ムーラン


 ムーランは可愛い。血迷っていると言われるかも知れないが、映画を見た後の感想はこれしかなかったのである。ポスターで彼女の顔は知っていた。あの、顔が剣に写りこんでいるヤツと、それから馬に乗っているヤツの2種類で。でも、あのポスターでは全くインパクトはなかった。特に、馬にまたがった赤色系のポスターは、馬の細長く伸びた鼻筋にこそディズニーのデザインの味を感じたものの、それこそそこに描かれた人物像はとてもヒロインとは思えぬ華のなさで、これではいくら本国の指示とはいえ宣伝会社も苦々しい思いをしただろうという出来映え。次の、剣に顔が写り込んでいるポスターも、作品のシリアスな雰囲気(これは結局、勘違いであるのだが)を伝えこそすれ、実際の作品とキャラクターが持っているダイナミズムは一向に伝えていないのである。

 デザインという意味でいうなら、剣に写ったポスターのムーランの顔は、もちろん本編と同じであるから、ポスターにいちゃもんをつけているのはおかしいという意見もあるだろう。黒い長髪も、切れ長の一重の目も確かに同じだ。でもやっぱり違うのだ。劇場で見たムーランは、ポスターほど陰鬱ではなく、たしかにさまざまな悩みを抱えつつも、はつらつとしている人物だった。剣に映し出された彼女の姿は、ケガをしている父親の変わりに戦場へ赴くことを決意する、その一瞬の表情なのである。確かに、あの思い詰めた表情も彼女のものであろう。ただ、その一点をもってしてムーランという少女を語るのも誤りであろう。そもそも映画「ムーラン」は、テーマもなにもさておいて、ムーランという少女を描くためだけにその尺を使っている作品といっても過言ではない作品なのである。1時間半あまりをかけて描いた少女の姿を、ポスターという1枚の絵に集約しようとすればそれは無理があるに決まっている。

 さっき、この映画はその全体を、主人公ムーランを描くためだけに使っている、と書いた。テーマ? そんなものはこの映画にはない。もちろん女性差別がある昔の中国を背景に、その壁を突破する女性主人公の活躍を描いてはいるけれど、そこにはムーラン個人の事情を超えて、差別というものに向かい合っていくような普遍性はまったくない。ちょっと悪意のこもった言い方をするなら、差別というものについて考えるふりをしてみたような作品だとさえいえるかもしれない。この映画は、限定された時間と空間を舞台に、その中でエンターテインメントとして物語をまとめてみせるための、ちょっとした起爆剤として、ムーランが女性であることを利用したまでなのだ。だから、この映画のラストシーンの後を考えてはいけない。シャン隊長が、ムーランの生家を尋ね、食事に招かれる。そこから先の時間はこの映画にはない。過去からなんども繰り返された、めでたしめでたし、という言葉の呪文の力で、ラストシーンの瞬間に時間は静止する。(静止した時間の先を個人的に想像することが許されるなら、あの2人は決して結ばれなかったと思いたいのだが、これは嫉妬、か?)

 しかし、ハッピーエンドのその先が考えることができないといっても、この映画のおだやかなラストが、普通にあるあまりに乱暴なハッピーエンドとは一線を画していることだけはいっておかないといけないだろう。
 多くのディズニー作品の「めでたしめでたし」は、苦難を乗り越えた恋人と共に生きる新しい世界である。そこでは物語の前半にあった苦悩は、悪の滅びとともに除去されているか、巧妙にかくされなかったことにされてしまう。例えば、「美女と野獣」のベラは、「こんなロマンを解さない人々の村を捨ててもっとドラマチックな人生を送りたい」と歌い上げるわけだが、彼女ののぞむ悲劇的でロマンチックな物語が去ったハッピーエンドの瞬間に、彼女のこの欲望はどこへと消えてしまったのだろうか?
 ムーランではそんなことは起こらない。
 ムーランの中にあった葛藤は「女性としては規格外であるらしい私がもっと楽に生きられないだろうか」ということだ。ここで彼女は実は世界が変わることを望んではいないし、父親もそんな娘を否定してはいない。つまり彼女は多少の齟齬はあるものの最初から世界を受け入れ、彼女も受け入れられているのである。だから、彼女は自分の自信になる経験をつみさえすれば、そのままもとの生活に戻ることができたのである。そして彼女はその自信を糧に、彼女の平凡な世界で生きていくのである。そういう意味で、あの物語のハッピーエンドは実は最初から用意されており、その点で美女と野獣のようなハッピーエンドとは明らかに一線を画している。

 約束されたハッピーエンド、最初から葛藤もなく、自らにとって克服すべき敵もいないというこの物語は、では、どのようにしてエンターテインメントたりえたのか。それは、ムーランという平凡な女のコが、非凡な状況に立たされたときに一瞬非凡なふるまいをみせる、という1点だけである。
 その非凡な振る舞いは決して成長した新しい彼女の姿ではないし、仮面を脱ぎ捨てた本来の彼女の姿でもない。普通の人でも何かをなしとげることはあるのだ、という普通さ、平凡の肯定こそがそのエンターテインメントの影にあるこの映画の倫理なのである。そう思ってみれば、幸運のコウロギが普通のコウロギであり、守護神ムーシューがたんなる使い走りだったりするのもうなずけるのではないか。
 英雄でなく、悲劇のヒロインでもない。それ故のハッピーエンドなのであれば、その先はやはり平凡な人生の中にしかなく、そこは決して映画のカメラの、そして我々の想像力の入り込めない領域であるのではないだろうか。