さらば愛しきルパンよ あるいは、赤と青の構造


 ルパン三世を、もう死なせてやってはいいのではないだろうか。 

 最近リリースされたCD『PUNCH THE MONKEY!』を聞きながらそんなことを考えた。 このCDはアニメのテーマ曲などをリミックスした全11曲が収録されていて、スーパーバイザーには小西康陽氏が名前を連ねている。ルパン三世の連載開始30周年記念の企画だという。ボク自身は決してルパンの熱心なファンとはいえないのだが、それでもこの企画には心惹かれるものがあるし、人気があってJ−WAVEでもかなりローテーションしているという話も聞いたので、さっそく買って、聞いてみた。
 各曲とも、粋で、クールで、ノリが良くて、ユーモアがあって、つまりは極めて「ルパン的」にカッコよく完成されている。これは即買いのアイテムでしょう。各リミックス担当者の愛情というか、ルパンへのリスペクトが感じられて気持ちがいい。今もボクは、この文章を書きながら、「カリ城」のセリフがてらいもなくそのまんま入っていて、それ故に、妙な説得力のある1曲目の「ルパン三世'80」(リミックス池田正典)なんかをノリノリで繰り返し再生している。

  と、この『PUNCH THE MONKEY!』を絶賛モードで書いてきたが、どうもひっかかることもあるのだ。それはこのアルバムの完成度とは別であるが、その根幹の部分に深く関わっていることでもある。このアルバムが「ルパン的」に素晴らしい完成度を見せれば見せるほど、ボクはどうしても疑問を持たざるを得ないのだ。「ボクらはこんなにクールなルパンを本当に見たことがあったのだろうか?」。  

 結論から言えば、ほとんどない、のである。ルパンの現在の広いイメージを作った新ルパンは、決して粒ぞろいとは言えない長いシリーズで、荒唐無稽なエピソードも少なくない。このアルバムにあるような「ルパン的」なるものは、厳密にいうと旧ルパンの大隅監督による初期のエピソード、劇場版1作目のいわゆるマモー編といった、ルパンを支えているメーンストリームからはちょっと外れた(もちろんそれ故に再評価の動きも活発ではある)わずかな部分である。モンキー・パンチの原作も、かなりクールではあるが、こちらもカッコよさより、モンキー・パンチ氏のトリックのためのトリック的な、マンガちっくさのほうがより本来的な持ち味だと思う。
 つまり、ボクらが「ルパン的」と思っているニュアンスの実態は、ボクらが、そのわずななエピソードを頭の中で膨らめて生まれたイメージに過ぎないのだ。それを音にすればこのアルバムになり、それを絵にすれば、ほら例のガソリン会社のCMが一本できあがりだ。  

 ともかくこの「ルパン的」イメージはとても広く流布した。日本の”意欲的な”アニメでたびたび使われるフレーズ「オトナのためのアニメ」は、そのまま「旧ルパンのテイストで」と置き換えることも可能なほどに。そして、この実体のないイメージをより具体的にしてみせるような「オトナのためのアニメ」を全うした作品は、ルパンを含めて一度も作られたことがないのではないか? とすら思う。

 ここでちょっと補足するならここでボクがいう「オトナのためのアニメ」とは、オトナの鑑賞に耐える、という意味ではない。オトナの鑑賞に耐えるアニメはいっぱいある。どちらかというと、男女の話(といっても、トレンディドラマではないよ)をいかに描いているか、あるいは、男女の話を描いてもおかしくない世界を用意できているか、というニュアンスが、「オトナのためのアニメ」なのだ。
 では、旧ルパンとマモー編ではなぜそれが可能だったんだろう?  そこにはいろんな理由があるだろう。でも一言で言うなら、宮崎駿も指摘しているけど、原作も含めて、'70年代後半の時代の気分みたいなものが、ルパンを支えていたのだと思う。 あのころルパンは「同時代人」であるが故にエンターテイインメントのヒーローとして生きられたのだ。極めて「ルパン的」である今度のアルバムのジャケットが、旧ルパンのカットで構成されているのは象徴的だ。ちょっと前の'70年代リバイバルブームの一環、という位置づけをしてしまうのは理に落ちすぎてしまうかもしれない。でも、広く流布している赤ジャケットのルパンのイメージの向こう側から、青ジャケットのルパンの姿見つけだすは、まさにリバイバルする時の基本に忠実でもある。「キミはこんな○○を知っている?」。○○には歌手名だったり、映画だったりしてもオッケーだ。それで今回は「キミはルパンが同時代人として活躍していたのを知ってる?」というふうになってるわけだ。

 ただ時代は変わる。ルパンはその後、テレビシリーズ、劇場版、テレビスペシャルと作り続けられていくが、同時代人として生きたことは一度もない。フリーターなんて言葉が出来たときに、ルパンのような自由人そのものに憧れる時代は終わっているのだ。地下鉄に毒ガスがまかれてしまうような今、銀座の宝石店を襲っても誰も驚かない。新しく始まったマンガ版のルパンが今ひとつ面白くないのもそれが根底にある理由じゃないだろうか。 

 それでもルパンは毎回何かを盗み続ける。銭形がそれを追い続ける。しかも、執拗な再放送により、この物語は無限とも思われるほど繰り返されてきた。それが繰り返されれば繰り返されるほど、デティールは摩耗していくのだ。変な例えだが、ドラえもんの道具は言えても、ルパンがテレビシリーズで何を盗んだかをさっといえる人は少ないと思う。ボクらはルパンが何を盗もうとしたかなんて覚えちゃいない。なんで盗もうとしたかもよく覚えていない。ルパンは自分がドロボウであるが故に盗むとしかボクらは考えていない。そう、今のルパンは、同時代人でいられなくなっても盗み続けるという十字架を背負わされたために、結局”世界的な大泥棒”という「構造」となったのである。

 この構造となったルパンには、それゆえに感情や動機といった内面ははもはやない。あるように見えるのはそれは、彼自身の演技にすぎない。盗み逃げる男であればルパンであり、峰不二子を口説こうとして逃げられる男がいればそれがルパンである。それ以上でもそれ以下でもない。ここまで書いて思い出したが、今度はルパンがポリゴンのアクションゲームとして登場するっていうのはものすごく象徴的だ。ここでは、もはやルパンはプレイヤーの意志を反映する”もの”にまで純化されてしまっている。
 押井守は自作の中で「声が同じというだけで、同一人物であることを保証されている」と、アニメのキャラクターについて述べている。その考えに倣えば、ルパンはルパンでなくなっているともいえる(栗貫に罪はないけれど)。そう、もうルパンはどこにもいないのだ。残っているのはルパンのイメージを焼き付けたさまざまなイコンだけなのだだ。

 だからこそ、ルパンを死なせてやってもいいのではないかと思うのだ。ルパンを一度きっちり死なせることで、ボクらは新しい同時代のヒーローを生み出せる準備が出来るのだと思う。『PUNCH THE MONKEY!』がルパンのリバイバルであることを超えて、葬送の曲となることを、ボクはどこかで期待している。(98/08/13)