に成功。ついでノッティンガム、ヨークの反乱を鎮圧。 |
第四回ラテラノ公会議 異端・教会改革.十字軍 |
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1216 |
5月フランス王子ルイがサネット島に上陸、ウィンチェスター、ロンドンを攻め南英を支配。ウェールズで国王派は立て直すが行軍中、10月ニューアークにてイングランド王ジョンが死去。 9歳の王子ヘンリ3世が即位。 摂政陣に、当時、騎士中の騎士、高潔の騎士といわれたペンブルック伯ウィリアム・マーシャル。イギリス最大の貴族チェスター伯ラナルフ・ド・ブランデヴィル。 11月、ブリストル王廷でウィリアム・マーシャルを摂政、ヒューバード・ド・バーグを最高司法官、外国人傭兵のフォークス・ド・ブレオテを軍団長としサンク・ポート5港都市の支持を得る。内戦収拾のため、マグナカルタの王権に関する事項を除く事項を承認する方向を発表。対ルイ9世との抗争に着手。 |
教皇ホノリウス3世 在位1216-1227 ドミニコ修道会を認可 |
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1217 | 第5回十字軍 1217-1221 フランス貴族ブリエンヌらがエジプトのアイユーブ朝を攻めたが敗北。全軍が捕虜となる |
南英・北英を挽回し5月、リンカンの戦いにおいてルイ軍攻略に成功。 ルイ側貴族もヘンリ3世側に乗り換え始める。 9月テムズ川キングストンにてルイ9世と講和。 |
フランスとイングランドがランベト(Lambeth)条約を結ぶ イングランドはフランス大陸領をかなりを失う |
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1218 | |||||||||||
1219 | 5月大黒柱ウィリアムマーシャルが死没、長男のWilliamがチェプストウ城(ウエールズ南東、ワイ川(River
Wye)沿い)を引き継ぐ。 体制はヒューバード・ド・バーグ、ウィンチェスター司教ピーター・デイ・ロッシ、教皇使節パンダルフ。 |
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1220 |
ArsMagica |
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1220 | 5月ヘンリ3世がウェストミンスターで戴冠式。ヒューバート、カンタベリ大司教ラングトンの協力を得て中央政府機構を整備。 リンカン主教座聖堂 身廊 着工(1220-1230の 10年間) ギラルトゥス ・ カンブレンシス 没1147-1220 享年73才。ウェールズ人聖職者、歴史家 |
ベネディクトボイレン修道院 カルミナブラーナの編纂 1220-1230 |
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1221 | スコットランド王アレグザンダー2世、ジョン王の娘ジョアンと婚約 翌1222年6月19日にヨーク・ミンスターで挙式。 |
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1222 | イングランド軍、ウェールズに侵攻 開始(1222〜1231)ジョン王の混乱期が過ぎ、グウィネス王へ反攻開始。 イングランド、オックスフォード宗教会議「聖 ジョージの祝日」 を国家の祝日と決定した |
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1223 | ウェールズ全域 で、反イングランド蜂起 教皇ホノリウス3世、ヘンリー3世 (16才)の成人を宣言 ジェラルド・オヴ・ウェールズ没1146頃-1223享年77才。中世ウェールズを代表する文筆家。『アイルランド地誌』『君候の教育』『自伝』。ノルマン貴族にして、母方の祖母はネスト、リース・アブ・テウドルの娘(南ウェールズ正当な血統 に属する最後の支配者) |
ファレンティーノ会議後、エルサレム王ジャン、 フランス、イングランド、スペイン、ドイツを歴訪、盛大な歓迎を受けるも十字軍遠征の為の 成果は殆どなかった。フランス王フィリップ2世の遺言 による30万ポンドとカスティーリャのベレンガリアと再婚。 | |||||||||
1224 | |||||||||||
1225 | 2月11日マグナカルタ第3回改訂 文言が確定し、「法」となった。 封建領主の尊重、協調を約束しマグナ・カルタの誠心に則って法治国家を運営していく。 |
ギョーム・ド・ロリス 『薔薇物語』1240完成 |
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1226 | 地方の実状を政府に報告するために、州代表が召集された最初の集会。 ソールズベリ主教座聖堂身廊 着工1226-1258 32年間 |
ルイ9世(聖ルイ王) フランス王1226-1270 |
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1227 | ヘンリー3世(20才)自ら成人を宣言 | 教皇グレゴリウス9世 在位1227-1241 |
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1228 | 十字軍 1228-1129年 神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が外交交渉で一時エルサレムを回復するがホラズム・トルコに奪回される |
スコットランド王アレグザンダー2世、アーガイルの反乱を平定。 カンタベリー大司教、カルミナ・ブラーナの詩 スティーブン・ラングトン 1150頃-1228 享年 78才 イングランド軍 ウェールズ攻撃 |
第6回十字軍 | ||||||||
1229 | ヒューバード、ケント伯の他、ウェールズ所領を獲得し、イギリス最大の領主に。が、ウェールズ領の経営に失敗し、国王へ提供したブルターニュ征討の軍隊の武装に不備があり、国王との溝が生まれる。 パリ大学 より多数の教師 ・ 学生が、オックスフォード大学に移住。 |
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1230 | ヘンリー3世、大陸領復権に執心しブルターニュ伯ピータ・オブ・ドゥルーの協力を得てブルターニュ支配を固める。 ウェールズ司教座聖堂西側正面 着工1230頃-1250 |
《ロバンとマリオンの劇》 牧歌劇 トルヴェール アラン・ド・ラ・アル1230-1300 |
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1231 | チェプストウ城Williamが死ぬものの兄弟のRichardは王と対立しアイルランドに逃げた イングランド軍、ウェールズに侵攻。大ルウェリン、主要な城を奪回され守勢に回ったが、最後までウェールズ人全体の支配者としての地位を保持。 シモン・ド・モンフォール 北フランスより移住(23才1208?-1265)アルビジョワ十字軍のトゥールーズ伯シモン・ド・モンフォールの次男1160?-1218、祖母の権利により、レスタ伯の称号と領地を叙任されヘンリ3世の妹エリナーと結婚(イリナー、ジョン欠地王の娘(エリナー は再婚)) ヒューバードの政敵デイ・ロッシが十字軍より帰国、また、聖職者任命について教皇グレゴリウス9世の不興を買い、ヒューバード孤立化。 |
へレース・デ・ラ・フロンテーラの戦い | |||||||||
1232 | ヒューバード最高司法官解任。この失脚を以って国王名代としての司法官職は終わる。 ロッシ派傀儡的人物スティーブン・シーグレイヴが任命される。 |
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1233 | 1月ピーター・ド・リヴォー、デイ・ロッシの甥に当たる、が大蔵庁長官となり王室庁支配。この私的官庁が財務府をも支配。最高司法官シーグレイヴ、大法官ラルフ・ネヴィルはリヴォー派の王室庁納戸庁による体制下に従属。 これにヘンリ3世、西英貴族は不満を示し、ペンブルック伯リチャード・マーシャル、バッキンガムシアのウィカム領主ギルバート・バセットらを中心に反抗。西英に追放となっていたヒューバートを復帰させる動きがあり、政界が騒然となった。 10月大司教エドモンド・オヴ・アビントン、ロンドン司教ロジャー・ナイジェルらは協調して不平貴族の和平交渉。結果、翌年… |
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1234 | 4月ヘンリ3世、親政開始。 ピーター・デイ・ロッシ、シーグレイブ、リヴォーらを追放。 行政長官職廃止。 5月グロースターにてヒューバト、バセットらと和平成立。 チェプストウ城主リチャードがアイルランドで殺され、兄弟のギルバートが引き継ぐ |
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1235 | 2月フリードリヒ2世の使者ヴィネア のペーター(フリードリヒ2世の宰相、メルフィー法典(1231年)編纂者)が、ロンドンに到着。イザベラ にフリードリヒ2世からの婚約指輪 を渡し、結婚が決定 5月11日イザベラ、フリードリヒ2世 との結婚のためロンドンを出発 ロージャ・オヴ・ウェンドーヴァ「史書の華」 ソールズベリにド ・ ヴォー ・ カレッジ創立 |
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1236 | 1月30日ヘンリ3世(29才)アリエノール
(もしくはイリーナ・オブ・プロヴァンス、プロヴァンス伯レイモン・ベランジェ4世の娘。姉はルイ9世の妻マルグリット。ルイ9世と義兄弟になる)と結婚。彼女の母方の親戚、東サヴォア貴族を重用。 ヘンリ3世、かつて恩義を受けた教皇への年5万マルクの献金、寵臣への領地の譲与など財政圧迫から、貴族から反感を買う。 親政を始めてはいた物のリヴォーを納戸庁長官として登用、徴税体制を強化、納戸庁にて玉璽を扱い大法官を従属せしめ、財務を超える特権を有し納戸庁が国王専制の中心官庁になる。 イングランド12世紀までは直接受封者の集会で、国王と諸侯の協同により立法がなされてきた。この年を最後に直接受封者の集会での 立法が見られなくなる ヨークでのスコットランド・イングランドの条約で国境が東部トゥイード、西部ソルウェイとなる。 |
カルミナ・ブラーナの フィリップ・ド・グレープ没 |
6月29日 カスティリア王 フェルナンド3世 (35才) ゴルドバ 征服 | ||||||||
1237 | ヘンリ3世、1230年以降 の対フランス戦等の出費に対する特別援助金の徴収の同意を諸侯に求めた。課税の決定 から徴収・支出まで、諸侯 の管理監督が行われ、王の助言者に、諸侯の推す3名を加えるとの条件で承諾される。 が、税の徴収が始まると諸侯推薦 の3名の助言者を全く無視。諸侯 はこれ以降、当分の間、如何なる「援助金 ・ 租税」に対しても同意 を拒否した。ただし1245年、王の長女の結婚の援助金、1253年長子 エドワードの騎士叙階の援助金はだしてくれた。 ヘンリ3世とスコットランド王アレクザンダー2世との間でヨーク条約 締結。スコットランドは、北部3州 (ノーサンバランド、カンパランド、ウェストマランド) の 要求権 を 放棄、代わって北部イングランド の200リブレートの土地を取得(年 200ポンドの価値)1296のスコットランド独立戦争の 勃発まで、国境問題は、ほぼ安定状態を保つ (1237-1296) |
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1238 | 大ルウェリン、ストラタ ・ フロリダ 修道院に全ウェールズの支配者 を召集し息子デイヴィッド(ダヴィズ)への忠誠を誓約させた 3月スコットランド王妃ジョアン逝去、アレグザンダーは仏貴族で反イングランド派の巨頭アンゲラ・ド・クーシーの娘マリーと結婚。実力行使はなかったがヘンリー3世との不仲は、1249のニューカッスルの条約まで和解せず。 |
10月9日アラゴン王ハイメ1世、バレンシア入城によりバレンシアをキリスト教徒が奪回。1102エルシドの未亡人ヒメーナ ・ ディーアスがカスティリアに撤退して以来126年ぶり。 | |||||||||
1239 | イングランド王エドワード1世誕生1239-1307 | ||||||||||
1240 | 第1回議会開催 ウェストミンスター |
詩人ジャン・ド・マン-1305 | |||||||||
1241 | チェプストウ城主ギルバートが死没 |
ルイ9世の王弟アルフォンソがポアトゥ伯になり、ポアトゥ貴族ユーグ・ド・マルシと対立。 | 教皇ケレスティヌス4世 1241 | ||||||||
1242 | 国内の反対を押し切り、ユーグと協調しヘンリ3世がポアトゥ遠征。ブルターニュ伯、ユーグらの背信に会って失敗。 | ||||||||||
1243 | 教皇インノケンティウス4世在位1243-1254 | ||||||||||
1244 | |||||||||||
1245 | 10世紀にカンタベリ大司教セント・ダンスタンが連れてきたベネディクト修道僧によるウェストミンスター寺院の建立。この年、ヘンリー3世の命でフランス・ゴシック様式での設計が始まる。 チェプストウ城のウィリアム・マーシャルの最後の息子Anselmが死ぬ。城は姉妹のMaudと彼女の息子 Roger BigodIIに与えられた |
1163パリ司教モーリス・ド・シュリによるノートルダム寺院完成 | 第一回リヨン公会議 皇帝フリードリヒ2世の破門 |
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1246 | |||||||||||
1247 | |||||||||||
1248 | 十字軍 1248-1254 フランス王ルイ9世が指揮してエジプトを攻めたが王自身がダミエッタで捕虜となる |
スコットランド王アレクザンダー3世即位1241-1286 | |||||||||
1249 | |||||||||||
1250 | |||||||||||
1251 | |||||||||||
1252 | |||||||||||
1253 | |||||||||||
1254 | 4月イギリス貴族、ヘンリ3世の外国貴族偏重、遠征費出費、国政の壟断に不満を覚え、議会にて各州より2名のナイト、教区代表を召集し民衆の不満を記述させ、内政に専念させようと試みた。 民衆院に召集される習慣がこのころに成立か。 |
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1255 | |||||||||||
1256 | |||||||||||
1257 | ピーター・オブ・サヴォア、レスター伯シモン・ド・モンフォール、ヒュー・バイゴットを指導者に一連の不平書を提出。 | ||||||||||
1258 | 4月シモン・ド・モンフォールら7名、武装してヘンリ3世に会見。 6月、オックスフォードに会して国王の諮問会議より12、貴族から24選出する改革委員会を結成、オックスフォード法令改革プログラム起案。 |
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1259 | |||||||||||
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